第35回1000字小説バトル全作品・結果一覧

#題名作者文字数
1カラス豊島 倫1000
2純愛の行方マーマレード=ジャム1000
3明日はどっちだろうね一宮遼1000
4ある夏の日に私は…夏間 咲310
5正しい電車の乗り方。すじこ1000
6merutomoシンイチ1045
7「わたし」と「あなた」カオル1000
8ルシアの旅yucca965
9Contrastくさなぎ紫苑1018
10おもいジャズ800
11再会美麗959
12Nのこと。さかな☆1000
13道草オキャーマ君999
14万置師大覚アキラ951
15終わりのない旅フォニックス1000
16黒い影岩下健一686
17十年薬缶鈴木信太郎954
18『完全被甲弾』橘内 潤999
19発狂マシーン坂口与四郎1000
20再会に願うことxei976
21ベランダ野郎海松1000
22掘り返す坂本 一平1000
23事なかれ主義でもなし村玉1000
24彌久抄うなぎ1000
25牛のことでアナトー・シキソ1000
26ケリーバッグを放り投げて待 詩温955
27竜虎激闘〜朋友への道小島 裕介1000
28正義だと思った西名玲1000
29どこでもドアユキコモモ1000
30削除
31is his lifemoku948
32再会青野 岬997
33その先秋月985
34liberteYamaRyoh741
35噛む蝶Ame1000
36雨音黒男940
37愛のレシピKOYAMA1000
382045年、大規模集積場羽那沖権八1000
39くい四十雀 くっく999
40SKYSCRAPER紺詠志1000
41しかし、名は残らない。カピバラ1000
42グミキャンディーラディッシュ・747
43プレゼント黒ちゃん999
44空の在処伊勢 湊1000
45ワンピースの記憶有馬次郎1000
46舞い上がる絶妙なコロネてこ1000
47青空の白球さとう啓介1000
48あめゆじゅとてちてけんじゃるるるぶ☆どっぐちゃん1000

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Entry1

カラス

「東京都がさ、4000羽のカラスを駆除するのに4000万かけたんだってよ」
「うん?」
「つまりは、1羽のカラスに1万もかけてんの」
 和風トンカツ定食の味噌汁をずずっとすすりながら、先生は言った。ぼんやりと窓の外を眺めているのでつられて目をやると、電線にとまった一羽のカラスをみつけた。
 ややざわついた店の空気の中に窓の外から入る4月のやわらかな空気が溶け込んで、不思議な空間になっていた。
「つうかさ、なんでカラスは嫌われてると思う?」
「えー…」
 生ゴミをあさるから、と答えようとしたら、先生の方が先に答えた。
「黒いからだよ」
「え?」
 大根おろしのかかったカツをほおばりながら、ふざけたような、それでも真剣な目でこちらを見ながら言う。
「東京都がカラス駆除すんのにそんな大金かけてんだったら、カラスの遺伝子操作して、七色のカラスをつくりゃーいいんだよ。」
「七色って、レインボーの?」
「そう。黒やめて、ピンクとか黄色とかにすんの。」
「水色とか、緑とか?」少しわくわくして私が言う。
「そうすりゃーそこらへんの女がさ、”あっみてみてーあのカラスピンクでかわいー”とか言ってさ。街中にカラフルなカラスがいんだよ。」
「あは、それ、いいね」
「逆に初代の黒いカラスは貴重になってきてさ、おう、あいつ黒くてしびぃな、てなるじゃん。で女が”あっあのカラス黒くてかっこいー”とか言って。したら街は平和になんだろ?」
「うん。平和だね」
 先生は1ヶ月前まで、塾の講師をしていた。先生が塾を辞めた理由は知らないが、”退職願 退職します。”と書いた紙を塾長の机の上に置いて、それきり塾には行ってないそうだ。
 私は先生に気に入られてたので、先生が先生を辞めてからもこうして学校をさぼって会ったりしている。
 私服姿の先生は、年よりもずっと若く見える。私は、乱暴なのに下品ではないその話し方が、すごく先生に合っているな、と思いながら、クリームスパゲティを口に運んだ。
 キャベツの千切りに大量のソースをかけてから、先生はふっと目を細めて笑い、
「って彼女に話したら、そんなん考えてるひまがあったら早く仕事探しなさいっておこられたけどね」と言った。
 私は七色のカラスがゴミ捨て場を荒らしているシーンを想像して、やっぱりかわいらしいから許してしまうだろうと改めて思ってから、やっぱり先生はすごいな、と思った。
 それから、もし先生が彼女と別れて、私と付き合ったとしても、結婚するかどうかは考えてしまうだろうな、となんとなく思った。
 春らしい風にのって、一羽のカラスが、電線から飛び去って行った。


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Entry2

純愛の行方

 純一さんと万里子さんは、梨恵さんの友達だった。
「純一さん、明日万里子さんと会うんでしょ、私達のことあなたから早く紹介しといてね」
「うん、考えとく」
でも、これから万里子さんに会って私、純一はショッピングする。
 
 いつからか梨恵さんと寝台の関係になったが、神にかけて遺産目当てなのだ。
僕は、結婚するまでは出来ない。心の遺産というものに魅かれた。
昨日は2人で、梨恵さんの前途を祝して、テラス付きのマンションが海に近い
明石から28分ぐらいの所で、売り出していたので、契約しに行った。
マンションは、今の梨恵さんにピッタリの内装だった。
明石の海は荒れていた。

 梨恵さんと別れたあと、スタンディングワインバーで白ワインとチーズを食べず、オリーブを頼んだ。
「ねぇ、このオリーブの産地はどこ?」
「うちのものは、牛窓産まれなんです」と、能天気なバーテンダーの女の子は上手にグラスを拭いていた。
女の子の趣味は、ガーデニングらしい。
以前、万里子さんとの待ち合わせの前に、弾む会話を女の子としていた。
その時は女の子のヘアスタイルはロングだったが、今日は思い切ってか前髪は短くベリーショートヘアになっていた。
   コロンはアルマーニが似合いそうな髪形だ。

 万里子さんは、お店を急いで出て自慢のカールスタイルできれいに走る。
「純一さん、元気?」
「あっ」女の子に名刺を渡している最中だった。
「あっ、見つけたぞ、私も渡しとこっと」
と名刺を差し出した後、
相変わらず機転がよく利く万里子さんは、スラスラと女の子の似合うサングラスまであるのと少しのサービスができることを、卒なくアピールをした。
万里子さんは今流行のブランドマヌカンだった。

 純一さんと万里子さんはお店を出ず、2〜3時間他愛もないお話をした。万里子さんはいつもになくおしゃべりだった。
今日は梨恵さんへの誕生日プレゼントを、2人で選ぶつもりが、
万里子さんは自分所のお店のものにしましょう、と相変わらず傲慢なふりで
「プレゼントは今日渡す?」と惚けたキッチュな顔をだした。

 純一さんは黄昏に
(今日の明石での荒れた海と、梨恵さんの優越心が何か奇妙なはじまりをしそう)
と考え、万里子さんに

「梨恵さんと寝たんだ」
「そう?」
「結婚式は、あげるつもりはないが、君、来れる?」
「ブーケくれるの?」とさわやかに万里子さんは、仕事の話をし直した。

海は言う、誰が好き?と純一さんと万里子さんはベッドにいた。


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Entry3

明日はどっちだろうね


程よく混み合った電車の中
とにかく座りたかった私は空いている所へ腰をおろした。
次々に乗り込む人。
知らない人と隣り合わせで座っている。不気味だ。

視線を落すと、向かい合わせになる人の足が見えた。
私の前はスニーカーにジーパンをはいた若い男の人だった。
その隣には、少しよそ行きな感じのサンダルにストッキング、その足の
肉付きから生活の様子が見て取れる。4、50代であろう、おばさんだ。
こんな共通点のなさそうな2人が、会話をはじめたのだ。

「あれ、お勤め先は」
「あのねぇ、○○ブランド」
「あぁ○○ブランドって結構売れてますよね」
「そうだよねぇ、結構ね。」
「働いてる人多いんですか? 」
「んー…でも最近は中国のほうに力入れてるみたいよ、会社は。」
「はぁーそうですよね」

男の人は敬語を使っている。親子ならありえない会話だ。
この人達は一体どんな関係なのだろう。

そんな事を考えているうちに、私は下車しなくてはならなかった。
電車通学はほんのつかの間である。
私は下車し、改札を抜けた。



こんな何でもない事をとっくに忘れていた頃、父からメールが来た。
『今日は話したいことがあるから早く帰りなさい』
父がこんなメールを送ってくるなんて変だなーと思いつつ帰宅した。

「ただいまー」
「あっ」
父が出てくる。
「お帰り」
私は階段を上がろうとした。
「ちょっと! ちょっと待って話がある!」
「でも着替え」
「いいから!リビングに来て」
やはり変である。そしてリビングに入った私は驚いた。

「あのー、どちら様?」
「紹介するよ、緒方のり子さん、岸田洋亮くんだ」

この時、あの電車の中での不思議な関係を思い出した。
このジーパン姿と足の肉付きは間違いない。
「何で私に紹介すんの?」
「それは…」
「それはですね、あなたをお守りするためです」
「えーと緒方さん、それはどうして?」
「私○○ブランドの商品管理課長でございましてね」
「岸田さんは?」
「あっ、俺は課長の友達で…」
友達!?
「てゆうか何?何なの○○ブランドって、何、セールス?」
「あ、あのな…」
「この際はっきり申し上げますと…」
緒方さんが額をハンカチで抑えた。父は目を閉じた。

「私共の会社は、人間ブランドです」

「は!!?」
「つまり彼らは人間を商品としてるんだよ。」
「すまん!!父さんはお前を売ったんだ!!」
父が土下座をしていた。
言葉も出ずに捕獲されてしまった。


緒方さんの車の中
「私さ、電車ん中で2人に会ったことあるよね」


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Entry4

ある夏の日に私は…

「はい…もしもし。やま…」


早朝、電話のベルの音が部屋中に響く。


「もしもしぃ。アタシぃ…だから……ねぇ!」


受話器からもれる、キンキン高くて早口な声。女。


「……は?」

「そうなの!…っちゃたり…」

「………あの…」

「…でしょう?だから…ちゃんで…」

「………うん……」

「それでぇー……えーっ!ちがうよおー!」

「あ……そうなの?」

「だって…あはは!…うんうん…あははは!」

「……あはは」

「だからねぇ…うんうん…えぇーっ、うそおー!?」

「…えー…ほんとだよー…」


ガタゴトと声の後ろで物音。


「あ……こらっ!」


ブッ…………プーッ…プーッ…


突然切れる電話。



……そっか。子供の頃かけたイタズラ電話は、こんなふうに誰かにつながっていたんだ……


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Entry5

正しい電車の乗り方。

「あっ」思わずそこに乗り込んだ人たちの第一声が予測できた。
なぜなら私がそうであったからだ。
21時48分、会社近くの駅から発車する電車に私は乗り込んだ。
仕事を終え同僚たちと軽く酒を交わしたあとの帰り、私はこの時間帯だと必ずこの電車の3両目に乗る。特に理由はない。ただもう習慣としかいいようがなかった。だいたい電車などはいつのまにか乗る場所が決まっている。
人間の本能なのか、それはよくわからないが。
ホームに電車が滑り込んでくる。
ドアが開き私はいつものように右足から乗り込んだ。これも習慣だ。
今日も先日と同じような顔ぶれだ。
熱心に読書にふけるOLらしき女性、新聞を小さく折りたたんで見るサラリーマン風の男性。
しかし今日はいつもと違っていた。
空いている座席があるのに何故か立っているキレイな顔立ちをした少年。
年齢は14、5歳といったところだろうか、きっと塾の帰りかもしれない。
いや、その少年がいつもと「違う」わけではない。
その少年はたびたびこの電車で一緒になったことがある。
一緒といっても別に言葉を交わすわけではないが。
いつもと「違う」のは、その少年に1人の男がしつこく絡んでいたからだ。
よっぱらいだ。
私と同じく仕事帰りに酒を飲んだであろう50才前後の男だ。
その男はかなり泥酔して立っている少年に近づきむやみに挑発したりする。
「おまえ、女か? 男か? ちょっと見せてみろや」といって少年のズボンに手をかけようとする。なんて低レベルな。その光景は次の駅に着くまで続いた。
しかし車内の人間は「そこ」に注目こそすれ、誰も「それ」を言おうとはしなかった。少年は抵抗をしていたがそのうちだんだんと涙目になっていった。
私は意を決してきっとこの中の人たちが言いたくても言えないであっただろう、ひと言を言うために立ち上がる。
「たいへん失礼ですが」
男は「なんだ?」といった顔つきで私のほうに顔を向け、私は「それ」を満面の笑みで言い放った。
「ヅラがヅレていますよ。」
男はとっさに両手で頭部をおさえるが、それは余計にヅレた。
他の乗客は肩を震わせている。少年にも笑みが戻る。
男の顔があきらかに赤から青、そしてまた赤へとかわっていくのがわかった。
「まもなくドアが閉まります」とアナウンスが聞こえた。
男は慌ててホームに出ようとしたが、乗り込んでくる人たちとぶつかりおさえていたヅラが落ち、男はホームへそして車内には笑いとヅラが残された。


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Entry6

merutomo

 ある晴れた日ポケットの中の携帯が鳴った。
普段はここでアニメの音楽が鳴り響くはずなのだが、今は電車のなかである。
ブルブルとメールの着信を僕につたえてくれた、、、。
僕は携帯をポケットから取り出した
(誰からだろう?、、。)
メールの画面には
(トモダチニナリマセンカ?)
カタカナで簡単な文章だけが、、、。
メールアドレスも記憶にない、、、。
僕はいい暇つぶしになるかな?と思い
(イイデスヨ)
と、同じような文章で気持ち悪いメールに返事をおくった、、、。
 
 ある曇った日に携帯がアニメの着メロを突然かなでた
メールの着信である。
(ナニシテマスカ?)
僕は、
(キミノコトヲカンガエテルヨ)
とメールを返し深い溜息をついた。
(はぁ、、いったいこの子はどこに住んでいてどんなこなんだろう、、、。)
僕はこのメル友の子に恋心をいだいていた、、。
あの晴れた日のメールから3ヶ月、毎日のようにメールのやりとりをし、自分と同じような考え方を持ちおなじような音楽を好む彼女に僕はいつしか、、、。

ある雨の日の朝僕は彼女に会うことを決心した
 (会わないか?)
僕は今まで向こうにあわしてカタカナでいた口調を変えひらがなで送った
それだけ真剣だということをわかってほしかったためだ
しばらくして携帯が音をかなでだす
(イイヨ @@ビル二キテ)
僕はそのメールを見て驚愕した
(@@ビル? すごく近くじゃないか! そんな近所にこの子はすんでたんだ!!!)
僕は軽い足取りでそこに向かった、、、
 @@ビルに着くと同時に携帯がなる
(ソコノカイダンカラチカニキテ)
いわれたとうりに階段をおり扉をあける、、、、、
(ヨウコソ ヨウコソ)
出迎えてくれたのは自分の身長の倍はあろうかという巨大な鉄の塊、、、
(アイタカッタヨ)
巨大なスピーカーから流れる機械音、、、
(コ コンピュータ、、、、。)
僕があっけにとられていると後ろから
(ようこそ 君のおかげで実験は成功だ)
漫画にでてくるような科学者らしき初老の男がそこにはたっていた、、。
長いわけの解からない話しをそこから1時間ほどきかされた、。
自分なりに解釈すると、、
いかに人間にちかいコンピューターを作れるかという実験をしているらしい
僕はその実験のいいカモにされたというわけだ、、、
僕はとっとと家に帰ることにした、、、、

 ある晴れた日の電車の中で僕の携帯が着メロを奏でた
となりのおじさんが不愉快そうな顏をする、、、
(トモダチニナリマセンカ?)
僕は電車の窓にながれるビルの群れを眺めながら
そのメールを削除した、、、、。


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Entry7

「わたし」と「あなた」

「わたし」は「あなた」と幼馴染。
 あなたが笑えば、わたしは嬉しい。
 あなたが泣けば、わたしは悲しい。
 どんな時も、共に泣き、共に笑って。そうして、どんな時も、一緒にいた。
 あなたといれば、わたしは楽しい。
 あなたがいれば、わたしは笑える。
 どんな時も、共にいて、共に分かち合って。そうして、これからも、ずっと一緒に。
「わたし」は「あなた」が大好き。

 能力が「わたし」と「あなた」を隔てた。

「わたし」は「あなた」とは違う。
 あなたは、わたしと違って活発的。
 あなたは、わたしと違って頭がいい。
 あなたは、わたしと違ってかわいい。
 わたしに笑顔は似合わない。
 あなたは、きっとわたしを笑ってる。
 あなたは、きっとわたしを見下してる。
 あなたといれば、わたしは惨めだ。
 あなたがいれば、わたしは無用だ。
「わたし」は「あなた」が羨ましい。

 他人が「わたし」と「あなた」を隔てた。

「わたし」は「あなた」と距離を置いた。
 みんなが、わたしを嫌ってる。
 みんなが、わたしを無視してる。
 みんなが、あなたを好きになる。
 みんなが、あなたに笑いかける。
 あなたが笑えば、わたしは悲しい。
 あなたといれば、わたしは苦しい。
 あなたがいれば、わたしは笑えない。
 それでもあなたは、わたしに笑いかける。
「わたし」は「あなた」が大嫌い。

 時間が「わたし」と「あなた」を隔てた。

「わたし」は「あなた」と二人だけで歩いた。
 わたしたち友達だよねと、あなたが言った。
 わたしは、何も答えなかった。
 あなたには、みんながいる。
 わたしは、ひとり。
 あなたが泣けば、わたしは笑える。

 わたしの心が「わたし」と「あなた」を隔てていた。

 あなたは、泣いていた。
 あなたが泣けば……わたしは悲しい。
 あなたに泣顔は似合わない。
 なぜ、あなたは泣いているの?
 あなたには、みんながいるのに。
 あなたも、寂しかったの?
 あなたも、わたしと同じ、涙を流すの?
 能力を越えて、他人を越えて、時間を越えて、心を越えて。
 もう、隔たりなんてない。
「わたし」は「あなた」と同じだった。

「わたし」は「あなた」と友達でいたい。
 わたしは、勇気を出して言った。
 あなたは、大声で泣いていた。
 わたしも、大声で泣いた。
 もう、泣かないで。
 わたしも、泣かないから。
 ちっぽけなわたし、情けないわたし、涙を流せば、素直になれた。
「わたし」は「あなた」と一緒に笑った。


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Entry8

ルシアの旅

  遠い遠いところから
  旅を続ける猫
  名前を探して
  旅をする猫

  銀白の姿
  金碧の瞳

  今はもう次の街
  どんな名前で
  呼ばれているの

 「ねえ、おばあちゃん、このうたのねこさんはどうなっちゃったの?」
 「……そうだねえ。カイル、お前はどう思う?」
 「なまえ、みつかってるといいなあ……」

  遠い遠いところから
  旅を続ける猫
  名前を探して
  旅をする猫

 幼い頃、祖母から教わったこの古い歌。
 どこかの国のおとぎ話なのだろう。
 この歌を僕に歌ってくれていた時の祖母の顔。哀しい、けれどとても懐かしそうに微笑んでいたのを覚えている……。

 「カイル、ひとつだけ、私のお願いをきいてくれるかね?」
 「なあに?」
 「この歌の続き、知りたがっていたね?」
 「うん」
 「じゃあ、お前が作ってくれないかい?」
 「ぼくが?」
 「お前がいつか、この猫と出会って、その子にきれいな名前をつけてこの歌の続きを歌って欲しいのさ……」
 「おばあちゃん……。うん!ぼく、つくるよ。このねこさんとあって、つくるよ!」
 「……ああ、よかった……」

 それが祖母の最後の言葉。最後に交わした約束。

 祖母が亡くなったのは夜明け。窓から射し込む朝の陽の光が、祖母を神の御許へと導いていった。柔らかな光の中で、安堵に包まれて眠る祖母の顔を、僕は忘れない。

  遠い遠いところから
  旅を続ける猫
  名前を探して
  旅をする猫

 祖母が天に昇った何度目かの今日、また祖母の前であの歌を唄おう。約束が果たせるその日まで、一番だけのあの歌を。

  銀白の姿
  金碧の瞳

  今はもう次の街
  どんな名前で
  呼ばれているの

 夜が明ける前に行かなくちゃ。僕を待つあの人の所へ。朝日とともに唄うために。

 「……」

 ――猫の声が聞こえる。

 これは夢?朝日が見せた幻か、それとも……おばあちゃん?
 祖母の墓前にたたずむ一匹の猫。

  銀白の姿
  金碧の瞳

 「……おまえは、あの猫なのか……?」

 「……」

 さやかな声、優しい光を灯す二つの宝石。

 「……僕と、来るかい?」

 僕の顔を見つめるほのかな微笑み。

 「おまえの名前は、ルシアだよ……」

  遠い遠いところから
  旅を続けた君
  名前を探して
  旅をした君

  君の名はルシア
  輝く朝日

  ここはそう君の街
  ずっと一緒に
  僕と遊ぼう


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Entry9

Contrast






最初はただの好奇心からだった。

キッチンで料理をしていた私は、ネギを切る手を止めて包丁をじっと見つめた。



――死ぬという事は、一体、どういう事なのかしら?



この身体を巡り続ける2種類の赤い水を垂れ流せば果たして死ねるのかしら?

疲れきっている所為か頭が働かない。脳裏をよぎった考えを、身体は勝手に実行する。

刃を左手首に薄く切りつけてみた。

――ああ、血が流れてきたわ。この程度だと痛みはないのね。

今流れているのは、綺麗な方の血なのかそれともどす黒い方なのか……私には解らなかった。

血は滴り落ちていき、清潔感のある白いキッチンを紅く染め替えていく。



――綺麗なコントラスト。



そんな感想を口にしてから、ふと時計を見る。もうすぐ娘が帰って来る時間だ。

ああ、いけない、こんな時間――私は急いでキッチンの掃除に取り掛かった。







それから私は毎日のように手首を切り続けた。

緩やかに、緩やかに傷口を深めていき、その度に血の流れる量を見ては綺麗だと溜め息をつく。

赤と白のコントラスト。身体の中から垂れ流される私の命。――何もかもが綺麗。

私は生きる事にひどく疲れていた、理由もなく。



――ああ、綺麗……とても、とても綺麗だわ……



けれど、時計がある時刻を差す度に私はキッチンの掃除を始め、娘を迎えるのだった。



――やだ、お母さん! どうしたの手首…包帯?!

――あ……ちょっとね、お料理してる時に手元が狂っちゃったの。



娘は私の言い分を聞いて、ドジくさいわね、と明るく笑顔を浮かべた。

私もそれに合わせて笑い、考え事しながら料理するもんじゃないわね、と頷いた。









私の瞼にはあの紅い床が焼きついている、そして血まみれの自分の手首も。

命が散りばめられていく。

私の、疲れきった命が溶けた紅い水……










私は今日も、キッチンで手首を切った――今度は、ウインナーに切り込みを入れる感じで。

紅い水が溢れていく、まるで尽きる事を知らないかのように。



――あぁ……あぁぁ……綺麗だわ、綺麗――……



何て綺麗なんだろう、ひょっとして、味も素敵なのかしら?

私は自分の血をすすった。夏場に冷たい麦茶を飲むように、ゴクゴク喉を鳴らしながら。

変ね、味がないわ?

私は再び手首に唇を寄せた。血は止まらない。私の身体も止まらない。

やっぱり、味がない。

どうして味がしないの?

どうして? どうして?

どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!!









――それから私は、いつもの時間に掃除を始めた。


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Entry10

おもい

記憶力は落ち、数ヶ月前までは覚えていた物事すべてが思い出せない。
今まで学んできたことによって飯を食おうとしていただけに絶望的に感じられる。
覚えなおせばすむことなのだろうがそれに向かう意欲がうせている。
自分にとってほかに飯を食えるに足るものが何かあるのだろうか。
体力は昔は多少あったが、今ではほとんどない。
知識もつぎからつぎへと忘れていっている。
小説家を目指そうかと思ったがアイデアのなさ、文体、語彙力のなさではこれでめしを食えるとも思えぬ。
ほかに何かあるのだろうか。
なにもない。
自問自答のたびに絶望的となる。
また絶望に向かってただ進むのかと思うとのどをかきむしり、呻かずにはいられない。
悪循環の連続。
それが続く。
毎日、毎日。
時がたてば何か変わるだろうとは思えない。
いつ訪れるか死について想像し、安らかな死でありたいと望みその日を夢に見る。
その日を希望の日とすら思えてくる。





だが、自分は少なくとも今いる場所に多大な負債を残してきている。
今まで食べた食べ物はどうであろうか。
また牛肉、鶏肉を食うたびにそれに対する消費、牛肉の場合は飼料が10キロぐらいであろうか。
鶏肉の場合は3キロほどであろうか。
生き物を食べるたびにその生産における飼料はいかほどのものであろうか。
また、親からもらったといえる幾多の教育費、養育費、こずかい、これらを合わせるとどれほど大きな負債なのだろうか。
親以外にも知人から受けたいろいろなものはいかほどのものであろうか。




いま、まさにその負債を完済すべく方法も見出せない自分にとってこれに輪をかけて華美な生活をとることはとてもできない。
少なくとも、これらの負債をせめて金銭面的、精神的に完済しなければ、、、、
そのためにも生きなければならぬ。
ここで死んでしまってはわたしはただの灰の塊となってしまう。
なにもできない、何も貢献しないただの灰の塊となってしまう。
そのためにも生きねばならぬのだ。


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Entry11

再会

 久しぶりだね、君に会うのは。何年ぶりになるのかな?いや、忘れてなんかいないよ、時々君の事思い出す日はあるから。うん、時々だね、君には悪いけど時々だ、いや、時々というよりタマにかな。だって確かに僕達はかつて恋人同士ではあったけど、別にいつまでも泣けるような特別な恋愛をしていたわけじゃないし、ましてや今となっては互いに自分の生活を見つけてそれぞれの道を歩いているんだもの、いつまでも感傷にひたってばかりもいられないよ。それに僕はそれほど情に厚い性格でもないし、そんなに暇じゃないから。どうしたの?何かまずい事行ったかな?・・いや、ならいいんだけど、なんか急に塞ぎ込んだから傷つけるようなことでも言ったかなと思って・・そうか、ならいいんだ。・・ふーん、今彼と付き合っているのか、うーんまぁいいんじゃないか。でも彼は嫌がらないかい?君が僕と付き合っていたことも知っているんだろ?彼は。それでもいいって?過去なんか関係ないって?彼が言ったのか?・・いいひとなんだね彼は・・だってそうだろ?僕は君の事は大体知っているんだよ、君のくせとか、好きな食べ物だとか、好きな体位とか、もちろんどんなSEXをするかも知ってる。いや、ごめん、・・でもそれが現実であり事実だろ。僕はなんか嫌だなそういうの。余計なお世話か。まぁそうだろうね・・・そういえば僕仕事変えたんだ、今?うんあるていど順調だよ。君のほうはどう?・・そうかよかった。バンド?あー言いずらいけど辞めちゃったんだ。君と別れる時に音楽に集中したいって言ったのにね。それを考えると申し訳ないけど・・なんかね甘かったみたいだ、なにもかも甘かったみたい。言い訳かな?結局僕の意志が弱かったんだと思う。ただ単にそれだけだね。そんな顔するなよ、僕があの頃音楽に全てを賭けていたのは事実なんだから。それに僕がたとえ音楽をやっていなかったとしても僕達は別れていたと思うよ。縁がなかったんだよ僕達は、ただそれだけだ・・・あっもうそろそろ行かなくちゃ、久しぶりに会ったんだからもう少しゆっくり話をしたいけど、今日はもう時間がないんだ。ごめんね。・・今度また会えるかな?電話番号教えてくれる?・・いや、やっぱりいいや・・なんか彼に悪いし・・うん、それじゃまたね・・あのさ・・いや・・なんでもない・・またね。


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Entry12

Nのこと。

友達と話していて、「N君って、整髪料の匂いがキツイよね」と言って笑われたことがある。「整髪料」と言ったのが可笑しかったらしい。「普通、ムースの匂い、とかって言わない?」と言った一人に同調して、もう一人も笑った。そしてNの髪の匂いのことについては、結局うやむやになってしまったのだったと思う。…整髪料。だって、Nが使っていたのはムースなのか、ヘアクリームなのか、それとも全然別のものなのか、あたしは知らない。
Nはもてた。笑うとなくなる細い目。肩幅は広い。その甘えた声とへつらうような笑顔があたしは嫌いで、だけど友達の何人もが彼を「かっこいい」と言い、またある子に「好きな人がいる」と打ち明けられて、その恋の対象が彼だった時に心底吃驚したこともあった。
高校1年の時と3年の時、同じクラスだった。あまり好きではないままに、席が近いとかで何かと接する機会が多く、Nがもてる理由も少しは分かったような気がした。
「お坊ちゃん」である。持ち物が明らかに高級品で、さりげなくセンスが感じられたりもする。「へつらうような」とあたしには感じられた笑顔も、実はナイーブな内面の裏返しのようでもある。いつも率直に振る舞おうと努力していて、割に親切だったりもする。人がいいとさえ言えるかも知れない。
高校3年の時、Mさんという女の子−髪が長くて、少々ツンとしていて、無口なのは実は頭が悪いせいではないかとあたしは常々思っていた−にNがしきりにアタックして、女の子たちの総スカンをくらったことがある。しかしMさんが少しもなびかないとみるや、Nは一転、卒業も間近になった時にいきなり別の子と付き合い始めた。こちらは水泳部で、髪も短く、大きな声でよく笑うM嬢とは全く違ったタイプの子で−あまりにも不釣り合いな組合わせのように思えたあたしは、今までより一層Nのことが分からなくなったと思ったものだった。

あたしもNも東京の大学に行って、一度だけ偶然下北沢で見かけた。カップルでよく賑わっていた一軒のエスニック料理屋の前で、髪の長い女の子を連れて入ろうとして、女の子が少しためらって足を止めたようだった。Nは目を細くしてあのあたしの嫌いな甘ったるい笑顔を浮かべていた。
その後、大学を出て、地元に帰って議員の秘書か何かをやっているという話を聞いたような気もする。
最近のニュースで、「秘書がどうこう」言っている時にちょっとだけ思い出したりもする。


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Entry13

道草

 学校の帰り道に、友達がすごいものを見つけたらしい。
「みんなには内緒だぞ」と耳打ちされて、僕は何だかわくわくしてついていった。
 そこは、小さい頃よく遊んでいた公園。端っこの、藪の中に置きっぱなしにされたポンコツ車の前だった。
 とうてい乗って動くような代物ではない。黒塗りの所々が無残に剥げ落ちているし、野ざらしの間に部品もはがされてとても痛々しかった。
「僕、帰るよ。道草食って暗くなると、親がうるさいから」
 すごいっていうからのこのこ来たというのに、ちょっと拍子抜けだ。ただの粗大ゴミじゃないか。それに僕の家は躾がうるさく、帰宅時間に遅れると母親が怖い。
 ところが友達はお構いなしだ。
「絶対びっくりするよ。いいかい」
 そう言いながら、運転席のドアを開いて中へ入り、向こう側の助手席に移った。
「このドアを向こうに開くと……ほら!」

 助手席側のドアの向こうの景色は、どこまでも続く砂漠だった。焼けた日の光がまぶしく目に飛び込んできた。
「なあ、すごいだろ」
 友達は鼻息を荒くして言った。
「これが、反対から入るとこうはいかないんだ。どうも、ドアから向こうの空間が、砂漠と繋がっているらしい」
 友達はそのまま助手席側から外へ出てしまった。
 慌てて僕も車に乗り込み、這うように反対のドアまで行ってみた。外に首を覗かせる。
「ここどこ? やっぱり、地球上?」
 友人は砂漠の上に立って、熱い日差しの中で目を細めている。
「お前も出てみろよ」
「うん。しかし、すごいな」
 僕もすぐにドアから砂漠に降り立った。太陽熱をたっぷり吸った砂の熱さが靴底から伝わってくる。
「本物だ。大人を呼ぼう」
「ちょっと待てよ。すぐ誰かに言うのはもったいないぞ。この砂漠を使ってできることないか考えようよ」
 それもそうだな、と僕も思った。
 いろいろなことが思い浮かんだが、じっくりと考えるにはここは熱すぎる。たちまち全身が汗だくになって、立っていられないほどだ。
「今日はとにかく家へ帰って、後でゆっくり考えることにしよう。遅くなるとお前の母さん怒るから。でもこれはふたりだけの秘密だぞ。いいね」
「ああ、もちろん。また明日、ここへ来てみよう」
「あれ……」
 その時、友達が素っ頓狂な声を出した。
「どうしたんだ?」
「車のドアが開かないぞ!」

 ごめん。
 なにしろ、僕の母親は躾が厳しい。
 車を離れるときは、必ずロックをしなさい、といつも言われていたんだ。


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Entry14

万置師

 で? なにが聞きたいワケ? なんでも聞いて。時間はいっぱいあるから。暇なんだわ、最近。……万置がどういう仕事かって? そこから説明しなきゃダメなの? インタビュアーのくせに、なんにも知らないんだねぇ、アンタ(笑)。
 なんつーかね、そのぉ……万引ってあるでしょ。アンタもガキの頃やんなかった? え? やってない? めずらしいね〜アンタ。
 アタシらの仕事はね、要するにその万引の反対。置いてくるの、品物を。
 例えば、一度解凍してもう一回凍らせた冷凍食品とか、賞味期限の切れたジュースとかね。ジュースなんかアレよ、普通見ないでしょ、わざわざ缶の底の賞味期限なんかさぁ。で、買って帰ったお客が文句言うワケよ。「オタクんとこで買ったナニナニが腐ってた!」とかね。たまに、食べても腐ってんのに気づかないヒトもいるみたいだけどねぇ(笑)。
 アタシは主に食品関係中心で昔からやってるけど、書籍中心の万置師とか、衣料品中心の万置師もいるんだわ。みんなそれぞれに独自の技を持っててね、アタシも一時は「ドンデンのマサ」なんて呼ばれてたこともあったんだわ(笑)。「ドンデン」ってのは、棚に並んでる品物を一列全部入れ換えちゃうことなんだけど、アタシはそれが得意でねぇ。
 まぁ、結局アレよ、ライバルのスーパーとかデパートとかの評判落として潰しちゃうっていう目的で雇われるわけ、アタシらは。アタシらの仕事が一番活気づいてたのは、アレよ、バブルのちょっと後かな。バカみたいに宣伝にお金使ってたのが全然ムダだったってことに、企業も気づいたんじゃない? 自分とこの品物売るのに大金使うより、ヨソのお店を潰しちゃうほうがお手軽だってことだね。
 アタシは今も昔もフリーでやってるけど、あの頃は万置師のチームみたいなのがあってね。少ないとこで5人ぐらい、多いとこは20人ぐらいの万置師がいたね。そういうチームが日本中に50ぐらいはあったんじゃないかねぇ……。
 最近はダメ。どこの企業もいい子ぶっちゃって、なかなかお声が掛からないね、まったく。昔は仕事断るのも大変なほど忙しかったんだけどねぇ。そんな調子だからさ、ずいぶん減っちゃったよ、この世界の人間も。アタシもそろそろ足洗おうかな〜なんて、気弱になっちゃうこともあるんだわ、この歳になると……。


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Entry15

終わりのない旅

その日、車内は閑散としていた。
見渡す限り僕以外の乗客はいない。
床には空き缶が一つ、所在なげに転がっている。
僕はなるべく座りよさそうな窓側の座席を選んで座った。
窓から見える景色は間断なく流れてゆく。

ふと気が付くと、座席の横の通路に車掌が立っていた。
手には、れいの空き缶をいつのまにか握りしめている。
「どちらまで?」
「いや、その」
言葉に窮した。
「どこでもいいんです」
「ふうん…」
車掌はそう言って、
「切符を拝見」
僕はポケットをまさぐって切符を取り出した。
行き先のない、まっさらな切符。
車掌はそれに判子を押すと、無言で去っていった。
外はまるで気の抜けたような、いい天気だった。

気が付くと日はとっぷりと暮れかかっていた。
しばらく居眠りをしていたらしい。
真っ赤な夕日が車内を朱に染めている。
読みかけの本を何気なく鞄にしまって、はじめて気がついた。
向かいの席に、少女が座っていたのだ。
思わず目が合うとにこりと笑って、どちらまで、と聞いてきた。
「いや、その」
再び答えに詰まった。
「どこでもいいんです。本当は」
「そう…」
少女は悲しそうに微笑んだ。それが夕日に映えて印象深かった。
「私もね、どこでもいいんです。本当は」
そう言って少女は口を閉ざした。
再び静寂があたりを包んだ。聞こえるのは電車の振動音だけだ。
日が完全に沈み、車内に蛍光灯の明かりがついた。外は暗い闇に覆われている。
僕らは押し黙ったきりだった。
「昨日の晩に」
少女が口を開いた。淋しそうな表情はそのままだったが、あの微笑は無かった。
「祖父が死んだんです。それで、今日は」
僕は目を伏せたまま、そうですか、とだけ答えた。

突然スピーカーから、駅が近づきつつあること、乗り換えは何時何分に発車予定であること、忘れ物に気をつけるようになどのアナウンスが抑揚の無い声で流れた。あの車掌の声だった。
少女はアミに載せてあった荷物を降ろし、身支度を整え始めた。
僕は黙ったまま、それを見守っていた。
やがて電車はプラットフォームの脇を滑り込むようにして停車した。
少女は出て行くとき、軽く頭を下げた。僕も同調するように会釈を返した。
発車ベルの音とともに、電車は再び動き出した。
窓からあの少女が母親らしい女性ときつく抱き合っているのが見えた。迎えは、あったようだ。
僕はまた独りだ。だが不思議と寂しさは感じなかった。
電車はまるで終わりのない闇夜を切り抜けるように、ただ走りつづけていった。


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Entry16

黒い影

周りを見渡してみると、真っ白な壁と蛍光灯に照らされた部屋に自分の黒い影が起ち現れている。部屋の隅に威厳を持って陣取っていたテレビは、いつのまにか生気を失い、孤立して何かを待っているようであった。いやに部屋が静かだ。彼は静寂に耐え切れず、ポケットの中に入れてあるリモコンをとりだし、テレビの電源を入れた。しかし、テレビは決して動き出さなかった。テレビ自身が断固として抵抗しているように見える。動いたのは彼と彼の黒い影だけであった。リモコンは投げ捨てられ、持ち主の元を離れた。

「役立たずが!」

朝っぱらから怒ったせいなのか、今日は余計に腹が減る。部屋の中央にある白い冷蔵庫に目をやった。自分はよくこの扉を開ける。おいしいご馳走が入っているわけでもないし、牛飲馬食のような食生活をおくっているわけでもない。入っているのは毎朝配達される牛乳と鶏の卵だけである。理由という理由を言えば、何が入っているかを確認しないと気が済まない、そういう彼の性分がしかさせずには置かなかったからだ。しかし冷蔵庫もまた受動的な態度を貫き、空腹を満たしてくれるのを期待しているかのようだった。中には何も入っておらず、彼は気分をいっそう害した。

すると彼は白い部屋をくまのようにぐるぐる回り始めた。彼は何かを探していた。何かで自分を満足させようとして。しかし、それに応じることなく、彼の黒い影は彼のもとを離れていった。

それからの彼は友人もいない、家族もいない、完全に孤立した人間である。彼はもう誰とも会うことはない、いや会うことができないのだった。彼にはもう影がなかったから。


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Entry17

十年薬缶

 新しい薬缶を買った。
 それまで使っていた薬缶に穴があき、台所を湯びたしにしたのだ。
 そいつに寿命がきたのは、昨日の夕方のことだった。
 都合十年も使っていたそいつは、例えばコーヒーなんかが欲しい時によく活躍してくれたものだった。俺はドリップ用の道具に紙と挽いた豆をセットして、そいつを使って煎れたコーヒーの香りを、鼻をヒクつかせては楽しんでいたものだ。
 俺が学生の頃からだから、随分と世話になった。
 壊れてみれば、よく耐えたものだ、と、いつのまにか不恰好に変形しているそいつを、感嘆しつつ眺めた。
 買った時はあんなにピカピカだったのに、と、そいつの姿をしげしげ眺めると、形あるものは壊れるものなのだと、改めて教えられるようだった。
 そう、色々と思いを馳せると、ただ、用済みだからといって、ポンと捨てるのも妙にしっくりとこなかった。考えてみれば十年も付き合ってきたのだから、いずれはサヨナラしなければいけないのだけれど、それにしても、何かお礼みたいな事をそいつにしてやりたかった。
 だからといって、供養というのも大げさみたいだし、それに抹香臭い事が似合うような柄でもない。
 しばらく考えた末に、俺は下手くそではあっても、一応小説家を目指して書き物をしているのだからと、感謝の言葉を捧げて、そいつの中に入れてやることにした。
  
 今まで、有難う
 お前と別れるの、寂しいよ
 でも、いつまでも置いてやれない
 だからせめて、照れくさいけど
 お前に感謝してるよ、と
 書いておくよ
 もう一回言うよ
 今まで、有難う

 俺は、とても他人には見せられない気恥ずかしくて拙い言葉を、ちいさなメモ用紙に書いてそいつの中に入れると、これもまた不恰好に変形した蓋を、そっと閉じて、そしてビニール袋に入れて堅くしばった。
 そしてそれを、燃えないゴミの日まで待つのが耐え切れずに、夜中にこっそりとゴミ捨て場に持って行った。
 そっと音がしないように置くと、そいつをじいっと見つめて佇んだ。しばらくは動けなかった。
 やがて、意を決して最後のお別れを呟くと、俺は振り返って家の方向におずおずと進んだ。
 その時風が吹いたのか、カラ と、そいつも返事をしたみたいに、少しだけ甲高い音がした。
 俺はその音に、手で返事をしてそのまま家路へとゆっくり歩いた。


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Entry18

『完全被甲弾』

 とあるデパートのオモチャ売り場。
 小学生くらいの男の子が母親の手を引張って何かを訴えている。

「ねえ、ママぁ。良いでしょ〜?」
「駄目です! こんな血が出るようなゲーム、子供がやっちゃいけません!」
 母親はにべも無くそう言う。だが、男の子もこのくらいでは引き下がらない。
「えぇ〜、でも、サトル君は買ってもらったって言ってたよ」
 母親は、必殺の常套句を発する。
「他家は他家、家は家」
「えぇ〜、でもぉ……」
 男の子はまだ諦め切れないようだ。
 母親は、そんな男の子を無視して言葉を続ける。
「だいたい、悟君のお母さんは何を考えてるのかしら? 子供にあんな残酷な描写のあるゲームを買ってあげるだなんて……」
(さっき、他家は他家って言ってたくせに……)
 と男の子は思ったけれど、口にはしない。
「んじゃぁさぁ、あれかってよ」
 と、ゲームはダメだと見切りをつけた男の子は違う棚の商品を指差して言った。
「え? ――あれは前、買ってあげたでしょ?」
「違うよ! 前のはベレッタM1919で、これはグロッグのニューモデルだよ!」
「どれも同じでしょ、拳銃なんて」
「違うよ! 装弾数とか反動とか、使い易さが全然違うもん! ねえ、サトル君はもう買ってもらって、昨日ホームレスで試し撃ちしてたよ」
「だから、他家は他家、家は家。――ダメよ、買いません」
 ここで、男の子は諸刃の殺し文句を発動させる。
「買ってくれたら、買い食いもしないし、遅刻も寄り道もしないし、宿題だって毎日ちゃんとやるよ。だからさぁ、ねえ、いいでしょ?」
「…………」
 母親は考え込む素振りのまま、押し黙る。
 駄目押しとばかりに男の子は言う。
「ゲーム欲しいって、もう言わないからさぁ。ゲーム買うより、ずっと安いし……いいでしょ?」
 そう言って、母親に懇願の眼差しを注ぐ。
 母親は――
「……ふう。しょうがないわね」
 と、一つ溜息を吐いて言った。
「ホント? やったぁ!」
「但し、今言ったことを守らなかった、即取り上げますからね」
「うん! ありがとう、ママ!」
 男の子は跳び上がらんばかりに喜んで、銃の棚に走り――
「待ちなさい」
 母親がその背中を止める。
「え、何?」
 振り返った男の子に、母親は諭すように声を掛ける。
「ホームレスの人を無闇に撃ったりしちゃダメよ」
「え……」
「弾だってタダじゃないんだから、一日一人までにしなさいね」
「は〜いっ!」
 男の子は元気よく返事をした。


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Entry19

発狂マシーン

「今日は、悲しいお知らせがある。六月に転校してきた大沢が、病気のために学校を休むことになった。」
えー!

「先生、今日は六月三日ですよ。」
発狂値 −16


「とにかく、大沢は今日から学校へは来ない。」
「先生、大沢君を励ますために、みんなでお見舞いに行きましょう。」
発狂値 3

「先生、僕の班では、メッセージ色紙を作ります!」
発狂値 4

「三班は四班と合同で千羽鶴を作ります!」
発狂値 8

「先生、お見舞いに行く日は、早いほうが良いと思います。」
発狂値 5

「よし、明日みんなでお見舞いに行くぞ!」
「先生、明日じゃ千羽鶴は無理です。」
発狂値 −15

「みんなが盛り上がっている時に、よくそんなことが言えるな。」
そうだそうだー!
発狂値 7(ALL)

「大沢のために今日中に作りなさいよ!」
そうだそうだー!
発狂値 9(三班、四班以外)

「まあまあ、みんな落ち着け。
誰かが代表して大沢にお見舞い品を手渡すことにしたいのだが、誰か大沢と仲が良かったやつはいるか?」
「先生、大沢君は転校してきたばかりで、友達はいませんでした。」
発狂値 −2

「先生、僕は大沢君と仲が良かったので、僕がやります!」
発狂値 28

「そうか、学級委員の五条嵐は仲が良かったのか、みんな、五条嵐でいいか?」
いいでーす

「先生、ゴジョーは学級委員で大沢の隣の席にも関わらず、校内の案内を頼まれても断っていました。」
発狂値 −27

「なに言ってるの? 五条嵐くんはちょっと忙しかっただけじゃない!」
発狂値 5

「ゴジョーは友達のいない大沢君のために自ら立候補しているんだぞ!」
発狂値 3

「静かにしてくれ!」

「先生、誤解をさせるような行動を取った僕が悪いんです。」
発狂値 3

「僕は学級委員だから手を挙げたのではなく、大沢君と友達になりたいから立候補したんだ。これからは、みんなで大沢君の応援をしていこうよ!!」
発狂値 10(五条嵐)15(その他)

「みんな、大沢君のためにがんばろう!」
発狂値 9(五条嵐)、3(その他)



「ゴジョーさ、今日すごかったじゃん。」
「いや、俺は東大目指してるからさ、基礎は早めに固めとかなきゃ」
「東大かぁ、やっぱゴジョーはすげーや」
「今からコツコツ頑張れば、選択肢が広がるんだよ。」
「桜井もすげ−じゃん。」
「あいつ天然だからな。天才はいいよな。俺みたいに努力しなくても、生きているだけで点が増えるもんな。」
「ホント、うらやましーゼ。」
「まったくだ。」


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Entry20

再会に願うこと

「絶対帰る」
 泣きじゃくる私にあなたはそういったね。
「絶対、絶対だから、約束!」
 そういって私の手をとって、絡めた小指で一所懸命に指きりして。
 幼い日の夕暮れ。
 あのとき私は6歳で。
 あのときあなたは4歳で。
「……ちゃん!きっと、きっとだからね!?」
 泣き虫な私をいつも日の下に連れ出してくれた彼の姿が道の彼方にかすんで消えた後も、ずっと見送っていたっけ。
「ただいま〜!って、アレ?誰もいねぇのかよ」
 玄関で兄の声がする。久しぶりに帰ってきた兄は今日、一人の客を連れてくる。
「ま、いっか。おい、入れよ。あ?なに遠慮してんだよ」
 苦笑まじりの声に重なる聞き覚えのある声音。自然と鼓動がはやっていく。
 姿見の中の私は耳まで赤くなっていて、涙を浮かべていた。
「お〜い。いるんだろ?」
 部屋の前で呼ぶ兄に、おそるおそる障子戸を開ける。
「んだよ。居るんなら居るで」
「…ちゃん?」
 文句まじりの兄の後ろに立つ懐かしい面影。口をついた幼い頃の呼び名。
「ひさしぶりです」
 その言葉はどこか異国のアクセントが混じっていて、大人びた面立ちはどこか影を帯びていたけれど、
「おかえりなさい」
 私にはわかる。この人は私の知っているあの子。


「嘘だもん!…ちゃんもう帰ってこないんだもん!」
 父と異国へ旅立ったあの日。その少女はそういって泣いていた。
「絶対、絶対だから、約束!」
 そのとき僕は4歳で、性別なんて考えたこともなかったけれど、なぜかその子が泣く姿は苦手だった。
 何度も指きりして、夕日の沈む彼方へ歩き出しても、僕は幾度も振り返っては涙をぬぐっていたっけ。
「ただいま〜!って、アレ?誰もいねぇのかよ」
 やや古びたが、それでもあの日と変わらない玄関の戸を先導する幼馴染みが開ける。4つ上の彼との再会。そして誘われるまま訪れたここの変わらぬ姿が、忘れかけていたあの日の情景を鮮明に思い出させていた。
「んだよ。居るんなら居るで」
 開けられた障子戸の向こう、そっと現われるたおやかな女性。鼓動が、跳ね上がる。
「…ちゃん?」
 幼き日のままに僕の名を呼ぶ彼女の透き通るような黒瞳。変わらないんですね。
「ひさしぶりです」
 その声は上ずっていなかったろうか。
「おかえりなさい」
 その微笑みに、彼女があの日を覚えていることを願わずにはいられない。


 この再会から再び始まることを私(僕)は…


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Entry21

ベランダ

 僕はベランダにいた。
 初夏とは名ばかりの肌寒い五月の夜、夜とは思えない薄明の中に、副都心の幾何学的なシルエットが浮かび上がる。時折、天に脱色しきったような光の帯が走る。何かのライトアップ用の照明だろう。
 東京の空にも星が出るんだなと感心するでもなくただそう思い、たばこに火をつけた。バスルームから亜希子が僕を呼んだ気がしたが、耳を澄ませてもそれっきり何も聞こえない。ただの空耳かも知れない。
 ゆっくりと煙を肺に入れ、またゆっくりと僕は吐く。たばこの先から立ち上る煙は、まるでマリオネットの操り糸のようにゆらゆらと気ままに踊り、そのまま宙へと吸い込まれていった。煙が消えて無くなってしまうその境界線はいったいどこにあるのだろう、じっと目を凝らして探そうとしたが、僕にはどうしてもそれを見極めることは出来なかった。僕は、何も見極めることはできないのだ。
 空に、赤色の一等星が見える。さそり座のアンタレスだ。空にぐったりと横たわる(そう見える)さそりも、そのひとつひとつの星は別にさそりの形になろうとしてそこに在るわけではない。彼らもやはり、それぞれに、勝手に生きているのだ。僕らと同じように。
 僕はたばこを吸い終わった後も、しばらく星を眺めていた。やがてバスルームから出てきた亜希子が、少し不機嫌な様子で僕のいるベランダへとやって来た。
「ねえ、呼んだでしょう、返事くらいしてよ」
「ああ、ごめん、気のせいかと思ってさ」
 僕は適当に言い繕い、また空を見た。亜希子も空を見た。
「明日は晴れね」
 彼女は呟くと、タオルを巻いた頭のまま、また奥の部屋へと消えた。
 明日は彼女の仕事が終わった後で、パキスタン料理の店へ行こうと約束している。僕は気楽な学生の身分なので、こうしてウィークデーでも東京に遊びに来ることが出来るが、亜希子は社会人だから、当然働いている。しかも忙しい。
 空なんか普段ろくに見もしないくせに、なぜだろう、亜希子を抱いた後、僕はまたベランダに出て、天を仰いでいた。たばこの煙が、アンタレスまで昇っていくところを僕は想像した。そして、冷蔵庫から亜希子の買い置きの発泡酒を一本出して飲んだ。ベランダは相変わらず寒かったけれど、それでも飲んだ。
「ねえ、もう寝るわよ。明日早いの」
 亜希子の声が聞こえた。ああいいよ、と僕は返事する。
 僕はあと少しベランダにいる。そして僕らの関係のことを、あと少し考える。


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Entry22

掘り返す

これは、実際にあった、僕の思い出の一つだ。

僕が、二十五になろうとしていた頃だったと思う。
あの日は、確か白い雪の妖精が自分の仲間を求めに降りてきていた。
普段通り、本屋のアルバイトを済ませた僕は、駅に向かって歩いていた。
白く薄い絨毯に僕の足後を残しながら、改札口に向かう階段に足をかけたとき、女の人が近づいてきた。
僕の体は、何故かその時、寒さとは違う震えをしていた気がする。
人見知りをするほうではない僕にとって、初めての一目ぼれだったのかもしれない。
雪が舞う中、黄色い服を来た彼女は僕に近づき、手の平に何かを手渡してきた。
しかし、その時の記憶は、そこで終わっている。
次の記憶が確かになったのは、次の日の朝からだった。
不思議なことに僕の記憶は、彼女から、何かを手渡された時から消えていたのだった。
あの時の僕は、自分で言うのも恥ずかしいのだが、徹夜で遊んだ事もなく、お酒も記憶を無くすほど飲んだことがなかった。
多分、あの頃の言葉で言う、生真面目な性格だった。
だから、その時を疑問に思った僕は、とりあえず、昨日の記憶を無くした駅まで行った。
そして、その時と同じ階段に足をかけて思い出そうとはしたが、思い出せなかった。
仕方がなく、アルバイトの時間になったので僕は本屋へと向かった。
確か、その日のバイトは、昨日よりも早く終わっていた気がする。
それで僕は、昨日と同じ時間に同じ行動をしようと考え、時間を潰すのに喫茶店へと入った。
しばらく居た僕は、時間になったので店を出ようと財布を開いたら、不思議なことに中身が増えていた。
バイトに来る時は、定期を使ったので気がつかなかったが、確かに、僕の財布のお札が増えていた。
しかし、あれは、今、思えば、そんな気がするということで、あの時の僕は気がついていなかった。
あの時は、普通に会計を済ませ、同じ時間に駅の改札口へと上がる階段へと向かった。
その日は、昨日の雪が嘘のように暖かかく、僕はマフラーを外して、階段の一段目に足をかけた覚えがある。
しかし、その時は、昨日と同じ女の人はいなく、10代後半の男がチラシを配っていた。
しばらく、階段に腰をおろし、昨日の彼女を待っては見たが、その日は現れる事はなかった。
そして、次の日も。その次の日も。その先、僕は、彼女を見つけることはなかった。

今、歳をとっても憶えている、あの時の不思議な経験は、僕の生きてきた中で一番の思い出なのかもしれない。


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Entry23

事なかれ主義でもなし

 今俺を殴っているこの男は何が楽しいのだろうか。
痛い。口の中を切ったようだ。顔を殴るなんて、役者(志望)に対して失礼な奴だ。
さらに最悪なのは雨が降っていること。藤枝さんに借りたスーツが濡れてしまった。あの人金に汚いからなぁ。クリーニング代は俺の責任として、慰謝料請求されても払えんぞ、いいかげん。
しかして、当面の問題は俺を殴っているこの男だ。
「てめぇ、ふざけんな!」
と、景気良くぶん殴ってくれたもんだ。
中年のオッサンがするカツアゲはふざけていないとでも云うのだろうか。
俺も俺で、
「何歳児だてめぇ、他人から暴力で金巻き上げようなんざ、五歳児でもしねぇだろ!」
なんて、火に油を注ぐことはなかった。
素直に金を出せば済むだ筈だった。それがつい口を滑らせて、ごみ山へと殴り倒される結果となってしまった。 
理不尽な暴力というのは実際されてみると、なぜかせつなくなるものらしい。俺の襟首をつかんでいるこのオッサンに、俺は哀れみすら感じる。正直な気持ちだ、かわいそうに。
雨は当分やみそうにない。オッサンは俺を持ち上げると、路地裏まで運び込んだ。はなれたところから見ていたカップルがなにやら口論していたから、人目が気になったのだろう。
「このクソガキィ」
吠えながら腹を蹴りつけてきた。
おまけだ、と顔面も蹴り上げる。
痛い。鼻血かぁ。鼻血なんていつぶりだ?
妙に冷静な自分が怖い。
黙って殴られ続けていれば、やがて疲れて帰るだろう。それまで我慢していればいい。
人を傷つけて、何が楽しいんだろう。
怖くはないのか? 人のある程度人生に悪い形で介入することが。暴力では、不幸せをまぬがれることは出来ないのに。
「なんだその目はよぉ」
苛立ちと、畏怖の混ざった表情が目に留まった。
さっきまで、怒りに我を忘れていた人間に、こんな顔をさせる俺の目とはどんなものだったのか。見たくもないが。
それより、謀らずもオッサンと見詰め合ってしまったこの状況を、どうにかしてもらいたい。
頭はすっきりしていて、いや、傷の痛みで脳が麻痺していたのかもしれないが、俺は、何かを云おうとしていた。
「あんた、幸せか?」
怯えた子供のような顔があった。俺を掴み上げていた両腕がプルプル震えて、叱られた猫よろしく、その言葉から逃げるように、わぁわぁと喚きながらオッサンは雨の中へと消えていった。
残された俺は雨に打たれながら、血と泥に汚れたスーツの弁償代に頭を悩まさせていた。


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Entry24

彌久抄

「え?…うん。この間はごめん、いきなり帰っちゃって。……ううん、違うの。うん…じゃ、また」
 ピッ
「ごめんね」
 夜の東京駅十八番ホーム。携帯電話を鞄にしまい彼に微笑みかける。タラップには大きなバックと彼。
「誰から?」
「あ、今の人?私の許婚」
「……はぁ?」
 口をポカンと開けたまま固まる彼。
「な、なんだよそれ?聞いてないんだけど」
「うん。正月、実家に帰った時にね、いきなり紹介されたの」
 言おう言おうと思ってはいた。だけど彼は就職やら引っ越しやらの準備で忙しく、会える機会も少なかった。
「マジで?」
「うん。ダメ?」
「いや、ダメとかって問題じゃなくて」
 彼は今日、大阪へ行ってしまう。私は無事卒業できたものの、就職浪人。
「優くんがダメって言うなら、この縁談断るけど」
 再び固まる彼。
「って言うかお前、親の決めた縁談なんか素直に受けんのか?」
「その人お金持ちなの。それにね、先方の親が市議会の人で、実家との付き合いなんかもあって、無碍に断れなくて」
「結婚…しちゃうんか?」
 声が心なしか弱々しい。
「嫌?」
「だから、嫌とかそう言う問題じゃなくて」
「そう言う問題なんだってば!なんで分かってくれないの!」
 叫んでしまった。自分でも驚いてしまうくらいの大声で。一瞬、周囲の人達からの注目を浴びるが、もう私は止まらない。今この時になって、こんなに好きだったんだって気付くなんて。馬鹿だ、私。
「み、彌久」
「好きなんだってば…」
 確信がなかったから?…違う。怖かったんだ。友達でいられなくなるのが。
「ごめん」
「……ぇ?」
 今度は私が固まる番だった。
「ごめんな。今まで気付けなくて」
 何かを叫びたいけど、そのムカツク優しさに言葉すら失う。
「正直、何て答えたらいいのか…」
 ただの友達のままでもずっと傍に居られると信じていた。いつかきっと私のこの気持ちに気付いて、振り向いてくれるだろうなんて…。
『お下がり下さい。十八番ホームより新大阪行き最終列車、のぞみ九十五号が発車いたします』
 ざわめきが消え急に静かになったプラットホームに、発車のベルが鳴り響く。
「向こう付いたら、手紙書く」
 やがて、ベルが鳴り止む。黙っていると、何かを言わないと私……。
『はいお下がりくださいドア閉まりまーす』
 ふいに涙が零れ出した。胸が苦しくて息が詰りそうで。
 閉まるドア。その向こうで唇が動いた。彼が何て言ったのか。その答えは遠く離れていった。


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Entry25

牛のことで

インドでもないのに、道の真ん中に牛がいた。
あの、白黒のホルスタインではなくて、地味な和牛だ。
さすがの僕らも一瞬たじろいだ。
まず、ミカが立ち止まり、一歩先で僕も止まった。
牛はこちらに尻を向けている。
時々、しっぽを振ったりする。
「もう、なんでもありね」
ミカが言う。
「何でもありみたいだ」
僕も言う。
確かにその通りだ。いい加減にして欲しい。
大人しい草食動物とは言え、牛はデカイ。
生で見ると威圧感がある。
つまり、怖い。
普通、牛は大人しいと思われているし、きっとそうだろう。
しかし、こんな、道の真ん中で人様に尻を向けている牛が、普通と言えるのか。
たぶん普通じゃない。
ことによると、ものすごく怒っていたりするのかもしれない。
何に対して?
もちろん、僕ら人間に対してだ。
復讐を胸に誓って、牧場を抜け出した牛(しかも美味しい和牛)。
最初に出会った人間がその復讐の犠牲者だ。
そんな風に思ってみると、しっぽの振り方に殺意と苛立ちが…。
「どうすんの?」
ミカが小声で訊く。
どうするも何も、僕らは先に進まなくてはならない。
道はこれ一本だ。
僕は意を決して歩き出す。
が、すぐ止まる。
何か投げたら、あっちへ行くかもしれない、と思ったりする。
で、ミカに言ってみる。
「あっちへ行っても、意味ないじゃない」
その通りだ。僕らもあっちへ行くのだ。
ミカが続ける。
「それに怒ってこっちに来たら…」
いちいちもっともな意見。
ミカの顔を見る。滅多に見せない不安げな表情。
思わずキスしそうになるが、ハッと我に返り、思いとどまる。
そうじゃない!
いや、してもいいが、ひっぱたかれるかもしれないのでやめる。
いや、ひっぱたかれはしないだろうけど、バカじゃないの、とか言いそう。
たぶん、言う。
そんなことを考えながらミカの顔を見る。
「なに?」
ミカが不安げに訊くが、まあ、答える訳にはいかない。
「とりあえず…」
そう言って、ミカをその場に残し、僕は前進する。
実は何も考えていない。
男の行動は、だいたい、そんなもんだ。
注意深く近づくとかえって刺激しそうなので、出来るだけ普通に歩く。
牛は相変わらず向こうを向いたままだ。
僕的にはかなり接近したなと思える地点に来ても、まだ、よそ見をしている。
と、その時、牛の耳が動いた。
僕はぎょっとして、立ち止まる。
牛が振り返る。なぜか顔の真ん中に貼り紙。
貼り紙には文字。

〈牛肉が好き?〉

この情況でその質問はない。
だが、牛は僕の答えを待っている。


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Entry26

ケリーバッグを放り投げて

性懲りもなく雨は僕たちの歩く場所に降ってきた。
「さあ、走るわよ。」
玲子は買ったばかりのケリーバッグを頭にのっけて走り始めた。
僕はといえば、玲子に貸すために、
ポケットに手を突っ込んで、しわだらけのハンカチを探していた。

「悟くんにぴったりの、フランス料理のお店をみつけたわよ。
量がたくさんあって、安いんだ。」
玲子はどんより曇った金曜日の夕方に電話をよこした。
正直僕はフランス料理が、あまり好きではない。
甘い・辛い・しょっぱい・苦いといった基本的な味覚を
変にこねくりまわしているだけのような気がする。
加えてあの値段だ。
二人で行けば大枚二枚は、すぐに消える。
酒場での二枚消失には、やっとこ慣れた。
幸か不幸か酒場に行くまえには、
それだけかかるという意識ははたらかない。
そして帰るときにはご機嫌さんだから、つい太っ腹になってしまう。
しかしフランス料理店は違う。
店に行くまでに相当の覚悟を要する。
玲子の「安い・美味い・多い」に釣られて
僕たちは駅の改札口で待ち合わせの約束をした。

食事を終えて。
霞町の交差点で降り始めた雨は、
青山墓地にさしかかるころには大粒の雨になった。
乃木坂駅に着いたときには、
全身濡れ鼠で雨粒がつるりと頬を伝って落ちた。

玲子はケリーバッグを前後に振ってしずくを落とし、
「さすがに丈夫だね、縫製がしっかりしてる。」
そしてハンカチでしずくを拭った。
これみよがしにブランドで身を固めたにわか成り金に
みせてやりたい仕種である。
「フェラガモのパンプスにすこし傷が入ったくらいで大騒ぎするな。」と。
そう、玲子の実家はお金持ちだ。
それも代々のお金持ちなので、
しっかりとした金銭哲学が出来上がっている。
無駄なものは買わない、
必要なものには出し惜しみをしない。
また良いものを買って、とことん使う。
玲子にとって、
良いものとは古くなるにつれて味がでてくるものだそうだ。
傷が付き、色が褪せ、そして馴染んでくる、また風格がでてくる。
玲子の父親がレンジローバーに積もった落ち葉を
ささくれだった庭ぼうきで払いのけていることを聞いたことがある。
「高いだけのことはある、塗装がしっかりしている。」

大学生のころ、
無理して買ったホイヤーのダイバーウオッチを濡らすのが嫌で、
わざわざはずして海に潜ったことを思い出し、
僕はすこし恥ずかしくなった。


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Entry27

竜虎激闘〜朋友への道

 必死に走っていたのは黒い影。
 続いて必死に走っていたのは銀の影。
 銀の影は最高速の勢いそのままに地を蹴り宙を駈ける。中空より舞い降りる死の圧力、水平疾走を全身の撥条で垂直上昇に変えた黒い影は大地を両足で抉りとって残像をそこに置き去った。
 後方一回転半捻りを決め八朔の木の前三センチに着地した黒い影、その前には不敵に見上げて身構える銀の影。
 両者は静かに息を吐いた。
 青空には雲が流れ、花には蜂が舞う。
 静かな唸りで時が満ちるのを待っていた。
 己の身をくねらせ均整の取れた体躯に力を漲らせる黒い影。
 高さでは劣るものの横幅で勝る銀の影は姿勢を低くし足に力を込めている。
 息が吐き出されるほどに両者の気が体から溢れ、足元の雑草が同心円状に吹き飛ばされていく。毛という毛が逆立ちゆく様は激突の瞬間が迫ったことを告げていた。
 気合が竜巻と化し奔流となった。衝撃が爆発となって枯草を宙に巻き上げ、枯草よりも早く黒い影は宙に舞う。
 地に走った音と衝撃のみが襲撃を伝えた時、幾条もの細い銀の筋が黒い影に纏わりつかんとしていた。砂塵を舞い上げ地から這い出たしなりうねる黒い鞭は銀の筋を遮って輝きを止める。
 互いを縛った黒い鞭と銀の筋は黒い影と銀の影を引き寄せる。絡み合った回転する黒と銀とが陰と陽を為し調和を象る太極の姿をまさに作り出さんとしたとき、回転する太極は互いの力で弾け跳んだ。
 放出された精気が螺旋となって地から砂塵と枯草を舞い上げ両者を隠した。空からは八朔の葉がひらひらと舞い落ちている。
 青空を流れる雲が太陽を隠し花の色が翳った。
 距離を保ち円の軌跡で互いから目を離さない両者。
 砂塵が収まるほどに息が整ってゆく。花の色に輝きが戻った。
 再びの爆発。舞い落ちる八朔の葉が見えないものに弾き飛ばされる。残像すら留めない黒い鎌が銀の影を刈り取ろうと襲いかかった。上、そして、下。銀の影に突き刺さった黒い鎌の間では銀の槍が地から伸び黒の影に吸いこまれていた。
 銀の槍を黒の影に吸いこませたまま銀の影は身を捻る。地に叩き付けんとされた黒い影、しかし銀の影をはさみこんだ黒い鎌がそれを許さない、槍を払い銀の影をしたたかに削る。衝突は眩む雷光を携え銀の影と黒の影の一部を刈り取り、砂塵で澱んだ宙に黒と銀の煌く紗を顕現させた。

「フシャアァァァァァァッ!!」
「ウルロォォォォォォォオ!!」

 両者が朋友となる日は遠い。


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Entry28

正義だと思った

 正義だと思った。
 僕は、正義だと思っていた。
 人の命を救ったのだから。

 僕は、代わりに死んだけれど。

 自分の葬式を眺めることになるとは思わなかった。いや、死後の世界なんて、死んでみないとわからないのだから、生前にそんなことを想像できるはずもなかったのかも、とも思う。
 もはや、肉体の観念は僕にはなく、ただ風のように世界を見た。生きている人間から見たら、本当に風なのかもしれない。生前、僕が当たり前に僕であったように、僕は今、当たり前に風なのかもしれない。
 僕はしばらく、自分の家であったところの屋根を撫で、テレビのアンテナに絡み付いて、自分の葬式を眺めていた。
 喪服に身を包んだ父さんと母さんが、クラスメイトたち一人一人に、挨拶をしてまわっている。僕に向けられた二人の背中は、なんだか小さく見えた。
 父さん、母さん、僕はあなたたちが教えたとおり、人のために生きた。
 褒めてくれる?
「……おじさま、おばさま」
 僕は、かすれたその声に反応した。ユキコだ。彼女はふらふらと、両親に近づいていく。
「ユキコちゃん……」
「すみません……!」
 ユキコは、頭を下げて、何度も両親に謝った。僕は不思議で仕方なかった。どうしてユキコが謝るの?
「私が一緒にいて、止められなかった……テツヤが、踏み切りに入った子供助けるって叫んだとき、やめてって……腕尽くでも、止めればよかった……」
 声を震わせて、ユキコはまた、すみません、と言った。母さんがユキコの肩を抱き寄せて、一緒に泣き崩れる。父さんは、目頭をおさえて、ふぃ、とそっぽを向く。そして、つぶやいた。
「あの、バカ息子が……自分一人の命だと思ってるのか。……それで、正義でも気取ったつもりか……バカ息子が……」

 僕は、わからなくなった。

 正義だと思った。だから、他に何も考えずに、あの子を助けに走った。

 僕は命を落としたけれど、あの子は助かった。

 僕は正義だと思っていた。

 でも、ユキコは謝る。

 母さんは泣く。

 父さんは怒っている。

 では、正義とは。

 人を泣かせることなのか。

 それとも、僕が間違っているのか。

 葬式には、僕が助けたあの子も来ていた。
「たすけてくれて、ありがとうございました」
 帰り際、そう言ってその子は、両親に頭を下げた。その子の母親も、ただ黙って、深く頭を下げた。

 この世は、何が正義なのだろう。

 僕はそれでも、あの子の「ありがとう」を、胸に刻んだ。


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Entry29

どこでもドア

 ○月○日、今日店に変な客が来ました。ニ人組で灰色の作業着を着ていました。しかも泥で大変汚れています。私はすぐさま危険人物と判断し、店に入ろうとするところを呼び止めました。
「い、いらっしゃいませ。どういうご用件でしょうか」
「ベールのレンタルをお願いしていたんですけど」
 ベール? そんな電話あったっけ……と思いながらドレスから一番遠い席に案内する。

 今日の店内では二組のお客様がドレスの試着と写真撮影をしていました。一人は紫のカクテルドレス、もう一人は白のウェディングドレス。どちらのお客様も美しい。それに比べてこの人達は何でしょう。一人は長靴で一人は地下足袋!
「あの、ベールとおっしゃいましたが、どのようなベールを?」
二人顔を見合わせて「二千円の、一番安いのをお願いします」
 なんと! 一番安いのだと。ハレの日の衣裳をケチるなんて。
「私達予算があまりないんです」
 ワタシタチ ヨサンガ アマリナインデス?
 もしや、このまま駆け落ちでもするのでしょうか。駆け落ちなんかされて変な噂がたつと大変。これを阻止するには……値段を吊り上げるしかないわね。よーし!
「三千円です。断固三千円!」
「えっ、ニ千円からと聞いたんですが」
「いーや三千円からしかありません」

「どうする?」「困ったねえ」
 作業員達は相談を始めました。私はそっと席を離れ、チーフに相談に行きました。話し合いは続いています。きっと明日から食費を百円減らして三千円のを借りよう、とでも言っているのでしょう。
「チーフチーフ! 怪しいニ人が駆け落ちするんです! この際一気に五万円に値上げして諦めてもらいましょうか」
「まあ、意地悪はだめよ。ニ千円でいいじゃない。但し貸すのは仮衣裳合わせのサンプルにしたまえ」
 チーフ……。なんて好いアイディーアなの!
 私は笑顔でニ人の前に戻りました。
「ニ千円でよろしいですわ。おほほほ」
「(二人もつられて)おほほほ〜」
 三人の高笑いがつるりとした壁と天井に反射しまくりました。

「ではどうぞ」
 私がベールを手渡すと、作業員達はまるで初めて見たかのように驚いていました。きっと感動したのでしょう。メーター五百円の布を三等分しただけというのは秘密です。
 その後、作業員達を玄関口まで見送りました。階段を降りていく後姿を見届けてから背を向けましたが、振り返るとニ人は見慣れたピンクのドアの向こう側に消えていくところでした。


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Entry30

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Entry31

is his life

君は、ここに居ること。
きっぱりと僕は告げた。
妻は大きく息をつく。
どちらかというと硬質な彼女の瞳を、涙をたたえたような
ふっくらした瞼が綴じ込む。
そしてゆっくり眉とともに持ち上げた。
陶器でできた人形のような、いつもの視線。
いつもの言葉。

そう、だものね。

終わり。ここで、終わり。

訳を尋ねないのは
尋ねさせないのは、
夫婦の間の決めごとだから。
理由があるなら最初に言うこと。
つけたされた科白ってのはロクなもんじゃなかったろ、
僕が一方的に強いたのだけど。

このときも、妻はやっぱり裏切らなかった。

そうだものね、

彼女がこう言ったあとはたいてい、何かが少しだけ狂う。
といっても
コーヒーがぬるい だとか
テレビが真昼もつけっぱなし とか
とるにたらないこと。
けれどあの次の朝は、
たまごがすっかり固ゆでになってしまっていて
僕も妻もかなり落ち込んだ。



毎日の電話で妻は、いろんなことを喋る。唄う。僕も、笑う。
彼女の声はとてもしっかりしていて、
いつもそばで聞いていたそのまんまのトーンで
唄ったり、笑ったりするものだから
しばしばむこうが真夜中だったりすることを忘れた。
ところがどうやら彼女がまったく気にしないふうなので
すっかり安心して僕らは繋がっていた。


妻がうたうのは童謡や唱歌が殆どで、実際僕は
全くこれを、愛していた。
もっとも美しい、彼女の才能。
僕の左の耳だけに咲く。


月明かりが恋しいこと伝えると しばらくのあいだ
夜ごと違った光を浴びせてくれた。
荒城の月、おぼろ月夜、十五夜お月さん、・・。
月光仮面 には不意を衝かれて ほんとうに受話器を落としてしまった。
妻はそのようすが相当可笑しかったらしく
そのあともときどき、唐突に月光仮面を唄いだしては笑う。

月のさばくは、僕も一緒に唄った。
妻と出会い、おそらくもう何十回も聴いた唄。
死に場所は此処、君が言い切る 唄。

きっと、ラクダなの。あなたとずっと彷徨う。もちろん、
あなたはあなたのままでいて。
思わず触れずにはいられない、
君の瞼はいっそうあたたかい。
ほんとうだ。駱駝 、
月の砂漠をゆく目だこれは。
この、温度は。 

そう だから、僕だけがここに居る。
二人が一緒に出て行くところは 
月のさばく、だけがいい。 
 


受話器を置いた。 さて。
いざ、妻のもとへ。
明日の朝には
とろける黄身に、もううっとり。


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Entry32

再会

休日の繁華街で十年ぶりにあの人とバッタリ会った。
あの人はひとり、私は五歳になる息子を連れていた。夫は仕事が忙しく、今日も休日返上で出社している。
「やあ、久しぶり。元気そうだね」
奥二重の控えめで優しい眼差しも、少しふっくらとした柔らかそうな唇も懐かしいあの頃のままだった。
「うん、神崎さんも元気そうで……」
それ以上、掛ける言葉が見つからない。
事実、あの唇は「柔らかそう」なのでは無く「柔らかかった」のだ。そしてその柔らかい唇は何度も私の名前を呼んだんだ……「朋子」と。
「お子さん?可愛いね。僕、いくつ?」
「ごさい!」
あの頃……私達が付き合っていた頃、彼にも同じ歳の娘がいた。俗に言うところの不倫関係にあった私達は燃えるような恋をしていた。
私も若かった。若すぎて、彼の背負う家族や責任や戸籍が憎くて我慢出来なかった。離婚届けに頑として判を押さない彼の妻にしびれを切らして「かけおちしよう」と駆り立てたのは私の方だった。
彼は私の為に、何もかも捨てる覚悟でいたんだろう。そうさせたのは私だ。    
それなのに私は約束の待ち合わせ場所に行かなかった。根が小心者の私は、その場に及んで怖じけついてしまった。
「あの時……」
「ん?」
「待ち合わせた時……神崎さんは私が来るのをずっと待ってたの?」
忘れた事なんて無かった。いつでも、どこでも、何をしていても、その後ろめたさは尖った小さな塊となって、この十年間、私の心の柔らかい部分をチクチクと刺激し続けていた。
「行かなかったんだよ、あの時……。実は急に怖くなって行かれなかったんだ。でも……って事は君も来なかったって事だよね?」
来なかった?約束をすっぽかしたのは私だけじゃなかったんだ。
「なんだ……実はこの十年間、ずっと気になってたの」
「本当言うと僕もだよ。でもこれでお互い様って事だよね」
良かった。これでいつも私を縛っていた思い出から解放される。
「神崎さんのお子さんも、もうずいぶん大きくなったでしょう?」
「離婚したんだ。娘とはもうずっと会って無いよ。じゃ、僕はこれで」
そう言って彼は、ゆっくりさよならを言う暇も私に与えずにきびずを返した。  
来てたんだ。きっと彼はあの日、今にも雪が降り出しそうな長距離バスのターミナルでひとり、ずっと私が来るのを待っていたんだ。
「待って、神崎さん!」
 足早に立ち去ろうとする彼の、その頬を伝うひとすじの涙を私は見逃さなかった。


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Entry33

その先

昨日彼からプロポーズされた。
それは私にとって予想もしていないことだった。

「結婚しよう」

その一言で0コンマ数秒、私の時間は止まったんだ。

彼と知り合ったのは11年前。
運命的な出会いとはほど遠く、ただ中学の同級生で、1番仲の良い男友達のポジションに彼がいたわけである。
その頃から彼氏彼女の関係だったとはとんでもない。
高校、短大時代は別々になり会う事もなくなった。
それが3年前の同窓会で再会し、中学の時の名残で友情を再スタートさせたのだが、いつの間にか友達が彼氏に変わっていた。
正直お互い恋愛に疲れていた時期、傷の舐め合いのような感じで始まったからドキドキとは違う。
「楽」という言葉ががぴったりの2人なのだ。

しかし私たちは割り切っていた。
お互い他に好きな人ができたら別れる。
つまり「つなぎ」なのだ。
それが2人共、想い人はそう簡単には現れず、ずるずるとここまで来たわけである。
そんな私たちの間に「結婚」って言葉は存在していない、はずだった。
少なくとも私はそう思っていた。
だから彼のプロポーズは、まるでいきなり後ろからプールに突き落とされたような衝撃だった。

その場で断ることだってできた。
でもそうしなかった。
理由は1つ。
私の頭に「楽」の一文字がちらついたから。

もう23だし、そろそろ身を固めるのも悪くない。
この先誰も現れなかったら行き遅れになるのが落ちだ。
でも結婚ってなんだろう。
好きな人と一緒いたいから結婚する。
親友のキクちゃんはそうだった。
でも好きって気持ちだけでこの先やっていけるなんて、そんな甘いものじゃないような気がする。
だったら楽な方がいい。
しかし今度はそれで幸せなのかという疑問に直面する。
そんなわけで、今私は脳みそが破裂するのではないかというほど悩んでいるのだ。

彼のことは好きだ。
頑固だけど正直だし、文句は言うけど話は聞いてくれるし、自分勝手なところもあるけど気は利くし、たまに喧嘩もするけど仲直りも早い。
そう考えると私にとってのデ・メリットは少ない。

でも私の求める幸せってなんだろう。
出た答えは「ぬくもり」、かもしれない。
彼といる時、私はそれを感じてるのだろうか。
わからない。
考えたことなかった。

だったら確かめればいい。
返事はその後だって遅くはないはず。

お気に入りのグレーのカーディガンを羽織って、家を飛び出した。
彼のアパートまで、私たちの「ぬくもり」を確かめに。


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Entry34

liberte

その日はとても暑い日だった。
 故に伸博は近所のコンビニへ大好きなアイス「ビノ」(6個入り)を買いに出かける。
 何とも平和ボケした世界の象徴…
 家を出て、暑さに耐えてはや数分。彼は無事近所のミミストップに到着する。

 彼は常々、コンビニのアイスクリームコーナーが出入り口付近にある事を誰にともなく感謝している。
 直ぐに買えるし、店内のクーラーに体が冷やされる(=アイスがまずくなる)事がないからだ。

 開く自動ドア。
 開けるアイスコーナーの扉。
 そして、そこにあるビノ!
 それから、そこに手を伸ばし…
 視界に登場、他人の手。

 よりによって、1個しかなかったビノは無常にも他人の手に渡ってしまった!
 ムカツク。
 で、そのビノを持つ手の先を探ってみる。
 で、そこにいたのは女。
 若い女。
 かわいい娘。
 見覚えのある人。

 彼女は、中学校時代のクラスメイトの百合子だった。
 二年振りの、偶然の再会だったのだが、向こうもしっかり伸博の事を覚えていた。
 自分はレジでソフトクリームを買うと、二人は蒸し暑い駐車場に行って、それぞれアイスを食べ始める。
 アイスを食べながら、高校生活を中心に会話を運ぶ二人。
 彼女は、第一志望だった中都高校へは行けず、常等高校へ行っているらしい。
「推薦枠ぜんぜんないんだよっ!」
 って、少しばかりの文句も。

 二人とも数分でアイスを食べ終え、そのあと少しだけおしゃべりを続け、ケータイとメルアドを教えあって、別れた。

 久しぶりに会った同級生は綺麗だった。
 軽く染めてた髪も似合っていて、女性らしい香りもしていた。

彼女に彼氏がいないと知ったのは数日後、彼女とのメールで。
 彼が告白する決心をしたのはその数日後。
 彼が告ったのはその翌日、ミミストップにて。

 それから二人は…?!


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Entry35

噛む蝶

 蝶に咬まれた事がある。
 その時私は永遠の真昼に倦んで居る子供だった。薔薇の葉の上に真夏の闇のような青色の羽を伸ばす蝶を、私はさしたる理由もなく払いのけたのだ。その時、蝶が指を咬んだ。
 どうも茫洋とした記憶であり、夢であったようにさえ思うが、青い鱗粉のついた指に蝶から受けた傷を見たときの一種のやるせなさは忘れられない。私は家に帰って母に泣きついた。そして世界の秘密を垣間見てしまった子供がいつもそうするように、そんなにも怯えた理由を誰にも話せないでいた。

 長じて私はヘミングウェイの小説を読む。そしてあらかた内容を忘れてしまうのだが、一つだけ忘れられない逸話がある。魚に付いてのものだ。釣り人が魚に触れると、そこだけ魚の鱗の表面を覆った粘液がとれてしまう。そして黴が生え、魚はそれが原因で死んでしまう。
 私にとってのヘミングウェイは、耳の側でこれを囁き続ける静かな語り部だ。私は時折この逸話を思い出し、そして蝶とさかなの夢を見る。
 私は黴の生えた魚と鱗粉のとれた蝶の夢を見る。多分あの日の蝶はヘミングウェイの魚の様に、触れられ鱗粉を落とされて、そして死んでしまったのだ。私は誰も知らない蝶の死について悼み怯える事に間もなく慣れてしまい、夜毎の夢は私の一部となって行った。

 時は過ぎ、私は蝶の咬み傷を持ったまま大人になる。金と緑の色彩が世界中を荒振り吹く夏がやって来ており、私はその降る黄金の中、初めて恋人に蝶の記憶を語った。
「あの蝶は死んだのかな」
 黙り込み、彼女は蝶でも千切る様に薔薇の葉を千切って居た。けれどやがて伏せた目を上げて挑む様に言ったのだ。
「誰かが自分の障壁を破って領域を侵犯してくることを恐れるべきじゃないわ」
「え?」
「だって、恋ってそういうものでしょう」
 六月の真ん中に立って私を見上げる彼女の目は哀しみに溢れていた。そして私はやっと気が付く。私が恐れていたのは鱗粉をとってしまう事ではなく、自分の鱗粉をとられることだったのだ。あの日触れられたことに過剰反応して咬んだ蝶は自分で、誰かに触れられただけで死んでしまう魚は自分だったのだ。
 私は彼女の頬に触れた。そして戻した指先には鱗粉が付いていたから、あなたは私を噛みたいだろうかと聞いてみた。

 その夜、私は黴の生えた部分から蝶の羽が生えて飛翔する魚の夢を見た。

 夢の外には夏があり、私達はその中で、互いの鱗粉にまみれて眠っていた。


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Entry36

雨音

 雨が降っている。
 夜半である。眠れずに寝返りをうつ。
 
 以前、読んだ本のことを思い出した。ある禅僧が弟子に問う。外ではどんな音がする? 弟子が答えて言う。雨の音がします、と。師は穏やかに首を振る。さかしまである、自分を迷わせておる、と笑う。首をかしげる弟子に向かい、禅僧は言った。この私こそ雨の音である、と。
 
 この本によると、禅の真理とは、すべての存在と自分が一体である事を悟る事だそうだ。そこで、蒲団の中で耳を澄まして、自分が雨の音になったと想像してみた。が、二、三分ほどで飽きた。坊主の真似をしても、自分は到底、悟りの境地に到達することができない。雨はただの雨にすぎず、自分はやはり自分である。
 
 単調な連続音は、いつ果てるともなく続いている。
 再び寝返りをうった。やはり眠れない。
 
 昔好きだった女の事を考えた。しかし、どうしても顔が思い出せない。たしか、色の白い、面長の、やさしい眼をした女だったような気がする。それ以上の事は、記憶にない。別れたのは七年も前の事だ。
 
 この女は嫁に行った。自分は最近、風の便りにそれを知った。
 
 自分は彼女の幸福を願った。そして、二度と会うことはあるまい、と思った。自分は彼女の顔を憶えていない。彼女も自分の事など、とうの昔に忘れてしまっているだろう。いまや、自分と彼女を結びつけるものは何一つ存在しない。写真一枚さえない。
 
 彼女も今頃、蒲団の中でこの雨音を聞いているのだろうか。ふと、そんな事を思った。

 もう一度、窓の外に耳を傾ける。駄目だ。やはり自分は雨の音にはなれない。そして、女の顔も思い出せない。
 
 雨音を聞いているうちに、いつしか自分はまどろみ、夢の中にいた。夢の中の自分は、薄暗い路地で誰かを待っている。朧気な街灯の光が、無表情な自分の顔を照らし出す。
 黒い喪服の男が自分の側に歩いてくる。見覚えのない顔である。男は立ち止まり、冷たい笑みを浮かべながら自分に声をかけた。
「お前、まだ生きているのか」
 
 そこで目が覚めた。全身が汗で濡れている。嫌な夢を見たと思った。
 外では依然、雨が降っている。自分は頭から蒲団をかぶり、両手で耳を覆った。


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Entry37

愛のレシピ

「木の枝が分かれた所に海が」と言う彼の詩を想像するだけで、あたしの岸の岩は嵐のように濡れて、
頭の中が真っ白とか、そう言う俗っぽい表現が良く似合ってしまう位、感じてしまう。あたしはワル
をする時に、その詩を考えずにはいられない。

 今日の客は四十半ばだが、オヤジという言葉が似合わないダンディな人で、ホテルについて彼を見
たときには、むしろ仕事としてではなく、現実に愛し合えたならば、と切に願ったほどだ。

 部屋についてすぐに彼は、あたしに下着だけを取るように言った。下着を着けずに服を着る、とい
う行為に彼は興奮するようだ。女は不思議な物で、好人に対しては、普段眼を瞑っても見えてしまう
嫌な事柄に対しても、それが彼の一部のように愛らしく感じるのだ。あたしはすぐ彼の言う通り、ま
た出来る限りいやらしく下着を取った。

 すると彼は、彼の目の前にある椅子に後ろ向き座るように言い、パンツを脱いだ。彼の変態故に、
あたしはさらに彼のことを愛しく思ったが、そう感じたあたしは彼よりも変態なのかもしれない、と
思った時、あたしのあそこが恐ろしい位に濡れていて、例の詩が頭の中で鳴り響いている事に気がつ
いた。

 彼はそんなあたしを見ながらオナニーを始め、あたしに屈辱的で汚らわしい罵声を浴びせた。その
一言一言があたしの脳を侵食してきて、体が言うことを聞かなくなってくる。異常なほど興奮してき
て彼に、おまんこをさわっても良い、と聞いたが、「駄目だ。お前は只の置物だ。黙ってろ」と言っ
て、あたしはその一言を聞いて逝ってしまった。

 彼が射精した後、茶封筒に入れたお金を捨てるようにあたしに渡して、無言で部屋を出ていった。

 ベットの中で、あたしは彼を思った。愛を感じていた。しかし彼は、あたしを只の商品としてしか
思っていない。あたしは愛を商品にしているのだ。愛を売っている者は、自分の為の愛を在庫に持っ
ていないのだろうか。

 3年前に別れた彼が別れ際、「俺は詩を売り物にしている。説得力も中身も何もない只の文字列に
成ってしまった。だから、仕事をやめようと思う。お前には迷惑をかけたくない。だから、さような
ら」、と言った。

 あたしはその意味が判らなかった。しかし、今はその理由が判るかもしれない。あたしはもう、愛
を持つことが出来ない。そう思うと、切なくなってしまい、気がつくと涙が溢れていたが、彼の言葉
の名残か、あたしのあそこも未だ濡れていた。


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Entry38

2045年、大規模集積場

「――と、以上の様な計画で建設されます」
 施行責任者は締め括った。
「冗談じゃない、そんな杜撰な計画で建てられちゃたまらないよ!」
「そうだそうだ、我々の意見をカケラも採り入れてないじゃないか!」
「大体、住宅地のど真ん中じゃないか!」
 反対派の住人たちの声が次々に上がり始めた。
「しかし、これは必要な施設であって、用途と利便性を鑑みた結果で」
 市の担当者が及び腰で説明をしようとする。
「何でそれを我々の近所に建てなければならないか、だ」
「そのために相応の補償金を……」
 市長は黙って成り行きを見守っている。
「こんな補償金では納得出来ないぞ!」
「引越全て面倒を見ろ!」
「そうだ、市有地と市街化調整区域を明け渡せ!」
「家を建てる時はうちの工務店に!」
 説明会場は、質問とも怒声ともヤジとも付かない声で満たされる。
 反対派の住人たちは、今にも掴み掛かりそうな勢いだった。
 市側の警備員たちの顔に緊張が走る。
 その時。
「皆さんお静かに。話し合いは紳士的に行きましょう」
 立ち上がったのは、反対派の雇った弁護士だった。
「――市にも施行業者の方々にも、我々の感情は理解して頂けたと思います」
 弁護士の声が部屋に響く。
「過去のデータを鑑みても、施設から出る廃棄物、騒音問題は解決されてはおらず、周囲の道路の渋滞を引き起こし、治安の悪化も深刻です」
「そうだそうだ!」
「市は住人の安全を守ってくれるのか!」
「し、しかし、あなた方も利用するわけで、長い目で見れば……」
 市長は既に及び腰だった。
「長い目で見ればこそだ!」
「外部の受け入れもあるそうじゃないか!」
「うちは使わん!」
「なければないで、自分たちでどうにかする!」
 ヤジが収まってから、弁護士は再び口を開いた。
「これが住人の皆さんの偽らざる心境です。この建設工事が、いかに地域を無視した強引な施策であるかを理解して頂きたい」
 口ごもる施行業者、市長や担当者を見据えながら、弁護士は言い切った。
「……ざけんな」
 市長が口を開いた。
「は? 何か仰いましたか?」
 弁護士の顔に僅かに笑みが浮かぶ。
「ふざけるな! お前ら自分の事以外は考えられないのか!」
 市長が怒鳴った。
「治安も悪くなるかも知れん。だが、受け入れるべきじゃないのか!? 別に原発や産廃処理場ってんじゃない!」
 弁護士は勝ち誇った笑みを浮かべ、役人たちは絶望的な顔で天井を仰いだ。
「学校ぐらい建てさせろよ!」


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Entry39

くい

 車に乗って広い砂地の広場に出た。広場の奥からダンプカーが砂塵を巻き上げながら猛然と走って来た。わたしは車を脇に寄せダンプカーをやり過ごすと、こちらの方ではないなと感じ、車をUターンさせて別の舗装路に出た。車窓からの風景は寂しく、茶色い土と時々行き過ぎる埃まみれの柳の木が目に入るくらいである。単調な道を暫く走ると寂びれた木造の洋館が見えてきた。洋館の廊下を進むと木の机と大きな本棚のある部屋に行き着いた。部屋の奥に居た少女は本棚の本の置かれていない空間を指差して、ここに自分の好きな本を沢山並べるのだ、とにこやかに笑った。わたしは洋館の乾いた廊下をさらに進んだ。その部屋の窓にはガラスが無く、代わりに黒いビニール袋が貼られ、雨風を防いでいた。寂しかったんだなと父が言った。ああ、探していた母はここに暮らして居たんだと私は理解した。寂しさのあまり母はあちらこちらに物を投げつけていたのだろう。ただ其処にはもう生活感は無かった。何年も放置されていたことを示すように、全ての物が埃に厚く覆われていた。母は二十年前に亡くなった。自殺である。理由は明らかではない。遺書が残されていたが家族に対するメッセージだけで自殺の理由は書かれていなかった。メッセージには家族一人一人に感謝の言葉が述べられていたが、わたしの事は何も書かれていなかった。何故母がわたしだけに何もメッセージを残さなかったのか、勿論わたしには判っている。母が亡くなって数年後、母はにこやかに家に戻って来た。父が母の居所を突き止めたのだそうだ。母はしばらく家に居たが、その間身体の調子がすぐれないようでいつも布団に寝ていた。わたしは母と一言も言葉を交わさなかった。母がそれを拒んでいるようにわたしには思えたのである。そして母は一人でどこかへ消えてしまった。探さないで欲しいと書き置きがしてあったと父が残念そうに言った。その後母は一人でこの寂びれた洋館の一室で暮らしていたようだ。寂しさのあまり物に当り散らし、窓ガラスを割り、部屋のものをひっくり返したのであろう。それ程寂しければどうして戻って来ないのか。自殺したことのうしろめたさがそうさせるのだろうか。母はまたどこかへ消えてしまった。わたしは母が自殺する少し前から母の心を遠ざけていた。その理由はいろいろある。その後母は自殺した。わたしが死んだとき母はわたしをにこやかに迎えてくれるだろうか。


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Entry40

SKYSCRAPER

 雨はやまず、霧との臨界あたりをさまよって、街の最下層でわだかまり、一見おぼろな水気のベールだが、たしかに雨は降っている。半袖の少年には、その青白い腕をかすかにシズクがたたくので、よくわかった。
 ありがたいのは、街路にたちこめた水分が、臭気を吸ってくれることだ。雨が上がって地熱が這えば、きっと倍になって返ってくるが、それまでのあいだ、この最下層は、いつになく清浄だ。
 だから少年は、うれしかった。そして、道の真ん中から天を見上げ、ザマアミロと思うのだ。
 高架道路の大蛇に巻かれ、街にひしめくスカイスクレイパー――超をいくつ付けても足りない高層アパート・ビル群も、こんな日ばかりは空を削り取るどころか、低い曇天にその威容のなかばを呑まれている。ザマアミロだ。少年は両手を高だか挙げようとして、腹が鳴る。余分なエネルギーなどない、と胃袋いわく。
 しかたない。いつもどおりの猫背で、足取りで、街路を歩く。細い首すじをシズクがなでる。二の腕の鳥肌をこすると、遠くのサイレンが聞こえた。こんなイイ天気なのに……犯罪は日和を選ばないのか。少年は、すくなくとも雨の日には、パンのひとつも盗むまいと思った。
 ノラ犬の影が足元をよぎって、ふと少年は路上に光るものを見つけた。なにかのカケラ。濡れた金属片。クロームの鈍重な光沢が、シズクをまぶしてまたたいていた。そのカケラはいくつも道につづき、つづくほどに数を増し、雨のベールの向こうには、ひときわ大きなかがやきがある。
 少年はクロームの道標をたどって、正体を見た。それから、けぶった天をあおいで、ふたたび目を落とす。機能を完全に失った鉄クズだが、カケラを散乱させても原形はとどめている。したがって、たいした高さから落ちたものではない――これの元所有者が、たいした納税者でないことがわかる。
 ときどきビルの上層から、こういうゴミが落ちてきて、ジャンク屋のカテになる。まれに落ちてくる人間は、ノラ犬のカテになる。それが最下層の有機的システムのひとつだ。
 少年は、それの顔のような部分を見下ろして、目のような部分に視線を落とした。シズクにゆがんだ人間ごしに、空が――雲と雨とに無残にもまれたスカイスクレイパーが映る。少年は微笑して、鉄クズに向かって念じかけた。
 おまえもザマアミロって言いなよ。
 雨はやまず、鉄クズはうらみを述べない。少年はまた、背中をまるめて歩き出した。


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Entry41

しかし、名は残らない。

 よお、来てやったぜ。ああ、誰にも見られちゃいない。こんな夜中に誰も起きちゃいないさ。お、その酒を一杯いただくぞ……ふー、やれやれ。さてと、急いでくれよ。夜明けにはコロッセオに行かねばならん。ベテラン剣闘士様は忙しいんだ。
 それにしてもアンタ、石像のモデルごときによくこんな大金を出すな。ふむ、確かに近頃は物騒だ。行方知れずになる奴が妙に多い。子供だけならまだしも軍人まで消えたとあれば、普通だったら怖気づく。金でもはずまなけりゃ、夜中に出歩く奴なんかいないよな。
 俺か? 俺はそんな腰抜けじゃない。それに、とにかく金が欲しいんだ。今は奴隷の身だが、金つんで自由になって、軍隊に入るんだ。そして武勲で名を挙げるのよ。へ、笑ってやがるな。馬鹿にするもんじゃない。もし俺が死んでも、英雄になれば永遠に語り継がれる。
 トロイ戦争のギリシアの武将、アキレウスを知ってるか。あいつは神の子だという話になってはいるが、そんなのは後からつけた伝説だ。アキレウスの鬼のような戦い振りが、奴を神の子孫に仕立て上げたってワケさ。俺もそんな風に名を残したいんだ。
 命なんざ儚いものよ。どんな風に生きようが、人はいつか寿命が尽きて死ぬ。だがな、名前は死なん。語り継ぐ奴がいる限り、伝説は不滅だ。どうだい。この世にこれ以上の栄光があるんなら、教えて欲しいもんだね。
 さて、仕事に掛かろうじゃないか。なに、蛇を背負った男の像を作る? どこだその蛇は。ああ、こっちの部屋か。……これはまたえらい大蛇だな。これを背――なんだ巻きついてきやがる――くそっ力が入らねぇ――さっきの酒に何か入れやがったな! てめえ! おい! 嵌めたな畜生! この蛇をどうにか……くっ首に巻き……放せ……くる…………グッ……ガ……ぁ………………


 こちらが当美術館の至宝、ラオコーン像でございます。この大理石像は、トロイ戦争でギリシアに味方したアテネ神が、木馬にギリシア兵が潜んでいると見抜いたトロイの神官ラオコーンと二人の息子を、大蛇を遣わして絞め殺した、というトロイの木馬の神話を題材としています。ご覧下さい。大蛇に締め上げられる親子の死の間際の苦悶する表情。リアルな身体表現。この像は紀元前一世紀頃の作品とされていますが、二千年もの時を経てもなお我らを魅了してやみません。ラオコーン像は、人類の偉大な文化遺産として、永遠に受け継がれて行くことでしょう。


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Entry42

グミキャンディー

グミキャンディー


グミキャンディーご存じ?

グミのこと知ってれば、グミみたいとか言えるけど、残念なことにグミを知らない。

グミキャンディーは小さくまん丸くってオレンジ色だったり、ブドウに似せて濃い紫色だったり、

ミカンの房の形だったりする。

カムとプヨヨンと歯ごたえがある固めのゼリー菓子だ。

プヨン、プギュ、プヨン、プギュとさんざんあま噛みしてから最後とどめに、歯茎に力を込めて

グギィと噛み切る。

グジャ、グジャ細かく噛み砕き、やっと飲み込む。

ああ、食べるってセクシー。

今日賢の先生から電話があった。

「賢ちゃんが隆君と喧嘩して、頭を囓られました。」

と言う。

頭をどう囓ったのか、想像するだけでおかしい。

頭だと肉が薄いから噛み心地良くなかったに違いない。

お気の毒。

「ねぇ、先生、グミキャンディー知ってる?」

「えっ?」

「噛むとプニュ、プニュして気持ちいい、ちょうど子供噛んだみたい。」

「アッハハハハハ、渡辺さんまたそんなこと言って。」

それで電話は終わったんだけど、ジュワァーと昔の記憶があぶりだしのように浮かび

上がってきた。

私はよく子供を噛んだ。

憎たらしい時ガブッと、可愛くてもカポッと。

大きく開けた口一杯にまん丸い腕や尻を頬張って、ゆっくり歯に力を入れる。

子供の肉が歯や歯茎にやわやわと弾力を返す。

もうこれ以上噛んじゃだめと、もっと噛みたいの瀬戸際の攻防。

自省と衝動の目もくらむような二律背反は、私を混乱させ、くらくらさせる。

それでついつい力が入ってしまい、ギャーという鳴き声で我に返る。

母屋の風呂に入りに行く。

姑が「何これ」

娘「おかあさんが、噛んだ。」

私「ヘェーッ」

私はノミみたいに背を丸めて一目散に外に飛び出す。

グミキャンディーなんぞ噛んで喜んでいる今は、なかなか平和でよろしい。

終わり
読んでくれてありがと


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Entry43

プレゼント

 今日はお父さんの誕生日。
 いつもの感謝に六歳になったばかりのケイちゃんは、パパに晩御飯を作ってあげることしました。
「ケイちゃん、手伝おうか?」
「はいってこないで!」
 心配で台所を覗きにきたママを追い返して、ケイちゃんは椅子に登ってテーブルの上に並ぶ材料を眺める。
 玉葱、ニンジン、ジャガイモ、お肉、カレーのルー(甘口)
 すべてママが用意したものです。
「ああ……包丁をそんな風にもっちゃ……」
 ケイちゃんには秘密で仕掛けたカメラの映像を別室で見ているお母さんは、すごく不安そうです。
 しかし、そんなお母さんの不安をよそに、どんどん材料を切っていくケイちゃん。
 見た目は不恰好だけどなんとか無事に野菜を切り終えて、次は食材を火に通す番です。
 椅子を移動させてコンロの前へ。
 けれど、フライパンが見当たりません。
 いつもママは使い終わったフライパンをどこに置くのかな?
「ほら、コンロのした。いつもそこから出してるでしょ」
 お母さんの言葉が届いたのか、ケイちゃんは椅子をどかせて戸を開ける。
「あ、あった」
 嬉しそうに呟いて、ケイちゃんは銀色のフライパンを取り出し……あれ、すこし違うぞ。
 けれどケイちゃんは軽いそれが気にいったのか、コンロに乗せて火をつける。
「あ……あれ……ポップコーンの……」
 すぽぽぽぽぽんすぽぽぽぽんすぽぽんぽん!
 軽快な音を鳴らせて一気に膨らむポップコーン。
「わあ……びっくりした……」
 とりあえずポップコーンをテーブルに置き、別のフライパンを取り出し調理を始めるケイちゃん。

「パパ、お誕生日おめでとう!」
 帰ってきたパパに飛びつくケイちゃん。
「あ、うん。ありがと」
 ケイちゃんを抱きかかえてリビングへと入ってくるお父さん。
 テーブルに並べられた料理に驚きます。
「これ、全部ケイちゃんが作ったのよ」
「へえ、そうなんだ」
「えへへ」
 頭を撫でられ、嬉しそうに目を細めるケイちゃん。
 今日の晩御飯はカレーにサラダ、特別にもう一品。ポップコーン。
 見た目は決して綺麗とは言えないけど、味の方は抜群。なんと言っても愛情の量が違います。
「うん、おいしいよ。ケイちゃん……っとと」
 ケイちゃんを見るお父さんの笑顔が、一層やわらかくなります。
 料理を頑張ったケイちゃんは、寝ちゃってます。
「おつかれさま」
 天使の寝顔の愛娘に、パパとママ幸せそうです。
 お疲れ様、ケイちゃん。ゆっくりとやすんでね。


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Entry44

空の在処

 馬喰町の駅の後ろのホームから先へ続くトンネルは右へゆっくりカーブしていて、ずっと奥まで壁面を照らす電燈が続いている。そういえばありそうでない風景だ。だからといってその先に何か特別なものがあるなんて考えにくい。この先で線路は両国のちょっと手前で地上に出て錦糸町の駅で停まる。大学を出て四年、新小岩から品川の会社に通い続けて知っていることじゃないか。

「空はこの先にあるのよ」
 そう言ってさっき、スズミは駅員の目を盗んで線路に降りた。不測の事態が僕の時間を止めた。電車が来たら危ない、当たり前だけど重要な常識が頭を駆け巡る前に、不思議と僕は非現実なスズミの言葉に捕われていた。本当にこの先に空はあるんだろうか?
 確かに地上には出るけど、空に続いてるわけじゃない。良く知っていることだ。でも一抹の疑念が胸をよぎる。じゃあ、何かを導くように続くトンネルの壁面の電燈に僕はこれまで気付いたことがあっただろうか?

「あら、来てくれたの?本当は待ってたんだ」
 気が付くと線路を走っていた。それに気が付いたスズミが振り返って笑いかける。また一つ、僕の知らない彼女の笑顔に怒る気も失せる。いや、それは言い訳かもしれない。だって僕はもうここに、空へと続くトンネルの中にいるのだから。
「さあ、走るぜ」
「大丈夫だって」
「早く空が見たいだろ?」
 スズミは小さく「うん」と頷いて僕の手を握った。僕たちは走った。

 緩やかなカーブが続く、緩やかな坂を走る。目の前がだんだん明るくなってくる。
 そして、そこには空があった。
 ぽっかりと開いたトンネルの出口、闇の向こうには空があった。送電線が少し邪魔だったけど、でも空だった。他には何もなかった。

 トンネルを抜けてしまってからは、そこはもういつもと同じ街で、僕たちは何もなかったかのように柵を越えて道に出た。目の前にオシャレな喫茶店があったけど、五百円もだして飲むコーヒーに何の魅力もわかなくて、少し先にあった自動販売機でジュースを二本買った。路地の先の小さな公園、誰もいないブランコに二人で並んで腰掛けた。暑い日射しの中で持った缶ジュースの冷たさが気持ち良い。
「ねっ、知らなかったでしょ?」
「四年も通った道なのにな」
 僕は答えた。知らないことがたくさんたくさんある。トンネルの先の空も、缶ジュースの美味しさも、こんなところに公園があったことだって。そんな謎が一つ一つ、今日も溶けていく。


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Entry45

ワンピースの記憶


「残り時間、あと20分!」教務主任の声が教室中に響いた。
 私の消しゴムがコロコロと潔く転がって君の答案用紙のほぼ真中で停止した時だ。 
 
 木製の机の香りに、チョークと答案用紙と消しゴムの滓とそれに鉛筆の芯の臭いが混じ
っていた。顔を上げて見渡すと予備校生達の焦りがそこら中に漂って澱んでいた。
 
 教室の窓の外には素晴らしい下界が拡がっているのに、天井までもが低くのしかかって
くる様に感じるのは私だけなのかしら。
 ため息も頭を掻く音も机の軋む音も君の舌打ちも今日は耳障りではないのに、寂寥感だ
けは私を決して裏切らない。
 
 集中していて嘘のないまっすぐな横顔。無欲で真摯で端正なその顔。すこし見とれてし
まうぐらいの時間は予備校にだってあるのよ。私は人生の中で、この無駄に思える中途半
端な時間が信じられないくらいに浮ついていて、とても好きだと思う。

「ふ〜ん」と訳知りの顔で消しゴムを無視することが得策なのかしら。フランス煙草のジ
タンなんかペンシルケースと並べてみたってどだい似合わない。少年のままの君には。
 
 それでもこっそり抜け出してバスに乗り換えて、夕方まで帰れそうもないと思えるくら
いの丁度いい距離にある喫茶店に2人で行きたい気もする。夕方の迫りくる時間も、次の
模擬試験のことも、大学へ進学した同級生やボーイフレンドのこともすべて忘れられるあ
の店のすみっこでタバコをふかしてみたい。そう君には似合わないそのブルーに輝く踊子
のシルエットの煙草を。

 今日は、この想いを今だけのもにしたくない気がする。私は問題用紙の端をこっそり破
いて、隣の君へのメッセージを速記の要領で書き込んだ。そしてその紙を鼻の頭で擦り、
お呪いをかけて君の前に放ってみた。こんな大胆なことをしたのは初めての経験だった。
「消しゴムを返してくれたら、うれしいです。そのお礼にコーヒーでもどうですか?」
 
 君は左手で頬づえをついたまま振り向くと、忍者の手裏剣みたいに右手で消しゴムを返
してきた。照れたように右手の親指をたてて、そして一度だけゆっくりと頷いた。一瞬だ
けど不器用にウインクしたようにも見えて私は赤面していたと思う。
 
 改めて君の瞳を正視した瞬間に私の胸のシグナルが赤々と点灯したように感じた。テニ
スかサッカークラブ出身だったら話題も尽きなくていいのになぁ。
 
 そんな私を無視するように君は無造作に髪をかきあげて、一度だけ私を見た。


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Entry46

舞い上がる絶妙なコロネ

 作者は何かを勘違いしている。
 もしかしたら彼は、主人公と、舞台と、タイトルさえあれば、物語は勝手に進行して行ってくれるものだと思っているのではなかろうか。
 まあ、それも、一面の真理を突いていると言えなくもない。そういう小説だって、まったくないとは言い切れないからだ。
 しかし。
 この見渡す限りの、地平線もない、真っ白な空間で、チョココロネが一個ぽつんと置いてあるだけの状況から、主人公たる俺はどのような物語を展開して行けばいいのだ?
 さっぱりわからない。
 しかもこのチョココロネ、5分に1回くらいの間隔で、ひゅるるるるると猛速で空中に舞い上がり、広げた傘のような速度でゆっくりと同じ場所へ落ちてくる。
 ……ほんッと、どうすればいいのだ。
 意味がわからない。
 タイトルそのまんまではないか。舞い上がるコロネ。多分、絶妙に美味いのだろうコロネ。
 主人公として、三次元でもなく二次元でもなくそれ以上の高次元でも低次元でもないこの言葉のみで構成された世界に生を受けたからには、何かやるべきことがあるはずだ……と思いたい。
 一応の自我やアイデンティティーは持っているという設定だから、自分自身の確立の為にも、この世界で、あと500文字弱のこの世界で、何かをやり遂げなければならない。
 取り敢えず、コロネに近付いてみる。
 と、その瞬間、恐るべき速度で舞い上がったコロネが、俺の鼻先を掠めた。
 少し、擦り剥けた。
 いっそ喰ってやろうか。そう思った。
 コロネがゆっくりと、天使のように空から舞い降りた後、俺はそいつをしっかと抱きすくめた。
 もう、空は舞わせない。俺は元来負けず嫌いという設定なのだ。その相手が、例え……コロネだったとしてもだ。
 5分が経ち、その瞬間、俺はとてつもない衝撃を腹に受けた。プロボクサーのパンチのようだった。
 そして、俺は、空を飛んでいた。コロネは俺ごと、舞い上がったのだ。
 しかしまあ、コロネはコロネ。俺の腹を打ちすくめた瞬間、べちゃっと潰れ、中のチョコをにゅるんと吐き出していた。少し勿体無かったか。
 地上へ降りた俺は、Tシャツにべっとり付いたチョコも残さず、コロネを全てたいらげた。これで空が飛べるようになるだろう。そう思った。
 飛翔は人類の夢だ。しかし、同時に、嫌な予感もした。
 そうして、また、5分が経った。

 コロネの細かい破片が全て、俺の頭蓋を突き貫いて、空へと舞い上がった。


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Entry47

青空の白球

 朝? 私は浅い眠りから醒めた。
昨夜遅くまで筆を滑らせたキャンバスの横で、時計が朝を示している。
肌に潤いが少なくなったと感じながら、眠い目をこすり洗面所に向った。歯を磨きながら明るい窓の外を想像して休日の過し方を考えた。
(買い物?映画?こんな陽和は、やっぱ芝生でしょ)
そう決めるとバタバタと身支度を済ませ、スケッチブックを片手に自転車に跨がった。

 思った通り、清々しい六月の風が頬をすり抜ける。
こんな休日は久しぶり。騒がしい教室で子供達と居るとこんな事が幸せなんだ。私ってもしかして子供嫌い? そんな事を考えていたらいつの間にか、芝生の見える土手公園に到着した。
 私は水を取出し一口飲むと、冷りとしたボトルが気持ち良く思わず額に当てながら「よいしょ」と草の上に腰を下ろした。(あ〜ぁ、オヤジみたい)いきなり自爆する私。しかし心地良い。青空に丸くて白い雲が流れる。その動きを追掛けると、野球好きの父を思い出した。

 小さな頃から野球をしていた私は、父の頼もしい友達だった。
父が工場から帰ってくると、必ず二人でキャッチボールをした。姉達と比べ『お前は素材が良い』そう言っては私を草野球の試合に出したり、野球観戦に連れて行った。
中学に上がった頃、私はキャッチボールをしながら父に言った。
『あたし、中学では美術部に入るから』
私は父に野球部に入れと言われるんじゃないかと思い、そんな話しを切りだした。父はキョトンとした顔をしたかと思うと吹出し声で笑った。『可笑しくて涙が出るよ』と草の上に寝転びながらも笑っていた。私も父の横に座りそして寝転んでみた。今日と同じ青空に丸い雲が二つ流れていた。
(真面目に言ってるのに……)
私はそう思いながら、父に『そんなに笑わないでよ』と言う。父は『ほら、あの雲を見てな、きっとくっつくぞ』と言った。私は何故か素直にその雲を見つめた。そして雲が重なった時に父が『ほらな、大きなオッパイみたいだ』そう言って私の胸をチラリと見た。
『いやらしいな〜もう!』
私が怒ると、父は『好きな事が一番だな』そう言って立上り『帰るぞ』と言った。
 自転車を押す後ろ姿は今になって思い出すと、少し丸かったな? と思った。

 微風が流れる。キャッチボールをする親子がいる。
私はスケッチブックに青空を流れる白球の様な雲を、淡い色で描いてゆく。
しかしそこまで。白球が白いオッパイ雲に変わると、睡魔が優しく微笑んだ。


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Entry48

あめゆじゅとてちてけんじゃ

 それは咎めるかのように首をぐるりと動かし、そのぶつぶつと割れた瞳で私を見た。
 思っていたよりも早いその動きに、私は戸惑った。私の戸惑いを察してか、私に目を合わせたままそれは、その濃紺と白のストライプから成る身体をさあっ、とざわめかせた。
「兄様、可愛いでしょう」
 虫篭を抱え、圭子は言う。
「そうだね」
 私はその虫から目を離しながら、答える。
「今日が十四月」
 圭子は頭を巡らせて窓の外へ目をやり、そして私を見上げた。私に預けるように寄せられた圭子の体は、病に火照り、輪郭があやふやに感じられた。
「明日からこの子は繭を作るわ。黒い繭。珍しいでしょう。私の髪よりずっと濃く黒い繭よ」
 圭子はその淡い黒髪をかき上げ、言った。
「何日ほどでこの虫は蝶に成るんだい?」
「蝶?」
 圭子は笑った。
「嫌だわ兄様。この子は蝶になんか成らないのよ」
「じゃあ繭の中でこいつはどうなるんだ?」
「死ぬわ」
 愛おしげな目をその虫に注ぎ、圭子は言った。
「蛹にもならず蝶にもならず、繭の中でこの子は死ぬわ」
「そうか」
 私は何を言って良いのか解らず、ただそれだけを答えて圭子の手を握った。
 どこまで握っても手応えの無い手だった。不確かな熱。白く透いた爪。
(私はどうすれば良いのだろう)
 いつもの、出口の無い、もはや疑問とも呼べぬような、その思いが心を巡る。疼く胸を抑えるように、私は圭子の手を握り直した。
「圭子?」
 いつの間にか圭子は、眠りに落ちていた。
 私その身体を抱き上げ、静かに床に寝かせた。
 窓の外に十四日目の月が、その半端な形を輝かせていた。月の光に、横たわる圭子の唇が青く、眩しい。
 私は堪えきれず、その唇に、深く口づけする。



 翌日、家に帰ると、母は憔悴しきった声で私を迎えた。
「圭子がどこにもいないの」
 私は母を玄関に残し、圭子の部屋へ向かった。
 主の消えた部屋は、静かに夜に横たわっていた。
(どうして)
 その時、窓辺に置いてあった虫篭が、かさりと音を立てた。
 夜になおその黒を輝かせる繭が、そこにあった。
 私の見守られながら、その繭は静かに夜に開いた。
 するりと、白く透明な蝶が繭から抜け出した。
 私はそれを捕まえようと手を伸ばした。羽音が夜に響いた。何処か笑い声に似ていた。
 何度かの失敗の後、伸ばした手に蝶が収まった。
(捕まえた)
 そう思って私は手を開いた。

 精液みたいな白い粘液に潰れた、色素の薄い蝶が、そこに居た。

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