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第39回1000字小説バトル Entry1
「やれやれ」
オレはつぶやいた。タバコが無性に吸いたかったが、あいにくここは電車の中だ。車内には、オレに気をかける奴など一人もいなかった。いや、オレがいることに気がついている奴がいるかどうかも確かではない。
向かいには疲れた灰色のスーツを着た中年の男が座っている。会社の帰りか。週刊誌を一生懸命読んでいる。おいおい、ずっと同じページ読んでないか? その中年男の隣で女子高生が二人、へんてこな姿勢で座っている。一人が話している間もう一人は携帯をいじりながら相槌を打ち、次はその役目が逆になる。どっちも好みじゃないな。
オレの隣にはギュッっと目をつむった、妙な化粧をしたオバサンが座っている。電車が少し大きく揺れ、オバサンの手から薄茶色のきんちゃく袋が落ちた。大事そうに握られていたそのきんちゃくは、束縛から逃れ、しばらく自由の身を味わっていたが、すぐに助けを求めだした。持ち主は気がついていない。寝ているのか? 向かいの中年男はチラッとこちらに目をやり、すぐに例のページに目を戻した。他の人間は気がつかないのか、または気がつかないフリをしている。
誰もが自分達の世界に閉じこもっている。他人のことなどどうでもいいのだ。オレもその中の一人か?
オレは惨めなきんちゃくを助けてやることにした。
「荷物が落ちましたよ」
オバサンに声をかけた。…反応はない。聞こえていないのか? オレの声が声になっていなかったのかもしれない。誰かが見ている気がして恥ずかしくなったが、案の定みな自分達の世界にこもったままだ。
意地になってもう一度声をかけようとしたとき、オバサンは目をゆっくり開き無言できんちゃくを捕まえ、また目をギュッっと閉じた。
無視かよ、ババア。恥ずかしさが加わって苛立った。やっぱり放っておけばよかった。余計なことはしないほうがいい。もう二度と他人のことなどかまうものか!
電車が嫌な音を立てて止まろうとした。
キーッキキーッ
オレはハッとした。一瞬、ほんの一瞬の間にオレの脳裏に夢のような、それでいて鮮明な何かが映った。轟音を立てて、ゆっくりとオレに近づいてくる電車、ホームに群がる冷たい眼をした人の群。それから…それからオレは…? まあいいや。それよりもビクッとしたオレを見て笑っている奴がいるかもしれない。
…はは。誰も気がついちゃいないや。
「やれやれ」
タバコが無性に吸いたくなった。
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