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第36回1000字小説バトル Entry30

桜坂

 休暇終了の前日、弟の車を借りて出かけた。行き先など特に決めていなかった。
 久しぶりの故郷は懐かしくてどこかよそよそしい。幼いころ通った小学校が近くにあったのをふと思い出してハンドルをきる。細い道をくぐると、何故だか昔と変わらない風景が残っていた。
 グラウンドの隣の細い小道には、あの頃と同じ桜並木がある。五月なのが残念だ。花はすでになく、新緑がしげっている。
 緩やかな上り坂。この路が大好きだった。
 車から降りて小学校を見上げる。
「口にしなかったけど、母さんは姉さんを待っていたよ」
 弟の非難を聞き流して葬儀に出た。
 泣かない気丈な娘と号泣する弟は参列者には奇異に映った事だろう。それで良かった。私はどこかほっとしていた。もうこれで感情に任せて叫び叩く醜い母を見ることはないのだから。理不尽に傷つけられることもない。平穏な日々が訪れるのだ。
 父がいなくなったのは小学三年のときだった。産まれたばかりの弟と母と小さなアパートに移った。母は働き始めた。仕事と生活のストレスが重かったのか、些細なことで叱られるようになった。高校生の頃は母の更年期と重なって苛立ちのはけ口にされていた。
 卒業と同時に遠方の寮のある会社を選んで就職した。それ以来の初めての帰省。
 グラウンドから子供の笑い声が聞こえる。
 風にゆれた緑葉の隙間から、あるはずのない薄紅色の花びらがいくつも舞い落ちる。満開の桜の下、綺麗に着飾った母と迎えに来てくれた父と笑いながら手をつないで帰った。私にだけ向けられる笑顔と柔らかな手。
 あれは私だけの記憶。
 父を知らない弟を溺愛していた母。不憫だったのだろう。私に八つ当たりする様は見苦しかった。父に似ている私は目障りだったのだろう。そんな母を見て居たくなかった。
 ざわり、と風に葉擦れる音がする。
 忘れられなかったのは満開の桜なのか、それとも両手を包む温もりだったのか。
 小さな女の子が遠くで手を振る。
 あれは幼い頃の私。
 ようやく今、記憶の中の母が還ったのだ。
 不意に若葉の明るい緑がうすらぼやけた。

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