第36回1000字小説バトル Entry42
先週小学生の息子に自転車を買ってやった。結構高かったのに息子はまだそれに乗れないでいる。サドルが高いからだと文句ばかりいう息子にせかされて日曜日の朝からスパナを手に調整をしながら、僕は遠い昔に乗っていたペンキの剥げかけた赤い自転車のことを思い出していた。
家庭の事情で一彰君は今日お引っ越しすることになりました。みんなに会うと寂しくなるからって先生がお別れの手紙を預かっています。
何時に引っ越すのか、どこへ引っ越すのか、そんなことは何も知らなかった。ただそのまま先生の読む手紙なんかじゃ納得できなくて僕は教室を飛び出した。家が近かった僕たちは小さい頃からいつも一緒に遊んでいた。急に引っ越しだなんてそんなの認められない。僕はカズちゃんの家まで思いっきり走った。少しだけ学校に近かった自分の家まで来たときにカズちゃんの家からトラックが走り出そうとしているのが見えた。
「待て、カズちゃん!」
声は届かない。僕は家の塀に立て掛けてあった父さんが中古で買ってきたペンキの剥げかけた赤い大人用の自転車を掴んだ。思いっきり助走をつけて、それでも足がペダルに届かないからフレームの間に足を通して三角乗りでこぎだした。
「カズちゃん、カズちゃん!」
「テッちゃん!」
カズちゃんが助手席の窓から顔を出した。僕は思いっきり自転車をこぎながら名前を呼び続けた。それでもトラックは少しづつ遠ざかっていき、そしてカズちゃんはちょっと下を向いたかと思うと何も言わず僕に大きく手を振った。それを見た僕は足がもつれて倒れてしまい、トラックは視界から消えていった。
あれはいまの息子と同じ小学四年生のときのことだ。どこへ引っ越したのか、どうして引っ越したのかいまでも分からない。聞いたのかもしれないけど忘れてしまった。思い出を掻き消すように息子が「早くしてよ」とうるさく訴えかける。僕は思わず怒鳴ってしまった。
「うるさい。こんなの自分でやれ」
まずい。我が息子ながら弱虫で、いつもは怒鳴るとすぐに泣くのだ。しかし息子は泣き出さず不思議な顔でこっちを見ていた。
「どうした?」
「変なの。怒ってるのに、顔が笑ってるね」
そのときふいに自分も自転車を買おうかなと思った。自分をどこかへ押し進めてくれそうな、魔法のような赤い自転車。
「うるさい。いいからお前も手伝え」
そう言いながら手渡したスパナを息子は少し困りながらもしっかり受け取った。