第36回1000字小説バトル Entry32
きのう見た夢が頭から離れない。
ベランダ−それは、中学生の頃住んでいた公団アパートのベランダだった−に黒い雄牛がいて、恐らくそれは父が酔狂をおこしてベランダで飼おうと提案したものであったらしく、そいつがベランダの手すりに黒々とした前足をかけて、今にも手すりを越えて中空にダイブしようと思いっきり上体を前に乗り出していた。そんなにも巨体の牛がベランダに余ることなど当たり前過ぎるくらい当たり前に想像できたのであって、それなのにその至極常識的な考察を、まるでわざとのように無視したそれは結果なのであった。あたしと父がそれを見ていて、「ああっ」と叫んでいた。もしかしたら阻止できるかも知れない、などということは頭をかすめもしなかった。自らがわざわざ仕組んだ悪夢の中に落ちてゆくような。予知できた危険に頭から飛び込んでいくような。そしてその嫌になるほど黒々と体を光らせた雄牛は、ひらりと身を躍らせて5階のベランダから空へと飛んだ。
あとはただ後味の悪いだけだった。雄牛が人を押し潰さなかったかというのが最大の心配事で、父が下まで駆け下りて行って、とりあえず死人はいないそうだというのを確認してきた。そしてアパートの部屋に鍵をかけた。−マスコミでも来たらどうするの、あたしが聞くと、−うちにいて外に出なければいい、と父は言った。そんなものですまされるのだろうか、と夢の中とはいえさすがにそう思った。
雄牛が地面に激突する音は聞こえなかった−今か今かと待ち受けていたにも関わらず。ただ、最初に雄牛を目にした時の、ひづめがコツコツと手すりにぶつかって立てる音ばかりが、目覚めてからもやたらと耳に残った。
そして今日は朝から一日雨だ。
夜も更けてから一人暮らしの部屋に戻って、実家に電話した。母が出た。−父さんたらね、といきなり言う。−父さんたら今日、傘をさして自転車に乗って、転んで怪我して帰ってきたんだよ。それで結局、タクシーに乗ってまた会社に行ったの。
−やっぱり馬鹿だ、と母の話を聞きながら思う。全身の骨を癌細胞に犯されつつあるというのに。少しの骨折がいまや命取りになるというのに。…あたしはもはやあの人に同情なんてしないけれど。
父はもう寝てしまっていた。電話を切って、外に置いたままの植木鉢のことを思い出して、ベランダの戸を開けた。
一瞬、激しさを増した雨の音が耳を聾した。
雨音の中に父の泣く声が聞こえたような気がした。