| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 「待ち」 | Maya | 932 |
| 2 | 砂 | たずら | 333 |
| 3 | みずうみ | 齋藤真彦 | 880 |
| 4 | ブルーズマンの楽屋/サン・ハウス1960 | タンギー爺さん | 705 |
| 5 | あの公園へ | 西名玲 | 1000 |
| 6 | オギー・myラブ | 毒蝮 酸太郎 | 1000 |
| 7 | 白いキリンと僕の罪 | YUKA>>> | 839 |
| 8 | 犬のことで | アナトー・シキソ | 996 |
| 9 | 樹 | ワタル | 445 |
| 10 | 別れ | 高橋雄一郎 | 825 |
| 11 | 奇術師アントワーヌ | 秋葉 靖嗣 | 952 |
| 12 | ある医師の業績 | はぐるま | 995 |
| 13 | 白い空間 | 櫻水嗣郎 | 1000 |
| 14 | ハゲタカ兄弟 | 片桐ホセ | 1000 |
| 15 | 夢 | 長本 時彦 | 1000 |
| 16 | れっどだっふるこ〜と | 坂口 | 999 |
| 17 | いくところ | 一宮遼 | 984 |
| 18 | 晩秋 | HABEBE | 1000 |
| 19 | もう走らなくていい | 野口流石 | 1000 |
| 20 | 違和感 | のぼりん | 999 |
| 21 | 夜明け前 | 大野光明 | 1000 |
| 22 | 鍵 | 青葉 大地 | 1000 |
| 23 | ケープタウンの縄のれん | 上條 裕 | 1000 |
| 24 | 銀玉の犬 | 有馬次郎 | 1000 |
| 25 | 顔 | とらふぐ | 812 |
| 26 | マンホール | 犬吉 | 993 |
| 27 | 超能力ってスゴいんです! | 虹男 | 900 |
| 28 | 邯鄲の枕 | しゅんじ | 1000 |
| 29 | 幸せ屋 | 羽那沖権八 | 1000 |
| 30 | とさかさかさか(或いは恋は恋は恋) | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
| 31 | 月夜の香り | さとう啓介 | 1000 |
| 32 | 襟首 | 一之江 | 1000 |
| 33 | 実験作「人生楽勝」 | 元亨 利貞 | 905 |
| 34 | 芳醇な彼 | 募集中(仮) | 902 |
| 35 | しあわせのかたち | 蛮人S | 999 |
| 36 | ぬくもりが欲しかった | 坂本 一平 | 771 |
いつものように帰宅したサキはパソコンのスイッチを入れた。
夜の冷え込みが厳しくなってきているせいか
おきまりのアイスカフェラテがカフェラテへと変わった。
ひとくち飲むと、右手のマウスはメ−ルボックスをクリックする。
仕事がらみが2件、それとケンからのメールだった。
サキは当然のようにケンへの返信メールを打ち始めた。
ケンとはサキが思いをよせている人のことだ。
最後に?マークがくるような内容を、必死に考えた。
実はこのマークが1番大切で、これがあれば返事が返ってくる率が高くなる。
つまり、質問したら必ず答えが返ってくるというサキのよみだ。
returnキーをたたくと、ニンマリした。
サキは返事が来るのを待ちがてら、仕事のメ−ルの返信作業に入った。
ようやく一段落つきケンからの返事をチェックした。
しかし、何度送受信をクリックしても何も受信されない。
「おかしい」
仕事が残っていて家のパソコンの前から離れられない……というメールがきていたのに。
「まずい」
そう思うのもつかの間だった。
頭の中では次々と変なよみが生まれていく。
なぜ?という言葉に答えるように、いろんなよみが闇をつくりあげていった。
しかし、考えようによってはいくらでも闇を吹き飛ばすことはできるのだ。
もしくは電話をかければそれこそ一件落着するのに、サキは携帯電話に目も向けない。
どうやら勝負にでたらしい。
気を紛らわそうとするが、ぜんぜん効果はない。
こうしている間にも時間が闇を育てていく。
この待ち時間がどんどん頭の回転を速めていくのだ。
「なんてこった」
「待ち」に踊らされているのが手にとるようにわかった。
「待ち」が私をあざ笑っている、「待ち」が私を食いはじめている!!
じっとしていられなくなったサキは部屋中を歩き回る。
いっこうに返事は来ない。
だいたいこんなことを勝ち負けと考えることがおかしい。
しかし、サキはいつかは勝ってやると毎回挑戦しては破れ去っていた。
イライラが限界まできていた。
ちらちら横目で携帯電話を見ている自分がいる。
「またしても私は負けるのだろうか?」
「いや、あともう少し……」
サキは携帯電話の短縮番号を押した。
「もう限界」
また負けてしまったのだ。
しかしケンの声が聞こえたとたん、そんなことはどうでもよくなった。
砂というものは物を隠すのに非常に良い場所である、
ということが分かった。その証拠に、隣の犬も、妻も、
野崎さんも見つかることなく、行方不明のままなのだから。
私は年に一度、この限り無く広がる砂地を訪れる。
皆、元気だろうか。
犬のジョンはここへ、妻は海を見渡せるあそこ。
野崎さんは枯れ草が舞っているあの辺りだ。
ジョン、あの狭い庭と違って、ここなら思う存分駆け回れるぞ。
令子、ここならストレスを感じる事なく、お前の好きな海を
毎日眺めていられるだろう。
そして、
野崎さん・・・毎日、口癖の様に『疲れたよ。何処か広い、
静かなところでゆっくりしたいなあ。』と言っていた願いが
叶いましたよ。
皆、元気かい?
ひゅう、と、冷たい風が、砂地にくるくる旋毛をまき、
私は静かに震えながら涙を流していた。
月の夜、雨がひとしきり強く降った後にやがて小さな流れが集ま
りみずうみを創った。藍色の水面にはうっすらと水煙がたち霧とな
って、霧はすうすうと風に吹かれて濃淡を描いた。空中に描かれた
濃淡はやがて人の姿のようにも見えて紫の光りに漂うと手招きをし
ているようにして誘った。ほのかな匂いが霧の中から流れてくると
それは動物的な甘い香りの刺激で湖畔の別の命に語りかけた。水が
命を生み命が水に還っていく流れに支配されていた。いつからか光
がこの世界に満ちはじめたころより遙か前からその営みは続いてい
たのだろうか。
ゆるゆると疲れた体を湖畔に休ませるように男は座ると目を閉じ
てその匂いに感じ入った。男の中で僅かな欲動がおきると、それを
待っていた女がそっと体を男に預けた。男の背筋から滲み入るよう
な寒気が走ったけれど女の優しくふるまう手の動きは男の心の澱み
を掬い去るようで、やがて、男の心に暖かいものが広がるのが分か
った。女の目の奥に素直な光りが宿り男はそれを見つめる。霧はし
んんしと湿り気を深くして二人を包んだ。 重なり合った男と女が
やがて刺し刺され男が眠りにつく前に、ひとしきり空気をふるわせ
るように湖面に女の歓びが響いた。霧が濃くなりみずうみと湖畔の
区別が分からなくなってきた頃、密やかに命が宿りみずうみに還っ
ていくように見えた。霧は濃淡の斑をつくってちらりと二人の姿態
に目をやったけれどただ押し黙って月の光を見上げた。
やがて小さなさざ波がみずうみに広がると霧は水煙となりみずう
みに溶けていった。雨が止み、その代わりに乾いた風がそよそよと
吹き始めると小さな芽はみずうみの中央からゆらりと頭を出して周
囲を伺った。その芽を中心にしてみずうみはその姿を小さく小さく
していくとやがて湿った砂だけが残り、その真ん中にぽつりと芽が
残った。
女は消え、男は溶けてしまい孤独な命がぽつりとこの世界にただ
一つ呼吸をしていた。月もやがて厚い雲の向こうに隠れて薄暗い闇
が砂地を覆った。残された命はうっすらと笑みを浮かべて再び雨が
降るのを待つと次の月夜はいつだろうかとぼんやりとした頭で考え
ていた。
あと10分で開演するとさっきスタッフの若い坊やが言いに来た。
おいらは左手の薬指にウイスキーの瓶でつくったスライダーをはめ、膝にのせたギターの3フレット辺りから12フレットまで滑らせ、右手の人差し指で弦を引っ掻いてみる。
このもの悲しい音が最近じゃ広い世間で大受けだ。
おいらの故郷の民謡を、いつの間にか白人のキッズ共が真似るようになり、ロックンロールなんてしゃらくさい呼び名まで付けてやがる。
おいらはあの小僧どもが悪魔と慕うR・Jの師匠なんだそうだ。
確かにR・Jにギターの弾き方を教えたのはおいらさ。
でもただそれだけなんだ。
あいつはおいらとウイリーの前から姿を消し、数年たって凄腕のギター弾きになって戻ってきた。
やつはあの辺り一帯のスターにのし上ったが、女癖が悪く、恨みをかった女に毒入りのウイスキーを飲まされて死んじまった。
あとで噂になったものさ。
あいつは悪魔とディールしてあの凄腕を手に入れたってね。
しかしあいつがあほな白ガキどもの教祖に祭り上げられたおかげで、おいらは60過ぎてもう一花咲いたのさ。
R・Jにギターの手ほどきをしたやつってことでさ。
でもR・Jの深夜の十字路の伝説はヨタだぜ。
噂の出所のおいらが言うんだから間違いない。
おいらについての噂だって?
ああ、あれは本当にあったことさ。
じつは、おいらは若い時分に女関係でトラブって人を殺しちまった。
その時のおいらの職業が「牧師」ってところに味があるだろ?
「刑務所での日常」
を唄ったものが結構うけるんだぜ。
・ ・・・・・・なに?もうスタンバれってか。
判った。いまいくから待っとけや。
さて、魔よけの黒猫の骨に語りかけたおいらの独り言は時空を越えて何処に辿り着くのかな?
「お好きなんですね、桜」
公園を通りかかった女性が、声をかけてきた。
「ずっと見てらっしゃるわ」
「ええ。昔をね、思い出すんですよ」
僕は応えた。女性は、何も聞かなかった。ただ、僕と並んで桜を見上げた。
一年前の今日、美樹が死んだ。
僕は、婚約中の美樹を田舎に残して、東京へ出張していた。
戻ってきたら、すぐ結婚式だ、と僕が言うと、桜はもう散ってしまうわ、と美樹は微笑んだ。
美樹の両親は、親戚を説得して、僕が田舎へ戻るまで、葬式を延長してくれていた。
この二人を大切にしよう、と思った。
僕は、指輪を買いに行った。
「優しい感じの指輪、ありますか?」
僕は、一番最初に見せてもらった、ピンクダイヤをはめ込んだ指輪を買った。それを、美樹の墓の前に埋める。
もう一方を自分の左手の薬指にはめて、僕は美樹と向き合った。
「本当は、ウェディングドレスも見たかったんだけどな…」
僕はうつむいたまま、しばらくその場を離れなかった。
昼下がりの風は、薄曇りの空の下、僕の頬を撫でて、桜の淡い輪郭を揺らして、通り過ぎていった。
あの女性がいない。
けれども、彼女が立っていた場所には、眼にみえない、優しい何かがある気がした。
僕には、判っていた。
だってここは、美樹と初めて出会った場所だから。
美樹のいなくなった僕の世界には、前ほど、楽しさとか、そういった光が入ってこなくなった。
半年ほどは、友人たちは毎晩のように、酒を持って僕の家に押しかけた。
昔からお調子者の悟などは、酔いに任せて、僕が十点をとってしまった数学のテストを埋めた話などを始める。みんな、笑った。
でももう、笑いたいときに笑いあえる時代は過ぎたのだ。
僕は一人で酒を飲むようになった。
ある日、悟が電話をかけてきた。
『昨日、お前のこと見たよ。駅前で』
「そうか…」
『お前さ、そろそろシャキッとしろよ。何て言うか…見てた俺の方が痛い』
僕は黙ったままだった。
『美樹だって、今のお前は見てらんねぇと思うぞ』
悟は、僕の反応を待った。
『──じゃあな』
「あ、悟…ありがとな、電話」
僕がやっとそれだけ言うと、悟は、よせ、照れるじゃねぇか、と言った。
白いカーテン越しに、日が差し込んでくる。
テーブルには、飲みかけのビール。左の頬は、テーブルに押し付けた部分だけ、丸く赤くなっていた。
いつのまにか、朝になっていた。
静かだ。
指輪のピンクダイヤに、パタッと涙が零れた。
今日は、美樹の命日だ。
そうだ、あの公園へ行こう。
オギは両目を必要以上に硬く閉じ、誰も真似できない走法で夜の校庭を走っていた。暗闇の中、何度も薄汚い国際部の奴ら(国際部が一体何を目的とした組織だか知らないが、その薄汚さは半端じゃない)に足を掛けて転ばされたが、その度に立ち上がり走り続けた。
オギは生まれながらのスポーツマン。夜の校庭をひた走る孤高のランナーだ。だが、国際部の奴らにはそんなこと関係ない。奴らにとってこの一人の若きアスリートは単にスタンプ集めの対象(「人転ばし」は国際部の主な活動の一つだ。尚、一人転ばす度にメンバーズカードにスタンプを押していき、国際的景品と交換するのだ)でしかないのだ。
しかし、誰一人としてオギを助ける者はいない。そんなことをしても女の子にモテないからだ。古くからオギを知る俺(一方的にだが)でさえ、徘徊する痴呆老人のフリをしながらその光景を盗み見ているに過ぎない……。
オギはいつも右の瞳で未来を見つめ、左の瞳で過去を見つめていた。そのため両目を開くと、未来と過去が互いに浸蝕し合い、入り混じった内的宇宙で孤立してしまうのだ。
そこではオギは卑しい王様であり、且つ、高貴な乞食であるはずだ。オギは自分で作った法で自分を裁く。自分で自分を曝し首にし、釜茹でにし、塩辛にして食べる。
もしくは明日を夢見る老人で、しかも、昨日を悔いる若者なのかもしれない。いずれにせよ、そこは彼のみが溢れる世界なのだ。誰もそこに入ることはできない。
でも、一体それがどうしたと言うのだ。誰もオギに干渉しない(できない)が、オギだって他人になんて干渉しない(できない)。そう、それは全くもってイーブンな間柄なのだ。貸し借りのない都会的関係。クールな付き合いってやつだ。
そんなオギにも、未来でも過去でもない真の現実を見る瞬間がある。それは正に両目を閉じ、夢を見ている時だ。
皮肉なことに、夢の中こそが彼にとって真にリアルな世界なのだ。彼が両目を開き、人々が人生という階段を転げ落ちている(そう、転げ落ちているのだ)時間は、彼にとって虚ろで曖昧な夢幻(無限)の時に過ぎない。
けど、人生なんてそんなもの。他人にとってリアルなことでも、自分にとってはどうでもいいことなのだ。逆もまた然り。
そんなことを考えていた俺は、小走りをして自分で自分の足を掛け転んでみたが、股間を強打したため国際部の奴らをオギ諸共一人残らず血祭りに上げてやった。
白いキリンはどこに行ってしまったのだろう。
あれから2年経つけれど、一度も遇えないね。きっともう遇うことはないのだろう。それでも僕は探したよ。君がすぐ側に隠れているような気がして。
違うんだ。また助けてもらうためでも、夢を見せてもらうためでもないんだ。ただ、あの時は「ありがとう」と言いたいのさ。
僕は十分知っているつもりだ。夢は夢であり、また現実は現実であることを。
でもあれはただ事ではない。僕にとって突然現れた白いキリンは夢であり、現実であったのだ。
僕は1人うずくまっていたね。黒いものを抱きしめて、震えていたんだ。どれくらいそうしていただろう。ふとあるときから僕は何か暖かい物に包まれていた。顔をあげると、そこにはただ一頭の白いキリンがいた。僕は驚いた。僕を包んでいたのは、物ではなく白いキリンのまわりにあるただの空気だったのだ。それが僕と君の出逢いだったよね。
まるで雲のような薄く白い背に僕を乗せてくれたとき、僕は初めて広い世界を知ったのさ。僕という存在の小ささを知ったのさ。そして、温もりを帯びた風に包まれたとき、僕という存在を愛しく感じることができたんだ。
いつか君は追われていたね。天使と言っても過言ではない君は、僕の罪を背負った。ぼくはただたちつくしていた。君は多くの人間から追われ、そして、僕の前から消えた。
僕は声を上げて泣いた。だがそれは、君が消えたからではなかったんだ。僕は自分のために、僕の罪が消えないことを知ったから泣いたんだ。
君はすべて知っていたんだね。人間が弱すぎる動物だと。だから君は何も話さなかった。ただすごく強くやさしい目をしていた。
僕の罪は消えないって、本当は知っていたんだ。人間は残酷で儚いものだということを。僕はそれを恐れ自分の中で消していたんだ。本当に弱いよ。
白いキリン。僕の罪はこれからも増えていくだろう・・
でも君に遇って僕はそれでも生かされている事実を知ったのさ。
君の存在も夢であり現実であり、また永遠なのだと。
犬がついてきた。
犬だ。上が茶色で、下が白い。
犬らしい、まさに犬、という感じの。
何犬かは知らない。
「柴犬よ」
「ああ、ね」
ミカがしゃがんで頭を撫でる。
しっぽをぐるぐる回している。
喜んでいるのだろう。
僕がしゃがんで撫でようとすると、さっと一歩下がった。
笑っていた口を閉じて、僕を見る。
僕も犬を見る。
犬が口を開いて、また笑う。
「どこの犬かしら?」
「さあ…」
辺りに飼い主らしき人影はない。
「首輪はしてる」
「首輪って…。ひも引きずってるじゃないの」
「逃げてきたのかな?」
「なんで?」
犬を見る。
相変わらず笑っている。上機嫌だ。
「行きましょう」
「ほっとくの?」
「なに? 連れて帰るつもり?」
いや、そうじゃないけど。
「犬、嫌いなんでしょ?」
まあね。
犬を置いて、歩き始める。
やっぱりついてきた。
犬の爪がカチャカチャ鳴る。
引きずっているひもの金具もチリチリうるさい。
歩きながら振り返ると、犬は、なに? と上目遣いで見る。
なにってこともないけど。
表通りに出た。
まだ、後ろで金具の音がする。
美容院の大きな窓ガラスにちゃんと映っている。
「ほら」
「ああ、ついてきたわね」
「なんでだろう?」
「犬だからよ」
「犬だから?」
「そうよ」
バス停に着いた。
誰もいない。
ミカが時刻表と腕時計を見比べる。
「ちょっと早かったみたい」
ベンチもないので、二人でぼうっと立って待つ。
犬は横に座っている。
犬を見る。
え? と犬が見上げる。
なんでもない。
バスが来た。
「あれかな?」
「ちがう。27番よ」
バスはゆっくりと寄ってきて、僕らの前で止まった。
乗るつもりのないことを示すために、二人で少し後ろに下がった。
だから結果として、犬が僕らの前に出た。
犬が振り返って、僕らを見た。
動こうとしない。
「乗るのかしら」
「そんな…」
バスのドアが開いた。
犬は、頭を振ってくしゃみをすると、正面に向き直って、後脚でひょいと立ちあがった。
それから、慌てる様子もなくバスの入り口に左足を掛けた。
「ほら、やっぱり」
ミカが言う。
犬は、完全に乗り込む前に、もう一度こちらを見た。
なんだよ?
ひもだと思っていたものはネクタイだった。
たぶん、犬は、そのつもりだ。
「ねえ。言ったとおり」
ミカが、しつこい。
「お金どうするんだろう?」
「馬鹿ね、柴犬からお金なんか取れないでしょ」
「じゃあ、ただ?」
「赤ちゃんと一緒よ」
「ああ、そうか…」
いや。そういう問題じゃない。
犬はバスに乗って行ってしまった。
立派な一本の樹。
今はもう、何も語らない彼が遺した物とは?
誰か来る。
「私、これから結婚式なの」
ああ……。
「綺麗でしょ? 君に見てもらいたくて」
綺麗だ。 でも……。
「何で、こんな事になったのかな?」
泣かないで。
「もう、行くネ」
涙を拭いながら歩いてゆく貴女は、とても淋しそうだった。
芽の芽吹く頃、教会で結婚式が行われた。
式が終わり、赤いバージンロードを2人が歩いて来る。
「おめでとう」 「お幸せに」
参列者は口々に祝福の言葉を口にしている。
その時、何処からか桜の花びらが舞って来た。
木々も、今日のこの日を祝福していると人々は喜んだ。
奇跡だとも言った。
でも、彼女は知っていた。
一本の樹の見える教会で起こった奇跡。
それは、彼からの贈り物なのだと。
「君の事、忘れないから」
彼女はまた、泣いていた……。
二年後
彼女にも子供ができ、幸せに暮らしていた。
「ほら、私の子供、可愛いでしょ」
………。
「君は居なくなっちゃったけど、私は元気に暮らしてるよ」
………。
「君と、もう一度会いたかったよ」
少しずつ、少しずつ歯車が狂い始めている。僕の中でも、君の中でも、狂い始めている。僕は手を握りしめて、未来を思う。君はソファに座り、過去に返る。外に行こうよ。連れ出してあげる。この部屋は何もないから。白い壁に何を願うの。
ソファに座って何を思うの。何も語らなくていいから。公園に行こうよ。手を貸してごらん。さぁ、ふらりと出かけよう。怖がらないで。震えているの。調子、悪いみたいだね。公園は明日にしようか。今日はじっとしていようか。今日は部屋でゆっくりしよう。それから夕食は僕が作るよ。パスタでいいかい。
「昨日ね......」
「どうしたんだい」
「何もかもが......」
「君が口を開いたのは久しぶりだね」
「......」
君の目には何が映っているんだろう。一体どこを見ているの。植物みたいに動かずに、じっと時を待っている。僕は君の側にいたいだけだから。
「話さなくてもいいよ」
「昨日ね......わたし」
「目を閉じてごらん、そしてゆっくり落ちつくんだ。何を怯えているの」
「昨日、わたし、......」
涙が浮かんだ。感情がちゃんとあるんだね。君は何時も無機質だったのに。
「不安なのかい」
「......」
「逢えてよかった。さよなら、あなた」
「どこへ行くつもり」
「過去に戻るの」
「過去には戻れない」
「さよなら」
君はそういって出ていくんだね。何時かこんな日がくるんじゃないかと思ってた。追いかけはしないよ。忘れるんだね。僕は君の未来を祈っている。白い部屋。
ソファがひとつ。ベットがひとつ。ほかには何もない。君がいなくなったら淋しくなるね。
「観葉植物でも買うよ。さよなら」
「ありがとう。分かってくれたのね。さよなら」
そうして君は去っていった。僕は音もないこの空間で独りぼっち。明日、観葉植物を買いに行こう。部屋も模様がえしよう。僕はソファに座って君のことをしばらく考えることにした。ソファの手掛けの上にはプレゼントした指輪が転がっていた。
「お互い淋しくなるね」
私は貴族、ラファエル妃、
全てを手に入れた、全てを手に入れた、
お金も、地位も、名声も、全てを、
と、思っていた。
代償に、薄汚いラファエルに身を委ね、私を捨てたのよ。
自由も、愛も、なにも、無い。
哀れなアントワーヌ、サヴォアの夕暮れ。
何一つ、残らない、退屈な、この生活。
手に入れたものは全て真夏の夜の夢。
幻影と、幻想の、バファーヌ。
「嗚呼、アントワーヌ、君は何故に其処まで私を苦しめる、
君の美しさは、私をコンプレクスの湖へと突き落とす、
しかも、殺さない、気を失うと、また、君がいる」
「嗚呼、ラファエル、それは、貴方の愛を、全て受け止める、
その度量が私には、備わっていない、そして、貴方の哀しみが、
私を崑崙の山奥へ、篭らせるせいなのよ」
「循環」
その言葉を私は嫌う。貴方と共に、一生を送るつもりなんて、
ほんの一寸、それすらないの。
笑止の至り、私が美しいのではなくて、貴方が醜いの。
そんな私の希望は藝術に触れること、創作すること、
それらにストレスを、全て、当てる、これは、とても、
建設的で、能率的。そして、美しい。中和。
藝術があるから、私は、ここまで来れた。
藝術があるから、私は、耐えて来れた。
私は、愛を、生を、ただ感じたかった。
それなのに、貴方は、ラファエルは、
全てを、灰にした、
藝術に、私を、取られたと思いこんで、
真実の愛は、一瞬で感じられるものではないのに、
ラファエルは、それでしか、感じられないの。
「嗚呼、何故私を見ないのか、何故絵ばかり見ている」
「嗚呼、何故私の、心を察してくれないの?貴方は誰?」
「私は、お前の夫、ラファエル・デュアメル・3世だ」
「私は、貴方の妻、アントワーヌ・デュアメルかしら?」
嫉妬は怖いものね、全てを破壊する、たった一つの衝動、
嫉妬、妬み、ラファエルは私の心を奪ったの、
だから、私は、サヴォアの島で、ラファエルに、復讐を。
ラファエルは、私の全てを奪ったのだから、私は、
ラファエルの全てを奪おうと思ったの。
しかし、ラファエルは、無趣味な男、退屈な男。
彼は、私しかなかった、私しかいなかった、いや、
私以外を見つけることが出来なかった。
ほら、つまらない男。
だから、奪えるものは、私しかなかったの。
ここに、最後の手紙を置いておきます。
元、夫。ラファエルへ。
私は貴族、アントワーヌ・ルノワール。
あの晩、いつものように私はその日の最後の患者を玄関先まで見送ると診察室のあかりを消し、二階へ上がり、風呂も入らなければ食事もとらずに、白衣を脱ぎ捨てたそのままの格好でベッドのヘッドボードにもたれながらドライマティーニを啜りつつ、読みかけのつまらない探偵小説を眺めていた。
主人公が二件目の殺人を犯したところで、呼び鈴が鳴った。時計は午前三時を回ったところである。こんな時間に町外れのしなびた医院を尋ねてくる客人とはいかなる理由の持ち主であろうかと医師としては献身的とは言いかねる好奇心を感じながら階下へ降り、ドアを開けるとそこには薄汚れた身なりの婦人が柱にすがりつくような格好で立っていた。私は何も言わずに彼女を中へ通した。外は激しい雨が降っていたし、何より彼女のやせこけた顔や、物も言えないような疲弊ぶりをみればそうせずにはいられなかったのだ。
彼女に来訪の用件を聞く必要は無かった。というのも、彼女の厚ぼったい毛織の安物のコートを脱がせてやったとき初めてわかったのだが、このまだ年若い婦人は腹に子を宿していた。そして夜が明けるのを待たずに彼女はの男の赤ん坊を産み落とした。
その子供の誕生から一週間が過ぎようとしていたある晩、彼女はそれまでほとんど言葉らしきものを発しなかったが、(実際私は彼女の名前すら聞かされていなかった。)かすれた声で私に子供の名づけ親になって欲しいと訴えた。彼女の配偶者たる人間の存在を聞かされないものだから、さして抵抗も感じることなく私はその子供にウィリアムという名をつけてやった。ウィリアムというのは、ゲーテの作品に登場する主人公、ヴィルヘルムからとったなんとも即興的な名である。
ウィリアムと彼の母親はそれから数日の後に去っていった。去り際に彼女は私に銀製のシガレットケースを費用の代わりにと手渡した。もとより、患者を迎え入れること自体久しぶりだというのに、私はその品をつき返してしまうところだった。その小洒落たケースには「P・スタイナー」と刻印されていてそれは恐らく彼女の夫君の名であったと思われる。彼ら親子が訪ねてくることは二度と無かった。
それから数十年の歳月が過ぎ、私は今日七十歳を迎えた。ラジオのニュースは次期大統領選の開票結果を伝えていた。そして今回も、ミドルネームなしの「ウィリアム・スタイナー」は大統領の座を確固たる物にしたらしかった。
死んでいる、と感じました。はっきりと分かったのです。音はしなかったし、息もしていなかった。時間だけが過ぎていきました。淡々と。私達だけを残して。
何時からか、私達はこの白い箱の中に収められていました。在るのは自分達の身体だけで他には何も在りませんでした。
気が付いた時からこの箱の中に居ました。其の時からずっと、私達は何もせず、何も食べずにいました。それでも決してお腹は空きませんでしたし、暇を持て余す事もありませんでした。在ったのは自分達が何故此処に居るかという疑問だけでした。
初めて此処に来てからいくらか経った或る日、私は夢を見ました。音も色も無いモノクロな夢でした。昔の無声映画の様で、夢を観ているという感じはしませんでした。そう、まるで映画館のレイトショーを独りで観ている様な感じだったのです。
映画の舞台はいたって普通の世界でした。朝、太陽が昇り人々が起きだし何気ない日常を過ごし、夜になれば月が昇り、人々は寝床へ就く。スクリーンにはそういった、いたって何も無い日常が映し出されていました。
私は妙に懐かしく感じました。私にはこういった生活を送っていた記憶が在ったのです。『生活を送っていた』という記憶だけが。其の詳しい内容、つまり私が誰でどういう生活を送っていたかという記憶は何故か全く在りませんでした。
フイルムがカタカタと鳴り、スクリーンには先程とは少し違う風景が映し出され始めました。其れは、お葬式であるようでした。黒い式服を着込んだ人たちがぞろぞろと建物から出てきました。皆、泣いているようでした。
それらの人々の行列が建物から出てくるのが途切れると、今度は大きな長方形の箱を担いだ男達が出てきました。そして、其の男達の後に先程の行列が続きました。
其の様子を見ていた私は、私の目尻からぱたぱたと涙がつたい、流れ落ちている事に気が付きました。そして、ハッキリと確信したのです。
『私はこの後の風景を覚えている』と。
運ばれているのは間違いなく私でした。棺桶に収まった姿は眠っているようでした。両親も、クラスメイトも、そして、好きだった少女も私の顔を見て泣いていました。
目が覚めた時、私は泣いていました。其れは、此処に来てから初めての変化でした。
そして、気が付いたのです。横に横たわっているのは私である事を。其れはもうとっくに死んでいる事を。そして此処は、棺桶の中である事を。
ここはアフリカ大陸中東部、ケニアから東七百`ンギルン国立公園の中央に位置している豊潤な土地が僕の棲家だ。
僕の名前はマモル。コンドルだ。一部でハゲ鷹とかハゲ鷲などと不本意な呼ばれ方をしている。別に禿ている訳ではない、よく見てくれ綿毛がびっしり生えているだろ。隣で寝ているのは弟のキヨヒコ、僕が名付けた。同じ日に生まれたのに何故か体が小さい。
もうすぐお父さんがご飯を持って帰る時間だ。
お母さんはいない、僕が卵だった頃知らないコンドルと駆け落ちしたそうだ。これはお父さんから聞いた。
お父さんは狩の名人だ。手ぶらで帰ったことは一度もない。腐った肉をお腹一杯に詰めて巣に戻ってくる。
お父さんだ!フラフラ飛んでいる、お腹が重い証拠だ。巣に着いた途端、物凄い勢いでゲロを吐いた。この世の終りのような匂いがする。思わず貰いゲロしそうになった。ここだけの話このゲロは異常に美味いんだ。
キヨヒコがいつのまにか起き出してゲロに頭を突っ込んでいる。弟はご飯の時だけ力持ちになる。全部食べられる訳じゃないのに何故か必死だ。お父さんはまだ餌づいている。あんまり可笑しくて馬鹿笑いしそうになった。この前、馬鹿笑いした時クチバシで酷く突つかれた痛みを思い出した。
全部吐いちゃったのか、自分のゲロをまた胃に戻そうとしている。この時は要注意だ、邪魔すると目を突かれる。キヨヒコの馬鹿は気付かず、まだ食べるのに必死だ。僕はキヨヒコをゲロから離れさせようと、弟の肩の付け根を噛んで教えた。キヨヒコはビックリしたように振り返り訳の分からない叫び声をあげて怒っている。弟はまだ喋ることが出来ないのだ。
ご飯が終ると睡魔が訪れる。ベトベトするのが嫌なのでキヨヒコを敷布団にする。弟はまだ白い羽毛で包まれていて気持がいい。クチバシで突いて寝たのか確かめてから上に乗っかった。
お父さんはカオルさんに会いに行った。カオルさんはここいらでは超絶の美鳥の誉れ高く、物凄い巣に棲んでいる。そしてお父さんに惚れているらしい。これはお父さんが言っていたので話半分だ。
夢を見た。僕が空を飛んでいる。空気の層が見える。翼を羽ばたかせなくても層に乗ると上昇する。高い!高いぞ!オシッコが漏れそうだ。スゲー!スゲー!滑空しながら世の中の全部を見渡せた気がした。
飛んだ。僕は飛んだんだ。
安定の悪い敷布団が起きてしまった。
キヨヒコは小便にまみれて怨めしそうな目で僕を見ていた。
僕は時々夢を見る。僕らはとあるレースのスタート地点で、いつ鳴るかも分からないスタートの合図を待ちながら身構えていた。僕ら、とは僕の他に誰が居るのか、レースとは何のレースの事なのか、そんな事を聞かれても困る。何故ならそれは夢。やがてスタートのピストルが鳴った。僕らは一斉に駆け出す。元々スタートの良くない僕は、スタートしていきなり数人に抜かれた。しかし農家育ちの子供の底力を馬鹿にしては、いけない。レースも中盤に差し掛かり、周囲の人間が疲れを感じ始めた頃を見計らって、僕は加速する。一気に加速する。どうだ、見たか。自慢じゃないがうちは貧乏なのだ。塾にも行かせて貰えないし、体育の時間に腕時計を先生に預ける必用もないのだ。残り二十メートル。僕は遂に最後の一人を捕らえ、トップに立つ。ざまあ見ろと思ったその時、後方からトップを争う僕らをあざ笑うかのように抜き去って行ったのは、英国育ちのアルフレッド。
「ちぇっ。やっぱりマルガイかよ」
どこかで聞いたような言葉と同時に目が覚める。枕元にはもはや何の意味も持たない馬券が散らばっていた。実に無意味な夢だった。
僕は時々夢を見る。僕らはとある宇宙船の中で宇宙飛行の真っ最中。ふいに隊長は僕に真面目な顔で質問をする。
「どうしてお前が宇宙飛行士になれたのか?」と。
そんな事こっちが聞きたい位だ。大体そんな質問は宇宙に来る前にしてくれよ頼むからという感じだ。僕はその隊長の質問に無性に腹が立った。そこでこんな風に答えた。
「あなたが隊長になれた理由と多分一緒ですよ」
僕の答えに隊長は眉を顰めると、そうか、と言って去って行った。ふいに僕は、眉を顰めた隊長のその姿が、誰かによく似ているのに気付いた。誰だったろう… しかしそこは夢の中。上手く思い出せる筈も無い。
「これだよ。君」
やがて隊長は紙切れらしき物を手にして、僕の前に再び姿を現した。僕はその紙切れを受け取って、開いて見た。
………ぼくのゆめ
ぼくのしょうらいのゆめは、うちゅうひこうしになることです。いっしょうけんめいべんきょうして………
「………」
…人の恥ずかしい作文を勝手に持ち出しやがって…そうか、あの隊長、どっかで見た事があると思ったら、小学校の時の僕の担任じゃないか…
…僕は時々、夢を見る。随分沢山の夢を抱えて、今まで生きて来た。これからの自分に何が出来るのか、それは思い付かなかったが、取り敢えず髭を剃る事にした。
二月 三日 クミの誕生日
今日、クミは新しい赤いダッフルコートを着てた。
似合うよって言おうとしたら、
ふられた。ほかに好きなひとがいるって。
帰り道、プレゼントは捨てた。
十一月 十五日
買い物中、赤いダッフルコートを見た。試着したら、クミが傍にいるみたいな気がした。
そんなのは幻。でも、買ってしまった。
僕はまだ、彼女が忘れられない。
十一月 二十日
学校でクミを見かけた。こちらをチラッと見て、友達と何か話してた。
僕のことを気持ち悪いと思っているかもしれない。でも、このコートは着続けてやる。
十一月 三十日
赤のダッフルコートには、まったく意味がない。ただの防寒着。
でも、まだ彼女を好きなのは、事実。
十二月 一日
もう、12月か。一年って短いね。
いつになったら、楽になるのかなぁ。
十二月 十日
図書室でばったりクミに会った。普通に世間話をした。
クミに、
「私も、佐々木君と同じコート持ってるよ。お揃いだね。」と言われた。
ショック
今の彼氏が迎えに来たので、そこで別れた。
クミの中では、このコートは、ただのコート。
僕の中では、クミの分身なのに。
そして、僕はただの友達。
十二月十一日
赤ダッフルを着ることで、まだ、意識してもらえると思っていた。
「気持ち悪い」と、思われても、その方が良かった。
全く相手にされていない今、コートにはもう意味はない。
十二月十八日
いつまでも引きずっていても、しかたがない。
友達に戻っただけだよ。
ストーカーと呼ばれるよりは、いいだろう。
と、自分に言い聞かせたりして。
十二月 二十二日 クリスマス・イブ・イブ・イブ
僕はまだ、この赤ダッフルを着ている。
なんだか、ずっと一緒に戦ってきた戦友のような気がする。
彼女のことを整理したからだろう。少し、チクチクするけど。
十二月 二十三日 クリスマス・イブ・イブ
今日、K高校の子に、声をかけられた。それで、
「通学途中で見かけてから、ずっと気になってた。」
と、言う。理由を聴いたら、
「赤いダッフルコートが欲しくて、そのコートをずっと見ていたら、あなたのことが好きになった。」
だとさ。とりあえず、一人でイブを過ごさなくてすみそう。
うそ、ぜんぜんうそ。すげーうれしかった。
俺のコートはずっと俺の作ったクミの亡霊にされてた。
ずっと意味を無くしてた。
みつけてくれてありがとね。
まだ、彼女のことは忘れてないけど、かなり元気になった。
赤いダッフルも嬉しそうだ。
明日も寒くなれ!
―いつからか、空ばかり見るようになっていた。
毎日毎日、曇りの日でも、雨の日でも、雪の日でも。
空はいつも穏やかに廻って、良いなと思っていた。
自分の生活は、いつも目まぐるしく時間が過ぎていって、
私はよくある受験生の日々を過ごしている。
志望校も何の苦労もなく行けるということが分かっているし、
もっとがんばれば、ランクが上の高校にも行けれるかもしれない。
親や先生はいろんなことを言うけど、私は何だかよくわからない。
―――将来何になろう?
昔から「大きくなったら何になりたい?」と、よく聞かれる機会があったが、
私はてきとーに答えていた。
もちろん本心なんかじゃない。誰だってそうだろう。
少しずつ、世の中のことが分かりはじめて、
「夢なんて簡単に叶わない」ってことが分かっちゃって、
将来の自分の予想がつかなくなっている。
そんな中、私はある日、小学生に服をつかまれた。
小2くらいだろうか・・・・・・? 女の子で、こっちを見上げてニコニコしている。
「な、何?! 」
「おねえちゃん、時間ある?」
時間ある? なんだその子供っぽくない態度はっ! 時間なんか無いっつーの。
そう言いたかったが、ヒマだったのでつきあってあげることにした。
公園のブランコに乗っている。
かなり寒い。小学生の子は、元気に立ち乗りしている。
「ねえ、何なの?」
「うん、あのね、中学校おもろい?」
「んー。まあね。どうかな。」
「あたしね、中学校の制服すきなの。」
「へぇ。」
「あたしね、大きくなったら、看護婦さんになるの! 」
一瞬びっくりした。なりたいの じゃなく、なるの! だったことに驚いた。
「看護婦さん、て、勉強しなきゃなれないよ?」
私の言葉を気にもとめず、女の子ははしゃいで言った。
「だから今お勉強がんばってるんだよ。算数とか、いろいろ」
「そうか。うん、なれるよ」
「ほんとに!? 」
「うん。がんばれば大丈夫。」
その言葉を聞いて、彼女はうれしそうに帰っていった。
どうして私を呼び止めたのか不明だが、今の私には
とても影響される思いを、あの女の子は持っていた。
小さいころを思い出した。私の夢はケーキやさんだった。
本当にケーキ屋さんにはなりたくは無いけど、
自分のこと、もっと真面目に考えることにした。
今はもうほとんど空を見ていない。
進路のことも、友達のことも、ちゃんと真直ぐに見ている。
もう10年後には、
目指した夢を追っていると思った。
ほんの少しの隙間が気になる。
いや、厳密に言えば隙間ではない。今時期に合わせてホットに対応した自販機とコンクリートの僅かな空間に燦然と存在感を示す新五百円玉が気になるのだ。
一日千円で過ごす身分の私からすれば、自身の半日という貴重な時間さえあの輝きと等価だ。登場時の経済効果を考慮に入れた場合となれば、私は一生を捧げたところで負けているだろう。
その新五百円玉が私を見つめている。私の薄っぺらで妙に柔らかくなった黒毛和牛の財布を新居として求めているようだ。
――どうやら私の思考の大半は食料の確保という生命活動の根源的欲求で占められているらしい。持ってる財布は水牛。いざとなったら食すことになるかもしれないが、まずは入居者を鄭重かつ早急に勧誘しよう。
あえて言うがひもじさに負けたわけではない。決して。神と田舎の父母、そしてご先祖の方々や今は見ぬ愛しき誰かに誓ってもいい。言い訳じみているが、もし尋ねられたらそう答えることにしよう。ちなみに私は無神論者で儒教の精神も持っていない上、年齢イコール彼女いない歴の華麗な人生を送っている。
私はあたりを見回して人がいないことを確認しおもむろに身をかがめて手を伸ばした。 無駄の無い動き。こういう方法でお金を稼ぐその道のプロすら舌を巻くであろう振る舞いが私の身体に染み付いている。
が、目測を誤っていたようだ。中指の関節ひとつぶんが私と高貴なる硬貨の王を隔てる距離だ。このあたりは玄人の苦労と無縁だったのだから致し方ない。
しかしこのようなことでめげる私ではない。苦節十九年、短いようで短いがそれなりに濃ゆい体験をいくつかしてきたのだ。
とりあえず中指を引っ張って関節を鳴らしてリベンジ。確かに二ミリほど距離は縮まったようだが、現状に置いての効果は政府の財政支出と同レベル。そうか、私の財布のデフレスパイラルの原因は政府にあったのか。
――少し気を失っていたようだ。思考の停止というのは恐ろしい。私には考える頭脳が備わっているのではないのか、入居者にまずは間取りを見せ、そのまま住んでもらうという技があると伝え聞く。
財布のファスナーを全開にして既に入居している千円札や小銭たちと出迎えの準備を整える。中指を人差し指に挟んだ彼らの住まいが高貴なる硬貨の王をめがけ、高貴なる王が見事住民に歓迎されたその時、黒毛和牛は私との別れを告げ、奥の暗闇に消えていった。
父さん、僕はもう一人で走れるよ。
学校のマラソン大会があるといったら、父さんは「じゃぁ俺がコーチしてやる。」と言って一緒に走り始めた。それから父さんと僕のマラソンが始まった。仕事をしているのかしていないのか僕にはわからなかったが、父さんは毎日6時には帰ってきた。そして「おい、走るぞ。」と言うなり、僕の前を走っていた。僕だっていつも学年では上位だった。40を越えた父さんには負ける気がしなかった。でも父さんには勝てない。そんな僕を見て、「俺に勝てたらもう練習しなくていいぞ」と、父さんは僕をからかった。
そんな父さんが、急性心不全であっけなく逝った。4年生のマラソン大会の前日だった。
それ以来、僕はマラソンにのめり込んだ。毎日走った。具合が悪いときは母親に止められた。でも、僕は走った。走っているときはいつも父さんと一緒にいられるような気がしたからだ。いや、実際父さんと一緒だった。父さんはもうすぐゴールだと思うと、必ず僕の前に現れて、背中越しに「俺に勝てたらもう練習しなくていいぞ」と言ってきた。だから僕はいつも走らなければいけなかった。父さんに負けるのはいやだった。
6年生のマラソン大会が来た。僕はあれからずっと走っている。2年間、毎日・・・。つらくはなかった。楽しかった。
レースが始まった。僕はトップを走る。ぶっちぎりだ。そりゃそうだろう。練習量が違う。毎日走っている僕にはこんな距離はたいしたことなかった。でも、いつものようにゴール間近で父さんが現れた。
いつも僕の前を走る父さんが、どうしたんだろう、今日に限って遅い。僕はにいつのまにか父さん追いついて・・・父さんを追い抜いた。父さんの顔は見えなかった。
僕はそのままゴールした。1位なのにうれしくない。・・・・僕は誰に勝ったのだろうか。なぜだろう。うれしくないのに涙が止まらい。
それ以来、僕の前には僕の前には父さんは現れない。ずっと・・・。
朝から、頭が薄ぼんやりしている。
霧の中を泳いでいるような感じで、まるで自分の体が自分のものではないようだ。
やはり、昨夜の酒がまだ残っているのだろうか。どうやって、家に帰ってきたのか判らないほど、ぐでんぐでんに酔っ払ってしまった。久しぶりのことである。
顔を洗っても、歯を磨いても、すっきりしない。
食卓につくと、妻が不思議そうな顔をして私の顔を見ている。
「あなた、なんだか今朝はおかしいわ」
「おかしいって、何がだい?」
「なんていうか…、何だか、別の人が座っているみたい」
そういわれてみると、目が覚めてからずっと、まるで他人の体にでも入りこんだような感覚である。
それにしても、そういう妻の顔が変にぐにゃりと曲がって見える。なにか変な薬を飲んだというわけでもない。なんだというのだろう。この違和感は…。
子供が、目の前を慌しく走っていく。ふと、立ち止まる。私の顔を見るが怪訝そうに首をかしげて、すぐに何事もなかったように部屋から出ていく。
いったいどうしたというんだ。本当におかしい。そんな子供の表情さえものっぺらぼうのようにしか見えない。
「もう、行くよ」
「だいじょうぶ?気をつけてね」
「ああ」
妻はとても心配そうな声で繰り返す。
「やっぱり、何か違っているわ。今朝のあなたは」
愛車に乗って、自宅からいつもの通勤路に出た。狭いくせに、朝は通勤ラッシュで混雑し、日ごろから事故の多い危険な路だった。
ところが、なぜかその道路が空気に溶けるようにかすんで見える。すれ違う対向車は、黒い塊にしか見えない。脳みそが麻痺してしまったのだろうか。わけがわからない、この違和感。不快感。
どうしてしまったのだろう。私はいったい……。
すると、まさに、その時である。
空間を真っ二つに切り裂くような、激しい音。クラクションと、タイヤのきしむ音に続いて、さらにけたたましい激突音が響いた。
たちまち、目の前のゆがんだ景色が暗転した。激痛が全身を駈け抜けたが、それも一瞬のことである。
正面衝突だった。いつの間にか私は反対車線を走っていたのだ。
地面に叩きつけられて、ボロ雑巾のように転がっている自分の姿を上から眺めるで、私は初めて今までの違和感の正体に気がついた。
なんてことだ。朝起きてからずっと、私はめがねをかけ忘れていたのだ!
それにしても、恨めしいのは、家族がそのことに全員気づかなかった事である。
静まり返った街の中で、そっと息をしてみた。生きているみたいだ。空は暗闇のむこうからうっすらと光とあたたかい空気をただよわせはじめている。白く黄色い空に覆われてしまうことを思うと、僕は軽いめまいにも似た気分になった。自分のちっぽけさと、世界の現実感がじわじわと忍び寄ってくる。
通りをはさんだコンビニには僕と同じようにベッドの中で夜をすごさなかった若者たちが、煙草を吸いながらただただ時間をつぶしている。慣れない煙草に僕は火を付けて、ぼうっと、煙と記憶を吐き出し、それがゆっくりと漂い消えてゆく様を見たりして歩き続ける。
昨日の夜、いや、この夜はいったい何だったのだろう? そんなことを思い出すふりをして、でもすべて知っている・・・。
僕のとなりに君はいた。夜空の中で愛おしさが小さな光を放ちそうで一生懸命こらえていた。目の前をゆっくりと流れる川は風景をゆらゆらと映し出している。そして、僕はゆっくりと素直にその光を、じっと川を見つめる君に伝えていった。
君は「え・・・」と戸惑う。誘いかけた気持ちが、君のこころと体を軽く触れただけで通り過ぎ、風の中で音もなく消えてゆくのがわかった。君は多くを語らない。でも、それ以上のことをしっかりと伝えていた。共にすごしていたと思えた日々の彼女にとっての意味。それは僕の世界から遠く、はるか彼方にあって、僕はそれを知った。言葉の向こう側で。
彼女は僕を背にして道路へ向かい、手を振ったかと思うとタクシーをつかまえ、逃げるように闇から街灯りに沿って走り去った。それは、たくさんの車の、たくさんの灯りの川の中へと溶け込み、そのうちの一つになってしまった。
僕は、街の中にあった。この僕であることをやめなければいけないようで、すべてが抜けて、消えてゆく。部屋に戻ったら何もかもが現実になることを恐れ、とりあえず川沿いを北へ北へと歩いた。
無人駅のように、相変わらず静まりかえっている街を、吐き気がするほどの静かな眼差しで見ている。もうすぐ夜が明けるだろう。そしたらきっと、この夜のことが遠い夢の場所にあって、だから胸にいつまでも重く残り、逃げられず、透明な自分とありありと存在する世界とのバランスを失ってしまうだろう。
ゆっくりと東の空は光を放つ。溶けていきそうな僕と記憶を感じながら、川を見る。何もない。何もない。ただ空は色を変え、眩しく、図々しく光を分け入らせた。
インターホンの音にドアを開けると、彼がいた。
呆気にとられていると、ずかずかと家の中に入ってくる。
「なんで?」
無意識に漏れた疑問に、彼は平然と答える。
「あ? なんでって、お前に会いに来たんだよ」
「だって、結婚したって……」
「結婚とお前は別だよ」
そういって彼が近寄って来るのを、何処か遠い出来事のように感じていた。
「ねえ、日曜日に映画行かない?」
ベットの上から帰り支度をしている彼に言った。
「あ、悪い。今度の日曜に俺、結婚するから」
一瞬、彼の言葉の意味するものが分からなかった。
「上司の娘と見合い結婚だけどな」
彼が可笑しそうに笑う。
「え? あなたが……?」
「そうだよ。そういうわけだから、悪いな」
笑いながら、鍵を残して出ていった。
彼がいなくなって、
捨てられてちゃったんだな。
そう、思い知った。
何がいけなかったんだろう?
わからなかった。
彼の温もりが残っているベットでないた。
彼だけが全てだったと知った。
私には彼しかいないのだと。
「おいおい、どうしたんだ?」
彼が不思議そうに聞いてくる。
「あなたは私を捨てたんじゃないの?」
ただ、これだけを尋ねる。
「何言ってるんだ、さっきも言ったろ。結婚とお前とは別だって」
彼は何を言ってるの?
「鍵、置いてったじゃない!? 笑ってたじゃない!?」
「捨てられたと思った? ワザとに決まってるだろ?」
彼が囁く。
――パンッ
思わず彼を叩く。
「悪かった。機嫌直せよ」
彼が抱きしめてくる。
何で私は抵抗しないの??
「あなたには奥さんがいるじゃない……。あなたが守るのは私じゃないわ」
まともに彼の顔が見えない。
「馬鹿だな、さっきも言っただろ? 結婚とお前は別だって」
こんな言葉に惑わされちゃいけないってわかってる。
なのに、私は耐えきれなくなって彼にしがみつく。
「俺は欲張りだからな。知ってるだろ?」
彼が呟く。
「あなたはずるい。あなたは家族だって何だって持ってるじゃない!? 私は何も持っていないのに、あなただけしか居ないのに!」
ああ、とうとう最後の言葉を言ってしまった。
「お前が、そういうこと言うから悪いんだぜ?」
彼の目に射抜かれる。
「あなたは私の全てを奪うのね」
「ああ、お前の心も身体も、未来でさえもな」
もう逃げられない。
でも私は甘い幸せを感じていた。
もう、鍵は彼に渡してしまった。
私は今日も独りでドアが開くのを待っている。
「いやぁ、船長はん、お久しゅう。」
「また アフリカの三国間航路なんだ。ちょくちょく寄せてもらうぜ。」
「あら、ほんなら また暫く日本へ帰られしませんなぁ。」
「ああ、1年は だめだな。でもこの縄のれんがあるからいいよ。」
「まぁ、嬉しいこと言わはって。」
「こいつ うちの船の新しい二航士、吉田だ。可愛がってやってくれ。」
「赤木です。どうぞご贔屓に。」
「こんな地球の裏側でも おっかさんみたいな日本人が頑張ってると思うと心強えだろう、なぁ 吉田よ。ここの日本料理は大したもんだぜ。」
「まぁまぁ、誉めて頂いて光栄やこと。」
「へぇ、船長、ケープの港には 猛獣料理を出す縄のれんがあるって聞いてましたが、こちらだったんですね。これライオンの角煮って書いてある、こっちはキリンの炊合せだ。本物ですか?」
「ほほほ、ライオンは 獅子に引っかけて 地元のイノシシ肉を使うてます。キリンは ビールとレモンで炊いた牛肉どすえ。」
「なんだ、ギャグっすか。」
「アフリカまで来て、そんな無粋なこと言うたらあきませんえ。」
「象煮なんてのもあったな、おっかさん。」
「へえ、お餅入れてねぇ、ほほほ。」
「でもな吉田、昔は本当に得体の知れん肉を使ってたんだぜ、なぁ、おっかさん。」
「そんなことおへん、ちゃんと市場で仕入れてますえ。」
「その市場が怪しい。俺も 以前 船の調理長連れて買い出しに行ったんだけど、ケープの港から50キロも離れたのサバンナの真ん中でよ、廻りに高圧電流の有刺鉄線が張ってあるんだ。」
「高圧電流ですか?」
「ああ、電流でコロっといっちまった獣を、何でも構わず その場で解体して 肉を売っちまうんだ。残った肉や骨は そこいら辺にばら撒いておくと、肉食獣が寄って来て またイチコロよ。だからそこで売ってる肉は 何だか分かりゃしねぇ。土人の肉も混ざってるって噂だった。」
「えー、ほんとっすか?」
「いややわ、嘘どすえ。」
「所で おっかさん、あの肉 今日は入ってないのか?」
「えっ、あーあれ、最近は なかなか獲れへんそうどすわ。」
「そうか、残念。あんな美味い肉ここでしか食えねぇ。今度あの肉が入ったら是非とっといてくれよ。」
「へぇ、そうさせてもらいます。」
「おかみさん、それ 何の肉なんですか? 俺も食べてみたいな。」
「えぇ、ツーレッグズミート言うて予約してますけど、さぁ詳しいことは。」
「へぇー、ツーレッグズねぇ。2本足かぁ。えーっ、それってまさか!」
昇り始めた太陽光が網膜に寂しげな残像を残す。
けだるい朝の通勤風景。味気ない雰囲気に、けたたましい救急車
のサイレンが耳を劈く。
「これが俺の日常か......」
缶コーヒーを飲みながら独り言した。
前に並ぶ白髪まじりの男は古新聞の上に座りこみ哲人の様相で、
先程から番号を唱えている。 132、145、160......。
後方には、タバコを耳にはさんだ予備構生がBOSS電シールを貼り
ながら、時計をしきりに気にしている。その後方では、どす黒い顔
のおばさんが千円札を伸ばしながら、金歯で意味なく笑いかける。
俺は毎朝9時21分のバスに乗り、400m手前の停留所で降りこ
の目的の場所までダッシュでやって来る。
慣れればどうってことないが、1番になったことがない。大抵は
5〜6人の常連が立ちはだかっている。
と、その時、まわりの空気に緊張が走りはじめた。シャッターの
開くカラカラカラという音が耳に入り、皆一斉に立ち上がる。
まるでパブロフの犬だ。
一瞬、埃が舞い上がり、ヒャリと風が首筋を撫でた。スモークガ
ラスの中に、既にスターティングの体制をとって、悲愴な顔つきを
した俺が息ずいている
心が、熱い。鳥肌が立つ。武者震いのなか頂点に昇りつめる鼓動
が聴こえる。
この緊張感だけは何度経験しても決して飽きない。
別世界の様なポップミュージックの流れる大理石の上で、黒いチ
ョッキの男達が一斉に頭を下げ大声で叫ぶ。
「いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ」
ドドドドド、ドタバタ、ドドド。ああ、だめだ。どけどけ邪魔だ。
小銭入れと自転車のキーを置く予定の台は、ポケモンハンカチとヨ
ンダパンダのキーホルダーがのっかっている。大工の源さんもモン
スターハウスもだめか。よしっ、135番台だ。ああ、ベンツのキ
ーを後ろからヤーさんが投げ入れた。
先程の予備校生が笑っている。金歯のおばさんはもう打ち始めた。
「よしよし、くくく、かかった!」冷静な微笑はまるでモナリザだ。
「オへー3回転目で碓変だー!」白髪の男は感極まって叫んだ。
ああああ、今日も俺の日常はぶっ飛んでいる。打つ前に既に負け
ている。
血走って通路に独り呆然と立ち尽くす俺に、店員達が一斉に頭を
下げる。腰の折れ方が啄木鳥を連想させる。
「いらっしゃいませ!」
「とうとういらっしゃいました!」
涙声で怒鳴っている自分が情けない程、心地よい。
ああ、パチンコの熱くて切ない一日のスタートだ。
「お前ってデビルマンみたいな顔してるよな?」
「なんだよいきなり」
「でも顔の形はドングリっぽい」
「……」
「まぁいいじゃん、おもしろい顔してるから」
「そういうお前だって……」
「なに?」
「う〜ん……」
「なにさ?」
「いや、お前って例えようのない顔してるよな?」
「うん、誰かに似てるとか言われたこと無いもん」
「でも女装したらかわいくなりそう」
「やめろよ、気持ち悪い!」
「悪い悪い、それはともかく、今まで一回も誰かに似てるって言われたことないの?」
「……ないなぁ」
「……ないかぁ」
「しっかしデビルマンだよなぁ」
「それはもういいっての、それよりお前の顔を分析しようぜ」
「え〜、いいよ〜。お前の顔が濃いってだけでもう十分だよ」
「だーかーらー! 俺の顔はもういいの!」
「はいはい、それで?」
「とりあえず、これといった特徴はない」
「うんうん、それで?」
「中性的、人類のど真ん中って感じ」
「なんだそりゃ?」
「かわいくもあり、かっこよくもあり……」
「ほうほう」
「……」
「おしまい?」
「……うん」
「分析にもなんにもなってないじゃん!」
「仕方ないだろ、普通の顔なんだから!」
「なんか疲れた」
「俺も」
「普通ねぇ……」
「嫌なの?」
「別に」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
「整形でもしたら?」
「やだ、お前がしろよ」
「しよっかな、お前みたいな顔に……」
「やめろよ、冗談だろ?」
「冗談」
「でも、そうしたらお前と似てるやつが出現することになるぜ?」
「でもでも、お前だろ? 勘弁してくれよ」
「この顔好きじゃないしなぁ……」
「俺がその顔だったら凹むな」
「そういうことハッキリ言うなよ、俺が凹むだろ」
「まぁ、自分らしいのが一番!」
「そういうことか?」
「うん、お前の顔はおもしろいってことで、もう寝る」
「そうだな、お前の顔は特徴なしってことで、寝るか」
「なにそれ? 喧嘩売ってんの?」
「お前だろ! おもしろいだのデビルマンだの!」
「オシッ、やってやるよ! 来いやデビルマン!」
季節は夏になっていた。
私の制服は夏服となり、窓から見下ろす人達に半袖が増えていた。
私の机には夏を感じさせるものは何もなく、真冬の頃と室温にも変化がない。
同じような書類を処理する毎日。
目の前を通り過ぎていく数億円の数字だけが無意味に変わっていた。
どうして自分がこの仕事をしているのかは解らない。自分が希望を出して入った会社ではある。何を基準に選ばれているのか解らないランキングでは、いつも上位に食い込んでいる。さまざまなコネを使い、面接では愛嬌を振りまき内定を得た。
外に工事現場が出来ていた。
作業服姿の人達が歩き回り、バリゲートが張られた。
オフィスから見る私には、汗をふきながら働く姿が夏を感じさせた。
指揮しているのは若い男性のようだ。
背は高く、体は細身。やや撫肩の後姿に見覚えがあった。
仕事が終わり駅へ向かう雑踏の中、工事現場の看板に彼の名前を見つけた。
部屋に戻り、昔の写真を眺めた。
卒業式の写真。
振袖姿の私と、似合わないスーツ姿の彼が写っている。二人で撮る最後の写真になるとは思っていない無邪気な笑顔だった。
私が出勤する時、彼は既に働いていた。
私が帰る時、彼はまだ働いていた。
一度、出勤途中に彼と出会った。
交差点で信号待ちをしていると彼が隣にいた。
私の見た事がない険しい表情をしていた。
私は短かった髪を伸ばし、スーツも化粧も似合うようになっていた。
彼と目が合いそうになり私は俯いた。彼は相変わらず薄汚れたスニーカーを履いていた。
いつもと同じ机に座り、変わらない温度の中、同じ窓から外を見ていた。
行き交う人達がコートを着るようになった。
バリゲートが取り除かれ、看板が撤去された。
以前と変わったところといえば、マンホールが一つ出来ていた。
彼は、マンホールを見つめていた。
粉雪が降る中、彼はじっと見つめていた。
行き交う人達が、彼が見つめる前を歩いていった。
雪と泥にまみれたマンホールを彼は自分の手で拭いた。
ポケットからカメラを取り出すと、何の変哲もないマンホールを写真に収めた。
後姿で顔は見えないが、私には彼が笑っているように感じた。
あの写真の笑顔が見えた。そんな気がした。
彼が立ち去った後、私もマンホールの前に立った。
彼の思いは解からない。いや、今の私には解る資格もないのかもしれない。
「負けてられないな。」
独りで呟くと、いつもより少し歩幅を広げて歩き出した。
顔に当る粉雪が心地よかった。
ああ君が新しい入所者かね。噂はエージェントたちから聞いているよ。
超能力開発センターにようこそ。
えっと、君は確かサイコキネシスが使えるんだったな。PKは宇宙開発への応用が利くから需要は高いぞ。
なに? 私の能力が知りたい。まあ確かに私も微力ながら超能力が使えるが、大したことはない。テレパシーが少々使える程度だよ。
そんなことよりセンターを案内してあげよう。
あそこにいる車椅子の少年はリモート・ビューイング能力者のリッキーだよ。
レヴィテーションで浮遊しているのはリチャードだ。
他にもサイコメトリー能力者や、テレポーテーション能力者などがいるよ。
ん。あそこに座ってる女の子かい。
彼女の能力が知りたいんだね。
彼女の名はアン。このセンター内で一番小さな女の子だよ。まだ5歳だがその能力は驚嘆するものがあるよ。
そうだ君! 折角だから彼女の能力を当ててみないかい?
ESPの練習にもなる。ヒントをあげよう。ヒントは彼女の名前と容姿から簡単に連想できるよ。
クレアヴォヤンス? ちがうちがう。
ソートグラフィ? 全く外れ。
なに、分からない。もう降参するのかね。
仕方ない。教えてあげよう。彼女の超能力は「アンチサイ」だよ。
全ての超能力を無効にする能力。多発する超能力犯罪を抑止する最後の切り札だよ。
なに? ヒントじゃ分からなかった?
先に言ったじゃないか。アンは小さいと。
アンは小さい
↓
アン小さい!
↓
あんちさい!!
↓
アンチサイ!!!
どうだね。分かったかい?
な、なんだねその不満そうな顔は!
ふう。どうやら私のテレパシー能力を披露する時が来たようだね。
ふむふむ。どうやら君は呆れてるようだね。
図星だろう?
<了>
―――――――――――――――――――――-
おまけの用語解説:
念動力(サイコキネシス=PK)
精神感応(テレパシー)
遠隔視(リモート・ビューイング)
空中浮揚(レヴィテーション)
物質記憶(サイコメトリー)
遠隔移動(テレポーテーション)
透視(クレアヴォヤンス)
念写(ソートグラフィ)
超能力相殺(アンチサイ)
―――――――――――――――――――――-
「残念ですが、もう回復の見込みはありません」
医師は重々しく宣告した。
「あなた!」
妻は昏睡状態の夫にすがりついた。どうして私を置いていってしまうの。これからどうやって生きていけばいいの。泣き叫ぶ妻。お定まりの愁嘆場が繰り広げられる。
しばらくしてようやく妻が落ち着きを取り戻す。そこへ待ってましたとばかりに医師が口を開く。
「奥さん、実はお願いが」
「……はい」
「新開発の装置を実験させて頂きたいのです。ご主人を使って」
「え?」
妻の表情に浮かんだ警戒の色を見て、医師は慌てて言葉を継ぐ。
「いや、ご主人の体を切り刻んだり、機械を埋め込んだりはいたしません。この枕を使っていただくだけです」
医師は怪しげなコードが何本も伸びた枕を取り出す。
「末期患者がこの枕を使って寝ると、あら不思議。苦痛は消え、幸せな気持ちで死ぬことができるのです。残念ながらご主人はもう駄目だ。ですが、どうですか奥さん。最後くらいは気持ちよく往かせてあげては」
妻は、変な枕とベッドに横たわる夫を交互に見て考え込む。だが、最後は小さく頷いた。
三日後夫は死んだ。
「先生、ありがとうございます」
喪服姿の妻が深々と頭を下げる。
「あんなに安らかな夫の顔を見たのは久しぶりでした。全ては先生の枕のおかげです。一体どういう仕組みなんですか」
医師は胸を張って答える。
「あの枕は夢をコントロールする装置なのです」
「と申しますと」
「あの枕を使って眠った人は、こちらの指示通りの夢を見るのです。どんな夢でも思いのまま。そこで、ご主人にはありとあらゆる幸せな人生を味わってもらいました。大富豪の一生、偉大なスポーツ選手の一生、映画俳優の一生などなど。ご主人は思い残すことなく往けたはずですよ」
「素晴らしいですわ!」
妻は感極まって涙を流す。
「病に苦しむ皆さんにも早く使ってあげてください」
医師が頭を掻く。
「そのつもりだったのですが……。一つだけ問題が」
「なんですの?」
「あの枕、末期患者が使う分には大丈夫なんですが、正常な人間が使うと、真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなってしまうのです。そりゃそうですな。夢の中でなんでも叶うわけですから。おかげで、枕の開発者は私を残して全員自殺してしまいました。ははは」
「……」
言葉を失う妻を尻目に、医師はメスを取り出した。
「実は私も昨晩使ってしまったんですよ。あの枕」
医師は笑いながら自分の喉を掻き切った。
「こんにちは、荒木商店と申します。幸せを売りに来ました」
チェーンロック越しに、女は開口一番そう言った。
「幸せ? 何かしらね、キキさん」
「にゃ」
幹子は足元にまとわりついていた猫のキキを抱き上げて、まじまじと女を見る。
初老と言っていい年齢。人の良さそうな顔をしているが、お人好しというほどでもなく、正直そうに見えるが、バカ正直風な怪しさもない。
言うなれば、悪徳商法に手を染めていないタイプの販売拡張員。自分の扱う商品がそこそこマシなのを知っていて勧めている、スーパーハボキやイオン空気清浄機の開発者兼販売者の様なタイプに見えた。
「……お話だけ聞かせて貰おうかしら」
幹子はチェーンロックを外し、ドアを開ける。
「失礼します」
玄関に入った女は、小さなアタッシュケースを置く。
キキは警戒する風もなく毛づくろいをしている。
「幸せって買えるの?」
「ええ。一つ三千円。税金は別になっています」
いささか事務調で女は言う。
「いい品ですよ。ご贈答品にも向いてますし」
「三千円で買える幸せってどんなの?」
「あなたが三千円の価値があると感じる程度の幸せであれば何でも」
「例えば?」
「新しいCDを買った時の様な、芝居をB席で観た時の様な、居酒屋でそこそこ呑んだときの様な……」
「ささやかねぇ」
「いかがですか?」
是非買え、とも言わない。
幹子は首を傾げる。
キキの方は、下駄箱の隅に隠れていた蛾を追い回して遊んでいる。
買ってみても悪くない。悪くはない、が。
「いらないわね……幸せは」
「にゃっ」
「ねえ知ってる? お隣の奥さん、交通事故に遭ったんですって」
夕食時、幹子は目刺しを食べながら言った。
「え?」
夫の箸が止まる
「亡くなったのか?」
「にゃーお」
「そうだったら、こんなにのんびりしてないわよ」
「にゃんにゃっ!」
「こら、後で頭あげるから、少し行儀よくしてなさい」
「……まあそりゃそうか。じゃあ、怪我だけなんだな」
「うん。でもそれも大したことなかったそうよ。ミラーに引っかかって、転んだだけらしくって。捻挫――ううん、膝を擦りむいたって言ったかしら」
「ふうん……幹子、お前も気を付けろよ?」
「ええ、ありがとう」
「でもお前じゃなくて本当に良かった」
「そんな事言っちゃいけないわ――はい、キキさんお待たせ」
「にゃにゃん!」
幹子は幸せそうに微笑んで席を立つと、バラバラに引きちぎった目刺しの頭をキキのご飯皿に入れた。
少女は屋上に登った。
風が強い。風見鳥がからからと、飛べぬまま夜にもがいている。
白いペンキの風見鳥だ。
そのペンキは少女が塗ったものだった。少女がこの孤児院に来た時、風見鳥はぼろぼろだった。誰にも相手にされぬまま、永遠に飛べない空にもがき続けている風見鳥を可哀想に思い、少女が白いペンキで塗ってあげたのだ。
(お前は頑張ってね。いつか飛べる日まで頑張ってね)
そう言って少女は風見鳥に背を向けた。
見上げると夜空は満天の星だ。圧倒的な、満天の星空だ。
その星空の中へ、少女はゆっくりと身を投げた。からから。からから。風見鳥の回る音だけを聞きながら、少女はゆっくりと身を投げた。
(結局何も解らなかった)
そう思いながら少女は墜ちていった。
(何も解らなかった)
何も。
(良いですか? 分数の割り算は割られる数の分子と分母を)
(好き嫌いをしては駄目よ。残さず食べましょうね)
(ほらほら、みんな仲良くね)
(天に在す我らの神よ。アーメン)
だけど。
(だけど先生! 先生! だけどそれらに何の意味が有るの?! だから一体何なの?! 神様って誰なの?! 楽しいって何?! 悲しいって何?! おいしいって何?! 生きてるって何?! 生きてなくてはいけないの?! なんで死んではいけないの?!)
もう地面はすぐそこだった。
からから。からから。からから。強い風に風見鳥が鳴る。その音を聞きながら少女は、風見鳥だけは好きだったな、と思った。
だが。
(え?)
だが地面は再び少女から遠ざかっていった。
(な?)
ゆっくりと、しかし徐々に速度を増しながら地面は遠ざかっていく。孤児院の二階を通り越し、三階を通り越し、少女は空へ近づいていく。
(どうして)
少女はふっと背中へ振り返った。そこには。
(!)
そこには白く燃える羽が揺らめいていた。
安っぽく、だけれど胸苦しいほど白い、燃える羽根。
羽根は夜空に強く羽ばたいた。増していく速度の中、それを見た少女は、あれ程解らなかった悲しみの意味を何故か理解出来た気がした。
からから。からから。からから。
少女はからからと、白い羽根に抱かれて全てから遠ざかっていった。
次の日の朝、中庭で倒れている少女が発見された。
その死体を静かに見下ろす風見鳥の羽根が無くなっている事は、誰も気が付かなかった。
羽根の無い風見鳥は今もこの孤児院の屋上で、飛べない空に向かってもがき続けている。
「ほら見て、月があんなに大きく、あんなに輝いている」
「本当だな、月があんなに大きかったなんて気付かなかったよ」
旦那と一緒。こんな時間に、こんな処を歩くなんて何年ぶりかしら。
私は旦那の腕につかまり、夜空に輝く月を見た。澄んだ空気が気持ちいい。何年ぶりかの幸せを感じる。娘はやっと私の手から離れ、小さいながら自分の事は出来る様になった。そして、今日は初めて旦那が私を仕事帰りの食事に誘った日だ。
「私、あの月に行ってみたい」
旦那は、私の横顔を見ながら笑った。大声で笑ったが、私の真面目な表情を見て、咳払いをしながら冗談交じりに言った。
「いいよ。連れていってあげるよ。その代わりお前がロケットを作ってくれよ」
「いいわ。ロケット作って上げる。その代わり発射台はあなたが作ってね」
「いいよ。発射台作ってあげるよ。その代わり発射台の土地を買ってくれ」
「いいわ。買ってあげる。その代わりあなたのお小遣い一万円減らさせてね」
「……いいよ。減らして。その代わり毎日おれの好きな晩飯にしてくれ」
「いいわ。好きなもの何でも作るわ。その代わり後片づけは全部あなたがやってね」
「いいよ。その代わりあれは月一にしてくれ」
「いいわ。月一にしてあげる。その代わり私にいい人、紹介してね」
「えっ、う……いいよ。紹介する。その代わりおれの浮気は見逃してくれ」
「はっ?い、いいわ。見逃してあげる。その代わり私の衝動買いも見逃してね」
「い〜よ。衝動買いでも何でもしろ!その代わりおれと別れてくれ!」
「いいわ。別れてあげる。その代わり私と娘、高くつくわよ」
「……」
「別れましょう」
月が笑っている。本当に大きな月だわ。
やっと自由を手につかんだ気がするわ。そうよ私は妻として、母親としてここまでやって来たの。まだ三十五歳、人生なんてこれからだわ。良かった、今日のお月さまが奇麗で。
緩やかな夜風が私の髪をそっと流したかと思うと、辺りに甘酸っぱい香りが広がった。旦那はその香りを大きく吸って、大きな月をじっと見上げている。その旦那の瞳がうっすらと水色に輝いて、ふんわりと涙が浮かんでいる。
下らない冗談はよせ、とは言わないで本物の涙を見せるあなたは、私にとって新しいパートナーになれるのかしら? 月はいつまでも輝いている。今、私の心にも小さな光りが生まれた。それは私にとって、どちらにしろいい事なんだろうな。そう思うと思わず大声で笑ってしまった。
腹這いになって煙草に火をつけている男の横顔からふと視線を逸らすと、脱ぎ散らかされたままのワイシャツが目についた。萌子は手を伸ばしてそれを手繰り寄せると、じっと見つめた。男は気怠るそうに煙を吐いている。
「ここだけ」
「何」
「ここだけすごく汚いのね」
「え」と、男は萌子の頬に顔を寄せると一緒になってシャツの襟の内側を覗き込んだ。ああうん、落ちないんだ、とそして黒っぽい染みが一直線についているのをそう言うと、また少し萌子から体を離し灰皿に灰を落とす。
「そうなの」
「そうらしい」
らしい、という伝聞の語尾を心のなかで萌子は繰り返し、そうかしらとつい疑問に思った。
きちんと丁寧に揉み洗いすればもう少しマシになるのではないかと萌子には思われた。そうでなければ漂白剤につけるとか。いくらなんでもこれでは汚すぎるのではないかという気がした。あたしだったら。あたしだったらきっともっときれいにできると、そう声にはしないで呟いて、はっとする。馬鹿なことをまた自分は考えている。萌子はワイシャツから手を離した。
「変なの」
「何が?」
「襟だけあんなに汚れるなんて、なぜかしら」
「さあ。分泌物が多いんじゃないか、汗とか」
「そう」
「子供電話相談室、今でもあるのかな」、男は煙草を灰皿に押しつけると、萌子の髪を撫でた。
髪を撫でながらも男の神経がテーブルの上の時計にいっているを萌子は知っている。いつもそうだ。そして間もなく起きあがるのだろう。じゃあまた電話するから。
「ねえ」
「何」
「あたしが襟、きれいにしてあげる」
男が一瞬驚いた顔をするのを見て小さく笑うと、萌子は男の首に唇を近付けた。舌をそっと伸ばす。
首筋に沿って萌子は舌を動かし、僅かなすき間も残さずに舐め尽くそうとした。何の真似だよ。だからきれいにしてあげるの、あなたの襟首。あなたの分泌物、滲んできた汁、ぜんぶあたしが舐めてしまうの。そしたらシャツだってそんなに汚れないでしょう。男は、馬鹿だなくすぐったいよ、と笑った。
枕の上の男の頭を少しずつ動かしながら、萌子は男の首を一心に舐めた。根元から頭に向かって、舌を大きく広げて時おり唇で軽く皮膚を吸い取るようにして男の首を「きれいに」した。
「痕、つけるなよ」
「ええ」
ぐるっと一周し、男の喉仏に唇が触れる。と、不意に首の角度がテーブルの上に向かって曲げられた。
萌子は口を大きく開け、男の頸動脈に歯をそっと立てた。
原稿締め切りの20分前に作品を書き始めている次第で、はっきり言って受理されるかどうかもわからず、推敲などできようがないのでたいへんな駄作を世にさらすことになる危険性を抱えながらも、それはそれで面白いし、ここで思い切って実験的なことをやってみるのも良いと思ったので、慌てて書いている次第である。
まず、話の展開をざっとご説明したい。まず主人公は大変楽天的な奴で、何があってもめげない男である。この男に試練が降りかかるのだが、その試練にも平然として、のびのびと生きようとしている。そういう人物像を描き出す作品である。
さて、その試練の中身や、その文体がこの作品を大きく影響することは間違いないだろうが、果たしてどのようなものにしようか、皆目見当がつかない。そこで、構成を練り、読者に意外性という名のインパクトを与えて、次の回の感想票でがっぽり星を稼ごうという寸法だ。
そうだ。読者の中には、こうやって書き手の側が、作り話を作っていることを堂々と露呈することにいぶかりを感じる人もいるかもしれない。しかし、私が今描こうとしている人物は実在の人物であり、その健気な生きっぷりという真実を伝えるためには私は嘘をつくことすらいとわないのであるから、是非了承されたい。
さて、問題をもとに戻そう。なんと、まだ話が始まっていないのに、指定文字数を半分こえてしまっている。しかも時間は残り5分しかないので、書き直しているひまなどあるはずがない。
おっと、話が戻って無いぞ。そうそう、主人公の受けるべき試練の内容である。文章にとって効果のある劇的な場面がほしいのである。そのようなものを瞬時に思いつくほどの才能には絶対に恵まれていない気もするが、私はまだ諦めない。
そう、実のことをいうと、この小説のモデルとなる人物というのは、実は私のことで、私はいま原稿時間内に文章を仕上げなければならないという試練に直面していて、このような下手な文章では、酷評も必死だというのに、健気にがんばっているし、こういう趣向ももしかしたら、その場受けして今回は感想票の上位に食い込めるかもしれないという淡い期待を持っている。
ああ、もう時間がない。
わたしが酸っぱいものが好きだ。
その嗜好は食物に留まらず、飲料、香料、体臭までもその範疇に入った。
夏はとても素敵だ。
炎天下を走る電車、その弱冷房車両は、時として馨しいまでの体臭の巣窟と化す。わたしはできるだけ肥満型の紳士の下に寄り添い、その芳醇な香りを堪能する。
鼻腔をくすぐる甘酸っぱい香りに酔いしれる。
半分意識が遠のいていたのだろう。不意のカーブに気付かず、私はよろめいてしまった。
横転する。そう思った。
だけどわたしの身体は地に這うことはなく、あの馨しい紳士の胸の内にがっちりと受け止められていた。
――わたしは恋におちた。
一ヶ月が経ち、残暑も厳しい盛りにさしかかったというのに、彼とはそれきり遭えないでいる。
わたしを虜にしたあの香り。締め鯖が腐ったような独特の酸味を醸しだす人物なんて、彼以外に考えられなかった。
わたしは血眼になって彼を探した。車両を一両ごと移動し、時間帯をずらし、時には遅刻すら覚悟の上で芳醇な彼を捜し求めた。
十月の声を聞く頃、体臭の季節が終わると同時に、わたしの精魂は尽き果てた。
しょんぼりと帰路につくわたしの元に、一抹の風が吹き込んだ。
この香りは……
風に運ばれてきたのはまさしく彼の臭いだった。
腐った干物のようなドブ臭さが加わりはしたが、その強烈な香りをわたしは忘れていない。
買い物袋を投げ捨て駆け出した。
走った。ヒールが折れるくらい思い切り走った。風に乗って、彼の臭いを辿った。
小さな公園に彼は居た。ダンボールに腰掛けた彼。くたびれたスーツ。ネクタイは外され、ワイシャツは黄色かった。
彼が電車に居ないワケが氷解した。きっと職を失ったのだ。路頭に迷い、この公園でホームレスまがいの生活を送っていたのだ。
こんなにも近くに居たのに気付かないなんて……。
彼の体臭もさることながら、そのほろ苦く酸っぱい人生に、わたしは涙を堪えることができず泣き出してしまった。
目の前で涙するわたしを怪訝そうな顔で見つめる彼。そのキョトンとした仕草がとても、とてもいとおしかった。
「もうだいじょうぶよ」
わたしはそっと、彼の額に手を添えた。
<了>
殴られてうれしい人っているのかなあ。ごりごり。いないと思うよ。ごりごり。だって痛いもん。まだぴりぴりするもん。ごりごり。
左目がふさがってる私。どうしてあの人は、すぐ殴るんだろう。優しい時は優しいのになあ。私以外の人にも、すぐ殴るのかなあ。それってかなりヤバいと思うよ。ごり。私だけ殴るんなら、それで他の人を殴らないんなら、私はいい事してるのかもね。ごりごり。
ああ、いっぱい出来た。すり鉢いっぱい、粉ができたよ。怒りやすい人にいいんだって、カルシウム。だからいっぱい粉にしたよ。カラを粉にして、中身の方は私が食べたよ。ゆで卵二十四個。死ぬかと思った。でも殴られるよりずっとマシだよ。
あと、体にいいのはミルクだよ。毎日骨太だよ。温かいミルク、すり鉢に入れたら、真っ白なお風呂みたいでいい感じ。ミルクは半分まで。仕方ないよ。だってまだブルガリアヨーグルトとパルメザンチーズも入れるんだから。ミルクの残りは私がのむね。
暖かい部屋で、温かいミルク。ちょっと心もあったかい。
トイレに行ってきた。ずっと便秘っぽかったのに、毎日骨太とヨーグルト、一気のみしたからかな。便秘が治ると気持ちいいよ。あの人も便秘だからイライラするんじゃないかな。そうか便秘か。て事は、やっぱかなりいけてるのかも、このメニュー。あと、便秘にきくのはセンイかな。センイってあったっけ。ないなあ。布とか? あの人が脱ぎ捨てたシャツとか? 百回刻んでもバレるなあ。毎日骨太の紙パックとかどうかな。紙パックで何か作ってるの、前にテレビで見た気がするよ。小さく切って、ふやかして溶かすんだ。すり鉢に入れて、ごるごる、ごる。時計の音が、かっちんかっちん。
またトイレに行ってきた。紙パックじゃなくて、トイレの紙にすれば良かった。キレイに溶けるもん。まあいいや。いろいろ考えると疲れちゃう。下ごしらえしたすり鉢を、明るい窓ぎわにそおっと置いて、レースのカーテンをゆっくり開ける。ちゃーんと日に当てて、吸収しやすくするからね。
窓ガラスを通して、冬のお日さまがほこほこさしてくる。
私はソファに転がって、温まったクッションに、右の頬っぺをぎゅっと当てて、陽射しの中で目を閉じる。何だかこんな時間って、昔あったよねっとか思いながら、きううっとか鳴いてみたりして、くっくっと笑っちゃう私。
窓の外にはサオダケ屋さん。時計の音が、かっちんかっちん。
ただ、私は、人のぬくもりが欲しかった。
だから、道で声をかけて来たおじさんに体を許したのも、ぬくもりが欲しかっただけだ。
宇宙に広がる雲のように、私のアイスコーヒーにミルクが混ざる。
一人で眺める外の景色は、太陽の暖かな光線を浴びた人々が信号機の気まぐれに足を速めている。
高校の授業に出ていない私は、暇をつぶす為に、毎日、同じコーヒーショップに体を預けている。
父と母は、私が高校に入学した次の日、今までの冷戦に終止符を打つため離婚届けを引出しから出した。
その日から、私は、父と住む事になったが、そこにいた父は、私の知る父と言う殻を破った男へとなった。
私は、夜を迎えるのが怖かった。だから、私は家を出た。
五時を過ぎると私は、コーヒーショップに別れを告げる。
「明日も来るよ。」と、心でつぶやく。
公園で座っている私に、声をかけてくる。
「家に帰らないの?」
おじさんは、決まった言葉をかけて来る。
「帰る家がないの。」
私も、決まった言葉を返すだけ。
ただ、ぬくもりが欲しいだけ。
だから、私は、体を許す。
はじめは、心の準備が必要だったけれど、今は、慣れた私がそこにいた。
太陽が、一番高いところに着いた頃、私は、いつものコーヒーショップに体を預ける。
毎日、同じ事の繰り返し。
違う事は、夜を共にする人が違うだけ。
私は、今日も五時にコーヒーショップを後にする。
公園にいる私に、今日も声をかけてくる人がいる。
私は、断る事を知らない。
ただ、ぬくもりが欲しいから。
今日も体を許すだけ。
雲が地球を覆った頃、私は、コーヒーショップに体を預けにきた。
いつもと違う席に座った私の前に、男の人が現れる。
混んでた店の相席のお願い。断る事を知らない私がそこにいる。
男は、私に声をかけてきた。
決まった言葉と違う言葉。
私も、決まった言葉と違う言葉。
五時を過ぎても立たない私。