第30回1000字小説バトル全作品・結果一覧

#題名作者文字数
1ランナー野口 圭896
2僕とカワウソ野村利三郎1050
3ランhanako970
4(欠番)--
5治らない。しんじ838
6無味無臭無感覚坂口与四郎980
7知ってた?坂本 一平558
8真っ赤な提灯岡崎源作951
9適時とらふぐ928
10ぐうたら主婦万歳!池田@ママ1000
11ブーゲンビリア三浦あい993
12エレクトリックポップ世代の幼年期イシカワレゴゑ993
13「運命の輪」樹神 心948
14クリスマス・イブ山田せばすちゃん1000
15怪盗 紅のタコのぼりん1000
16きりんの寓話林徳鎬999
17後天性ベルーゾー血栓による肝細胞機能不全がもたらした老廃物中性腫瘍羽那沖権八1000
18桜待ちYOSHIMURAKeiji996
19バスのことでアナトー・シキソ1000
20where or when ?ポンコチーヌ211000
21むじなアンダーグラウンド蛮人S1000
22浮かぶ川島ケイ1000
23愛と正義越冬こあら1000
24さよならの定期券伊勢 湊1000
25MOONさとう啓介1000
26水族館一之江1000
27子守唄るるるぶ☆どっぐちゃん1000

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Entry1

ランナー

 僕は今まで、ずっと走り続けている。
スーハー、スーハー、スーハー、スーハー
 いつ頃から走りはじめたのか、自分でもよく覚えていないんだ。
スーハー、スーハー、スーハー、スーハー
 僕は一人で走り続けている。
スッスッハー、スッスッハー、スッスッハー
 何人かの人間が僕に近づいてきたけど、僕が無視していたら彼等は去っていった。
スッスッハー、スッスッハー、スッスッハー
 誰かと一緒に走っていると、僕のペースが乱れてしまうんだ。
スーハッハッ、スーハッハッ、スーハッハッ
 もちろん苦しくなってペースが落ちてくることもあるけれど、それはそれさ。
スーハッハッ、スーハッハッ、スーハッハッ
 いつになったらゴールできるのかわからないけれど、それまで走り続けるしかないんだ。
スースッハー、スースッハー、スースッハー
 やれやれ、また誰かが近づいてきた。
スースッハー、スースッハー、スースッハー
 僕と同い年くらいの男だ。
スッスーハー、スッスーハー、スッスーハー
 一緒に走ろうよ、たってなんで僕が君のペースに合わせて走らなきゃならないんだ。
スッスーハー、スッスーハー、スッスーハー
 この野郎、僕の背後にピッタリ張り付いて、プレッシャーをかけてきやがった。
スッスッハッハッ、スッスッハッハッ
 こうなったら、もっとペースを上げて、振り切ってやるしかない。
スッスッハッハッ、スッスッハッハッ
 くそっ、しぶとく食らい付いてきて、なかなか離れない。
スースッハァハァ、スースッハァハァ
 すこし苦しくなってきたみたいだな。
スースッハァハァ、スースッハァハァ
 よし、奴のペースが遅くなってきたぞ。
スッハッ、スッハッ、スッハッ、スッハッ
 こいつ、もうフラフラで倒れそうになっているのに、うっすら笑ってやがる。
スッハッ、スッハッ、スッハッ、スッハッ
 ふう、ようやく見えなくなったな。
スーハァハア、スーハァハア、スーハァハア
 しまった、さっき飛ばしすぎた反動で、ペースが一気に落ちてきたぞ。
スーハァハア、スーハァハア、スーハァハア
 ぐっ、足が鉛になったみたいに重い。
ハァハァハア、ハァハアハア、ハアハアハア
 あいつ、何故あの時笑っていたんだろう。


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Entry2

僕とカワウソ

そのカワウソはあまりにも寂しがり屋なので、いつかトコトン傍にまとわりついてやり、その口から「頼むから一人にして」などと言わせてやりたい気分に駆られる。但し実際それは無理な話で、僕がカワウソに逢いに行けるのは仕事のない週末に限られており、しかも毎度妻に何かもっともらしい嘘をついて出掛けなければならない。嘘の材料に困った場合は迷わず訪問を取り止める。いかなる嫌疑も避けなければならない。それがカワウソとの関係を維持する為に長期的観点から導いた僕の信条である。人が過ちを犯すのは決まって目先の都合を優先するときだ、と死んだ親父も言っていた。
さて、カワウソの棲家は遠い。かなり遠い。二往復すれば文庫本一冊は読み終わる。しかしカワウソに青山辺りまで電車で出て来いとも言えない。そもそも電車賃をもっていない。だから僕が電車に乗って逢いに行く。
カワウソは概して献身的な生き物ではない。むしろ利己的な面が多々目につく。僕がいろいろ苦労して訪ねてもそれが当然という態度だ。一週間或いはそれ以上の期間放っておかれたことの非難ばかり浴びせてくる。わざわざ紀伊国屋で買ってきたマグロの切り身をあげてもこれといった反応もない。だが腹は減っているらしく黙々とたいらげる。その様子はかわいらしくもある。時折やや照れた様子で僕に川魚をくれたりする。まだ鱗がついていて生臭く、とてもそのまま食べれる代物ではないので、僕は礼だけいって丁重に断る。するとカワウソは少し気落ちした様子で、自分の巣穴にそれを放り込む。きっと後で食べるのだろう。
カワウソと一緒のときは、これといってやることもなく、ただ漫然とカワウソの近況を聞いたり、適当にじゃれあったりして時を過ごす。カワウソの近況報告というのはあくまでカワウソ的世界観に基づいた話なので、内容は理解できても共感することは難しい。逆に僕の身の上話をしても相手にとって同じことだろう。だから僕は自分の話はあまりしない。
憂鬱になるのは別れの刻限が近づいた頃だ。カワウソは決まって言葉少なげになり機嫌が悪くなる。そして僕も別れの辛さを共有しているかどうかを執拗に確認してくる。僕は適当に言葉を返しながら、心の中では次の訪問の際に妻にどんな嘘をつこうか思案している。そんな自分に自己嫌悪を感じながら僕は帰路につく。ふと僕にとってカワウソとは一体何なのだろうかなどと自問したりするのだけれど、電車の席に座ると意識はすぐに読みかけの本へと向かい、カワウソを頭の中から締め出す喜びに浸ってしまうのだった。


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Entry3

ラン

ランに出会ったのは7つの春。

パパに連れられてペットショップへ行った時
最初はだだをこねたんだ。あっちのブチの方がイイってね。
でもパパが茶色のにしときなさいって。
それでもブチブチブチブチ言ってたら
パパに川に落されそうになちゃって
泣きながら茶色にするって言ったんだ。

でもね、帰りの車の中で、パパよりも僕の方が
茶色と仲良くなっちゃって。
その日はね、一緒に寝たんだ、茶色の子犬と。
次の日起きたら茶色の奴、僕の布団にうんちしてた。
でも僕怒らなかったよ。
だってさ、僕達もう親友だったから。
僕が名前をつけたんだよ。ランってね。

ランとはね、いつも一緒だったよ。
学校から帰るとね、いつもランが待っててくれたんだ。
黒い瞳をうるうるさせて、僕が歩く後ろをどこまでもついて来るんだ。
トイレの中までね。
だから寂しくなかったよ。パパとママのお仕事遅くなっても。

お天気の気持ちいい日はね、自転車のカゴに乗っけて出かけたよ。
ランは風が好きなんだ。
だから僕、一生懸命漕いだんだよ。ビュンビューンってね。
そうしてお気に入りの野原でね、一緒に走りまわって遊んだよ。

あれはいつだったかな。干草の季節にね、ランの奴、
もぐらと喧嘩したんだよ。
モグラだよ。信じられるかい?でも本当なんだ。


でもいつからかな、僕野球をはじめてね、ランと遊べなくなっちゃった。


でもいつからかな、他のお友達と遊ぶのが忙しくなちゃって
…ランは何して遊んでたのかな?


ある日ね、ランの奴、急に元気がなくなちゃって…。
温かい毛布でくるんでやった。病院に連れて行った。お薬飲ませた。
少し元気になってね、歩いて僕のところにきたんだ。
ヨタヨタとだけど。
だからね、もう大丈夫だって、そう思ったんだ。

でもね、その日が最後だったんだ。
ランはね、最後のお別れを言いにきたんだ。
ランのさよならに気付いてやれなかった。

柔らかかったランの体がカチンコチンになった。
あんな悲しい日はなかったよ。ママがお花をかってきてね、
皆で泣きながらお庭に埋めたんだ。僕いっぱい後悔したよ。
どうしてもっと遊んでやらなかったかって。
どうして元気ないのにもっと早く気付いてやらなかったかって。


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Entry5

治らない。

 風邪が治らない。そうはいいながらバイトは休めないし、学校だって行ってる。咳がひどくて、薬局で買った咳止めの薬を2時間おきにティースプーンでひとさじ。それでしばらくは調子いいんだけどバイトに行くとタバコの煙に巻かれて結局振り出し。だから治らないんだ。

 布団の中にもぐりながらじっとしてるといろんなことを考える。子供のころは風邪を引くと母親がカルピスで薬を飲ませてくれた。今はハイネケンで風邪薬。どっちもよく眠れるんだけどなんか違ってる気がする。でも、そんな感じ。小さいころから何にも変わってはいないんだと思う。好きなものと嫌いなものは一緒にやってくる。良いことばかりでもなく、悪いことばかりでもない。何かひとつを選べば、他のものを選べない。多分そんなものなんだろう。風邪なんて大して苦しいわけでもないし、別に死ぬわけじゃない。病は気からっていうし、気持ち次第で咳が辛いとか思わなくなるかもしれない。ちょっと待てよ。もしかしたら風邪を引いてないのかもしれない。そういえば体が少し疲れているだけだし、のどだって痛くない。風邪じゃないんだ。咳が痛いだけだ。それだけだ。それだけだ。それだけだ。

 気づいたら、外は真っ暗で、部屋の明かりがついていた。 
 「起きた?」と彼女の声がした。左手で髪を耳にかけながら体温計を僕の口に押し当てた。少し、香水の香りがした。甘い香水の香り。
 「ムン」
 「気分は?」
 「ヴァルブバビヨ」
 「咳は?」と時計を見ながら彼女は言った。
 「ナダアオンアイ」
 「ビールで薬なんか飲むからよ」と、体温計を僕の口から出して、じっとにらんだ。
 「熱はないだろ?少し疲れてて、咳がするだけなんだ。大丈夫。風邪じゃないんだよ」
 「それを風邪って言うのよ」
 「そっか」
と、言いながら彼女の右手を引き寄せた。
 「だめよ」といって僕の額に手を当てた。
 「キスは風邪が治ってから」

 いつだって変わらない。良いことと悪いことは一緒にやってくる。それだけだ。


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Entry6

無味無臭無感覚

「お前って、味がしないよな。」
遙とキスをする時は、いつもそう思う。セックスの時もそうだ。こいつは味も匂いもしない。
「どういうこと?」
俺も、よく分からない。遙はクスクス笑う。本当は全部知っているのよって顔して。
「人って、匂いとか、味があるんだよ。でも、お前だけはしないんだ。」
「あたし、タバコ吸わないもん。」
「そういうんじゃなくって、一人一人、あるんだよ」
「そんなにいっぱい知っているんだ。」
遙はまた笑う。そうじゃないって言おうとするが、間違いでもないので、黙る。俺の過去も気にしない。
なんとなく口惜しい気分だ。腕を掴んで、無理やり引き寄せる。

遙は声を出さない。出せって言っても絶対出さない。そこにそそられると同時に、寂しさを感じる。
俺が抱いているのは、幻なのではないかと思う。だから、味も匂いもしないのではないか。
「俺のこと好き?」
口癖になってしまった質問に、遙は
「好き」
それだけ言う。体中を舐めても、遙には味がしない。感覚しかない。

遙には両親がいない。父親が三年前に事故死したらしい。母親のことは全く口にしない。父親の保険金で、一人で暮らしている。
初めてのデートは俺の部屋だ。いきなり遙に押し倒されて無理やりセックスされた。あの時の遙の顔は、一生忘れられない。
その時にはすでに無味無臭だった。

「もうすぐ誕生日だね」
遙が呟いた。


俺の誕生日。
遙は留守だった。そして、俺の両親も帰ってこなかった。

夜中、父親に呼び出された。場所は警察だった。警察署の廊下で、父親から双子の妹がいると聞かされた。母親と父親は再婚で、俺と親父は血のつながりがないという。

母親は泣き崩れていた。「ごめんなさい」そればかりブツブツ言っている。俺の妹は、電車に飛び込んだそうだ。妹といわれても、わからない。だって、目の前のシーツに包まれている死体は、遙だ。

親父に、初めて会った妹とふたりだけにしてくれと頼んだ。
今日、初めて遙の誕生日を知ったんだ。

二人きりになった。俺と遙は同じものだった。だから、味も匂いも俺だけが感じられなかったのだ。キスをすると死臭がした。

今、俺は、あの日の遙と同じ顔をしているに違いない。
血のつながりを知っていようがいまいが、もう同罪だよ。



あれから何年経っても、どんなに女を抱いても、臭いに耐えられない。無感覚だ。
俺がほしいのは、無味・無臭か、死の香りのするお前だけ。


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Entry7

知ってた?

「ねえ、知ってた?」
「僕達は、同じ場所に居ないんだよ。」
僕は、小学生になる前の弟に、この前学校で習った事を教えた。

「うそだ!」
「いつもおんなじばしょにいるよ。」
少し怒った顔をしながら、弟は反論をしてきた。

「それは、違うんだよ。」
「僕達は、地球って言う星の上で生きているんだよ。」
その愛らしい顔に負けないように僕は反論した。

「ほし?」
最後に半音上げて弟は質問をしてきた。

「空を見てみなよ。夜になると光る点が見えるだろう?」
「それが星なんだよ。僕達は、その星の一つである地球に乗って、お日様の周りを回っているんだよ。」
少し、難しい回答を弟に返した。

「おひさまのまわりをまわってる?」
今度は泣きそうな顔で弟は僕に投げかけてきた。

「こうやって、お日様の周りを回っていて、僕達はこの上で生きてるんだ。」
「だから、僕達は、同じ場所にいないんだよ。」
僕は、弟の周りをくるくる回りながら、頭の上を指で指して説明した。

「ちがうもん!!」
弟は、回っていることが分ったような顔をしながらも反論してきた。

「なんで?」
「僕達は回ってることが分ったでしょう?」
「だから、同じ場所にいつも居ないんだよ。」
今度は、僕から質問を弟にしてみた。

「だって、おにいちゃんもママもパパもおんなじおうちにすんでるもん。」
弟は、目の周りを赤くして泣き叫んでいた。


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Entry8

真っ赤な提灯

嘔吐しそうになりながら、私は頭上の無数にある提灯を見上げていた。真っ赤に色付けされた提灯は無関心を装ってはいるが、私に向かって微笑を送っているように観えた。
 私はその日、小学校の同窓会に出席していた。私を含めた皆、三十路に差し掛かる前、最後の二十代を互いに意識しながら座っていた。現実が夢を覆いつくして、酒は夢を近づけるためのものでなくなり、只現実に沿った出来事や過去の栄光と呼べぬ栄光を虚飾する道具になっていた。
 私と親友であったKは家族や会社の自分の置かれている境遇を私にじっくりと細かく説明してくれる。それらの話題はどれもひどくつまらなくて、深みがなく、拾ってきたような代物ばかりだったが、私は熱心に相槌を打ったり、自分の意見を述べたりしていた。私とKのような村的空間はいたるところで作られていた。ごくまれに・・・当時から彼らは活発だったのか忘れてしまったが・・・一気飲みを競いあい、場の雰囲気を無理に盛り上げようとする村も在ったが、その頑張りも彼らの飲んだビールの泡と一緒に消えていった。
 私が僕であった頃、私は僕が無軌道に走り廻り、他愛もないことで笑い、涙して、感動する様をよく目にした。僕、いや僕達には意味の無い注意をする上司も七時きっかりに鳴る時計も底なしの性欲も無かった。だから、僕達は「将来の夢」という題名の作文にも何でも書けた。僕は確か宇宙飛行士になり、月に行きたいと書いた。現在、僕の月は会社になり、ロケットは電車だ。
 私は早く私の何もない家に帰りたかった。解らないけど、皆もそう思っているはずだろう。ここには枯れてしまったものがありすぎる。それを話のネタにしてもいいけどオナニーの後の、あの惨めなティッシュを見ているような気持ちになるのは嫌だ。そして、Kが深刻そうな顔をして私に言った。「嫁さんが浮気してるかもしんないんだよ。」私は答えなかった。その代わり、胃にビールを流しこんだ。私はKの「将来の夢」も思い出す。Kはプロのサッカー選手になりたいと書いていた。鉄筋コンクリートでできた月に勤める私とボールではなく嫁さんを追いかけるK、二人を見て笑ったのは恩師でもなく初恋の人でもない、頭上の真っ赤な提灯だった。嘔吐しそうになりながら、私は頭上の無数にある真っ赤な提灯を見上げていた。


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Entry9

適時

「また降ってきた」
「本当だ。お前雪って好き?」
「別に嫌いじゃないよ。ただバイクだと危なくなるから、それが嫌だ」
「気をつけたほうがいいぜ」
「ああ、死ぬときは派手にふっ飛んでやるよ」
「やめろよ、縁起でもない」
「でも、どうせ事故るなら即死のほうがよくない?」
「まぁな、植物人間なんかになってもなぁ」

「俺、前に事故で鎖骨が折れただろ? ぽっきりと」
「ああ、治るのに半年以上かかったやつな」
「あれは辛かった。手術で肩になんか入れられて、半年してまた肩開いて」
「うぅ、気持ちわりぃ」
「手術中の写真見せてもらったんだけど、肩のとこぐちょぐちょ」
「もうやめようぜこの話、気分悪い」

「だな。まぁそれで、今は元気だけど……」
「なに?」
「うん。俺は本当は、あの事故で死ぬべき人間だったんじゃないかって」
「……」
「事故の後、まったく心動かされる出来事が無い。」
「そうか? それなりに楽しんでるように見えるけど」
「それなりにな。でもそれらは、あってもなくても同じことなんだ」
「いまいち、つかめないな……」
「人には、その人だけに与えられるイベントみたいなものがあると思うんだ」
「それはなんとなくわかる」
「どんなにつまらない人生だろうと、そのイベントは確実に現われる」
「ああ、気づかない馬鹿もいるけどな」
「そういうことだ。それはもう俺には起こりえない」
「そんなことはない」
「極端に言ってしまうと、事故の後は生きてないのと同じだ」
「考えすぎだ。まったく気づかなくても普通に生きてるやつもいる」
「確かに。羨ましいな」
「お前もそうなればいい」
「だめなんだ。俺は終わったことを感じ、そのことを理解してしまっている」
「かまわないだろ。楽しさや悲しみを感じられれば十分だろ?」

「お前にはわからないよ……」
「なら自殺でもしたらいい」
「……」
「……」
「そんなに怖い顔するなよ。別に絶望的になってるわけじゃないんだ」
「……」
「ただそういう話をしたかっただけなんだ」
「じゃあ全部うそってことか?」
「いや違う。本当だ。紛れもなく本当だ」
「なんだ。自殺したがってるんだと思った」
「お前がどんな顔するかと思ってな。ちょっと悲観的に話しただけさ」

「俺は死ぬべき時に死ねるかな?」
「さぁな」
「いつなんだろ」
「さぁな」


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Entry10

ぐうたら主婦万歳!

 我が家は旦那と私の二人暮らしである。共働きである関係上、恥ずかしながら家の中は必然的に乱れてしまう事が多い。ゴミ箱は溢れ、ホコリが飛び散っているのは日常茶飯事である。そんな中、旦那の母親が抜き打ちのように家へと遊びに来た。

「これは酷すぎるんじゃない。あんたもう少し家事をしたらどうなの!主婦失格よ!」

 帰り際呟くようにこう言って旦那の母は去って行った。私は怒り心頭である。両方働いているというのに何故私だけ責められなきゃいけないの!!旦那に今日あった出来事を話すと予想外、旦那は「お袋の全く言う通り、お前はもっと家事をしないといけないよ」と言うではないか。

 私も働いているのに!もう許さない!

「じゃ、言わして貰います。仕事と家事を両立させる為、まず、洗濯機は今流行の1時間で洗濯乾燥が終わるタイプへと変更させて頂きます。そして当然台所には全自動の皿洗い乾燥機を買って下さい。お蒲団干しも女手一つでは大変なので、干す必要の無いウオーターベッドに変えて下さい。
 掃除はやはり細かい所は大変なので、定期的に家政婦さんに来て貰う事にしましょう。週一度であればそれ程お金はかからないはずです。
 普段する掃除も今使っている重いタイプの掃除機は廃棄して、最新型のコードレスの掃除機を購入して下さい、そうすれば掃除の回数も増えるはずです。
 普段のご飯は基本的に外食!もしくはケイタリングを利用するようにしましょう。これで家事は万全、文句は無いでしょう」

 息もつかず、ハアハアとここまで一気にたくし上げると、目の前で食事をしていた旦那が突然床に土下座し、深々と頭を下げた。一体何を始めるつもりであろうか

「私が悪うございました。ぐうたらのままで結構で御座います。そのような無体な器具導入はどうぞご勘弁下さい。家計が破綻してしまいます」
「ぐうたら?今あなた何か余計な事言った?」
「とんでもございません。このままで結構。私は幸せでございます。さささ、ご機嫌を直されて」

 見え透いた態度、今言った全ての夢を叶えてもおそらく百万円もかからない筈。機嫌を直した振りをして椅子に座る。不況の今、働く女性は金の靴を履いた女と言われるんだから、大事にしないと罰が当たるよ!

 ぐうたら万歳!

「でも、もう少し家事を頑張ってくれたらな・・・」
「分かったわよ!週末少し頑張るから。あなたも手伝ってね」


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Entry11

ブーゲンビリア

「うぎゃああぁぁぁ」
まるでバケモノを見たかのような声が家中にこだました。何事かと私は部屋から出てくると
「あぁ・・・、あぁ・・・」
と後ずさりしながら、蚊のように細い体をした男が洗面所の中、揺れる手で窓の方をまっすぐに指さし怯えていた。歯磨き粉混じりの口がなんともこっけいである。
「カマキリじゃない」
私はカマキリを手でつかまえ、窓から逃がしてやった。
「すごいなぁ〜。舞ちゃんは」
男はにこにこと素直に感心している。私が「馬鹿じゃない?」と思いながら立ち去ろうとした時、
「あぁっ。ちゃんと手を洗わなきゃ!!ばい菌が・・・、ばい菌がついちゃうよう」
と男が叫んだ。私は
「あなたも私もカマキリもみんな自然の産物なのよ。カマキリがばい菌なのならあんたもばい菌じゃない?」
と言い残し、母のいる居間へと向かった。
「今度の男は何なの!? ゴキブリを素手でつかめるお母さんの相手じゃないわね」
私はテーブルの上にあったお菓子の袋を開けながら言った。
「結婚したのは三度目かしらぁ」
と母は酔ったように言い
「一度目はあなたのパパ。まともな男だったけれど堅すぎちゃってね。だめだったわ。二度目はワイルドな男。バイオレンスだったわね。ふふっ。二ヶ月で別れてやったけど。三度目は、今度は優しい男にしようと思ったのよ。確かに優しいじゃない?」
と続けた。私は
「う〜ん・・・」
と考え込みそして言った。
「一度でも私が『素敵だわ〜』と思うような男を連れてきなさいよ」
すると母は急に真面目な顔をしてテーブルの上に身を乗り出し、私の顔をまっすぐに見て
「そんな男が来ちゃったら、きっとあなたとその男は愛し合うようになるわ。そしてあなたは私からその男を奪ってどっか行っちゃうでしょう?それかその男が誠実であったのならば『お母さんに分かってもらえるまで説得しよう』なんて言っちゃってるのよ。そうなのよ」
とまくしたてた。私は驚いた顔で母を見た。そしてひと息飲んで
「・・・何で?昔、そういう経験でもあった?」
と聞いた。
「違うわ。何となくね。私のように水商売を長くやっていると目を見ただけでどんな人か分かるようになるのよ。あなたは冷めたフリをしているけれど心の中は情熱で煮えたぎっている。そういう目をしているわ」
母は言った。
「だから変な男ばかり連れ込んでくるんだ」
私が冗談まじりに言うと、母は
「モテちゃって、モテちゃって仕方ないのよ」
と言って笑った。


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Entry12

エレクトリックポップ世代の幼年期

 電力会社から山のような督促状が届いたが、私とルームメイトには払う金がない。
 記録的な猛暑でエアコンはフル回転。冷蔵庫にはぎっしりと缶ビール、おまけに二人とも暗がりが不安なので眠る時も蛍光灯を消すことができない。電気を止められては生活などできようはずがない。
 2人でタバコを吸いながらつらつら考えたが、状況を打開するような名案が浮かぶわけでもなく、そのうち電力会社から再度通告がきた。
 「滞納分を即刻返済すること。もしくは、滞納額に応じて象を捕獲すること」
 象達が逃げ出したという。全国の動物園から。彼らは町に現れ暴虐の限りを尽くして南進中だという。小学生達を頭から踏み潰し、誰彼となくその長い鼻で絡めとっては力任せに締め上げる。慢性的な交通渋滞と報道管制によって、北の町は完全に機能を停止している。
 まあ、私達は知る由もなかったが世の中にはそういったことが起こりつつあるらしかった。激動の時代である。
 考えるまでもなく私達はさっそく遠征に出発。薄汚いトラックの荷台に他の料金滞納者連中と一緒に乗り込み、各地を転々とする。
「宿舎に戻れば冷えたビールが待ってるさ」
「冷蔵庫が動いてりゃあね」
 誰かの煙草をみんなでまわしのみしながら鼻歌交じりの長い長い旅だ。
 凶暴かつ狡猾な象たちとの戦いに、やがて私達は疲弊し何度か生死の境を彷徨ったりする。悲しい別れがあり地元の娘との淡いロマンスがあり殴り合いの喧嘩があり、料金滞納者達は新たな友情の絆で結び付けられる。
 ある夜、私は遠征先の地方のクラブでこの世のものとは思えない美女と遭遇する。ありったけの金をはたいて彼女に酒をおごりホテルに連れ出す。
 並んで寝そべりながら、これまでしとめてきた象の話を彼女に聞かせる。彼女は眠そうな目をしてそれを聞いている。
「象が逃げ出したなんて、聞いたことないわ」と、彼女。
 やがて彼女は鼻提灯とともに居眠りを始め、私は彼女に毛布をかけてあげる。彼女がうっすらと目を開けて言う。
「電気は消さないでね」
 クラブに戻ると、下世話な想像力ではちきれんばかりの仲間達。しかし、私の話を聞いて誰もが同情の言葉を口にし、私の肩をたたき宿舎へと帰ってゆく。
「あと、32頭さ」ルームメイトが呟く。
 あと32頭、私も同じ言葉を繰り返す。
 一人冷たいベッドに身を横たえ、静かに涙を流しながら、私のペニスは恥ずかしいほどに勃起している。


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Entry13

「運命の輪」

  何もかもが平凡で少しばかり占術の心得がある妊婦が、部屋の中で考えていた。ずっと昔のこと、つらい今のこと、不安な未来のこと…。考えれば考えるほど、気分は深く沈んでいった。
 妊娠したことがわかってからというもの、トラブル続きで、週に2〜3回のペースで産婦人科に通っている。1番安静にしなければならない時期、相談する相手も無く事態が改善されることを祈りながら待っていた。せっかく芽生えた命の灯火を消してはならない。そういったプレッシャーに疲れを感じているように見えた。当然の事ながら、胎児は24時間妊婦の腹の中にいる。妊婦が眠るとき、起きるとき、腹痛を訴えるとき、胎児は何も言えない。妊婦は胎児の鼓動すら聞くことができないのだ。それがどんなに不安なことか、男には一生理解できないだろう。産婦人科の待合室で大きくなった腹に手を当てて胎動を感じている姿が、この世で1番幸せそうに見えた。羨ましくもあった。
 いつのまにか、気が狂いそうになっていることに気付いた妊婦は、愛用のタロットカードを取り出した。タロットカードの最終結果をはずしたことはない。途中、さまざまなことが妊婦の頭をよぎった。自分の運命を見ることへの罪悪感、もし、良くない最終結果が出たときそれを受け止めることができるか…。
 それから、妊婦は考えていることの多くを語ろうとはしなかった。それは、自分の占った結果を受け止めたように見えた。その後もトラブル続きで子宮頚管無力症、切迫早産、妊娠中毒症にかかり、妊娠安定期の2ヶ月を病院で過ごし、妊娠後期を自分の実家で過ごした。実家に身を寄せた妊婦は、今まで動けなかった分を取り返すかのように、可能な範囲内で活発に体を動かした。自分の中で母親としての理想像を考え始めた。そして、はじめてその妊婦が幸せそうだと感じた。臨月を迎えたころ、再び入院した妊婦は帝王切開という初めての手術の不安よりも自分の子供が生まれてくる喜びに満ち溢れていた。そして、手術室で痺れかけた自分の指を力強く握る小さな手から表現しがたい生命力の偉大さ感じた。その後、何事も無く退院し、慌しく今世紀最初の大晦日を迎えようとしているのは言うまでもない。
 そう、あの妊婦が半年前に占った最終結果は幸福を意味する「運命の輪」だったのだ。


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Entry14

クリスマス・イブ

 アパートに帰る道の途中にはケンタッキーフライドチキンがあって、去年の今頃はドライブスルーの順番待ちの車で大渋滞だった。
だから遠回りをして帰ろう。
もしかしたら去年の今頃のように、渋滞の車の列の中に、所在なさげにタバコをふかしている順番待ちのあなたなんか見つけてしまうかもしれなかったから。
 
「家内がローストチキンを嫌いなんだ」
だからうちのクリスマスはいつもフライドチキンだなんて、あたしと二人でご飯食べてるときにしゃあしゃあと言えてしまう、そんなあなたがあたしには信じられなかった。
「ふうん、そうなんだ?でもときどきローストチキン食べたくならない?」
そんなこといいながらそしらぬ顔でワインのお代わりなんかボーイさんに頼めてしまうようになった、そんなあたしも信じられないけれど。
「その理由がおかしいんだよ、家内は」
・・・まだ続くの?その話。あたしはお皿に残ったソースをパンのかけらで拭いて、口に運んだ。
「丸ごとのローストチキンがどうしても」
 そんな話なんか聞きたくないって、あからさまに顔に出せる頃が、きっとあたしにもあったはずなのに、なんて考えながらあたしはお代わりしたワインに口をつける。・・・このワインは甘過ぎたかもしれない。
「赤ん坊が丸まってるように見えて仕方がないって言うんだ」

 黙り込んでしまったあたしのことなんかお構いなしに、あなたはまだその話を続けるつもりなのだろうか?
「なんていうか、変だろ?トラウマでもあるんじゃないかな?」
「そういう神経質なところがさあ、時々ついていけないんだよな。」
・・・それは奥さんへの悪口?
もしかしたらそんな遠まわしに奥さんの悪口をあたしに聞かせて、それであたしに気を使ってるつもり?

あはは。

 いい勘してるのね、あなたの奥さん。
あたしは目の前で食後のコーヒーを飲みながらタバコをすうあなたにではなく、一度だけ会ったことのあるあなたの奥さんに向かって、心の中で話しかけた。
 
 奥さん。
あなたの嫌いなその赤ん坊は、きっと今年の春先に冷たい内診台の上で足を広げている間にどこか遠くへ連れ去られてしまった、あなたのだんな様とあたしの間にできた赤ん坊なのよ。
でもそれはあなたのだんな様も知らないことなの。

 遠回りをするついでに本屋さんに寄ろう。
来年の運勢はどうなのだろう?新しい恋が見つかるかもなんてそんなこと、今さら信じるつもりには、とてもなれないのだろうけれど 。


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Entry15

怪盗 紅のタコ

『パパ、僕ここだよ』
「良夫か。どこから電話しているんだ。大丈夫か」
『大丈夫だよ。あ、だめだ。見つかっちゃったよ』
『そこまでだ。逃げようとしてもだめだぞ。今度勝手なことをしたら、縄で縛ってくすぐっちゃうぞ』
「良夫、良夫!」
『権田原さん。今聞いた通り息子さんは無事だ。返してほしければすぐに1000万円用意することだな』
「おまえは誰だ。金はすぐ準備する。早く息子を返してくれ。」

 番田院探偵は、捜査官にそこでテープを止めるよう、指で合図した。
「今のところをもう一度、ゆっくりと聞いてごらん。ボリュームを少し大きくするんだ。いいかい、犯人の声にかぶって、後ろの方から良夫君の声が聞こえている。よく聞いて」
「確かに子供の声が聞こえます」
「何ていっている?」
「タコおじさん…。大タコおじさんと…」
「そうか、やはり、誘拐犯人は怪盗『紅のタコ』だったんだな」
 横から、金台地警部が言葉を挟んだ。
「紅のタコ」とは、最近世間を騒がしている大怪盗の名前だった。垂直のビルの壁面をタコのような吸引力で吸いつくという忍びの業をもった怪人のことである。
「こいつはやっかいなことになったな。相手があの和製ルパンといわれる『紅のタコ』だとは。番田院くん、君は『紅のタコ』とは因縁浅からぬ仲だそうだが…」
「金台地さん。まだ犯人が奴だと結論を出すのは早すぎますよ。事件の経緯を見ているとあまりにも稚拙すぎる」
 番田院は、金台地警部を振り返ってそういったが、このそそっかしい警部は、素人探偵の出る幕ではないというように、露骨に顔をしかめた。もちろん、番田院は気づかない振りをしている。
 と、その時、部屋に入ってきた者がある。被害者権田原氏の秘書であった。
「秘書の太田です。お呼びになりましたか」
「ああ、君が太田君か。良夫君がさらわれた時の話をもっと詳しく知りたいと思ってね」
 その時である。番田院が金台地警部の背中を人差し指で突ついた。
「なんだ」
「金台地さん、ちょっと…」
 番田院は、金台地を部屋の隅に引っ張っていくと、誰にも聞こえないようなひそひそ声でいった。
「あの秘書ですが、太田さんとか言いましたね。どうも怪しいですな」
「ど、どこがだ」
「今この調書に目を通したんですが、彼の名前、浩次っていうんですよね」
「そうだが…」
 番田院は、大きくため息を吐きながらいった。
 
「大タコおじさんは、太田浩次さんに似ていますよね」
 そのまんまじゃん。


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Entry17

きりんの寓話

彼女がこうなってしまったからには、ゾウについて話すよりもキリンの歴史的変遷について話したほうがいい。そういうことは経験的にわかるのだ。
出て行こうとする彼女の肩に手をかけ、抑えた声で「ゾウじゃだめなんだ」と言ってみる。彼女は少しうつむいてテーブルの上のキリンビールの空缶をみつめていた。
キリンの歴史的変遷?
歴史を語るのはやさしいことではない。それは生まれて初めて買ったレコード、それからその上に積まれた数百枚のレコードについて順に考えていくことに似ている。とてもできそうもない、というわけではないがとても骨が折れる、そういう作業。歌詞を間違える。音程もはずす。でもそんなことは言っていられない。彼女が出ていく前に話をしなければ。
僕は口を開く。「キリンはアフリカで最初の動物なんだよ」
彼女「ゾウの時もそう言ったわ」
僕「違うよ、キリンはアフリカそのものなんだ。紙の裏表みたいに。アフリカがあった時そこにキリンがいたんだ」
彼女「それで?」
縮んだ想像力を内側から少し広げてみる。息がつけるくらいのスペース。六畳間の想像力。アルジェリア、太陽、コントラスト。

キリン「じゃあ行ってくるよ」
きりん「気をつけて…、あら?あなた少し首が伸びたんじゃない?」
キリン「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。僕がそうでないと思うのと同じくらい確かに、君がそう思うならね」

「ばかみたい」と彼女は言った。やっぱりまだ怒っていた。

きりん「ばかなこと言ってないで早く行きなさい。遅れるわよ」
そして次の朝、同じ場所で同じ時刻に同じ会話がかわされた。それは次の日になっても変わらず、(キリンいわく)古典的決定論を思わせる正確さで、それは来る日も来る日も繰り返された。キリンの生活は単調なのだ。しかしその日はやってきた。
きりん「あなた単長よ」
キリン「でも仕方ないだろ。これが我々の生活なんだ。キルケゴール的超越なんて、もう流行らないんだよ」長い年月はキリンをいくらか中産階級的にしていた。
きりん「ちがうの。首のことよ。長くなってる」
キリン「えっ?本当だ、11センチも伸びてる」
きりん「長いわよね。それ」
キリン「11センチだ」
彼は下を見ながら言う。
キリン「だけどキスの最適距離は11センチだってね、チュッ」
おまけに愛も育まれていたようだ。

最適距離だってさ、ちゅっ。
彼女が何か言った。でももう怒っていなかった。
日常はいろんなものを育てるのだ。


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Entry17

後天性ベルーゾー血栓による肝細胞機能不全がもたらした老廃物中性腫瘍

「――?」
 戸塚菜摘は洗面台の鏡を見直した。
 額の真ん中に、小指の先ほどのできものができていた。
「甘いもの食べ過ぎましたか、私?」
 菜摘はできものに触れた。
 皮膚がつっぱっている。
「このまま学校に行くのは恥ずかしいですね」
 引き出しから絆創膏を取って、額にあてがってみる。
「……昭和の漫画のやんちゃ坊主キャラみたいです」
 菜摘は絆創膏を戻し、腕時計にちらりと目を向ける。
「考えてる暇はなさそうです」
 菜摘は額のできものに両手を添えた。
「い、痛あぁぁぁ……」
 ぶにゅっ。
 強い痛みと共に、溜まっていた膿が噴き出し、鏡にまで飛び散った。
「にゅぅ」
 額をティッシュで拭うと、できものは影も形もなくなっていた。

 半年後の朝。
「ええっ!」
 菜摘は鏡の前で声を上げる。
 彼女の額には、また同じ形のできものがあった。
「これで三回目です……」
 ぶにゅっ。
 痛みを堪えて膿を絞り出した後、顔を洗う。
「痕は全く出来ませんけど」
 タオルで顔を拭く。
「何かよろしくない病気なのでしょうか?」
 溜息をついた。

「後天性ベルーゾー血栓による肝細胞機能不全がもたらした老廃物中性腫瘍の様ですね」
 白髪頭の医者はカルテを見ながら言う。
「は?」
「だから、後天――」
「いや、それは聞こえました」
「じゃあ何?」
「一体どういう病気なのでしょう?」
 菜摘は心配そうに尋ねる。
「言ったままですけどね」
 医者はカルテから顔を上げた。
「肝臓は毒物を分解するのが仕事なんですよ。知ってますね?」
「はあ」
「でも、あなたの場合、肝臓の機能が貧血気味で動きが悪く、毒物が解毒されずに体内に残ってしまうわけです」
「ええっ!」
 思わず菜摘は声を上げる。
「そ、それじゃ、私の身体は毒でいっぱい?」
「そんなとこです」
「わ、わ、それって!」
「それが良くしたもので、一定濃度に達した段階で一気に集まって腫瘍になるんです」
「腫瘍ですか?」
「それができものの正体、言ってみりゃ、毒の塊ですね」
 医師は自分の額に軽く触れる。
「肝臓の機能は、血管の拡張手術で回復します。簡単な手術ですし、二日も入院すれば退院できますよ」
「手術……やっぱりこのままだと死んじゃったりするんですか?」
「ええ。腫瘍を放置しておくと、体内に吸収されて行きますからね」
「放置しておくと?」

 朝。
 菜摘は鼻歌混じりに鏡に向かう。
「あら」
 できもののない額をなでた。
「まだですかねぇ」
 とても待ち遠しそうに。


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Entry18

桜待ち

 三月十五日。僕たち2人は川縁の桟橋に腰掛け、桜を待つ青空を鏡のように鮮やかに映し出す水面に、釣り糸を垂れた。
 よく、釣りをする人間のことを太公望とか言うが、それは司馬遷が記した中国史書の一節を間違って引用した表現だ。一説によると、太公がその時、持って川に挑んでいった物は竿と糸だけで、針をつけていなかったという。魚を釣るからには、魚の痛みを知れと言う、有り難い教えなのだ。僕に言わせれば、釣りをスポーツとして楽しむ奴なんかエセ太公だ。

 今日も救助の人間達は来ない。
 隣で同じく竿を下ろしている高橋は、真っ白い服を着ていた。真っ白いショートパンツにショートスリーブ。清潔さにはさしてこだわらなかったが、生活習慣の割と整った奴で、僕たち修学旅行のメンバーがこの島にたどり着いてからも、洗濯や物資の整理だけは毎日欠かさなかった。
 その為、少し黒ずんだり解れたりしている部分をひっくるめても、結構白く見えた。
 高橋はまるで近所の釣堀に自転車でやってきたかのような、余裕ぶった笑顔をして釣りをしていた。
 「何でそんなに笑っていられるんだよ。お前以外は、みんな必死なんだぞ。」
 魚釣りとは、そこに人間達の生と魚の死を賭けた、水辺の狩りなのだ。今回、この漂流を通じて得た認識であった。
 「釣れないねぇ。」
 と、微笑んだ高橋は、和歌を嗜んでいた。どんな時にも落ち着き払い、この遭難という事態に陥ってもなお、島の自然から風流を学び取ろうとするその徹底した姿勢には、驚きあきれるばかりであった。
 こいつには悩みなんて物は、多分無いんだろう。僕は、相手に専ら真剣になることを求めるのを諦めて、言った。


釣り糸の浸けたる先は未だ冬引いて弥生の花よ煌めけ
 (川面に漬けている釣り糸の先(餌の周り)は、未だに冬を引きずっている様なさびしい風景だ。弥生の桜よ、(三月の魚達よ、糸の先を引っ張って)水面で煌めきなさい。)


 と。何か釣れるよう、願をかけるつもりで詠んだのだが、なぜか高橋が笑った。
 「何。」
 高橋は、歌で答えた。


桜待ち川面に映る君とわれ悴む吾子を君ぞ包める
 (桜が咲くのを待ち、川面に映っている貴方と私。悴んでいる私の子ども(私の快活な心)を包み込んでくれているのは、他でもない、貴方自身なのよ。)


 と。高橋は、ぴったり寄り添って僕の右肩にもたれ掛かった。…どうしよう。豊橋(クラスの男子)には、なんて詠もう。


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Entry19

バスのことで

バスは乗客で満杯だった。
3人ほど立っている。
最後尾に嫌な集団が陣取っていたので、前の方に行く。
すると、なぜか席がひとつ空いていた。
出口のすぐ後ろ、運転席の横だ。
運がいい。
ミカを座らせた。
僕はその横に立つ。
バスが動き出した。
街路樹の枝が窓をこする。
天気もいいので、気分もいい。

「ちょっと、あれ…」
ミカが小声で、僕の背後の運転席を指さす。
振り返る。
運転手がハンドルを握っている。それだけ。
「なに?」
「よく見てよ、ほら」
僕は体の向きを変えた。
よく見る。
ああ、ほんとだ。
運転手は、両手をハンドルに固定されたただの人形だった。
遠目には人間がハンドル操作をしているように見える。
が、実は、ハンドルの方が勝手に動いている。
にも関わらず、バスはちゃんと走行している。
カーブも曲がるし、赤信号も止まる。
「遠隔操作?」
「なによ、それ?」
他の乗客は気付いていないらしい。
いつの間に公道での自動運転が認可されたのだろう?
自動操縦の運転席。
僕は、さりげなく運転席の側に体を移動させた。

運転席に特別な装置は見当たらなかった。
ただ、カエルがいた。
それも一匹だけ。
人形の首から吊されたジャムの空き瓶の中に、アマガエル。
ツヤツヤした緑色で、薄く張った水に体半分だけ浸っている。
カエルにしては真剣な顔つき。
正面を向いて、しゃがんでいる。
と、突然体を起こし、四本の脚でバタバタと狭い瓶の中で体の向きを変えた。
左。
するとバスが左に曲がった。
つまり…。
「このカエルが運転してるの?」
いつの間にか横に来ていたミカが小声で訊く。
僕に訊かれても困る。
困るが、そうだろうと思える。
「だって、ほら」
ミカはそう言って、醤油差しを見せた。
てっぺんに黒の油性ペンで何か書いてある。
〈運転手用浴び水〉
「どこにあったの?」
「そこ…」
僕は、醤油差しの中身を瓶の中のカエルに数滴垂らした。
カエルはちょっと驚いてから、ケロケロと素早く二回鳴いた。
と同時にバスのクラクションがけたたましく二度鳴った。
もはや、疑う余地はない。
「爬虫類なのにすごいわね」
「両生類だよ」
僕はもう一滴だけ、カエルに水を垂らした。
今度は尻をモゾモゾ動かしただけだった。
気持ちいいのか、嫌がっているのか、よく分からない。
僕とミカは自分の席の方に戻った。

まもなくバスは市街を出た。
ちょっと運転席を覗いてみた。
カエルは瓶の中でドタバタと忙しく動き回っていた。
バスは今、くねくね道を走っていた。
なるほど。


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Entry20

where or when ?

酷く冷える黒の絨毯は、四方八方に地平線の彼方へと広がり、陸や船の気配を見せない。

心臓の位置まで絨毯に飲み込まれた少年は、藁にも縋る想いで、今までの人生で最も尋常でない恐怖と共に彼方此方を見渡し、喉を嗄らす。
「助けて!ねぇ、誰か助けてよぉ!」
陸は愚か、掴む頼みの粉砕した船の欠片も見つからない。
数分前、ダイニングで一緒に夕食を摂っていた仲間達の、救いの手を請う理性を喪失した悲壮な叫び声も、絨毯に飲み込まれてしまったようで無くなっていた。
静寂した暗闇の中、独り極度の寒さに歯をガチガチと鳴らせ、躯中を小刻みに震わせていた少年だったが、自らを浮かせていた手足がいよいよ凍り始め、力尽きようとしていた。

少年は漆黒の天空を仰いで絶望を悟った。
「あぁ母さん、ぼく……まだ生きたいよぉ」
いつの間にか震えは消えて、少年はただただ絨毯にまだ未発達な躯を任せていた。
真っ赤になった丸い頬に涙を流していたがそれも終わり、徐々に睡魔と闘うようになった。
小高い鼻の先以外はもう、絨毯に飲まれてしまっている。

白い瞼が時折、ゆっくりと開閉を繰り返し、儚さを宿した幼い瞳が見え隠れする頃だ。
突然、少年は最期の力を振り絞り、小さな腕と脚を羽ばたかせ、頭から膝の位置までを絨毯から外界に放り出した。

「神さまはざんこくだ!ぼくは、わるいことなんてしたおぼえがないのに!」

一瞬だった。
それから少年は天使の輪が如く、綺麗な弧を描いた水飛沫を立て、絨毯の底へと飲み込まれると二度と上がって来なかった。


その頃、近隣の海岸では貧しさを漂わした衣服を着る一人の女性と幼女が、仲良く手を繋ぎ一緒に大海原を眺めていた。
「おかあさん、おにいちゃんおそいねー本当にたくさんお金もってかえって来るのォ?」
「うーん……もしかして私の勘違いかもしれないわ」
「……え、そっかぁたのしみだったのに、ふぅん……じゃあ今日のよるゴハンないね」
「そうね、御免ね。でも明日は母さん何とかするか……」
「またヘンな知らない男の人つれて来るの?あたし、またソーコにかくれてないとダメなのッ」
「じゃないと神さまに食べられちゃうの!分かって頂戴」
「うー!分かってるよぉたべられたくないもんこわいー!」
幼女は繋いでいた手を離し、無邪気な笑顔を闇に晒してから砂を蹴り走り出し、母親より先に家路へと向かった。

母親は幼女の無垢な後姿を見送ると、一気に大粒の涙を溢れさせ、暫くうずくまっていた。


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Entry21

むじなアンダーグラウンド

 私は少々酔いすぎていたのだろう。
 気づくと、地下鉄の駅へと階段を下っていた。知らない駅だった。盛り上がり続ける二次会を、
「そろそろ〜マジ帰れませんから」
と抜け出たのは曖昧に憶えていた。それが、暗く狭い階段を下っている。どうにかなるだろと下っていた。たん、たんと足音が湿った壁に響く。その中に、不意に奇妙な声が混じったのである。
「ひぃ……」
 私は足を止めた。
「……ひっ……ひぃ」
 階段の底から、絞るような声が響いてくる。私はゆっくり下って行った。
 踊り場の陰に誰かいる。女だった。女がひとり、壁に向かってしゃがみ込んでいた。泣いている。柳のような腰つきだった。
「あぁ、大丈夫ですか?」
 彼女は顔を上げない。
「こんな所じゃ体に悪いすよ」
 意味不明な言葉をかけながら、私は彼女の顔を窺った。暗い上、長い髪でよく見えない。ただ、開いた胸元だけが白かった。
 蛍光灯が点滅する。
「電車なくなるし。さあ、もう立った方が」彼女の肩に手を置いた。
 ふっと泣き声が止む。
 女はゆらりと立った。髪が顔に被さっている。顔を上げながら、その髪をゆっくり払って見せた。
「えっ」
 女の顔には、目も鼻も、口も無かった。
 ゆで卵のように。

 すとん、と腰が抜けた。後ずさりながら私は声を漏らしていた。
「むじな……?」
 あれは幼い頃読んだ怪談話だろう? なぜ? 本物?
 心臓がどんどどんっと高鳴る。懐かしい感触をもって。
 こんなところで、また会おうとは!
 恐ろしくも胸躍る闇への渇望が、私の中に還っていた!
 私は跳ね上がり、階段を駆け下りる。居た。古びた券売機の前に駅員が居た。深く帽子をかぶり、やる気無げに掃除していた。
「駅員さん!」
 駅員はこちらを見ず答えた。「は?」
「見た、見たんだよ」
「はぁ」
 本当にやる気無いのだろうか。
「女だ、女を見たんだ、それがこう、髪を払ったらそれが、それが……ああ、もう言えない!」
「オッケー」
 駅員はニヤと笑った。帽子で顔を隠してこちらを向く。
「あんたが見たって女は」
「女は!」
 再び胸がどん、と鳴る。
「こんな顔かぇ」
 駅員は帽子をゆっくり外して見せた。
 彼の顔には、目も鼻も、口も無かった。
「ブラボォ」
 私はその場に崩れた。
 同時に灯りがすべて消えた。

――君、筋が良いね。
 闇の奥から声が響く。
――スタッフにならんか。現代人の心のバランスの為。
(なるほど)
 と思ったら全身に毛がざわざわ伸びてきた。


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Entry22

浮かぶ

 彼女がせがむから、僕はホームセンターに行ってロープを買ってきた。部屋に戻ったときには、彼女はすでにちょっとだけ浮いていた。
「ロープ、腰に巻きつけてくれないかな」
 きつめに縛るとうめき声を上げたので、ちょっと緩めた。
「反対側は」
「そうね、タンスの取っ手にでも」
 そうしてからあらためて彼女を見た。紺のジーンズからのぞく水色のくつ下は床から離れ、所在なげに揺れている。水中にでもいるかのように浮かんでいる彼女を見ていると、床に足を着けている自分のほうが落ち着かなくなってきた。
「隔世遺伝なの」
 お母さんは浮かなかったんだけど、おばあちゃんは私が小さいときにね、と話す彼女の言葉は、現に浮いている彼女の口から聞くと信じないわけにはいかなくて、僕はうんうんと頷いた。
 食欲ないから、という彼女の言葉を聞かなかったわけではないけれど、僕は慣れぬ手つきでふたり分の夕食を作った。
「食べたほうがいいと思うよ、きっと」
 ごめんなさい、と彼女は首を振り、口もとまでチキンライスを持っていってもやっぱり首を振り、僕はやむなくふたり分を平らげた。こんなに食べたら僕はますます浮けなくなるじゃないか、と思うとちょっと寂しくなった。
 彼女はシャワーも浴びなかったし、トイレにも行かなかった。寝るときには寝袋にくるまって、僕は上で漂っている彼女がいつ落ちてくるのかと気が気じゃなくて、なかなか寝付けなかった。

 物音がして目を覚ますと、床には寝袋が転がっていて、彼女は眉間にしわを寄せて天井に張り付いていた。
「窓開けて、外に出してくれないかな」
 眠い目をこすりながら言われるままにそうすると、彼女はふわふわと何メートルか上昇して、ようやく表情を緩めた。
 少しずつ、少しずつ浮いていく彼女を、僕はじっと見上げていた。そのうちに、20メートルのロープはピンと伸びきった。
「もっと長いやつ、買ってこようか」
 空に向かって声を上げると、いい、という声が降ってきた。そうして彼女は自分でロープをたぐり、ゆっくり下に降りてきた。僕もロープを引っ張って、数時間ぶりに彼女と顔を合わせた。ありがとう、と言って彼女は僕の頭を両手で包み、唇を重ねてきた。それから、ごめんね、と微笑み、腰のロープをほどいた。
 浮き上がり、小さくなっていく彼女を見上げる僕の頬に、一滴のしずくが降ってきた。僕はそれをぬぐい、彼女の名を大声で叫んだけど、返事はなかった。


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Entry23

愛と正義

 冬の朝、自宅から駅に向かう路上で、私は愛と正義に出会った。四十代も半ばを過ぎての再会は、懐かしさよりも恥ずかしさが際立った。
 青春の日々、時に愛は炎の如くこの身を焦がし、私はそれを持て余し、狂ったように転げ回った。この愛に全てを賭けると思い詰め、眠れぬ夜は数知れず、正に命を燃やしたものだった。
 そして正義は、そんな私に力を与え、私は正義に振り回された。反体制の名のもとに学友と校舎に立て籠もり、社会の規範と戦った。
 出勤途中の身体に力が漲り、私は震えた。そうだ、私には、愛と正義がついているのだ。出社はいつもより十分ほど遅れた。
「課長、また珍しいものを持ってこられましたねえ。これって義理と人情ですか」職場に着くと、課員の田中君が私の連れを眺めて言った。
「義理と人情じゃないわよ。課長の世代は愛と正義。そうでしょう」課員の佐藤女史が訂正してくれた。そういえば、彼女も先月から情熱と自由を肩に乗せて出社している。
 課内朝礼の後、私は背後に控えた愛と正義の気配を感じつつ、日常業務を遂行した。周囲から浴びせられる好奇の視線に、照れくさい思いと多少の誇らしさを味わっていた。
「加東山君いったい何のつもりかね」噂を聞きつけて私を自室に呼び出した部長の第一声は、呆れ果てた響きを含んでいた。「今さら、使い古した愛だの正義だのを持ち出して、世直しでも始めようというのかね」
 私は今朝の愛と正義との再会のいきさつを話し、他意がないことを説明した。
「話はわかった。しかし、そういうものをこれ見よがしに臨席させるのはどうしたものか。わかっているとは思うが、会社もたいへんな時期なんだ。合理化に向けてリストラを遂行しなければならん。君にその意志が無いとしても周囲が変に気を回して、社内の結束に水を差したりしたら困るんだよ。なにより、社員ひとりひとりの志気を鈍らせることになりかねない。わかるね」つまり、みっともないから仕舞っとけと言われた。それは部長の忠義と従属の表れだろうか。それともただの事無かれ主義のなせる業か。
 自席に戻り、私は困った。どうやって愛と正義を仕舞えば良いのかわからなかった。元々仕舞い込んであったものを取り出したわけではない。なぜ表れたのかも、何にどうやって使うのかも、もうとうに忘れてしまった。
 そんな私に愛想を尽かしたのか、昼休みのチャイムの前には愛と正義は姿を消した。昼食は蕎麦を食した。


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Entry24

さよならの定期券

 年が開けて一週間もしないうちに故郷に帰ってきた。この正月は帰ってくる予定はなかったが妻と子供をおいて帰ってきた。一人暮らしをしていた母親の葬式のためだ。それほど親しくない本家の他にはもうこの小さな町には親族はいない。帰ってくるのもこれで最後だろう。本家の人間が少しだけ来てすぐ帰っていった静かな葬式。最後まで世話を焼いてくれたのは今もこのバス停まで見送りに来てくれている三つ年下の従妹の静恵ちゃんだけだった。有り難いことだったが一日数本しかない遅れがちなバスを待つ吹きっさらしのバス停で二人立っているのはなんとなく気まずく、早くバスが来ないかと祈ってしまう。

 昔の思い出話も尽きてきた。それでもこの寒い道端で落ち葉の音だけを聞いているのは辛い。抜け出せなくて会話の糸を辿る。
「旦那さん元気かい?」
「うん、まあ」
「子供は?」
「まだ。もうないと思うけど。そっちは?奥さんと男の子いたよね?」
 糸を手繰れば行きたくないところにも行き着いてしまう。伴侶の親の葬式にも来ないのは、もちろん田舎の寂しい葬式だからというだけの理由ではない。
「まあね。元気だと思うよ」
 小さな言葉の端々は、言いたくないことから糸を遠ざけていく。
「あのさあ、どうして町を出ていったの?」
 そうあれは十八のとき。どこかへ行かなければ居場所がないようで町を飛び出た。
「知ってるよね。好きだったんだよ」
 知っていた。僕も好きだった。だからといって父のいない忌み嫌われた分家の僕にどうすれば良かったというのだろう。
「そうだね」
 それしか言えない。他の言葉を言えば町を出てからの全てが間違いだったと認めるようで。
「せめてどこに住んでるのか教えて欲しかったな」
 それを教えていれば何か変わっていただろうか?分からない。言葉が出てくる前にエンジン音がしてバスが近付いてきた。
「行くよ」
 僕は停まったバスのタラップに足を掛け、そして振り返った。そして静恵ちゃんに残り一週間になった駅名だけしか書かれていない定期券を手渡した。静恵ちゃんは何も言わず風に吹かれる長い髪を押さえながらそれを受け取った。いまでも住所や電話番号は教えるわけにはいかない。それでも僕はそこで生きている。そして静恵ちゃんはここで。

 バスの後ろの窓の向こうにもう訪れることのないこの場所で、この場所を出ることがないであろう静恵ちゃんが小さく手を振っているのをいつまでも見ていた。


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Entry25

MOON

 小さな粉雪が舞っている。
群青色の夜空から月の輝きを浴びながらほのかな光を含んで降り続ける。
 あたしは見上げた顔を来た路に向ける。遠くの静かな街の明かりが闇の中に姿を表してあたしの瞳に焼き付いた。もう戻る事など無いあの街、忘れなければと心の中で唇を噛み締めた。

「みゆきちゃん大丈夫?ほらお客さんのグラスをとって」
ママの細い指が目の前に広げられ綺麗な指先がグラスを示している。
「もうごめんなさいね。新米だから慣れてなくって」
ママにグラスを渡すと水割りを作りながら小太りの客に話し掛ける。
 あたしはあの子の事を考えていた。捨てたのは誰でも無い、あたし自身。

「ねえ、あたしもお酒頂いてもいいかしら」
妙に艶っぽい声に自分でも驚きながら、知らない男に甘えてみせる。それが今のあたし。全てを捨ててきた。昔のあたしを葬り去る為。
「まだ若いんだね〜肌が艶々してる」
小太りの男はあたしの膝から太股を触りながら垂れた目で胸元を見つめ、臭い息があたしの耳元で黄土色に変化していく様に感じた。
だめよと、そう微笑みながらあたしはあの白昼を思いだした。
 義父の荒々しい息遣いとか細い腕があたしの腰を抱え上げ狂気の様に激しく突き上げる。あたしは唇を噛みしめ喘ぎ出す自分を殺した。あたしとあの子を捨てて出て行った貴方を恨みながら。でもあたしも同じ。あの子を捨てて来たわ。貴方の子供を自分の為にだけ……貴方と同じ。

 街にはジングルベルが静かに響き渡り今にも落ちてきそうなお月様があの子を優しく包んでいた。あの子は教会の軒下であたしに最後の微笑みを浮かべ、あたしの未来を優しく見守ってくれる様にあたしを見つめてくれた。

「あれ?泣いてるのか」
小太りの男はあたしの涙に気付き優しく指で拭いながら急に人懐っこい顔をして
「自分に嘘をつくから涙が出るんだよ。お酒の涙はそんなもんさ」
そう言って席を立つと
「ママ、いつもの悪い癖が出たんだね。俺が送るよ……いいかい?」
ママはゆっくり頷くとあたしを見つめて微笑んだ。
「みゆきちゃん、やっぱりここでは雇ってあげられないわ。自分の居場所があるでしょ、そこへ戻るのが一番いいのよ」

 車はあの道を走る。
今夜も月が奇麗に輝いて、教会で別れたあの子を胸に抱締めていた事を思いだしす。
「いまさら……」
小太りの男は振り向くと、そんなことないよと微笑んだ。
 月が涙に滲んでたくさんの光りがあたしの瞳の中に広がっていった。


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Entry26

水族館

 回遊式の巨大水槽の前の母の背中はとても小さく見えた。通子はいくらか沈んだ気持になって母の横に並んだ。
「すごいでしょ」
「うんでも」と、母はマグロの群れを見上げながら平坦な調子で言った。「きれいじゃないね」
「まあね」、母には色鮮やかな熱帯魚の水槽の方がきっと面白いのだな、と通子は思った。
「あんたがまだ幼稚園だった頃、油壺に行ったね」
「お父さんと、三人で行ったんだっけ」
「そう」と、母は頷いて水槽から離れた。
 父は五年ぶりの同窓会とやらでどこか東北の方に二泊ほどの予定で出かけていた。じゃあその間に遊びに来れば、と通子が珍しく母を誘ったのだった。母には何故か同窓会というものがなかった。女学校には行っていたと聞いていたけれどその頃の話というものを母がしたことも何故かなかった。
 建物の外に出ると、ペンギンの柵があった。二人は並んで柵にもたれてペンギンを見た。柵は、母の背には少し高くて母は柵に載せた両腕で顎を支えるような形になった。平日のため辺りに人は少なかった。
「あんた昔、ペンギンみたいって言われたことあったわね」と、母が言った。
「うん、お腹が出てたからね」、腕輪をしたペンギンたちの集団を通子は面白く眺めた。通子はペンギンが好きだった。「頭もちっちゃくて丸かったし」
 母はそれきり黙ってしまった。
 通子をペンギンみたいと言ったのは、父と同じ会社に勤めていたおばさんだった。どういうわけかおばさんは通子のことをとても可愛がってくれた。休みの日に自分のアパートに連れてゆき、デパートで欲しいものを買ってくれたりした。おばさんの子供になってくれたらいいのになあ、とおばさんは通子ににこにこ笑いかけながら言った。どう答えたのか、通子は憶えていない。
「お昼、食べようか」と、母が言った。はっと通子は母の顔を見た。
 昼食は駅で済ませたんじゃなかったっけ、と通子は焦りながら思った。ほんの少し前に。でも母は真面目に通子にそう言ったのだった。
「ああ」と、しかし母はすぐに笑って言った。「やだ、さっき食べたねえ、天丼」
「そうよ」と、通子は安心して答えた。「二回お昼食べる習慣なのかと思ってびっくりしちゃった」
 出口近くのレストランのメニューを、それでも母は好奇心からか立ち止まって眺めた。そして通子が「この鉄火丼ていうのはあそこで泳いでたやつを出すのよ」と言ったのに、「じゃあおいしいのかしらね」と、真顔で答えた。


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Entry27

子守唄

 ああなるほどな、とあたしは思った。
 公園のベンチに腰掛けながらあたしは、ああなるほどな、と思った。
 太陽がさんさんと降り注いでいる。小鳥が小さく鳴いている。青い空に、まるでおもちゃみたいな雲が浮かんでいる。
 緑の芝生。白いベンチ。ブランコ。滑り台。
 この季節にしては暖かな日差しの12月の公園で、独りベンチに座りながらあたしは、ああなるほどな、と思った。
(やっと解かった気がする)
 あたしは公園を眺めた。
 ハトの群れ。冬なお緑の木々。
(やっと解かった気がする)
 視線の先の様々なもの。様々な命。様々な死。様々な繰り返し。様々な世界。世界。
 世界。
(それらはただそこに在り。それらはただそれだけで美しく。それらはただそれだけで永遠で。)
 ああなるほどな、とあたしは思った。
 世界。世界の意味。世界の美しさ。
(やっと解かった気がする)
 やっと。
(世界は美しく。どこまでも美しく)
 冬の日差しの中、暖かな光の中あたしは、ああなるほどな、と思い、なるほどだから、だから、だからだからだからアハハハハハハ!
(だから全部くだらないんだな)
 と解かりアハハハハハ、アハハハハ! 笑いが止まらなくなった。
(全部くだらない)
 アハハハハ、アハハハハハ!!
(全部糞食らえ)
 アハハハハ、アハハハハ! ああおかしいアハハハハハハ!
 あたしは笑いながらバッグを探り、拳銃を取り出した。
 拳銃。
 駅前のガイジンが三万円で売っていた拳銃。自分への誕生日プレゼント。初めて心から欲しいと思った、小さな黒い十字架。
 拳銃。
 あたしは優しく、抱くように銃口を胸に押し当てた。
 それは黒く、冷たく、堅く、人工的で、だから優しくて。
 とても嘘っぱちで、だから優しくて。
 子守唄のように、優しくて。
「さよなら」
 呟いてみた。
「さよなら」
 さよなら美しい世界。さよなら暖かな世界。さよなら正しい世界。さよなら。
「さよなら」
 さよなら夏の海。さよなら冬に降る雪。さよなら思い出達。
「さよなら」
 さよならパパ。さよならママ。
「さよなら」
 せよなら愛すべき世界。さよならあたしを愛してくれた世界。そしてあたしがどうしても愛せなかった世界。どうしても許せなかった世界。
「さよなら」
 呟いてみた。
 何故か涙が溢れ出して頬を伝った。
 その涙の暖かさがイヤで、あたしは引き金をひいた。
「さよなら」
 子守唄のようなさよならと破裂音を、あたしは確かに聞いた。

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