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第39回1000字小説バトル Entry32

背反遺言

 薫は一度へんに甘ったれたいつもの調子で
「いつか私が死んだらどうする」
 といった意味の事を言った。
 伊坂はその時、暇つぶしに買った幾何の問題集を片手に持って捲って居たが、その姿勢も目線も特に崩さず
「予定でもあるのか」
 と問うた。
 薫は、ない、と言った。
 伊坂はそれでは考え難いと答えた。
 薫は歪んだ様に笑い、では今決めてと言い、続けた。
「私が死んだら忘れずに、他の人間を愛さないで欲しい」
 伊坂は少し考える。薫が死んだら間もなく忘れてしまうだろう。現実に居ない人間を志向し続ける事が出来る程優秀な脳みそを自分は持って居ないのだ。だが後半の方はどうやら守れそうだと思う。何故なら今だって自分は誰も愛しては居ないし、薫が死んだ後急にこんな自分が変わるとは、凡そ予想し難いのだから。
 伊坂は薫にそう告げた。
 薫は少し考えてから、それで自分は満足すべきなのだろうと言い、それを自分を納得させる為に重ねて言い、伊坂は面倒な会話が終わりそうな事にほっとして「そうだ、そうだ」と鷹揚に返答した。そしてそうしながら明晰な幾何学の証明を見、いら立ちを極めて上手に散らして居た。

 数年後薫は病気で死ぬ事になった。
 伊坂は病院内で煙草の吸える場所を見付け大概そこに居た。だが薫の病室からそこが余りに遠いので、薫が望むように傍に居てやる事は出来なかった。
「だって俺は煙草を吸えなきゃ死んじまう」
 枯れた声でそう言う伊坂に、痩せた薫は笑いかける。そして白いシーツの中で呟いた。
「私が死んだら、」
 伊坂は目を逸らし、あの日の幾何の証明の事を考える。
「私が死んだら私の事を忘れて、そして誰かを愛して欲しい」
 急に明晰な証明が躓いた。伊坂は薫の部屋のカーテンを凝視したまま眉を顰める。
「昔言っていた事と違う」
 薫は最後に一度だけ笑った。
 それから容態が急変し、駆けて来る看護婦や医師の怒声から逃げる様に伊坂はそこを立ち去った。薫の死を知らされたのはいつもの煙草を吸っていた場所で、一口吸っては捨てると言う事を繰り返した彼は、看護婦に見つけられた時には文字どおり煙草の吸い殻に埋まっていた。

 伊坂は薫の遺言を半分守った。
 彼は初めて誰かを愛した。
 みっともなくぶるぶる震える手で煙草に火を付け続けたあの日の病院の庭の記憶を反芻し、書架の隅にあった明るい過去と結びつく幾何の問題集を繰り返し捲りながら

 伊坂は初めて誰かを愛した。

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