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第32回1000字小説バトル Entry31

花盗人

その頃住んでいた家にはまるで釣り合わない大きな和風の庭が付いていて、未だ生きていた祖父は朝から晩まで花木の丹精をしていた。 隙間が目立つ生垣は枳殻、丹念に刈り込まれた植込みは躑躅、門の傍には唐松、そして隅には梅。 その薄紅の蕾が丸く膨らむのと同時に、白と黒で統一されていた景色が緩んで、淡い色が辺りに滲み出すのが常だった。
あれは在り来りな春の夕暮れで、所々に配された石の窪みや、苔むした木の罅割れに、薄暗がりが溜りはじめた頃合いだった。首筋を撫でる風は依然として冷たかったが、構わずに庭に面した縁側に足をだらしなく投げ出して座っていた。 頭を重力に逆らわずに仰け反らせていたので、眼には日毎に近く力強くなってくる空と其処に微かに残る日差しの名残が戦いているのが映っていた。 それが空気の震えとなっては手足の先をぶれさせ、乾いた粉末へと変化させていくようで、何だかとても億劫だった。
視界の外で微かな音がしたのはそのときだった。 おざなりに首だけを回すと、梅の前で誰かが爪先立っているのが見えた。 それ迄見たことのない艶やかな黒い髪が一筋を残した他は項で奇麗に二等分されて、両肩から前に流れていた。 背中にうねる一房は、墨を筆にたっぷりと含ませて線を引いたとしたら、あんな風になるのだろうか。 そればかりを暫く見ていたような気がする。 梅は丁度満開を過ぎた頃で、白く細い指先が梢を掠める度に、薄紅色の花片がひらひらと散った。 桜だけではなく、梅もまた春を惜しむ花なのだと思い、そしてやっと侵入者の意図に気が付いた。
下駄が飛び石に当たって、広がりはじめた夕闇を切り裂いたが、人影が振り返る様子はなかった。 脹脛は忙しなく上下したままで、近付くほどに微かな吐息が耳に届いた。 花片が落ちる中を溜息だけが上昇している。 彼女は頭一つ分背が低く、背後から簡単に目当ての枝に手を伸ばすことが出来た。 軽く指に力を込めた際の、ぱき、という音が耳に残った。
手渡した花を追って、驚きを見せないまま目線も下に向かった。 つられて肩に流れていた髪が前に落ち、それから、少し乾いて白っぽくなった唇の両端が微かに、けれども均等に持ち上がったのが見えた。 身を翻すと花盗人は来た時と同じく唐突に庭を去っていった。
ふと吸い込んだ空気は必要以上に甘く、梅の花は絶え間無く散り続けていた。 生垣から覗く道には、最早誰の姿も気配もなかった。

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