第35回1000字小説バトル Entry31
君は、ここに居ること。
きっぱりと僕は告げた。
妻は大きく息をつく。
どちらかというと硬質な彼女の瞳を、涙をたたえたような
ふっくらした瞼が綴じ込む。
そしてゆっくり眉とともに持ち上げた。
陶器でできた人形のような、いつもの視線。
いつもの言葉。
そう、だものね。
終わり。ここで、終わり。
訳を尋ねないのは
尋ねさせないのは、
夫婦の間の決めごとだから。
理由があるなら最初に言うこと。
つけたされた科白ってのはロクなもんじゃなかったろ、
僕が一方的に強いたのだけど。
このときも、妻はやっぱり裏切らなかった。
そうだものね、
彼女がこう言ったあとはたいてい、何かが少しだけ狂う。
といっても
コーヒーがぬるい だとか
テレビが真昼もつけっぱなし とか
とるにたらないこと。
けれどあの次の朝は、
たまごがすっかり固ゆでになってしまっていて
僕も妻もかなり落ち込んだ。
毎日の電話で妻は、いろんなことを喋る。唄う。僕も、笑う。
彼女の声はとてもしっかりしていて、
いつもそばで聞いていたそのまんまのトーンで
唄ったり、笑ったりするものだから
しばしばむこうが真夜中だったりすることを忘れた。
ところがどうやら彼女がまったく気にしないふうなので
すっかり安心して僕らは繋がっていた。
妻がうたうのは童謡や唱歌が殆どで、実際僕は
全くこれを、愛していた。
もっとも美しい、彼女の才能。
僕の左の耳だけに咲く。
月明かりが恋しいこと伝えると しばらくのあいだ
夜ごと違った光を浴びせてくれた。
荒城の月、おぼろ月夜、十五夜お月さん、・・。
月光仮面 には不意を衝かれて ほんとうに受話器を落としてしまった。
妻はそのようすが相当可笑しかったらしく
そのあともときどき、唐突に月光仮面を唄いだしては笑う。
月のさばくは、僕も一緒に唄った。
妻と出会い、おそらくもう何十回も聴いた唄。
死に場所は此処、君が言い切る 唄。
きっと、ラクダなの。あなたとずっと彷徨う。もちろん、
あなたはあなたのままでいて。
思わず触れずにはいられない、
君の瞼はいっそうあたたかい。
ほんとうだ。駱駝 、
月の砂漠をゆく目だこれは。
この、温度は。
そう だから、僕だけがここに居る。
二人が一緒に出て行くところは
月のさばく、だけがいい。
受話器を置いた。 さて。
いざ、妻のもとへ。
明日の朝には
とろける黄身に、もううっとり。