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エントリ1
オンリースペアハート、オンリー
鈴矢大門
心臓を盗まれた。私の心臓は大きくて黄土色。たくさんの接続用品がついているのだけれど、それは私の親がたくさんの家族を持っているから。仕方がないので今は人工心臓で我慢しているの。人工心臓は小さくて小指ほど。私の心臓は私の頭くらいの大きさだから、私の胸には今ぽっかりと穴が開いている。一枚服をまくるとホラ、暗い闇の中に人工心臓の光が見える。 心臓は今、冷蔵庫の上。黄土色のそれは近づいたら転げ落ちてしまった。ころころころころ転がって誰かに拾われてしまった。大変だ。せっかく見つけたのに、心臓は遠ざかる。慌てて追いかけていると、隣の人が話しかけてきた。そうだね、そうすることにしよう。でも、まずは心臓を。 心臓は見つからない。グラウンドを回っても、温泉を覗いても、レストランに入っても、雑貨屋さんを探しても、心臓は消えてしまった。隣の人がささやいた。うん、仕方がない、病院へ行こう。 病院には私の家族の部屋がある。何代も前からの家計図を一面に張った中で私の家族は寝ている。私の家族。多すぎるからこんなことになったのだ。心臓が無いのに、皆起きて! 心臓を捜さなくちゃ。どうしても見つからないのはどうしてなの。仕方がないのかしら。隣の人が教えてくれた。じゃあ、そうしようかしら。 ごめんなさいね。でも、仕方がないの。スペアは本物のためにあるのよね。隣の人が頷くのが見えた。 心臓を手に入れた。私のものであって、そうではないのかもしれない心臓。大きくて黄土色の心臓。隣の人に入れてもらった。繋ぐとき、少し血がもれてしまったけれど、すぐに元通りになるはず。汚い血が綺麗な血に混じってしまったのもご愛嬌。薄い緑ににごった私の血は、もうすぐ濃紅色になる。人工心臓のときのような光はもうないけれど、心臓の音は聞こえるようになった。でも、心臓と外を隔てているのは服だから、手荒に扱うと、すぐに取れてしまうね。隣の人にもっとちゃんと直してもらおう。肌をつけてもらった。大きな四角い傷跡のある胸の肌を入れてもらった。もうこれで大丈夫。さあ、テントの下に体操服を取りに行かないと。もうすぐ運動会だ。 大きな大きな車に乗って、私は体操服をとりに行く。隣の人はニコニコしている。ああ、心臓がまた盗られそう。でも、隣の人は笑ってるし、きっと大丈夫。肌もついてる。私の心臓。2個目の心臓。もう誰にも渡さない。心臓くれて、ありがとう、私。
エントリ2
罪
有機機械
8月の夕方、どしゃ降りの国道を僕は隣町へと車を走らせる。僕が会社を出るのとほぼ同時に降り出したこの雨は、フロントガラスに激しく叩きつけ、ワイパーのスピードを最大にしても目の前の景色は滲んだままだった。大きな川を渡る橋を越え、緩やかな下り坂を下り、両脇を田圃にはさまれた場所に通りかかった時、雨が激しく叩きつけ滲むフロントガラスの向こうの、やはり雨が激しく叩きつけ煙るようなアスファルトの上、車線の左端に僕は何かを見つけた。 ごみ?雨のせいでよく見えない。アクセルを緩める。数羽の鳥?なんだすぐ飛び立つだろう。カモ?僕の脳裏に毎年必ずニュースで報道されるどこかのカルガモの親子の道路横断の映像がよぎる。しかしもう間に合わない。ゴッ。予想以上に固いものに乗り上げた感触。サイドミラーには慌ててもと来た田圃へ引き返す後続のカモ達。 ああ、やってしまった。気にするな運転に集中しろと自分に言い聞かせたが、僕は初めてバイクに乗って交差点で車に巻き込まれかけた時のように動揺して運転に集中できなかった。集中しろ。それでも路面の水たまりにタイヤをとられてスリップしかかった。車を路肩に停めて深呼吸し、なんとか隣町で用事を済ませて帰りは別の道を通って家に帰った。その夜はなかなか寝つけなかった。 次の日、仕事のその道を通りかかると道のまん中に、灰色に汚れた肉と羽毛の固まりが転がっていた。ごめんよ。安らかに眠ってくれよ。僕は運転中にも関わらず一秒か二秒目を閉じて祈った。ああ、僕はなんてことをしてしまったんだ。僕の大好きな映画『シンドラーのリスト』でシンドラーは「一つの命を救う者は世界を救う」ってユダヤの人々に感謝されていたけれども僕は逆に一つの命を奪ってしまった。僕は地獄行きだ。 暗い気持ちで家に帰り、日課となっているネットの掲示板をチェックする。 Mad:おれの友達がこの前高速で人間の死体轢いちゃったんだって。 O2:げげ!それって罪? Mad:高速では人がいることが想定することができないから無罪だって。 At me:らっきーじゃん。 Kiss:おれなんか小動物でも轢くのは嫌だね。かわいそう。 At me:ばーか、急ブレーキ踏んで人間巻き込むよりましだろ。教習所でも 迷わず轢けって教えてるぞ。
なあんだ。僕の心はさっきまでが嘘のように晴れ渡った。
エントリ3
A DAY IN MY LIFE
満峰貴久
二十年ぶりに訪れる。 今住んでいる街からさほど遠くない、駅から歩いて三十分ほどの小さな町。 平日の午後、天気の良さにつられて会社を抜け出して来たのは、仕事に行き詰まりを感じ、気分転換にと自分の未来を明るく包んでくれていた町に帰ってみようと思ったからだ。 中学から高校卒業まで、六年間住んでいたアパートはすっかり古びてしまった。 近くにある中学は改装され、コの字型だった校舎もかぎ型に変わった。在校生に送られて出て行った校門は場所を変え、クラブ活動に明け暮れた体育館も別の場所に建て替えられている。級友たちと遊んだ小さなグランドはコンクリートで覆われ、桜の木も数本しか残っていない。 近くに住んでいた友達の家は、別の名で新しい家に変わっていたり、マンションになったりしている。通りの向かいにあった映画館は集合店舗になり、僅かな客の来店を待っている。ガラスの引き戸だった文房具屋、遠足の前日になると混みあった駄菓子屋、写真の現像を頼んだカメラ屋、急な坂の上にあったレコード屋、部活の帰りによく行ったラーメン屋も、もう記憶の中でしか存在しない。 賑やかだった商店街もいくつかの店は錆びたままのシャッターが下ろされ、残っている懐かしい店もすっかり寂れてしまった。商店街の屋根が突然途切れて、不釣合いに立派なマンションが建っていたりする。 近くの神社ではお祭りになると大勢の人が集まり、夜店でにぎわう境内ではあちこちで幾つかのグループが出来て同窓会のように盛り上がった。 中学三年の夏、そのグループの中に我々もいた。将来何になりたいなどと順番で言い合っていた時、同級生の女の子が突然顔を真っ赤にして「私、山下君のお嫁さんになる」と言って俯いてしまった。仲間からの一斉の視線を感じた私は笑って誤魔化すことしか出来なかった。その彼女とも別々の高校に進学してから二度と会うことはなくなった。
坂の上に出来た新しい喫茶店に入り、大きな窓の横で変わってしまった街を見る。歩いている人も景色も変わってしまった。何もかも。私を優しく包み込んでいた物はもうこの町にはなかった。 屋根の向こうには新しいビルを建てるためのクレーンの首が何本も見える。町は変わっていく。古い町はなくなっていく。新しい街が絶え間なく出来ていく。 コーヒーを飲み終え、まだ明るい表に出た。 心の中で何か吹っ切れた気がした。遣り残した仕事が待っている。
エントリ4
猫
春日龍之介
ええ、ええ、皆さんちょっと聞いて下さいな。お時間は取らせません。 時は金なりと言いますからな。私もそんな野暮なことは致しませんよ。 ついこの間の話なんです。この間といっても一月ほど前でしょうか。 私、猫を飼っていたんです。二匹。 オスとメスです。それはもう、仲が良かったですよ。 初めは一匹だったんです。私、寂しがりやなもんで、ある時 ペットショップで売れ残った猫を見かけて、こいつもきっと寂しいだろうなぁ なんて同情して、格安で引き取ったんです。 真っ黒な毛色に意志の強そうな目をした、凛々しい顔立ちの猫でした。 名前はマルって付けてやりました。オスです。 でも、私が家に居ないときなんかは、やっぱり寂しいだろうなぁ、なんて思ったから こいつにお似合いの猫を探してきてやったんです。 マルとは打って変わって、真っ白な毛に優しい目を持つ美しい猫でした。 ボロって名前にしてやりました。
でもまぁ、不思議なもんですなぁ。 猫は人間の気持ちが分かるのでしょうか。こいつらは私が独り者だって知ってるから 私が見ているときは、ツンとすましてお互い見向きもしないんです。 けどちょっと目を離すと、じゃれあったりしてるんです。ごろにゃ〜んって。 かわいい奴らでしたよ。
けどある日事件が起こりました。突然二匹とも居なくなったんですよ。 まぁ、猫は徘徊する習性があるっていいますからなぁ。どっかで 集会にでも参加してるんだろうっと思ってたんです。 でも、いつまでたっても帰って来なかったんですよ。
それから二週間ぐらい後でしょうか。 「ぎゃあああああーー、猫が轢かれてるーーーー」という近所の子供の声がしたんです。 それはもう、ビックリして家から飛び出しましたよ。 まさか、とは思ったんですが、やっぱりそうでした。ボロだったんです。 胴の部分がぺっしゃんこに潰れて、内臓が飛び出して、見ていられませんでした。 泣きましたよ。それは。でも、良く見ると頭の部分が無いんです。 私も懸命に探しましたが、やっぱりどこにも有りませんでした。 仕方なく他の部分を集めて、丁寧に埋葬してやりました。
それから半年位して、道を歩いていると、何か異様な視線を感じたんです。 ふっと、塀の影を見ると、猫がじっと私を見てたんです。 口に何か黒いものをくわえていました。そして、サッとすぐに立ち去ってしまいました。 あまりに一瞬の出来事だったために、呆然としてたのですが おそらくマルだったんだろう、と思います。 その時の猫の寂しい目が、私の脳裏に今も焼きついて離れません。
エントリ5
ピエタ
詠理
携帯電話から短く声が流れた。途端に美由紀の痩せこけた身体が軋む。美由紀は電話をテーブルに戻して控えめに息を吸い、頭を背もたれに押し付けるように咽喉をきりきりと伸ばした。露わに晒された咽喉元を再び忠志が舐めあげる。 『お前、なんだか母親みたいで気持ち悪いんだ』
美由紀は不思議でならなかった。確かに自分はひんやりと香る艶めかしさを持ち合わせてはいない。けれど母親の、くすぶる灰のように芯から暖まる姿もしていないはずだった。拒み、咎めるのはなぜなのか。咽喉は繰り返し辿る忠志の台詞にではなく、腹から這い上がってくる不快さに熱くなっていった。
上から二つ目までボタンのはずれたシャツからは、いつも肌が覗いていた。寝室の暖色に照らされ、仄かに紅をさして幼児の頬を思わせる肌。こらえ切れず美由紀は自ら手を伸ばすのだった。いやに体格のいい男だったが、声は肌に似て柔らかくぬめり気を帯びていた。声はまず美由紀の瞼を震わせ、鎖骨に広がる溝へ流れ落ち、ふくよかな身体の凹凸を辿った後、ついには下腹部を鏑矢のごとく突き抜ける。美由紀は内奥で悲鳴した。
息を絞りだすと咽喉は急速に冷めはじめ、背筋に沿ってぞっと凍りついていく。忠志の指先、硬直した指先。しっとりと汗ばむ温かい肌と白く石のように固まった指の不自然な不一致に、美由紀はよく夢中になった。美術館に丁重に置かれた彫刻の感触をこの上なく忠実に再現しているように思えた。秘められた欲望の結実――そのとおりに目には幼く潤んだ光線をたたえているだろう、表情は汗をうながす蒸気のように内から火照っているだろう。そう想像はしていたものの、美由紀はなぜだが忠志としっかり視線を合わすことはできなかった。
背筋を伝った冷気の塊は気付かぬうちに足元まで転がり、立派な地平を作りだした。滑らかな表面と重厚な奥行きを持つ大理石の床。白く、固く、身体中に可愛そうな黒子をふつふつと散らし……。美由紀は手入れしたばかりの瑞々しい足の裏で、その肌をゆっくりと撫でた。
『お前、なんだか母親みたいで気持ち悪いんだ』 這い上がろうとする舌先に美由紀は答えた。 ―あなたがあんまり無邪気で潔癖だからいけないのよ―
床にはめ込まれた肢体の輝きはエンバーミングのために僅かに曇っていた。しかし力が抜け萎えきった忠志は唇も瞼も閉じ、無言でむせるような精悍さだけをひろげていた。そこへ粘りつく水滴がポツリ、ポツリ、ポツリと。
エントリ6
母の絵
中川きよみ
茶の間で、背中を丸めて母がひどく真剣に絵を描いている。 暖かな茶色に深い緑色。悩むように祈るように、筆を持ったまま考え込む後ろ姿。 息を詰めて立ちつくす私に、母はようやく気付くと筆を置く。いつものやさしい表情に戻ると何も言わずに静かに強く抱きしめてくれる。 亡くなる間際のあの頃、もう母は声がでなかったのだろう。
正木さんがまた来ている。 画商気取りのマニアかコレクターか知らないが、日毎に提示額を上乗せしながら日参するので閉口している。実のところ少しお金に困っていたので、魔が差してフラリときそうになる。もちろん冗談だけれど。 母の遺したたった一枚の水彩画。 趣味にすら絵を描くことなどなかった母が、晩年、何を思ったのかこの絵を描いた。晩年といってもまだ若かった。 茶の間の壁に掛かっていて、長く我が家ではごく自然な生活の風景の一部だった。かつて高校の一時期荒れた頃、絵を目にする時だけは心が凪いだので、以後、見守られていると感傷的にも確信していた。 怨念の絵、と、父は命名しつつ、やはりその絵を愛おしんでいた。男手一つで私を育てた不器用な父は、ついに再婚せず天寿を全うしそうである。 「なんかあるとさ、こいつが悲しんでるのがわかっちゃうんだよな。仕方ないさ。」 どことなく嬉しそうに苦笑してみせる。 なんか、とは、多分人生後半でごくたまに訪れた地味な恋の予感のことなのだろう。
とうとう我慢できなくなったのか、父は強い調子で言い放った。 「こんな絵、その気になりゃ誰にだって描けるんだ。だがな、これはうちの母ちゃんが儂らのためだけに描いたもんだ。誰かにくれてやることはできないし、儂ら以外の者にとっちゃ何の価値のないもんだ。欲しがるような代物じゃない。 納得してもらうために特別に一つ教えてやるよ。お前さんにはこの絵が何に見える? ええ? 抽象画なんかじゃない。残念ながら写生だ。ちゃぶ台に茶碗と箸を並べて懸命に描いてたさ。あんたが欲しがってる絵は恐ろしくへたくそなスケッチなんだ。家族の食器が並んだへたくそな絵なんだよ。わかったか。」
正木さんはようやく諦めてすごすごと帰っていった。 私だってつい先刻まで抽象画だと信じきっていたので、まさか写生だったとは正直恐れ入った。 「母ちゃんももうちょっとマシな絵描きゃあ売ってもやるけどさ、」 憎まれ口を叩きながら、父はとても大切そうに絵を壁に掛け直した。
エントリ7
春の陽光に包まれて
夢追い人
春先に特有の倦怠感を帯びた陽光が金魚鉢の中で半ば漂っている金魚をいつもより気だるそうに見せていたせいも少なからずあるだろう。粒上の乾燥した餌をぱらぱらと水面に撒くのと同時に、僕の感覚もするりと音もなく落ちた。感覚が指から抜け落ちる間際、僕は身体から水分が失われ、変体動物の抜け殻になったように思った。そして、次の瞬間には、僕は失われていた。 支配者を失ったマリオネット。力が抜けた腕はゴムのようにだらりと垂れ、腕が落ちるときに引っ掛かった金魚鉢は床に落ちて割れ、一匹の金魚と白濁した生臭い水と光るガラスの破片の散乱した上にあらゆる機能の停止した僕の身体は、葉が枝から切り離されるようにゆっくり崩れ落ちた。
「何をしに来た?」と空間ではない、牛乳を思わせる濃密な白さの中に声が響いた。 僕は白さの中に自分の四肢を見出そうとしたが、白が完全に視界を遮っているのか、どこにも見当たらなかった。感触を探したが、感触もない。感覚さえない。あるのは、響く声を聞いた聴覚と白を見つめる視覚だけ。 「僕はどこにいるんだ。お前は誰だ」と僕は声の出るかぎり大きな声で叫んだ。しかし、それは空気を吐き出して声を出すとは違った発声の仕組みのように感じた。 「自分で逃げてきたくせに、お前は何を言っているんだ。本当にわからないのか?」 「よくわからないな。ちゃんと説明してほしい。もしかして僕は死んだのか?」 「いや、死んではいない。だが死んだも同然だ。しかし、お前は本当に何もわからないのか?どうしようもない奴だ。じゃあ俺が説明してやるよ。お前は俺を殺して数週間も放置した。これは事実だ。そしてお前は俺の死を拒んで、内側にひきこもった。内側っていうのは、つまりここだよ。お前は幸せな世界に浸りすぎたんだ。死というものをその歳になっても知らなかったお前は俺が死んでも死んでいないものとした。受け入れなかった」 僕はかぶりを振ったつもりだったが、やはり感覚は失われたままだった。僕に殺された者は続けて言う。 「そろそろ戻れよ。俺は死んだ。お前はまだ生きている。お前のその目で、倒れたお前の背中の下にある確かな死を見ろ。俺の死が誰にも受け入れられなければ、俺は生きていたことすら認められてない気がする。さあ今すぐ起きて、俺のちっぽけな死を見ろ」
僕は再び感覚を戻そうとしたとき、濃密で果てしなく広がる白の中を金魚が優雅に泳いでいるのを見た。
エントリ8
天国へ300km/h
べんぞう
この世に未練があるならば、それは3つだけ。ひとつは女の子にもてなかったこと。ふたつ目は自分に自信が持てなかったこと。三つ目はあれほど憧れた『時速300キロ』の世界を体験できなかったことでした。
もうたくさんです。楽になりたいのです。幾つか薬局をまわって睡眠薬であるプロパリンを130錠ほど集めました。これだけいっぺんに飲めば気持ちよく死ねるでしょう。ただ、心残りは先の3つ。ひとつ目、ふたつ目はすぐには叶えられないので、せめて三つ目だけでも達成してから死のう。そう思いました。
あるときバイク雑誌に載っていた「時速300キロを出せるバイク」に憧れ、それを購入して2年。しかし「出せる」のと「出す」のは別の問題です。怖いのです。高速道路の料金所を通ってからゆっくりとアクセルを開けると、頭が置いていかれるような加速でスピードメータの針が上がっていきます。
「ここで転んだら死んじゃうんじゃないだろうか…」
180キロを越えた辺りでやっぱり怖くなりました。しかしもう僕は死ぬつもりです。怖くはないのです。でも怖いんです。ヘルメットで切り裂く風を時速230キロにするのが精一杯でした。
家に帰って落ち込みました。まだまだ300キロまでは程遠いです。やっぱりスピードなんかどうでもいいやと思って、最後の人生の思い出にアルバムを開くことにしました。17ページ目にあったその写真は、頬っぺたに傷を作りながら自転車に跨って笑っている幼い僕でした。 よし。頬をひとさすりしてもう一度バイクに跨りました。
同じ道で思いっきり伏せてアクセルを開けて、風と、なによりも恐怖と戦いながら、前へ。すべての景色が瞬時に後ろへ吹っ飛んでいきます。怖い。やっぱり怖い。最後に見たメーターは時速270キロ。
はぁ。やっぱり駄目だ。もう一度、モヤモヤした気持ちでアルバムを開きました。今度はスクーターに乗って格好をつけている自分に励まされます。くそっ、もう一度だ。
ヘルメットを被り、いつもの道へ。風を切り裂き、230キロ。風と戦って、270キロ。もっとだ。怖い。集中線のように流れる景色が怖い。負けるもんか。さらにアクセルを開ける。全開で耐える。スピードメーターがじりじり上がる。290、295、298、299…300!
やった! とうとうやってやったぞ! どうだスゲーだろう!! 明日、好きだったあのひとに自慢してやろう。突然ビックリするだろうな…。
エントリ9
キャッチングセンター
ユキコモモ
オーライオーライオーライオーライ! おーらいおーらいおーらいおーらい!
今日もセンターにいつもの音が響く。先週から始まった講習に集まっているのは四十代の男が数人。気を抜いた一瞬をも見逃さず、私に向かってコーチの怒鳴り声。 「そこの十三番! 声が小さい! それから、オーライのラの音が違う。 ファのシャープだ。何度言ったらわかるんだ」
「ファのシャープだ! 何度言ったらわかるんだ! ……だぞ」 私はおどけてみせる。 「三週間でちゃんと出来るようになるの?」 妻は半信半疑だ。 「大丈夫。俺は教えられた事はきちんとやる性質だからね。昔から」
私は早めに布団に入り、日記を付けている。講習のおさらいだ。
五日目 センターに早めに着く 練習前、コーチと話して親しくなった気でいたら、まんまと叱られた らの音はファのシャープ
と、そこまで書いてペンを置く。 「らーー」 小さい声で言ってみる。 「らーーー」 「おーらーーーい。……くだらん」 悲しくなった。こんな事に何の意味があるのだろう? 涙が出そうになった。 「おい、親父! なんで俺に野球教えてくれなかったんだ」 天井を仰ぐ。
私と父は歳が離れ過ぎていた。一緒に遊んだ記憶がない。覚えているのは厳格な父が 「達郎、勉強だけは一所懸命にやりなさい。勉強さえやっていれば何とでもなるのだから」 といつも言っていたことだ。私は父に可愛がられたい一心で何事にも真面目に取り組んだ。その甲斐あって私は自分の思い描くとおりの道を歩んでいる。……はずだった。 「こんな事になるなんてな」 私は失笑し、日記帳を閉じて寝返りを打った。
(達郎の日記より) 七日目 ようやくそれぞれのポジションでキャッチング練習(フライとライナー中心) 足がもつれ速く移動できない
十五日目 自分の中で野球が面白くなり始めている ダイビングキャッチ等(今日コーチがやっていた)してみたい 無理だろうか?
十八日目 泉さんと初めて会話 彼もレクの為に通っているらしい 自分だけじゃなかった
最終日 とうとう講習が終わった! 短かった 大会は二日後、日曜日 不安もある、というか不安ばかりだ
布団の中で私は両手を見つめた。傷だらけである。頑張ったと思う。センターに通った事は息子に秘密だった。格好いい父を見せたかった。野球ぐらい簡単に出来る格好いい親父を……
日曜日。
土砂降りの雨で親子野球大会は中止。妻が連絡網を回している。タンスの陰で私は微笑んだ。
エントリ10
かげおくり
立花聡
蝉が鳴いている。 青空が輝いている。 「かき氷!」幼い娘が私の袖を引く。私は彼女に裸足のまま連れ出された。帽子を深く被った妻が、 「さやか、お父さんに靴履かせてあげて」と笑った。 「いいの、約束したんだから」 「さやか」少し妻の語気が強まった。しかしそれは冗談のようでもあった。 「すぐっていったもん」娘が機嫌を損ねかける。 「いいさ、すぐそこだから。このまま行くよ」私は素足のまま、芝生の上を歩いた。太陽に温められた草達が私の足を受け止める。地面に届くと、少し湿り気を感じた。 「か、き、ご、う、り」 一歩進む度、娘は不思議なリズムを唱えた。上機嫌で芝生を越えた歩道の先、かき氷屋まで私を引っ張った。 芝生を過ぎると土の道となった。 「お父さん、早く」待ちきれないのだろう。娘は既に屋台の前で足踏みをしていた。 「今行くよ。痛て、痛てて」足に小石が突き刺さる。それは私に一歩歩く毎に懐かしい刺激を与えた。 「いちご一つください!」娘は元気良く注文をした。 シャカシャカ。また懐かしい音だった。 私は額を流れる汗を拭う。 小さな女の子が私の手を握って、珍しそうに氷の積み重なる様子を眺め、時折、「おかーさーん」とかき氷の出来る様子を指差した。すると、帽子の女が幸せそうに手を振った。 私も少し手を妻に向けて振り、熱さに少し俯いた。 私たちの影が土に浮かんでいる。私がぼんやりと見ていると、いつかの校庭が思い浮かんだ。 「ずるしちゃだめだからな」一つ上の幼馴染みが私に言う。 私は言われた通り、影を三十秒。ゆっくりと数える。 「おお、すげえ」隣で友人が感嘆の声を上げた。私は振り向きたくなる自分を押さえ、数えた。あと十秒だ。 「二十七、二十八、二十九、三十」最後の五秒がやけに長かったことを覚えている。 「よし哲治、いいぞ」 私は勢い良く、空を仰いだ。
「お父さん。とーさーん」娘の声で気が付いた。 「五百円です」気のよさそうな若者がそう言った。 お金を渡す間に、 「おかーさーん。かき氷食べるー?」 そういいながら、娘は駆けていった。 走る娘の背中を見ながら、私はゆっくりと後を追った。 仲良く母娘がじゃれあい、そして私を見て、はやくこいと急かした。 あの日もこんな青空だった。 そしてあの日よりも大きく、空いっぱいに広がった影。それは、私と娘の形をしていた。 蝉が鳴いている。 青空が輝いている。 素足に芝生が優しく答えてくれた。
エントリ11
鏡
浜渡創半
洗面台の鏡の前に立っている男は思った。 何故、俺はこんなにも不細工なんだと。 やはり笑わないからか。
昔からストレスが顔に出るタイプだった。不細工と言うよりは、常に全身から負のオーラを発しているのである。そんな情けない自分を見ているとどうしたことか。鏡に映っている自分が、いきなりくったくのない笑みを浮かべ始めた。こういうのも何だが、鏡の中の自分は同じ顔の割りにどこかモテそうな感じだった。
今回の酔いは思ったよりも相当酷いものらしい。そんな男は酔った勢いで、笑っている鏡の中の男に向かって喋り始めた。
「何者だ?」 返事など来ないと思っていたが。
「そんなこと言われても困るなぁ」 鏡の中の男は笑みを絶やさずに応えた。
どういうことだこれは。男は驚きと強烈な酔いの為か、恐怖は完全に頭から消え去り、好奇心で頭の中が包まれた。男はとりあえず質問した。
男「お前はどこに勤めているんだ?」
鏡の中の自分「※※商事だけど。」
男「だよな」
違うだろっ!いくら酔ってるからといって、久々に会った名前の分からない同級生と話しているような実りのない会話をしてどうする。しかしこれといって話すこともないので、
男「何故いつも笑っているんだ?」
鏡の中の俺「君は笑っていないのかい?」
不細工だが物分りのいい男は、この一言でピンときた。鏡の世界では自分と全く逆の事が起こっている。するととてつもなくいい境遇に違いないと思うと、いら立ってきた。
鏡の男「その様子だと、今日はあんまりいいことがなかったみたいだねぇ。」
男「うるさい!」
男「そういうお前こそ何かいいことでもあったのかよ」
鏡の男「上司に言って、明日は休暇をもらっちゃったんだよねぇ。」
男「なんで休暇をもらったんだよ」
鏡の男「実は明日は、婚約者と結婚式場の下見に行くんだよねぇ」
この一言を聞いて男は、キレた。そして鏡をおもむろに叩き出したのだ。 俺はこの前フラれたばかりなのに、裏側のお前だけあんなにいい思いしやがって。
壊してやる。
鏡の中の男は泣きながら男に懇願した。 「頼むからやめてくれっ!」
「ビシッ!」 中心から大きくひびが入る鏡。 そして音を立てて割れる鏡。 しかしこの時にはすでに遅かった。 音を立てて割れる俺。
鏡の中は、俺の方だったんだ。 鏡の向こう側では、本物の自分が泣きながらその破片を拾っていた。
何故か次の日から彼は、笑うわけでもなく、暗いわけでもなく、特徴のないつまらない人間になった。
エントリ12
白い私
卯月羊
寒い。 そりゃあそうよ、雪がこんなにつもってるじゃない。 どうしてこんな雪の日に、しかもこんな真夜中に、私は一人ぼっちで歩いてるわけ? しかも、こんな薄着でさ。これって、どういうわけよ?
街灯がちかちかと光る。雪はしんしんと降り積もる。私の肌は冷たくなっていく。 どうしてこうなっちゃったんだろう。夜中に急に寂しくなって、心の芯がすごく冷たくて、いてもたってもいられなくなった。だから、私は暖かくなりたくて、この雪の中、彼の家へと急いだ。彼は優しく私を迎えてくれて、それなのに私の心はまだ冷たくて。 何でもなかった。すごく些細なことだった。でも彼の言ったその一言が、私の予想なんか大きく飛び越えて、私の心を突き刺した。 彼は悪くない。それは自分でも解ってる。だから、そのことが余計に私の心をひっかいた。たまらなく痛くって、冷たくて、私は滅茶苦茶になって、外に飛び出したわけさ。 昼間何気なく耳にしたCMの桃井かおりの口癖が、ところどころうつってる。 「白いなぁ、雪」 私は呟いた。真っ暗な闇の中に、私が吐き出した真っ白な息。辺りには真っ白な雪。桃井かおりの肌もこれぐらい白いのかなぁ。
私は今、このまま死んじゃおうかなって思ってるわけ。何だか寒さもあんまり感じなくなってきた様な気もするし、本当にやばいのかもしれない。最近の心の寒さが、その他の何もかもが、私に「死んじゃったらどう?」って訊いてくる。 私は新雪の中にぼふんと倒れこんだ。やわらかい。ここで死ねるなら悪くない。私は目を閉じた。動かなければ、傷つかないですむ。
ピピピ
何か聞こえた? 私は雪の中から起き上がった。携帯電話だ。 メールが届いてる。誰から? 彼からのメール。 「馬鹿、早く帰ってこい」 一行、それだけ。
寒い。 私は空を見上げた。 どうして、電源を切っておかなかったんだろう。 どうして、携帯電話なんか持ってきたんだろう。 まるで、彼からの電話を待ってたみたいじゃないか。 私はもう動きたくないの。 どうして……。
「まだ死にたくないわけさ」 馬鹿馬鹿しいけど、私は自分にそう言いきかせて、彼のもとへと帰っていく。 そうよ、嫌なことなんかこの雪みたいに真っ白に忘れてやったらいいのよ。彼に謝って、抱いてもらって、頭の中を真っ白にしてやろう。桃井かおりの肌なんか、きっと目じゃないわ。
エントリ14
実家で
空人
壁掛け時計の鐘が3つ鳴った気がして、ゆっくりと目を開けた。まぶたが重い。作晩に降った雪のせいで外からは白い光が差し込み、僕は目を細める。その光は目の裏側まで突き抜けるように痛い。ストーヴのやかんが、カタカタと不器用なダンスを踊っている。 うん、と寝返りを打つと、台所で食事の準備をする母親の足が見えた。 「だいぶ寝てた?」 発して気づいた。ひどい声だ。 「イビキかいてね。こんなときに呑気なもんよ」 「ああ……」 僕はコタツから起き上がることができず、天井を向いた。壁掛け時計の音が鮮明に聞こえる。その他にはやかんの音と、野菜かなにかを切る音、衣擦れの音だけ。 「それにしても新年早々、真美ちゃんも大胆ねぇ」 「言うの3回目」 「思い当たる節は?」 「だからないって」 「ないわけないじゃない」 縁側のひさしから雪がドッと落ちた。思い当たる節なんてほんとうに、ない。だいたいあの晩、彼女に言ったことは、あした雪かきしといてね、と、それだけだ。それだけなのに。 「何年だっけ、結婚して」 「5年」 「5年かあ、5年ねえ」 「なんだよ、それ」 「べぇつに。フフフ」 さ、できた、と母親は食器を取り出し始めた。甘辛いしょうゆの匂いが漂ってくる。僕はいきおいをつけてコタツから出ると、フラつく頭を抱えて台所のイスに座り、頬杖をついた。 「なに、その顔。泣きつかれて寝ちゃった子供みたい」 母親は一瞥して口元に笑みを浮かべた。僕は眉をひそめて言う。 「あのさ、この危機的状況を楽しんでない?」 「そんなわけないじゃない」 「いいや、ぜったい楽しんでる」 母親は何も答えず、流しに向かって蛇口をひねる。ボーンと、また壁掛け時計の鐘が鳴った。 「あの音、あんたが式挙げたとこの鐘みたいね」 「そう?」 「そうよ、おぼえてないの?」 「知るかよ、んなの」 僕はテーブルの上のみかんを手にして皮をむいた。酸っぱい匂いが鼻を刺激する。 「あのさぁ」 「ん?」 「出て行こうって思ったこと、ある?」 「そりゃ何べんも」 「ふぉか」 みかんはぜんぜん甘くなかった。 「そんなこの世の終わりみたいな顔しなくてもね、戻ってくるから」 母親はこれでも食べて元気だしなさい、と豚の角煮を差し出した。手づかみでひとつ口に運ぶと、いつもと変わらない、ちょっと濃い味が広がった。 「ん、そいや父さんは?」 「さぁね、どこ行ったのやら」 母親は気にとめる様子もなく、冷蔵庫からビールを取り出した。
エントリ15
午睡
犬宮シキ
やあ、久しぶり。また来たね。もういい加減に諦めたらどうだい。私は諦めたよ、誇れるようなことではないのだけど。長い午睡さ、永遠があるならそれだろう。ああ、君は泣かないでくれ。笑っておいて、どうか。 君だけは、せめて。
何でこんな事になったのか、私も解らないんだ。ただ今、午後の光が緩く射し込む病室のベットに腰掛けて、壁を見つめている。背中に羽があるのを、君は笑うだろうか。灰色に拗くれて、生えそろわない羽毛が無様で、飛べそうにもないのだけれど。昔見た芝居のようだね、飛べない翼。コーマエンジェル。横に立っている君は、ベットに手を突いて、悲しそうに俯いている。その息づかいも、暖かさも、側に居て感じることが出来る。そしてベットには、私の抜け殻が横たわっている。 酷い貌だろう。頬もこけて、髪の毛も無様に切られて、君が好きだと言った自慢の睫も見る影もないだろう。化粧なんて出来やしないから土煙の肌色も乾燥しきった唇も隠しようがない。見せたくなかったよ、こんな姿は。 多分半分、死んでいるのだと思う。座っている私は、似合わない羽が付いているだけで、姿形は昔のままの私は、この部屋の外に出ることが出来ないし。君の目にも見えないようだ。 機械の、幽かなノイズと、外から聞こえる鳥の声や風の音、それと君の嗚咽がこの部屋を満たしてゆくよ。床に映し出される点滴の黄色は、近づいてくる春の光で揺れている。知っているかい、梅も咲いたんだ。この病院の横の広い公園、昨日窓から見えたのさ。 花見に行ったね、昔。私は酔っぱらって君に迷惑を掛けた。環状線の窓から見える細い三日月はとてもとても綺麗で、あの月に行けたならと空想の話をしたっけ。 そのうちこの病室から出られるときも来る。そんな気がするんだ。この羽は、何かの雛の羽に似ているから、時間が経てばきっと真っ白に健やかに広がるはずだ。けれどねじれた羽のある、私の姿が見えない君は、空っぽの身体を見て泣くだろう。時間は戻らない、私達の結論を忘れた訳じゃないだろう。私の空っぽの身体は、確かにすがりついて泣くには丁度良いだろう、けれど、そんなこと嫌いだったろ。君も私も。 ここを出たら月に行くよ。そうしていつか君の処へ迎えにいくよ。だから君はもうここへは来ないで欲しい。ここには何も無いから。君は外の、鳥や子供の声や、梅の花が咲くところにいればいい。 もうすぐ春が来るのだから。
エントリ16
割る
ぶるぶる☆どっぐちゃん
ガラスを割るように頼まれる。
お洒落をし、弟から取り上げたバットを持って家を出た。街を貫く大通りを歩き続ける。スカーフを巻いた白人女性とすれ違う。 「ありがとうな」 恋人が言う。手にはあたしが報酬を見越して買ってやった沢山の書物を持っている。 「こんなに沢山、ありがとうな。でも良いのか? こんなに貰ってしまって。まだ報酬が出る前からこんなに貰ってしまって」 「良いのよ」 「そうか。しかし本当にありがとう。いやあ、凄いなあ。本当に凄いよ。読み切れないくらいの量だよ」 恋人は本を読みながら呟く。 「本当に読み切れないくらいの量だ」 それにしてもとても寒い道だ。皆が色とりどりの電気ストーブを持ち寄って暖めようとしているけれど全く思うようにいかない。 昔世話になった社長の部屋のガラスを尋ねて割らせて貰い、幼なじみの家のガラスを割らせて貰い、駅長に頼み込んで駅のガラスを割らせて貰う。道の先には朝日が昇っていく。そして朝日が昇るよりも速く、風が強く吹いている。風は凄まじく、全てを吹き飛ばしていく。電信柱が折れ、花園が燃え上がり、ガラス張りの建物が目の前でバラバラに砕け、崩れ落ちていく。目の前に先程の女性のスカーフがふわりと舞い降りて来た。あたしは振り返る。風はいよいよ強く吹く。女の子達のスカートが舞い上がり、白いパンツが眩しいほど露わになっていた。女の子達はスカート片手で押さえ、笑いながら向こうへ歩き去っていく。 あたし達は道の終わり、街の外れに辿り着いた。そこにはガラスの壁が立っている。街で一番大きな建物は駅舎の三階建てであるが、このガラスの壁はそれよりも遙かに高い。何処までも呆れるほど高く伸びて居ていて、見上げても見上げても切りがない。あたしはバットを持ち上げ、叩きつける。がしゃあん、と音を立てて、ガラスはあっけなく砕け散った。あたしは空を見上げる。 きらきらとしたガラスの破片が、際限なくいつまでもいつまでも振ってくる。 「綺麗なもんだな」 「うん」 「本当に、綺麗なもんだ」 ガラスの向こうは草原になっていた。あたし達は歩き続ける。小川のほとりには大きなイーゼルがあり、描きかけのキャンバスが架かっていた。 「お前達は何処へ行くんだ」 絵を描いていたのは老人だった。彼は大きな天使の絵を描きながらあたし達に尋ねる。 「ガラスを割りに」 「そうか」 老人は再び天使を描き始める。あたし達は歩き続ける。
エントリ17
酔いどれ鴉
土筆
アパートの塵出し場から一羽の酔っ払い鴉が飛び出した。 鴉の名を仮にRとでもしておこう。
Rが日の出前から塵の出されるのを待っていると、若奥さんが一番に塵袋を提げてきた。 しめしめ。この奥さんが来たということは、中身がどんなものか想像できた。というのは、昨夜晩くまで彼女の住む部屋で酒宴が持たれていたからだ。 Rはこのアパートの住人のほとんどを把握している。ことに、R好みの塵を出してくれる人間には好感を持っている。この若奥さんなど、その最たるものだ。 今朝もRの期待を裏切らなかった。紙袋を一突きしただけで、ぐっと生肉の匂いが迫って、Rは驚喜した。 生肉にありつくなど滅多にないことなので、一瞬首をひねった。腐って捨てたかな。しかし多少の腐敗など、鴉に問題はない。頬張ると、腐敗どころか、新鮮そのもの。しかもウイスキーの匂いまでふんぷんとして、熱が胃袋から全身へと広がっていく。ウイスキー浸しの生肉だ。残った生肉に、飲み残しのウイスキーをぶちまけて塵としたとしか思えない。 Rはがくんと酔いがきて、調子が狂った。満腹はしたものの、このままいつもの生活に入って行けそうもなかった。日頃行かない方向へと心と体が逸れていってしまうのだ。逸れていくと分りながら、止められない。
他の鴉の縄張りに入って、珍しい風景の中を飛び回っていると、市内電車が走ってきた。 Rは吹き寄せられるように降下して行き、電車の屋根に留った。 これまで乗ってみたいと思いつつ、勇気がなかったのだ。電車の屋根の前部に留って前を見ていると、自分が風見鶏になったような気がした。 小学校へ向かう子供たちがRを見つけて騒いでいる。 「おい、あれ見ろよ。鴉が電車の屋根で澄ましてるぞ」
次は中学生か高校生のグループに見つけられてしまった。 「おい!」 一人がRを指差すと、 「鴉じゃねえかよ。あいつ気が狂ったんじゃねえか」
赤信号で電車が停まった。 別なグループがRを指差している。 「あいつはきっと、結婚したくなったんだよ」 「どうして、そんなことが分る?」 「だって、あの電車は『教会前行き』ってなってるぜ」 「教会は、結婚のためだけにあるんじゃないよ」 一人が主張した。 「じゃあいつは、塵散らしばかりやらかしている自分を反省したんだ」
こんな言葉が鴉の耳に入っていたわけではない。ただそういった風景の中を一羽の鴉が運ばれて行ったというだけである。
エントリ18
『ペパーミントはライバル』
橘内 潤
甘く澄み切ったペパーミントがツンとくる。 「へぇ……ハーブティ、好きなんだ」 わたしは“そんなこと、いままで全然まったく知らなかったわ”って顔してみせる。 「うん、好きだよ。おかしいかな?」 「……べ、べつに」 一瞬どもってしまったのは「好きだよ」なんて罪作りなセリフを言いやがるから。 「でも、変な顔してる。“ハーブティを美味しそうに飲むおとこなんて、幻滅ぅ”って顔してる」 「してないわよ!」 コンマ一秒で切り返す。頬が紅くなる暇なんて与えない。 「ってか幻滅するほど、べつに――好きなわけじゃないし」 ……言ってから後悔、もう激しく。海が割れてモーゼと十字軍が追いかけっこをはじめるくらい、後悔。 「そっか」 ムカ。 なによ、『そっか』って。わたしって『そっか』の一言で済まされちゃうくらいの存在なの? ムカムカ。 「そうよ。ハーブティが好きなおとこなんて、べつに好きでも嫌いでもないわ。ってか対象外。だいいち、わたし、ペパーミントって嫌いだし」 最後のは本当。昔々まだケータイがPHSだった頃、バニラアイスに乗っかってたのを食べたとき以来、どうにも苦手。どうして甘いバニラに苦い葉っぱを乗せるのか、謎すぎる。 「――なあ、アレだろ」 突然言われて、ちょっとドキ。 「な、なによ。アレって」 「コーヒー、ミルクと砂糖たっぷりじゃないと飲めないでしょ」 ……当たり。べつにブラックで飲めるのがエライと思っちゃいないけど、ムカ。 「なによ。あんたなんてどうせインスタントしか飲まないくせに」 「残念、はずれ。コーヒーは苦くて嫌い。だからいつも、紅茶」 くすりと笑う。ドキ。ずるいなって思いつつ、ドキ。 「いいんだ、変な顔されてもコーヒーも飲めないのかって馬鹿にされても。ペパーミントティが好きだから」 「……そ」 ペパーミントは苦手。ってか敵。甘い香りで誘惑するな。わたしのほうが十倍も百倍も甘くて美味しいんだから――なんて言えるか、バカ。 「ね、ちょっとちょうだいよ、紅茶」 「苦手じゃないの? ま、いいけど」 で、飲んでみる。 かすかに甘くてやっぱり苦くて後味すっきり――不味くはない。甘いケーキとセットなら、いけるかも。けど“後味すっきり”って一回こっきりみたいでヤだな、なんてね。 わたし、やっぱり甘ったるいクリームが好きだなって再確認した、(たぶん)初デート。
エントリ19
リフレイン
越冬こあら
妻の勧めで始めたジョギングも最近は週に一回、日曜日だけになった。トレーニングウェアにジョギングシューズ姿で、黄昏の街に出る。国道を渡って、隣町の公園まで往復する三十分ほどのコースだが、公園で体を伸ばして小休止するので小一時間を要する。
公園に着いて体操を終え、ベンチに腰掛けた私の傍に、砂場で遊ぶ透明な犬を見つめる透明な少年が居た。 「君の犬かい」 声をかけると少年は、怯えた目を返してきた。主人の気配を察知して、透明な犬も大急ぎで戻ってきた。 「見えるの」 「いいや」 「じゃあ、なぜ」 「わかるのさ」 私が微笑むと少年も微笑んだ。
「ジョーカーっていうんだ。ミニチュア・ピンシャーっていう種類で、この大きさでもう大人なんだよ」 犬はしばらく私の足元を嗅ぎまわった後、少年に向き直り、盛んに尻尾を振りはじめた。 「いつもこんな時間に散歩させているのかい」 「ううん。三時ごろ。でも今日はずっと散歩している……」 空は暮色から漆黒に向かい、あたりは闇に戻ろうとしていた。 「そうか、もう暗くなるから気をつけるんだよ」 「ジョーカーがいるから平気さ、さっきもあそこの角でヘンなおじさんがナイフを振り回していたけど、ジョーカーがおじさんの腕に噛みついて守ってくれたんだ」 私は、穏やかでない話に驚いた。 「それで、そのおじさんは、どうした」 「えっ、それは、ええと……どうしたんだっけ……」 要領を得ない少年の答えに、ヘンなおじさんの話自体、少年の空想かもしれないと思い、詮索を止めて、別れを告げた。
家に向かって走り始めてからも、ナイフと犬と少年は、心のどこかに引っかかった。 「……午後四時過ぎ、○○町公園近くで犬を連れた少年に切りつけ、噛みついてきた犬と少年を刺殺しました。犯人は……」 それは、二日前のニュースで、現場は隣町だった。つまり、あの少年は被害者で、だからもう透明になっていたのだ。突然の死についていけない魂が、地上に留まっていたに違いない。犬の散歩は、霊魂がすべてを受け入れるまで、ちょうど楽曲の最後のリフレインのように繰り返されて、やがてフェイドアウトしていくのであろう。 リフレインの連想から「ヘイ・ジュード」のメロディーが浮かび、長い合唱が頭の中で流れ始めた。
国道にさしかかると事故があったらしく、パトカーと救急車の赤色回転灯が辺りを染めていた。ジョギングというリフレインはポールの歌より長く続いた。
エントリ20
翼を下さい
ごんぱち
「すいませーん、翼をくださーい」 「タレと塩、どちらにしますか?」 「「塩で」」 木元正也と田村義雄の声がハモった。 「いやぁしかし、本当に久し振りだな」 木元はジョッキに残ったサッポロ・クラシックを飲み干す。 「何度目だよ。さては木元、酔ってるね?」 笑いながら、田村はショットグラスのオールドを空ける。 「酔ってるに決まってるだろー。んな」 「あはは」 「大学卒業以来か」 「そーだね。たまにゃ来れば良かったのに。時間、結構自由になる仕事でしょ?」 「自由ほど不自由なもんもないんだぞ。働かないとリアルに収入がないんだからな」 「おお、なんか凄いな」 「って、駆け出しだけどな」 「だよね」 「……ちったぁ持ち上げろや」 ふと言葉が途切れる。 「はい、手羽先お待ち」 カウンターに手羽先の四本載った皿が置かれる。 「なあ、大学行ってみっか?」 「大して変わっちゃいないけどね」 言いつつ、田村はダウンのコートに袖を通す。 「すいません! 翼、折にしたいんで、パック下さい!」
常夜灯に照らされた大学構内は、すっぽりと雪に包まれていた。 行き交う人もない。 「なんだ、新雪が多いなぁ」 メインストリートの歩道には、新雪が積もってくるぶしの上まで埋まる。 「今日はよく降ったし、冬休みだからね」 「えっ? ああ、そうなるか。大学ってそうだよな」 雪を踏みしめる音に紛れ、遠くで車が通る音がする。 木元と田村は、教養部の脇道に入り、二階建ての学食の前に来る。外の階段には、ケーキのデコレーションのように、ずっしり雪が積もっていた。 「積もってんなぁ」 木元が階段を昇っていく。 「あっ、滑って危ないよ」 「雪の歩き方、忘れちゃいねえよ」 二階入口前の小さな踊り場まで昇り切る。 「もう少し高く昇ると、見晴らし良いんだけどな」 すぐ後ろには学食の壁、前には三階建ての講義棟があるせいで、見晴らしも何もない。 「そだね」 二人は夜空を見上げる。 「もう少し……上へ行きたいな」 「だね」 建物に挟まれた狭い夜空に、星は見えなかった。 「翼でもありゃあ、な」 「はい、翼」 田村は、折り詰めの手羽先を渡す。 「凍ってるじゃねえか!」 「忘れてたの? 気温」 「思い出したよ。あー、何か流石に冷えて来たな」 「天気予報でも、今夜は冷え込むとか言ってたしね」 「飲み直すか」 「どんな店が良い?」 「手羽先の温かい店」 「おっけー」 雪がまた、空一面を白く覆いつくしながら、降り始めた。
エントリ21
肩の力を抜き上体を反れ。
アナトー・シキソ
ここ一ヶ月の間に四人のエージェントがあの場所で姿を消した。五人目は辛うじて帰ってきたが、今は施設の中で、一日中家具の配置について考えている。 「つまり、こういうことなんです、社長」 不思議な白いツナギを着たその五人目のエージェントは私に言った。 「この世界のあらゆる現象には、場の力が作用してるんです。場です、場。場所の場」 「うん」 私は、彼が丸一日掛けて決めた位置に据えられたという椅子に腰を下ろした。その椅子は、位置はもちろん、方角にまで細心の注意が払われ設置されていることが、床に無数に書き込まれた直線と数字から分かる。 「完璧な配置が完璧な空間を生み、それがすなわち完璧な存在の基礎となるのです。つまり、場の力です」 今や〈場〉の権威となったその元エージェントは、急に私に顔を近づけると、内緒話でもするように声を顰め「あそこでうまくやるには、この、場の力を完璧にモノにしなくてはなりません」と言ってニヤリと笑った。ろくに風呂にも入っていないのだろう。かなり臭う。私は、相手に気付かれないように、そっと上体を反らした。 「君はうまくやれたわけだね」 元エージェントはしばらく瞬きもせずに私を見ていたが、不意に投げやりな態度になって椅子の背にもたれた。 「私なんか、全然駄目でしたよ。今は違いますよ。でも、あの時は全然……」 「しかし、君は前の四人とは違って、ちゃんと帰ってきた」 「そこです。私にはもともと才能があったんですね。素養と言いましょうか。だから、どうにか帰ってくることが出来た。他の四人にはそれがなかった。それだけです」 「なるほど」 それから一時間、彼は〈場の力〉について講義し、最後に神妙な顔でこう付け足した。 「それと、人工衛星に気をつけて下さい。あれは場の力に大きな影響力を持っています」 「人工衛星?」 彼は、顔を私に向けたまま、黙って上を指さした。 私は天井を見上げた。古くなった蛍光灯が見えるだけだ。 私が元エージェントに視線を戻すと、彼は満足げに頷いた。 「今は大丈夫です」 その時、面会時間の終了を伝えるチャイムが鳴った。元エージェントは、にっこり微笑むと、残念ですと言って立ち上がり、私に握手を求めた。 「時間が来ました。続きはまた次回、お話ししますよ」 彼は、確かな足取りでドアに向かい、迎えに来た看護師に連れられ〈自室〉へ帰っていった。 私は、携帯電話を取り出し、メールを打った。 〈人工衛星に気をつけろ〉
エントリ22
転換
太郎丸
猿の実験は成功した。理論上は人間でも同じはずだが被験者になってくれる人間を探すのは難しい。しかも実験は、男女共に必要だ。思案した末、博士は広告を出す事にした。 応募者は多く何度もの厳正な審査の末、一組の男女が選ばれた。
「注射をして、24時間以内にこの人とSEXすれば百万円貰えるというのは本当なんですね」 「えぇ。そうです」 「私は構いませんが、彼女の方は…」 「あら。私だって構わないわ」
誓約書を書き終えた俺は、最後に博士がくどくどと結果の説明やら、その後どうなっても責任は取れないだとか何だとか言っていたが、気にもしなかった。
俺の応募の動機は女だった。 俺は女遊びも沢山したが、本当に惚れた女に振られた時に立ち直れないで会社も辞めてしまった今、金が必要だった。
女は、不倫が成就するはずが無いのは判っていても、発覚した途端に会社はクビになり、自分だけが悪者であるように見る会社の、女性に対する偏見と差別とに嫌気がさし、死ぬ覚悟までしたという。
「…それじゃ始めましょうか」 「えぇ」 俺と女は裸にされ、シャワーを浴びた身体には小さな器具がいくつも付けられた。 研究室の隣りに設けられた小部屋には大きなベッドがあり、ベッドの脇にある鏡は、多分マジックミラーで、隣りの部屋では撮影しながら観察しているのだろうとも思ったが、どうにでもなれと思っていた俺には関係なかった。 それに目の前の裸の女は、凄く魅力的だ。
始めは触れるようなキス。そして触れる時間が長くなり、手が胸に置かれると女の声が漏れ、その声を塞ぐように俺は舌を入れた。 感じやすい。女は足を擦り合せ立っているのがやっとだ。もちろん俺は勃起した。乳首に唇を這わせながら俺は女と一緒にベッドに倒れ込んだ。
一戦交えた後で、注射のせいか眠てしまった。 目が覚めると隣りに知らない男が寝ていた。俺は鏡を見て聞いていた実験結果を思い出した。 「注射の効果は24時間。その間にSEXすれば、その度に性別が変わるはずです」 隣りの男も起きだし、始めは驚いていたが俺の肩に手を置いた。男は既に臨戦体制だ。女を犯す気分を味わいたいという。 俺は男の股間を蹴飛ばし、部屋の隅にあった女の服を着て部屋を出た。 するのはいいが、されるのは嫌だ。 確かに女が感じる絶頂感という物に興味はあったが、俺はまだ処女だ。始めの相手は好きになった男が良い。
それに…、痛いのは嫌だ。
エントリ23
壊れてる
さとう啓介
壊れる時。それは当然のようにやってくる。 お父さんや、お母さんの都合など全く関係無く。
近所にて 「今日ね、高瀬さんちのお兄ちゃんが公園で朝からずっとベンチに座ってるのよ」 「へー、あの高瀬さんの息子さん?」 「そう、あの有名私立に行ってる子よ」 「どうしてかしらねー?」
家にて 「ねえ一樹。今度パパが小笠原に赴任するから、あなたも付いて行けば?」 「お兄ちゃんが行けばこの部屋は私が使ってもいい?」 「そうね、鈴ちゃんのお部屋は狭いからいいんじゃない」 「やったー! ママがいいって言ってるから使わせてもらうわよ。いい? お兄ちゃん」 「ねえ、どうするの? 行くの、行かないの?」
学校にて 「一樹って、勉強勉強で暗くねー?」 「奴は暗くねーよ。成績はピカイチ、パパだって金バッチだぜ」 「だよなー、一樹はピカピカだ。へへへ」
公園にて 「一樹、ここ楽しいか? ずっと居ていいぞ」 「これ食べるか? 少し汚れてるけど旨いぞ」
「一樹〜、これ買ってよ。オジさんてお金持ちなんでしょ〜」 「おい、これと同じやつ持ってきな。代わりにこいつを一晩貸してやっからよ」
夢にて 「聞えるか? 僕だよ、十太郎だよ。覚えてるかい?」
『知らねー。いらねーし買わねーし、喰わねーし居ねーよ! 暗くねーし、行かねーし、うるせーんだよ! みんなみんな、うるさいだよ!!』
キィーーッ!
「精神回路に異常が発生したもよう。どうしますパパ?」 「う〜む。こいつも駄目かー」 「破壊しますか?」 「えっ、一樹をか!」 「はい」 「馬鹿を言うな勿体無い。あいつは小笠原から火星へ送り、職人として育てる!」 「十太郎は駄目だったじゃないですか」 「いいや、十太郎は腹痛を訴えたから私がその場で壊したんだ。エイリアンが潜伏してるかと思ったからな」 「パパは臆病なのよー」 「馬鹿野郎! ママだって一太郎から九太郎まで九人も捨てたじゃないか!」 「あれはパパが悪いんでしょ! 蹴ったり、殴ったり。あの子達ボコボコだったのよ。捨てるしかないでしょ!」 「なに〜! 自分が産んだ息子を捨てる馬鹿がどこにいる! 半殺しでも生きる事を願うのが母親だろ!」 「そんな何十年前の話をしてるの? 今じゃ捨てるの。もう、全く解ってないわね」
壊れる時。それは当然のようにやってくる。 お父さんや、お母さんの都合など全く関係無く、当然やってくる。 壊れたのは、それその物では無くて、ご両親の『心』なんですけど。
エントリ24
節分が来る
蛮人S
ノックの音がした。 「はいはい、どちらさんで」 「私は市役所の年中行事課徴用係の職員ですが」 ドアを開けると男が立っている。 「来る節分の日の市民行事実施に伴い、あなたを赤紙一枚で熱き戦場へ送り込むため参りました。印鑑お願いします」 「はい」俺は赤紙を受け取って内容を確かめる。と思わせて口に入れ飲み込んだ。 「食べちゃいました」 職員はにっこり笑って携帯印字機に無地の赤紙を挿し込む。 「いくらでも再発行します。張り切って戦いましょう。あなたは運が良い、豆まきの真の主役が当たったんですから。なお担当場所は非戦闘調整区域なので戦傷率80%未満ですが、必ずしも数字を保証するものでは……」 冗談じゃない。 「せ、戦闘服が破けてるんだ」 職員は印字の終わった赤紙を手渡す。 「今年は特注の服を全員に支給します。桂由美のデザインで」 それが誰かは知らぬが、どうアレンジしても鬼は鬼、市民の敵だ。 「やはり虎縞パンツか。金棒もつくのか」 「申し訳ありませんが」 職員の笑顔がやや硬くなった。 「あなたの配属は鬼サイドじゃありません」 「何ぃ。じゃ福サイドかよ」 えらい事になった。鬼の場合、市民は目の前にそいつが居る限り、それこそ鬼のような形相で豆を打って追い立て回すのだが、その場から去ればそれ以上追っかける暇人はいない。しかし福が相手だとそうはいかぬ。執拗に追ってくる。遠くから近くから怒涛のように押し寄せ、どこまでも追い回す。俺自身そうしてきたのだから間違い無い。 昔は鬼を払った後、豆を家の内へとまき、そっと福を迎えるというものだったらしいが、現代の豆まきはもっと貪欲で手段を問わぬ。他人から福をかっ攫い自分の家に追い込むためなら、福にさえ全力で豆を打ち付けたりする。結果、大抵の福は半死半生に終わり市民はまるで幸福感が無く、それが翌年のエキサイトを呼ぶというスパイラルだ。欲に駆られた無数の市民に囲まれ、一斉に豆を食らう無残な俺の姿が目に浮かぶ。飛び散る豆の破片。地響きと怒号……。 「やだあ! 福なんてやだあ! 死ぬのはやだあ!」 俺は再び赤紙を飲み込み、職員の持つ予備の紙も奪い取って全部食おうと口にねじ込んだ。職員が叫んだ。 「無駄な行為はおよし下さい。これは決定事項です。それにあなたの所属は福サイドではありません」 「え……じゃ、何よ?」 「もちろん豆の役です。何をとぼけてるんですか」 俺は赤紙を喉に詰まらせ倒れた。
エントリ25
強き野良猫と、弱き人間
太公望
「よぉおまえ、何落ち込んでんだ?」
コンクリートジャングルの中、僕は忙しい毎日を送っていた。朝の7時に起きて、そこから満員電車に揺られ会社へ。午後6時までしっかり働いて、そのまま飲み屋か自宅に行く日々。恋人はいるけれど・・。週末までは忙しくて、とてもじゃないけど会ってられない。そりゃあ帰宅途中に、ため息の1つも出るさ・・。
そしたらさ。そんな僕のため息を聞いて、1匹の野良猫が話し掛けて来たんだ。
「よぉおまえ、何落ち込んでんだ?」 最初はもちろんビックリしたけどね。でもすぐに、別に野良猫が言葉喋っても普通だなって思ったんだ。だって彼らは、毎日どこかで人間の言葉を聞いてるんだからさ。それにつまらない毎日送ってる僕には、野良猫も喋ってくれた方が面白いし。だから、僕は少し戸惑ったけどこう答えたんだ。
「いや・・・。毎日つまらないなって。」 僕の本心さ。でもそれを聞いて、野良猫はすぐに鼻で笑ったよ。そして僕にこう言ったんだ。
「はっ!いいねぇおまえは。気楽でさ。」 気楽なもんか!って、怒って言い返そうとしたんだけどね。相手は猫だったから、少しおとなしくこう言ってやったんだ。
「いやいや・・。結構大変だよ、色々と。」 それを聞いて野良猫は、ゆっくりとこう言ったんだ。
「でもよ。おまえ、毎日飯の心配はしてねぇだろ?」 それを聞いて、僕は少し戸惑ったよ。確かに飯の心配はしてないなって。だから、僕は素直に野良猫に言ったんだ。
「飯の心配は・・。確かにしてないなぁ。」 続けて野良猫は、こうも言ったんだ。
「おまえはさ。安心して眠れる場所があるんだろ?」 それを聞いて、僕はまた戸惑ったよ。考えてなかったけど、確かに僕には安心して眠れる場所があるんだなって。気付かされた僕は、また素直に野良猫に言ったんだ。
「眠れる場所は・・。ああ、一応あるよ。」 そして野良猫は少し下を向いて、こう言ったんだ。
「そして・・。おまえを愛してくれる奴も、いるんだろ?」 それを聞いて、僕は野良猫が何を言いたがってるのか少し分かったような気がしたんだ。そして僕は野良猫に、今日初めて見せた笑顔でこう答えたんだ。
「ああ、いるよ。愛してくれる人が・・。いてくれてる。」 それを聞いた野良猫は、ゆっくりと僕と反対方向に向かって歩き出したんだ。そして最期に、僕になんて言ったと思う?
「よぉおまえ、何落ち込んでんだ?」
それを聞いて僕は、心の底から笑っていた。
エントリ26
亜矢ちゃんの手
日向さち
水っぽい部分は握ると硬くなりすぎるので、さらさらの雪と混ぜて、相手に当たったらバラけるようにする。 いつの間にか始まった雪合戦は、全員が敵だ。あっちからもこっちからも、雪玉が飛んでくる。けれど、いくら当たっても痛くはない。雪で遊べるということの意味が大きかったから、勝ち負けのルールも必要なかった。 降雪量の少ない年には大したものも作れないが、思い切り遊べるほどの雪が何度か降る年もあり、私たちが小学校六年生だった年の二月にも、学校のグランドに二、三のかまくらが出来上がった。 たいがい昼間に雪が溶けてしまうので、放課後、雪合戦ができるというのは貴重だった。午前中に作ったかまくらが溶け出しているのは分かっていたので、間近で見ることを避けたのか、離れた場所で雪を投げ合った。 雪の下は、走り回っても割れないほどの氷が張っていた。降り始めの雪が溶けて、再び凍ったものだ。だから、雪に泥が混じることはなく、顔面に受けても平気だった。空気が冷たい分、雪は冷たいものではなく、特別な遊びの提供者だと感じられた。 直ちゃんが飛ばした雪玉は、私のお腹で弾けた。飛沫は顔まで飛んできて、目の前で太陽の光をはじく。逃げられないうちに、と思って雪玉を作ろうとすると、バラバラになってしまい、上手くいかない。 すると、私に味方した亜矢ちゃんが直ちゃんへ雪玉をぶつけ、私と一緒に、直ちゃんを狙って投げ始めた。広くんは直ちゃんの加勢に回った。握ったか握らないかの雪が、あちこちへ飛ぶ。そこへ元ちゃんがどちらともなく攻撃をしてきて、いつの間にか、みんなの標的となった。 「なんで俺ばっか狙うんだよぉ」 「一発だけ当てさせて」 「やだよ。なんでだよ」 元ちゃんはすばしっこいので、一発も当たらなかった。元ちゃんの仕返しも、ちゃんと狙いを定める余裕がないので、ぜんぜん当たらない。 すぐに、みんなが敵同士へと戻った。 みんなとの間合いを広げて雪玉を作ると、一番近くにいた亜矢ちゃんを狙うことにした。亜矢ちゃんは広くんと投げ合っていたので、チャンスだと思った。この隙だったら、ど真ん中にヒットすることができそうだ。 両手に一つずつ雪玉を持って、届く距離まで近寄ろうと勢いよく駆け出した瞬間、視界から亜矢ちゃんが消えた。亜矢ちゃんのせいじゃない。私が転んだのだ。 「大丈夫?」 真っ先に駆け寄ってきて手を貸してくれたのは、亜矢ちゃんだった。
エントリ27
煉獄
伊勢 湊
この狭い部屋は何度来ても慣れない。壁は眩しすぎるくらい白く現実感がなく、どことなく大きすぎる机だけが目の前の男と私の空間を隔てていた。
「自覚はなかったが、やはりオレたちも兵士だったってことなのさ。戦いに行くわけではない、なんて大義名分をつけていても銃を持つということは撃たれるかもしれないし、撃つかもしれない。その覚悟が必要なのさ。単純なことだ。いや、オレたちを送り出した連中に文句を言ってるわけじゃない。要は、今のこの国にはそれを理解して正しく覚悟を持てる人間はほとんどいないってことさ。 だから坂井が銃口を向けられたとき、あいつはなんていうか、きょとんとしてたよ。その風景を見ていたオレもな。坂井に銃口を向けた肌の色の違う兵士もどこかびっくりしたようにすら見えたんだ。 そんなだったから、それはあまりにあるべき情景を逸脱して見えた。パスン、パスン、と乾いた音がして、坂井の顔面に穴が開いていたよ。はっきりと死んだのが分かった。もう一瞬前とは何かが決定的に違うってことが感じ取れたんだ。あいつとは隊の中でも結構仲が良くてな。家族ぐるみの付き合いってやつ? 出発前、もうすぐ二人目が生まれるなんて喜んで話してたな。 許せなかったよ。もし、目の前で見ていなければどうだったかは分からない。でも、それを見ちまった。錯乱してたわけじゃない。ただ許せなかった。 飛び出して引き金をひいた。倒れたところに近づいて銃を持っていたほうの手を蜂の巣にした。たぶんまだ生きてた。それから仰向けにして坂井がそうされたように顔面に弾を撃ち込んだ。それから坂井の名を呼んだ。近づくことは出来なかった。オレはあいつの名を叫びながら、その声を掻き消すように足元の兵士にありったけの銃弾を撃ち込んだ」
この話の後半部分だけをアメリカのマスコミのカメラが捕らえていた。戦いが目的ではない兵士の残虐な行動と世界から叩かれた。精神鑑定士として彼を生かすために出すべき答えは分かっている。 しかし実際のところ、私に何が分かるというのだ?
「正直言うと、何を聞くべきかよく分かりません。ただ、あなたは倒れた兵士を撃ち続けた時、快楽や制圧感、そういうものを感じましたか?」 そう聞いたときの彼の怯えた目が脳裏から離れない。 「あのとき感じたのは坂井を殺したその男への怒りの他には、次はオレが殺される番だという覚悟と、それに対する本当の恐怖だけさ」
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