第41回1000字小説バトル全作品
#作者題名文字数
1poi心中行712
2福井麻生遙かなる君へ946
3下圭壮大な世界観896
4卯木はる土偶の女神1000
5スナ2号迷惑な守護霊1000
6さゆり追憶1000
7竹野井 雪It's rainy day833
8棗樹犬の唇1000
9旅幸まりあ薬剤師エリカの独り言(不幸な女)998
10立田 未バロン・デセーの解放1000
11やす泰とまどい1000
12道人現(うつつ)920
13林徳鎬手指1000
14川辻晶美モンスーンが来る前に1000
15橘内 潤『クリスマスの贈り物』997
16太郎丸さんたはいるか1000
17有馬次郎ミスティ・ブルー1000
18羽那沖権八立てば歩めの親心1000
19夢追い人太陽とその影の下で1000
20日向さち体型補正1000
21石橋賢一Everything in its right place840
22アナトー・シキソ麦藁帽。膝を抱えて座っている。1000
23川島ケイリップクリーム978
24伊勢 湊亀の時代1000
25るるるぶ☆どっぐちゃんレッドリバーバレー1000
26カピバラま る も ち1000
27さとう啓介微・妙1000
28蛮人S1000

(右居てんさん作「家族の食卓」は体感バトルに移動しました。ご了承ください)


訂正などによる作品投稿の重複が多く、誤掲載や漏れなどの怖れがあります。訂正、修正等のお知らせは、掲示板での通知は見逃す怖れがありますので、必ずメールでお知らせください。

バトル結果ここからご覧ください。


Entry1

心中行

poi
文字数712


 なにかを間違えたような気がするのだけれどどうにもよく思いだせない。
 釈然としないまま私は道を歩いている。
 山へと続くあぜ道である。
 両脇には連尭やら雪柳やら紫陽花やらの繁みが生い茂り、その奥には名前の見当もつかぬ木々がずらずらと並んでいる。
 ひとの気配はない。
 鳥の飛ぶ影がふと道に落ちるほかはいきものの姿も絶えてなく、しらじらとした静寂に私はふと死を思った。
(死んでしまえば苦しいことはなにもない)
 そう云ったのは女である。
 うつくしい女であったからよく覚えている。
 その一挙手一投足、忘れたものはひとつとしてない。
 それほどにうつくしい女だった。
「栄さん」
 呼ばれてふりむいた。
 誰もいないと思っていたそこに、女がすらりと立っていた。
 見慣れたうつくしい面ざしに、一筋の朱が映えている。
 唇の端に滴るその血さえもがうつくしい。
「ひどいひと」
 そう云った。
「どこへ行くの」
 そうも云った。
 私は首をかしげて女を見た。
 唐紅の小袖に帯は吉弥、島田の髷が崩れているのもなまめかしい。
 嫂(あによめ)である。
 そうして惚れた女である。
「一緒に死のうと云ったのに」
 吹く風がその髪をさらさらと壊した。
 私はなんだか女に申し訳ないと思った。
 そうしてそのまま地に目を落とすと、丹前の腹に深ぶかと一本の小太刀が刺さっているのが見えた。
 私はびっくりして女の顔を見あげた。
 それと同時に、けれどもなにかすとんと腑に落ちたような心持ちがした。
 女は切れ長の目にすと笑みを浮かべ云った。
「まったくちょっと目を離すとすぐこれだから。…栄さん、離しゃァしないわよ」
 風が強く吹いていた。
 私は女に歩み寄り、その懐に顔をうずめた。

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Entry2

遙かなる君へ

福井麻生
文字数946


 いつかこの世界が滅びたとき1人の男と1人の女が残ったのなら,それが君と僕であったらよかったのに・・・。
 どのくらい歩いたのだろう。無機質な土,風は冷たく,この夜のすべてをかき消していく。僕の未来も,今まで歩んできた道も,僕が愛した人も想い出も何もかも。ある日僕は気づく。あの日地球は死んだんだんだと。
 いつもと同じ朝。母は台所で忙しそうに動き回り,父は届いたばかりの新聞を難しそうな顔をして眺め,姉はばたばたと2階から降りてきたかと思うと慌ただしく出かけてしまう。僕はいつもと同じ時間に家を出て,いつもと同じあの場所で君を待つ。いつも遅れてくる君。あの日もやっぱり遅れてきた。ちいさな君。僕の大切な恋人。「おはよう」。いつもと同じ,申し訳なさそうな君の笑顔。でもあの日はいつもと違ったんだ。君の笑顔が突然光に包まれたかと思うと,君は消えてしまった。君だけじゃない。いつも見ていた景色も人たちも何もかも。まだ君がいた場所の空気が暖かい。これは夢なんだ。きっと昨日の夢の続き。いつか覚める悪い夢。
僕は歩き出した。消えてしまった君を探して・・・。
 僕はふと考えた。あの日はいつもと同じだったのだろうか。僕が目覚めた時間も,出会った人々も,僕の知っている景色も本当は違っていたのかもしれない。この世に全く同じものなんてなかった。淡泊な僕の日常。まわりの変化に気をとめないくらい貪欲な毎日。これは僕に対する罪・・・?僕は声も涙も出なかった。出てくるのは後悔の念だけ。君はどこへ行ってしまった?
 僕には守りたいものが沢山あった。中でも君を一番守りたかった。いつか君はこの世界が好きだと言った。愛する人がたくさんいるこの星は儚くも,かけがえのないものだと・・・。あの時大げさな事を真面目に言う君が可笑しかった。でも今なら君が言ったことがわかる。生きるということの愛しさを。人は愚かな生き物だ。全てがなくなった後大切なことに気づいてしまうのだから。僕は宙を見上げた。星がこんなに近くにあったなんて誰が知っていただろう。暗い世界に光を灯す星たちならきっと君の居場所を教えてくれる。
 きっとどこかで君は待っている。同じ星空のした,消えてしまった全てのものたちと共に。僕は歩き続ける。失われたものを探して・・・。

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Entry3

壮大な世界観

下圭
文字数896


 白くもんもんとした感じが続いていた。経験も金もなくて、唯、昼は太陽を夜は月を見ていた。
 「壮大な世界観を持ちなさい」って母がお別れの時に言った。僕はそのときウォークマンでジョン・レノンを聞いていたからその言葉は耳を通り抜けていったはずなのに、最近よく思い出される。母は本当にそう言ったのだろうか。もしかしたら全く違う言葉かもしれない。でも僕にはそう言ったように思える。
 そんなことを思いながら、何年か前に買った写真集を見ながらジョン・レノンを聞く。するとジェットコースターに乗りたくなった。京都駅のクリスマスツリーを見たくなった。小学生のときにやった運動会の得点版を変更する係りをもう一度やりたくなった。
 僕は十五曲目を聞きながら思う。昔、どこかの小さな動物園みたいなところで、動物に餌をあげた。果たして、なんの動物だったか。鹿かアライグマか人間か。まとまりそうなところでサビがくる。世界はすべてシンクしてるななんてことを思いながら、ジョン・レノンに耳を傾ける。数十秒間の無が続いて、我にかえる。
 煙草に火をつけます。ワイングラスになけなしの金で買った千円ぽっちのワインを注ぎます。右耳からはジョン・レノンが聞こえます。左耳からは昔、貴方に言った言葉が聞こえます。「僕は貴方と違ってジェットコースターに乗れません。だから貴方とディズニーランドにいっても、観覧車の中で例の理屈っぽい言葉を並べて貴方を紛糾させることになり、貴方は僕とディズニーランドにきたことを後悔するとともに、これを遂行するために何ヶ月間もごねていたことを全くの時間と労力の無駄と思うだけです」
 二つのものが混ざります。そいつが世界を、僕の世界を支配します。だって、音はきっと耳からしか聞こえていません。それがすべてでそれが絶対です。
 
 僕には爪を噛む癖があります。それを母はきっと「壮大な世界観をもちなさい」って注意しました。僕はいまだにその癖が残っており、よって「壮大な世界観」には届かずにいるのでしょうか。
 京都駅のクリスマスツリーもジョン・レノンもまた「壮大な世界観」なのでしょうか。お母さん。もうワインがありません。

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Entry4

土偶の女神

卯木はる
文字数1000


 振り返ったら、私の手脚がぼつぼつと落ちていて、そういえば進めない。
 道程なんていっても大平原が広がるばかりで、けもの道と呼べるほどの土くれのつながりもなく、とりあえず、ぼつんぼつんと落下している手脚が来た方向を示しているだけ。
 どうしよう。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 思い出そうとしたら、頭痛がした。
 確か、腕なんて無くてもいいかもと、ぱちんぱちんと切れ込みをいれて、ぶらぶら揺さぶって遊んでいたら、無くてもいいのかいって親切なお兄さんが落としてくれたことがあったっけ。
 エッチするのには要らないさ。
 そうかしら、そうかもね。
 両腕の重みから解き放たれて、軽い軽い。空にも舞っていけるかも。
 くるくる回ってひらひら躍って、日暮れて気づけば誰もいない。
 ま、いっか。そんなもの。
 一人で歩いていたら、なんだかからだが重くなる。人の好さそうなおばちゃんが、おぶさっていて疲れてしまい、どさりと押し潰されてしまった。
 あら、お嬢ちゃん、おねんねなの。それなら脚は要らないわね。
 そうかしら、そうじゃないかも。
 にっこり笑ったおばちゃんに促され、ぱつんぱつんと切り離したら、もう歩かなくてよくなって、疲れないわね、くらいは思った。
 まどろんでいた。すっかり暗くて誰もいない。
 ま、いっか。いいのかしら。
 地面に据えた胴体はでぶでぶして、いつだか掘り出した土偶の女神。まん丸に太ったおっぱいとお腹の肉の間の襞。あっけらかんと神々しくてあったかくって大きくて、掌に包んだまま、ぼろぼろぼろぼろ涙がこぼれた。
 でも、わたしのは美しくない。しょぼんと力のない脂肪の塊がゆらゆらしている。だんだんに肉割れしたお腹の脂肪が、地面に恋して寄せている。
 進めないけど、進むべきだし、いいのかしら、いいわけないわよ。
 迷っていたら雪が降り、積もって肩まで埋まった。
 お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、何しているの。
 背の高いお兄さんが見下ろした。
 進みたいの。でも、できないの。
 エッチするかい。そしたらおぶって行ってあげるよ。
 私はまじまじとお兄さんの顔を見た。行きたいのだし、このままだったら雪で隠れる。
 すごく迷って断った。
 いいの。たぶん、いいんだと思う。
 お兄さんはひどく傷ついた顔をして、ぷいっと通り過ぎていった。
 あれから、誰も通らなくて雪はもう顎を過ぎたけど、ちょっとむずむずする傷口を楽しみに待っている。

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Entry5

迷惑な守護霊

スナ2号
文字数1000


 兄が死んで、もう12年経とうとしている。
 母の話では、兄は悪ガキで、私はいつも泣かされていたらしい。覚えていないけれど。
 兄が死んだ日、母は泣き、父も泣き、私も大泣きした。とにかく、兄は私たちを嘆き悲しませた、相当迷惑な奴だ。

 それなのに、もういい加減にしてほしい。

 兄は、12年前から、私にとり憑いたまま離れようとしない。
 姿を見たわけではないけれど、確かにいる。絶えず気配を感じるし、時々笑い声を立てたりする。
 彼はとにかくわがままで、少しでも疎外感を感じると、私に当たる。
 彼の特技は、人のお腹を下らせることだ。
 そのせいで私は、胃腸の弱い子として、家族にも友達にも知られるようになり、なかなか泣ける人生を歩んできた。
 家族で仲良くトランプでもしようものなら、ゴロゴロゴロ。友達とお喋りに夢中になれば、ゴロゴロゴロ。
 そんな風だったから、兄を恨めしく思うのは当然で、時々、兄のことを誰かに聞かれた時は、つい悪口が出てしまう。すると必ず、ゴロゴロゴロ。
 それが12年も続いてきたのだ。
 そろそろ何とかしなければ、私の将来に関わる、と本気で考え始めていた。
 12年。
 ふと私は考えた。カレンダーを覗き込み、日にちを確認する。
 そうか、もうそんなに経つのか。そして今日は・・・。
 思い立った私は冷蔵庫を開け、母が奥のほうに隠しているチューハイを二缶取り出し、スナック菓子を適当に掴んだ。
 部屋に戻って、そっとドアを閉めると、私は缶を開けて呟いた。
「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」
兄は、20年前の、今日生まれた。
「今日は思う存分つきあってあげる」
そう言って、私はアルコールの入ったジュースを流し込んだ。まだ未成年だけど、今日だけは無礼講だ。
 どうやら私は、泣き上戸になるらしく、お酒が入るにつれ、兄がとても可哀想に思えてきた。
 永遠に8歳のままなのに、大人になってしまった兄。
 そんな兄が不憫でたまらず、子供のように声をあげて泣いた。私の泣き声と重なるように、小さな子供も泣き始めた。私達は、その日、夜通し大声で泣きじゃくった。
 なぜだろう。
 あれ以来、兄の気配を感じなくなった。私の胃腸も、すっきり爽快だ。
 ただ、その後一度だけ、朝お腹を壊してバスに乗り遅れたことがある。
 そして私はトイレの中で、いつものバスが事故を起こした事を母から聞いた。
 まさか。
 まさか、ね。
 笑い声が聞こえた気がした。

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Entry6

追憶

さゆり
文字数1000


 おかみの受賞の知らせに私は狂喜乱舞した。作家を目指す者なら誰もが欲しがる文学賞の新人賞。新人作家の登竜門と言われている賞だ。実はおかみの文才を密かに見抜いて公募を薦めたのは私だったからね。

 彼女は口癖のように良く言ってた。「私、食べっぷりのいい人好きよ。美味しい物を食べている時、人って一番いい顔するよね」その言葉どおりおかみの店の料理は美味しかった。心が在るんだ。盛りがよくて、しかも格安な値段でさ。これじゃまるでボランティアじゃないか。商売柄他所の料理屋を知り尽くしている私は、つい老婆心で「経営の方は大丈夫なの?」と聞いたりしたっけ。

 受賞してしばらくしてから、山崎氏が店に来るようになった。彼は文壇の大御所で、先般の文学賞選考委員会で特におかみの作品を強く推した人物だ。
「日本人が忘れかけている含羞が作者の中にはある」
「作者は首筋から人をみている」
選考委員会で褒めちぎった言葉は、そのまま彼女の評価になり雑誌やマスコミで躍った。その後頻繁に彼は店に顔を出すようになった。次の作品の打ち合わせか何か知らないが、彼女を独占しはじめた。頼みもしないのに師匠面してる・・・ように思えた。私にはそれが恩を売りつけている気がして仕方ない。

 面白くなかった。文壇の大御所?だからどうしたというのだ?付き合いはこっちのほうが長いんだぞ、と一人拗ねた。彼が店に入ってくると、あてつけがましく席を立ったりもした。まるで幼稚な子供の喧嘩みたいだと思ったが、どうしようもなかった。自分が遠く及ばない未知の世界、文壇という場所に嫉妬した。大作家の前に自分の非力を痛いほど感じた。そうして私の足は次第に店から遠のいた。

 晩夏、彼女の訃報を聞いた。店からの帰り、無謀な若者が運転するスピード違反の暴走車に轢かれた。即死だったという。享年35歳。若すぎる新進気鋭作家の死は、一時マスコミや新聞雑誌で派手に取り上げられたが、世の倣いとして次第に忘れられて行った。

 ある日のこと、私は偶然立ち寄った書店で山崎氏のエッセイを読んだ。それは、惜しまれて逝った彼女に捧げる哀切に満ちた賛辞だった。読み終えて私は人前も憚らず号泣した。ただ無念であった。手を広げていた輝かしい未来を無残に打ち砕かれた彼女が哀れであった。氏の深い悲しみは、私のそれと同じだ。

 棒のように立ち尽くす私の掌を、幼子がそっと包み揺らした。
 ねぇ、帰ろうよ。

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Entry7

ゆらゆらマンボウ

竹野井 雪
文字数833


 幸せな日は,いつも雨だった。
それも,どしゃ降りの。
二人とも傘を持っていた日もあれば,持っていてもささなかった日もある。特に意味はない。たださすのが面倒だっただけだ。色とりどりの傘が行きかう中,二人だけ違っているというのは異星人のような気分だった。彼女にそう伝えると,無邪気にこう答えた。
「地球寄ってく?なんてね」
友達が言ったなら真っ先につっこみたくなるような古いネタだけれど,何も言わないでおいた。
雨模様の東京は,色のバランスがいい具合だった。空のグレー,立ち並んだビルと高速道路の濃いグレーのグラデーションに,派手な看板がアクセントになっている。生まれて以来ずっと見てきた景色だけれど,そんな風に見えたのは初めてだった。
「どうしたの?」
さっきから上を向いたままの俺に,彼女が声をかける。
「いや,ちょっとボーっとしてただけ」
上の空,という言葉があったのを思い出す。ふーんと彼女は頷いた。鼻で笑ったりはしない。雨が目を覚ませとつつく。つめたい。靴も服も髪の毛もびしょぬれになる。ただ目的もなく歩く,いや本当は帰るという目的があるのだが,わざと遠回りしている。
「森口くんと帰ると,必ず大雨が降って道に迷うんだよね」
怒った口調で言いながら,それでも彼女の目は笑っていた。
三月もあと数日で終わりだ。四月に入ったら彼女はイギリスに留学してしまう。そこで彼女は本当に異星人になるのかもしれない。
雨に濡れた彼女の顔が,きれいだった。
「倉上さん」
首から上だけがこっちを向いた。その肩にそっと手を触れる。
「キスしていい?」
自分でもびっくりするほど冷静だった。雨で冷やされたせいだろうか。彼女が首を縦に動かす。俺は右手で彼女のあごを持ち上げ,ゆっくりと顔を近づけた。雨はこの間も降り注ぐ。
好きだった。
本当は,同じクラスになった時からずっと。

何事もなく月日は過ぎて,今は6月だ。毎日雨ばかり降る。外に出るときはちゃんと傘をさしている。でも,あの時さしていた傘はどこかでなくしてしまった。

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Entry8

犬の唇

棗樹
文字数1000


 跪いて、剥き出しになった部分に、顔を埋める。先走りの透明な液体ごと、強く吸う。男が息を飲む気配が伝わる。焦ったわたしは、唾液と一緒に、黒々と波打つ陰毛まで飲み込んでしまい、激しく咳き込む。喘ぐのを止めて、彼が笑う。
 いつだって、小説のようにはうまくいかない。
「頬張りすぎないで」
 男は笑いをこらえながら言う。(隆起したペニスが、少し右を向いて、腹筋ごとゆさゆさ揺れる。)
「でも、女の人はたいていそうだな。欲張りすぎるんだ」
「意地汚いの」
 自戒を込めて、わたしはつぶやく。(口の端からこっそり黒い毛を取り出す。)
「悪くはないよ。目の前にある素敵なもの、全部ほしい! って、女の人が思わなくなったら、人間という種族は滅ぶ」
 人間という種族が滅ぶ、だって!
 大仰な言い方につられて、女性向けの官能小説を書こうとしてるんだ、と、つるりと言ってしまった。すると、
「僕は唇と舌で女をいかすことができるけど、君は言葉で女をいかそうとしてるんだ」
 男はそう言って、臆面もなく笑った。
 唇と舌でいかすって、犬にでも出来るよ、とふてくされながら、身体の芯で何かが熱を帯びるのを感じる。彼の言葉を口の中で弄ぶ。

 言葉で、いかす。
 女が女を。

 男が女を、女が男を普通にいかすのって簡単だ。
 触れればいい。自分で性器に触れるように仕向ければいい(偉大なり、テレフォンセックス!)。犬を与えればいい。
 接触なし電話なし犬抜きで、文字を通してしか対峙できない女をKOしようとする試みは、いつだって、わたしの惨敗で終わる。キスマークのかわりに青痣をもらって白いマットに沈むあいだも、必死で、彼女の官能を掻きむしる言葉を探している。彼女の滑らかな皮膚を粟立たせる言葉を。柔らかい乳房のあいだに汗を溜め、彼女の一番卑猥で愛らしい部分を匂い立たせる言葉を。
 けれど、彼女をいかせるには、何かが決定的に足りない――。

 表で誰かの犬が鳴いた。こほん、と彼が控えめな咳をする。
「悪いけど、もう行かなきゃ」
 男の存在を忘れていたわたしは、ああ、うん、ふん、と曖昧にうなずきながら、突然、気づいた。
 あれ? じゃあ、男が男を言葉でいかせる時はどうするの?
 わたしは大声で男を問いただす。いつのまにかズボンをはき終えていた彼は、わたしの質問に答えないまま、笑いながら部屋を出ていく。
 ねえ、ちょっと。
 (扉の閉まる音、に続く沈黙。)
 やっぱり、犬?

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Entry9

薬剤師エリカの独り言(不幸な女)

旅幸まりあ
文字数998


私はエリカ26歳。薬剤師。
今日は、薬局に不幸な女性がやってきた。

「いらっしゃいませ。」

私のスーパースマイルにも、びくともしない。
「私、毎日ものすごく不幸なの。幸せになれる薬をちょうだい。」
「それじゃ、この幸せな気分を味わえる薬を、試してみますか?」
飲むと、脳内モルヒネと言われているエンドルフィンが出て、多幸感を味わえるというお薬だ。
1錠飲ませてあげると彼女は、うっとりとした表情になった。
「ああ、なんだか幸せだわ。これを試してみる。」

すぐに、彼女がやってきた。
「あれじゃダメよ。飲んだ時はたしかにすっごく幸せだけど、薬が切れた時のあの感じ。前よりひどく不幸な感じがしたわ。」
「そうですか。じゃ、逆に不幸を味わうお薬を飲んでみたらいかがでしょう。現実が幸せに感じられるでしょう?」
「試してみるわ。」

また、彼女がやってきた。
「あれもダメ。なんだか不幸のどん底で、死にたくなっちゃったわ。たしかに今の方がましだと思えるけど。」
「うーん、じゃ、これはどうです?なんでも楽しくおかしくなって大笑いできるお薬です。」
もちろん成分は笑いキノコ。1錠飲むと、すぐに彼女は笑いだした。
「あっはっはっは!あなたって本当におもしろい人ねぇ。」
なにがおもしろいのかわからないが、今度はうまく行きそうだ。

しかしまた、彼女がやってきた。
「1日中笑っていたら、疲れてしょうがないわ。それにみんな私を頭がおかしいと言うのよ。」
もう、出すお薬も思い付かない。

「困りましたねぇ。あなたはどういうのが幸せだと思うんですか?」
「そうねぇ。結婚かしら。結婚したらきっと幸せだわ。」
「なるほど。それじゃこれをどうぞ。結婚できるお薬です。」
「あら。甘くておいしい。試してみるわ。」

3ヶ月後、彼女が嬉しそうにやってきた。

「本当に結婚できたわ!あの薬、本当によく効くわね!!」
良かった。
あれはただの飴玉なのだ。
飲むだけで結婚できるようなおいしい薬があるなら、とっくに私が試してるわよ。
でも、信じると言う事は、何より大切なことなのだ。

しかし、思いもよらず、また彼女がやってきた。

「彼が浮気したから離婚しちゃったわ。またあの薬ちょうだい。」
「え?えーっと、ちょっとお待ち下さい。はい、これ。」

手近にあった飴玉を、薬の袋に入れて、もっともらしく差し出した所、彼女は怪訝な顔をした。
「こないだのと、色が違うわね?」
「あ、こんどは、再婚できるお薬ですから。」

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Entry10

バロン・デセーの解放

立田 未
文字数1000


 美しい秋の午後に鬱々とした気分で家を出た。別れる、別れない、と足を交互に出して、点滅する信号が足止めをするまで、ひたすら歩いた。

 向かい側の歩道には二人の子供が立っていた。顔が似ているので多分兄妹だろう。兄の傍らにデパートの名入りの黄色い風船が浮かんでいる。
 信号が変わった瞬間、妹が兄の手を振り払ったのが見えた。
 何を言っているのかは騒音に紛れて聞こえないのだが、彼女が風船を指差して地団駄を踏んでいる様子から、事態は明白だった。
 不況か何だか知らないが両方に風船を渡すべきだ、とデパートを心の中で断罪しつつ、その諍いから目が離せなかった。
 道路を挟んでいても、兄が困惑したように眉をしかめたのが分かる。彼にとっても風船が大事な物だということは、思わず右手に力が入ったことからも窺えた。妹は首まで赤くして泣き叫んでいる。
 親がいれば、宥めるなり怒るなりするのだろうが、彼等のまわりには誰もいない。ただ風船が呑気に揺れているのみだ。

 その時、目の前をトラックが通り過ぎた。後に残ったのは兄妹二人、風船の姿は陰も形も無い。
 女の子が上を見上げて、ぽかんと口を開けた。視線の先、電信柱の先を掠めるようにして風船が昇ってゆく。
 信号はもう青に変わっている。男の子は、妹を向かい側に残したまま、唇を引き結んでこちらに歩いてきた。
 その顔を見た時、何て潔い態度だろう、と感心した。
 彼は、宝物を差し出すのも、妹を泣かせたまま良心の呵責に咎められるのも嫌だったのだろう。だから手を放した。

 私も手を放してしまおう。

 どこかに飛んでいってしまいそうな男を、結婚という糸で繋ぎとめていた。
 それを欲しがる女がいるらしい。
 捕らえられるなら、捕まえてみればいい。
 何度も追いかけて、結局は手に入らないということを思い知れば良い。
 ・・・・・・もう私の手は疲れて力が入らない。

 兄の後を追って、女の子が走って来た。驚いた拍子にか涙はもう止まっている。
 偶然トラックの風が風船を奪ってしまったということも有り得るのは知っている。
 けれども、その時に、その子の手から、その風船が飛んで行ったということが、私にとって重要なのだった。
 そのまま横断歩道を渡り、離婚届を取りに市役所に向かう。最後にもう一度空を仰げば、痛いほどの青が飛び込んでくる。目を瞑りそうになるのを堪えて、逆に睨み返した。風船は勿論もう見えなかった。

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Entry11

とまどい

やす泰
文字数1000


 ニューキャッスルに行くことになった。
 発車五分前に私は一等のコンパートメントのドアを開けた。中には六席のゆったりとした座席があって、擦れた緑のビロードで被われていた。羽目板は木でなかなか豪華な雰囲気がする。私は頭を低くして入り口をくぐった。
 窓側の席に先客がいた。私を認めると何か驚いた様子だったが、すぐにまた読んでいた新聞に目を落とした。東洋人と一緒になることを予想していなかったのだろう。
 見れば典型的なシティーの人間だった。黒い背広に細身のボータイ。赤みがかった茶色の口髭をたくわえ、黒の山高帽がハンガーに掛かっている。読んでいるのはもちろんファィナンシャルタイムズである。
 列車は何の合図も無く走り出していた。問題はこのコンパートメントという環境である。慣れないと他人といることが気詰まりに感じられる。私はカバンから本を取り出して、そちらに集中しようとしていた。マナーとして話しかけてはいけない事になっている。もちろん相手に好奇心を示すのもご法度だ。その点、長年の伝統でイギリス人は見事に他人を無視することができる。
 ところが、この日は例外だった。私の方が相手の紳士から時々視線を感じたのである。顔を上げるとさりげなく新聞が遮るが、明らかに紳士は私の事を見ていた様子であった。一度など、あろうことか、紳士は何か話しかけたい様子で口を開きかけたが、思い留まったらしく、咳払いを一つしてまたもとの新聞に戻っていった。
 ピーターボロを過ぎた辺りで、私は奇妙な事を発見した。紳士の右の目が異様に赤いのである。本の陰からさらに観察すると、それは充血どころではなかった。まるでトマトのよう。そう思った私は愕然とした。実際にそれはトマトだったのである。やや大きめのミニトマトが紳士の右目に嵌っている。その証拠に瞳と思っていたのは、トマトの緑色のへたであった。左目につられてトマトのへたが新聞の活字を追っている。
 私は懸命にトマトのことを忘れようと努めた。だが、どうしても私の視線は紳士の右の目に向いてしまう。その度にトマトのへたが私を見返し、私は気まずく顔を伏せた。私はこの思いと二時間格闘した。ヨークで紳士が降りる素振りを見せた時、私はほっとした。
 ところが、話しかけてきたのは紳士の方だった。
「まことに不躾ながら一つ質問をお許し願いたい」
「イエス」
「あなたはどうして頭に竹を生やしているのでしょうか」

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Entry12

現(うつつ)

道人
文字数920


少年は夢を見た。
真冬の夜道、大気は張りつめ足元の雪はさくさくと折れた。
母親に手を引かれ見知らぬ土地へ行く途中、仰ぎ見たオリオンの輝きと腰の下にある赤い雲に少年は意識を奪われた。
母親は息子の意識の向かう先の事など気づかずただ足早に駅へと急いだ。
駅のホームは丸く積った雪と色褪せたオレンジの光が刺激的な音を遮断していた。
少年はじっと空を見上げ本当の無の空間の中で意識を泳がせていた。

地球上の時間の概念など通用しない場所。
根本的な力。
クォークの悪戯。
振動するひも。
真空の相転移。
ヒッグス粒子の海…。

これから訪れる困難は少年にとってはほんの些細な事であった。
母親は少年の瞳の中に広がる宇宙など知る由も無く駅長の鳴らす笛に身を切られる思いがし、足元の雪をただ恨めしく思った。

いつかは総ての物質は消滅する。そして真の暗黒が訪れる。
少年の意識は肉体を持たない生命体として暗黒の宇宙を漂い続けた。

そして、少年は現実に痛みを感じる事無く、意識の中の宇宙に身を委ねた。

(母さん…)

母親の実家で少年は夢を見続けていた。
若くして母親は亡くなり、愛をそそいだ祖母の気持ちなど理解出来ぬまま少年は成長し、孤独に耐える術を覚えた。

それは、「物理」であった。

机上の宇宙で、彼は神を創造した。
それは理論、或いは公式という神であった。
素粒子の世界も惑星や銀河の動きもそして、宇宙の成り立ちも総てその公式によって支配されている。
その公式によって真空に特異点は現れ宇宙は生まれた。
その公式によって生命は生まれ悲しみが育った。
その公式によって父と母は出会い彼は生まれた。
その公式によって両親は別れ、彼はオリオン大星雲の赤に意識を注いだ。
その公式によって母は死に、彼は虚数の時間を体感した。

エントロピーは減り続け、宇宙は熱的死を迎え共有する意識だけが生きつづける。

「母さん…」

彼はいま完成した絶対的に美しい理論を目の前にし、肉体を持たずに生き続ける母に語りかける。
真空のインフレーションから無数に生まれる宇宙を彼は机の上に見ていた。
彼は今、闇のなかの悦に酔いしれ、光を拒絶した。
彼の理論を理解できるのも、彼の理論を証明できるのも彼しかいない。
それに気づいたとき彼の本当の生が始まる…。

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Entry13

手指

林徳鎬
文字数1000


熱いシャワーで流して、石鹸のぬめりが残った手のひらをこする。
手のひらが少し痒いような気がする。
洗い流した手のひらを見ると、しもやけのように、うっすら赤かった。
全体が均等に赤いんじゃなく、いくつかの点から赤が滲んできてる。
蚊に刺された跡みたいに薄く膨らんでいて、それはどうやら手のひらの皮の中から、皮を押し上げるように存在している。
痒い。今度ははっきりと痒い。
がりがり掻いた。
掻いたところがうっすら白くなり、熱をもつ。
少しすると、またあの痒さが戻ってきた。さっきより痒い。
痒いなー、と口に出して言ってみてから、赤い中心点のひとつを集中的に掻いた。
やめるとすぐに痒さが戻ってくる。
一点を掻いて掻いて掻きまくった。
覚悟を決めて、手のひらの上から粒を潰すつもりで深くほじくってみた。
感覚がなくなるんじゃないかと期待して徹底的にいじめぬいた。
それから手を休める。
痒いところを掻いた後の特有の気持ちよさが感じられ、それはもう少し続きそうだったが、構わず石鹸を塗りつけ、畳み掛けるように手のひらを掻いた。
背中が寒くなってきたので湯船に入り、手のひらを顔の前に掲げて、浅く、軽いペースで掻いた。そのペースでもう10分くらいは掻き続け、右手が疲れるとあごの先っぽを使った。痒さを感じるひまを与えない。
そろそろいいかな?
掻くのをやめた。色が戻ってくる。
手のひらの外側から、すうっと赤みが戻ってくる。
同時に痒さも戻ってきた。
さっきよりもずっと痒い。
異常な痒さだった。
どんどん痒くなるようだった。
このまま放っておけば致命的な痒さになりかねないので急いで掻いた。
遅れを取り戻すつもりでスパートをかける。
中指がとれた。痒い手の指だ。
構わず掻き続けながら、指が取れて血が出てるのはこの痒さと関係があるか考えてみる。
掻いてる間はまったく痒くないので、冷静な思考が可能だ。
それではっきりと確信するのだが、絶対に関係ある。
異常に痒いし、指がぽろりと落ちるのも異常だ。
普通じゃない。血が出てる。湯船に左手をもぐらして血を洗う。
それから指の消えた中指の根元、穴ぼこが空いているところを見る。
何かの先端が顔を出している。掻き続ける。
掻き続けながら考える。これは指の先っぽだ。指が生えてきている。
なおも掻き続ける。指が生えてきたのは掻き続けることと関係があると確信する。
なおも掻き続ける。掻き続けなければいけない、と確信する。
確信して掻き続ける。

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Entry14

モンスーンが来る前に

川辻晶美
文字数1000


「あと一週間ってとこだね」
 空を覆う厚い雲を眺めていた私の前に、ダイキリが差し出された。
「モンスーンが来れば、船も出せなくなる」
 まだ少年のようなバーテンダー、レイは心配そうに私の表情を伺う。引き締まった唇から続く言葉は容易に想像できる。
 そうなったら貴女もここから出られない。

 もうじきこの島近海は雨期に入る。数ヶ月間、連日激しい雨が降り続き、その間はリゾートもクローズする。
「雨期の間は、皆どうしているの?」
「ホテルのメンテナンスをしたり、他の島へ働きに出たりします」
 ここ数日、ホテルのスタッフの姿が減っているように感じたのは、錯覚ではなかったらしい。昨日まであんなに美しく輝いていた海には、所々小さな白い波が立ち、今にも津波となって襲いかかってきそうな気配さえした。けれど湿気を含んだ潮風に晒された木々の葉の色は妙に艶かしく見える。

 もう帰らない、と一言だけ書き残してきた。彼も少しは驚いただろうか。
 想像して私は溜息をつく。せいぜい貯金通帳がなくなっていることに気づいて、慌てた程度だろう。私の言葉なんて、風の音くらいにしか思っていないのだ、あの人は。

「貴方も他の島へ行くの?」
 レイはそっと首を振る。
「ここに残りますよ。島の人たちが飲みに来ますから」
 居心地の良いビーチ・バー。少なくともここに来れば、誰かが確実に側にいる。
「それに雨期は嫌いじゃないんです。なんかね、わくわくするんです。何処にも行けない、幽閉されたような状況が」
 子供の頃、台風が来る前に食料を買い込み、家中の雨戸を閉めてまわった時の、あのぞくぞくとした不思議な感覚が蘇る。
 レイが再び氷を砕き始める。既に見慣れた手の動き。今、氷に触れるあの指先は、陽が落ちた後はどんな熱を帯びるのだろう。彼の手の中で溶け出した水は、リキュールより甘いのに違いない。
「どうしました?」
 我に返ると、驚くほどすぐ近くにレイの顔があった。唐突に、その眼の中に閉じ込められてみたい、と思った。そして、それは一瞬にして押し止めようのない衝動へと変わっていった。
「モンスーンの間もずっと、私にカクテルを作ってくれる?」
 躊躇う間もなく、言葉になった。氷のような現実よりも、苦しいほど熱い幻の方が、いいに決まっている。
 レイは新しいダイキリを差し出しながら、目配せをした。その瞳の奥に、微かな欲情の炎が揺らめいているのを、見逃すことはできなかった。

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Entry15

『クリスマスの贈り物』

橘内 潤
文字数997


 僕のパパは乱暴者でした。
 昼間も家にいるようになってから、僕やママをぶつようになりました。

「やめて、あなた。この子が怯えてるわ」
「うるさい、俺に口答えする気か!」
「きゃ!」
「やめろ、ママを苛めるな!」
「うるさい!」

 クリスマスイブの夜、パパは僕をぶちました。
 ずっと前から、クリスマスにはサッカーボールをプレゼントしてくれるようサンタさんに頼んでくれるって約束してたのに、「サンタなんかいるわけないだろ」って僕をぶちました。
 だから僕は「こんなパパなんていらない。サッカーボールはいりませんから、優しいパパにしてください」ってサンタさんにお願いしたんです。

 その夜、僕はがさごそという物音に目をさましました。
(なんの音……あっ、サンタさん――!)
 僕はもう少しで大声をあげるところでした。
 大きな袋をかついだサンタさんが、僕の部屋の窓から外に出ようとしていたんです。きっと僕の家には煙突がないからです。
 僕は夜更かしをする悪い子だと思われたくなかったので、目を閉じてじっとしていました。そうしたら、そのうち本当に眠ってしまいました。

 朝起きると、パパは優しくてかっこいいパパにかわっていました。僕もママも大喜びでした。
 でも、一つだけ不思議なことがあります。
 あのとき、サンタさんの袋の中から「助けて」って声が聞こえてたんです。

「……ねえ、そんなくだらない話がなんだっていうの? わたしはお義母さまを迎える仕度で忙しいのよ」
 だいたい、お義母さまはわたしの失敗を探すのが生き甲斐みたいな人なんだから。まったく、クリスマスぐらい夫婦水入らずにさせてほしいわ――。
 愚痴りだしたわたしを、
「じゃあ、用件だけいうよ」
 と夫はあきれ顔でさえぎる。
「母さんがサンタさんにお願いして、君よりももっといい女性を見つけもらったんだって」
「……は?」
 脈絡のない言葉に、わたしは間抜けな声をあげてしまう。この人はなにをいっているのだ?
 夫はまるで、物分りの悪い子供に教え聞かせるようにつづける。
「だからね、君はもういらないんだ」
「な、なんですって!」
 考える間もなく、わたしは夫に掴みかかっていた。
 だが夫は激昂するわたしを意に介した風もなく窓のほうを見て、
「ああ、待ってたよ」
 はっと振り返ったわたしが見たのは大きな袋と振り下ろされる包丁そして――

 そして、わたしの返り血で服を真赤に染めたお義母さまだった。

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Entry16

さんたはいるか

太郎丸
文字数1000


【さんたはいるか】
 子供が広げていたノートを覗くと、そんな文字が見えた。
 もちろん、サンタという名前のイルカの事では無いし、サンタが何処かに入る事が出来るかなどという事では無い。右から読んで、軽いはタンサ、いや失礼、これは意味をなさないようだ。
 これはもちろん、サンタが存在するかという事だろう。
 この子も来年には小学生だが、去年まではサンタクロースを信じているようだったし、確か3歳のイブの夜は、寝る前にプレゼントを見つけてしまい、サンタさんがいつ来たのか判らないうちにプレゼントを置いていったと喜んでいたものだ。

「ママ? サンタさんって本当にいるよね?」
 ほら来た。
「いるでしょ。だって毎年プレゼント貰ってるでしょ」
「そうだよね。それにボク去年見たもん」
 ママはオーブンから出して冷ましておいたケーキの台を、新聞紙の上に裏返しに載せ、回りの金具を外したところだった。
 そういえば、去年私は子供に姿を見られてしまっていた。
 ママは、スポンジケーキを横にスライスすると、形のよくない山になっている処に下地としてジャムを付け、あまり甘くない生クリームを厚手に塗り始めた。
 子供は生クリームに指を伸ばして、ママに叱られている。
「ほら、味見はいいから、バナナ取ってちょうだい」
 切ったバナナといちごを生クリームに埋め込むと、残った台をその上に載せ、今度は生クリームを上だけでなく、周りにも手際よく塗り出した。
「さあ、飾りつけやってもいいよ」
 待ち構えていた子供は、いちごをケーキに並べ始めた。おっ、結構巧くなったなぁ。私は感心した。
 周りのクリームには子供の指の跡が残ったりしたが、食べてしまえば同じ事だ。逆に手作りの感じが出ていて好感さえ持てる。

 玄関のチャイムが鳴ると、子供は駆け出した。
「パパ。お帰り」
「ただいまぁ」
「ボク、ケーキ作ったんだよ」
「おおっ、そりゃ凄いな。どれどれ」

 今年はパパの会社が潰れるんじゃないかと、彼らは心配していた。塾や習い事が当たり前という時代では、子供にも金がかかる。なんとか会社は持ちなおし、少し減ったがボーナスも出た。彼らも一安心というところだろう。

 サンタはいるかって? 私に聞くのかい?
 私は夢は信じても、宗教は信じないよ。
 だけどこの世には、私のように人を見守っている者が沢山いるのは事実だ。そして中にはサンタと呼ばれる者も、サタンと呼ばれたりする者もいるがね。

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Entry17

ミスティ・ブルー

有馬次郎
文字数1000


 ほんとうにあいつの声が聞えてきそうだ。こんな夜は。

「今夜の深夜には、雪になるかもね」
「浮気ばかりしてると雪女になって、その部屋へ忍び込んでやる(笑)」
「最近、お仕事どうですか?」
「私は、進んでいないなぁ。写真と作品」
 
 そんなに言うなら、細雪を眺めようと曇ったガラスに手のひらで、さっと線をひいてみた。
 僕の目が僕をじっと見ている。寂しげで一瞬、目をそらしたくなった。

 数年前のナショジオ12月号のページをめくると、ため息がもれそうな写真が飛び込んできた。
 リレハンメルの町に降り注ぐオーロラの下では、ダイヤモンドダストが煌びやかに揺れて流れるように、ログハウスやペンションの光を映し出している。

「こんちわ。今度の写真展のアイデアに使えそうな写真がある」
「この写真を、隣で君も見てくれたら、とっても気に入ると思うんだ」
「こんな夜景は、見たことないよ」

 静かな夜に独り言のメールが、キーをたたく音にかき消されて行く。

「君の言うとおり雪は見たよ」
「雪女は、暫く必要はないんじゃないか」
「ただ、眠れなくなったのを君に言いたかった。オーロラだよ」
「想像してごらんよ。この世に生まれて、いろんな人に出会う。沢山の人だよ。その中でいつしかメールが始まって、いつの日かメールしなくなるかもしれない。心も離れてしまうかもしれない。でもね、またメールし始める予感がするんだ。心が離れて、またくっつくような気がするんだ。永遠にとか半永久にとか、そんな問題じゃない。このオーロラを見てたら、そんな事どうでもよくなったんだ。いつか君も僕もこの世にいなくなる。今夜はそんなことを想っている。また、メールが始まるんだ。いつの間にか自然にね」
 
 これ以上、コメントも見当たらないので、送受信を再クリックした。
 ボンダイブルーのゲージが瞬時で一杯になったのと同時に、一際明るいベル音が響いた。
 見慣れた、ネームアドレス。
「オッ、まじかよ!」思わず叫んでいた。
「雪を見てたら、眠れなくなったの。もう寝ます。おやすみ・・・」

 メールは終わって、また、始まる。

 遠いノルウェイのリレハンメルの夜空からは、同じようにオーロラが降っていて、それが夢の中であいつにも降ればいいのにと真剣に思った。
 
 同じ夢を見たかった。パソコンはいつの間にかスリープしていて、僕も眠りに攫われて行く。

 雪女になって、今夜は僕に忍び込んで欲しかった。

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Entry18

立てば歩めの親心

羽那沖権八
文字数1000


「あっ、あなた、見て! 秀夫が!」
 母親の慶子が大声で叫ぶ。
「うわっ、や、やった、立ってる! カメラカメラ!」
「持ってるわよ、あなた、自分で!」
 辺りを見回している父親の平助の手には、しっかりビデオカメラが握られていた。
「あー、いかん!」
 平助は慌てながら、掴まり立ちをする秀夫にカメラを向ける。
「わー、凄いわね、本当に立てるのね……」
 両親の驚きにも気付かない風に、秀夫は辺りを見回している。
「ああ。成長してるんだな」
 平助の声は、涙混じりですらあった。
「次は、歩くのかしらね?」
 慶子はそっと平助に寄り添う。
「ああ。きっと走り出すのだって、もうすぐだよ」

 寝室を、電気スタンドの明かりだけが照らす。
「うふふ」
 慶子は、秀夫の卒園証書を広げ、一文字づつ確かめる様に目を通す。
「おいおい、何度目だよ?」
 秀夫一つ隔てた布団に寝転がったまま、呆れ半分で平助は笑う。
「何度見たって飽きないわ。秀夫が、卒園したのよ? この、秀夫が」
 秀夫は静かに寝息を立てている。
「あんなに小さかった秀夫が、もうこんなに大きくなって。生まれ落ちた瞬間は、世界で一番若かったのに。そんな秀夫よりも小さい子が、今はいっぱい、いっぱい、いっぱい、いるのよ?」
「大袈裟だな」
 そう言いながらも、平助は満面の笑みを浮かべていた
「もう、小学校に行くんだな。秀夫」
 棚に置かれたランドセルは、ピカピカ光っていた。
「ええ。中学に上がるのもすぐよね」
「うん。高校だって、すぐさ」

 家の中で、慶子はせわしなく歩き回る。
「おい、もう少し落ち着けよ」
 ソファーに座る平助の頭には、白いものが混じっていた。
「だって、秀夫が入社式なのよ? あー、こんな事なら、見に行かせて貰えば良かったわ!」
「そんな事したら、秀夫の評価が下がるよ」
 平助は笑おうとしたが、やはり気持ちは同じらしく、心配そうな表情は隠しきれなかった。
「分かってるわよ。分かってるから、ここにいるんじゃない。ああ秀夫、会社で上手くやれるかしら? 苛められないかしら? 身体壊さないかしら? 上司を殴らないかしら? 取引先の人に嫌われないかしら?」
 慶子の歩き回るスピードは、どんどん早くなる。
「おいおい」
 溜息とも深呼吸とも取れる大きな呼吸をして、平助は立ち上がった。
「大丈夫、心配ないよ、慶子。秀夫は僕らの子供じゃないか」
 平助は、慶子の肩を両手でそっと抱いた。
「きっと退職もすぐさ」

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Entry19

太陽とその影の下で

夢追い人
文字数1000


 今日も花に水をやる。花を育てることが趣味だという男の人がいて、半年前、その人に名前も知らない花の苗をもらった。彼の言うことには、大事に育ててあげれば綺麗な花を咲かすとのことだった。当然といえば当然のことである。僕はそれから今日まで、その人に言われた通りに毎日苗に水をやり、大事に育てた。そして今日、大きなつぼみをつけた。ピンク色の、若さに満ちたつぼみである。
 花を育てていることはまだ誰にも言っていない。恥ずかしいとか、そういうことではなく、一種の独占欲からである。小さな苗が僕の部屋で僕以外の誰にも知られずに成長し、僕だけに綺麗な花を咲かせてくれる。僕はそれを一人で堪能する暴君となり、花は従順な奴隷となるのである。
 苗をくれた男の人は隣の部屋に住んでいる。四十歳くらいの、暗い、でもやさしい男の人である。苗をくれた日以来、会っても、苗はどうなったかと現状を聞かれなかったから、もう僕に苗をあげたことなど忘れてしまっているのだろう。今日階段ですれ違ったが、僕はもらった苗がつぼみをつけたことは言わなかった。その日、結局、つぼみは開かなかった。
 あくる日の朝、警察のサイレンで目が覚めた。このアパートで何かが起きたらしく、部屋の外からいくつもの声が、緩やかな空気の漂うこの部屋に響いてきた。ドアを開けてみると、外には警察官が大勢いた。数台のパトカーに混じって救急車もあった。救急車はすでに人を乗せ終わった後のようで、足早に去って行った。
「この部屋の人ですか。後程、聞きたいことがありますのでご協力お願いします」
近くにいた警察官が丁寧な口調で僕に言った。どうかしたのかと、警察官に尋ねてみた。
「あなたの隣の部屋に住んでいる男が七年もの間女性を監禁していたんですよ。誘拐した当時、女性はまだ中学生だったそうです」
 唖然とした。と同時に、現実を疑った。そして、ゆっくりと僕の中の大きな壁が音を立てて崩れていくのを感じた。一台のパトカーがアパートから去るのを、僕は灰色の視界から眺めていた。
時間の止まった部屋へ戻ると、窓際で男にもらった苗が、昨日まではつぼみだったのに、花を咲かせていた。綺麗なピンク色をしたその顔を向けているこちらに向けている。なぜだかその笑顔が悲しく見えた。
 その日の午後、日当たりのよい川原に、その花を植えた。初めての外界の光を浴びた花は今、一人の美しい女性となって風に揺れていた。

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Entry20

体型補正

日向さち
文字数1000


 すくすくと育った私の体を、男は、堅い針金で巻いた。素直に成長していた私の体が、面白くないというのだ。私の体は乱暴に捻られて、何だかおかしな格好で拘束された。そして私は、庭へ出された。
 初めのうちは、ちょっとでも体を揺らしたりすると、肌に針金が食い込んだ。しかし、それでも数日経つと、心なしか肌が硬く引き締まり、姿勢を保つのにも慣れることができた。
 男は、しばらく来なかった。眼前の建物の中にいる気配はあったが、こちらへは顔も出そうとしない。代わりに毎朝、女がやって来ては私の面倒をみた。男の妻なのかもしれないが、それにしては若いような気もした。
 女は、栄養が足りているか、病気になっていないか、という細かいことまで常に私をチェックした。どうやら私が大事な存在であるようだということだけ、なんとなく分かった。

 成長期だったため、しばらくすると針金がきつくなってきた。
 多分、女に聞いたのだろう。男は久しぶりに姿を見せ、針金を切って私を素っ裸にした。そして、外から見える部分は余すところなく、といった具合に、タオルで丁寧に拭かれた。もちろん、針金で傷になった部分も、柔らかい部分も、だ。
 私の体は、元の姿勢に戻ることができなくなっていた。曲げられているうちに、いつの間にか順応してしまったのだ。
「少し傷が付いちまったけど、こりゃ、サツキはいい格好になったな」
 男は、私にそう話した。これからずっとこの姿勢でいなくてはならないのだろうか。何のためにこんなことをしたのか、ちっとも見当がつかない。
 針金が無くなったというだけのことで、私の生活自体は何にも変わらないまま、季節は流れていった。やがて針金の傷は消え、冬が近付き、私はガラス張りの暖かい部屋に入れられた。たまに、男は私を眺めに部屋の外へ来ることもあった。
 そして春が来ると、また元の所へ放り出された。

 だいぶ暖かくなってくると、私は植え替えをされ、蕾をつけることとなった。
「このサツキ、もうすぐ花が開くね、父さん」
「そうだな。あともう少しだ」
「ねぇ、他の盆栽みたいに展示会出したら?」
「いや、こいつは駄目だろう。来年は出せるかもしれんが」
 ある日、男と女が一緒にやって来て、そんな話をしていた。

 花が開くと、2人とも喜んでいた。特に男は、きれいだと言って、私の花びらをちぎって口に含み、これ以上ないというような、うっとりとした表情を浮かべていた。

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Entry21

Everything in its right place

石橋賢一
文字数1000


 カップに六分目まで注がれた紅茶に、そっと砂糖を落とす。その水面にはいくつもの小さな波紋と、蛍光灯の光が静かに映っている。光は、濁った水面に反射して、きらきらと、水の揺らぎに合わせて、ゆらゆらと優しく踊っている。水上には、湯気が立ち上っては、乾いた冬の空気に混じって、穏やかに消えていった。

 熱い紅茶の中、砂糖が形を失いながら、静かに溶けている。徐々に、水中にその姿を同化させていく。目を凝らすと、水中に透明な歪みが見える。まるでオーロラの放つ幻想的な光のような、優しいけむりのような。静かに立ち上るそれは、空に消える湯気のように、水中に同化して、やがて見えなくなってしまった。紅茶の中には甘さだけが残った。

 カップを手に取り、ゆっくりと胃に流し込む。紅茶の熱と砂糖の甘さが、身体の中に、ゆるやかに伝わって、流転して行くのが感じられた。全て。

 全ては揺らぎ、流転する。嬉しいこと、怒ること、悲しいこと、楽しいこと。愛情も憎しみも、美しさも醜さも、全て。全てはあるべきところにある。僕らは川を流れる、あまりにも小さな流木。無力な僕らは流れに逆らうことは出来ないし、川には石が多くて、流れに乗ることも困難だ。粉々に打ち砕かれることだってある。溶けて崩れてしまうこともある。

 そんな脆弱な僕らの手に残されるのは、記憶、記録だけ。愛憎、喜怒哀楽。事実、真実、嘘、幻想。その残り香、残骸。そんな不調和で小さな世界だけ。それでも、流木であること、流転すること、それが救いになる。流れることをやめた流木は、やがて腐水に浸りきって、朽ちるだろう。全てはあるべきところに。

 身を被う暖かな皮膚と、冷たく流れる空気との境界線を感じながら、体にかかる重力に任せるように、静かに目を閉じる。暗闇の中、かすかな光が見えた。それは網膜が記憶した、光の残り香。瞼の裏に、やさしく漂っている。きらきらと光の踊る水面から飛び立つ湯気のように、世界に溶けゆく砂糖のように、僕らは、暗い何処かへ流れ出していく。今日も。

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Entry22

麦藁帽。膝を抱えて座っている。

アナトー・シキソ
文字数1000


梯子の上に来ても、まわりの様子に変わりはない。
相変わらずの鉄パイプのジャングルだ。
ただ、バス停はホントにあって、ベンチに一人いた。
麦藁帽。膝を抱えて座っている。
煙草の煙が山火事みたいにすごい。
「君、バスに乗るつもりなの?」
麦藁帽の男が、案外若い声で訊く。
「カネ、持ってないんですよ」
「カネなんかいらないよ」
麦藁帽の男は、そう言って、煙をゆっくり吐き出した。
「君、煙草は吸うかい?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ、吸いたまえ」
俺は、麦藁帽に並んでベンチに座る。
煙草を持っていないので、手を膝の上に置く。
「君、どうした?」
「煙草、切らしてて」
「敷島ならあるが?」
シキシマってのは、煙草の銘柄か?
そうらしい。
麦藁帽が袂から煙草を取り出し、差し出す。
言い忘れていたけど、麦藁帽は、くすんだ茶色の着物を着ている。
俺は、右手で失敬と挨拶して、一本抜き取る。
麦藁帽はマッチを取り出す。
マッチだ!
久しぶりに見たぜ、マッチ。
まあいいや。
親切な麦藁帽は煙草に火までつけてくれた。
二人揃って煙を吐き出し、ホッとなる。
「君、裸足なんだね」
「ええ、ま、色々ありまして」
麦藁帽は、ふーんと言って、また煙を吸い込む。
「実は僕もなんだ」
麦藁帽はそう言って、着物の裾から足を出して、指を動かす。
「君、実際、履き物がないというのは困るだろう?」
「まあ、そうですね」
「まず、裸足じゃレストランにも入れない」
「ああ、ね」
「君、ああいうところは、身なりにうるさいからね」
「最近はそうでもないでしょ?」
「いや。実際、君、僕なんか、この着物が駄目で追い返されたよ」
「着物、ダメなんですか?」
「駄目だったね」
そうか。
知らなかった。
いや。
モノによるんだろ?
「君、僕は、今、少し、不安なんだよ」
麦藁帽は勝手に喋る。
「もしかしたら、このバス停、バス、来ないんじゃないかってね」
俺は周りを見回した。
確かに。
この狭さじゃ、来たってせいぜい人力車だ。
「そうですね」
「だろう? 君もそう思うだろう?」
麦藁帽は、煙草を放り投げる。
「僕らはもしかしたら騙されてるんじゃないのか?」
誰に?
「標識だよ。このバス停の標識にまんまと騙されてるんだ」
俺は標識を振り返る。
「これは一つの研究だよ」
麦藁帽は、袂からまた煙草を取り出すと、じろじろと眺めてから口にくわえた。
火はつけない。
「君、つまりこういうことさ」
麦藁帽はそう言うと、火のついていない煙草を吸って、口から白い煙を出した。

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Entry23

リップクリーム

川島ケイ
文字数978


 唇痛いからあんましゃべりたくない、と私が言うと母はお茶を注ぎきるのを待ってから、棚の上の小物入れを開いてリップクリームを取り出し「ハイ」と私に差し出した。
「なに?」
「リップクリーム」
「うん」と気のない返事をしてから受け取った。「お母さんのでしょ?」
「いいから、使いなさい」
「え、やだよ、自分の……ないけど、買ってくるから」
 と言ってリップクリームをテーブルの上に置くと、母は腰に手を当てて私をじっと見下ろした。
「あんたさあ、もう二十…」
「はち」
「そんな年でなに中学生みたいなこと言ってんのよ」
 母は向かいの椅子に腰をおろして、湯呑みを手元に引き寄せた。湯気に手をかざして、その手を頬にあてた。
「私は四十になっても五十になってもお母さんのリップクリームは使いません」
「かーー、じゃあ六十になったら使うわけ」
「そのころお母さんが生きてればね」
「かーー」と大げさに目を丸くして、天井を見上げた。「ああお父さん、私たちの娘は、こんな風に育っちゃいましたよ」
 芝居気たっぷりにため息をつく。リップクリームを手にとって、自分の口に軽く塗り、開きっぱなしだった小物入れにしまった。
「あんた、怖いこと言うわねえ」
「八十まで生きれば十分でしょ」
「まあそりゃねえ、それまで元気でいられればねえ」
 感慨深げに首を振ってから、母は思い出したように、人差指を立てた。
「あ、ねえ、あんたの口紅貸してよ」
「は? なに言ってんの」
「口紅貸してって言ってんの」
「自分の使えばいいじゃない」
「放っといたらね、なんかヘンな臭いすんのよ」
 そういえばずっと、母が口紅をするのを見ていない気がする。そうだ、本当にずっと。
「そんな臭いなんて気にするんだ」
「そりゃあんた唇臭かったら嫌でしょう。すぐ鼻じゃない」
 私が笑うと、母は満足げに目を細めた。私はカバンの中から口紅を取り出した。まだ買ったばかりで、四回しか使っていない。テーブルに置くと、母はびっくりしたように口紅と私を見比べた。
「いやに素直じゃない」
「いいよ、それあげるから」
「使ったら返すわよ」
「いらない」
「返すわよ」
「いらないってば」
 母の目を見つめると、ようやく観念したようだった。
「じゃあありがたくいただきましょう」
 と言う母の声がどことなく弾んでいるように聞こえて、それで私はなんだか申し訳ないような気持ちになって、天井を見上げた。

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Entry24

亀の時代

伊勢 湊
文字数1000


「旨いね、大将。すごくこってりしてるのに、やめられない味だ」
「有り難うございます」
 お客さんが列を作って僕のラーメンを待ってくれる。口々に旨いと言ってくれる。でも僕は本当はたいしたことないんだ。賞讃の声を聞く度に思い出す。全てを与えてくれた師匠のことを。

「悪くはない香だ。が、これじゃあ客は入らんだろうな」
 あの日、客が誰もいない店で声がした。
「なんだと!」
 しかし振り返ったそこに人の姿はなかった。かわりに一匹のカメが首を伸ばしてこっちを見ていた。
「食欲をそそりはしない、ということだ」
 カメは静かに言った。
 その頃の僕は自分に驕っていた。最高の素材、最高に洗練された味、客が来ないのは客が味が分らないからだと思っていた。それと同時に不安もあった。いつまで経っても客は自分の味を分かってはくれない。そんなときの言葉だったから僕は師匠の申し出を受け入れたのかもしれない。
「オレがお前の才能を引き出してやろう」
 カメが僕を見上げてそう言った。それが僕たちの出会いだった。

「違う、こんなんじゃねえ!」
 味見を繰り返しながら師匠が叫ぶ。
「でもこれ以上背油を入れたらアクが…」
「構わねえ。いいか?いままでのお前の味は悪いところが見当たらないだけの退屈な味だ。誰が退屈に金を払うってんだ!」
 師匠は何度も味見をし助言を与えてくれた。醤油が足りない、隠し味のバナナをもう少し入れろ、豚肉は天井から吊るして何度も素手で殴ったものを使え。店を閉めたまま一週間修行は続いた。師匠の言葉を納得できないこともあった。しかし、とうとう出来上がったラーメンを食べて僕は驚愕した。自分の手で作られたことが信じられなかった。
「師匠…これ…」
「ああ、旨い。お前が作ったんだ」
 それは油でギトギトしていたし、チャーシューはあまりに大きく食べにくくさえあった。でも、美味しかった。ケチを付けようと思えばいくらでもあら探しのできる一杯のどんぶり。なのに、食べ終わってまた食べたいと思わせる魅力のある味だった。

「おまえ、オレが亀だからカメ吉って名前だと思ってんだろ?違うんだぜ。これはよく噛んでモノを味わい幸せになれって意味でオヤジが付けてくれたんだ」
 師匠がラーメン以外の自分のことを語った言葉はそれだけだった。ラーメンが出来た翌日、師匠は忽然といなくなった。そして僕は不思議な師匠のことを思いながら今日も厨房で幸せの素を作り続けるのだ。

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Entry25

レッドリバーバレー

るるるぶ☆どっぐちゃん
文字数1000


 確かにこの河の色は血の赤に似ている。
 写真を持った左手にふと視線を落とした時、久美子はそう思った。手首に走る一筋の赤い傷。確かにそれと、この河の色は似ていた。

 願いが叶う赤い河。とある外国の河がこんな風に日本で話題になった。
 その話を聞いたとき、久美子は、行ってみようかな、と何となく思った。
(どうせもうお金の使い道なんて解らないし)
 有給はほぼ手つかずで残っていた。貯金も、もう貢ぐ相手がいないから溜まる一方だ。
 久美子は行く事に決めた。

 ボートはゆっくりと河を進んでいく。
 風が強かった。谷から吹き下ろす風がいつまでも止まない。手に持った写真がぱたぱたと鳴る。
 吹き飛ばして欲しいと思った。わざわざ東京から持ってきたのだから、吹き飛ばして欲しい。久美子は思った。
 不思議な、何で浮いていられるか解らないような形の船が観光客を載せてすれ違っていった。そうかと思えば近代的な形のモーターボートが、大きな音を立てながら久美子達の船を追い越していく。
 それは不思議な光景だった。血の色の河。その上には赤茶の土で出来た谷に囲まれた、おかしな形の青い空。
(確かにこの先には何か有りそうな気がする)
 久美子は船頭の歌うのんびりした節回しの歌を聴きながら、そう思った。
(願いが叶えば良いな)
 久美子は静かに目を閉じた。

 しかし船はそのまま何事も無く終点へ到着した。
 河はまるで夢から覚めてしまったかのように、濁った青緑に変わってしまっていた。
 船から下りると、観光客目当ての乞食達が我先に久美子へ、良い品だ、とガラクタを売りに殺到する。
 ぼんやりと立ちつくす久美子の手の中の写真は、飛ばされる事無く残されていた。
 久美子はそれを眺めた。まだ胸が痛んだ。

 願いは結局何も叶わなかった。

 しかし変わった事が一つだけ有る。
 久美子はこの光景を大変気に入り、その後この国へ移住してしまったのだ。
 周りには反対された。親には泣いて止められた。しかし久美子は決意を変えなかった。

 観光ブームも過ぎ去ってすっかり落ち着いたあの村に、今も久美子は暮らしている。最近ではあの船頭の息子と良い仲になっているらしい。
「幸せかい?」
 彼は久美子にこう聞いた。
 久美子は3秒程考え、結局、解らない、と答えた。
 だから久美子が幸せなのかは、誰も知らない。
 しかし久美子の左手首の傷跡は赤い砂に紛れ、もう見る事が出来無いのだけは確かだった。

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Entry26

ま る も ち

カピバラ
文字数1000


丸餅を送ったから、と、父からメールが来ている。

「今年は美和さんもいるし、去年の倍送ったぞ。
土曜朝に着指定してあるから、ちゃんと受け取るように」

この地方では手に入らない丸い餅を、
郷里の父は師走になると僕に送ってきてくれる。
毎年餅が届くと、もうそんな季節か。と思うけれど、
今年は何より、しまった。と思う。
妻の実家では、四角い切餅を食べるのだ。

ダイニングには、妻が用意してくれた夕食。
向かって左側に、汁が。右側に、飯が。置いてある。
普通は逆じゃないかとたしなめたら
これがウチの流儀だと逆に怒られたのは
結婚してすぐ。半年前のことだ。

僕が一人暮らしをしていた頃に使っていた食器が
いつのまにかなくなっていることに気付いたのは、
四ヶ月前。
二人でつかう食器をそろえたかったの。
でも食器棚はいっぱいでしょう。
だから、いらないのは処分したの。
そう妻は言った。

妻が買ってきたいびつな陶器の大鉢には、
今日はおでんが盛られている。
妻が好きな、ジャガイモ入りおでん。
僕は、おでんにジャガイモを入れるのは好きではない。
他の具を食べればいい、と妻は言うが、
煮くずれたイモのかけらは、汁の中にいきわたっている。

妻は、帰りの遅い僕を待って、一緒に夕食をとる。
先に食べていてくれと言っても、必ず待っている。
小さな食卓に向かい合って、夜の十一時半に二人で食べる夕食。

味噌汁に、ご飯に、ジャガイモ入りおでん。

ビールが欲しくて冷蔵庫に行きかけるが、
こんな遅くにお酒を飲むと体に悪い、
と言われて、やめる。

そっとため息をつく。
どうしたの? と妻が聞くので、
仕事でね、ちょっと。
なんてごまかす。

そうだ、明日の午前中に実家から荷物が届くから。
実家? あなたの?
うん。餅を送ったって、さっき親父からメールが来てた。
そう。
僕は明日は仕事だから、受け取っておいて。
わかったわ、朝は出かけないようにするわ。

次の日は、早めに仕事から帰った。
昨日の残りのおでんを食べながら、妻に荷物のことを聞いた。

十二時まで家にいたのに来なかったわよ。
午後は出かけたけど、不在通知も無かったし。

その次の日も、丸餅は届かなかった。
宅配業者に電話をしたら、お届け済みです、という答えが返ってきた。
妻は、他の家に届けちゃったんじゃないの? と言った。

丸餅は、もうそれきり届かなかった。

正月には、妻の郷里風の四角い餅の雑煮を食べた。

父には
「餅を、ありがとう」
とだけ書いて、メールで送った。

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Entry27

微・妙

さとう啓介
文字数1000


 ぐるぐると廻る白い水の流れに、虹色に泡立つ洗剤とお気に入りの赤い下着を放り込んだ。
 深夜の洗濯。
 お風呂上がりの濡れた髪をタオルで巻き、缶ビールを片手に小さく溜め息をついた。
(どうしてあの時……)
 洗濯機の音が静かに唸りを上げ、私の記憶に触れてくる。
「やめてよ、忘れたいんだから」
 ビールを一気に飲干すと、タオルを解いて洗濯機へ投げ入れた。疲れが全身を覆う。私は洗濯機の前にヘト々と座り込むと、微妙な振動が眠気を誘った。穏やかな流水の音が心地良い。

――「葵君、大事なお客様だから粗相の無いように……」
 銀縁眼鏡の部長が、微妙にずれた眼鏡を指で直しながら言った。私は前回の接待の時、酔った勢いでお客様の頭を殴った経緯があり、部長のB.Lに挙がっていた。
 今日のお客様は中年だが上品な出立ちで、話し方も穏やかな方だった。しかし、なぜか不自然さを感じる。なに? 微妙に何かがずれている。どうしてもそれが気になる。横か? 私は資料を広げながら横に廻る。あっ!
 この瞬間、私は破滅への階段を踏み始める。

「この商品は他社と違いGPSを採用しておりまして、全くズレは生じません」
 部長は満面の笑みを浮かべ説明を続ける。
「ズレないのが当社の売りなんです!」
 徐々にお客様の顔から笑みが消えていく。私は思わず部長に向ってジェスチャーをする。その意味に気付かない鈍感な部長は、私の唇を読み出した。
「ん? 何? ズラ? ズラだって?」

 静かな沈黙が微妙に流れる。腕時計の秒針音の微かな響き……。
 私はバカ笑いを思いっきりして、お客様の頭を指で突っつきズラを掴むと……。嗚呼、悪夢だわ。

 お風呂場の窓から白い陽射しが差込んで、鳥の囀りが聞こえる。
 どうやら洗濯機と一夜を過ごしたらしい。空になった缶ビールを台所へ持って行き、リビングのカーテンを開ける。青く澄んだ空が広がって、薄い雲が流れていた。
「あ〜っ、洗濯日和だね〜」
 背伸びをすると気分が晴れた。
 洗濯物を取り出しベランダで広げる。赤いパンツが目に痛い。ん? 白いシャツが微妙に桜色をしている。白かったタオルもTシャツもみんな薄い桜色。私は少し首を傾げ、青空に透かしてみる。
「微妙だわ。微妙にピンク色に染まってるー」

 洗濯カゴの中から、お気に入りの赤いパンツが問いかける。
『微妙ってどう?』
 私はフフッと笑い「やっぱり微妙はいけませんよね〜」と空に向って言ってみた。

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Entry28



蛮人S
文字数1000


 沼が在る。
 すでに日は落ちている。地平まで枯れ葦の続く大地と、冷たく強ばった冬の星座の高みとの間を、風がどうどうと吹き渡っている。遥か異国の大気の谷へと、永遠に呑み込まれ続ける気流だ。沼はその下で、濁った水面を波立たせて横たわる。煌々と照る月光が、揺れ動く枯れ葦の影を水面に落とす。
 他には何も動くものは無い。この沼を知る者は無い。誰も知らぬ沼は、知られぬまま、その水面を波立たせ続ける。

 ビルを出て、すっかり葉を落とした街路樹の下を歩く。宝くじ売場の長い行列を避けながら、地下鉄の階段へと向かう。行列の人々は一様に無表情である。宝くじは買った事が無い。大金を手に喜ぶような未来は見えない。あの人たちは、あの無表情の奥で未来の断片を見ているのだろうか。そうでもないのだろうか。
 切符を買いに券売機の前に立つ。立ってから、いくつ硬貨を入れるべきか知らないのに気づき、運賃表を見上げる。(沼の水の底はどうなっていますか)と医師は尋ねる。ありのまま答える。知ってどうするつもりなのだろう。地下鉄の路線図は、ねじれ絡まった紐のようで、いったん解かねば経路が知れぬ。それは難渋な作業だ。沼の底は枯れ葦がそのまま沈み積もっているばかりだ。葦の下には葦が層を成す。どこまで葦でどこから泥か分からない。
 医師は絡み合った水底の葦を解くことで、何を量ろうとしているのだろうか。受付に払った診察代がそれに当たるのだろうか。どこまでを葦として泥として解いているのだろうか。スーツ姿の若い男が、鬱陶しげに前に割って入り、硬貨を投入し始める。まだ紐は解けない。結局千円札を入れ、不足無さげな金額の切符を買う。医師もそうしているのだろうか。

 機械から出てきた紙片を、別の機械に入れ、また出てきた紙片を持ち、また階段を下る。沼底では、さらに大きな連結された機械がチャイムを鳴らしながら滑り出てくる。それにゆっくり乗り込む。凍える水底に枯れ葦は沈み積もっている。右腕を水に浸し、層を成す葦へとゆっくり潜り込ませていく。繊維を分けながら、さらに潜らせると、冷えて痺れる腕に次第に仄温かさを感じる。さらに左腕も潜らせ、胸を、脚を沈め、やがてすっかり沼に横たわってしまう。風が吹いている。
 沼が在る。
 月光は波立つ水面を煌々と照らす。冷たい気流の遥か上に冬の星座が瞬いている。沼が在る。ただそこに在って、誰も知らぬ。何者の動く影も無い。

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