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第29回1000字小説バトル Entry26

マンホール

季節は夏になっていた。
私の制服は夏服となり、窓から見下ろす人達に半袖が増えていた。
私の机には夏を感じさせるものは何もなく、真冬の頃と室温にも変化がない。
同じような書類を処理する毎日。
目の前を通り過ぎていく数億円の数字だけが無意味に変わっていた。

どうして自分がこの仕事をしているのかは解らない。自分が希望を出して入った会社ではある。何を基準に選ばれているのか解らないランキングでは、いつも上位に食い込んでいる。さまざまなコネを使い、面接では愛嬌を振りまき内定を得た。

外に工事現場が出来ていた。
作業服姿の人達が歩き回り、バリゲートが張られた。
オフィスから見る私には、汗をふきながら働く姿が夏を感じさせた。
指揮しているのは若い男性のようだ。
背は高く、体は細身。やや撫肩の後姿に見覚えがあった。

仕事が終わり駅へ向かう雑踏の中、工事現場の看板に彼の名前を見つけた。

部屋に戻り、昔の写真を眺めた。
卒業式の写真。
振袖姿の私と、似合わないスーツ姿の彼が写っている。二人で撮る最後の写真になるとは思っていない無邪気な笑顔だった。

私が出勤する時、彼は既に働いていた。
私が帰る時、彼はまだ働いていた。

一度、出勤途中に彼と出会った。
交差点で信号待ちをしていると彼が隣にいた。
私の見た事がない険しい表情をしていた。
私は短かった髪を伸ばし、スーツも化粧も似合うようになっていた。
彼と目が合いそうになり私は俯いた。彼は相変わらず薄汚れたスニーカーを履いていた。

いつもと同じ机に座り、変わらない温度の中、同じ窓から外を見ていた。

行き交う人達がコートを着るようになった。

バリゲートが取り除かれ、看板が撤去された。
以前と変わったところといえば、マンホールが一つ出来ていた。
彼は、マンホールを見つめていた。
粉雪が降る中、彼はじっと見つめていた。
行き交う人達が、彼が見つめる前を歩いていった。
雪と泥にまみれたマンホールを彼は自分の手で拭いた。
ポケットからカメラを取り出すと、何の変哲もないマンホールを写真に収めた。

後姿で顔は見えないが、私には彼が笑っているように感じた。
あの写真の笑顔が見えた。そんな気がした。

彼が立ち去った後、私もマンホールの前に立った。
彼の思いは解からない。いや、今の私には解る資格もないのかもしれない。
「負けてられないな。」
独りで呟くと、いつもより少し歩幅を広げて歩き出した。

顔に当る粉雪が心地よかった。

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