| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 夕凪 | 岡崎源作 | 907 |
| 2 | 「老人と梅」 | 御自慰 小津郎 | 802 |
| 3 | じゃあ今度の日曜日にね | 坂口与四郎 | 1000 |
| 4 | 僕らの儀式 | 党一朗 | 941 |
| 5 | ヒューマンポリティクス | フジワラカズオミ | 823 |
| 6 | マリア | 宙 | 999 |
| 7 | 確かなもの | たずら | 726 |
| 8 | ざる蕎麦とコロッケ | 岡野義高 | 819 |
| 9 | 便意の太陽 | 矢沢 一真 | 847 |
| 10 | 無知である恐怖 | 伊藤 彰貞 | 847 |
| 11 | 邪魔なのは | 一宮遼 | 926 |
| 12 | 狂ってるおばさんの999 | ポチョムキン | 980 |
| 13 | 父の年賀状 | セキネクマヲ | 727 |
| 14 | 佐久間式人嫌い矯正機械 | てこ | 1000 |
| 15 | 世界は暗がりで君を待つ | オカダレゴゑ | 932 |
| 16 | 君の中の僕は | 坂本 一平 | 741 |
| 17 | モルグコルムの涙 | 橋本 聡 | 923 |
| 18 | 温かい手 | 池田@ママ | 1000 |
| 19 | 母より | 秋月 | 997 |
| 20 | コンビニのことで | アナトー・シキソ | 1000 |
| 21 | ゆずり葉の家 | 上條 裕 | 1000 |
| 22 | Re:香り | さとう啓介 | 1000 |
| 23 | 春の棘 | koba | 958 |
| 24 | 古本屋にて | 羽那沖権八 | 1000 |
| 25 | 一寸 | 太郎丸 | 1000 |
| 26 | 緋色の桜 | カピバラ | 1000 |
| 27 | 自動改札 | 越冬こあら | 1000 |
| 28 | 私の正義 | 瀬野 美智緒 | 1000 |
| 29 | 太陽の季節 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
| 30 | 甘く切ない話 | 日野光里 | 857 |
| 31 | 花盗人 | 立田 未 | 1000 |
赤い光の帯が伸びてきて、辺りを彩っている。変形した草木の断片が夏の澱んだ夕凪と共に舞っていく刹那、刹那、視界は粒子の世界を垣間見させ、夕焼けに炙られた赤はその日の終りを告げながら、暗闇を拒んでいる。
鴉が獲物を求めてざわついた。電柱の間を、飛び交っている。腐敗した臭気は彼等の血肉になり、その前所有者である人間は沈み往く太陽の下、追い立てられるように家路にあった。鴉は褐色の点を散りばめては、その速度を速めるのに忙しく、一仕事終えぬ内に、また、目星の場所へ戻っていた。
公園は次第に黒く、夕餉を告げる声に、子供達は腹を空かせ、遊具の一つ一つに名残が揺れた。
やがて皆に訪れる歓楽など、ここにはもう、ありはしない。虚ろな影と臭う風とペンキの剥げたベンチに座る僕しかいないのだ。植え付けられた木々は血の気を失ったように押し黙り、靡いている。
太陽が、その緻密さと偉大さを凝縮する瞬間に、人々は寝る為の準備を始める。誰もが当然のように見過ごしていく日々の欠片は、人々の欠伸と同列に扱われ、僕もまた、その欠伸に締め括られるのだろう。
鳥達が群がってきてついばんだ。黒いビニール袋は裂け、中から欲望の使用済みが流れ出た。命の喚起と調和はくしくも、乱れて、再び、しのびよってきた。誰もが目も向けない道路の片隅に露見した残飯の汁は、ぬめぬめとアスファルトにしたたって、そこは色変わりしていく。
永遠に続く食物連鎖の道程、鳥達にとっては僕も、その食われている残飯と何ら違わないのだ、とビニール袋にまとわりついた。食べる為だ。
雲が夜の空をゆく。何も語らず過ぎてゆく。出たばかりの月は楕円から満月への途上にあり、途切れ途切れの奇麗な光を放つ。鳥達の貪る声も無くした公園に月の光はしじまを運んだ。
やがて僕も家に帰るだろう。そして、眠り起きて、繰り返す。苦渋と孤独に満ち、くたびれ汚れ、目に見えない何かに投げ出され捨てられた、ふりかえろうとも思わない記憶と追いかけてくる矛盾の毎日を。不可視の夢というものに、もはや永遠に見放された僕の存在は、タイムカードの出勤時間によこたえる。・・・それでは、束の間のしじまに涙でも流そうか。・・・
−−−春になりました。K公園の梅林は、花見客で盛況です。
いやあ、梅はやはり、いいですなぁ。
えっ、あぁ、すいません。つい、知らない人に話しかけてしまって。どうもこの年になると、無意識ってことが多くなりまして。はぁ、別にかまわないですと。爺めの戯言ばかり、よろしいんですか。あぁ申し訳ない。そうなんですよ、やっぱり年寄りにゃ梅が一番いいですねぇ。ええ、そりゃね、若い頃なんかは、桜のほうが好きでしたけどね−−−若さゆえ、桜の散り際に、んぁんて、爺はいつもこんな案配で。(聞き手、しばし応ぜず)けどね、みて下さい、よくこの梅の木を。どう思われになる。まぁ、地味ですよ。年寄りにゃ地味があう、確かにそれもそうですがね、もっとセツナイ事情があると思って下さいよ。
梅はね、昔はこんな、老いぼれみたようなカッコじゃなかったって言いますよ。ホントなんですって、信じて下さいな。エヘェヘ、ねぇ。昔の梅はもっと大きくて若々しい、そりゃぁ、桜にも劣らない立派な木だったそうですよ。
しかし、梅は桜より情が深かったんですねぇ。見上げた腰の疲れる、老いぼれたちを思って梅は、腰の曲がった姿勢でも、見やすいようにってんでぇ、わざわざあのように木を曲げて、枝を目ぇの位置にまで据えてくれたんだそうです。有り難いことでねぇ、こうして年寄りたちと梅の木の、友情は暖められてきた、ってぇ訳なんですよ。
−−−そういえば確かに、このお爺さんをふくめ、この梅林にいるのは(一応、私を除いて)皆、お年寄りばかりでした。みんなが皆、腰の曲がった人たちばかりではないにしろ、お年寄りたちと梅の相性はまるで、はかられたかのようにぴったりときて、目の前につつましい秘密のようにひらいた花たちを、しわと皺にはさまれた鼻が、うれしそうにひこついている様は、お爺さんのいう、友情の象徴たる光景でありました。
平成十四年二月七日
「坂口!」
呼んだのは、彼の高校時代の友人、吉田。
二人は、互いの近況を話した。吉田が訊いた。
「お前、ここで誰か待っているのか?」
「……吉田、今暇?」
二人は、近くの喫茶店に入った。
なかなか可愛いい店員だが、坂口の表情は暗かった。
席につき、坂口は話した。
「俺さ、今日、デートだったけど」
「ホホゥ、スッポカされた」
「多分、ネカマに騙されたんだよ」
「なかなか旬な話題だね」
坂口は、吉田を無視して続けた。
「やっぱ、出会い系サイトって難しいよな。登録して、女からのメールを待つシステムでさ、三通しか来なかったんだけど。
その中の一人と気があって、一ヶ月ばかりメール交換してたんだ。19歳フリーターで、HNが『snow』。好きな物が一緒で、まあ、ともかく楽しかったんだよ」
「snowって、例えば、雪子とか?」
「名前からとったって書いてたからそんな感じだと思う」
坂口はため息をついた。吉田の口の中で、アイスコーヒーの氷がガリリと鳴った。
「俺のプロファイリングから、そいつは、25〜28歳、痩せ型、エロゲーよりギャルゲーの方が実は萌える、意外に髪がサラサラの男だ」
坂口は、ぐったりした。
「誰だよ、それ」
「おい、リバプール方式だぞ」
吉田はガハハと笑った。
「本当に女かもしれないじゃん。一回待ちぼうけをくったぐらいでクヨクヨするな!」
「そうかぁ」
「もし本当にネカマだったら、俺が女を紹介してやるよ」
「いや、出会いを待つだけの俺が悪いんだよ」
「坂口、俺の胸で泣け!」
「気持ち悪るっ」
「そろそろ出るか」
「ああ」
「ありがとうございました」
「さっきの店員、結構可愛かったな」
「今ごろ気が付いたのかよ」
「吉田、ゴメンな。時間取らせて」
「いいよ、暇だったし」
「ありがとナ」
「大丈夫、お前がネカマに騙されたなんて絶対に誰にも言わないから」
そう言って坂口の肩を叩いた。
「ははは」
坂口は少々(いやかなり)疑いながら、駅の改札で吉田と別れた。
坂口は、電車に揺られながら思った。今日が笑い話になったのは、吉田のおかげだ。お礼にこの話はネタとして献上してやるよ。
坂口は、楽しい気分で家路についた。
吉田は、電車には乗らず、人気のない高架下へ走った。
ごめん、坂口。ネカマは俺だよ。他のやつからお前のことを聞いた。
女の振りしてメールを送った。
今日だって、俺が仕組んだ。
嘘ついてごめん。俺、高校卒業してからもずっとお前のことが好きだ。
吉田孝之の涙は、止まらなかった。
そろそろ夕暮れだな、健二は壁の時計を眺めた。そろそろ優子の来る時間だ。
あと十分もしないうちに、優子はそのドアを開けて微笑みながら僕にこう言うんだ。
「ただいまぁ、うふふ、いい物買ってきたよ、なんだと思う?」ってね
彼女の笑顔は大好きだ。冬のコタツみたいに暖かくて優しい。名前の通りだとつくづく思う。
ほら、そんなこと考えてるうちに、階段を上ってくる音がする。カンカンカカン
鉄の階段を弾むように歩いてくる。ほら、カンカカン、踊ってるみたいだね
彼女のプレゼントはいっつも僕を楽しくさせてくれる。そんなに高いものやすごいものじゃないんだよ。でもね、すっごく楽しくて嬉しいものさ。
僕はいつもそのプレゼントを手に取りながら、彼女がどうやって探したのか、何を考えてそれを買ったのかしばらく考えてみる。
彼女はそれをニコニコしながら黙ってみてる。そして決まってこう言うんだ。
「うふふ、どう?わかった?さあどうでしょうか」楽しそうに笑いながらね
小さい鍵やミニチュアのクルマ、綺麗なまあるい小石、ガラスの魚もあったかな
その小さなものの中には、彼女の気持ちと彼女の宇宙がぎっしり詰まっている。
時々は将来の夢もちょっぴりね。
プレゼントを受け取るといつも僕は彼女が頭を悩ませながら、いろいろ手に取ったり、ためつ眇めつしながら、吟味しているところを想像する。そして彼女がそう想った理由を探ってみる。
僕が答えを言ったときの彼女の反応もおんなじ物さ、楽しそうに、でもちょっと得意げに
「半分だけ当たり~でも半分は外れね」そういって得意げにその理由を話して聞かせる。
僕はその話が大好きだ。優しくてちょっと神秘的な、広がりのある彼女の話は、子供のころ読んだ童話に似ている。ワクワクして楽しくて夢見心地になっちゃうような童話にね
僕はいつもそのお返しに、その物語を絵にして彼女に渡す。クレパスや色鉛筆で、なるべく淡く、儚く、そしてちょっぴり寂しげに。彼女の世界を包み込むようにね。
彼女はしばらくその絵を見つめ、満足そうに頷くと、僕に花マルをくれる。ちょっと照れくさいけど、それが僕らのいつもの大事な儀式さ
おや?足音が消えた。部屋の前に来たな、聞いててごらん。
ガチャ、「ただいまぁ、うふふ、いい物買ってきたよ、なんだと思う?」
ほらね
了
大統領は頭を抱えていた。世界食料問題会議で各国から多大なバッシングを受けたからだ。
「君の国は景気いいじゃない、もっと出せよ、金を」
「人的援助がないとだめだねえ、君の国は軍とかNGOとか技術者とか売春婦とかいろいろ出せるんじゃないの?」
「いっそのこと飢える国を、君の国の植民地として認めるから、後のことよろしく頼んますわ」
みんなムチャいうよ、本国にもっどた大統領は、自分の官邸で途方にくれていた。テメエの国の不紳士な食糧問題への取り組みを棚にあげといて、いざとなるとたまたま好景気の我が国を突っつく。私だってね、そりゃ世界の食糧危機は前向きに解決していきたいと思っているよ、でもさあ、みんな人まかせじゃん。おれまかせじゃん。私だってこの国の様様な問題に取り組んでいるんだ・・・・。大統領はますます濃い苦悩の顔を浮かべた。
その時官邸室のドアをノックして、大統領補佐官が入ってきた。
「失礼します、大統領が会議に出席なされてる間に、我が国でも様様な問題が発生しております。その対処方法を伺いに参りました。」
「おお、そうか。述べよ」
「まず、株価がガックンと落ちました。大統領が会議で情けない顔でテレビに映った瞬間からです。それを受けて、全国の第三国系の労働者がストライキやデモを始めました。街は大混乱です。
マジかよ、大統領は手で顔を覆った。
「あ、あと西部の学校で銃の乱射事件が発生しました」
「だからどうした」
「大統領のご子息が通っている学校です」
大統領は机に突っ伏した。畜生、要するにすぐに食料を送ってやればいいんだろう? すぐに食料を送れる方法、方法・・・・そのとき大統領の頭の中で繋がってはいけない配線が繋がった。
「おい、補佐官。ピザを送ってやれ」
「は?」
「核ミサイルにピザをくくりつけて発射してやれ。すぐに着くし、ピザも核ミサイルもわんさかあるぞ。わっはっは」
30分後、補佐官が官邸室に入ってきた。
「ピザも核ミサイルも、無事相手に届きました」
出会いは、土砂降りの駅だった。
立ちつくす僕の隣にすっと君が来て、傘を差し出してこう言った。
「あの、これお使いください」
言葉に詰まる僕の手に傘を押し込むと、君はずぶぬれで雨の中に消えていった。
次の日から君の姿を探すことが僕の日課になった。
ある日君は泣いている子供に手をさしのべ、一緒に親を捜していた。
ある日君は老婆の大荷物を背負い、ホームまで一緒に歩いていた。
君のような人を今まで僕は知らない。その微笑みは慈愛に満ちて輝いている。
いや、微笑みばかりではない。困っている人には自分の事を省みず手をさしのべる。
見返りなど求めない無償の愛とは、まさに君のための言葉だ。
借りっぱなしの傘を抱えたまま、僕はただ君の姿を神々しい思いで見つめていた。
傘を口実にしたぎこちないデートの誘いを、君は優しく受けてくれた。
数回のデートを経て、君は僕の部屋に通うようになっていた。
すべての時間を共有していたくなって、
いつまでも君が僕のそばにいてくれればいいのにと心から願った。
しかし何故か君は長居をしてくれなかった。
猫でも飼ってるのかと聞いても、君はただ微笑むだけだった。
ある日僕は会社からまっすぐ君のアパートにむかった。
住所は聞いていたが、訪れるのは初めてだった。
チャイムを押すと、君が笑顔で出迎えた。
「あら、いらっしゃい、う〜ん・・・ちょっと待っててね」
君はそう言い、すっと戸を閉めて中に入ってしまった。
そしてなかなか出て来なかった。
僕はしびれを切らし、自分から中に入っていった。そこには・・・
まだ学生らしい若い男が居た。ただ居るのではなかった。
詰め襟の学生服の前をはだけ、そして・・・下半身は何も履いていなかった。
「おい!いったいここで何を・・・」僕は思わず怒りに声を震わせた。
「君は・・・僕という者がありながら・・・浮気なんて!!」
「浮気なんかじゃないわ。この子は私を求めていた。私はそれに応えた。それだけじゃないの」
「それが浮気じゃないのか!!」
「あら、あなたも私を求めた。私はそれに応えた。それだけよ」
君は相変わらず慈愛に満ちた微笑みをたたえていた。
ああそうか。そのときやっと僕は気がついた。
転んで泣いていた子供も大荷物の老婆もこの学生も僕も、
君にとってはただ手をさしのべるべき対象としての存在でしかない。
たしかに君は見返りを求めない無償の愛の持ち主だね。
神々しいまでに清らかな君の微笑み。
まさに聖母マリアだよ。
少女が家に遊びに来た。その少女は彫りの深い顔を
しており、微笑んだ口元と淋し気な目が印象的だった。
そして、彼女はもう秋だというのに、真っ白な半袖の
ワンピース一枚だった。
「私、ハーフなんだ。」
彼女は小さな声でつぶやいた。彼女の父親はここ数年、
テロリズムなどで危険視されている国の生まれだった。
明日、彼女は父親と共に帰国する。
私は彼女とアルバムや本をひろげ、お菓子を食べながら、
たくさん話をした。ゲームもした。私達は子供みたいに
ハシャいで、ハシャいで、声がかすれるまで大笑いした。
夜遅くなって、布団に入ってからも、話は尽きることが
なかった。
翌日、私は、彼女と町を歩いた。
出発は夜の便だという。私は町並みをひとつ、ひとつ、
丁寧に説明して歩いた。古びた町のあたたかさを伝え
たくて。
やがて町は夕暮れ色に染まり始めた。私は一生懸命、
目に入るものを片っぱしから、彼女に説明していた。
必死だった。彼女をなんとかして引き止めたかった。
そして、
「もう、行かなくちゃね。」
彼女は言った。
空はもうオレンジ色から藍色に変わっていた。
私は、
「最後に、あの公園だけでも・・・」
言いかけた時には、遠ざかって行く彼女の白い
ワンピースがユラユラと濃い青色の闇の中に
見えただけだった。
あなたは行ってはいけない。
もっとこのあたたかい場所にいなくてはいけない。
もっと幸せにならなくてはならない。
あんなに楽しかったのだから。
もう二度と会えない、という確かな感触が頭にあった。
悲しみと、ざわざわとした、やり場のない、怒り。
私はもっと彼女と話したかったのだ。笑いたかったのだ。
彼女に伝えたぬくもりが、その時、確かに存在したことを
いつまでも彼女に覚えていて欲しかったのだ。
私は彼女の名前すら知らない・・・
ようやく駅についたけれど、そのまま家に帰る気にはならなかった。一杯やって帰りたいところだけど、サイフの中身はこころもとなかった。腹も減っていたし、とりあえず駅構内にある立ち食い風蕎麦屋に入った。イスがあって座れるのがありがたい。冷たい蕎麦を食べて、気持ちをシャッキリさせたかったけれど、冷たいものはざる蕎麦しかなかった。それだけだと物足りないので、少し迷ってからコロッケを頼んだ。注文して、ネクタイをゆるめると、急に疲れがでてきたようだ。
「話がちがうじゃないですか」
部下が自分をなじる声が聞こえる。
「風向きしだいでころころ変わるんですね」
捨てゼリフを残して会議室を出ていった。そのあと、部下はわたしと口をきこうとしなかった。終業の時間がきたら、何もいわずに黙って帰っていった。
そう言われてもしかたないのかもしれない。部下と二人で相談した案を会議にだしたら、課長や部長は、あまり乗り気ではなかった。これは見込みがないな、と思ったわたしは、早々とその案を見切ってしまった。いくらいい案を出しても、ダメなときはダメだ。また、タイミングを見計らって切り出せばいい。そう思っていた。しかし、部下はそう思わなかった。 少しもねばらずにあっさりと案を取り下げた。部長や課長のいいなりになって、部下をさっさと見捨てた。そう思われたようだ。
ざる蕎麦のコロッケができあがった。コロッケは揚げたてではないけれど、コロモがかりっとしていた。たぶんできあいのコロッケを軽くオーブンで焼いたんだろう。どうやって食べようかと少し考えたあと、コロッケを二つに割った。最初の半分はソースをかけて食べた。残りの半分は、そばつゆにつけこんで食べた。なかなか美味かった。こんなささいなことで満足してしまう。自分はなんてつまらない人間なんだろうか。だから部下や上司の間に挟まれて四苦八苦してしまうのかもしれない。さいごの蕎麦をすすりこんだあと、やっぱり、一杯飲みたくなった。
映画館を出ると、街はすでに暮れかかっていた。
暮れかけの中途半端な太陽は、
いつも時が経つ虚しさを伝えて消えてゆく。
小学校の頃もそうだった。
下校時間、暮れ行く夕日に、感じなくても良い哀愁を感じてた繊細な僕は、
なぜかあの頃、夕日のオレンジ色を見てウンコをしたくなったのを
ふと思い出していた。
「あのさ、映画の最後の場面ね、」
ミキは手の甲にある小さなホクロを掻きながら言った、
「タニアがぼんやりと大通りの車道に目を移すよね。
そこでさ、自分が履いてるヒールと同じヒールが片方だけ
道路の片隅に落ちてるのを見つけるじゃん」
「自分は両方とも履いてるのに」
「そう。で、そのヒールが徐々にアップになって映画が終わったんだけど」
ミキは、それが何を象徴していたのかな、と首を傾げて目をつぶった。
「ヒールはつまり、大切なものさ。人生で大切なもの。
そういうのは近くて遠いんだ。手に入れたようで、手に入れてない、
っていうメッセージさ」
「そうかなぁ」
「このゴルゴンゾーラ、美味しいよ」
窓の外、夜、色とりどりの傘が行き交う。雨になったらしい。
「うそ、傘ないよ」
「よし、走ろう」
「髪が濡れるわ」
「たまには濡れないと駄目さ」
僕らは店を飛び出し、走った。
傘を持たない人たちが、僕らを見ている。
頭皮を伝い雨水が頬を、鼻筋を流れ落ち、まつげが雫を弾く。
雨の味が口に広がる。懐かしい味だ。幼少以来だ。
轍を走る、水溜りにわざと着地する、
僕たちは手をつなぎ、笑いながら走る、
声は吼える豪雨にかき消された。
真っ暗な土手、豪雨に打ちつけられて滝のような音を立てる川面、
雑草の上に倒れこみ、転がり、
僕らは地層のように硬く隙間なく重なった。
耳元で恐ろしいほどの雷鳴が轟き、暗闇を容赦なく切り裂く、
激しい、空と地球が揺れている感じがする。
恐怖と快感が入り混じり、
今まで体験したことのない電流が流れ、神経が痺れ続けるんだ、
叫びのようなミキの声は轟音に消え、僕はもはや宇宙と一体化し、
豪雨と一緒に空から落ちて、地面とミキの中に昇突した。
便意の太陽、性欲の雷雨。
小学生の頃、クラスメートに白血病を患っている生徒が
いた。1、2年生の頃だったと思う。かなり昔のことだった
ので、彼の名前は覚えていない。
陰険で腹の立つクラスメートだった印象が強い。自分の
体が悪いことを盾にし、「殴ったら先生にゆったるからな」と
言うのが口癖だった。これが彼の弱みであり、また強みでも
あった。
もう少し僕が大人だったら、彼を受け止められていたかも
知れない。僕は子供だった。
ある日起こった突然の出来事によって、彼を見る目が
その時期から変わった。
授業中に急に鼻血を出した彼は、そのまま床に倒れ込んで
しまった。初めにはやし立てていたクラスメートもすでに
青ざめている。床には止まることを知らない血液が
流れ続けていて、それを見て泣き出してしまう人もいた。
彼は病院に運ばれた。その時は大したこともなかったらしく
次の日には、無事登校してきた。
それからはみな、彼に気を使うようになった。彼は
変わらないどころか、湾曲した性格に拍車がかかった。友達は
おそらく一人もいなかったのだろう。病と孤独、彼は辛かった
に違いない。
数日後、彼の席には誰も座っていなかった。次の日も、
そのまた次の日も、彼は現れなかった。一週間たっても
現れることはなかった。
学校を休むことはよくあったが、一週間ずっと休み続けた
のは初めてだった。驚愕の事実は、その三日後に知ることに
なった。
朝のホームルームで、先生は重い顔をしていた。一分近くの
沈黙の後、先生は最小限の言葉を繕った。
「**君は、亡くなりました」
彼は病気の状態が悪化し、一週間ほど前から入院していた
らしい。彼は回復の兆しも見せないまま、他界した。
言葉に表現できない心の空白が、当時の僕には
やはり表現することのできない感覚を生んだ。死についての
知識が乏しすぎたのだ。
彼の一生は、悲痛なものだったに違いない。もし小学生の
僕ではなく、すでに構築された心を保持している今の僕なら、
彼の孤独くらいなら、取り除いてあげられたかもしれない。
子供は嫌いだ。
理由は特に無かった。
だけど僕は彼女を抱きしめていた。
彼女は「痛い」と小さく言った。
あの頃は、とても幸せだったんだな と思った。
彼女には男がいた。運悪く、僕の友達だった。
それはあるとき突然、僕に紹介してきた。
それ以来、3人で会っては食事をしたり、旅行に行ったりした。
僕は運悪く、彼女を心から想うようになっていた。
彼女にこの気持ちを打ち明けた瞬間から、悪夢のような日々が始まった。
彼女は「あなたが好き」と言った。
いつも「本当はあなただけが好きなの」と言っているが、
彼女は僕の友達とも別れようとしなかった。
僕は我慢できなくなった。
どうしてコソコソしなきゃならないのか。
もういっそ正々堂々としてしまおうと思った。
3人で会った。
男は僕たちが一緒に来ることに驚いていた。
「オイオイ、何?遅ぇよ2人とも」
「ごめん、今まであたしたちホテルに居たの」
「・・・は?」
「悪いな、そういうふうになっちゃったんだよ」
男の顔は、見る見る変化していった。
「オイ、てめー何人の女に手ぇ出してんだよ!!」
僕はビクともしなかった。
今日は2人で決めた日だった。
ずっと2人で居たかったから
この男が邪魔だったから
2人で決めた日だから
僕は男に殴られた。
僕は男を殴り返した。
男はうつぶせに倒れた。
彼女がポケットから注射器を出した。
とうとう殺ってしまった。
僕たちは、僕のアパートに帰った。
「・・・殺しちゃった」
彼女は震えていた。
「これで、良かったんだよね?」
彼女はそう言って微笑んだ。
それを、僕が理由もなく抱きしめた。
「痛い」
彼女が小さく言った。
唇を重ね、しばらく抱き合った。
「死体 どうする?」
「埋める?」
「どこに埋めんだよ」
「じゃ海に沈める?」
「海?遠いじゃん」
「じゃ焼こうか?」
「焼く場所ないし」
「どうすればいいの?」
彼女の目に、涙が浮かんできた。
邪魔なものは、死んでからも邪魔だった。
いいや、
死んでいなかったんだ。
アパートに横たわっている死体は、動き出したのだ。
僕は驚いて彼女を見た。
彼女は微笑んだ。
注射の針は、見事に僕の首へと刺さった。
液が入ってくるのが分かった。
うっすらと、最後に見えたのは
僕を覗き込む男と彼女だった。
「本当はあなたが一番邪魔だったの」
11月のある日のこと。
「あんれまー!!」
僕の側に座っていたオバサンが悲鳴を上げた。どうしました? と聞こうと思った。
しかしあまりにも気持ち悪かったので、僕は寝ているフリをした(笑)
「ひええぇ。カミサマ! お助けを」
このバアサンなんだ? でもあまり関わりたくない。寝ぼけているフリをして隣の車両に行こうかな。
「ポケットに入れたはずの財布がないわ! 生活費が全部入っていたのにィ」
生活費を財布に入れてるんじゃないよ。愚か者めが。天罰じゃ。たたりじゃ。
なんて罵声が回りから聞こえてきた。
「どうしましょ! どうしましょ!」
どうやらオバサンには聞こえていない様子。
あぁーうるさい。どっかに行ってくれないかな。天国にでも…。
「サイフが無い。無い。無いわ。財布が無いのよ!!」
オバサンはヒステリーを起こしている。ヒステリーと言うよりイカレてる。バグってる。
「キョエェェェッ!! 私のサイフを盗んだのは誰よ!?」
バカみたいにうるさい。これで寝たフリするのは無理かな。
「今返せば許してあげるわ! さぁ私に許しを乞いなさいよ!」
その時一人のオジサンが立ち上がった。
「ヘイ。そこのババア、うっせえんだよ」
「なんですって、よくも…この私に対してッ!!」
どっかのお嬢様なのかな? それにしても薄汚いボロまとってるよな。
どっかの女子高生も立ち上がった。
「そうよ。アンタみたいなオバサンがいるから、世の中が乱れるのよ」
「さてはあんた達グルね…? みんなでよってたかって…モキモキ」
オバサンはワナワナ震えている。膝小僧も笑っている。
「人の不幸をあざ笑うハイエナども…無理心中してやるわ!!」
オバサンは電車の操縦席に向かって走り出した。
「ババアを止めろ! なんとしてもだッ」
オバサンの目の前に警官が二人立ちはだかる。
「止まれェェッ!! 射殺するぞ!!」「できるもんならやってみなさいッ」
「ウワァァァァァ」
警官二人はオバサンに撥ね殺された。撥ねられた警官は窓ガラスを突き破り外に飛び出していった。
「そのオンナ凶暴すぎるッ。やむを得ない! 生け捕りは諦めろッ」
オバサンは操縦席まであと少しの所まで行ってしまった。
「電車を脱線させてやるわ! 財布を盗んだ下民どもよ。後悔なさい」
オバサンが操縦席に入る。
「なんだ! オマエは? ウワァァァァァ」
運転手はオバサンに頭を掴まれ、その破滅的な握力によって絶命した。
「アクセル全開よッ」
電車はぐんぐん加速していった。光の速さを越えるほどの速度で。
「みんな何かに掴まれェッ!」
その時電車は転倒した。
30分後救急車が駆けつけた時にはすでに手遅れだった。
死者1名 重症92名 軽傷26名 行方不明1名の大惨事になったのだ。
後に生存者は語っていた。
「死んだのはあのオバサンだけだったよな」と。
私は硯に水を注し、ゆっくりと墨を磨り始めた。
我ながら、今時こうして年賀状を筆書きする人も珍しくなったなと思う。業者に印刷を頼んでしまえば楽だけれど、どうしてもそれは出来ない。この習慣は、父の真似をして始めたものだ。
二十年前、私が四十五歳の時に父は亡くなった。父は大変男らしく力強い字を書いた。決して達筆とは言えなかったし独特の癖もあったのだが、それは父そのものを感じさせてくれる気がして私は好きだった。私は滅多に里帰り出来ないくらい遠くに嫁いだ上に、早くに連れ合いを亡くしてしまっていた。毎年の正月に、いつも通りの父の字に触れる瞬間が心強かった。
だが、亡くなる五年くらい前から父の字は微妙に乱れるようになった。そうと気付いた時は、あんな父でも老いには勝てないのだなと寂しくなった。年を追うごとに、字の力や勢いも失われていく。やがて誤字さえ見られるようになり、書かれる文句もどんどん減っていった。
ついにある年、ただ、
「謹賀新年 元旦」
とだけ書かれた年賀状が届いた。まるでその漢字を覚えたてで意味も理解していない子供が書いたような、稚拙な字だった。
「ねえおにいちゃん、おじいちゃんって字が下手だねー」
「わあ、本当だー」
まだ小学生だった息子達がケラケラ笑い合っている傍らで、私は何とも頼りなくて不安な気持ちになった。
その年の暮れに、父は逝った。
父の年賀状は、もう二度と来なくなった。
からんからんと、石油ストーブの上の薬缶が音を立てる。軒先からは、じゃらり、と飼い犬の鎖の音。犬小屋に入り込んだらしい。
まず長男夫婦、それから次男夫婦に宛てて書き始めようと決めた。
背筋がぴんと伸びる気がして、墨を磨る手に、ぎゅっと力がこもった。
気付くとそこは2−Cの教室だった。
妙に静かだ。僕は不安に駆られ、教室から走り出た。自分の足音が、喘ぐ声が、突き抜けるようだ。
学校を出た僕は、おぼろな記憶を頼りに街を徘徊する。そのうちに僕は、二つの問題点に気付かされた。
一つ。僕の記憶から、具体的なものが抜け落ちている。
教室で不安に駆られた理由がわからず、それより自分の記憶をまさぐって行くと、自分の名前すら覚えていないことに気付いた。何となく、又は突発的に記憶が目覚めることはあっても、自分からは掘り下げられないようである。
そして、もう一つ。街並みに人の姿が見られない。
適当な民家へと忍び込んでみるが、そこには生活の気配が生きているのみだった。砂嵐を映し続けるTVの前に、御飯の入った茶碗と箸が転がっていた。取り敢えずTVの電源を消した僕は、脱力し、その場へと座り込んだ。
自分の中に浮かんだ突拍子もない考えを振り払う気力もなく、僕は成す術なく確信した。
ここは破滅した世界だ。
スーパーの自動ドアを手動で開く。
始まりの日から一週間が過ぎようとしている。既に電力供給が途切れたようで、暇潰しのビデオも見られなくなってしまった。
あの家をねぐらに決め一週間住んで来たが、食料補給が面倒だ。スーパーに住んでやろうかとも思ったが、腐った生野菜の臭いには耐えられない。
一月が過ぎ、冬を迎えた。窓の外に粉雪がちらついている。
そんな折、僕は風邪を引いた。家の中を漁ったが、薬の買い置きはない。外へ出て行けば、のたれ死ぬのは確実のように思われた。
薬が欲しい。薬が欲しい。薬が欲しい。
そう願うと、僕の手の中に風邪薬が現れた。熱で朦朧としていた僕は、それを不自然なこととは思わなかった。
翌日、風邪は完治した。
願っただけで、何でも出てくる。そのことに気付いた僕は、まず好物の炒飯を出した。火を通した食べ物は久しぶりだった。
次に大量の札束を出し、最後に人間を出した。数十億人の人間を。
意外な程円滑に、社会は動き始めた。
「原因はいじめだっ「息子は目覚めないじゃあり「引きこも「訴える「無理に電源を切ると人格が崩「雅紀。雅紀。雅「慰謝料を
またあの妙な夢だ。
僕は、隣で寝ている恋人に気遣いながら、ベッドから身を起こす。
人間を出した後、僕からはあの万能の能力は消え去った。僕は社会に溶けるように馴染み、今では恋人までいる。
この幸せはいつまで続くのだろう。
恐らくはコンセントが抜かれるまで。
フロリダに住む叔母から3年ぶりの手紙。
「今年はフロリダの白熊年にあったっていて、いまフロリダにくると世界中の珍しい白熊を見ることができるよ」。
小さな頃から白熊に目のない私はさっそく渡航に向けた準備をはじめる。パスポートを新たに作り直し、コートを新調し、日常会話辞典を購入する。父と母と一人の妹には適当な言い訳をひねり出した。叔母は12の春に家族の反対を押し切って単身フランスに移住。以後家族内で彼女のことはタブー視されている。そんな彼女がなぜフロリダに居を構えることになったかについては、これまた長い長いエピソードがあるのだが別の話に譲りたい。
「近頃どうやら関西のほうでまた大きな地震があったらしいね。いや、政府の陰謀で表立っちゃいないみたいだけどね。今度もまた大勢死んだらしくてさ」。それで半年ほど関西方面に慈善活動に赴くというわけだ。巧妙かつ完璧。昔からなにかこういった方面で自分というものをいかした職にありつけないかと思っていたが、どうやらなにか道が開けてきた気がする。
空港に降り立ち、武者震いの一つもしながらコーヒーを飲んでいると、アナウンス。
「本日、14時38分発、エアーアメリカン航空367便は、宇宙人襲来により、金星に空路を変更いたします。」
パニックが空港を襲う。蛸の化け物のような金星人たちが新型の光線中を突きつけて、あたりを徘徊する。私と数百名の乗客たちは、仕方なく金星ゆきの飛行機に乗り込む。
「白熊が見たかったんだけどね」
気持ちはわかるけどどうしようもないんだよね、というように金星人は頭を2・3度横に振り、私の横に座った。もはや誰も彼もが観念し、新たに自らに訪れた事態を、悲劇ではなく幸福の一変形として捉えなおそうと努力を始めている。まあ、それもいいんじゃない。僕は隣の金星人に話し掛けた。金星には金星の白熊がいるんだろ? それで我慢するさ。
大きく頷いて、金星人は彼らの星のドストエフスキーがかいた、彼らの星の「カラマーゾフの兄弟」を読み始めた。
私が、来るべき宇宙時代への第一歩を踏み出したその年、フロリダでは白熊に強姦された女性が10万人を突破。政府は仕方なく、白熊の射殺を命じた。
その年は、悲しみの時代の始まりでもあった。
まだ、黒いランドセルを背中に預けていた頃。
僕達は、毎日、あの場所に居たね。
何もしないで、ただ、地面に座り込んでいたね。
晴れた日なんかは、二人で寝っ転がって小鳥の囀りを聞いたり。
空の青さに疑問をもったり。雲を見て、真剣に語った事もあったね。
学校が終わると、僕は、毎日君の居る場所に行ってたね。
僕が、悲しい顔をしているときも笑っている顔のときも。
いつも君は、笑った顔で僕を迎えてくれていたね。
だから、僕は、毎日のいじめにも耐えることが出来たんだ。
そんな日常が、僕にとって幸せの日課だったよ。
あの日も、いつものように、テストの結果を見せようと僕は、学校帰りに君に会いに寄ったんだよ。
でも、君は、いつもの場所に居なかった。
いつも、いじめられて破かれるテスト用紙も、その日ばかりは、自分で破いたよ。
そうしなければ、僕は、現実に立ち向かう事が出来なかったからだ。
あれから、どれくらいの時が流れてしまったんだろうね。
お互い、老けてしまったかもね。
君が去った後の僕は、一人で、行動する事が出来なくなっていた。
すべて、君に頼っていたせいかもね。
だから、僕のことを考えて、君は、去ったんだね。
そのおかげで、僕はいじめにも勝つことが出来たよ。
それから、僕は、君と同じような見守る仕事につきたかった。
だから、僕は、今、警察官になったよ。
君に、この制服姿を見せたい。でも、君に会う事が出来ない。
もしかしたら、毎日、僕は、君のことを考えてるかもね。
でも、僕には、妻が出来たんだ。
掃除や洗濯は下手だけど、料理だけは上手いんだ。
君を招待して、食べさせてあげたいな。
毎日が雲のように流れていくよ。
そういえば、この前、君の家族に会ったよ。
君のことを尋ねたら、家族は多いから分らないって。
そうだよね。
だって、君は・・・
モルグコルムの泣き声が止んだ。
おいおい、そんな嬉しそうな顔することないだろう。普通心配するものだろう?
そりゃあボクは予想外なこと大歓迎な人だけどさ、この後に及んでそれはないんじゃないの?
ずっと楽しみにしていたあの瞬間、君はあんなに嬉しそうに笑っていたじゃないの。でも、卵から孵ったアレを見た途端の、君の凍りついた顔といったら…がっかりだよ。あはは。
でも本当に…本当に君には期待していたんだよ。なのに、結局は君もハズレみたいだよ。確かに、世間の常識ってやつからすれば、君の判断ってのがマトモなんだろうね。そう、今までの子達の反応だって皆な、そんな感じだったよ。
え?そうだよ。この儀式に付き合ってもらったのは、別に君が初めてってわけじゃない。
最初にやったのはもうズットズット昔のことさ。そのおかげで僕もズットズット昔からこの姿のままでいるんだから。
そのことについては話すと長くなるから謂わないけど。それに君に今更昔話なんか聞かせたってしょうがないんだよ。
さっさと本題に入るとしよう。そう、モルグコルムの泣き声だ。あれが止まったのを君は喜んでるみたいだね。うん。そう、僕にしたってそれは嬉しい。アレが泣き止んだってことはさ、つまりね、アレが第二次成長期に入ろうとしてるってことなのさ。解るだろう?そりゃ嬉しいに決まってるよね。
で、そこで必要になってくるのが、何を隠そう君なんだ。アレの成長には膨大な栄養が必要でね。それを手っ取り早く摂取するためにアレは親の膣にいるときにチョットした分泌物を出してるんだ。
頭の良い君の事だ。これだけ謂えば充分解るだろう?
まあまあ、そんなに怖がることないじゃないか。ホラ、聞こえてくるだろう?君の大切なベビーが君を欲しがっている。サア、たっぷりと愛してあげてくれないか?
*
そして僕は、成長しきったモルグコルムを抱き上げた。キィキィと不吉な音を出しながら僕にすがりついてくるソレはいつになく立派な個体だった。これだけ大きければ、こいつ一匹であと二十年は持つだろう。
そのときこそ僕は、三百年目の朝を迎えることになる。
一日ぐらい、君のために泣いたって問題はないさ。
温かい手
毎朝娘を幼稚園バスの来る所まで送る。
ごくごく当たり前の事であるのだが、段々寒い季節になって来ると集まる子供達の足も鈍りがちである。逆に私はというと自宅で仕事をしている為、娘が幼稚園に行く前に家事を全て済ませてしまいたいと思っているので、朝からバタバタ・バタバタと家中を駆け回っている為、体中は朝から一人ポカポカとしている。逆に娘はというとコタツの中にゴロゴロずっと転がっていたので体温が下がり、本当に寒そうである。
「ママ、手貸して。手」
「いやよ。あんたの手は寒いから」
無理矢理私のフリースの中に入ってきて手を握る。思った通り氷のように冷たい。それを合図にしてわらわらと子供達が集まって来た。多少の違いはあるが、どの子も手が冷たい。一応口では嫌がるが手を引っ込める様な事は絶対にしない。経験上、どういう形であれ、この位の年代の子供は口で会話するよりも、肌と肌を合わせて居た方が仲良くなれる事を良く知っているからである。
「ママの手はどうして温かいの?」
「それは朝から元気に走り回っているからよ。ほら、バスが来るまでちょっと走りましょう!」
目の前の公園へ向かって走り出す。とたんに子供達もついて来たので一緒にぐるぐる意味も無くブランコの回りを回った。冷たい空気を突然吸った為、むせてしまった子、鼻と頬を赤く染めてしまった子、元気に私の後ろを追いかけて来る子、様々である。まだまだ子供には負けない!と私は更に元気に加速する。遠く離れた所からは子供達よりも一、二枚更に厚着をした親たちの姿があった。
「元気ですね。もうこの年になると走る事はしたくないです」
「え、だって楽しいじゃないですか」
「汗かくような事したくないです」
五周もしない内に体は気持ちよい具合に温まってきた。手を握り合うと今度は温度差はあまり無い。よかった、よかったと皆で喜んでいる後ろから、娘がノタノタと子供達を押しのけて手を握りにやって来た。そう言えば走っている所をみかけなかったけれど……
「うわー何であんたまだ冷たいの。走らなかったんでしょ」
「ちょっと、がんばれなかっただけ。でも、ママの手が温かいから大丈夫」
こたつむり。一人っ子はこれだからいけない。与えられるのが当たり前だと思っているのだから。
「ママが居るから、みきは走らなくて大丈夫なの。知ってた?」
「知らないです」
楽しい朝の一時は寒い日もこうして続いて行きます。
向日葵は、私の一番好きな花なんです。
小さい頃、家の近くに大きな向日葵畑があってね、夏は嫌いだったけど、散歩が好きで、麦藁帽子をかぶってよくその向日葵畑に足を運んだわ。
畑の前まで来て、腰を下ろして何時間も、日が暮れるまでずっと向日葵を眺めてた。
下から見上げると、とっても背の高い向日葵の花と花の間から漏れる光で時々目が眩んだりして・・。
まるで向日葵が光を発しているようだった。
私はふと思いました。
向日葵は強いなって。
こんなに暑い中、何一つ文句言わずにずっと立ってるんだから。
花が重たくて、少し猫背だけど、ちゃんと太陽の方を向いて立ってるの。
鮮やかな黄色を輝かせながら。
私も強くなりたかった。
どんなに辛くても、どんなに疲れても、ずっと立っている向日葵のように・・。
でも私には無理でした。
自分の弱さを認めるのが恐くて、ひとりで何でもできると強がってあなたを産んだけど、結局は捨てる羽目になってしまったわね。
あなたを置いて、男のもとへ行ってしまった私をあなたずっと恨んでいたでしょう。
彼と出逢ったのはあなたが3つの時でした。
事業に失敗して、サラ金から逃れるために遠くへ行ってしまうと聞いて、私は自分の感情を抑えることができませんでした。
この人について行きたいと。
あの時の私には彼しか見えなかった。
あなたにはおじいちゃんもおばあちゃんもいる。
でも彼にはもう私しかいないんだって。
そう自分に言い聞かせてあなたのもとを去ったのです。
今はその彼ともちゃんと籍を入れて、2人でのんびり暮らしています。
20年って長いわね。
その間あなたはどう生きていたんでしょう。
明るくて誰からも親しまれるような子に育ったのかな。
勉強はできたのかしら。
スポーツは万能だったのかしら。
料理も上手で、裁縫も、掃除も、洗濯も全部自分でできる子だったのかしら。
私はあなたの母親なのに、あなたのこと何にも知らないんですね。
あなたは私の中では6歳で止まったままだもの。
それは自分のせいだとわかっていても想像は募るばかりです。
最後にこれだけは言わせてください。
私はあなたを産んだことを後悔していません。
あなたが産まれた時から今まで、変わらずあなたを愛しています。
向日葵は太陽がないと生きていけないけれど、ちゃんと大きな花を咲かせています。
向日葵、あなたはあなたの名前に負けないくらい強い人間でいて下さい。
幼い頃私が見ていたあの向日葵のように・・。
コンビニで漫画雑誌を立ち読みする。
少し離れた女性雑誌コーナーでミカも立ち読みしている。
どんな状況下で人は雑誌を買うのだろう。
などと考えながら、3冊目に手を伸ばす。
と、その時、後ろで何かがぶつかる音がした。
レジに店長が一人で立っている他は、ミカと僕以外誰もいない。
と、またさっきと同じ音。
ミカは雑誌に夢中だ。
僕は音の出所を突き止めた。
冷蔵庫。
缶やペットボトルの並んだ、ガラス張りのアレだ。
ガラスの内側で、烏龍茶とコーラの缶が横向きに引っかかっている。
さっきの音は、この二つが棚から押し出されて落ちてしまったときのものに違いない。
そう思って見ていると、案の定、冷蔵庫の奥から手が伸びてきて、引っ掛かっていた缶を回収した。
幸運だったのは、その二つが、商品の並んでいない列の前に引っ掛かったことだ。
いや、ここで言いたいのはそんなことではない。
その、缶を回収した手が、どう見ても人間のそれではなかったのだ。
僕はさりげなく、冷蔵庫の前に行き、商品を選ぶふりをして奥を覗き込んだ。
奇妙な手が現れた品切れの列から冷蔵庫の奥が見えた。
猿だ。
しゃがんだ猿が両手に補充用の商品を持って、じっとこちらを見ていた。
猿か…。
「テリーボックス、売り切れてるみたいね」
横に来たミカが突然言う。
「テリーボックス?」
「ほら」
〈テリーボックス 140円〉
僕が冷蔵庫の奥を覗くために利用し、猿が缶を回収するために利用した品切れ状態の列にはテリーボックスが並んでいたらしい。
「テリーボックス?」
「テレビで見たけど、生産が追いつかないのよ」
「へえ…」
僕たちはレジに向かった。
たばこと水を買う。
「冷蔵庫の中にいるのは…」
店長が愛想良く頷く。
「猿です」
「やっぱり」
「大丈夫なんですか?」
「猿が?」
「ええ」
「平気ですよ。よくやってくれてます」
「商品の補充を?」
「そうですね」
「飼ってるってことですか?」
店長は、まさか、と言って笑顔で首を振る。
それからいきなり声をひそめて、
「飼ってるとか、そういう言い方、気をつけて下さい」
冷蔵庫の方で、また何かがぶつかる音がした。
店長とミカと僕はそちらに目を向ける。
店長がひそひそ声で続ける。
「あいつに聞かれたら大変なんですから」
「そうなんですか?」
店長は、深刻そうに頷く。
「実は、テリーボックスが品薄なのもあいつのせいなんです」
「本当に?」
ミカがひどく驚く。
そのミカの反応に、僕は驚く。
で、テリーボックスって何よ?
ブラインド越しの淡い光の中、父親は ゆっくりと目を開けた。
「目が覚めたようだね、父さん。」
枕元の椅子に座っていた 敬が呼びかけた。
「あぁ、敬か。私は まだ生きているようだな。」
「なに言ってんだい、大袈裟だなぁ。」
「母さんは どうした?」
「外で 先生と話している。今 呼んできてやるよ。」
「待て、敬。 今の内に お前に、お前だけに話しておきたいことがあるんだ。」
立ち上がる敬を ベッドの父親は引き止めた。
「えっ、何だよ。」
敬は 座り直す。
「うちの家系は 代々 長男が 18歳になると その父親は死ぬ。跡取りが独り立ちしたら、後を任せて 父親は この世を去ることになる定めになっているんだ。」
「何言ってんだよ、父さん。 変な夢でも見たんだろ。」
馬鹿げた話だと取り合わずに、敬は 立ち上がろうとする。
「本当のことなんだ、敬。我が家は 代々『ゆずり葉の家』と呼ばれていて、これは 何代にも渡って繰り返されている事実だ。私が18の歳、丁度 今のよに 私も おじいさんから 『ゆずり葉の家』の話を聴いかされ、その直後に おじいさんは 亡くなった。」
父親は 目を閉じて ゆっくりと語り掛けた。
「そんなの嘘だよ。父さんは 別に死ぬようは病気じゃないぜ。ちょっと疲れが溜まっただけで、すぐに退院できるって先生が言ってたよ。」
人間の最期の感情の炸裂を必死に押えている父親の表情に、敬は 畏怖し 声を荒らげた。
「敬、これは避けられない運命だ。いつお前に話そうか迷って とうとうこの期におよんでしまった。もう行かなければならんようだ。母さんのことを頼んだぞ。」
父親の目から 涙が零れ落ちた。
「とっ、父さんしっかりしてくれよ。今 母さんを呼んでくるから、ちょ、ちょっと待っていて。いいな、父さん!」
言い残すと 敬は 弾かれたように病室を飛び出した。
敬が廊下に出ると 詰所の前に 担当医と母親の姿が見える。
「あら、敬、どうしたの、そんなに慌てて。」
「か、母さん、父さんが目を覚まして 変なことを言ってるんだ。」
「まぁ、どうしたの。」
「いいから 早く来てよ。」
敬は 泣き出しそうな顔で 大振りに手招きをする。
母親と担当の医師は 顔を見合わせた。
「先生、いよいよでしょうか?」
「ええ、そのようですね。参りましょうか。」
「『ゆずり葉の家の言伝え』を信じて死んでいく夫は とっても哀れ。でも この言い伝えを実行する私も 悲しい定めですわ。」
母親は呟き、氷の微笑で医師を見つめていた。
夕陽を浴びた石段が上へ々と続いてる。
私はあの子にどんなに惨い事をしたんだろうか。そう思うとこの石段を上らずにはいられなかった。あの子がここを覚えていた事が何故か嬉しかった。
息が切れる。もう年なんだと改めて思った。
石段の上から望まれるこの海は昔と少しも変わらない。
私はあの子を待っている。暗くなった石段の下から黒い影がゆっくりと上って来てた。私はあの子を捨てた日の罪を今日も無言で受け入れなければならない。それでいいと思った。
「元気そうじゃねぇか。持って来たんだろうな」
少しにやついた言い方。私はさっきまでのあの子を胸の中にしまい込み他人に向う様に言った。
「もうここにはこないで。あなたと私はもう……」
擦れそうになる声を絞りだす様に言った。
「あんたの捨てた息子の姿はどうだい」
鼻で笑いながら私を軽蔑した素振りで両手を広げ夕陽に向って笑いだした。
――今だと言った。急に悪魔が現れて『そいつを突き落とせ』そう言った。私は何かに操られる様に男の背中を押す。目を閉じたまま思いっ切り。無情の響きが落ちていく――
怖くて目が開けられない。足が震えだす。だめよ、逃げちゃだめ。目を開けた石段の下にあの子が倒れている。私は夢中で石段を駆け降りた。
救急車で運ばれたあの子の倒れていた所には、赤黒く光る石畳と菜の花の香りが静かに残っていた。
あの日から私は苦しんだ。
『何度あの子を苦しめれば気がすむの』誰かがそう呟く。
私は無意識に歩いていた。そして病院迄の道程をどうやって来たのかも分からず、気付くと受付に立っていた。
「田崎さんは301号室です。でも――」
私は看護婦の言った言葉を呟いた。
(記憶がない……)
いつからか持っていた菜の花を見つめると、あの日の事を思いだした。
――白く輝く砂浜。エメラルド色の波が寄せる海。あの子は砂浜を駆けている。もう逢えなくなる事を思うと私の細い身体が震えた。あの子が駆けてくる。私は手を差延べてあの子に応える。私の腰を小さな両手で抱きしめてあの子が私の身体に顔を埋めた。瞳が熱くなるのを堪え私は無情の笑顔を作っていた――
病室にはあの子が横になり子供の頃の顔をしていた。
私は「気分はいかがですか」と言った。知らない人の振りをしてそう言った。
本当のあの子がそこに居るのだと思った。私は心の底で願う。
(時が止まってしまえばいい)
菜の花がそっと風に吹かれて、その香りもそう呟く様な気がした。
信じてくれますか、信じてくれますか、いや止しましょう。あなたはきっと信じて下さらないわ、私にはわかりますの。いいわ、あなた、そこに座って煙草を吹かしていて頂戴。私、勝手に一人でしゃべくりますから。御心配なさらないで、なさらなくって結構よ、神など信じちゃいませんから。私、あの世を信じるほど御めでたかなくってよ。だからそんな疑り深そな御目をなさらないで。
私、見てしまいましたの。決して嘘では御座いませんわ。少なくともあなたほどの嘘つきじゃなくってよ。嘘つきじゃなくってよ。決して嘘つきなんかじゃないわ。今畜生! あなたは病気よ! この浮気者め!
いいわ、止しましょう、止しましょう。今はその話は止しましょう。私にも悪い所はあったのですから。確かに私にも非はありました。ありました。確かにありました。だからって何よ! 今畜生! 畜生め!
いや、止します止します、止しますわ。金輪際、この話は致しません。だからそんな疑り深そな御目をなさらないで。そんな目は止してください。止して下さいったら。止して頂戴! 今畜生! 浮気者浮気者! この裏切り者め! 子供まで孕ませやがって、どうする気だ、畜生! 今畜生! 畜生め!
ああ、キリスト様。どうかこの罪深き私をお許し下さい。たった一度の浮気すら許すことのできぬ、このちっぽけで哀れな子羊を、どうかお許し下さい。
あなた、死にましょう。私と一緒に死んでください。今度は冗談じゃなくってよ。私、今度はきちんと始末いたします。何もおっしゃらないで。おっしゃらないで下さい。あなた、もう誤魔化されはいたしません。ああ、止してください、止してください、その目つき。私、狂ってしまいそうですわ。
いいわ、私、一人で死にます。あなた、お幸せに、どうかお幸せに。いえ、皮肉じゃなくってよ。皮肉なんかじゃ御座いません。悪いのは私ですもの。ご迷惑はお掛けいたしません。籍を抜いてから始末いたします。そういたします。
止めましょう、こんな話。御飯に致しましょう。お腹が減ったでしょう。嫌ね、私ったら。御飯前にこんな話をして。美味しいものも不味くなってしまいますものね。止しましょう止しましょう、こんな話。家ん中が暗くなってしまいますものね。止しましょう止しましょう、こんな話、二度といたしません。
「この本を……売りたいんだが」
周囲を伺いながら、その背の低い男は本を差し出した。
「買い取りですね」
店員の野間紀夫は、カウンターに置かれた本に視線を向ける。
「あんまりいい値段じゃ買い取れませんよ?」
本を一瞥するなり、野間はそう言った。
「いくらでも、安くても構わん。早く値段を言ってくれ」
男の手は震え、その目に落ち着きはない。
「こんなところですが」
「それでいい、充分だ」
野間が差し出した硬貨を引ったくって、男は店から出て行った。
(よほど金が欲しかったのか――それとも、この本を持っていたくない事情でもあるのか)
野間は表紙の端を指先でつまむ。
古びて、固くがさがさした感触。作られた当初の面影はない。
ページをめくる。
文字はアルファベットだった。
(英語――いや、違うな)
なのに、何故か、野間にはその内容が分かった。
また、ページをめくる。
――それは一人の男の物語。
(ふうん)
野間は次のページをめくる。
――絶望の淵にいる男が、世界をも支配出来る力を持つ。それは神の領域をも侵す、冒涜的な力。
無意識のうちに次のページをめくっている。
――その力を使い、自分の絶望を駆逐し、運命をも変貌させる男。
目は常に先の行を追う。指は常に次のページをめくろうとする。
――だが、神ならざる身の彼に、その力はあまりに大きすぎ、あまりに魅力的だった。すぐにそれだけでは飽きたらなくなった男は、己の欲望を満たすためだけにその力を振るい始める。
いつしか野間は、周囲の何も目に入らなくなり、何も聞こえなくなり、何も感じなくなっている。
本の世界に魅入られていく。
本に、魅入られていく。
本に魂を奪われる。
これ以上ページをめくり続けたら。
――力に溺れた男はついに。
めくり続けたら。
――ついに。
続けたら。
ついに。
(だ、駄目だ、このままでは!!)
ばたん。
音を立てて、野間は本を閉じた。
「ふぅ……」
彼は小さく溜息をつき顔を上げる。
ガラス戸越しに見える店の外では、パリジャンたちが足早に夕暮れに染まる通りを行き交っていた。
一体どれだけ時間が過ぎたのか、時計を見るのも何となく怖いほどだった。
「こんなの読んでるとこ、店長が見たら何て言われるか」
野間は本を買い取り済みの棚に置いた。
「――留学すると色々発見があるっていうけど」
本の表紙に視線を向けた。
「フランスでも出てるんだ、ドラえもんって」
21世紀生まれの私が会社に入った頃は、「えぇーっ、僕も年取ったなぁ」なんて先輩に言われたものだったが、今じゃそれも遠い昔の事だ。そんな私も来月には定年だった。
子供が出来たと電話を受けたときには、女房の顔を思わず見てしまった。私が外で誰かとそんな事をいつしたっけかなぁ、なんて考えて、そりゃ何かの間違いだろうと思い直し、そんなはずは無いと電話口で泡を飛ばしていると、女房に受話器を取られてしまった。
女房は受話器を抱え込んで、一向に話をさせてくれないから、私は最近御無沙汰だからといって、外でそんな事をした覚えもないし、第一出来ない等と考えていると、女房は勝手に電話を切ってしまった。
「私だって話たかった」と怒る私を尻目に、女房は内容を話してくれた。
どうやら子供といっても、女房のお腹を痛めた子でもなければ、私のタネを受け継いだ子供でもなかった。最近巷で流行りだした親指太郎の事らしい。あぁ、そういえばそんな申し込みをしたような気もする。最近物忘れが激しくて、ぼにゃりとしか覚えていない。
親指太郎は、ただ単に人間を小型化しただけの生物で、能力は殆ど人間と変わらないという。大人になっても4センチ程の大きさにしかならない。まぁペットのようなものである。
ただペットとはいっても人間としての出生証明も必要だし、大きくなれば税金だって払う必要がある。子供のいない夫婦にとっては、科学というか医学の大きな進歩である。
人間の皮膚から作り出されたクローン人間モドキである親指太郎は、勿論クローンとはいっても、欲しいと願う人間に合わせて性別が選べたから、夫婦の両方の皮膚から遺伝子を取りだし、親指太郎やら親指姫が作り出され、子供のいない我々には、まさに天からの授かり物だった。
子供は家に来た日付と昔話から、法師と名付けた。
法師は可愛くて大事に育てたが、誤って踏んでしまっても平気で、テーブルから落ちても怪我ひとつしなかった。なんでも虫と同じで身体が小さい分だけ丈夫だという。
知能指数は我々夫婦の子供なのに異常に高い。きっと遺伝子操作のせいだろう。
法師は小さかったが成長した。
「お父さん。お母さん。お願いがあります」
ある日突然、法師が改まった様子で、私達の前に正座した。
「僕はネオ京都へ行って、立派な人になりたいと思います。行かせて下さい」
「頑張ってね」
妻は当たり前の様に、針で作った刀を渡した。
桜の木の下には屍体が埋まっていると、幼い私に教えてくれた人がいた。それが誰だったのか、遠い昔のことなので記憶は定かではない。その人が言うには、世のほとんどの大人が、人を殺めて桜の下に埋めたことがあるのだという。こんなに多くの桜の木があるのは、人を殺した人間がそれだけ多い証なのだそうだ。
その話を聞く前から、また大人になってからも、私は人を殺したことなどなかった。それは私のささやかな誇りであったが、同時に私の精神を脅かしてもいた。周囲の罪人達の中で、私一人が罪を知らない異質な人間なのだ。この世の在り様に同化できずにいた私は、いつも漠然とした不安と孤独を抱えていた。そして、その苦しみを誰にも告白できなかった。
ある夜。痛いほどの静寂に追い詰められた私は、純粋だが孤独なそれまでの人生に、もはや耐え切れなくなった。誰でもいい、同志として自分を受け入れてくれる相手が欲しかった。しかし、密やかに生きる無垢な異端者を探し当てることなど、自分にできはしない。積年の孤独に終止符を打つ手段はただ一つ。人を殺して桜の木の下に埋めるのだ。
折しも、桜の蕾がふくらみ始めた頃であった。犠牲を求めて闇夜にさまよい出た私は、気の早すぎる花見客が桜の下で酔いつぶれているのを見つけると、手にしていた鉈で首をザックと切りつけ、その場に穴を掘って埋めた。
その年の春の盛りは、これまで感じたこともないほど安らかな心で迎えることができた。もう一人ではない。罪人の仲間入りを、私は果たしたのだ。件の桜がつけた花の薄紅色の花弁が舞い散る下で、私は陶然と立ち尽くしたものだった。
そうして、幸福な一年が過ぎた。
私は今、あの桜の木の下に、あのときと同じように立ち尽くしている。満開の桜の木々が霞のように淡い花を咲かせる中で、その桜は一本だけ、周囲を圧して燃え立つような、緋色の花をつけている。屍体から啜った血と腐汁とを、一年の歳月をかけて、桜は花と成したのだ。
私は悟った。桜の木の下に屍体など埋まっていない。世の中は、私の信じていたそれではなかった。しかし私の手は、すでに血で汚されてしまった。善良な人々の中で、私はただ一人の隠れた罪人となり、再び異端者として生きてゆかねばならない。そして、生きている限り、この孤独が終ることはないのだ。
風が口に運んだ緋色の花弁を噛むと、鉈で首を切りつけたときに浴びた返り血と同じ味がした。
丸三日の泊まり込みが終わり、夕刻帰路につく体は、疲労感に満ちていた。仲間の目を盗んで購入した娘への誕生日プレゼントを忘れずに携えていたのがせめてもの救いだ。大通りを下れば、駅はもうすぐだ。目前に自動改札機が迫る。多少の違和感を感じながらも定期券を滑り込ませる。
「ブー」自動改札の扉が閉まり、私は拒否された。しばらくして現われた係員は、改札機の側面を開き、私の定期券を取り出した。
「これ、電車の定期券じゃないっすか」係員は定期券を玩びながら呆れ顔で言った。「ここ電車の改札じゃないんすから、ちゃんと時制局の通行券で通って下さい」
「ジセイキョク?」要領を得ない私に説明する代わりに定期券をつき返した係員は、「他の方の迷惑になりますから、とにかくそこをどいて下さい」と言い残し、どこかへ行ってしまった。確かに私の背後には自動改札を通過せんとする人々が立ち往生して、それぞれに非難の視線を投げかけていた。
わけのわからない私は、とにかく人波から離れ、辺りを観察した。確かにそこは、私が通勤に用いている路線の駅ではなかった。ずらりと並んだ自動改札機の色や形も見慣れたものとは違っていた。通常であれば、駅名が書かれてある場所には「時間管制局改札所」と看板が掲げられていた。不意に肩口をつつかれ振り向くと丸眼鏡をかけた男が満面に笑みをたたえて佇んでいた。
「あっあんた、本当に時制局のこと知らないのかい。結構なニュースだったのに」その後の丸眼鏡の話は、真に驚愕に値するものであった。
政府は税収の伸び悩みに対する打開策として時間への課税を決定し、時間管制局を設立。明日への通行料を徴収するシステムを確立し、通行券販売を開始した。通行券無しには明日を迎える事は出来ない。もちろん、回数券、定期券、周遊券やタッチアンドゴーのプリペイド券も整備された。
ここまで一気に語った丸眼鏡は、もうすぐ事務所が閉まるから、回数券や定期券の購入は不可能であり、通行券を購入するには、自動販売機の長蛇の列に最低でも三時間半は並ばなくてはならないという絶望的な状況も説明してくれた。
「でもね、魚心あれば水心。ここにちょうど余った通行券があるわけです」丸眼鏡の奥の瞳が狡猾に光り、私は彼の真意を悟った。
プレゼントを携えて帰宅を急ぐ私に選択肢はなく、丸眼鏡から言い値で券を購入した。
自動改札は通行券を飲み込んで、私は高価な明日に向った。
「やれやれ。いったいどうしたの?」
一ヶ月前に飲み屋で知り合ったばかりの大学生の男の子と夜の街を走る。警察に追い掛けられて。
「殴ってやったのよ、警官を」
ネオンが尾をひいて視界を過ぎ去っていく。悪くない。偶然会っただけの彼が一緒に逃げているのはどうしてかよく分からないけど。
「そりゃまた、どうして?」
なんて落ち着いてるのかしら。変な人。
「バス停で痴漢をひっぱたいてやったら、そいつがいきなり大声出して警察呼んだのよ。そしたら警察のやつ私の話も聞かないで交番に来いって強く腕を掴むから頭にきて。被害者は私よ」
「確かに痴漢だったの?」
「間違いないわ」
彼が軽く手をひいて私達は細い路地に入る。
「説明すればよかったのに」
「あいつら全然聞かないの。人前で私のこと犯罪者みたいに扱って。それにね、私、警察って大嫌いなの。人を見下したように威張ってて。自分達だって犯罪まがいのことしてるくせに」
「まっ、あるかもね」
「名誉毀損よ」
「警察っていうのはそのくらいのことならいくらやっても許されちゃうからね」
「それが許せないわ。私の正義は誰が守ってくれるの?」
彼に手をひかれ着いた先は駐車場で、彼はそこに停まる一台のエンジンをかけた。
「乗って」
「なんで?」
「僕もあんまり好きじゃないんだよ、ああいう連中」
「最低。信じられない」
悪いのは痴漢と私を犯人扱いする警察。なのにどうして私達がパトカーに追われなければならないの?
「しつこいなぁ。でも大丈夫。ちょっと奴らを試してやろうぜ」
彼はそう言うと街をぐるぐる走り、少し差をつけるとクルマを乗り捨てた。私達はコンビニの角の路地に身を隠した。二人の警察が彼のクルマの後ろにパトカーを停めるとスモークガラスになっていて中の見えない運転席のドアを叩いた。
「おい、出てこい、おまえら」
おまえ、だってさ。彼が暗闇で肩を竦めるのが分かる。逃げたのか?いや、そんなはずはない。警官達のそんなやり取りの後、一人が「おまえら、ふざけんなよ」と大声で言って彼のクルマのドアを思いっきり蹴った。そのとき通りに大きな爆音が轟いた。
「人のクルマ蹴ったりするからだよ」
警官二人だけが爆発に巻き込まれた。自業自得だ。
「さっ、行こう」
私の手をひき歩き出す。
「クルマ爆発しちゃったよ」
「いいよ。古いクルマだし、それで君の正義が守れたんならそれもありかな、なんて」
こうして私にも素敵な恋人ができた。
あたしの姉は、いつも空を見ていた。
宝石のように黒い髪を背中に垂らし、ベランダで飽きもせずに、いつも空を見ていた。
綺麗な、とても綺麗なあたしの姉はいつも空を見ていた。
「ごめんね、いつも宿題観てもらって」
「良いのよ」
そう言いながら姉はすらすらと問題を解いている。
「ユキは勉強より絵の方が好きだものね」
その横顔の美しさにあたしはいつもどきどきする。
「あーあ。勉強なんてくだらない事なんで有るんだろね」
「仕方無いわよ、世の中くだらない事ばかりなのだから」
「あ、お姉ちゃんでもくだらないなんて思うの?」
「思うわよ」
「へえ意外」
「あら、そう?」
「うん。お姉ちゃんはそんな事思わないと思ってた」
「そんな事も無いわよ」
「だからいつも空を見てたりするの?」
「空?」
「うん、いつも見てるじゃない」
「あははは」
突然姉は笑い出した。
「な、なによう」
「空なんか見てないわよ。空なんて、ただ青いだけじゃない」
「じゃあ、いつも何を見てるの?」
「太陽よ」
そう言って姉は窓に顔を向けた。
「また大きくなってる」
「え?」
「ユキ、太陽って少しずつ大きくなってるって知ってる?」
「うん、学校で習った気がするけど」
「何の為か知ってる?」
「さあ」
「この世をね」
「この世を?」
「この世を焼き尽くす為よ」
そう言って姉は笑った。
その笑顔を見てあたしは様々な事が解った気がした。何故姉はこんなに美しいのか。一体何を求めているのか。
(ああ)
なんだかひどく解ってしまった気がした。
「そうなんだ」
「そうよ」
彼女はゆっくりと続ける。
「世の中ってさ、くだらない事ばかりじゃない。本なんて読み飽きてしまったし、馬鹿な人ばかりだし、みんな嘘つきで」
なんて楽しそうなのだろう。
「そんなこの世を焼き尽くす為に太陽は、少しずつ少しずつ大きくなってるのよ」
「そっか」
「そうよ。だって」
なんて美しいのだろう。絵筆なんかでは追いつけない位に美しく、本当に美しく。
「だって解るもの。少しずつ大きくなるのが解るもの。毎日見てるから解るもの」
太陽を背に、笑う姉は美しかった。どうしようも無く美しかった。
姉はあたしが15の時に事故で亡くなった。呆気なく彼女は一人で逝ってしまった。
花に囲まれた彼女の棺を見てあたしは、ああ、お姉ちゃんの願いは叶ったのだ。叶ってしまったのだ、と思った。
そう思って泣いた。
この物語がハッピーエンドかどうか、あたしは知らない。
「ねえ、ワタシのこと、愛してる」
ケイコは潤んだ瞳を上げてススムに囁いた。甘く切ない声で。
「モチロンだよ。世界中でケイコが一番好きさ。君となら死ねる!」
ススムは真面目な顔で断言する。いつもならぷっと吹き出すところだが、窓の外を流れ落ちる夜の雨が不思議な気分にしてくれる。ケイコは素直に嬉しいと感じて、パッと顔を輝かせて言った。
「うれしいわ。ワタシもよ。この気持ちは変わらないと誓えるわ。死ぬまですきよ。いいえ、死んだって二人は一緒よね。世界の終わりが来たって、ワタシ達の愛を邪魔できないわ」
二人は堅く愛を誓い合った。恋人という人種が産まれて、何十万、何億万組のカップルが交わしたであろう陳腐なセリフが今夜も繰り返されていた。
「ワタシが死んだら、どうする?」
ケイコが甘えた声で問う。
「モチロン。ボクも後を追うよ。君一人で逝かせやしない」
ススムの答えにケイコは満足げに頷き、頬に軽くキスした。
「じゃあ、シュウマツの日にはわたしに何をしてくれるの」
「君の好きなモノを何でも食べさせてあげるよ」
「ホント! ワタシ、ラーメン食べたいわ。ホラ、駅前の老夫婦がやってる。最期に食べるんだったら、断然あそこのネギラーメンよ。仕上げのゴマ油の匂いは食欲をそそるのよね」
「そんなんでいいの。お安いご用だ。さあ、今から出かけようじゃないか」
「でもこんな時間にお店開いてるかしら?」
「ここに来る前に看板に灯がともっていたよ。それにあそこのご夫婦ならどんな時でも店を開けてるよ。いつか働きながら死ねたら本望だって言ってたじゃないか。仕事が生きがいなのさ。きっとボク達が行けば喜ぶと思うよ」
ススムはそう言うとカギを持った。ケイコがそのカギをゴミ箱に捨てる。チャリンとガラスでできた地球のキーホルダーが鳴る。二人は微笑みながら仲良く扉を開けた。カサはささない。今は雨さえもいとおしいというように。
二人のいなくなった部屋ではつけたままのテレビが青白い光を放っている。単調なアナウンスはこの国へ落ちる核弾頭の到着時間をカウントしていた。
THE END
その頃住んでいた家にはまるで釣り合わない大きな和風の庭が付いていて、未だ生きていた祖父は朝から晩まで花木の丹精をしていた。 隙間が目立つ生垣は枳殻、丹念に刈り込まれた植込みは躑躅、門の傍には唐松、そして隅には梅。 その薄紅の蕾が丸く膨らむのと同時に、白と黒で統一されていた景色が緩んで、淡い色が辺りに滲み出すのが常だった。
あれは在り来りな春の夕暮れで、所々に配された石の窪みや、苔むした木の罅割れに、薄暗がりが溜りはじめた頃合いだった。首筋を撫でる風は依然として冷たかったが、構わずに庭に面した縁側に足をだらしなく投げ出して座っていた。 頭を重力に逆らわずに仰け反らせていたので、眼には日毎に近く力強くなってくる空と其処に微かに残る日差しの名残が戦いているのが映っていた。 それが空気の震えとなっては手足の先をぶれさせ、乾いた粉末へと変化させていくようで、何だかとても億劫だった。
視界の外で微かな音がしたのはそのときだった。 おざなりに首だけを回すと、梅の前で誰かが爪先立っているのが見えた。 それ迄見たことのない艶やかな黒い髪が一筋を残した他は項で奇麗に二等分されて、両肩から前に流れていた。 背中にうねる一房は、墨を筆にたっぷりと含ませて線を引いたとしたら、あんな風になるのだろうか。 そればかりを暫く見ていたような気がする。 梅は丁度満開を過ぎた頃で、白く細い指先が梢を掠める度に、薄紅色の花片がひらひらと散った。 桜だけではなく、梅もまた春を惜しむ花なのだと思い、そしてやっと侵入者の意図に気が付いた。
下駄が飛び石に当たって、広がりはじめた夕闇を切り裂いたが、人影が振り返る様子はなかった。 脹脛は忙しなく上下したままで、近付くほどに微かな吐息が耳に届いた。 花片が落ちる中を溜息だけが上昇している。 彼女は頭一つ分背が低く、背後から簡単に目当ての枝に手を伸ばすことが出来た。 軽く指に力を込めた際の、ぱき、という音が耳に残った。
手渡した花を追って、驚きを見せないまま目線も下に向かった。 つられて肩に流れていた髪が前に落ち、それから、少し乾いて白っぽくなった唇の両端が微かに、けれども均等に持ち上がったのが見えた。 身を翻すと花盗人は来た時と同じく唐突に庭を去っていった。
ふと吸い込んだ空気は必要以上に甘く、梅の花は絶え間無く散り続けていた。 生垣から覗く道には、最早誰の姿も気配もなかった。