|
Entry1
対決
青野 岬
「はじめまして。朝丘舞子です」
その女はよく手入れされたマロンブラウンの長い髪を挑発的に揺らしながら、上目遣いに微笑んで私を見た。
「……どうも」
私も負けずに極上の笑顔を作り、彼女に返す。その様子を俊彦が、息を飲んで見守っていた。ピンと張り詰めた空気の中を、アールグレイの優雅な香りがゆっくりと漂う。
「ほら二人とも、まずはお茶でも飲んで話そうよ、な?」
いつもは口数の少ない俊彦が、精一杯の笑顔でこの場の雰囲気を和ませようとしている。ここでひるんでは駄目だ。私はそう自分に言い聞かせると、カップを手に取り熱い紅茶をひとくち啜った。
「……それで舞子さん。俊彦とはどこまでの関係なのかしら」
「は?」
女は一瞬、自分が今、何を質問されているのかわからないといった表情で動きを止めた。
「おい、いきなり何を訊いてるんだよ」
俊彦があわてた様子で身を乗り出す。
「トシ君は黙ってて。私は今、舞子さんと話してるの」
「……それは肉体関係があるのか、ってことですか?」
女はあきらかにムッとした表情で、私に切り返して来た。その瞬間、女同士の視線が絡み合い、熱い闘いの火花が散った。
「その通りよ」
この女、見かけによらず頭の回転が早そうだ。油断大敵。私と俊彦のつきあいの方がずっと深くて長いことを、しっかり釘を刺しておかなければ。
「答えたくなければ、それでもいいのよ。でもね、これだけは言っておくわ。私は俊彦のことならなんでも知ってるのよ。寝相の悪さから、全身のホクロの数までね」
「何言ってんだよ、やめろよ!」
あせる俊彦の横で、女が唇を小刻みに震わせている。そう、私は俊彦の全てを隅から隅まで知り尽くしている。昨日今日知り合ったばかりの女なんかに、負ける訳にはいかないのだ。
私は余裕を取り戻しニッコリと微笑んで、三時間もかけてセットした髪をこれ見よがしにかきあげた。
「私、失礼します」
女は青ざめた顔で席を立ち、私は自分の勝利を確信した。ふたりの間に割り込んで来ようとする女を、私は決して許さない。俊彦は、絶対に誰にも渡さない。私の、私だけの『トシ君』なんだから。
「おい、待てよ!舞子!」
俊彦が止めるのも聞かずに、女は部屋を出て行った。私はその様子を見届けると、満ち足りた気持ちでカップに残った紅茶を一気に飲み干した。
「またかよ!何でうちに彼女を連れて来るとこうなるんだよ……まったく、いい加減にしてくれよ、母さん」
Entry2
網
越冬こあら
木曜日正午過ぎから降り出した雨の中、地上約二十八メートルに私はうつ伏せになって、網にかかっていた。
私のかかった緑色の樹脂製ネットは、ビル側面に窓一枚分の間隔をもって突き出した二メートル程の支柱の間に張られていた。支柱の先端にはワイヤーが取り付けられていた。ワイヤーは多分、窓拭き用ゴンドラ取付け金具か何かに結束されているに違いない。
私の誤算といえば、まあこの人生全て誤算だったが、昼休みに忍び込んだ社長室の窓を開けて飛び降りたとき、この網の存在に全く気付かなかった事である。大型サッシは四隅の鍵を外せば、縦軸に支えられたかたちでかなりの角度まで開くことが出来るので、人や物の落下防止の為に防護網が作られていても不思議はない。しかし、危険は全ての窓に内在するにもかかわらず、防護網は当てつけ自殺を予期していたかのように、社長室の窓にのみ取り付けられていた。
樹脂製ネットは体のそこかしこに、特に突っ伏した顔に容赦なく食い込んできた。落下した当初はジタバタと動いてみたが、網にかかった状況には有効に作用せず、今はただ雨に濡れていた。誤算続きの人生は、そのためストレートに完結する事も出来ず、情け容赦なく継続し続けるのかと思うと、泣けた。
地上約二十八メートルで泣き続ける男をそのうち通行人か、隣接するビルの誰かが発見し、消防に通報。レスキュー隊が到着し、梯子車かもしくは屋上からの決死のダイブで救助してくれる事だろう。テレビに放映されないとしても、会社や近所では後ろ指をさされ、別居中の妻も入院中の愛人も今度こそ愛想を尽かすに違いない。自殺未遂は罪になるのだろうか。
自分を落とし入れる空想を巡らせつつ、しかし私の心は痛感にも慣れてしまい、しだいに空を飛んでいるような錯覚に囚われていった。眼下には、小さな車や人がアクセクと動き回っている。小人の世界がいつまでも雨に濡れていた。
どのくらいたっただろう。雨は上がり、隣のビルのガラスに夕日が反射していた。反射光はやがて小さな虹を作った。何処からかドロシーとトトのテーマが聞こえてきた。
Somewhere Over The Rainbow……
その時、社長が落ちてきた。網は当てつけ自殺対策ではなく、本人用だったようだ。設計以上の荷重を受けたネットは支柱との接合部で悲鳴を上げ、あっけなくちぎれて、私は社長と一緒に本格的な落下再開を余儀なくされた。
Entry3
春にして綺羅の虚空には
詠理
―花散り落つる草枕
春風吹くは羽布団
囀り呼ばれ華開き
輝くばかりの濡れ真珠
君の目覚める瞬きは
水面に波紋の踊るよう
宝冠戴く沙羅髪が
己が如きの香揺らす
「くっ。」
優子が目を閉じたまま吹き出した。
「何?」
岬は眉をぴくりとし、聞く。
「だってさ、濡れ真珠って。くくっ。誰よ?」
「あ、のね。」
「分かってるわ。いい?」
勢いつけて突っ伏したら草で少し切った。
仰向けに回転しながら腕を舐める。
眼上の星雲は思ったほどきれいじゃない。
―泣いた桜が腹抱え
焦げた幹に色を塗る
土に埋もれる古き生
散らす手間こそ緩き情
拝む娘の願読めば
燃える末路に肌震え
廻る花びら切り落とし
痛みに闇を求め裂く
岬は手を空に上げ、ぱたんと振り落とした。
「ねぇ?」
「痛みに闇。」
「あー、も。気抜いた、確かに。」
優子は起き上がって髪を乱暴に梳く。
赤味を帯びた私の頬は僅かに反射率を上げたろう。
機械が震動するときのギリギリ高音が響き伝う。
妙な表現だけど鼓膜は同じ部類に落とすのだから。
―瞳に映した青年の
描いた姿に腕上がり
輪の形して揺れ下がる
瞬きが暗く影刺して
拾った片に笑う子ら
両手に溢れ香飛ばし
走る景色は夢の未知
掻き湧く心地は砕けゆき
優子が岬を仰々しく引っ張り起こす。
「暗く影?でももうよし。」
「そぉ?」
二人してごろりと足を蹴り上げて転げた。
ゆるゆる目を閉じる。次に内で20を唱える。
ぱっと開いた天上に、万乗の鐘声がささやいていた。
「今夜はまたいいじゃない。」
「先刻は全然だったのに、耳足んないよ。」
「皮膚で聴くのがポイントなんでしょ。」
大きく一杯に吸い込んで、再び胸の高さをじっくり落とす。
優子は岬と手をつなぎ、見上げたまま聞く。
「なんて?」
「故里に帰れ。」
「私は酒匂を少々。」
「・・・嘘。」
「嘘。」
「あのねぇ。」
「操行の糸を手繰れ。」
「繋がってる?」
「まぁまぁね。」
―故里に帰れ
春、泣き崩れた桜がしなる
君は座敷に墨落とす
小石の流れは細波と
「ふぅーん。」
優子が連ねる。
―故里に帰れ
夏、耄碌した大気がうねる
君は青草の香を焚く
螺旋貝の旋律に
―故里に帰れ
秋、独立した風になびく
君はみち路で響鳴す
赤味を帯びた情景が
―故里に帰れ
冬、染め上った床がきしむ
君は降霜を賞味さす
粧業映える後輪も
二人は同時に音階を紡ぎ出していた。
―故里に帰れ
伝う鼓動は僅かな怯え
達した痕より蒼々と
自読の限りは狎れ果てて
―芳香たち込め先は目映けれど眩き奥まる己の虚
それはもう一気に笑い、涙に融けた。
Entry4
そこにはなにもない
立花聡
どこだ。
男の叫び声が聞こえた。僕はドアのノブを握りながら身をすくませた。握る右手が震える。左手で震える右手を押さえながら、ただ男の近づく足音に神経をすり減らした。男が踵を上げてつま先が離れる。もう片方の足が地面に着地する。ゆっくりと音が近づいてくる。僕の耳は冴え渡っていて、彼の一挙手一投足が手にとるように聞き取れた。
ドアに寄り掛かっている体は、ピタリと冷たい金属に張り付いていようだ。額の汗が頬を伝って緑に塗装された断面を滑ってゆく。拭おうにも、両手は凍っていて働こうとしない。衣服は肌と同化して、布の感触を感じない。
男は二つ手前のドアを開けようとし始めた。鍵がかかっていると気が付くと、金属バットで扉を力任せに叩き付けた。壁を伝って振動が、僕の全身を震わせた。獣のような咆哮は言葉にならない声となって、僕の心の中、恐怖に届いた。
出てこいよ。別になにもしやしないから。
嘘だ。どうせ殺すんだ。頭をその金属の棒で力の限り殴りつけたいんだろ。きっと僕の頭蓋骨が鈍く脳内に浸透して、赤く濁った血液を見たいと思っている。そしてゆっくりと倒れ込む僕を眺めて足でひっくり返す。まるで遊び飽きたおもちゃを転がすように。仰向けになった僕のあばらや股間に、土でも固めるみたいに僕をバットの先で体重を全て込めて、打ち付ける。僕の肉体を平らにして地面に埋めようと躍起になる。そして汗をかきながら笑って作業をこなすんだ。
どこかなぁ。
バットと廊下の擦れあう高い摩擦音が、カラカラとなり始める。時々障害物に当たって低い音に変わり、少しするとカラカラと音が戻った。
突然、僕のすぐ隣の壁を叩き始めた。
ささっとでてこいよ。
一定のリズムは小さな音だが僕にははっきり過ぎる程聞こえる。すぐそこまで足音が、壁の振動が、男の声が迫る。
カツカツ。
さっさとあきらめろよ。
コンコン。
カツ。
お前さ…。
コン。
僕の体は音を立てない。僕は空気になる。中央の早鐘も今だけは止まる。僕は空気。
リズムは一定のままドアを通り過ぎた。順調に隣のドアへと向かってゆく。僕は大きく息をついた。震えを感じなくなり、左手で額の汗を拭う。助かった。
隣のドアを叩く音が聞こえる。そこにはなにもない、馬鹿。
あれぇ、音がちがうなぁ。
男が舌を出し厭らしく笑う姿が音で伝わった。
そう、そこにはなにもない。
Entry5
人間の尊厳
犬宮シキ
「早く牛乳を!」
怒鳴った男の喉元には銀色のスピーカーが光っている、さっきの美しいバリトンも、その異形の喉から発せられたに違い無い。喉だけでは無い。彼には体中のおよそ重要と見られる器官が欠けていた。手足はおろか、歯もなく目があるべき場所は空ろな黒い穴だ。彼の顔には侘びしい七つの穴が虚無を晒して居た。
部屋はそんな彼とは対照的に煌びやかだった。ロココも比ではない。ありとあらゆる形質より威厳があり、優美だ。天井は高く、金銀や天のブルーで彩られていた。彼の座るイスも贅を凝らしたもので、柔らかく曲がる猫足は金無垢、クッションを包むのは細やかな模様を描く素晴らしいゴブラン織り。部屋の真ん中にいる執事は仕立ての良い礼服で、向き合う乳牛も素晴らしい布や貴金属、宝石などで彩られていた。
彼は哀れな老執事を慌ただしく急き立てる。
「牛乳を!」
執事はその両の手を交互に動かして必死に牛の乳を絞っているのだった。
その時男の座るソファーの後ろのドアがバネ仕掛けのように勢い良く開き一人の少女が飛び出してきた。悪趣味で重厚なベルベットのフリルで飾られた荷車を押している。
「遅い!」
男が一喝する。
少女は無関心な顔をして荷車に積まれた箱を開き、その中から一揃えの義手義足を取り出した。彼の手足の在るべきところにはめ込んでいく。その横で執事は一生懸命乳を搾るのだけどどうも巧くそのクレマチスの模様が刻まれた洋杯すら満たせない。彼の額は嫌な汗でテラテラと光っている。
少女は今度は宝石箱のような美麗な象眼の施された金の四角い箱を取り出し、その中から摘み上げたガラス製の義眼を男に填め込み、細々とした蒔絵が施された銀の丸い箱からは入れ歯を取り出し口に押し込んでいる。ビスク製のうっすらと色付いた耳や鼻まで取り出し、その裏の突起を両の穴に面倒くさそうに差し込んでいる。男がその喉で騒ぎ立てるものだから、煩いらしく首の後ろに在るスイッチをぱちんと切ってしまった。何色ものファンデーションや紅や白粉を手際よく塗り重ね、眉をコンテで描き、付け髭や付け睫を付け鬘をかぶせハイカラーのシャツを着せてしまうと、男は見事な紳士になった。
やっと杯を満たした執事がそれを差し出した。男は満足そうに頷いて一気に煽る。そして少女が着替えをいれた籠を軽く持ち上げ、ふらりと壁にぶつけた。
男は驚きむせ返る。スピーカーから、真っ白い牛乳があふれた。
Entry6
幸せになった霊
満峰貴久
「クリハラトシオ、ノロッテヤル」
「うるさいなあ、いい加減にしてくんない。それに、僕の名は榎本公也っていうの、エ・ノ・モ・ト・キ・ミ・ヤ。まったく、言う相手が違うっつーんだよ」
午前2時を回ると、その女の霊はきまって公也の前に出てきて言うのだった。
公也は小さい頃から霊を見ることが出来たので、普通に話し掛ければ何の危険も無いということや、意外と素直であるということも知っていた。今住んでいる部屋も、「お化けが出るかもしれない」と言う大家の言葉に内心大喜びで契約したのだ。もちろん大幅な値引きをしてもらうのが目的だった。しかし、出て来た霊は以外にも若くて綺麗な女だったので、出て行ってもらうことはしなかった。
話を聞くと、その霊は生前、この部屋で「クリハラトシオ」という男と同棲していたのだが、男は他の女と一緒になって出て行ってしまったのだそうだ。悲観した彼女は自殺した。よく聞く話である。しかし、男に強い未練があったため、いつか戻って来るのではと、想い出深いこの部屋に居付いたのだと言う。
初めのうちは、若くて綺麗ということもあって、喜んで話し相手になっていたが、毎晩2時過ぎとなるとさすがにこたえた。次の日の仕事にも差し支える。しかも、出て来るたびに「クリハラトシオ、ノロッテヤル」と言い、話の最中でも、思い出したように「クリハラトシオ、ノロッテヤル」と言い出すのだ。
公也は考えた末、あることを思いついた。このまま独りで出て行ってもらうのは可哀想なので、相手を見つけてやろうと思ったのだ。毎日いろいろな霊を見ているので、心当たりはあった。
次の日、女が出て来たところで、若い男の霊を紹介した。この男も許嫁だった女に逃げられて自殺してしまったという、内気だが、気のやさしい霊だった。
女は最初、ぽかんと口を開けていたが、そのうち伏し目がちに男のほうを見るようになった。頬もほんのり赤くなっているように見える。一目惚れしたのだ。男の霊も満更でもない様子である。やがて、二人は手を取り合い、公也に何度も礼を言って成仏した。公也は満足と安堵の気持ちで蒲団に入った。
「これで、明日からぐっすり眠れる」
次の日、公也が寝ているとまた女が出て来た。
「あれ、昨日の彼はどうしちゃったの。まさか、別れちゃったんじゃないだろうね」
女が口を開いた。
「幸せにしていただいた御礼に来ました」
「エノモトキミヤ、ノロケテヤル」
Entry7
遅すぎた告白
浅田壱奈
今日私は1年間付き合っていた彼にフラれた。
「このまま付き合っていても、俺のこと好きになってくれそうにないから。」
が、理由だそうだ。
1年前に、彼に告白された。
私は特別彼に、恋愛感情があったわけではなかったので、断ろうと思った。
「絶対、俺のこと好きにさせるから。付き合ってくれ。」
そんなことを言われたのは、初めてだったので正直悪い気はしなかった。
彼と付き合うことにした。
私は彼が本当に、私のことを好きなのか試した。
わがままは、言いたい放題言ってやったし、わざと他の男の影をちらつかせたり、わざと喧嘩をふっかけたり…。
とにかく、私は思い付く限り試してやった。
それでも彼は、私のことが好きだと言っていた。
こうまでされても、好きだと言っている彼を、私は少し馬鹿にしていた。
まさに彼は、私にとって都合のいい男だった。
彼に別れを告げられて帰宅してきた私は、一人暮らしには、少し広い部屋の電気をつけた。
特別何かをしたわけではないが、今日はひどく疲れてしまった。
バッグをその辺に投げて、私は倒れるようにベットに横になった。
今日はどうしてしまったんだろう、動く気になれない。
そのまま寝ようかとも思ったが、部屋の電気を消す動作さえもおっくうだ。
彼は私と付き合っていた1年間、どんな気持ちでいたのだろう。きっと私と付き合ったことに、後悔していたに違いない。
少し悪いことをしたかな。
そんなことを考えていると、バッグの中に入っている携帯が鳴った。
私は仕方なく起き上がり、バッグの中から携帯を取り出した。
着信ではなくメールだ。
『言い忘れてたことがあった。
この1年間、好きでもないやつと付き合ってくれてありがとう。
苦しかったけど楽しかった。
さよなら。』
彼からのメールだった。
とっくに別れを告げられていたのに、このメールを読んで本当に終りなんだと思った。
本当に終りなんだ…。
だから私は、携帯のメモリーから彼の名前を消すことにした。
『削除しますか?』
携帯が未練がましく聞いてきた。
私はなぜか、その画面をしばらく眺めていた。
温かいものが頬をつたう。
そうか、未練がましいのは私か。
「遅くなったけど、あなたのことが好きになったわ。」
本当に遅くなったけどね。
私は<YES>を選択し、しばらく動けなかった。
Entry8
『このお話は落ちるでしょうか?』
橘内 潤
マリスは川のほとりでうたた寝していた。
「……き……さい。……おきなさい」
「え?」
呼ばれて目を覚ますが、あるのは川のせせらぎと穏やかな陽射しだけ。マリスは辺りを見回し、声の主を探したが見つからない。
「あなたはだぁれ? なんで、あたしを起こしたの?」
小首を傾げ、視線は宙に問いかける。されど答えは返らない。
「じゃあ、寝なおすわ」
欠伸をかみ殺して、くてっと横になる。すると慌てたように声は響いて。
「……し……さい。……探しなさい。あなたの……を」
「え、なにを探すの?」
肝心な部分は聞き取れず、マリスは虚空に耳傾けるも答えは返らず。
「じゃあ、寝なお……」
言いかけて、寝る場所がなくなっているのに気づいた。つまり、寝ていた地面がなくなっていた。川も、せせらぎも、穏やかもない。ただ陽射しだけが残っている――穏やかではなくなっていたが。
「あら、落ちているのね、あたし。これは比喩? それとも直喩?」
尋ねるマリスの髪は逆立ち。腰までの髪は、重力にゆらゆらゆぅらゆら揺れ。海草みたい、と思ってくすりと笑い。
「落ちていくとは相対であって、地点Aから地点Bへ落ちるのであって。あたしは、どこからどこまで落ちるのでしょうか。それは神のみぞ知る?」
けれど、髪はゆぅらゆらぁら首を振り。「あら知らないのね」とマリスもつられて首を振り。けれども、はたと気づいてにっこりと。
「AもBもないのだから、あたしはきっと落ちてないのだわ。だって、あたしは清らかだもの」
けれどもやはり落ちつづけ。どうしてかしらと首傾げれば、重心崩れて大回転。暴れてみても始まらないと無抵抗不服従。手足ゆぅらら、手足ゆらぁらモーメント打ち消して。九回転目で元に戻れば、そうかそうねと頷いて。
「あたしって、ほらあれよ。夢見がちのお嬢さまっていうのぉ?」
う〜ん……と悩んでサイコロぶん投げ。
「明日はティファニーで朝食を諦めて、怒りの葡萄で手を打つわ」
――とん。地に足がついた。
カメラを探してポーズ決め決め、
「富める国よ……葡萄の苦さ、忘れちゃったの?」
今度は歯が浮いた。
Entry9
空鉄砲
棗樹
宗ちんの親父は猪撃ちが好きで、猟犬まで飼っている。タロと呼ばれるその犬が、銃を構える主人の前に追い出した猪は五十頭を越えていたが、首尾よく仕留められた猪は片手に満たない。宗ちんの親父が「空鉄砲」と言われるゆえんだ。
猟の季節は秋冬だが、その春は山菜採りに出た人が猪に襲われる事件が続いたため、害獣駆除を謳った猪狩りが行われることになり、宗ちんの親父とタロにも声がかかった。宗ちんの親父は代掻きも放り出して銃の手入れに熱中し、駆除の日を待ちわびていた。
僕と宗ちんが縁側で碁を打っていたその午後も、宗ちんの親父は隣で熱心に銃を磨いていたが、ある時小用を足すため、銃を置いて縁側を離れた。日だまりに転がる猟銃といたずら盛りの少年二人――何をかいわんやだ。
父親の足音が遠ざかるやいなや、宗ちんは銃に手をのばし、肩に担いでくるりと向き直って、僕に銃口を向けた。
まあるく暗い虚ろな穴が僕をとらえた。
銃身に走る無数の傷。筒の意外な厚みとかすかな火薬の匂い。僕はそれまでBB弾を撃つおもちゃの拳銃しか知らなかった。空鉄砲とわかっていても、腹の底がしいんとなった。その時、
「バアアアン!」
宗ちんが大声を出し、僕は座ったままひっくり返った。キヒヒと宗ちんが笑った。
「貸せよ!」
僕は起きあがるなり銃に手をかけた。僕の剣幕に押され、宗ちんは素直に銃を放した。
僕は宗ちんをまねて銃を肩に担ぎ、片目をつぶって残る目を細め、獲物を探した。宗ちんがぎくりと身を退いた。さっきの薄気味悪い体験から、宗ちんに銃口を向けることはためらわれ、僕は重い銃ごとふらふらと身体の向きを変え、庭を見た。
若葉の光る柿の木の下で、タロが尻尾に鼻を埋めて眠っていた。
吸いこまれるように銃を向けた。
はたと耳が動いたが、茶色い腹は変わらず心地よさげに波打っていた。僕は息を潜め、指を精一杯のばして引き金に触れた。
次の瞬間、茶色い火の玉が僕の懐に飛びこみ、横っ面に熱い鉄の塊で殴られたような衝撃が走った。怒り狂うタロの牙が頬に食いこんでいた。
「馬鹿野郎っ!」
怒声とともにタロの身体が宙を飛んだ。宗ちんの親父に蹴り上げられ、地面に叩きつけられたタロは、ギャンと悲鳴をあげ、苦しそうに這いつくばった。
「馬鹿野郎っ!」
宗ちんの親父がもう一度怒鳴った。宗ちんがわっと泣き出した。僕は涙と血でどろどろのまま、ごめんなさい、と小さくつぶやいた。
Entry10
風のLocal Area Network
木葉一刀(コバカズト)
青空を覆う白い雲さえ遥か遠くに吹き飛ばされる。風の強いこんな日にネットワークが構築される。
もちろん有線なんてダサいものじゃなく、それはあちこちに偶然届く気まぐれな無線。鯉のぼりの吹流しを経由して指向性を確保するらしい、五月の風のネットワーク。
空中の塵すらもこの風のネットワークを維持するための重要な因子とも成り得るのだから、所詮塵などとは決して侮ることはできない。
このネットワークを利用するのは主に、鉱石ラジヲを利用して仲間を探す天使か、その天使を狩る飛行艇乗りたちだ。
天使たちの鉱石ラジヲはネットワークの中ならば、どこまでも音を飛ばすことができる。人間のラジヲとは訳が違う。天使たちは鉱石ラジヲの音を共鳴する風の道を辿り天使たちの住処へと帰るらしい。
天使の持つ鉱石ラジヲはラジヲとしての性能の良いものとは言えないが、一度共鳴させてしまえばなんと明瞭な音楽を紡ぎだすことか。その音は水晶を弾いた音よりもずっと高音を響かせておきながら、人の腹の底にズンと残る低音を紡いでいる。
そんな素晴らしい音を奏でるものだから飛行艇乗りたちは躍起になって天使たちを追いかける。
本来、飛行艇乗りたちは風の中を漂う天空の古城の庭園管理や、成層圏あたりからたまに降りてくる星の欠片を、研究機関に実験材料として売り払って生計を立てていたのに。最近では天使たちを追い掛け回して鉱石ラジヲを奪ったりして、盗賊のようになってしまった。以前は花形の仕事だったのに。
因みに僕ら人間から天使の姿を見ることは出来ない。天使のラジヲの音は人間にもよく聞こえるのだけど。
天使を捕らえるためには鉱石ラジヲが放つ音を頼りに、憶測で風の中に投網を投げるしかない。風をも縛り上げてしまうガラス繊維の特注品だ。編み目は風を通すけど、ガラスは風を通さない。
今日も一人の飛行艇乗りがある音源を目指して今、投網を投げようとしている。風の中によくよく狙いを定めて一気に投網を放り投げる。
そして飛行艇乗りは小さく舌打ちをする。残念、天使は引っかからなかった。それどころか鉱石ラジヲの音すら聞こえなくなってしまった。そこは風の終着点。収束した風が凪いだ大気になったところ。天使はもう居ない。
実のところ人間の手に鉱石ラジヲが渡った事例は世界中でまだ100件もないのであった。気まぐれな五月の風の終着点がいづこだなんて誰もまだわからないのだ。
Entry11
悪くない
日向さち
コンビニで立ち読みしていて、ふと、雑誌から視線を外すと、知っている女の子が棚の商品をバッグに入れた、まさにその瞬間だった。
僕と目が合った彼女は、そのまま走って外へ飛び出していった。彼女の名前は篠田愛里。僕と同じバレー部に所属している後輩だ。とは言っても、男子部と女子部では別々に活動しているから接点は少ないのだけれど、中学生という年頃のせいか、女子のことにはちょっと詳しい。
「おい、待てよ」
走り去った姿を目で確認しながら、独り言のように呟き、彼女を追いかけた。てっきり遠くに逃げたのかと思ったら、店から80メートルぐらいの所にいたので、少し拍子抜けだった。
「逃げたんじゃ無かったのかよ」
「どうせ教師に言いつけるんですよね。だったら、逃げたって同じじゃないですか」
――逃げられていたら、どういう行動を取っただろう。
いつも明るくて真面目そうな彼女が、万引きをするなんて信じられない。今時の中学生は何をするか分からない、なんて大人たちは思っているようだけど、そんなことないと僕は思う。
「盗ったもの、何?」
彼女がバッグから取り出したのは、歯ブラシ1本だった。
「店員のことばっか気にしてたから、先輩がいるって気付かなかったんです……」
「うん、まあ、知ってる人には見られたくないだろな」
「……」
彼女が動揺しているみたいだったので、僕は質問を諦めた。
「これからゲーセン行くんだけど、一緒に行く?」
彼女は、黙ったまま首を縦に振った。
たくさんの電子音に囲まれて、彼女はすごくはしゃいでいた。だから最初は、彼女が反省していないと思って裏切られた気がしたけれど、そのうちに、どこかぎこちないことに気がついた。考えてみれば、僕とはそれほど親しい関係ではないのだ。無理をしていたに違いない。
「先輩、ちゃんと先生に言ってくださいね。あたしが悪いことしたのは事実なんだから」
バレーをやっているわりに細い指でクレーンゲームを操る彼女の口から出た台詞は、とても明朗で、疑う余地がなかった。
ああ、やっぱり悪くないな、と思った。単なる思い込みだとしても、それが僕にとっての真実なのだ。
「わざわざ言うことないよ。どうせ、無駄に騒ぎ立てるだけなんだからな」
翌日、僕は同じ店へ行って、レジカウンターに置かれた募金箱へ歯ブラシと同額の募金をした。万引きの償いにはならないだろうけど、僕の気持ちがすっきりしたからそれでいい。
Entry12
煙草を吸う男
宮田義幸
男が一人S駅のホームに立っている。時刻は十二を指し示そうとしていた。ホームには誰もいない。男は終電車を待っていた。
「ついてねえなあ…」
男は一週間前に妻に別れを告げられ、三日前に吐血し、病院に診察にいったところ肺癌と診察され入院し、今日脱走さながら病院を退院してきたのだった。
男の足は覚束無いでいた。自分への餞に既に多量の酒を煽っていたのだ。しかし、意識は不思議な程しっかりしていて男を恐怖に駆り立てていた。その恐怖を振り払うため酔いを求め、新宿に向かう途中なのだ。
急行電車が通り過ぎていく。S駅は各停しか停まらない。男は電車を光の無い眼で見送ると、潰れた煙草の箱から一本取り出し火をつけた。癌細胞に餌をやるかの如く深々と吸い込む。
―煙草もあと何本…―
溜息と共に煙を吐き出す。目の前で煙がたゆたい、その行方を追って見るともなしに反対のホームに眼をやると、中学生位の少女が立っていた。男はしばらく訝しげに少女を見ていたが、すぐに興味が無くなり灰皿に煙草を押し付け消した。男が再び煙草を銜えた時にはもう姿がなかった。
火をつける。酒を飲み過ぎたからだろう。男は尿意を催し、銜え煙草のまま便所へ向かった。その途中、若い髪の長い女が反対のホームにいることに気づいた。どこかで見たことがある気がしたが、尿意に急かされ誰かは判らなかった。事を済ませると男は煙草を便器に投げ捨て出た。女はもういなかった。再び煙草に火をつけ旨そうに燻らせる。
「あなた」
聞き覚えのある声が反対のホームから響く。男は驚きのあまり銜えていた煙草を落とした。急行電車が通り男の視界を遮る。妻だった。聞き間違えるはずがない。目の前が開けた。しかし、どこにも妻の姿はなかった。興奮したからだろう。直後、男は吐血した。
男は自分の死を確信した。体中力が入らず、眼も見えなくなっていた。薄れいく意識の中男は理解した。少女は初恋の人。次の女は初めてセックスした相手。そして妻。彼女らは俺が愛した女達だったのだ。どうやら煙草に火をつけると現れるらしい。男はまるで童話みたいだと苦笑した。
―さて最後は誰か…浮気相手の女か。それとも生まれ変わった後、愛する女か―
そう思うと少し楽しくもあった。力の入らない手を必死に動かし、煙草を銜え火をつける。すると、顔に深い皺が刻まれた白髪の老女が暗闇から浮かびあがった。その女を見て男が呟く。
「お袋かよ…」
Entry13
僕と犬
夢追い人
雪の日。道端に置かれたダンボールの中に一匹の子犬がいた。ボロボロになった布切れと空っぽの薄汚れた餌入れが一緒に入れてある。子犬はその布切れにくるまっていた。
柴犬だろうか。犬には詳しくないが、子犬が疲れきっているのはすぐにわかった。体を動かす力もすでに残っていないのか、こちらを振り向きもしない。可哀相なその姿はまるで今の自分を見ているようであった。
ここで会ったのも何かの運命かもしれない。僕は子犬を抱え上げると、持っていたタオルでくるんで連れて帰った。
子犬の体の震えがタオルを通して伝わってくる。寒さからだろうか、寂しさからだろうか、小刻みな震えは止まなかった。
家の中に入っても寒さは外と変わらず、部屋に入ってすぐストーブをつけて暖めてやった。賞味期限が今日の日付になっている牛乳を人肌ほどのぬるさに温めて小皿に入れ、子犬の前に差し出した。それでも子犬は震えたまま動かず、牛乳を飲もうとはしない。子犬はこのまま死んでしまうんじゃないかと、僕を不安にさせた。不安はすぐに恐怖となり、その恐怖に僕の体は緊張した。手のひらは汗で湿っている。
その絶大な恐怖に突き動かされるように、ストーブのすぐそばで必死に子犬の冷たい体をさすった。子犬の毛はすぐにボサボサになった。床には抜け落ちた毛が散乱し、僕の手にも毛が張り付いている。僕は額から流れ落ちる汗を拭うこともせず、ひたすらにさすった。
やがて子犬の体の震えは止み、幾分の温もりが戻ったので、再度ミルクを与えようと考えた。しかしながら依然として子犬の目は僅かに開いている程度で、その見ようとする先は空中を漂い続けている。今度は自分の手に作ったくぼみに生ぬるい牛乳を溜めて飲ませることにした。少し強引にその手を鼻先に押し付けてから、口元へ運んでやった。すると、ようやく子犬の小さな口から小さな舌が出てきた。暗闇で何かを探るような懸命な舌の動きは、今まで僕を支配していた恐怖を溶かしていく。むしろ、その生きようとする意思の強さに圧倒された。生命力。僕は子犬のそれに憧れを抱いた。
子犬は牛乳をたっぷりと飲むと眠りについた。
ストーブのカタカタという音と子犬の寝息が静けさの中を行ったり来たりしている。
昨夜降っていた雪はいつの間にか止んでいて、窓の外は明るみを帯び始め、遠くの空は紫や赤や青の絵の具をこぼしたよう色をしていた。
僕と子犬に再び朝が訪れた。
Entry14
青蛙
土筆
「あら、青蛙」
艶めいた声が弾けて、青蛙の俺は、胡瓜の葉の上から若い女の掌にのせられていた。
俺は逃出す気にはなれず、しなやかな女の掌中に安座していた。
それからだよ、俺がその女にいかれてしまったのは。
女は郊外の園芸農家の娘さんで、都心のオフィスビルまでバスで通勤していた。
俺は女がまた胡瓜をもぎに来ないかと、終日待っていた。
女は二度と現れなかった。俺はそれを儚んで、家の近くまで跳ねて行った。勤めに出かける彼女を待構えるのだ。
女が出てくると胸が高鳴り、それでなくとも恋情を抑えきれなくなっていた俺は、暴発してしまいそうだった。
こんなときの女は、通勤バスに乗遅れまいとするのか、俺なんかまるで眼中になかった。
車道までは土の道で、蛙の足にもよく馴染んだ。バス通りまで俺は女の後を跳ねて追いかける。いくら懸命に跳ねても、女との距離は大きくなっていった。
やる瀬のない待伏せと追跡をどのくらい続けただろうか。顧みられないだけ思いは募った。
眠れない日が続くと、頭は逆に冴えてきて、ついに愚行に及ばないではいられなくなった。女に思いのたけを伝えるのだ。
女の家の玄関前に辿着くと、戸の隙間を探して忍込んだ。
一目で女のものと判る白いハイヒールを見つけた。
俺はハイヒールに這登った。納まってみると気恥ずかしくなり、覆いのある靴先へと身をずらせた。
ガラス戸が開いた。香水の香りが俺の鼻腔の奥へツーンと通ってくる。俺は咄嗟に身を竦めた。
闇が訪れ、次いで容赦ない足の圧迫と重さに押し拉がれた。
「きゃっ!」
悲鳴とともに女の足が引抜かれ、再び光が戻った。
何事かと高校生の弟が飛び出て来る。
「靴、靴の中‥‥」」
女は取乱して、しどろもどろに語を継ぐ。
弟が靴を手にして、中から俺を引きずり出した。
「何だ、青蛙じゃねえかよ。こんなもの」
彼は俺を手にしたまま玄関を出て、地面に叩きつけた。
白い腹を上にして、俺は大地に伸びた。苦労もなく手足は自由に伸びていった。
朝日が眩しかった。
しかしそれが頼もしくも感じられた。俺はかんかん照りの太陽に焼かれるのを焦がれた。
だが、日輪が頭上に来るまで俺はもたないだろう。
そう感じたとき、女の顔が燦燦と耀き、太陽と重複して迫ってきた。
「可哀想に、青蛙さんだったのね」
女の柔らかな掌に包み込まれるのを、俺は遠くなる意識の奥深くへ大切にしまい込もうとしていた。
Entry15
ヒッチハイカー
伊勢 湊
「もう大変だったのよー、誰も停まってくれなくて。おかげでびしょ濡れ」
ヒッチハイカーを拾った。狭いビートルの横に座っているのはスーツ姿の女の子だった。多分二十台半ばだ。フロントガラスに当たるのは細い霧のような雨。随分待ったのだろう。
「本当に助かったわ。凄い災難だったんだから」
明るく言う彼女に後部座席にタオルがあることを告げると、その漆黒の長い髪を拭き始めた。
「信じられる?私、銀行に行こうと思って街を歩いていただけなのにこんなことになるんだもの」
なにがあったの、と聞いてみる。待ってました、と話し出す。
「本当は私もよく分からないんだけど、なんかUFOみたいなのがいきなり目の前に現れたのよ。びっくりでしょ?」
UFOみたいなの?
「そう、みたいなの。それでね、海が見てみたいんです、なんて宇宙人みたいなのが出てきて言うのよ」
迷惑な宇宙人みたいなのだね。
「でも、ほら。なんとなく無下には断れなくてね。なんとなく海まで連れてきてあげたんだけど、ふと気がついたらどこにもいないのよ。宇宙人みたいなの」
どこにいっちゃったんだろうね。
「分からない。それでね、私けっこう待ったのよ。もしかしたらまたひょいって現れるんじゃないかって。けっこう長い間」
もう、戻ってこなかったんだね。
「たぶん、どこかに行っちゃったんだと思う。本当は朝日が眩しくてよく分からなかったんだけど、なんかねUFOみたいなのがね、空に飛んでいったみたいに見えたから」
ちゃんとお家に帰ったんだね。
「そう信じてる。それで私もなんとか帰ろうと思ったら、自分がどこにいるか分からないし、雨は降り出すしで。危なく挫けそうになっちゃったわ」
それは良かった。なんとか間に合って。
雨があがって雲間から日が射してきた。街はもうすぐだった。
「ねえ、なんで停まってくれたの?」
さあ、たぶん僕も拾ってもらったことがあるからだよ。
「ヒッチハイクで?」
そう、ヒッチハイクで。
「なんでヒッチハイクなんてしたの?」
妖怪みたいなのに捕まっちゃって、砂漠まで連れていかれちゃったんだよ。僕もあのとき危なく挫けそうだった気がするな。
「大変だったね」
「うん。でもなんとかなったよ」
街のはずれで彼女を降ろした。降りる時ににこっと笑って「ありがとう」と手を振っていた。それだけだ。僕は振り返ることもバックミラーを覗くこともせずに走り出した。旅路はまだまだ果てしなかった。
Entry16
胸に響くメロディ
中沢美環
随分待った。待ち合わせのこの場所、結構高級そうなレストランで。
独りでいるのは寂しかった。あなたをずっと待ち続けていた。待ち続ける方の身にもなってほしいなどと思いながら。
私と彼は、友人も含めて四、五人ほどで海外を訪れていた。そして、それぞれが観光に集中したいということで単独行動をとっていたのである。この時世、携帯電話の存在があって初めてできることでもある。万が一のときに連絡を取り合うためなのだが、今私がいるこのレストランで携帯電話使用はマナー違反になるので使えない。
待ち始めて一時間経った。さすがにこれ以上待つのはNGだ。仕方なく席を立とうとすると、ウェイターが近づいてきた。
「お客様」
私は呼び止められ、手紙のようなものを渡された。文面は、来れないことを詫びる意味を持つものだった。無意識のうちに、私はウェイターを上目遣いで見つめていた。ウェイターは同情したのだろうか、申し訳なさそうな表情をしていた。
「どうも、ありがとうございます」
やっとのことで出てきた私の声は、ぎこちなかった。
「またのお越しを、お待ちしています」
ウェイターができるだけ優しく接しようとしてくれる気配りが嬉しかった。
私はレストランを出た。
出口に灯っていた光が、まぶしかった。
そもそも、事の発端は友人の気づかいだったのだ。うまくいかなくなり始めた私と彼を心配して、海外旅行へ誘ってくれたり、二人きりのムードを演出してくれたりするなど、かなり気を使ってくれていた。
それなのに、私と彼は元の関係に戻ることができなかった。友人には悪いけれど、二人の問題だから。
仕方がない。かといって、私自身が納得しているはずがない。彼に失望すると同時に、どうしようもないやるせなさが胸に生じる。
日の光とネオンサインが交代し始めるこの時間帯に、私は雑踏の中を歩いていた。近くで楽器の音が聞こえてくる。そして歌声が聞こえてくる。派手な演奏を繰り広げているストリートミュージシャン達がそこにいた。そして、通りの向かい側では、アコースティックギターの弾き語りをしているミュージシャンが一人いた。
私は吸い寄せられるように近づいていった。奏でるメロディ―に反応していた。派手な演奏者にではなく、一人で歌うそのギター奏者にだった。
歌っていたのは、ラブソングだった。内容自体は痛烈で真実味を帯びているだけに切なかった。曲調が正反対すぎるほど優しかった。
メロディーが、そしてこの人が奏でる音が、私の心を満たしていく。
私はしばらくその人の演奏に聴き入っていた。
Entry17
懺悔(ざんげ)
ムーロマチコ
「僕は人を殺しました。遺体は山中に埋めました。いつも苛められていたので思わずバットで殴り殺したんです」
キムは震えた手で顔を覆っている。
「バットは偶然そばにあったのですか?」
その問いにキムは答えられなかった。
「最初から殺そうと思ったのではないですか?」
キムは泣き崩れ、許しを請いた。
「あなたが殺した男は、天涯孤独で、死んだことを悲しむ者も他におりません。このまま彼が生き続けると、三人の人間が、彼のために不幸な死をとげていたでしょう。あなたは三人の命を助けたことになります」
神様は水晶球を見ながらそう仰った。
「私の罪は、とがめられずにすむのですか」
キムはすがるように訊ねた。
「残念ながらそうはいきません。人を殺したことにかわりはありません。しかし助けられた三人すべてに会って、あなたが男を殺したことを悔やまずにすんだとしたら、罪をとがめずにおきましょう」
キムは神様から三人の居所を聞いた。一人目は日比谷公園のホームレスだった。話をしようと近づいたが、いきなり唾を吐きかけられた。
『こんな男を助ける為に俺は……』キムは後悔の念に苛まれたが、気を取り直して二人目を訪ねた。
二人目は白金老人ホームのお婆さんだった。人が良さそうで95歳になる。「いつ死んでもあたしゃ極楽」が口癖だった。
キムは迷った。悔いのないほど生きた年寄りの身代わりでは、あまりに釣り合いが取れないではないかと。
三人目を訪ねる前に再び神様に訊いた。「仮に罪を償うとなればどうすればよいでしょうか」
神様は答えられた。
「生きながら死ぬのです。すべての欲望を捨て、他人のために尽くすのです。辛く、険しい道のりです」
男は三人目を訪ねることにした。三人目は新宿の占い師であった。若く美しい女である。キムは男を殺したことを後悔せずにすんだ。
「やっと来てくれたのですね」
美しい占い師は、キムを見てそう言った。
「えっ、私のことがわかるのですか?」
「もちろんです。私は占い師です。あなたが神様に導かれてここに来ることはわかっていました」
「あの男をご存知なのですか?」
「はい。快楽殺人を犯そうとする私をいつも邪魔するのです。本当に殺してくれて助かりました」
「まっ、まってください!」
女の言葉に唖然として、どうしてよいのか分からずにいるキムは、いきなり鉄パイプで後頭部を殴りつけられた。
薄れる意識の中で、キムは曖昧たる懺悔をした。
Entry18
甘話休題
ヒヨリ
目の前に置かれた苺ケーキをじっと見つめていた彩が、つと顔を上げて僕を見た。
と思ったらその唇から、奇怪な謎が飛び出した。
曰く。
“産まれたばかりのポメラニアン”と“クリーム抜きのケーキのスポンジ”、一体どちらが可愛いでしょう?
「ナンセンスな感じがあれみたいだ」唸る僕。「ほら、――“誰が駒鳥殺したの?”」
「“それは私”」
さらりと言ってアイスティを飲む彩。……もう少し続けて欲しかった。そこで止めたら不穏じゃないか。
かららん。涼やかな氷の音が響く。
「迷うなぁ」
すると彩は、手にしたフォークの先を僕に向けて厳かに唱えた。
「“迷いは禁物。鋼の心で敵を駆逐し、以て己が安寧の地を死守すべし”」
「それ、誰の格言?」
「キオスクのおばちゃん」
……満員電車の心得か?
「よぉく考えて?」にっこり笑う。
ポメラニアン。小型犬だよな。生で見たことないけど、小生意気そうな顔で結構可愛い、と思う。だが考慮すべきは“産まれたばかり”だ。産まれたて。誕生直後のポメラ……目が開いてなくて、ぐったりして、湿ってて……。
「……あんまり可愛くないかもな。毛虫みたいで」
「毛虫?」
「毛虫」
僕らは同時に、テーブルの上のそれを見る。僕の肘のすぐ横で、蛇腹に縮んで転がっているそれを。彩はおもむろに僕のグラスからストローを引き抜き、その上にかざす。落ちそうで落ちないコーヒーの滴を、二人、息を詰めて見守り、
ぽと。ぐにに。焦茶色の毛虫が誕生した。
「毛虫ね」
「毛虫だ」
納得する二人。
「スポンジは?」
スポンジ。クリーム抜きのケーキのスポンジ。色は茶色、いや狐色か――ってあれ?
「それ、カステラとは違うのか?」
「ちっちっち」フォーク・メトロノーム。
「じゃなくてつまり――」手つかずのケーキの上半分(苺含む)だけを器用に掬いとり、ぱくり、幸せそうに頬張る彩。「ほおゆふヒョーハヒ」
どうぞ、と差し出された皿の上には――これは何だ、ちぎれた海綿か?
「どう?」
「……割と美味い。けど、可愛くはないな」
「結局、どっちも不可なのね」呆れ顔の彩。「じゃあ次」
「まだあるのか?」
「実は次がメインなの」
「……どんとこい」苦笑気味に。
「ありがと。じゃあね、“昼寝中のチワワ”と――」
「ふんふん」
「――“彼女の誕生日を忘れること”、一体どちらが怖いでしょう?」
凍りつく僕が目にしたものは、極上の天使の微笑。
「よぉく考えて?」
昨日のうちに言ってくれ。
Entry19
ポリープ
ハンマーパーティー
細川中は煙草をもみ消すとマネージャーのすねを蹴った。
「なんでちっとも要領よくならねえんだよ」
マネージャーは頭をさげて何度も謝った。付き人の青年が横目でそれを見て鼻で笑った。
サッカー日本代表の韓国との親善試合は数日後に迫っている。細川中は試合前のセレモニーで君が代を歌うことになっていた。
細川中は立ちあがると付き人に何か声をかけ楽屋を出た。付き人は半笑いで足早に去った。
韓国から大統領が訪れる上に、日本からは天皇皇后両陛下も出席する。
マネージャーは数か月前からストレス性胃潰瘍をわずらっていた。それと声が枯れてきていた。喉にポリープができたようなのだ。しかし治療する時間もなく相談する相手もいなかった。あげくに解雇を言い渡された。細川中の鶴の一声で決まりだった。
実家を飛びだしてこの世界に入り、その間、両親をなくし親戚とも繋がりがなくなり、友人も去っていった。すべてを芸能界のために投げ捨ててきた。
マネージャーは放心状態のまま楽屋の北側にある衣裳用のハンガーかけのバーを掴み、その頑丈さを確かめた。
ネクタイを外し、バーにきつく縛ると首を入れ踏み台にしていた椅子を蹴った。
細川中は慌ただしい中、衣裳あわせをしていた。
「こんな大事な仕事の前に首なんて吊りやがって」
マネージャーが自殺した後、事務所では心筋梗塞で急死ということにして簡単に葬儀をすませた。
サッカー日韓戦で君が代を歌うという大役を任されている。スキャンダルは許されなかった。
細川中は衣裳あわせのころから、喉に少し異変を感じていた。
「喉が少しごろごろするな。ポリープか。また切ればいい。ジャーマネみたいに」
大会関係者が楽屋をノックした。細川中は深呼吸するとスタジアムのピッチに向かった。
スタジアムの約六万人の歓声につつまれ細川中は鳥肌がたった。
国歌斉唄のアナウンスが流れるとスタジアム内に拍手の渦がまきおこり、すぐに静まりかえった。
細川中は大きく息を吸いこんで歌いだそうとした。さっきのポリープのようなものが蠢めいている。
視界に来賓席が入った。自分の喉が思いもよらないことを口走りはじめた。
「×××××! ××××××××! ××××! ×××××! ×××××!!……」
スタジアムがどよめき、大会関係者や警備員が細川中を取り囲んだ。警備員が細川中の襟首を強くつかみ引きずり出した。スタジアムは異様な空気につつまれ、試合は中止になった。
Entry20
四角い人
カピバラ
朝、目が覚めると、四角い人になっていた。驚いて隣を見れば、夫は丸い人になっている。「これは全国的な現象のようです」と、朝のニュースを伝えるアナウンサーは、みまがうことなき立方体だ。どうやら日本中のニンゲンが、四角か丸になってしまったらしい。
通勤電車の中も、都心のオフィス街も、その中にある私の職場も、四角い人でいっぱいだった。たまに見かける丸い人は、なんとも肩身が狭そうだ。整然と並ぶ立方体に紛れ込んだ球体なんて、納まりが悪いに決まっている。夫が困ったことになっていなければよいが、と心配したが、帰宅した夫が言うことには、夫の職場では丸い人が大多数で、四角い人が少ないそうだ。
その後の新聞記事によると、いつも仕事が優先で「忙しい、ああ忙しい」と慌しくしているような人は四角くなり、どんな時でも泰然とマイペースでいる人は丸くなったということだ。なるほど、私の職場で丸くなった人は確かにそういう仕事振りだった。都心から電車で2時間以上も離れた小さな町にある夫の職場は、全体がそんな雰囲気なんだろう。
夫婦の関係は悪くなっていった。丸い夫は、家のあちこちにゴロゴロと転がりまわり、非常に鬱陶しい。ときどき私とぶつかりもするので、危なくてしょうがない。夫は夫で、好きで転がっているわけではないし私の角があたるといつも痛い思いをするのだ、と言う。考えた末、私は家にいる間は綿入れ半纏を着用し、夫も変に転がって行かないよう、体の下に厚い座布団を敷くことになった。面倒だがいた仕方ない。
一方、職場は快適になった。丸い人達は次々に仕事を辞めてゆき、私の同僚は、今では全員が四角い人だ。立方体だけの集団は、隙も無駄もなく効率的で、仕事もやりやすい。家より職場の方が居心地がいいではないか、などと思い始めた矢先に、先輩の川崎さんが離婚した。彼女は四角い人になったが、彼女の夫は丸くなり、形状の不一致が如何ともし難いところにまで達したのだそうだ。私も同じ境遇だと知った川崎さんは、「あなたも早く別れた方がいい」と言った。「四角と丸なんて、上手く行くわけないわ」
彼女の言葉を持余しつつ家に帰ると、夫が洗濯物をたたんでいた。丸い体の下に座布団を敷いている。妻が丸ければ、厚い座布団など必要ないはずだ――。自分の思考に悪寒が走った。
振り向いた夫に曖昧な笑みを返すと、私は綿入れ半纏を着て、一緒に洗濯物をたたみ始めた。
Entry21
テレビがあるんだ。切ってない。
アナトー・シキソ
気分が(突然のことで)。かなり。
窓を閉めてないけど、(何が起きたのか)だったらどうしよう。
テレビがあるんだ。切ってない。雨水でショートしたら(分からない)になるよ。
リモコンばかり(体を包み)すぎる。
誰か(感覚を麻痺させ)てくれないかなあ。
このアスファルトは少し(意識を先走らせる)。
このまま(これ)がやってきて、頭を轢かれたら、パンっと弾けちゃうかな。
とか思ってる今この瞬間に弾けちゃうかな。(ずっと昔からよく知っている)のタイヤで。
大丈夫。(味)もいいし(におい)もいい。人がいっぱい集まって、いろんな(目玉)。
猫、猫、黒い。
黒、黒、猫い。
靴はどうした。
裸足じゃマズイ。
本当のことを言えば事故じゃなくて自殺なのかも。
不思議な音楽が聞こえるけど、(映らないもの)かもしれない。
そして、ちょっと(懐かしい)。
その香りは、独特で、言ってみれば(浮遊感)だ。
裸足で当然。
靴を履いてるわけがない。
だって、毒になる。
溺れる。
肺は魚の浮き袋。
吸い込むのは、空気ではなく水。
「時間が来た」
そう言って、俺を池から引き上げた奴には目玉がなかった。
顔に二つ、穴が空いているだけだ。
「悪い雨。問題は多い。温めれば冷たい。車は上等」
目玉のない顔が俺を見て言う。
「眠り。そして、目覚め」
目玉のない顔が黄色い歯でニッと笑う。
「原因が許せない」
首を振る。
「サイレンがうるさい」
今度は頷く。
それから、黄色い耳栓を二つ、俺の耳に勝手に差し込む。
耳栓から、どんぐりころころの歌を囁く声が聞こえる。
俺は目の前の顔の、二つの穴の奥に小さな人影が蠢くのを見る。
目玉のない顔が口を動かし、首を振る。
俺にはどんぐりころころの歌の囁きしか聞こえない
また口を動かし、同じように首を振る。
耳栓の俺に、目玉のない顔の声は聞こえない。
「ところで、あなたの肺には首まで水が溜まってるのよ」
そうだ。俺はさっきから息をしていない。
「時間の問題を解決しなさい」
女の手が俺に石ころを一つ手渡す。
俺は、だるい腕で、石ころを、なんとか、池に、投げ入れる。
石ころは、一旦水面にペタンと貼り付いてから、ゆっくりずぶずぶと沈み始める。
「重大なる錯誤!」
突然、目玉のない顔の声が、耳栓をした俺の耳に聞こえた。
「お前の石が水底に届くことは、決してない!」
目玉のない顔はそう言うと、いきなり俺の両肩をきつく掴んだ。
奴の、顔にある二つの穴から水が一気に溢れ出す。
肺に溜まった俺の水だ。
Entry22
古城にて
るるるぶ☆どっぐちゃん
老婆が姿を現したのは二日前のことだった。
老婆は、その痩せた両腕を前に突き出し、よろよろと歩いていた。今その手は少女に引かれ、老婆はゆっくりとだが真っ直ぐに歩いている。
「ここが厨房よ。こっちが」
「覚えているよ」
老婆が答える。
「階段だろう?」
「その通りよ。これで大分覚えたわね」
「ああ」
老婆は返事をした。老婆の瞳はせわしなく動いていた。その動きには何処か悲しげな規則があった。良く見れば彼女の瞳は白く濁っている。
老婆はめしいだった。
「ここは随分良いね」
老婆は言った。
「随分色々な所で働いたけど、この城は良いね。広々としてて」
「そうね」
少女が答える。
「それに作りもとても複雑で」
「うん」
「ここの王様は随分立派な方なんだろうね」
老婆の言葉に、少女は何かを言いかけた。
だが少女の声は別の声に阻まれる。
「どう?」
声は頭上からだった。
「うん。もう大丈夫よ」
「全て覚えましたです」
「そう。じゃあこっちへ」
「お婆さん、こっちよ」
「そうかい」
彼女達は声の方へ、一段ずつ昇り始めた。
「ここは良いねえ本当に。こんなに良くして貰うのは、産まれて初めてだ」
「そう」
「頑張って働きますよ」
彼女達はたっぷり時間をかけ、昇った。
「ようこそ」
昇った先には少年が一人居た。
「今日からここがあなたの部屋です」
「どうぞ、お婆さん」
少女が老婆から手を離した。
老婆はよろめきながら歩き出した。数歩進み、彼女は椅子に辿り着いた。
「座って良いですか。足が、随分悪いんで」
「どうぞ」
老婆は椅子に腰掛けた。想像以上の固く冷たい感触だったが、彼女はそれについては何も言わなかった。座れるだけで良かった。
「今日はこれで。おやすみなさい」
そう言って少年達は老婆から離れた。
「泣くな」
「でも」
「すぐにきっと全てが良くなる」
少年は少女から目を逸らし、そして振り返った。
視線の先は瓦礫の山だった。見渡す限りの灰色。そしてその天辺に見える黒く冷たいシルエット。
玉座に座るめしいた老婆。
「王様は、一体何処に行ったのかしら」
少女はすすり泣きを止めようともしない。
「前の王のことは言うな。考えてみても仕方が無い」
「でも。あのお婆さんにも悪いわ、騙して」
「すぐにきっと良くなる」
瓦礫の向こうには道があった。道は夕闇の彼方へ、何処までも続いているように見える。
「すぐにきっと良くなる」
少年はその道から視線を逸らしながら、そう呟いた。
Entry23
コップの嵐
さゆり
花がある。
窓辺に花がある。
一等いい場所に置いてある。
その名はサイネリア。
あなたがあの遠くの街に転勤になってからというもの、すっかり早起きになったアタシです。真冬でも三時半起床なんて!
いやいや。アタシのことはいいのでした。大変なのはあなただった。新しい勤務地に配属されるとあなたはしばらくは顔がきつくなるよ。知ってた?その街の地理を覚えるまではおちおち頭を高くして眠られないって顔してさ。
休みの度に車を走らせ自分なりの地図を作り地理を頭に叩き込んでいたね。「給料貰っているんだから当たり前」ってあなたは言うけれど、アタシは怠けモンだから頭がずずーっと下がりっぱなしだったよ。だけど実際、火事や救急が発生したら「転勤してきたばかりで」なんて言い訳通用しないもんね。
あの日あなたが大きな鉢植えを抱えて帰ってきて、アタシに一通の手紙を差し出したときにね。差し出す時に一瞬ためらったの、分かったのよねアタシ。長いこと夫婦やってるんだもの。そりゃあね。
読み終えて顔を上げたら、黙って見ていたあなたの瞳にぶつかった。畳んで封筒にいれて返す時顔が引きつらないように気をつけたけど、大丈夫だったかな。
だってあれはまさしく恋文。好きとか愛してるなんて一言も書いてない。けど行間から滲みでていたよ。秘すれば花ってヤツ。思いはこぼれるものなのよ。白い花模様の便箋。綺麗な字だぁ。どうぞ頑張って下さいませ、と結びの言葉。
ませませませ?かぁ。
世の中には、仕事を家庭に持ち込まない男性も多いみたいだけど、あなたは違うよね。家の中にばかりいるアタシに、仕事で起きたさまざまなこと、面白おかしく教えてくれる。ちょっぴりの愚痴もたまにはあって、妻としては嬉しい限りです。勿論、ここまで!の線引きをしていたのは分かってた。他に流しても許されるセレクトした話題だ、ってことはね。でも。
一度も聞いたことなかったな。この手紙の主のこと。30代後半で、父親の介護をしていた独身女性で。署の隣に住んでいて、一昨年父親がなくなってからは一人暮らしで。大雪の時除雪してあげたのが縁で言葉を交わすようになったって?
転勤祝いって普通花束でしょうに。
「ワタシはサイネリア」手紙の冒頭にあった。
ワタシは彼女の身代わりか?
花がある。
その名はサイネリア。
水を欲しがり花弁は下を。
媚びてるように下を向く。
Entry24
記録への挑戦
さとう啓介
その日も電車は混雑していた。いつもの車両に僕は気合いを入れて潜り込む。
一度閉まれば身動きなんて出来ない。それがこの通勤列車である。逃げる事の出来ない肉圧の十五分間。僕の戦いは始った。
(うっ、痛ってー!)
四時の方向に太っとい鞄を抱えた女子高生が、僕の横っ腹にその角を突付ける。僕は身体を捩らせ右の肘で鞄を腰の位置まで押しやる。女子高生も負けじともう一度上げようとするが、僕の肘が邪魔をして上がらない。
(ふふ、無理だって)
女子高生の顔を目尻に捕えながら鼻で笑ってやる。
今度は十二時の方向のおやじが、立ち寝をかまして頭を後ろにコクリつく。
(こいつー、鼻にハゲが移るじゃねーか)
僕は少し自由の利く左膝でおやじの後ろ膝にカックンをかませた。おやじはガクッと落掛るとともに、僕の顔面に後方ヘッドパッドをかまして来た。
(痛たっ!)
声は出せない。それがルール。
僕は鼻にツーンとくるのを我慢して、涙目のままおやじのケツを抓った。
「ホッシュッ!」
おやじは奇声を上げてしまった。三時の大男と九時の女性の冷やかな視線。
(ざまー見ろ、奇声はレッドカードだぞ!)
むむっ、三時の大男?
臭い? 腋臭だ。酷過ぎる。揺れで少し腋に隙間が出来ると、僕の苦手な魚の生焼けの様な匂いが漂ってくる。思わず右拳でそいつの腰を押す。
その時だ、九時の女性が尻を僕に押付けてきた。
悶々と僕の下半身がやばくなる。僕は唇を噛み締めながら絶える。尻はぴったりと太股に吸い付き逃れられない。
腋臭と悶々の一騎打ちだ。
(だめだ、やはり悶々には勝てないのか。……羊が一匹、羊が二匹)
更に四時の女子高生が胸を押付けてくる。
(うっ、この感触は? ……羊が二十匹、羊が二十一匹)
張りのある胸が、僕の悶々を増殖していく。甘酸っぱい香りがグルグルと回り、僕のタコメーターがレッドゾーンを射し始める。
(羊が三十五匹、羊が三十六匹。だめだ、このまま逝って……。うッ!)チーン!
僕の脳が淡々と言う。『四十秒〇三、半夢精早漏ノ新記録デス』
――電車が右に大きく揺れた。おやじの頭が右へ、僕の身体も右向きへ。女性の尻が僕の尻、女子高生の胸は肘からさよならして、大男の腋が目の前へ……
新たなる戦いが始った。
僕は今、呼吸を止められている。男の腋に顔を埋め、あと数分で開くその扉をじっと待っている。頑張るんだ、次郎!
辺りが黄ばみ、僕の意識は遠のいていく。
Entry25
髪切り魔
ごんぱち
列車が通勤客を乗せ、走る。
雑然とした車内のドア際に、一人の女が立っていた。通勤客の間で、所在なさげに手すりに掴まっている。
歳の頃は二十四、五。ほっそり、というよりも痩せこけ青ざめた顔と、ぎらりと光る目をしていた。
その視線は虚ろで、中吊り広告にも窓の外の景色にも留まっていない。他の乗客と同じ様に、ただ列車の揺れに身を任せ、到着駅のこと以外は全く関心がないかのように、立ち尽くしていた。
ほどなく、窓の外の景色がゆっくりと動かなくなっていく。
ブレーキの音と、こすれた鉄の臭いを出しながら、列車は駅に止まった。
『二俣川ー、二俣川です、いずみ野線はお乗り替えです――』
女が立っているのと反対側のドアが開き、二名の客が降り、その数倍の客が乗り込み、車内はまた少し窮屈になった。
自分の空間が減ったからか、それとも別の理由からか、女は僅かに眉をひそめる。だがすぐに、元の無表情に戻り、視線を虚ろに漂わせる。
『ドアァ閉まりまーす! 閉まるドアにご注意下さい』
列車は再び走り始めた。
終点間近の列車から見える街並みには、樹も河もなく、ただ直線の多い、灰色の住宅ばかりが続いていた。
数分ほど走った頃、揺れに均されるかのように、乗客の一人が流され女の側に来た。長い髪の女子高生だった。
女子高生の後頭部が顔に当たりそうになって、女は少し身体をよじる。
だが、狭い車内に大した退避場所があるでもなく、せいぜい十センチの距離が二十センチになった程度だった。
女は諦めた様に顔を上げる。目の前で、女子高生の茶色く長い髪が揺れていた。不用意に脱色と染色を繰り返し、ばさばさになった髪は、安っぽいコロンと体臭の混ざった臭いを発していた。
列車がスピードに乗った頃、女は手すりから手を離した。
そして、自分のバッグに手を入れる。
取り出したのは、鋏だった。
鋏の鋭い刃を、ゆっくりと髪に近付けていく。
気付かれぬ様、悟られぬ様。
髪が鋏の刃の間に入り、切断される一瞬前。
気配を感じたのか、女子高生が振り向く。
悲鳴が、車内に響き渡った。
「――ストレスが、溜まってたんです」
椅子に座った女は、俯く。
「ストレスってなぁ。それで全部許されるってもんじゃねえんだぞ」
黒いコートの刑事は、女を睨む。
「事もあろうに電車ん中で。どれだけ迷惑が掛かったか」
「はい……」
女は表情なく俯く。
不格好に切った自分の前髪が揺れた。
Entry26
マルボロ
Ruima
「能代、煙草って美味しい?」
放課後の生徒会室、書類の陰に隠していたマルボロの箱を拾い上げ、百瀬が尋ねた。念の為ドアからの壁としている新聞越し、残り僅かになっていた煙草を、灰皿代わりの空き缶に押し付ける。
「吸いたかったら、吸っていいけど」
「遠慮しとく。というか、答えになってない」
「美味しくないよ。けど、俺は好き」
「ふーん。……今日、他のメンバーは?」
「木戸と有多は体実に出向中。高原は風邪で学欠、住吉は学年行事」
「じゃあ、能代と二人きり? 最悪」
どこか刺のある口調に、思わず苦笑する。
「俺、何か悪いことしましたか?」
「生徒会長の喫煙は悪いことじゃないんですか?」
機械的な調子で返され、言葉に詰まる。どうやら、女王様は本格的に機嫌が悪いらしい。
「何かあった?」
「……演劇部との交渉でまた、顔で選ばれた会計長呼ばわりされたわ」
悔しげに言った百瀬の拳に、力が込もる。握られたままだったマルボロの箱が、ぐしゃりと音を立てて潰れた。
「そんな中傷、無視しとけよ。百瀬、普通に成績いいんだし」
「あんたに言われたくない、その台詞」
「いいから自信持てって。百瀬は、この俺が、会計長として選んだんだから」
卑怯は承知で笑みを浮かべれば、案の定、百瀬の眼差しが更に厳しくなる。
「……自信家の上に、嘘吐きね」
その言葉の意味がわからないほど、俺は馬鹿でも鈍感でもない。けれどそれを否定してあげるほど、性格が良くもない。
数秒の沈黙の後、百瀬は「最悪」と吐き捨てて、形の崩れた箱から折れ曲がった煙草を取り出した。
「やっぱり、一本貰うわ」
火を貸してやると、百瀬はゆっくりと煙草を口に咥えた。そして、一回吸い込むや否や、勢いよく咳き込む。
「何これ、まずっ!」
「ああ、煙草は慣れだから」
「こんな物、慣れたくないわよ! あーもう最悪。騙された!」
苦笑しつつ罵倒を聞き流す。それからしばらくして、百瀬が静かになったタイミングを狙い、俺は口を開いた。
「百瀬」
「何よ?」
「きっかけが何にしろ、今、百瀬は俺達にとって必要な人材だよ」
一瞬、唖然とした表情で俺を見て。それから百瀬は、真っ赤な顔で俺に煙草の箱を投げつけた。
「そんな事、言われなくてもわかってるわよ!」
百瀬はこういう所可愛いよなあと微笑して――ついでに、百瀬は俺のこういう所が嫌いなんだろうなと考えて――俺はくしゃくしゃになったマルボロの箱を、ポケットに押し込んだ。
Entry28
対話の時間
narutihaya
無人島で迎える様な静かな夜に、ホテルの一室で僕は彼と語り合っていた。毎週の様に訪れるその時間は、僕にとってとても貴重なものだった。
「昨日、美容院に行ってきたんだ」
僕は彼に見せたくて、洗わないままにしておいた髪を撫でながら言った。
「人が苦手なくせに、髪を切ってもらうのは平気なんだね」
彼は僕の髪を見ようともせずに、言った。
「おもしろかったよ。世の中にはいろんな世界があるんだなあって」
「いろんな世界?」
「うん。ある面で、あれは僕にとって新しい刺激をもたらすものだった」
彼はため息をついて、言った。
「美容院に行っただけでそんな風に思えるのは、君ぐらいのものだろうね」
彼の言う事はいつもどこか皮肉めいている。
「話したい事があるんだけど」
僕は言ってみた。彼は「どうぞ」と無言でうなずいた。
「最近、世の中には僕みたいに引きこもっている人が結構いるんだけど、それはある面で、とても理にかなった事だと思うんだ」
「まあ、働かないでいいというのは、理にかなっているかもね。ある面で」
彼は「ある面で」というところをわざと強調して言った。
「いや、僕が言いたいのは、今の社会はあまりにも細分化され過ぎているという事なんだ。効率を求めるあまり、人と人との関係性までも細分化してしまってるんだよ。現代における他人とのコミュニケーションは、相互理解というよりは、実は価値観の取捨選択にしか過ぎないんだ」
彼は腕組みをして、しばらく考えてから言った。
「つまり、矛盾した社会の発展が、人の関係性の病理となって現れているという事かい?」
僕は思わず、彼の目を見つめた。そうなのだ。彼はいつだって僕の思うところを正しく理解してくれる。僕を分かってくれるのは、彼だけなのだ。
「その通り。そして、矛盾から身を守る為に、僕らはある新しい関係性へと身をゆだねるんだ。例えば、僕らはネット上で複数のハンドルを使い分けている。まるで、多数の人格をもっているかの様にね。分かるかい。これは、新しい時代のコミュニケーションを示唆しているんだよ」
彼はしばらく黙り込んだ。そして、決意したかの様に言った。
「よく分かるよ。人は自らを守る為に、部屋に閉じこもる。そして、複数の人格を使い分ける」
彼は今までに見た事もない、悲しそうな表情で僕を見つめた。なぜ、そんな顔をするのか、僕には分からなかった。彼は続けた。
「今の君の様にね」
鏡の向こうで、僕がそう言った。
Entry29
非情のライセンス
紺野なつ
神社の境内を満開の桜が埋め尽くしていた。遥は何度も綺麗ねと言ったが、今から別れ話をするつもりの俺には綺麗だと感じる余裕は無かった。
遥はダーツ投げの露店の景品が欲しいと言った。それはキスをする少年と少女の人形で、的の中心の点のような部分に命中しなければ貰えなかった。絶対無理だと思ったが、今日は遥の言う通りにしてやると決めた俺は店番のヤンキーに金を渡した。
ダーツを構える俺を遥がキラキラした目で見ている。遥ほど俺を愛してくれた女はいない。それなのに捨てるのだ。俺は2ヶ月前から社長の娘と交際していた。彼女は容姿も家柄も遥より優れていた。その上、絶対に出世できる特典まで付いていた。
迷う事はない、非情になれ! 俺は自分に言い聞かせた。
「すごーい」
遥の歓声で我に返った俺は、的のど真ん中にダーツが刺さっているのを見た。喜ぶ遥にヤンキーが、どっちにすると聞いた。人形はセットではなかったのだ。落胆した遥は少年を選んだ。その時、横で見ていた子供の声が聞こえた。
「女の子、独りぼっちになっちゃった」
俺達は顔を見合わせた。しょうがないよ、と寂しそうに遥が言った。俺は取り残された少女の人形を見た。恋人に去られた人形は、誰かに貰われる日が来るまで独りで露店に並ぶのだ。
「……もう一回だ」
俺はヤンキーに言った。
どれくらい投げただろう。俺の前には残念賞が山積みになり、財布の中は空っぽになっていた。遥は私が出すと言ったが、別れる女から金を受け取るわけにはいかなかった。俺はポケットを探して、やっと五百円玉を見つけた。これが最後だ。俺の入魂の一投は!
大きく外れて的の外に消えた。
がっくりと肩を落としていると、ヤンキーがオマケだと少女の人形を差し出した。俺にはヤンキーが神様に見えた。しかし、次の瞬間、俺は目を疑った。ヤンキーが大きなビニール袋から同じ人形を取り出して棚に並べたのだ。袋には同じ人形が一杯詰まっていた。少女の人形は独りぼっちではなかったのだ。代わりは幾らでもいたのだ。
「良かったね」
呆然と立ち尽くす俺に、二体の人形を抱き締めた遥が言った。
「同じ人形は沢山あったけど、この二人は恋人同士だったんだよ」
涙が零れそうになった俺は遥を置いて歩き出した。追い掛けてきた遥が何も言わずに俺の手を握る。
ダメだ、非情になんか成れやしない。
俺は遥の手を強く握り返した。
見上げると、桜が綺麗だった。
Entry30
Project-M
IONA
6月2日。
仕事を終えて駅についた頃、一本の電話が掛かってきた。
「例の物が輸送中に消えた」
男の声だった。すぐ行く、とだけ言い、武田は向きを変えて銀座線のホームを目指した。
----あれがなくなったら、大変なことになる。
武田は最悪の事態を思い浮かべていた。ああ、あれがどこかの誰かに見つかりでもしたら…。
5月29日。
都内のあるオフィスの会議室に、武田はいた。何かの図が描かれたホワイトボード、そして正面にはどこかの大陸の地図がスライド投影されていた。
「問題は」室長が口を開いた。「“殻”だ」
武田はある研究チームに所属していた。大学時代に専攻していた有機材料工学は、武田に2つの道を与え、武田はその両方をとった。ひとつは一般企業への就職、もうひとつはこの研究チームであった。
この研究チームでは、プロジェクトの性質上、このチームの存在すら他人へ口外することは厳禁だった。自分のものとは別に携帯電話を持たされ、日常的に「出勤」する必要はないものの、曜日や時間に関係なく研究室に駆けつけねばならないことになっていた。
「“殻”は自然に破られねばならない。そして伸縮性を備えていなければならない。つまり、ゴムやプラスチックでは意味がない」
室長は武田を一瞥した。
「そこで」室長は続ける。「この素材が選ばれた」
スライドがカシャリと音を立て、いびつな球形をした【素材】の写真が表れた。表面はざらざらしているらしく、球の片側には、自然に割れるのを補助するための切り込みが、縦に整然と入っていた。
----美しい。
武田は溜め息を漏らした。これほどまでに用途として適合している素材は、世界中のどこを探しても二つとないだろう。そして何より、そのデザイン。流線型、最上部には独特の突起、そして、最下部は平面になっている。
「これほど安定性に優れた素材はない」
室長が、武田の思っていることと全く同じことを口にした。
----輸送さえうまくいけば、あとは成熟を待つのみだ。
武田は、無意識に机をこつこつと指で叩いた。
---昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が、どんぶらこどんぶらこと流れてきました。おばあさんは家にその桃を持ち帰りました。すると、中を割って開けるまでもなく、桃は「ひとりでに」開きました。
Entry31
【one day】
inja
――雪が降ってる。音も無く。空はなんか灰色で、世界も、どこまでも灰色と白の世界。
僕はバスを待ってる。高校の入試の日だった。
ずっと今日まで生きてた意味が、この試験で決まるような気がして、なんか変に沈んだ気分。
(バスが来なければいいのに…)
そうすれば、ずっと今のままの日々が続くような気がした。
勿論、結局バスは来るし、結果も出る。それは分かってる。
それでも…どこかで、認めたくなかったんだと思う。
「あの、すいません…」
聞き覚えのない女の子の声を、幻聴で聞くはずがない。
「……僕?」
そう気付いて振り向くと、たしかにそこには女の子が一人立っていた。聞こえないくらい小さな声で、
はい…と呟いている。
背の低いコだった。僕も人のことは言えないけど、それ以上に。
「…雪、積もってますよ。」
そう言うと、そのコは手を伸ばして、僕のカバンに積もった雪を落とし始めた。
(あの…)
よく分からないまま、仕方なく雪を落としやすいように背を向ける。
僕は、傘を持っていなかった。だから雪だって積もる。でもそれは些細な問題で、
僕にとっては、どうでもよかった。
問題はこのリアクションというか、どう反応していいのかまったく分からないことだった。
彼女は、黙々と積もった雪を払っている。
3秒ぐらいだったのだろう。雪を払うだけなのだから。
その間に、僕は結構色々な想像をしてた。結局焦って、全部忘れたけど。
「よしっと…」
そんな声が聞こえて、僕はしょうがなく振り向いた。頭の中は真っ白だったけど。
「もう、大丈夫ですよ。」
天使のように純粋な笑顔だった。息が白い。僕も彼女も、頬が赤かった。
世界は、いよいよ白い雪に全部染められている。
「あ…ありがとう…」
慌てて、嘘っぽい笑顔を顔に張りつける。
多分、彼女のと比べたら、えらく無様なんだろうなぁ…と思いながら。
それから、バスが来るまで少しだけ話した。
彼女が同い年で、その日同じ高校を受けるという事が分かって、何となく嬉しかった。
やがてバスが来る。他の受験生も乗っていたから、僕等はバラバラの席に座った。
バスを降りて会場に向かう時に一言だけ、
「がんばろうね。」
と言われた。なんて返事をしたかは憶えていない。
結局、それが僕と彼女の話した最後の言葉だった。
*
「倉井瀬ぇー?」
聞き慣れた友人の声がする。
「授業、始まるぜ?起きやがれって」
「あ…うん。悪いね。寝てた…」
「恩に着れよ?」
「ははっ…」
彼女も僕も、この高校にいる。けど…
「…3年間、一回もクラス一緒にならないんだもんなぁ…」
「……は?」
空は高く、ずっと広いまま僕等を包んでいた。
Entry32
海渡る船霊
Began
「幽霊船、かなあ」
この場合どちらが現実的だろう。それが幽霊船であるというのと、ちっぽけな木製の船が十年も漂流し続けていたというのと。
「どうだろう」
姉に、曖昧な言葉を返す。
それは祖父の船に間違いなかった。十年前の、祖父の一回忌のとき。この島の慣わしで、祖父の魂を模型サイズの船に乗せ海へと送った。波頭を押さえつけ勇ましく渡る後姿を覚えている。その帆柱には、姉と二人で作った十羽の折鶴が結び付けてあった。
「おじいちゃんの魂が帰ってきたんだ!」
姉は無邪気にはしゃいで波打ち際に駆け寄った。
東京に住む私たちは、年に一度この島に来るぐらいだった。必然的に、早く生まれた分だけ姉のほうが祖父によくなついていた。
祖父とよく花火で遊んだ、この広い砂浜には、普段は波が音を立てて打ち寄せている。不思議なことに今日ばかりは、ひっそりと静まり返り、その船を揺らす波もない。
おじいちゃん、姉が船に呼びかける。しかし、船からの返事はない。
明らかにその船は死んでいた。
脳裡に、いつもの波音が蘇る。
死後の世界を見ている、聴覚とのずれがそんな錯覚を抱かせる。闇の冷たさが、急に体を包み込む。
「おじいちゃん…」
困ったように姉が振り向く。それでもやはり期待を秘めた顔つきだ。
「近寄らないほうがいい」
姉はすばやく反応した。小さく唇を結ぶ。抗議的な目。
しばらく視線を合わせていたが、つんと反対を向いてしまった。
思い出は、生きているのか死んでいるのか、その場を動かない。この状況で、私たち姉弟は、きっと同じことを思い出している。
まだ幼く、些細なことで背を向け合った頃の二人。花火の取り合いもした。祖父は二人の間に腰を下ろし、海を見つめて話を始めた。それは、漁の話であったり、海にまつわる不思議な話であった。そうしていつの間にか三人は並んで座っているのだ。
いつの間にか、姉と私は、二人並んで海を眺めていた。
二人の間に祖父はいない。けれど、二人を包み込むようにして、いや、もっと大きく、その場を丸ごと包み込むかのようにして祖父がいた。温かい何かがそこにあった。
私はそれをいとおしく思った。姉も、そして祖父も、いとおしく思っている、そう確信できた。
思い出はその場を動かないけれど、死はきっと流れゆくものだ。
船は生きていた。祖父の船霊は、まだ生きていた。
その証拠に、私たちの目の前に、あの船はもういなかった。
Entry33
サイネリア
aluma
街に今年最後の雪が降った。
真っ白な雪だ。積もるのかもしれない。
久美が血を吐いた。
真っ赤な血だ。
もしかすると、あしたの朝にはもういないのかもしれない。
そっと息をひそめる街があって、そこを駆ける僕がいる。冗談みたいに寒い。鼻が痛い。
でもきっと、この白さは寒さの象徴なんかじゃなくて、美しいことの証なんだ。
誰かの言葉の引用のように思った。
......世界は美しい。だから、僕たちは生きていられる。
そんな素敵なことをいまさらながらに思ったりもした。
病院もまた、白く、だからこそ美しかった。
おばさんとおじさんと、きっと優秀であるはずの医者がいて、僕は一人病室に入ることを許された。
......なにも、僕に期待しないで下さい。
いえなかったし、心からの言葉だった。
終着点が病室というのは形式的過ぎて、彼女らしくない。もしかすると、それが狙いなのかも。
目が合うなり久美はゲラゲラ笑った。
「マジな顔が似合わねえー」
口を半月みたいにあけて、目を三日月みたいに曲げて、細い腕をばんばん振り回して。少し失礼じゃないかなあ? でも、それが彼女の輝きのすべてなのだからしょうがない。
「これ、プレゼント」
「なに、花?」
紫色の鉢植えは、心臓に似た葉を持つ。あんまり綺麗じゃないけれど。あんまり好きじゃないけれど。
「シネラニア」
死ねラニア。
縁起が悪いから、大抵の人は別の名前で呼ぶ。
サイネリアと。
「ぷっ」
ウケた。
久美はまたひとしきり笑い、悪い咳を始め、それが止むころにはすっかり死を待つ病人の顔になっていた。
いったい何が欠けたんだろう。
「ねえ」
「ん?」
「そういえば、小学校のとき、私が盲腸で入院したときもそれ、持って来たよね」
「そうだっけ?」
「そうだった」
雪はまだ降っているのだろうか。きっと降っているのだろう・・
さっきまで聞こえていたおばさんの泣き声も、もうしない。パイプ椅子だって、音のひとつも立てない。
停滞した空気が、僕たちを閉じ込めた。
......こんなにも逃げ出したいのに。
死にたくない?
うん。
死んでほしい?
うん。
好きよ。
嫌いだよ。
いつの間にか眠っていたらしい。
目が覚めると、うすい光が病室を照らしていた。朝が来たのだ。
パイプ椅子を鳴らして立ち上がる。あちこち痛い。僕はカーテンを開けた。
「ほらね、積もってる」
そして、久美は死んでいた。
またね、と。
|