第35回1000字小説バトル Entry32
休日の繁華街で十年ぶりにあの人とバッタリ会った。
あの人はひとり、私は五歳になる息子を連れていた。夫は仕事が忙しく、今日も休日返上で出社している。
「やあ、久しぶり。元気そうだね」
奥二重の控えめで優しい眼差しも、少しふっくらとした柔らかそうな唇も懐かしいあの頃のままだった。
「うん、神崎さんも元気そうで……」
それ以上、掛ける言葉が見つからない。
事実、あの唇は「柔らかそう」なのでは無く「柔らかかった」のだ。そしてその柔らかい唇は何度も私の名前を呼んだんだ……「朋子」と。
「お子さん?可愛いね。僕、いくつ?」
「ごさい!」
あの頃……私達が付き合っていた頃、彼にも同じ歳の娘がいた。俗に言うところの不倫関係にあった私達は燃えるような恋をしていた。
私も若かった。若すぎて、彼の背負う家族や責任や戸籍が憎くて我慢出来なかった。離婚届けに頑として判を押さない彼の妻にしびれを切らして「かけおちしよう」と駆り立てたのは私の方だった。
彼は私の為に、何もかも捨てる覚悟でいたんだろう。そうさせたのは私だ。
それなのに私は約束の待ち合わせ場所に行かなかった。根が小心者の私は、その場に及んで怖じけついてしまった。
「あの時……」
「ん?」
「待ち合わせた時……神崎さんは私が来るのをずっと待ってたの?」
忘れた事なんて無かった。いつでも、どこでも、何をしていても、その後ろめたさは尖った小さな塊となって、この十年間、私の心の柔らかい部分をチクチクと刺激し続けていた。
「行かなかったんだよ、あの時……。実は急に怖くなって行かれなかったんだ。でも……って事は君も来なかったって事だよね?」
来なかった?約束をすっぽかしたのは私だけじゃなかったんだ。
「なんだ……実はこの十年間、ずっと気になってたの」
「本当言うと僕もだよ。でもこれでお互い様って事だよね」
良かった。これでいつも私を縛っていた思い出から解放される。
「神崎さんのお子さんも、もうずいぶん大きくなったでしょう?」
「離婚したんだ。娘とはもうずっと会って無いよ。じゃ、僕はこれで」
そう言って彼は、ゆっくりさよならを言う暇も私に与えずにきびずを返した。
来てたんだ。きっと彼はあの日、今にも雪が降り出しそうな長距離バスのターミナルでひとり、ずっと私が来るのを待っていたんだ。
「待って、神崎さん!」
足早に立ち去ろうとする彼の、その頬を伝うひとすじの涙を私は見逃さなかった。