第36回1000字小説バトル Entry35
湯が沸騰している。
美人の女将が来て、少しお作りしましょうと言う。
雰囲気から言って、まさかバイトじゃないだろう。
着物も他とは少し違う。
どう違うかというと、まあ、高そう。
向かいに座っているミカに小声で訊く。
「女将?」
「ええ、まあ…」
と女将自身が少し笑いながら答える。
ミカは酔ってる。目つきで分かる。
どこか全然違う世界を見ている。
今飲んだビールのせいだろう。
でも、回るの早過ぎ。
「ポン酢とゴマダレ、どちらに?」
女将が訊く。
「自分たちでやりますから」
ミカがそう言って、女将を追い払う。
「さようでございますか」
女二人の間に見えない稲妻が走る。
「すいません」
僕は思わずそう言ってしまう。
ミカが僕を睨む。
「どうぞ、ごゆっくり」
美人の女将がいなくなってからミカに訊く。
「なんで、僕らの席だけ、バイトの子じゃなくて、女将?」
「知らない」
「なんか隠してない?」
「何を?」
僕は湯の中で肉を泳がせる。
ミカも同じようにやってる。
地球に牛がいて本当によかった。
「牛肉、好きなのね?」
「嫌いなの?」
「好きよ」
牛が嫌いな奴っているのかな?
僕は牛を食う。ミカも食う。人間はみんな牛が好きだ。
皿の肉がなくなったので、通りかかったバイトに追加を頼む。
追加分を持って現れたのはまたしても女将だった。
「少しお作りしましょう」
女将がさっきと全く同じことを言う。
「いいえ」
間髪入れずにミカが断る。
またしても見えない稲妻!
「さようでございますか」
女将は空いた皿を片づける。
と、女将の顔に妙な笑みが浮かぶ。
女将の視線の先には、眠ってしまったミカがいた。
催眠術にでもかけられたみたいに、座ったままで、頭をカクンと落としている。
まさか、酔いつぶれたの?
「ずいぶんと頑張られたようですが…」
女将が、笑っているのか睨んでいるのか分からない顔を僕に向ける。
「これで、お・し・ま・い」
僕は、肉をつまんだ箸を止めて確認する。
「これはいい?」
女将が頷く。
肉を湯に泳がせながら、改めて周りを見る。
なるほど、いつの間にか客は僕らだけだ。
灯りも他は全部消えている。
「閉店?」
女将が微笑む。
と、ふいにミカが目を開く。
一瞬嫌な顔をした女将がミカに小声で何か言う。
ミカは女将を無視する。
女将は小声のままで食い下がる。
ミカは黙って女将に目を向ける。
それだけで女将は明らかに怯む。
そして邪魔者は去る。
店内が明るくなり、他の客達も元通りに姿を現す。
僕は肉を煮すぎて、それをミカが笑う。