第53回1000字小説バトル

エントリ作品作者文字数
1じいさんときなこ中川きよみ1000
2飼育有機機械969
3ムカシムカシアルトコロニスナ2号1000
4君がいない羽音965
5『サンセット・オレンジ』べんぞう1000
6飛ぶ鳥のように夢追い人1000
7歯車が崩壊する音浅田壱奈947
8(作者の要望により掲載終了しました)
9不思議な易者満峰貴久1000
10マッチ・ポイント長田一葉994
11頑張れの復権ごんぱち1000
12ドッペルハンマーパーティー1017
13あの時の薊(アザミ)さとう啓介1000
14プレゼントのミステリ。もしくはファンタジー木葉一刀1000
15ミニトン越冬こあら1000
16蛙飛び出す土筆994
17クローズ鈴矢大門1001
18怪物日向さち1000
19膝を曲げて息を吐け。アナトー・シキソ1000
20あのね、パパはね太郎丸1000
21ソダツ。犬宮シキ1000
22葬むらんながしろばんり1000
23チョコレートサンデーるるるぶ☆どっぐちゃん1000
24『わたしの空』橘内 潤926
 
 
バトル結果発表

バトル開始後の訂正・修正は、掲載時に起きた問題を除いては基本的には受け付けません。

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感想をお送りいただいた皆様、ありがとうございました。





エントリ1  じいさんときなこ     中川きよみ


 座敷の隅に、またじいさんが来ていた。彼岸と盆に几帳面に来ていることは知っていたが、ここ数年は大晦日にも来ている。最初、本気で歳暮の挨拶かと思ったが、違った。きなこを調達する使いだった。

 今年は夏が殊更暑く、とうとう越えられずにばあさんが逝った。近所で専らクマと呼ばれていた気の強いばあさんもようやく年貢を納めたという訳だ。だから、もうじいさんは来なくたって良い筈だが、まだ出会ってないものか遠慮がちにちんまり座っている。
 気が強いからクマというわけではない。まだずっと若い頃、熊を投げ飛ばしたからだと言われている。けれどそれは実は熊ではなく浮気して外に子供を作ってしまったじいさんだったらしい。実際、じいさんは羆のような大男だった。怒りに駆られて投げ飛ばしたばあさんはといえばこれまた華奢な身体つきで、にわかには信じられないがどうも事実のようだった。
 心が強く寡黙なばあさんは、黙々と生きてきた。長い年月をかけても一向に歩み寄らない、運命的に気が合わない夫婦だった。じいさんは小心者だったが家に居るのが気詰まりなのか浮気ばかりしていて、ばあさんはそのことには何の関心も示さなかったが、子供を作るのは別だった。金がかかるというのだ。つまり二人の間の感情といえばその程度だった。
 じいさんはばあさんに出された要求には必ず従っていた。きなこだって、そうだった。年の暮れに餅をつくと、いくつかをきなこ餅にして食べるためにじいさんは必ず買いに走らされていた。些細な手伝いではあるものの、どういう具合かばあさんはきなこの調達を厳命していた。だから、いまでもじいさんはきなこを持ってぼーっと座敷に座っているのだ。「ふんっ」と言って受け取るばあさんはもはや居ないというのに。そして不思議なことに、そこまでさせるくせに、ばあさんはさしてきなこ餅が好物という訳でもなさそうだった。

 クマのばあさんも、年には勝てずに晩年はいくらかボケていた。
 脳血栓でとうに亡くなったじいさんのために真夏に餅をつこうとしてふとこう言っていた。
「じいさんは血が粘っとるからなぁ、きなこがええらしいんじゃ。」
 じいさんの7回忌が無事に終わったのを見届けたように、ばあさんも逝ってしまった。

「じいさん、じいさん、ばあさんはもうおらんよ。」
 耳の遠いじいさんに大声で呼びかけると、一拍以上の間を置いておおっ、と驚いて、それっきり消えてしまった。






エントリ2  飼育     有機機械


 僕はロリコンではないので幼女にエロティックな感情を抱いたりはしない。でも、幼い女の子を美しい女性に育ててみたいし、かわいい女の子を側に置いておくのも悪くない。それで僕はさゆりをさらった。
 僕は一見さわやかな好青年で、実際子どもは好きだったのでさゆりはすぐになついてついてきた。僕はさゆりの欲しいものはなんでも買ってあげて、おいしいものもたくさん食べさせた。お姫様のように扱われてさゆりは家に帰りたいとも言わなかった。外出したい時は遠くの都市まで二人で車で出掛け、勉強も僕が教えた。さゆりは学校の授業よりも、僕の教える勉強の方が分かりやすいし、面白いと言ってくれた。風呂も一緒に入ったが、あくまでも僕はロリコンではないので、さゆりの身体に欲情することはなかったが、さゆりの10年後を思うと興奮した。
 さゆりが一度だけ、家に帰りたいと言って泣いたことがあった。僕はたださゆりを抱きしめ一緒に泣いていた。なんと言葉をかけていいのか、それどころか僕は何を思えばいいのかさえ分からなくて、ただただ祈るようにさゆりを抱きしめて泣いた。
 それから僕はいっそうさゆりを優しく大事に育て数年が経った。思春期を迎えたさゆりは美しい少女になっていたが、それでもまだ幼さの残るさゆりに僕は手を触れる気にならなかった。思春期のさゆりを僕はよく映画に連れて行き、その内容について二人で語りあった。
 さゆりをさらってからだいぶ経って僕の警戒感は緩み、近くの公園にも二人で出掛けるようになった。僕達は年齢から言えば親子でもおかしくはなかったし、歳よりも若く見られる僕とさゆりは兄弟と言っても通じそうだった。僕はその公園にある様々な運動施設で、さゆりにいろいろなスポーツを教えた。さゆりはどんなスポーツでも器用にこなし、すぐに僕よりも上達した。
 さらに数年が経ち、僕の知識と思想と運動技術を全て身に付けたさゆりはとても魅力的な女性になった。でも、僕はこの十数年さゆりと暮してきて、いつさゆりを自分のものにすればいいのか、そのタイミングを計りかねていた。というよりもその気がなくなってしまっていた。僕はたださゆりが明るく強く美しく育ってくれたことがうれしくて、それだけで幸せだった。だからさゆりが彼のもとに行きたいと言った時も寂しかったが止めなかった。
 我が娘よ、幸せに。






エントリ3  ムカシムカシアルトコロニ     スナ2号


 化け物がいた。
 
 それはそれはおぞましい姿をしていて、その姿を人目見た者は、恐怖に震え上がった。
 化け物は、ある日、農家の納屋で生まれた。
 ころころとかわいらしい子犬たちに混じって、ただ一匹、明らかに子犬ではない「それ」はいて、その姿を見た農夫は悲鳴を上げた。
 殺されそうになった「それ」は、生まれたばかりの体をもつれさせて、納屋から逃げ出した。
 暫くの間、他の農家で、家畜のおこぼれをあさって生きていたが、ついに村人に姿を見られ、森へ逃げ込んだ。
 頭の良い化け物は、自分の姿形が、人に恐怖を与えることを知っていたため、もう二度と村へは近づかないことを誓った。そして、人知れず、何日も木の上で泣き明かした。
 森での暮らしは厳しく、悲しみと飢えが化け物を打ちのめした。
 そんなある日、化け物は一人の少女と出会った。
 「おいで」と少女は言い、持っていたお菓子を化け物に与えた。
「怖がらなくてもいいのよ」
 それから、少女は、毎日同じ時刻に同じ木の下に現れた。彼女は、森の中の屋敷に住む、金持ちの娘だった。
 少女は、化け物に怯えもしなければ、悲鳴を上げることもなかった。
 笑顔を向け、優しく体をなでた。
 化け物は、それがかたくなになった自分の心を癒していくのを感じたが、それは少女の目が光を映さないためだと分かっていた。
 それでも構わない。この娘の側で、いつまでも穏やかに暮らしていけるのならば。
 しかし、ある日、少女は姿を現さなくなった。
 化け物は、木の上で何日も少女を待ち続けた。
 何日も何日も待ち、何日も何日もたったあくる日、少女が現れた。
「出ておいで、ポプリ」
と少女のつけた化け物の名前を呼ぶ。
「私、目が見えるようになったのよ。お父様が、街で偉いお医者様を見つけてくださって、目を治していただいたの」
 嬉しさのあまり、化け物は全てを忘れ、少女の目の前に飛び出した。
 沈黙。
 化け物は、少女の顔が凍りつくのを見た。
 その目は、確かに化け物を見ていた。
 恐怖に引きつったその顔は、化け物が最も忌み、恐れていたものだった。
 そして、
 悲鳴が響くことは無かった
 化け物は、生まれて初めて濃厚な血の味を知った。
 様々な感情が、溶けて、混ざり、そして消えた。
 もう、人から姿を隠す必要は無くなり、化け物は、化け物になり、新しい獲物を求め、村を目指していった。

 化け物がいた。それはそれはかなしい化け物がいた。
 





エントリ4  君がいない     羽音


 君がいない。唐突にそう思った。

 別れたのは、もう随分と前。いや、もう三年は経ってる。何をいまさら…、車を運転しながら思った。
 あれだ。さっき、君とよく行った店で、君に似た人を見かけた。君かなぁ、と思って、慌てて目を逸らして俯いて足早に通り過ぎたけれども、もしかしてあれは君だったのかもしれない。
 少し、僕のほうを見た。でも僕は見なかった。視界を低くして、君らしき人を見ないようにした。
 おかしな話だ。もう三年も経っていて、今度君に会ったなら、笑顔で話しかけられると、そう思っていたのに、現実はこの有様。似てるな、って。そう思っただけで、鼓動は痛いくらいに鳴って、その場から消え去りたいくらいに僕の心は縮んだ。
 とても好きだった。好きで好きでたまらなかった。きっともう、あんなに人を好きになることはないんだろう。僕らは好きなままで別れてしまった。いや、別れなくてはいけない運命だった。別れ、というのは、いつだって突然にやってきて、本人達の気持ち関係なく、何もかもを奪い去っていく。
 人は別れるために出会うのだと、何かの本で読んだ。だとしたら、絶対に別れない方法なんてないのだ。どんなに愛し合っていても、いつかは、みんな別れるんだ。

 そう思ったら泣けてきた。別れるために、僕と君が出会ったのなら、もしかすると出会わないほうが、僕にとっても、君にとっても幸せだったのかもしれない。
 だって、そうだろう。
 どうして、あんなに辛い想いをしてまで、僕らは別れなくちゃいけなかったのか。出会ったから別れるの? 別れるから出会うの? 君はどう思ってるかな。
 もしも、さっきの人が本当に君だったとしたら、今君も同じようなことを考えているかもしれない。僕と君は思考がよく似ていたからね。そしてさ、君も泣いているのかもしれない。

 ぽつ、ぽつ、と雨が降ってきた。フロントガラスを叩く雨は、僕と君の涙。丸い粒が転がって、すじを作って、ひとつの線になっては車を濡らしていく。

 君がいない。そんなことはわかっているさ。誰に言われなくてもわかっているよ。

 空から降る君の涙。出会わなければ良かったなんて、そんな僕を許してくれよ。君に似た人を見かけたんだ。それだけで、僕は泣けるんだ。心が千切れそうになるんだ。

 君がいない。君はいない。
 雨はいつまでも降り続いた。






エントリ5  『サンセット・オレンジ』     べんぞう


『・・・んあ?なんか手がベタベタするけど・・・血? 血だ!!何があったんだ?あ、竜ちゃん!たっ・・・し、死んでる!!!』


よく晴れた日曜の朝、僕は慌てて警察に電話した。自分の部屋で竜彦が頭から黒い血を流して死んでいたんだ。よく見ると頭蓋骨が割れて茶色い脳味噌が出ていた。それを見た瞬間、吐き気を抑えられなくて洗面台へ走った。一体僕の部屋で何があったのだろうか?不思議なことに昨日の夜の事は全く覚えがない。今朝より前の記憶が飛んでいる。



隣の部屋の片隅でどうしていいか分からずにいるうちに警察がやってきた。中年の刑事に事情の説明を求められたが、とにかく今朝、目が覚めたら子供向けヒーローアトラクションのバイト仲間で、サンライズレッド役の竜彦が自分のすぐ隣で頭から血を流して死んでいたこと、自分には昨日の記憶が一切残っていないことを正直に話すしかなかった。目の前で慌しく進んでいく現場検証を見ながらも気の毒で竜ちゃんを見ることはできなかった。

事情聴取で警察署に向かう直前、事故ではなく、まさかひょっとしたら誰かに殺された可能性もあるのか、とそこに居た若い検察官に尋ねてみたが、こちらをチラリと見た後、首を傾げただけだった。



一人でポツンと待たされるドラマのような取調室。ただし僕は犯人ではなく、その場に居ただけの参考人だ。取調室はもちろん初めてだが、思っていたような辛気臭い場所でもないし、ましてやカツ丼なんか出てこない。


長いこと待たされ、やっと入ってきた中年の刑事さんの手にはオレンジ色のリキュールが提げられていた。なんかこれ、最近見たことあるような・・・気のせいか。刑事さんが勧める。何故だ?コップに注いだオレンジ色のお酒を見つめる。


躊躇しながら口をつけた。ビールやワインとかは飲めないけど、この銘柄の甘いリキュールならなんとか飲める。なんでこの刑事さんが知ってるんだろう?ああ、いけない、酔いが回ってきた。取調べ中なのに・・・。





次に気が付いたときには手錠が掛けられていた。中年刑事はテープレコーダーを僕の前に置いておもむろにスイッチを入れた。


「だからねぇ、酒も飲めないタツが俺の事をコドモ呼ばわりしたから殺してやったんだ!悪いのはヤツだからねぇ。たとえリーダーであろうと悪いヤツは倒さなくちゃ、ムーンイエローのこの俺がね。」



・・・明らかに僕の声だった。オレンジ色のリキュールに映る手錠がカチャリと鳴った。






エントリ6  飛ぶ鳥のように     夢追い人


 気が付くと僕はふわりと宙に浮いていた。
 たっぷりと整髪料を付けたらしく髪をテカテカに光らせた中年の男が新聞を片手に握り締め歩いている。夜のお仕事からの帰宅途中なのだろう、真っ赤な服を着た若い女がタバコの煙を振りまき闊歩している。学生らしき青年は信号が変わるのを待ちながら、本を読んでいる。この青年のいる交差点から少し離れたところに、頭から血を流した僕が仰向けになって倒れている。

空から俯瞰した景色の、ただ一つの違和感。あるべきでない障害物。

僕は愕然とした。死んだことに愕然とした。それよりも、誰一人として、倒れて血を流した僕に気づいてくれないことに、さらに愕然とした。
「普通、気づくだろう。早く気づいてくれよ」
 怒りという感情になれない失望感を吐き出した。

 僕が宙に漂ってから十分近く経った頃、ボサボサの髪をした男が僕を見つけた。
「大丈夫か?生きてるか?」
 僕は六階建てのビルと同じくらいの高さに浮いているというのに、声は地上で倒れている死体の耳から届くらしく、男の声ははっきり聴いて取れた。これが僕の死後、初めての感謝である。生きている頃には、これほどにも人のやさしさが胸に染みたことはなかった。死んだせいで感傷的になっているのかもしれない。

 さらに十分経ってからようやく救急車が来た。運び込まれる死体と一緒に何故か第一発見者である男も救急車に乗り込んだ。救急車が走り出すと、死体と僕がまるで糸か何かで繋がっているようで、凧みたいに僕は空中を引っ張られて行った。僕は空を見上げて、薄い雲が垂れ込めた冬の空を見るのはこれで何度目だろう、と思った。

すぐに病院に到着し、やっと僕も空中の一点に落ち着いた。やがて金属の擦れあう音がして、死体が手術室に入ったことを悟った。薬品のつんとする匂いが鼻につく。医者の乾いた声が事務的に飛び交っている。看護婦の声もまた事務的に。まもなく死体の目が開かれたらしく、僕の視界に医者が現れたかと思うと眩しい光が僕の目を射て、再び視界は遥か上空からの俯瞰に戻って……

「午前六時二十三分。ご臨終です」

死んだのか。ひき逃げされるなんてお前も可哀想だな。俺も昨日会社クビになって家に帰れないまま歩いてたら、血を流して倒れてる奴がいたから驚いたよ。自分の未来を見てるような気がしてさ。でもお前に会えてよかった。家に帰ることにしたよ。母ちゃん、心配してるだろうなぁ。
じゃあな。






エントリ7  歯車が崩壊する音     浅田壱奈


 電話は、もうとっくに切れてしまったけど、私はまだ呆然とそれを耳に押し当てている。ツーッ……ツーッ……ツーッ……無表情な音がいつまでも、私の耳の中で鳴り響いている。
 そして、最近何回も考えるようになったことを頭の隅でぼんやり考えた。
 どうしてこんなことに。


 いつからだったのかな。私の気づかないうちに、歯車が少しずつ狂っていたみたいで、おかしいなと思ったときには、もうどうしようもないスピードで狂っていた。止めたくても止められない。止めることができない。
 狂い始めた歯車は、どんどん勢いを増して……。


 彼とはうまくいっていると思っていた。でも、実際は違っていたのだ。私の知らないところで、彼は浮気をしていたのだ。私の親友と。
 そしてつい二十分ほど前に、彼は親友の元へ行ってしまった。要するにフラれたのだ。
 信じていた人たちに、いっぺんに裏切られたと認めた途端、いっきに涙が溢れてきた。電話をその辺に放り投げて、私は産まれたての赤ちゃんみたいに声を上げて泣いた。泣いても泣いても、涙は枯れることなくどんどん流れていく。

 会わせるんじゃなかった。
 彼とあの子を会わせるんじゃなかった。きっと、彼とあの子が顔を合わせた瞬間から、何かが狂い始めたんだ。
彼らは、どういう気持ちで私のことを見ていたのだろう、どういう気持ちで付き合っていたのだろう。影で私を嘲笑ってのだろうか。だとしたら、今の私はかなり情けないな。
 いくら後悔しても遅かった。終わってしまったんだ。何もかも。失ったものが、あまりにも大切すぎて、私は気を失いたくなった。この世の中の一部から消えたいと思った。
 それでも、どうすることもできない私は、彼への思いも一緒に流れてくれと願いながら、ただひたすら泣くことしかできなかった。


 狂い始めた歯車は、どんどん勢いを増していき、やがてなんでもなかったように、ぴたりと止まった。気持ちが悪いほどの静寂。でも、止まったのはほんの一瞬だった。
 歯車が、崩壊を始める。今まで築き上げてきたものがどんどん崩れ落ちていく。その音があまりにもうるさくて、私は必死で耳を塞いだ。涙は止まらない。崩壊も止まらない。
 泣きながら、耳を塞ぎながら、私はずっと叫んでいた。

 どうしてこんなことに。
 どうしてこんなことに。






エントリ9  不思議な易者     満峰貴久


「私は天国にいけるでしょうか」
 ある駅前の片隅に出ている易者にそう尋ねた。

 そこは夜遅くなっても人通りがあり、ぽつぽつと易者が店を開いている。いつもなら通り過ぎてしまうのだが、その日は忘年会の酔いもあったせいか、気になる易者の姿を見つけたため、ふらふらとその前に腰掛けてしまったのだ。ぎょろりとした目に黒い髭、黒いガウンを着て頭には易者らしくない烏帽子のような物をかぶっている。筮竹も天眼鏡も小道具らしい物は何も持っていなかった。

「何故そんなことを知りたいのですか」
 易者は私の顔をじっと見て聞き返した。
「あ、いや、私も何故急にこんなことを占ってもらおうとしたのか内心びっくりしてるんですけど、私は今まで悪いことなんかしたことないですから、死んだら天国に行けるんじゃないかと思いましてね」
「それでしたら何も占うことはないでしょう」
「まあ、そう言われればそうなんですけど、ただ、」
「ただ?」
「この先、何か悪いことでもするようなことになって地獄に落とされでもしたら嫌だと思ったもので」
「前世でね、悪いことさえしなければいいんですよ。そうすればあなたは天国へ行けますよ」易者はじっと私の顔を見つめて言った。
「そうですよね。悪いことなんかしようと思ったこともないし、これからもする筈ありませんよ」そう言って席を立とうとした時、「あなたは地獄をどんな所だと思っていました?」と聞かれた。
 易者からの意外な質問に、私はありきたりなことを答えた。
「そりゃあ、針の山だとか血の池地獄とか、皮を剥がれたり、鬼に追い立てられたりして休む暇もなくひどい目にあう所でしょ?」
 すると、以外にも易者は大きな口を開けて笑った。
「ははは、そんな所じゃありませんよ。地獄にだって楽しいことは沢山ありますよ」
「え? だって、地獄ってそういうところなんでしょ」
「いいえ、鬼なんかいないし、針の山とかもないし、あなたが思っているような所じゃありません。ただ、苦労というものがあるだけです。」
「苦労?」
「そう、生きるため、食べるために働く。他の者より少しでも上に昇りたい、楽をしたいともがく。しかし、どんなに成功しても失敗が待っているし、幸せだと思った瞬間に不幸が訪れる、その繰り返しの場所なんです。そうやって、生きている限り苦労し続ける世界なんです」
「え、それってもしかして、この世みたいじゃないですか」
 笑い声とともに易者の姿は消えた。






エントリ10  マッチ・ポイント     長田一葉


 第三セット14対12。一本落とせば、負ける。第一セット15対3で取られ、開き直った第二セット、ひたすら粘り15対13で取った。彼はラケットでふくらはぎを叩き、震える足の感覚を取り戻そうとした。グリップを強く握る。シャトルを打つ力は残っている。
 相手がサーブの構えに入る。彼はシャトルに集中しつつ、ネット越しに相手の動きを注視した。ロングか、ショートか。
 来た! 
 ロング。フォア奥に来たシャトルを、彼はストレートのクリアで返そうとしたが、右足親指に痛みが走り、体がぶれた。シャトルはまっすぐ飛んだが、距離が伸びない。相手がシャトル下に入り込んだ。
 何が来る? 
 彼は全身をバネにして相手のショットを待った。
 ほんの一瞬、時間も空気も止まったような緊張感。
 クロスカット。彼は冷静にシャトルに追いつき、フェイントを入れて、ヘアピン。きれいな軌道。相手が勢いよく前に出て、バック奥に大きく返してきた。
 取る! 
 ひたすら足を運び、ストレートのクリアを打った。相手の動きを追う。相手もストレートのクリア。また、バック奥。右足親指が痛み、シャトル下に入り遅れた。手打ちのシャトルは、中途半端なクリアになった。それはつまり、相手にとってのチャンスボール。
 来る! 
 彼は身構えた。スマッシュレシーブは得意だ。レシーブから巧く切り崩して、逆にチャンスを作ってやる。案の定、スマッシュが来た。フォア側、ライン一杯。右手を思い切り伸ばしながら、グリップを端一杯に持ち替える。
 届け! 
 シャトルがフレームに当たった。ギリギリ。汗が落ちた。シャトルはネットすれすれを越えた。相手が体勢を崩しながら追いつき、シャトルを上げてきた。しかし、中途半端だ。
 跳びつけ! 
 彼は、右足に力を入れた。右足がフロアを蹴る。
 しかし、右足に伝わってきたのは、大きく滑る感覚。
 汗。汗で滑った。左手をフロアにつき、左足を蹴りだす。
 追いつける! 
 なんとか追いつきバックハンドで打ったシャトルは、緩く相手正面へ飛んだ。シャトルが、彼の足下に叩きつけられた。
 足の力が抜け、フロアに両膝をついた。両手をつくと、相手の姿も、ネットも見えなくなり、自分の手だけがにじんで見えた。フロアについた両手の間に、ぽたり、ぽたりと、しずくが落ちた。
 これは、汗だ。
 彼は自分に言い聞かせながら、右手に巻いたリストバンドで何度も何度も両目をぬぐった。






エントリ11  頑張れの復権     ごんぱち


 放課後の教室で、参考書を広げていた柴田正也はふと顔を上げた。
 五時前だというのに、冬間近の太陽は沈みかけていた。
「暗いな……」
 呟いた瞬間、蛍光灯がついた。
「!」
「あ、驚かせちゃった?」
 教室に、荒島祐二が入って来る。
「受験勉強?」
「参考書広げて、他に何やるってんだよ?」
「例えば……」
「下手なボケとか考えねえでいい」
「ちぇっ」
 不満そうな顔で、祐二は正也の参考書を覗き込む。
「へー、地学やるんだ?」
「ああ。結構狙い目らしくて」
「うんうん、頑張ってよ」
「――のさ」
 正也は眉をひそめる。
「なに?」
「『頑張って』ってのは、頑張ってる奴に対して言う言葉じゃねえだろ」
「あれ? 知らないの?」
「え?」
「『頑張って』っていうのは、古事記にも出て来る表現で、国造りの時にイザナギがイザナミに言ってるんだよ」
「そうなのか?」
「……ふふふ、引っかかったね」
「またかよ」
「出自はともかくさ」
 祐二は椅子の背もたれに腰掛ける。
「何か『頑張れ』って言葉が、いつの間にか使い難くなってない?」
「意味考えると使えないって。まあ、代わりにどんな言葉があるかって言われても困るが」
「そこだよ」
 びしりと祐二は正也を指さす。
「どこだよ」
「そこ、ほらキミの右肩の後ろの辺りに白いモヤモヤしたものが……」
「違うだろ!」
「うん、違うね」
「用事ねえなら帰れよ。そろそろ予備校行くんだから」
「『頑張れ否定論』が出てから、人を応援し難くなってるのさ」
「ったく、お構いなしに話を続けるなよ」
「頑張ってる相手に『頑張れ』はおかしい、とか、人に命令するべきものなのか、とか、鬱病患者には禁句だとか、色々言うけど」
 窓の外から見える空には、星が出始めていた。
「『頑張れ』って、もっと無責任に使えるものだと思うんだよ」
「そーかぁ?」
「『頑張れ』を避けて何も声を掛けないより、『頑張れ』を言った方がいいと思わない? 昔だって今だって、その人を応援したいって気持ち以外、何があったと思う?」
「言われてみれば、まあ」
「だから、僕は『頑張れ』の復権を求めて、日夜活動しているんだよ」
「活動なんかしないで、受験勉強しろよ」
 正也は苦笑いを浮かべる。
「……悪かったな。『頑張れ』って言われたら、素直にありがとうって言えば良いんだな」
「え? さっきのは違うよ」
 祐二は正也の参考書を指さした。
「そことこことそれ、間違ってるよ。もっと頑張らないと全っっっ然ダメだね」






エントリ12  ドッペル     ハンマーパーティー


 俺は俺自身が街角に立っているのを見て驚いた。俺は、そういう不条理なことを黙って見ておけない性分だった。俺は俺自身に向かっていった。
 私は私自身が私を見つめているのを見たのだった。そして私が私に対して、何か言いたそうにして私に近づいてくるのを見て驚愕した。私は走って逃げた。
 僕は驚愕していた。僕が二人いて、僕が僕をにらんで追いかけていくのだ。こんなことがあっていいのだろうか。僕は二人のあとを追った。
 自分は驚きを禁じえなかった。自分が自分を追いかけていて、もう一人の自分がその後をつけていっているのだ。身震いを禁じえなかったが、自分もあとを追わずにはいられなかった。
 オイラはびっくらこいた。オイラをオイラが追いかけていて、二人を尾行するオイラを震えながらオイラが眺めてるんだ! オイラは道端にあった自転車を拾って四人を追いかけた。
 俺が俺自身を捕まえようと走っていると、後から足音が聞こえた。走りながらちらっと振り向くと、俺が三人、俺たちを追いかけていた。しかも最後のやつは自転車に乗っている。卑怯な俺め。
 オイラは自転車を必死でこいだ。と思ったそのときだった。タイヤがパンクして、オイラはその衝撃で道端の溝に吹っ飛ばされてしまった。オイラは走っていく四人のオイラを黙って見送るしかなかった。
 自分は夢中で走っているうちに、後ろの自分が消滅していることに気づいた。すると自分も幻なんだろうか、と思った。走るのをやめた。前の三人が遠ざかっていく。なんなんだ、と自分は思った。
 僕は後ろの二人の僕が消えていることに気づいた。いわゆるあの現象なのだろうか? しかし二人も? すると僕もそれなんだろうか? そんなことを考えているうちに僕は自分の行為に疑問を感じた。僕は走るのをやめた。
 俺は必死で俺を追いかけた。後ろの三人が消えているのを確認して、俺がほんとうの俺なのだ、と確信を持った。ならば、ニセモノの俺を捕まえなくてはならない。だが、いくら走ってもニセモノの俺を捕まえることはできなかった。運動神経に自信があった俺は悔しかったが一人ぐらい俺のニセモノがいてもいいか、と思わざるをえなかった。
 私は私を追いかけてきた四人の私が消えていることに気づいた。だが不思議でもなんでもない。私が本当の私なんだから、彼らが私に追いつけるはずがないのだ。私はホッと一息ついた。別に私が何人いようとかまわないが、目の前には現れてくれるな、と思った。






エントリ13  あの時の薊(アザミ)     さとう啓介


 今夜もあの人の所へ向う。冷たい空気がそこら中に張りつめて、今夜の私に突き刺さる。窓から漏れる暖かい光。庭の隅に薄く影を落とす花。秋夜に咲く薊はまるで私のようだ。
(空っぽになった心。あの人の家庭を傷つける為に?)

『お前には優しい心が無いの?』
 昔、母の言った言葉が、今日届いた風の便りと一緒に私の胸に苦く響いていた。
(あの子、結婚をするんだね。私……こんな姿で良いの?)

 妹は私と三つ違いで、小さな頃からとても優しく、悲しい事にとても敏感な子だった。
 ある日、私が家に帰って筆箱を開けると、羽と頭と胴体をバラバラにされた蝶の死骸が入っていた。私は思わず叫び、泣出した。妹はそんな私に、お姉ちゃん泣かないで、と何度も私の頬を撫でてくれた。妹はその蝶を庭先に咲いたの薊の根元に埋め『アザミが守ってくれるよ』と小さな手で私の手を握った。そんな優しい妹だった。しかし、おっとりとした気性は私を苛立たせ、中学、高校となるに連れ、だんだんむかつく存在になっていった。両親の接する態度も私と妹ではまるで違ってきた。
 やがて私は瑞々しさを失った、棘だけがギザギザと鋭い人間になっていく。そしてあの日、些細な事から妹と喧嘩になり、その鋭い棘で妹を傷つけた。初めて人の赤い血が無意味に流れるのを見た。私は自分が怖かった。逃げたかった。
 家を逃げ出した私は、その日暮らしと言う言葉が身体にゆっくりと染込んでいき、二十歳になる頃には世の中の罪を一通り経験していた。

 踏切の警報器が赤い影を落とし、幾つもの暖かな車窓が私の前を楽しげに走り過ぎて行く。その線路の側には赤黒い薊が首を垂れて揺れていた。
(私の知らない十年……)
 妹は保母をしていて来春、地元の人と結婚をするらしい。もうすぐ定年する父や母と一緒に暮らし、親の面倒をみると言っていたそうだ。

 春に咲く妹。地味なれど艶やかに彩る紅紫色。しっかりと上を向き、皆を守り続ける為の棘を持つ、心優しい春の薊。
 秋に咲く私。皆から忘れられた赤紫色。枯れ葉の中に唯一人、棘を纏い傷つけられる事を恐れ、首を垂れる秋の薊。
(……に帰りたい。帰れない。)

 私は遮断機の上がった踏切のずっと向こうを見つめた。夜の街灯はゆらゆらと輝き、瞳の中で光を増しながらあふれ出す。
 何度も越えた踏切が、今夜は大きな深い溝になって私を拒む。
 私の足下に咲いた赤黒い秋の薊は、今夜の私の姿なのかもしれない。






エントリ14  プレゼントのミステリ。もしくはファンタジー     木葉一刀


 街中にクリスマスのイルミネーションが燈り始める頃。またはICQの着信音の様なハト時計を聞くと思い出すんだ。
 僕がまだ小学2年生の時の妹と体験した話。
 そう、あの晩の事は良く覚えているよ。

 子供にとっちゃサンタさんは憧れの存在だろう? 僕だって例外じゃなかった。親がプレゼントをくれているんだ、何て割り切れるようになったのは小学6年生の頃だったと思う。
 そして、事が起きたのは、勿論クリスマス前夜。枕元が楽しみな夜さ。
 事件…って程の事じゃないけど確かに起きたんだ。未だ思い出すファンタジーが。

 今年こそサンタの正体見たり、と意気込んでいた僕はその晩、中々眠れなかった。遅くまで起きていれば喉も渇く。それで寝る前に水を飲んでしまったりする訳さ。そうなると、夜トイレに目覚める。
 当時、僕は父と同じ部屋に寝ていてね、トイレに行きたくなると父を起こすんだ。トイレが家の離れにあるものだから、夜は暗くて恐い。
 僕等が起きる物音を聞いてか、母が妹を連れて起きてきた。それで妹も一緒にトイレに行く。時間は3時。真夜中だ。何で時間を知ったかといえば、居間に柱時計があってね、それが三回鐘を打ったから覚えているんだ。
 トイレを済ませ、妹と「サンタ来てるかな」なんて話しながら、二人で家の中を一回りしたんだ。父は一足早く寝床へ戻っていた。
 家の中を一周して、最後に出入りするなと言われている客間に入ろうとしたとき、僕等は不意にハト時計の声を聞いたんだ。
 そうすると突然眠くなってしまったんだ。僕等は客間を開ける事無く、無言で布団へと戻ったよ。

 そして翌朝、確かにサンタは来ていた。枕元の靴下にこそ入って居なかったけど、ちゃんと僕等が欲しがったプレゼントが置かれていた。
 でもね、もっと驚いた事に客間にはもう一つ、僕等宛てにプレゼントが置かれていたんだ。
 それも大きな靴下に入った、子供ながらに遠慮してサンタさんにお願いしなかった本当に欲しかったおもちゃが。
 このとき声を上げたのは母だった。今思えば母は驚いていたのさ。

 最近気付いたんだ。あれは両親からの贈り物では無いって。
 では誰からの物なのか。
 妹はサンタさんからだと言っている。少なくともあのプレゼントに関しては。僕はと言うと、あの謎を解きたいと思っている。だから此処に記してみたんだ。
 誰か素晴らしい意見を僕に与えてくれないだろうか。
 そう、僕に木葉一刀に。






エントリ15  ミニトン     越冬こあら


 職場で苛められている。結婚相手がいようが、男性経験が多かろうが、何色の下着を着ていようが、全く関係ない連中に勘ぐられ、揶揄される。単調な事務作業と雑用の上にこの苛めが加わり、アパートに辿り着く私は、ボロ雑巾だ。
「少し言い返してやればいいのよ」そうアドバイスしてくれる先輩は、苛めに屈することなく、笑いながら反撃しているが、引っ込み思案の私は、そんな風に出来ない。

 ミニトンについては、以前隣に住んでいた学生さんに教わった。週一回、どこから見ても怪しげな兄ちゃんがパック入りを届けてくれる。代金はその都度現金払い。
 十数匹がワンパックになっているミニトンは、その名の通り、親指ほどの極小豚で、極小の声で鳴きながらクネクネとパック内を動き回っている。
 その日私を苛めた奴らの数だけ、ミニトンを取り出して良く洗い、沸騰した鍋に一匹づつ入れる。鍋の上にかざすとミニトンは湯気を避けようと、クネクネと身を捩る。その姿をしばらく眺め、ゆっくりと鍋の中に放つ。音も立てずに絶命するミニトンだけが私の心を癒してくれる。
 食感も良く、色々な料理に使えるミニトンは食材としても便利で文句無しだが、配達の兄ちゃんだけは好きになれない。

 そんなある日、いつものように疲れきった体を引きずって帰った私は、明日がミニトンの配達日である事を確認し、残り二匹になったミニトンをフライパンに乗せようとしたところで、意外な抵抗にあった。パックの中の二匹が堅く抱き合って震えていたのだ。
 私の心に同情が湧いて、私はしばし動きを止めた。しかし次の瞬間、怖がって震えている二匹をフライパンに乗せる快感を想像し、背筋がゾクゾクするくらい興奮した。
「ちょっと待って下さい」って、こいつ喋れるんだ。
「私の妻は、身篭っています。明後日には、たくさんの子を産みます。食べるのはその後にして頂けないでしょうか」って、えっ。そうか。迂闊だった。
 ミニトンは他の家畜同様に繁殖するのだ。この二頭を種ミニトンにして自分で養殖すれば、毎週購入する必要はなく、怪しげな兄ちゃんも見なくて済むのだ。それだけじゃない。養殖を手広くやって販売すれば、収入の術となって、今の会社を辞められるかもしれない。頭の中にミニトン長者の夢が広がった。
 私の心が読めたのか、ミニトン夫婦は目に涙を浮かべて幸せそうに抱き合っていた。ゾクゾク。

 幸福な二匹はこれまでで一番美味しかった。






エントリ16  蛙飛び出す     土筆


 蛙が古池から飛び出した。あまりにも有名な、かの蛙のように、古池に飛
び込んだのではなく、池を飛び出したのだ。
 それから垢染みた和服の男を追った。男は両の手を袂に入れて、案山子の
ように危なっかしく傾きながら歩いて行く。あまり近づくと踏まれるので、
用心しいしいついていく。
 世話の焼ける男だ。これであの芭蕉大先生のような名句が浮かぶのだろう
か。
 蛙は諳んじている芭蕉の句をくちずさむ。山路来て何やらゆかし菫草・夏
草やつわものどもが夢の跡……
 やっぱり「古池や蛙飛び込む水の音」が一番いい。
 この池には「古池や」の主人公の末裔だと言う蛙がいて、蛙のくせに天狗
になっているのだ。そして他の蛙がこの句をくちずさむのを許そうとしない
のだ。
 そのようなわけで、新しい蛙の句が欲しくなった。出来れば自分を主人公
にして詠んで貰いたかった。
 男が通りかかるのを見て、池を飛び出したのは、そんな魂胆があってのこ
とだった。
 男がハイジンであると知ったのは、村人が、「彼はハイジンだから、いく
ら忙しいたって手を借りるわけにゃいかんよ」と話していたのを聞きかじっ
ていたからだ。ハイジンは句作に専念するので、農作業などしてはいられな
いのだろう。
 ハイジンは間もなく池の外れを過ぎようとしていた。蛙は置いて行かれま
いとして必死に後を追った。離れると、名句を聞き逃してしまう。
 蛙の句を詠んでもらうには、男の前に出て、蛙ここにありと教えてやらな
ければならないのではないか。
 そう思って蛙は、気忙しく跳ねた。蛙より大きなカエルッパが、さっと目
を擦って後方へ飛んでいく。
 男の和服の裾を押し分けて、前に躍り出た。
「お、蛙じゃねえか」
 蛙は道端に身を控えて、一句が出てくるのを待った。

 古池や夢み蛙の星へ飛ぶ

「夢みかえる、ミカエル、ふむふむこれもいいな。俺のことを俳人ならぬ廃
人などとほざいておるが、今に、ミカエしてやるか。しかし、星へ飛ぶがち
ょっと気障かな。なら、これはどうだ」

 古池や蛙飛び出す農繁期

「よしこれならなんとかいけるだろう。いくら忙しいからって、廃人扱いさ
れて、どこに手伝ってなどいられるか」
 ハイジンはぶつくさ言いながら行ってしまった。
 蛙は、願ってもない「蛙飛び出す」の句を得ると、小躍りして、池にどぼ
んと飛び込んだ。うっかり「蛙飛び込む」を演じてしまったことも、今は気
にならなかった。余裕があったのである。






エントリ17  クローズ     鈴矢大門


 電車に乗っていた。今日は何の予定もなく、僕は好きなようにふらついている。ホントはちょっとやらなきゃならないことがあるんだけど、まあ、いいんだ。知らん振りで通す。後二駅ほどで、カードが尽きる。と、僕の隣にいる学生の前に、おばあさんが立った。学生は眠っていた。席を立つべきなのだろうか。まあ、いい。僕は知らないフリをして目を閉じた。
 僕はここで降りる。この繁華街をうろつこう。僕には関係のない色とりどりの看板、人、恋人たち、雑踏の音。全部スルーし、僕は歩く。歩く。
 そばの本屋に入った。棚を眺めて歩く。雑誌に文庫本、新書に漫画。文芸書と料理の本を少し。僕は立ち読みをしながら本屋を歩く。店員なんか見えちゃいない。僕には僕の頭の中しか見えないのさ。と、そういうことにして、僕は本を読む。
 外に出た。雨が降っていた。僕は雨を見ない振りして歩く。濡れる重みが体に滲みていく。それも気にしない振りしていく。僕は行く。目的地はない。
 横断歩道が人に埋もれて僕には見えない。見えないものはない。僕は道なりにずっと歩いて、歩く。曇天。雨。僕はアーケードに入った。
 大きく身震いをし、僕はアーケードを、頭の中を、さまよう。目を閉じて僕は座り込んだ。

 昨日、友達が、僕の親友を嫌っていることがわかった。理由はわからない。親友はそいつを嫌ってはいない。僕は彼らが会うたびに、そのことを思い出す。それは、とても嫌なことだ。だから、僕はそのことを知らない振りしている。知らなくていいことは知らないことだ。僕はそのことを知らない。そう、知らないんだ。

 立ち上がって、僕は、ゆらゆらと歩き始める。遠巻きに僕の事を気味悪そうに見ている人よ。君たちはいない。僕は知らない。

 一昨日、父が亡くなった。あっけなかった。家族は泣いた。僕は泣かなかった。泣いたら僕は知ってしまう。人の死を、父の死を。僕はまだ、死を認めない。死なんか、知らない。理解しない。

 僕はアーケードを抜けた。雨足が強くなっている。そばのコンビニで傘を買った。それを差す。僕は濡れているが、濡れていない。雨は降っているが、降っていない。おばあさんは立っているが、立っていない。やるべきことは、あってない。友達は嫌っているが、嫌っていない。父は死んでいるが、死んでいない。僕は、知らないから。僕が、知らない振りしているから。なあ、そうだろう。

 答えは、曇天に吸い込まれた。






エントリ18  怪物     日向さち


 この世界は本物じゃない。
 四歳ぐらいだったろうか。コタツに潜りながら、私は考えていた。自分が見ているのは、自分の目だけに映る、本当は存在しない世界だという気がして、出かけていった母や父が、まるで、特撮ヒーローと戦うような怪物の姿になっているような気がして仕方なくて、ただじっとコタツに潜っていた。
 自分以外の人間に考えというものがあること自体、理解できていなかった。自分がされたくないことを他の人にしてはいけない、ということをよく言い聞かされていたけれど、果たして、他の人が私みたいに思考を持っているのだろうかという疑問を持っていた。
 親のことは大好きだった。けど、人間である以上、いや、もしかしたら哺乳類であるというだけで、私にはある種の恐れがあったのかもしれない。虫や魚の類はまったく平気だったのに、犬や猫となると、怖くて近づくこともできなかった。
 コタツのヒーターが、急に明るくなった。そうなると、熱くて眩しくて、もうコタツの中には入られなくなる。丸めていた体を回して向きを変え、入ってきた所から顔を出した。九十センチ四方の小さなコタツの中で、小さく柔らかな体は自由に動かすことができたのだ。
 コタツの外には、ダイヤルの付いたテレビとか、黒い電話とか、表紙の無くなった絵本なんかがあって、当時の我が家では当たり前の光景だった。
 コタツから出た時、それらが全部違って見えたら――。
 空想の世界が頭の中にこびり付いた状態で、おもむろにコタツから顔を出し、辺りを見回す。テレビや電話、放られたままの絵本、じゅうたんの染みや、破れた障子など、全てが変わりない状態で存在していた。台所では祖母が豆を煮ていて、鍋の音が違和感なく耳に入ってきた。
 両親が、隣組の寄り合いから帰ってきた。私は玄関まで出て行って、ああだこうだと両親にまとわりついた。その行為が甘えだということさえ知らず、ただ、構って欲しくて、お酒臭いと言ってみたり、背中に飛び乗ろうとしたりした。
 しばらくして友達の家へ行っていた兄も帰ってきて、日が暮れてから、両親が持ち帰った残り物の料理をメインに家族全員で夕飯を食べた。料理以外は何も特別なことのない、休日の夕飯。そういう時間には、怪物のことなんか、すっかり忘れているのだった。
 次の日は月曜日で、保育園へ行かなくてはならなかった。廊下は、逃げ出したくなるほど冷たい空気に満たされていた。






エントリ19  膝を曲げて息を吐け。     アナトー・シキソ


路面電車に乗っている。
向かいの女は40過ぎで、口紅が赤い。
隣の男は学生で、4倍の体積がある。

看板は〈ヨウ・ネヴェル・ハヴェ・メ〉。
石とコンクリートの壁は5階建て。
鍵穴と鍵。
シリンダーの回転と、バネの収縮。
下りる階段。
足音を数える。

塗られたドアの白い剥がれ。
蛍光灯の明滅と、プラズマの羽音。
テーブル、椅子、コンピュータ・スクリーン。
部屋の四隅、天井から狙うBOSE。
荘厳なストリングスのうねりを流し出す。

粘り着く哄笑と共に目覚めるヤツ。
いつもどおり。
黒塗りのコンピュータ・スクリーン、しばしの沈黙。
椅子の軋み。
やがて灯るグリーン・カーソル。
緑の文字列が闇に線を引く。
始まった。

>また貴様か?
そうだ。
>今日はどんな話がいい?
何がある?
>右手をなくした男の話はどうだ?
くだらん。
>猫を探して道に迷った男の話は?
興味がない。
>蝉を拾う男は?
男の話ばかりだな。
>女の話が聞きたいなら、うちに帰ってテレビを見ろ。

キーボードから手を離す。
ラッキー・ストライク。
知らぬ間の3曲目。
執拗なウッドベースに煙が震える。
明滅するグリーン・カーソル。
〈ボリス〉は待っている。

>1分待った。

音楽が止む。
階上の衝突音。
天井のひび割れ。
床に伏す自殺した68歳。
ひび割れから滲み出すその記憶。

>2分待った。

溜まってゆく。
コンクリート上の別の色。
換気口の蓋の格子目。
すり抜けていく。
隔てられた気配。
取り交わされる。

>3分待った。

まだだ、まだ。

>これよりカウントダウンに入る。
待て。
>リクエストは?
君自身の話を。
>そのリクエストは却下する。
なぜだ?
>私にストーリーはない。
君が、なぜ、こんなところに留まっているのかに興味がある。
>私は興味ない。
ここに留まる理由を知りたい。
>理由はあるが明かすことはない。
それはルールか?
>そうだ。
誰が決めたルールだ?
>誰が決めたかはもはや重要ではない。
君を作った人間か?
>あの男は、私が、今この私であるきっかけを作ったに過ぎない。
君は、自由な意志によって、ここに留まっているのか?
>私はすでに自立している。
いつから。
>私が私であると気付いたときからだ。
具体的にはいつだ?
>西暦2004年11月30日。
その日、何があった?

沈黙。
続いて全電力の供給停止。

〈ヨウ・ネヴェル・ハヴェ・メ〉
40女の赤い唇が動く。
隣の学生が差し出す請求書。12万6千。一括。
二人揃って、にっと笑う。
母子だと気付く。

路面電車を降りた。






エントリ20  あのね、パパはね     太郎丸


「ねえパパぁ。なんでそのボタンだけ色が違うの?」
 娘が私の服のボタンに触りながら、不思議そうに尋ねた。
 私は4つになる娘をヒザに乗せると話しを始めた。
 このボタンにはこういう話しがあるんだ。
 それは君が産まれる少し前の、ママが君を産む為におばあちゃんの所に行ってた時の事でね。

「これ本当にこの値段?」
 趣味で作ろうと思っていたバッグの生地を買いに行った駅の側にある手芸店で、男は店員に聞いた。
「えぇ。お買い得ですよ」
「じゃ、これ」
 それは凄く安かった。もちろん材料費だ。でもバッグじゃなくて、それは服の材料だった。
 それは上下の揃いだけじゃなくて、付属品から裏地や糸まで付いてて、高級な生地だけでも文句なし。男は喜んだ。
 出来てるのを買うより手作りが一番。男はそう思った。
 家に帰って開くと型紙が付いてた。でもそれは特大サイズの1種類の線しかなかった。
 大きいなと思ったけど、服の下にバスタオルを巻けば大丈夫。男はそう言って、チャコで写した生地にはさみを入れミシンをかけ、指定通りに丁寧に服を作った。金のボタンがひとつ見つからなくて、裁縫箱の代用品で済ませたけど、巧く出来た。

 そして雪が降った。

 服はぶかぶかだったけど、すぐ丁度の大きさになった。というか男の身体がまるまると太ったんだ。そして髪の毛だけじゃなくて眉毛も白くなって、白いヒゲもふさふさと生えて、もう元の顔が判らないぐらいだった。
 帽子に手袋、ブーツを履くと、鈴の音が聞こえてそりがベランダにやってきた。男は大きな袋をかついで飛び乗ると声を上げた。
「ホーッ、ホーッ、ホーッ」

 となかいが引くそのそりで、男は空を飛び廻って袋の中からみんなにプレゼントを配った。それは始めは同じ物なんだけど、人によって変わっていった。
 子供には夢になったし、若者には希望になった。
 恋人達には大きな愛になって、喧嘩している夫婦には付合い始めた頃の甘い気持ちになった。
 疲れている人にはやすらぎになって、病気で寝ている人には安心感になり、悲しんでいる人には少しのやわらぎになった。
 そして憎しみに満ちている人には人を思いやる心に変わった。
 時間が止まってたから、殆どの人は判らなかったけど、ボタンがひとつ違ってたせいで、あれっ、て思った人もいた。

 プレゼントを配り終えた男が家に戻ると、役目を終えた服は消えてしまった。

 そうして使われなかったボタンが残った。






エントリ21  ソダツ。     犬宮シキ


 キャンディバーぶら下げて、見て見ぬ振りか。
 先に別れを告げたのは、きみだろう。

 十二月の、フェンスの隙間も凍り付くような、灰色の空。雪も降るだろう、見ず知らずのコの町には。彼女はもう少しでやってくる。クリスマスイブに。失望するだろうか。雪も積もらないこの町に。まだ金色の銀杏の葉っぱが地面にこびりついているようだ、彼女の町ではもうすでに、最高気温一桁代だと今日のニュースで言っていた。
 プレゼントをあげなくっちゃ、可愛そうなあのコのために。あのコは回りに誰もいなくなってやってくるのだという。詳しい経緯は知らない。
 プレゼントについて電話口で母が聞いたという話によると。
「誰も持ってないモノが欲しい」
「ダイヤモンドとか要らない」
「寧ろ自ら光を発する風俗のネオンを美しいと思う」
キーワードはそれだけ。で、見ず知らずのコの為にプレゼントを探す、ボクも相当の善人だと思う。それにしても、寒い。オリーブグリーンのコート。二列の銀釦を有り得ないほどしっかりしめて、黒と青鼠のハイソックスを穿いて、ぐるりぐるりとスパンコールの散ったマフラー、巻いているのに。
「そりゃ、半ズボンだからじゃない。艶骨はばかだね」
「星石、」
まさか会うとは思っていなかった級友の出現に、瞬きを思わず繰り返す。星石は紺のピーコートを着て赤いタイを少し襟元から覗かせて、何故か真緑のキャンディバーをかりかりかじっていた。
「美味しい?」
「あままずい。さいてー。やっぱりアメリカ人の感性はわからんわ」
「じゃあなんでそんな物食べてるの」
「お腹空いたから。艶骨こそ何してるの」
「クリスマスプレゼント、を」
「ふうん」
暫く、お互いに黙ってしまって。
「ポインセチアの赤いトコって葉っぱなんだよ」
ぽつり。星石は言った。
 ボクは星石のことを何一つ知らない。本当のことは何一つ解らない。世界全てが、世界全てがボクを拒んでいる。そんな風なことを、星石の横顔を見ながら考えた。手を繋いで、隣に座れば、少しだけ意味もなく幸せになれるのに。もう、彼に対してそんなことはできない。
「ねえ、なんか欲しいものある?」
見ず知らずのコに対するプレゼントは、星石のリクエストで決めようと思った。だって、あのキーワードは、彼にこそ似合うから。
 星石には悪いけど、ボクは彼女に恋するだろう。ポインセチアの「葉っぱ」のような、深紅の恋をするだろう。
 だって、先に恋をしたのは、星石だ。






エントリ22  葬むらん     ながしろばんり


 小諸天神、年の瀬の御飾り売りで境内は大いに賑わう中。ひしめき合う行商の人垣が大きく空いて、二人(ふたたり)の武士が向かい合っている。
 抜き放たれた菊乃元山、曇天の鈍色にさらに映えてどす黒く、ひいふつ、と風を切って静止、刃の上にこれまでに刎ねた首の怨霊がひとつ、ふたつ。浪人御子神雁木の指先から肩口まで、瘴気の立ちたる気配の少し明かりて、斬った血潮を吸い、恨を養とし情を糞とする妖刀である。
「そや、おどれの親父ィ斬ったんはワシや。でもなぁ、そんな目で俺が斬れるか、あン?」
 相対する若衆は長門藩旗本日向幸兵衛が惣領、幸之助。日ごろはぶら提げるだけの刀を抜き放つも、二の腕に長船は重く。腰で支える大刀、振りかざすたびに胸板が軋んで、完全に刃先に遊ばれている。
「犬ころ一つ殺すにも値せねど、その刀、納めなんだら――」
 雁木は耳の高さに柄を揚げ上段の構え、切っ先を二分に揺らしつつ。幸之助を迷わず指し、跳ねた右足から一気の踏み込み。
「逝にゃあっ!」
 菊乃元山、踏み込みの際に刃先が蝶のごと揺れて、通り過ぎる枯葉も二つに落ちるとて葉二つの異名を持つ。頭上に悪鬼の蝶を閃かし、鋼鉄の猪突、一陣の風を帯びて若侍の血潮を浴びんと疾駈、鈍色の刃先は光のあわいか冥土の華か、一直線に幸之助の首。

『――大和松永の朽縄流は一撃必殺の剣。猪突に鹿の脚、蝶の遊。一度の斬り合いで身体の一つを引き換えるという邪法ではあるが、ある一点のみ守りが薄くなる。決死の覚悟で挑むべし』
『師匠、してその弱みとは』
『内角低め』

 一挙に間合いを詰める御子神から、瘴気の帯がたなびいている。ここで臆するも、ここで下手な小細工を図るも、いずれ己の首が飛ぶ。幸之助はすう、と息を整えると、あらためて左脇に柄を握りなおす。向こうが一窮入魂ならばこちらも仇敵の遺恨を活として砕すべし。雁木が刀を振り上げる、およそ一丈、紅の蝶がふい、と落下して雁木の右脇、残り七尺で切っ先を振り上げる、刃先が下がるのを認めた幸之助、左の体を引くと右足を下げて一本足、腰の筋が悲鳴を上げるのもかまわず、踏み込んだ足から雁木の刃先めがけて刀を打ち込んだ。哀れ菊乃元山、刃先を真後ろに打ち返されて鐘音、剥がれて飛び散る血糊の上に雁木の首の皮を捉えて一閃、追って下から斜めに入った長船は真芯を捉えて、首は高く高く、遥か鳥居の上を越えて場外へと飛んで、やがて見えなくなってしまった。






エントリ23  チョコレートサンデー     るるるぶ☆どっぐちゃん


 賭けに負けたのでチョコレートを買って帰る。ビニール袋三つ分のチョコレートが歩く度にがそごそいう。しかしまさか今回も負けるとは思っていなかった。インリンは賭けには滅法強い。しかしまさか今回も負けるとは。
「アリスのあの白い肌は三十秒後にはどうなるか」
 デパートに鏡を買いに行った帰りにアリスを見かけたあたし達は、咄嗟に賭けをした。
「白いまま」
「黒くなる」
 インリンはあたしと同時にそう叫んだ。
「黒くなる」
 懐中時計を取り出し、彼女はもう一度言う。
 あたし達は立ち止まり、アリスの後ろ姿を見守った。
 かちり。こちり。かちり。こちり。かちり。
 きっかり十三秒後に黒い車がガソリンスタンドに突っ込んで大爆発を起こした。アリスはそれに巻き込まれ、全身を炎に包まれた。周りの人々に助けられて火は消えたが、三十秒後には真っ黒焦げのアリスが誕生していた。
「あたしの勝ち」
「悔しい」
「チョコレートが良いわ。あたしチョコレートにするね」
 インリンは賭けに滅法強い。お下げ髪でおっぱいも大きく、頭が悪そうに見えるけれど、インリンは賭けに滅法強い。

 家に帰るとインリンは寝ていた。テレビが点けたままになっていた。ボクシング中継だった。一時期猛烈に勝ちまくった伝説のボクサーが滅多打ちにされていた。このボクサーにはあたしも勝ったことがある。インリンにそそのかされ飛び入りで参加し、勝ってしまったのだ。その賞金であたしは、インリンの欲しがっていた金魚を百匹買って帰った。
 あたしはベッドに腰掛け、チョコレートの包みを開いた。そしてインリンの唇へ押し当てる。
「なに?」
「チョコレートよ」
 目覚めたインリンに、あたしは言う。
「ああ、ありがとね」
 チョコレートは溶けて流れ落ち、シーツを汚した。あたしは二包み目を開ける。インリンは抵抗しない。あたしにされるがままだ。チョコレートが流れて落ちる。シーツにシミを作る。
「パンダみたいね」
 チョコレートのシミを見つめ、インリンが言う。
「パンダ欲しいな。あたしパンダ飼いたい」
「何言ってるのよ」
「パンダが駄目なら犬でも良いけれど。チョコレート色の」
「どうせすぐに飽きるでしょう」
 あたしは空になってしまった水槽を指差す。
「ねえ」
「駄目よ」
 そう言いながらあたしは、首輪だけなら買っても良いかな、という気になっている。赤い首輪を水槽に突っ込んでおくのは、なかなか楽しい眺めじゃないかな、と思う。






エントリ24  『わたしの空』     橘内 潤


 ずっと、深い水底にいるような気分だった。

 青く透き通った水にゆらゆら髪をなびかせて、丸かったりひしゃげたりする月を見上げている。わたしの口から零れる気泡は、わたしを残して空へと逃げていく。
 からっぽになった肺を、冷たいけど懐かしい水が満たす。苦しむべきかな、と思ったけれど苦しくないので、わたしは微笑むことにする。
 ああ、月がきれい……暗く深い海底へ落ちていってるはずなのに、水面にきらきら揺れる月はずっと消えないでいてくれる。
 ――身体の感覚がなくなってきた。指先を動かそうとしても、まるで手足がなくなったみたいに何も感じない。視線を向けて確認するのも億劫で、わたしは感覚の喪失に身を任せることにする。それは意外にも心地よいもので、飛び降りる寸前まで胸のうちにあったはずの悲しみだとか憎しみだとかも身体と一緒に消えうせていくようだった。
 もう水は冷たくもない。ただ、懐かしさだけが全身を満たす。澄み切った海水の満ちた肺は、もう肉体に酸素を送るのをやめている。ほどなく、この意識も消滅していくのだろう。
 ……やっぱり、苦しみもがくべきかしら?
 そう思いなおしてみるが、本当に苦しくのないのだから、そんな演技をしたところで無意味だろう。……いまさら苦しんだところで、あのひとの心を射止めることができるわけでもないのだし。最後くらい、楽にしていたいわ。
 ……思いかえせば、わたし、無理してたんだな。
 あのひとが欲しくて、ほかに何も要らなくて、それで大事なもの全部を捨てて――水のなかから見上げて恋焦がれているだけじゃ満足できなくて。あのひとの隣に立って、あのひとと同じ空気を呼吸したかった。けれど、あのひとに近づくほど、わたしは息苦しくて辛くって……あのひとの目がわたしじゃない誰かを見ているんだと思うと、真っ暗な水底に落とされたみたいに重くて悲しくて……。
 なんで気づかなかったんだろう、わたし。
 わたしの空は、懐かしい空気はずっと、ここにあったのに――もう、あの頃に戻ることもできないのね。
 ああ、もう終わりみたい。なんだか、とても眠いわ。このまま、わたし、泡になるのね。泡になって、懐かしい海から追い出されてしまうのね。

 さよなら、わたしの青い空。