第49回1000字小説バトル

エントリ作者作品文字数
青野 岬夕化粧1000
鈴矢大門良く晴れた午後に風送り1000
越冬こあら透明な階段1000
第1素描室十二夜1000
空人お守り、ラブソング1000
犬宮シキ夏に関する嫌がらせ・草案1000
満峰貴久団塊の世代1000
浅田壱奈無敵の虫1000
(作者の要望により掲載を終了しました)
10橘内 潤『気懸かり』978
11棗樹嵐が森I1000
12松田めぐみ感情1000
13日向さちすいかのめいさんち1000
14山本 翠(やまもと すい)融合1000
15夢追い人落ちていく果実1000
16土筆写生旅行1000
17佐藤yuupopic失う1000
18伊勢 湊ナイトスター・リリー1000
19中川きよみ夏の日とナイフ1000
20(作者の希望により掲載を終了いたしました) 
21ハンマーパーティー山道にて1000
22カピバラ官能小説家1000
23アナトー・シキソ休む。疲れた。さすがに疲れた。1000
24るるるぶ☆どっぐちゃんチャック1000
25もふのすけ兄弟931
26ながしろばんり機関車唐茄子1000
27さとう啓介雨音の中1000
28ごんぱちプロメテウスの消し炭1000
29IONA肩たたき券を、心から。1000

バトル結果ここからご覧ください。

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Entry1
夕化粧
青野 岬・・・・・



 母親が鏡台の前に座り、化粧道具に手を伸ばす。
 夏の強い日射しが少しだけ和らいで、時おり吹く風に軒下の風鈴が揺れる。裏の林から聞こえて来る蝉の声が、夕方の気配を纏って山里の集落にこだまする。
 少女は縁側に座り、化粧をする母親の背中を見つめていた。夜の仕事をしている母親は、いつも決まった時間に化粧を始める。その頃になると庭のおしろい花がいっせいに咲き出して、甘い香りをほのかに漂わせる。
 赤、白、ピンク、黄色、絞り模様……色鮮やかな花達は夕刻には色で、そして夜になると香りで、虫達を引き寄せる。
 母親は真っ赤な口紅を塗り終えると、綺麗な小瓶に入った香水を白いうなじに軽く吹き付けた。おしろい花の淡い香りは、香水の強い匂いに瞬時にかき消された。
「それじゃ、行って来るからね。おばあちゃんの言うことをよく聞いて、いい子でね」
「うん」
 母親は少女の元に歩み寄り、少し汗ばんだ少女の頭をやさしく撫でた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 少女はおかっぱ頭を揺らしながら立ち上がり、美しく着飾って出かけてゆく母親の後ろ姿を見送った。夕焼けが西の空を茜色に染めて、遥か遠い山の稜線を黒く浮かび上がらせていた。

 過去に一度だけ、少女が夜中に目を覚ましたときに母親が帰宅したことがある。母親はコップに注いだ水を一気に飲み干して、深いため息をひとつついた。泣いているみたいだった。
 何故だか母親に話し掛けるのがためらわれて、少女はそっと部屋に戻り布団を頭までかぶった。小刻みに震えていた母親の横顔が瞼の裏に焼き付いて、その晩はなかなか眠ることができなかった。

 少女は片足でケンケン跳びながら庭をまわり、ふいにおしろい花の前で立ち止まった。そして自分の背丈と同じくらいの位置に咲く花をじっくりと眺めたあと、花をむしり、色とりどりの落下傘を作っては庭に放った。
 ひととおり落下傘を飛ばし終えると、今度は小さな黒い種を採って縁側から部屋へ駆け上がった。さっきまで母親がいた鏡台の前に座る。そこにはまだ、香水の残り香が漂っていた。
 少女は指先に力を込めて種を押し潰した。黒い皮が割れて、中から白い粉が溢れ出す。少女はその白い粉を人差し指で軽くすくうと、日に焼けた柔らかな頬にそっと塗りつけた。

 庭先の虫の鳴き声が、薄暗くなった部屋の中に忍び込む。迫り来る夕闇の中で艶やかに咲き誇るおしろい花が、生温い風にぼんやりと揺れていた。



Entry2
良く晴れた午後に風送り
鈴矢大門・・・・・



 僕には、5年来の友人がいる。今でも同じ学校に通って、一緒に受験生なんてやっている。その友人が今日、自習時間に、風送り、というものを教えてくれた。ここに友人の話を引用しておく。
「風送りっていうの、知ってるか? 嫌なことがあったとき、ダメな自分に嫌気がさしたとき、その度に一枚、どこかから葉っぱを失敬して来るんだ。で、良く晴れた日の午後、その葉っぱを飛ばしながら歩く。いらいらを飛ばすようにってね。」
 そこで、今からそれを試してみようと思う。今日は帰り際に、なぜか意味もなく生活指導の先生に髪の色を注意された。自毛なのに。だから、そばに生えていたハルジオンの葉っぱを一枚失敬させてもらった。今日は天気が良い。早速、風送りをやってみよう。

ぽとり、

と、ハルジオンの葉っぱは飛ぶことなく地面に落ちた。なんだこりゃ。

 翌日、友人に風送りについて尋ねてみた。ここにその返答を引用しておく。
「ああ、やってみたんだ。葉っぱ、飛ばなかった? そういうときは水流しに変えるんだよ。水の上に葉っぱを浮かべるんだ。」
 そこで、その日にまた僕は水流しをやってみることにした。昨日のリベンジだ。今日もハルジオンの葉っぱを頂き、学校の堀に流してみる。

ぽとり、

と、ハルジオンの葉っぱは、水の上を少しだけ流れて藻に引っかかった。おいおい、またかよ。

翌日、友人に水流しの報告をした。ここにその言葉を引用しておく。
「そんな藻のあるようなところでやっちゃダメだよ。おっきい川でやってみな。出来るだけ流れの速くて、葉っぱが流れるのを見守れるような所がいいな。」
 そこで、今度は学校のそばにあるけれど、僕の家とは正反対にある大きな川に来てみた。こうなりゃ意地だ。流れの速そうなところを探して今日もハルジオンの葉っぱを一枚、そこに浮かべてみる。

ぽとり、

と、ハルジオンの葉っぱは、こんどは何にも引っかかることなくどんどん流れてゆき、やがて見えなくなっていった。やっとここ最近の厄介ごとを片付けた。よっしゃ。もう、何がきっかけだったかなんてどうでもいいや。とにかくやり切ったぞ僕は。妙な達成感が僕を包んだ。

翌日、友人にそのことを報告した。ここにそのコメントを引用しておく。
「ね、ほら、すっきりしただろ。良く晴れた日の午後には、風流しが一番だよ。最近勉強煮詰まってたみたいだし、息抜き息抜き。」

 彼は、僕の5年来の友人だ。僕が彼を好きな理由は、以上だ。




Entry3
透明な階段
越冬こあら(M)・・・・・



 気がつくと私はかなり広い場所にいた。
「いつからここにいるのだろう」そして「どこから来たのだろう」
 別に酔っているわけでも、眠っていたわけでもないはずだが、自分がどうやってこの場所にたどり着いたか、はっきりとした記憶がなかった。
「透明な階段」ふと薄い記憶の断片が浮かぶ。透明な階段……そうだ、私は透明な階段を上がって来たのだ。大急ぎで、ポンポンと……。

 いつもの時刻のいつものホームは、いつもより混んでいた。電車はなかなか現われず、人波に押しやられたホームの端に、透明な階段があった。私は一段目につまづいてその存在を知らされた。
 一昨年、すべてのホームにエレベーターが設置されたばかりなのに、今度はこんなものを設置して、差別化を図っているのかと、電鉄会社の貪欲さに頭が下がった。頭が下がっているうちに三段目から四段目へと足は階段を上がっていた。
 透明度の高い強化プラスチックか何かで出来ているらしいその階段は、光の加減でうっすらと見えなくもなかった。幅は五十センチ程。手すりがないので軽い恐怖を覚える。ということは、心地よいスリルを味わうことも出来る。どこまで続いているかと見上げても、うっすらと見えているのは四、五段先程度で、後は全く透明だった。十メートル位上った私は、子供の頃に戻ったような好奇心と冒険心から、もう上昇を止められなくなっていた。
「駅ビルの七階にあるレストラン街にたどり着く」というのが私の予想だった。見えない階段に列をなしてレストラン街に向かう人々は、絵としてもきれいだし、かなりの宣伝効果が期待できるだろう。
 しかし、七階といえば二十メートル以上の高さがあり、手すりもない透明な階段で、落下事故でも起きれば、たいへんな事になりそうだ。安全面はどのように管理されているのだろうかと首を傾げた。首を傾げているうちに私の足は少年時代に塀から塀を飛び渡った感覚を取り戻し、一段飛ばしでポンポンと駆け上がっていた。
 実際は、駅ビルの高さを超えて階段は続いていたのだが、もうそんなことはどうでもよくなり、私は、初夏の穏やかな風に煽られるように空に向かっていた。私はたいへん気分がよくなり、妻との喧嘩も、無くした職も、養育費も気にならなくなって、ただただ透明な階段を上っていった。

 いつもの時刻のいつものホーム、人身事故のためにたいへんご迷惑をおかけしている旨のアナウンスが繰り返されていた。




Entry4
十二夜
第1素描室・・・・・



 それは十二日めの月でした。

 「つきがのぼってしずむまでをみていたい」

 と、真奈美がいつものように不思議なことをいうので、でも、まあそれもいいかと思ったので、取りあえずまだ月が上ってこないうちに、食べ物やら、飲み物やら、毛布やらを揃えて、屋上で月を待っていました。

 そうして上ってきたのは、丸くも尖ってもいない、なんていうのか中途半端な月で。半月と、満月の丁度あいだのやつで。図々しくも太陽がまだあるうちに顔を出してきました。

 「でもアタシああいうのすきよ」

 と、真奈美は満足そうなので、まあ良しということになりました。真奈美の言葉がひらがななのは、別に彼女がばかだからじゃなく、言葉が何となく柔らかくて、ひらがなの発音だから。

 日没後の、マジックアワーという時間。消えゆく夕焼けの赤と、迫りくる夜の青に混じって、いびつな月は光を放ちはじめました。中途半端な円のまま、夜空に気の長い弧を描いて上ってゆきます。

 新月を哀しく語る人がいて、三日月をやさしく歌う人もいて。上弦の月を作詞した人もあって。満月はもちろんのこと。十二日めなんて、誰も気にしない。誰も、何も、気にもしない。

 つきがのぼってしずむまで。

 深夜になって少し雲が出てきたけれど、月は皓々と照り続けていました。のっぺりと底が平らに伸びる雲を見て、僕はあっちに海があることを察していました。長く住んでいても気づかずにいることが、まだあるのだとぼんやり考えながら。

 少し寒くなったので、毛布を出してきて二人で掛けました。僕たちは一枚の毛布を分け合いながら、二人とも体育座りで、お互いにほとんど口をきかずにじっと月を眺め続けていました。この月を観ているのは確かに僕たちだけで、世界はどうしてか信じられないくらいに静かで、真奈美の方をまだ一度も見てはいないけれど、彼女が眠ってしまわずに無言で月をただ眺めているのがわかるのです。

 天頂を越えて、やがて月は西に傾き、景色の終わりに足を掛けはじめました。いつの間にか仰向けになって空を眺めていた僕たちは、惜しむようにその最後の光を焼きつけていました。

 そう、でもシェイクスピアにあったかも知れない。十二夜。恋の物語。現物は不格好で、あんなものだけど。

 月が沈み、そうして僕たちはやっと眠ることができました。僕の隣で眠りに落ちる間際、真奈美は小さな声で「ありがと。」とつぶやきました。

 しあわせでした。




Entry5
お守り、ラブソング
空人・・・・・



 雨上がりの夜、神社の石段を登った僕は、本堂の濡れていない場所を探した。見上げると夏の虫が外灯に集まっている。光めがけて体ごとぶつかって、そのたびに細かい鱗粉をまき散らしている。
 静かな夜。微かな風が足元を通り抜けていく。
 僕はケースからギターを取り出すと、譜面を見ながら練習態勢に入った。どうしてもBメロの頭がうまく歌えない。声を張り上げると辺りの空気がビシッと緊張し、音の輪郭がくっきりと聞こえることに驚いた。同時に何だか良い気分になり、問題のBメロもあっけなくクリアしていた。
 間奏を弾いているとき、俯く視界に影が侵入してきた。顔を上げると人が立っている。髪の長い女性。逆光で表情はわからない。僕はとっさに右手を止めようとすると、彼女は手の平で制し「続けて」と小さく言った。僕はそのまま最後まで歌いきった。
「いい声してるのね。惚れ惚れしちゃった」
 彼女は手を叩きながら言った。指の間に赤いものが揺れる。
「あ、ありがとう。でも、あの、練習なんでちゃんとしてないけど……」
「ううん、そんなの。よくね、駅前とかにいるでしょ、そういう弾き語りの人。あんな雑然とした空気の中でよくラブソングなんて歌えるわよね、って思うわ」
 ハキハキした口調で彼女は言うと、少し笑ったように見えた。初対面の自己主張も彼女が喋るとなぜだか嫌味じゃなかった。
「ラブソングは静かな場所で聴くのがいいよ。神社だけど」
 肩をすくめる彼女。僕もその仕草につられて頬をゆるめる。
「ね、もう1曲歌ってよ。切なくて、泣きたくなるようなの」
 夜風がまた足元を通り過ぎる。白いスカートの端がなびく。

 僕は『新しい朝』という曲を歌いだした。瑞々しい夜気にのってメロディは境内をめぐる。彼女はその間、ゆっくりと僕の前を行ったり来たり。しかし、サビの最後でピタリと足を止めた。
『もう一度、きみに逢いたい』のリフレイン。あまりにもありきたりな言葉に反応した彼女。そして歌が終わりを迎える頃、彼女は僕から少し離れた場所に座って両腕の中に顔をうずめてしまった。
「すいません」
 僕は居たたまれない気持ちになって、よくわからないまま謝っていた。彼女はうずめたままの顔を左右に振る。手に持っていたのは、赤いお守りだった。
「お願い。何も言わないで」
 僕は外灯を見上げる。夏の虫は何度も光に向かい、鱗粉が小さく反射して舞い落ちる。しんとした境内に、涙の音が聞こえた。




Entry6
夏に関する嫌がらせ・草案
犬宮シキ・・・・・



 世界の終わりが近いという。その日は徐々に近づいていた、けれど何が起こるかなんてぼくの周りの誰一人、答えられなかった。
「今年の夏が終わると同時に、世界も終わるんだって」
「そうだよ、終わっちゃうんだ」
真っ赤なペティキュア、されるがままにしていたらふと言われた。雑誌から目を離さずに返す。B5変形の雑誌はちょうど良く手にフィットする。
「夜想が復刊するって言うのに、世界が終わっちゃうなんてさ」
ぼくはその雑誌のことを知らない。けれどB5変形なら買うかもしれない。
「何か良い夏の思い出を皆にあげたいね」
一瞬で話題を変える、その性格が好きだ。もちろんそんなこと言ったことは無い。言えば図に乗るのは分かり切ったことだ。
「朝起きたらさ、いつの間にかカセットで延々波の音が流れてるなんてどうかな。夏らしいし」
「それ、嫌がらせじゃないか」
言ってから雑誌を置いて、もっと良い案を出してやろうと思って考える。
「たとえばさ、」
「小学校に忍び込んで全部の朝顔の鉢を人知れず変化朝顔に植え替えるっていうのはどうだろう」
言い出したところ口を挟んできて、ワンブレスで言い切りやがった。
「やっぱり嫌がらせだよ」
ビオランテみたいなのがうねうね生えてきたら、子供泣くぞ。
「あの、二つに割るソーダアイスの片方を全部食べちゃう」
「趣旨違う。それこそ嫌がらせ」
「種なしスイカに種を埋め込む。でも実はスイカバーのチョコ種」
「もう何がやりたいのか解らないけど、スイカとチョコってまずいと思う。嫌がらせだよ」
「麦茶のケースでめんつゆを作り冷蔵庫に入れておく」
「母親の常套手段だよそれ、被害被るのぼくだし。身内に嫌がらせしないでよ」
「巨人グッズで身を固めて甲子園の外野に座る!」
「嫌がらせって言うか殺されそうだし、もう夏関係ないし」
「シャービック買い占め」
「あ、それぼく食べたこと無い」
変な間が空いてから、随分驚いた様子でポツリと
「嘘」
「いや、ホント」
「あんな旨いものを喰わずに死んでいくのは人生の損」
「でも食べたこと無いんだって」
「じゃあ買いに行こう。今すぐ」
そう言って、めんどくさそうに立ち上がりドアの方に歩いていく。
「行かないのか」
「ちょっと待ってよ」
ぼくも慌てて、後を追う。
 世界の終わりも近いというのに、とてもとても綺麗な青空で……。
 だから何となく、納得がいった。

 君は何がしたいの、世界の終わりに。シャービックを食べて、これからの話をしよう。




Entry7
団塊の世代
満峰貴久・・・・・



「まったく、なんていうことだ。クレームの電話が掛かりっぱなしだったぞ」
「はあ、どうも済いませんでした」
「すいませんじゃない、済みませんだろうが。大体、そんなことだから原稿を読み間違えるんだ。“意識不明の重体”を“意味不明の重体”なんて、考えられないミスだよ。普通、途中で気が付いて訂正するだろ」
「あ、それは、その前のニュースで“意味不明の実態”ってのがあったもんで、それが尾を引いちゃったんです」
「榎本君、きみ、再教育室で一般常識と正しい喋り方を一から勉強し直した方がいいね。君の言葉の使い方はどうもいい加減だね。」
「はあ?」
「はあ、じゃ無いだろ、この前も“一矢報いる”を“いちやむくいる”だとか“昼下がりの午後”だとか、無茶苦茶なことを言って、クレームが来たそうじゃないか。他にもまだまだあるぞ。貧乏金無しだとか…」
「あ、もうそのへんで、やっぱ、普段使い慣れない言葉なもんですから。金木部長、今後充分気を付けますんで、あの地獄の再教育室だけは勘弁してください。今日から自分で猛勉強しますから」
「君の同期の伊東君は、あそこに入ったおかげで立派に立ち直っているよ」
「彼がそこで使った本やCDを借りて、一生懸命やり直しますから」
「このばやい、あ、この場合は、一所懸命と言うのだよ」
「さすが、部長は何でもよくご存知なんですね。若い頃から相当勉強したんでしょうね」
「ふっ、このくらいのことでそんなこと言われるのもどうかと思うけどね」
「でも、この局のアナウンス部って、昔は入るのが相当難しかったって言いますよね。銀行とか、商社なんかよりも」
「ふふっ、そりゃそうさ。今ではだいぶ基準が変わって、ルックスが良ければ他の面は目をつぶってしまうような所があるけど、当時は実力最優先だったからな。俺達の世代は、第一次ベビーブームで、学年で一クラス五二、三人もいて、それが十クラスもあったんだ。今では考えられないほど同世代の人間がいたのだ。高校、大学も受験戦争だとか、狭き門とか言われていたけど、他の者に負けないよう猛勉強したからこそ、いい高校、大学を出て、当時から競争の激しかった放送局のアナウンサーになれた、と言うわけだよ」
「あっ、知ってます。それって断崖の世代って言うアレでしょ、レミングみたいに大繁殖して、後が無いっていうか、これ以上先に進めないっていう、そんな意味でしたっけ。あれっ、部長、何か気に触りましたか?」




Entry8
無敵の虫
浅田壱奈・・・・・



 またこの季節がやってきた。基本的に嫌いではないのだ。海や祭り、花火といったこの季節なではの楽しみがあり、わりと好きな季節である。だけど、大好きにはなれない。ただ一つ、この季節には欠点がある。この季節の夜、活発に活動するあいつ。私の家の主に台所に生息しているあいつ。太古の昔から、大した進化も無くしつこく生き続けているあいつだ。あいつのお陰で、私はこの季節を今一つ好きになれない。この季節は、私とあいつの戦いの季節なのだ。

 そして今、私の目の前にいる。居間から二階の寝室へ向う途中の階段だ。普段は台所に生息しているというのに、たまに小旅行を楽しむかのように、予想もしない場所にいたりするのだから困ったものだ。そして残念なことに家には私一人しかいない。家族もこいつと一緒で、旅行を楽しんでいるのだ。今更ながら、旅行について行かなかったのが悔やまれる。いや、悔やんだって仕方が無い。戦わなければ。私はもう一度居間に戻って新聞を手に取った。適度な大きさに丸め、軽く素振りをする。私にやれるだろうか。不安はかなり大きい。しかし、子孫を残されたら大変だ。やるしかない。私は覚悟を決めて、ヤツのいるところへ向った。
 私が新聞を取りに戻って、少し悩んだ時間を多めに見ても約二分。正直、この二分の間に、恐れをなして逃げていてくれればと思った。
 しかし、いた。堂々と応戦だと言わんばかりに。激しく動く触覚が『本当は俺が怖いんだろ?』と私を挑発しているように見えた。ふざけるな。私は人間様だぞ。虫ごときに負けてたまるか。
じりじりと間を詰める。逃してはいけない。私は反射神経が鈍いから、素早い動きをするこいつと長期戦になのは不利だ。確実に一発で仕留めなければならない。出来るだけ間を詰めた私は、本当の本当に覚悟を決めて、丸めた新聞を片手で持ち頭上で構えた。そして、一気に振り下ろす。
 バチン。
 やったか。素早く新聞をのけてみた。いない。どこへ行った。ふと壁に目をやる。いた。いつの間に。急いで体勢を立て直そうとしたそのとき、ヤツが飛んだ。こともあろうか私の方めがけて。
 しまったと思ったときにはもう遅かった。額に妙な感触。時間が、それはもう長く長く止まってしまったかと思った。不気味な羽音が、ヤツが遠へ行ったことを教えてくれる。思わず階段から落ちそうになってしまった。
 くそ。今度会った時は強力な殺虫剤をまきちらしてやる。




Entry10
『気懸かり』
橘内 潤・・・・・



「――あ」
 立ち止まったわたしに、「なんだい?」と夫がふり向く。
「ううん、なんでもないの」
 微笑して歩きだせば、夫も「そう」と気にすることなく、隣に並んで歩きだした。
 進むにつれて密度を増していく木々が陽光を遮り、下草を踏み分ける足音と息遣いが生い茂った枝葉に吸収される。わたしは意図的に歩調を緩め、夫を先に歩かせる。そうして、木の根に足を取られるふりをしては、凭れかかった幹にサインペンで印をつけていった。
 車を降りてから十分も歩いた頃には、わたしと夫は現実から隔絶された天然の密室に立っていた。
「なあ……そろそろ、いいかな?」
 夫の問いにわたしは神妙な面持ちで頷き、ポーチからカプセル剤を二粒取りだす。わたしと夫、それぞれ一粒ずつ。飲めば五分ほどで睡魔が襲ってきて、そのまま目覚めなくともよいという現代の免罪符だ。
 カプセルを夫に手渡す。夫がいっそ穏やかな表情でそれを飲み込むのを見ながら、わたしもカプセルを口に含む。だが飲み込まずに舌の裏へと押しやり、喉を鳴らして飲んだふりをする――夫は水を飲むべくペットボトルを傾けていて、わたしの行動には気がつかない。
「はい、水」
「ええ……」
 渡されたペットボトルを受け取り、ぎこちない笑みを返す。
 カプセルを飲んでしまわないように少量だけ飲んで、大げさに喉を唸らせる。カプセルが流れだしそうになって少しだけ慌てたが、咽たふりをして誤魔化した。
「ああ……なんだか、眠くなってきた」
 ほどなく、とろんと瞼を落として気だるげに横になる夫。
「わたしも眠くなってきたわ」
 むしろ気懸かりで走りだしたいくらいなのだが、欠伸のまねで内心を隠す。
 夫の隣に寝転がってその顔を窺がうと、もうすでに昏睡していた。薬は思った以上に効きがいい。わたしは慌ててカプセルを吐きだし、ティッシュに包んでポーチにしまう。あとでまた飲むのだから、汚したくない。
「あなた、ちょっと待っててね」
 ほとんど呼吸していない夫にささやくと、ペンの印を頼りに、乗り捨ててきた車へと取って返す。――ああ、この印もベンジンかなにかで拭き取っておかなくては。警察に誤解されるかもしれないし、なにより格好が悪い。
「尻拭いはいつも、わたしなんだから」
 愚痴をこぼしながら、わたしは車を発進させて自宅へと急いだ。

 出掛けにガスを止めてきたかが、気懸かりでならないのだ。




Entry11
嵐が森I
棗樹・・・・・



 天気が好いと思われる日、僕と博士は、植物ドームの開閉式の窓覆いを開け、天窓から地表の光をドームの中に採り入れます。
 天窓と言っても、厚さ三十センチの硬化ガラスがはめ込まれた、透明な鎧のような代物ですから、そこから採れる光はふわふわと頼りなく天井付近をさまようばかりで、木の根元や草むらに置かれた補助灯よりも暗いくらいです。

 しかし、植物達は、その淡い光にさえ、驚くほど激しく反応するのです。

 僕達は、三重構造の窓覆いが完全に開くと、足もとを照らす補助灯だけを残し、照明を落とします。それから、ドームの壁に螺旋状に張りついている細い階段を二人で登っていきます。
 はじめ、僕らの頭はドームの中枢をなす森の最下層の枝よりずっと低い位置にあり、まわりの景色は全く見えませんが、壁沿いにドームを半周する頃には、森の大半を見下ろせるほどの高みに達しています。

 森の中心には、地層から自然に水が滲みだしてできた泉があり、天窓から漏れるあえかな光は、無明の薄青い闇を背景に、木々に覆い隠されこんもりした暗闇に沈むその泉に向かって、まっすぐ落ちていきます。

 僕らは壁にへばりつき、光と、光の中心で風もないのに激しく揺れるひとつの梢を、ただ見つめます。

 地表の光を欲してやまないその動きは、隣合う梢に、葉に、枝に、幹に、さざ波のように伝わってゆき、やがて、森全体がざわめきたちます。

 植物達はふだん、博士と僕とコンピュータによって申し分ない世話を受け、水も温度も光も土も、これ以上ないくらいの状態に管理されているはずです。それなのに、厚いガラスと汚染された大気越しに降り注ぐ、もはや光とも言えないようなものを求めて、樹齢三百年を越す巨木の群が身もだえするように震えているとは、一体どういうことなのでしょうか。

 いっそう不思議なのは、僕自身が、いつかこれと似た光景の中にいた、と思うことです。恐ろしく高い木立に囲まれた泉のそばで、空を見上げている。本当に青く高く澄み切った空を。この空を、僕はなぜ知っているのでしょう?

 おかしいですよね。この三百年かそこら、地表に出ることができた人間はいないというのに。――失礼、警報装置が作動しています。嵐が近づいているのです。天窓を閉ざしに走らねば。

 走りながら、僕が恐れおののく植物達にかける言葉は、僕自身への励ましにもなります。ここでは、嵐は、いつも長く激しいものなのです――。




Entry12
感情
松田めぐみ・・・・・



感情というものは実に厄介なものです。

意地悪な上司に意地悪をされたのです。
別にいつものことだけれども、その日の私の感情は我慢できなかったようです。心の中では(我慢しなくちゃ、我慢、我慢)っておまじないのように唱えていました。それなのに、気がついた時にはヤツは鼻血を出してわなわなと怒りに震え、
「おまえなぁ、上司をグーで殴るとは……二度と会社に来るなっ!」
と、声を裏返しながら叫びました。
いつもならもちろん殴るなんてことはしませんし、理不尽なことで叱られても
「すみません。以後気をつけます。」
なんてシオラシク言っていましたが、もう顔を合わすことがないのならそんな必要なんてありません。
適当な紙袋に荷物を詰めて、しゅん、と沈んだ顔で
「お世話になりました。」
と言おうとヤツに近づきましたが、鼻にティッシュを詰めているのがどうも可笑しくて、つい吹き出してしまったのです。
ああ、なんという事でしょう。ヤツは目に涙を浮かべて、事務所から出て行ってしまったのです。私はてっきり殴られるかと思っていたのですが。
しかし、困ったものです。早々に次の仕事を探さなければ。
アパートに戻ると感情はなりを潜め、ただただ後悔するのみ。部屋の隅で膝をかかえてため息ばかりついていました。

翌日からさっそく家で履歴書を書いていると、営業で外回りをしていた彼が来ました。私以外の人にはいつも怯えた様子を見せる私のうさぎが、そのときに限って彼に近づいていったのです。
「懐いてくれるとうさぎもかわいいなぁ。」
そう言って頭を撫でられると、私にするように目を閉じて気持ちよさそうな顔をしました。
その瞬間、私は彼が買ってきてくれたお茶のペットボトルを彼の頭に振り落としていました。
あっ、と我に返ってもすでに遅く、彼は少しの間頭を抑えていましたが、おもむろに立ち上がると私の胸倉を掴み
「二度と会わない。」と言って出て行ってしまいました。
私は、彼が去ってしまった悲しみと自己嫌悪のために、涙を流がしながら感情に向かって話し掛けました。
「どうしてそんなことをするの? おとなしくしてよ。勝手な事をしないで。」

感情とは自分の内にあり、自分の一部であるにもかかわらず、ときに暴走し手におえなくなってしまいます。
感情を上手くコントロールできる人を大人と言うのならば、私は幼児のままなのでしょう。
いつの日か人を殺めてしまうのではないかと思うと、気が気でなりません。




Entry13
すいかのめいさんち
日向さち・・・・・



 意志が弱いのかもしれない。
 夕立が通り過ぎたばかりの駅前で、じいさんが売っていた、歌うヒヨコというやつを買った。カブト虫を売るような大きさのカゴに三羽、入っている。
 ピヨピヨピヨピヨ。駅から自宅へ歩いていく途中、そんな声ばかり聞かされ、絶対に騙されたと思ったのだが、家に着いて、ヒヨコたちの目の前でぽんっと手を叩くと即座に歌い出した。
「すいかのめーさんちー」
 それっぽく聴こえるというのではなく、実に明確な日本語で歌っている。甲高い声、子供のような声、声変わりが始まった男子みたいな声、それぞれのトーンがぴたりと重なってハーモニーを作っていた。三羽は、一番だけ歌い終えると、またピヨピヨとさえずっている。
 誰かの意志に沿うということは、自分のためにならないことだってある。教師の勧める大学へ入り、手当たり次第に面接して受かった会社へ就職した自分が、一社員として誇れることなんて皆無だと思う。特に役に立つような資格は持ち合わせていないし、人付き合いだって決して得意なほうではない。やる気だって半端だから、会社側の評価も高くはないだろう。ただそれなりに、働いているだけだ。
 ヒヨコたちにとって、調教に従う理由はなんだっただろうか。
 じいさんは「今時のヒヨコは、こんな調教でもしなけりゃ売れやしない」と言っていたが、大人になっても三歩で忘れるような生物だというのに、どうやって調教したのだろう。カゴには排泄物がついていたし、餌も摂取しているので、ヒヨコの皮を被った玩具でないことは明らかだったが、大きくなったらコケコッコと鳴くニワトリになるのか、怪しいものである。
 何度も何度も手を叩いて、ヒヨコの歌を聴いた。曲のレパートリーは一曲しかなく、だんだんと耳障りになってくるのだが、歌い終わると、また、なぜか手を叩いてしまうのだ。歌っている最中も歩いたり、首をかしげたり、羽を動かしたりしているのだが、いずれの動作も、ピヨピヨという形容がぴったりだ。羽の色も、どことなくピヨピヨという感じがする。
 夕食の準備をしようと思って立ち上がると、その動作がピヨピヨになっていた。ピヨピヨと台所へ向かい、ピヨピヨと材料を刻み、ピヨピヨと炒めて、ピヨピヨとルウを加えて混ぜる。蒸し暑い。換気扇を回しても、入ってくる空気は淀んでいる。
「すいかのめーさんちー」
 思わず口ずさんでいた。西瓜食べたいなぁ、とピヨピヨ考えながら。




Entry14
融合
山本 翠(やまもと すい)・・・・・



 永い永い旅――。何時から旅を続けているのか、其れすら分からない。僕は旅をしている。……旅をしている。
 今、僕は何処に居るのだろう。永遠とも思える断続的な景色に、何らかの変化は訪れるのだろうか。まだ着かない、まだ着かない、まだ着かない。
 遠近法を駆使した僕の世界の遙か彼方に、「何か」見えて来た…気がする。幻と夢の見すぎで、自信なんて持てない。
 「何か」は「何か」の欠片だった。久し振りのこの気持ち。挨拶の言葉を考えて見たりするけれど、一瞬の邂逅にそんな余裕など皆無だと云う事実は、百も承知だし。心に焼き付けておいたその色彩の欠片は、綺羅綺羅と光った後、輪をなして、記憶の中に散ってしまった。
 まだ着かない。でも、僕に出来るのは進むことだけだ。ただひたすらに、進むだけだ。理由なんて考えない。野暮でしかないから。
 
 
 …変な感覚。幾度も幾度も繰り返した、到着の夢を見ているのだろうか。でも…確かに在る。確かに確かに確かに、其処に在る。僕は…やっと見つけたのだ。「木」を。
 予想外の出来事。駆け出した僕の身体は、柘榴の実が弾ける様に、二十一に分かれた。「木」を驚かせてしまったのだろうか。礼儀はやっぱり重要なんだ。がっちりと大きくて、中々手強いこの「木」。僕が求めていた、いや、僕の遺伝子が求めていた、太古の命の祈り。
 二十と一の僕は考えた。融合の方法を。そして出した答えは、考えるのを止めると云うことだった。此れで良い。此れで良い筈だ。此れで良い筈だ…と思う。取り敢えず、全てを忘れて無心になる。
 さぁ飛んで行こう。二十と一つの僕よ。そしてさようなら。旅人と云う名の僕。
 やっと逢えたね。僕の揺り籠。
 僕は宿り星。「木」に宿って生きるもの。安息の場所、「木」を探して旅をしてきた……。


 1994年7月17日から22日にかけてシューメーカー・レビー第9彗星が木星に衝突した。惑星と彗星の衝突は1000年に1度と云われ、大変珍しい現象である。
 シューメーカー・レビー第9彗星は1992年木星に接近したとき、木星の強力な重力によって粉砕されて21個の破片に分裂し、1列になって宇宙を飛んでいた。そして、再び木星に接近した1994年7月、次々に衝突し、木星の表面に大きな痕跡を残した。この痕跡の大きさは地球より大きく、小型の望遠鏡で地球からも見ることが出来た……。


 ……感じるかい。僕が此処に居ることを……




Entry15
落ちていく果実  
夢追い人・・・・・



「何事もなく元気?」
「うん、何事もなく元気だよ」
 そう、よかった、と電話の向こうにいるユウコに聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で呟いた。
時限爆弾のようにカチカチと時計の秒針が音を立てている。受話器からこぼれてくる僅かな音を拾い集め、今ユウコの感じている世界を僕の頭の中で構築していく。その世界は、自分が蟻になったような錯覚を起こすほど広大でありながら緻密な、現実そのものに勝るとも劣らない作り上げられた世界。
 会話の合間に沈黙が訪れると、耳が圧迫されて熱を帯び赤くなるほど受話器を耳に強く押し当て、微かに届いてくる息づかいから彼女の臓器をめぐる血の流れを想像する。彼女の食べた物が胃や腸で消化されていくのを想像する。彼女の目に映るものが神経繊維を介して大脳に伝達されていくのを想像する。
 いつから僕はこんなに気がおかしくなってしまったのだろう。
「何してた?」
「テレビ見てた」
「あと二十分くらいしたらそっちに行くから待ってて」
 ユウコが、うん、と返事をすると、会話が終わろうとする段階に入ったために、頭の中の世界は電源が切れて、残像が白くぼやけて浮かんでいるだけになった。
 が、突然、耳の奥で脳ミソを引っ掻くような悲鳴がこだまし、白くぼやけた残像が引き裂かれ、目の裏が痺れを起こすと、軽い眩暈を覚えた。
 悲鳴。悲鳴。
「どうした?落ち着いて」
 再び悲鳴。悲鳴。
 ユウコは狂ったように叫び続けた。何かの線が切れてしまったように、鼓膜が破れそうな甲高い声を上げる。しかし、それは時間が経つにつれ、泣き声に変わっていった。彼女の泣き声と耳鳴りに混じって時計のアラームが聞こえる。
 幼い頃に心の傷を負った彼女は小さな物音にさえ恐怖心を掻き立てられ、気が狂ったように叫び出す。
僕は、彼女が驚かないように時間を決めて毎日欠かさず電話を掛けている。特に話すことがなくても元気な声を聞き、また聞かせる。電話をすることで少しでも彼女を安心させることができればと思って始めたことだった。
 最近では彼女が泣かないと逆に僕が発狂してしまいそうになる。彼女が泣くことで僕は快楽を得るようになってしまった。頭蓋骨が震え、脳ミソに電流が流れるような、日常では到底味わえないような至福の快楽を、彼女の叫びはもたらすのだ。

 あぁ、僕の大好きなユウコ。ごめんね。ごめんね。

 君の部屋の目覚まし時計、アラームをセットした犯人は僕なんだ。




Entry16
写生旅行  
土筆・・・・・



 俺が通っている絵画教室の山木先生こと山先(やません)は、若くてとても威勢がよい。それは先ず絵に表れている。彼は原色しか使わないのだ。
「絵具は混合せると、限りなく灰色に近づいていく。灰色はくすんだ色だ。地味で、若さがない。冒険がない。大胆不敵さがなく、血の滾りがない」
 彼は絵具をチューブから直にカンバスに擦り付けていく。
 山先は俺達に教える間に、自分も絵を仕上げてしまうのだ。
俺達は彼の絵を覗いて、その技法を盗取るというわけだ。山先自身、絵は模倣から始る。盗め。と、彼の画風に近づくのを奨励している。
この間、入会希望の青年が見学と称して入ってきたが、俺の後ろに立っていて、こんなことを訊くんだ。
「ここでは筆を使ってはいけないんですか」
俺は花の上に太陽を描こうとして、カーマインをカンバスに置いたところだった。それを指で擦ったので、血が滴ったみたいになっていた。その指で山先を示して、言った。
「指導者が、筆はめったに使わないのでね」
青年は前に出て行って、山先の制作現場を観察していた。
「先生も太陽を描いているね」
 戻って来るなり、青年は言った。当り前だ。その絵を見て、俺も太陽を取入れたのだから。
「この会には舵を取るものがいないと、大変なことになるんじゃないかな」
 青年は俺に耳打ちした。舵取りは山先に決っているので、俺は先生を指差した。
「いや、あの先生に任せておけないから、忠告しているんだよ」
 新参の癖に何を言うのかと、俺は少々むきになった。
「小学生でもあるまいに、太陽なんて……」
 彼はぶつくさ言って帰って行った。それが意思表示であったらしく、それっきり現れなかった。

夏は急速に過ぎていった。教室の練習にも飽きてきた頃、山麓のキャンプ地へ写生旅行となった。
風はひんやりしているが、山はまだ紅葉していなかった。緑一色ほど退屈なものはない。
山先などは、早くも絵具を擦りつけ始めた。
 ふと彼は、傍らの地面に目を落とした。湿った黒土には、異様な色彩を放って茸が群生していた。
「夕食は、茸の刺身といくか。美味いぞ」
 山先の言葉に、俺は一瞬身構えた。しかし毒茸のイメージは、夢の風景のように消えていった。俺達の頭ではきらびやかなものこそ受入れてよいものだった。

 一行が運込まれた病院で応急処置を受けた後、俺はあの青年の言葉をしみじみ思い出していた。〈舵取りがいないと、大変なことになる……〉




Entry17
失う
佐藤yuupopic・・・・・



 いつかは来るとは思っていたけれど、あまりに早急過ぎた。常に点滅する漠然とした悪い予感みたいに、俺の中に、あったのだけれど、まさか、今日だとは。

 幼い頃、テレビを観る時に小首を右に傾げる様子を、親は「おかしな癖だ」と、思っていたらしい。入園時の健康診断で、左右の視力の著しい差から生じている事が判明し、早朝から電車を乗り継いで、市大病院へ検査に向かった日を、今でもよく覚えている。母親のワンピースの小花柄も、地下食堂のスパゲティの味までも。

 生まれつき右眼の角膜が、通常は球形の処を、ラグビーボールのように曲率が異なっている為、一点でピントがあわず像に影が出たり、輪郭がぼやけたりする。角膜乱視、と医師は云った。眼の奥にラグビーボールがあるのだ、と漠然と思った。
 検査室を転々とし、装置を覗いて動物や果物の絵柄を確認し、検査用の眼鏡をかけて、レンズを何枚もかけ替え、眼鏡では視力を矯正不可能との事で、コンタクトレンズを作成し、遅い昼飯を食って帰る段には、すっかり三時を廻っていた。
 
 俺は、当時住んでいた社宅の屋上に上がって、左眼をつぶって月を眺めるのが好きだった。両眼だとくっきりと一つに像を結んでいたはずのそれが、右眼だけだと、元来の形を忘れる程歪み、光がおぼろげに広がるのが好かった。世界の輪郭が曖昧になり、町の灯りや、遠くに見える鉄橋が、自分との境目が判らなくなる程にじんで、突如必ず起こる窒息するような不安感が、喉の辺りまでせり上がるのをぎりぎりまで我慢して、堪え切れず、左眼を解放したとたん瞬時に眼前に飛び込んで来る、全てが鮮やかな視界。指先にまで急速的に行き渡る安堵感。初めてコンタクトレンズを装着した時に右眼に訪れた感覚は、あの何とも云えない瞬間に似ている、と身震いした。が、そのうち慣れて、当たり前になって、忘れた。

 そんな事を、今思い出しているのは、俺が再び、失ったからだ。ギターの弦、あんなふうに切れて、元々、右眼なんて無いようなものだったけれど、あまりにくだらない、ちっぽけな一瞬で角膜ごと持って行かれるなんて。
 もう二度と、ビルの屋上からの、世界と俺との境目が曖昧になる、あの景色を楽しむ事が出来なくなってしまったのだ。思うべき事も、考えるべき事も、山のようにあるはずなのに、病院のベッドに横たわり、眼前に巻かれた包帯をなでさすりながら、思い浮かぶのはそんな事ばかりなのだ。




Entry18
ナイトスター・リリー  
伊勢 湊・・・・・



 リリーは夜しか歌えない。
 明るいときは恥ずかしいから嫌なのだと言う。なのに夜になると今夜も真っ赤なスカートをなびかせて街角に現れる。リリーが現れると人々は熱狂し、空気は巻き上げられ、街のネオンは星の見えない真っ暗な空へ真っ直ぐに伸びていく。僕はそれがとても嬉しくて、少し寂しい。
 夜の影にまぎれて僕はアコーディオンを弾く。それは徒競走のピストルと同じで、ひとたびリリーが歌い出せばアコーディオンの伴奏は影になる。影は何も照らさないけど、いつだって光のすぐ側にある。
「リリー、そろそろ真夜中だよ」
 リリーはいつも観衆の方を向いたままで小さく頷く。僕はそれでリリーが分かったことが分かるし、リリーは僕がリリーが分かったと分かったことが分かる。僕たちの間では小さなことでいろんなことが分かる。それは二人だけの秘め事のようで嬉しいけど、やっぱり少し寂しい。
 観衆はリリーの歌に陶酔している。リリーも僕も朝までずっと続けたいと思うことがある。でも真夜中を過ぎると僕たちは捕まってしまう。近くに住んでいる人が眠れないのかもしれないし、どこにだって誰かを捕まえたり縛ったりすることで世界をなんとか成り立たせようとしている人がいるのも仕方のないことだと思う。その前では僕たちの願いの意味はあまりにも小さい。でも、歌いつづけたいというもっと小さなリリーの願いを守るために、真夜中を知らせる以外に僕には何も出来ない。
「みんな、今夜もありがとう。でも、今夜ももうすぐ十二時。次の最後の歌でお別れにしましょう」
 僕が最後の曲のために鍵盤に指をやったそのときだった。観衆の方からざわめきが聞こえた。みんな蜘蛛の子を散らすように闇に消えていく。時計を見た。秒針が止まっていた。
「リリー、逃げるんだ。時計が狂っていたんだよ。もう真夜中を過ぎちゃってる」
「でも…」
 逃げ送れた人々がどんどん捕まっていく。僕の時計のネジをしっかり巻かなかったからだ。リリーは捕まっていく人々から目を離せずにいる。棒を持った制服達がどんどん近づいてくる。捕まっていく人たちの「はやく行け」という声が死んだ夜にこだましていた。
 僕は無理矢理にリリーの腕を引っ張って逃げた。暗い路地を通りなんとか部屋に辿り着いた。明かりもつけない暗い部屋でリリーは泣いた。いつか明るい日の光の下でリリーは歌うのだろうか? 僕はその日のことを思い浮かべ一粒だけ涙を流した。




Entry19
夏の日とナイフ  
中川きよみ・・・・・



 暴発寸前まで私の体内には怒りが詰め込まれている。この世界に自分をつなぎとめるために右ポケットの中で固く握る。

 痩せて猫背の男は約束の時間から1時間も過ぎて現れた。
「どうもゥ・ぢ外来が多くて、よそがお盆休みで」
ろくに謝らずにボソボソと言い訳を始める。
 壁の塗装が汚れて剥げかかった、ただデカいだけの病院だった。蒸し暑いつまらない午後。意識が飛びそうになって右手をまたポケットに入れる。

「あの、実のところ僕はキミのお母さんの顔も見たことがなくてキミの存在も知らなかったから、本当に僕の? あ、いや疑っているのではなくて驚いている訳で、その、忙しくて確認の問合せもできなかったから」
 男は突っ立ったまま、違う言い訳を始めていた。私の存在に対する言い訳。暑苦しい白衣の襟元を冷や汗でどろどろにしている。
「その、僕はただの医学部ボランティアで選ばれるなんて思いもしなくて、無作為選択だったんですかねゥ・ぢあ、キミには関係ないですね、いや、大いに関係あるか。そう、困ったなゥ・ぢ」
 支離滅裂になってボリボリと後頭部を掻く姿はまるでマンガのように古典的な姿だった。幻滅に駄目押しをされたようだった。

 私の刃先をよけられない。男のことなど何も分からないのに、そんなことだけ分かった。
 困り果てた人間の見本のような男を前に、私の身体を巡る血が源流をかぎ分けて不意を衝かれたかのように凪ぐ。

「バカだね、あんた。全部認めちゃったら厄介なことになるかもしれないんだよ。私の母親は私を捨てちゃったんだからね。」
 精子バンクの登録責務や契約内容も、私が「出来た」15年前と今ではずいぶん変わっているのに。一体私が何度となく警察のご厄介になってとうとう施設に放り込まれることになってしまった娘だということをちゃんと分かっているのだろうか。
「あの、その、厄介と言ってもキミがこうして居ることは今さら認めない訳にもゥ・ぢ」
 男の携帯が鳴る。慌てて話し始める男の、奇妙なほど私に似通った爪の形。

 右のポケットにはバタフライナイフが入っている。会って殺そう、少なくとも傷つけようと思った。壊したくてすがりたい、葛藤の末に買ったナイフ。

 どんよりとした上空をセスナが横切る、ピントのずれた音が響く。それは方向性を失った膨大な苛立ちから私を解放する音のようだった。
 男の無防備な横顔を見つめながら、私の右手はだらんと垂れ下がったままでいる。




Entry21
山道にて  
ハンマーパーティー・・・・・



 ハザードランプを点灯させると京香は路肩に車を寄せた。息が荒くなっている。いらいらして、また車を擦ってしてしまうと思ったからだった。
「なして止めんの? 運転代わっか?」
 聰が聞いた。京香は口を結んだままエンジンを切った。
「結論出さねで家さ着いだってしょうがねべ」
 山並みの輪郭が夕闇に溶けはじめていた。聰が無表情のまま、そりゃそうだげどと答えた。
「今日はあいさつだけでいいべ」
 京香は腕組みをした。じっとフロントガラスの先を見つめた。早くしないと食事時になってしまう。
「あいさつだげだろうど、結婚の話切り出すんだろうど、どこで知り合ったが聞がっちゃどき困っぺ」
 京香はいらいらして煙草を取りだそうと思ったが、煙草嫌いの父親から借りている車に乗っているのを思いだしてまたポシェットに戻した。
「飲み屋で知り合ったでいいって言ってっぺした」
「安易すぎるっつってっぺした」
「んじゃ友だぢの紹介でいいべ」
「家の親はあだしの友だぢなんてみんな知ってんだ」
「俺は別に出会い系サイトで知り合ったって言ってもいい」
「別れろって言われるに決まってっぺさ。バガだな、あんたは」
 煙草をまた取りだすと、京香は車を降りてボンネットに体を預けて火をつけた。聰も降りてきて、京香を見つめて言った。
「正直に言っといたほうがすっきりすっぺ。後でこじれねし」
 聰の言い分ももっともだった。今、だませても、いつバレるか分からない。それに何かの拍子に自分か聰が言ってしまう可能性もある。
「嘘こぐんなら、話合わせどがねどなんねぞい。今日はやめどぐべ」
「ダメだ。今日絶対紹介するって決めだんだ。決心のばしたらいづになっか分がんね」
「したら行ぐべ。おめはほんとに今おれのごど好きなのが? したらどごで知り合ったってかまわねべ。おめの親だぢに何言われだっておれは平気だぞい。二人ぼっちになったって俺はかまわね。どうなんだおめは」
「うん」
 京香は素直にうなづいた。風が少し吹いてきた。吐きだした煙草の煙が一度離れたあとまた顔に吹き降ろされた。聰はポケットに手を入れて背中をまるめドアのほうに歩きだした。席に戻ると京香はハザードを消してエンジンをかけた。
「んじゃ、それでいいのが?」
「いいばい」
 京香はスモールライトをつけたがすぐにヘッドライトに切り換えてアクセルを踏んだ。山並みは夜の色に溶けこんで、通り過ぎる車のライトは動く提灯の群れのようだった。




Entry22
官能小説家  
カピバラ・・・・・



「はぁうっ」
媚薬で熱を帯びた乳首を、岩田の指が転がす。
「あぁっ……いや、いやあぁぁ……うぅ……ん」
別の指が、濡れた花芯を探り当てる。
官能の網に囚われまいと真由子がもがくほど――


「お母さん?」

 襖の向こうの声に、反射的に書きかけのエロ小説のウィンドウを閉じた。ノートパソコンの画面は、あたりさわりのない恋愛小説のテキストでいっぱいになる。

「ごめんね、高志。うるさかった?」
「ううん、平気」

 寝室をのぞくと、高志が体を起こしていた。

「いま、何時?」
「夜中の二時よ。まだ寝てなさい」
「お母さんは? 寝ないの?」
「シメキリ前だから」

 寝苦しくないようにクーラーをつけて、布団に寝かしつけてやった。タオルケットから顔だけ出して、高志は大人ぶった口ぶりで言った。

「あんまり無理しちゃダメだよ」
「生意気言ってんじゃないの!」

 頭を少し荒っぽくなでると、高志はニコリと笑って、いつしかそのまま寝息を立て始めた。
 息子の寝顔を見ながら、やっぱり奴にも少し似てる、なんて考えた。数日前に会ったばかりだから、余計にそう思う。


 数年ぶりに奴が電話して来て、会いたいと言うから何かと思えば、高志を引き取りたいという話だった。離婚の理由になったのとは別の女と再婚することにした、自分たち夫婦で育てるほうが子供のためだ、なんてムシのいいことを、奴は延々と垂れ流した。

「子供には両親そろってるほうがいいし、それに、君、まだ官能小説書いてるんだろう?」
「まだとは何よ。これでも売れっ子なのよ」
「ならなおさらさ。官能小説なんかで子供を養うのは間違ってるよ」
「どうして間違いなのよ。そもそも、貴方と私がエッチなことしたから、高志ができたんでしょ」

 すると奴は逆切れして、高志にお前の書いたものを読ませるとか親権を争うなら出るところに出るとか何とか言いだした。私も負けなかった。

「エロ小説のどこが悪いの。読ませたければ読ませれば。誇りをもって書いた話だもの、恥ずかしいことなんかないわ」

 最後に啖呵を切ったとき、奴は絶句していた。


 高志が寝入ったのを見届けて、キッチンに戻った。
 食卓の上で光るディスプレイの中で、画面に広がる恋愛小説が私をあざ哂っていた。強がっていても、十歳の息子に自分の小説を見せる勇気は、本当はまだ無いのだ。

 私は書きかけの小説のファイルを開くと、肉欲に溺れてゆく真由子の様を、音を立てないようにワープロで打ち始めた。




Entry23
休む。疲れた。さすがに疲れた。  
アナトー・シキソ・・・・・



穴の中を這ってる。
ツルツルした鍾乳石みたいな穴の中。
狭い。なにより暗い。真っ暗。

穴の中をまだ這ってる。
肘で進むから、肘が痛い。
膝も少しは痛い。
まあ、あちこち痛い。

穴に入って結構経った。
穴の入り口の形状を覚えてる。
入ることにするには、ある種のあきらめが必要だった。
入らなくてもよかった。
でも、入った。現に今、穴の中にいる。這ってる。

上ったり下りたり、右に曲がったり左に曲がったりした。
穴は、けど、まだ終わらない。
休む。疲れた。さすがに疲れた。
休もう。
裸足なんで、左足の裏を右足の親指で掻ける。
足の裏を掻こう。
足の指で足の裏を掻くのは、イライラしてるみたいだ。

どうせだから、タバコも吸おう。
穴の中でタバコを吸うのは勇気が要る。
気合いがないと無理だ。
でも吸う。気合いなしで吸う。

ライターをつけたら、正面に男の顔が出た。
男は穴の中でこっち向きに腹這いだ。
そいつがゆっくりと俺に言う。
「穴の中、貰いもののライターで、貰いもののタバコを吸うつもり」
俺はタバコに火をつけずライターを消す。
男の顔も消えた。
もう一度、左足の裏を右足の親指で掻く。
イライラしてる。

ライターを再点灯。
「穴の中、貰い物のライターをつけたり、消したり」
男はゆっくりはっきりと発音する。
まばたきしないその男と俺は見つめ合う。
男の目玉にライターの火が映っている。
俺は、ぐっと堪えて、火を、くわえたタバコの先へ運ぶ。
「穴の中、貰い物のタバコで、憩いのひととき」
ライターの火を消すと、暗闇にオレンジ色のタバコの火が残った。
「穴の中、ホタル」
男の声。まだ居る。まあ、そうだろう。
けど、タバコの火とホタルの光は似ても似つかない。
ホタルの光は、たばこの火なんかより、よっぽど嘘っぽくて恐い。
暗い空間をゆっくりと点滅しながら移動する光は恐い。
そして、恐いものは美しい。

俺は、穴の中で仰向けになって、煙を上げる。
足の裏を穴の天井に付けた。
期待どおりの感触。
そのまま押す。
へこむ。意外と柔らかい。

俺は、天井を足で蹴って、仰向けに穴の中を進み始める。
とたんに穴は力を失って、だらんと垂れ下がり、俺は穴から逆さに滑り落ちた。
頭から激突して、首が、イヤな方向に曲がる。
首から下の連絡が絶たれた。
首から下にまだ意識が残っているうちに、急いで医者に電話しよう。
緑色の電話はあそこに見えてる。
俺の体は立ち上がり、電話まで走って受話器を持ち上げたところで沈黙し、モノになった。




Entry24
チャック  
るるるぶ☆どっぐちゃん・・・・・



 脇腹を刺された。
 脇腹を刺してやったはずなのに。
 ビルの屋上で目が覚める。
 目に映ったのは青い空が全て。
 とてもうるさいな、と思う。どうしてだろう、青い空には白い雲さえ見えないのに。ジェット機が飛んで行く。無音。あたしは耳に手をやった。つるつるとした感触が返ってくる。ヘッドフォンがあたしの耳に突っ込まれていた。うるさいわけだった。ジェット機の音が聞こえないわけだった。大音量で流れてくるのは古いロックだった。まだブルースとかロカビリーとかとの区別が明確では無い頃の。ゴー、ゴー。ゴージョニゴー、ゴー。
 まさかジョニー・B・グッドとは。
 あたしはイヤホンを外す。
 一体誰がこんなものを。
「やあ、こんにちは」
 隣りに男が居た。
「まさかジョニー・B・グッドとはね」
「このウォークマン、あんたの?」
「違うよ」
「そう」
「痛そうだね」
 男はあたしの脇腹を指差した。
「血が沢山出ているよ」
「そうね。出てる」
 あたしは脇腹に手をやった。ナイフはウエストを深く貫いていた。痛い。
「あなたは楽しそうだわ」
「俺かい?」
「ええ。キスマークが、ついているもの」
「キスマーク? 俺にかい?」
「ええ」
「何処?」
「ほっぺたに」
「キスマークか」
 男は頬に手をやる。
「キスをしたはずだったんだがな。キスをした覚えはあるが、された覚えは無いんだが」
 頭上ではジェット機が再び現れ、通り過ぎて行く。
 無音。
 あたしは達は一緒にビルを降りた。
 あたしは一度だけ後を振り向いた。ビルは灰色の、何の特徴もない雑居ビルだった。
 男とはおでん屋の前で別れた。
 街はそういう時間帯らしく、大通りに出ても誰も居なかった。無音のまま、信号機のライトだけが移り変わっていった。
 街には様々なものがあった。カラスが空を飛んでいた。信号の押しボタンをあたしは押す。途端に沢山の人々が何処からか現れて、あたしと共に信号待ちをする。
 人々と共に、するすると街中に鉄格子が伸びていった。街には様々なものがある。そしてそれにも関わらず、鉄格子もある。
 あたしは腰に手をやった。ナイフだと思っていたものは、プラスチックの定規だった。
 あたしは血まみれのそれを鉄格子にくっつけた。鉄格子の幅は60センチ。良かった。大丈夫だ。あたしはウエストが58センチだから、ダイエットしたお陰で58センチだから、この向こう側へ行ける。
 鉄格子の向こう側で、信号がもうすぐ青へと変わる。




Entry25
兄弟  
もふのすけ・・・・・



 深夜。バーのカウンターで、体格のいい二人の男が飲んでいた。
 「なぁ弟、俺もう十年も悩んでることがあるんだ。そいつのせいでろくに眠れやしねぇ、きいてくれっか?」
 「なんだい兄貴、水くせーぞ、何でも言えよ」
 「じゃあ言うぞ……」
 「『チーマー』って何なんだよ!!」
 「えー!!それ十年かよ!!」
 「だってよぉ、テレビで結構出てくんだよ。忘れようと思った頃に必ず」
 「すげえよ兄貴、ある意味偉業だよ。伝説級だ」
 「なんと言われてもかまわねぇ。もうだめだ、弟、教えてくれ」
 「何言ってんだ!このバカマッチョ!!」
 「えー聞いてくれるっていったじゃん!!」
 「そこまで悩んで諦めんじゃねーよ!!後ちょっとだ!きっとそこまで答えは出てる!!」
 「そうか!そうなのか弟!!実は俺もそう思ってたんだ!!今もかなりきてる、きてる、あーきたー!!」
 「きたか兄貴!」
 「『チーママ』の略だ!」
 「ノー!『マ』略してどうすんだよ!!ミジンコ野郎!!」
 「うおー違うのか!!でも近い!近い筈なんだ!!ヒント!ヒントさえあれば」
 「いいぞ兄貴!ヒントはヒントはOKだ。聞くんだ誰かに聞くんだよ!!」
 「でもよぅ、誰に聞いたらいいか……」
 兄は店内を見回した。そして端の方で一人で飲んでいる頭髪1:9分けの50代サラリーマンの親父で目を止めた。
 「あいつだ!!あの年頃のサラリーマンはチーママのプロといっても過言ではない」
 「よし!期待通りの展開だ兄貴、最高だよ。早速行くんだ、だがなヒントだからな、それとなく聞くんだぞ兄貴!!」
 「わかってる」
 二人はサラリーマンに詰め寄った。
 「何だね君たちは!!」
 身構える親父。兄は親父の肩を叩いた。
 「親父!チーマーっていい奴だよな!!」
 「直球かよ!!」
 突っ込む弟。しかし親父は笑顔で返した。
 「あーよく知ってるなぁ、あいつはいい奴だったよ」
 「やっぱり!」
 「えーなに意志疎通してんの!」
 戸惑う弟。親父は遠い目をしながら続けた。
 「それにしても懐かしいなぁ」
 「懐かしい!?懐かしいのか親父!!」
 思わず身を乗り出す兄。
 「あいつだろ?」
 「三冠王取った阪急の外人だろ」
 「『ブーマー』だよそれ!!」
 二人の夜はこうして過ぎていった……




Entry26
機関車唐茄子  
ながしろばんり・・・・・



「洒落か」
「はい?」
「いや、洒落なんだろう?」
「何がです」
「きかんしゃトーナス」
「画期的だと思いますけれども」
 この席、この椅子に座ってもう何度御来光を拝んだことか。高層八十七階、企画会議室は東向きに遮るものの無い窓ガラス。御天道様もスタートダッシュ、ここまで光をふり搾れば満足だろう、煙に淀んだ空気に眼球をしょぼつかせ、八月二日午前五時三十四分。コーヒーメーカーは壊れていて、八十五階の自動販売機まで買出しに行くしかない。
「要はアレですよ、永田町に出来た人力発電所。あの、集団自転車発電の応用でして、動力室に自転車要員を配備して、ニクロム線の発熱でお湯を沸かすと」
 陽の光を反射してホワイトボードが鼠色に見える。残像にやられた目をぎゅっと瞑ると、脳の奥で湧き出した闇、暗がりへとすっと飛び込んで行きそうな。若いくせにプレゼンターの大野の声はいわゆる塩辛声で、目を瞑った俺の脳には至極気持ちがいい。
「で、そこから蒸気を生んで……おわかりですね? 経済にしろ何にしろ、世の中の事象は自転車と同じです。廻りはじめるには極端に大きな力が一方に掛らないといけないわけでありまして、一台の機関車を東京から新大阪まで走らせるのに、交代要員として四十人で一チーム。時給千三百円としましても、諸経費含めてこっちのほうがお得、しかもです」
 頭頂に視線、軽く頭を上げて起きてるよ、と呟いてみる。
「しかもですよ、環境にはもちろん優しい、雇用も拡大できる。す、ばら、しぃ……あ、いや、それでですね、ここからが目玉なんです。あの、か、カボチャありますでしょ? この前解禁になってアメリカから一斉に入りこんできた黄色いカボチャ。あれ、別に日本で大量に輸入しても、日本人って緑色のカボチャしかあんまり食べないですよね? そう、それなのに虚泉なんていう総理が輸入解禁なんて。きっといやらしく大きな虫だっているのに、そ、それをなんとか」
「大野君」
 部長が珍しく口を開く。三日ぶりぐらいだろうか。
「君は帰ったほうがいい」
「そうだな、どうも君のはネタに走りすぎてどうも、深みが無い。つまらん」
 部長に続く明らかに寝ぼけた口々。やっぱり眠っていやがった。
「もう六時になるし、そろそろ食堂も開いてるんじゃないか」
「昨日の残りの味噌汁でも有ると有り難いが」
「では、食事にしよう」
 ぞろぞろと、向かう先は十七階。
 願わくば、俺も家に帰してほしい。




Entry27
雨音の中  
さとう啓介・・・・・



 雨音が激しくなってきた。
 地面を叩付ける雨音は忌まわしい想い出を呼び覚ます。
 薄暗い部屋の中で、私はあの人の帰りを待ち続ける。一週間ぶりにあの人がここへ帰ってくる日。私は淋しさと不安を紛らわしながら、雨音の中、あの人を想う。
(どうして貴方のような人を好きになったのかしら。誰かに似ているから?)

 雨はどんどん激しさを増してくる。窓や屋根が雨に軋む。その音が私をゆっくりと取巻き、あの日の事を嫌でも想い出させる。

 蒼い樹が雨に打たれて柳のように滴れて、窓越しの風景は白い線に被われていた。
『雨がひどいわね。父さんの現場は大丈夫かしらね?』
『川が増水して今日は戻れないって。さっき父さんから電話があったよ』
『そう……』
 母は外を見つめて心配そうな顔をしていた。
 その夜、父さんの会社から電話が入った。母さんは慌てて外へ飛びだし、残された私と妹は二人の帰りをじっと待つしかなかった。不安げな顔で、お姉ちゃん、と泣き出す妹を私は雨音の中で抱きしめた。不安が大きく襲いかかり自分の方が潰れそうだった。妹の握り絞めた私の腕には小さな紅い花のような不安の痕が残っていた。
 父さんは二日後に河口付近の砂岸で発見された。
 母の喪服と妹のセーラー服が、今でも私の胸に黒く染め込まれている。
 父さんの最後の言葉が耳から離れない。
『心配そうな声をだすな』

 外の雨は脈を打つように降り続く。その音はあの日の雨音のような気がした。
 携帯のメロディが雨音に消えそうになりながら唸る。私はその光をゆっくりと握りしめて番号を見た。見慣れたその番号はほんの一時だが私の苦しみを和らげる。
「もしもし、貴方」
「ごめん、この雨だろ、現場がてこずっててさ。帰りが遅くなるかもしれないけど今日必ず帰るからな。飯の用意はしといてくれよ」
「う、うん……」
「ハハハ、心配そうな声をだすな。じゃあな!」
 電話は切れた。また雨音だけがずしんと私の心にのしかかる。振り切れない不安の中を私は待ち続ける。あの時の妹の握った腕が少しだけ疼く。しかし、そこにはあの紅い花の痕は残っていなかった。

「心配なんかしないよ、きっと戻ってくるよね。そうでしょ?」
 私は窓越しに雨を睨み付ける。
 その白く輝く線の中、胸元で小さく両手を握締めた。雨音の中父さんの声が蘇る。誰かに似た貴方の声が聞える。
『心配そうな声を……』
「だすな」
 私はそう呟いて、雨で繋がった空を見上げる。




Entry28
プロメテウスの消し炭  

ごんぱち・・・・・



 先文明遺跡の表面は熔け、風化していた。
 壁も所々穴が空き、床が抜けかけている。
「ボス、やっぱり食い物全然ねえよぉ」
 眼球が五つある少年が、戻って来る。
「遺跡食糧は、な」
 ボスと呼ばれた角の生えた少女は、地面を指さす。土と同化している床から、草が生えていた。
「ちぇーっ、またかよぉ」
 五つ目の少年はぼやく。
「手つかずの草が手に入れば上等だ」
「まあそうだけど」
「ボス!」
 その時、右ばかりがやけに大きい子供が走って来た。
「来て! ノブが変な物見つけたの!」

「うわ……凄え」
 五つ目の少年が呟く。
「なんだ、これは?」
 ボスの声も驚きに震えている。
「分かりません。でも、こんなに状態の良い機械が残っているなんて、驚きです」
 腕ばかりが異様に太い少年が、その機械に指先で触れる。
 機械は、遺跡が遺跡になる前と同じ、金属の光沢を残していた。
「百年も前の金属か」
 ボスは身震いを一つして、それに触れる。
「ツルツルだ……」
「えっ!」
「どんなの? どんなの?」
 皆が、手を伸ばす。
「待て!」
 ボスは一喝した。
「武器か、工具か、乗り物か、どんなものか分からないんだ。軽はずみにいじるな」
 彼女は、皆を下がらせ、機械を調べ始める。
 金属のボディは頑丈で、ちょっとやそっと殴っても壊れそうにない。
「動力みたいなものは、ないな」
 ボスは少しづつ機械に触れていく。
 と。
 大きなレバーが動いた。
「うわっ!」
 身を乗り出していた皆が尻餅を付く。
「ボス! 大丈夫ですか!」
「だ、大丈夫だ、ノブ。何も起こらない」
 ボスはそれから、くまなく機械に触れた。
「何も起こらないぞ」
「壊れてんじゃねえの?」
「動かし方の問題かも知れませんね」
「ひょっとしたら、動かし足りないのかも知れないよ」
 安心したのか、皆は思い思いに機械を動かし始める。動き方は様々だったが、どんなに動かしても、何も起こらなかった。
「ふぅ……」
 ボスは溜息をつく。
「やっぱり……はぁ……壊れているのか」
「ちぇっ、武器だったら、ソサイエティの追手なんか皆殺しにしてやれるのに――ぜぇ……ぜぇ」
「ひぃ、ひぃ……損傷は全く見えませんが」
「壊れてなかったら……はぁ……何だってんだ」
「何か、意味があるとか……はふー」
「どこに意味があるもんか、無駄に腹を減らせる機械に!」
 空腹に耐えかねているボスには、壁に書かれている遺跡文字――『健康器具コーナー』――を解読する余裕はなかった。




Entry29
肩たたき券を、心から。  
IONA・・・・・



母の日にカーネーションを送っていた時代は、世の中ももっとのんびりゆったりしていたのだろう、と近頃思う。
子どもに学習塾や習い事を押しつけ、「ゆとり教育」を謳っていた30年前から、親と子の関係というものはがらりと変わってしまった。

児童奉仕法、通称肩たたき法が施行されたのが20年前。この法律制定後、巷の金券ショップには購入日から2年間有効な文部科学省発行の「公式肩たたき券」が流通し、冷え切った親と子の関係を象徴するかのように、毎年の母の日には肩たたき券を親に贈る子どもが急増した。つまり、親に対する奉仕の精神を子ども自らが「提示」しなければいけない日となったのだ。

街の金券ショップを覗いてみると、この母の日以外の客のほとんどが子供を持つ親だったり、孫を持つ祖父母だったりする。私も、実は去年の誕生日には、祖父から肩たたき券をプレゼントされた。

皮肉な時代だ。

今年、私は母の日に肩たたき券を贈ることに決めた。とは言え、買うのではない。30年以上前の子ども達がやっていたように、自作の肩たたき券をプレゼントするのである。5枚綴り。もちろん無料の肩たたき券。

「はい、これ」
わざとぶっきらぼうに私は言ってみた。
「なによ」
母はちらりと私を見た。
「プレゼント。母の日でしょ」
早く開けてよ、とでも言わんばかりに、私は母の顔をじろじろと見て言った。
包装紙が破かれて、姿を現した肩たたき券。私の汚い字で「肩たたき券、有効期限なし」。
母の反応を伺っている私を尻目に、彼女はくすくすと笑い出した。
「そりゃあ、字は汚いけどさ、そんなに笑わなくても……」
それでも母は笑う。
「だって、これじゃまるで私の時代じゃない」
母は少し涙目になっていた。
一度だけお父さんに肩たたき券をプレゼントしたことがあるの、と母は言った。
「お父さん、つまりあなたのおじいちゃんったら、『今時珍しいな』しか言わないの。ありがとうも言わないし」
母はそう言ってまた笑い出した。
そんな母を見て、私もなんだかおかしくなって、笑った。
「安心して、まだ使わないから」
泣きながら、母も笑った。

それから5年後、成人式を迎えた私を見守ってくれるはずの母は、もういない。
あのときプレゼントした肩たたき券を、母が使ってくれることは結局無かった。
「あなたの成人式の日に、5枚一気に使ってあげる」
母の言葉は、騒がしい体育館の天井に、まだこだましている。

その日、私は泣きながら、笑った。