さあ、ごたごたはもう終わり。 ご飯にしましょう。 ほら、そんな顔しないの。 さっきのことだったら、お母さんもう怒ってないから。 今日はシチューにしてみたの。 亜子、大好きでしょ。ビーフシチュー。 おかわり、いっぱいあるからね。ニンジンもちゃんと食べなさいよ。 ほら、好き嫌いばっかりしてるから、こんなに痩せちゃって。 何、まだ拗ねてるの? くすくす。もう、頑固なんだから。誰に似たのかしら。 ちっちゃい頃は、あんなにお母さん、お母さん、だったくせに。 ふふ。あんたってば、お母さんにべったりで、どこにだってちょこまかくっついてきて、とっても可愛かったんだから。 くすくす。 そういえば、久し振りね。亜子とこうやって向かい合ってご飯食べるの。 亜子ってば、全然部屋から出てこないんだから。 ほら、何やってるの。 早く食べなさい。冷めちゃうわよ。 今日のは、特別美味しく出来たんだから。 亜子の為に、作ったんだから。 あらあら、どうしたの、そんなにぼとぼとこぼしちゃって。 ほら、しっかりスプーン持って。ニンジンは栄養あるんだから、残しちゃだめよ。 どうしたの、亜子ちゃん。赤ちゃんみたいよ、くすくす。 亜子ちゃん、亜子ちゃん、美味しい? 大丈夫。そんな顔しないで。 大丈夫。 お母さんね、お母さん、亜子ちゃんのこと ねえ、亜子ちゃん 亜子ちゃん「被害者のものと思われる悲鳴が聞こえたのが、二十日の午後七時十五分前後か」「はい。母子家庭で、被害者は無職。何年もの間、自宅からの外出はなかったようです」「引篭もりってやつだな」「近隣の住民によると、連日連夜に渡って激しい口論が繰り返され、時に、激しい物音や、感情的になった娘の怒鳴り声、母親の泣き声も聞こえていたらしく」「娘の暴力に対する、正当防衛の線もあり、か。どっちにしろ、当の本人がアレじゃあ、取調べにならんな」「精神障害の可能性も、ありですか」「血まみれの娘を、椅子に座らせて、懸命に飯を食わせようとしていたらしいぞ」「……」「なんつうか、病んでるな」「加害者が、ですか」「いや、まあ、どこもかしこも、ってな」 ねえ亜子ちゃん。 お母さんね、亜子ちゃんのこと、大好きよ。 ねえ、亜子ちゃんも、お願い。言ってちょうだい。 昔みたいに。 お母さん、大好きって。 そしたら、お母さん、また頑張るから。 いくらだって、頑張れちゃうから。
その少女を見たとき、衝撃が走った。 いずれ、自分のコレクションになる。そんな予感のある少女だった。 僕には子供の頃からの趣味がある。 一種のコレクションだ。 それは昆虫から始まったクリスタルアートだった。エポキシ樹脂でその昆虫のもつ姿を、永遠に封じ込めてしまうものだ。カブト虫を飼っていても、ひと夏で死んでしまう。ならば、透明なエポキシ樹脂で包んで、保存しようとしたのが始まりだった。コレクションは次第に増えていき、社会人になってからは、制作部屋が確保できるマンションに住むようになった。毒を持つマムシやコブラもコレクションになっている。だんだんとエスカレートして、大きな物がコレクションになっていった。そして、どうしても手に入れたいものが、人間だった。 どうせならば、幼さが残る少女がいい。 これは僕の願望だった。 そして、思い描いていた偶像が、突然目の前に現れたわけだ。 僕は興奮した。少女を調べ、チャンスを待った。 彼女の両親は交通事故で亡くなっていた。今は親戚の家にいる高校一年生だ。材料のエポキシ樹脂は十分に確保した。しかし、実行しようとした大切な日に、彼女は怪我をした。体育の授業でリレーをしている時、転倒して膝を痛めてしまったのだ。 妥協はできない。傷が治るまで待つことにした。 その後、彼女を尾行していると、彼女はくるりと振り向いて僕を見て言った。「わたしのことつけていたでしょう?」「いや、足の傷が心配で…」「なんで、知ってるの?」 不覚にも彼女に気づかれてしまった。「わたしに興味があるの?」 彼女は戸惑う僕を逆に脅して、無理やり部屋に上がり込み、コレクションも見られてしまった。この時、不思議だけど誘拐する気などなくなっていた。逆に、好奇心たっぷりの瞳で見つめる彼女をいとおしく思った。「変な趣味。まさか、わたしをクリスタルに閉じ込めようとしたわけじゃないわよね」 その時から、彼女は僕をリードし続けている。 数年後、彼女の親戚とも話がつき、円満な結婚をすることができた。結婚後は趣味でクリスタル製の家具や置物をいっしょに作っている。彼女はクリスタル技術を習得していった。 子供も生まれた。 人間は変わっていく。 僕も彼女もどんどん変わっていく。 今、僕はクリスタルの中にいる。 彼女と見知らぬ男との情事を見ていたりする。 娘が僕を指さして言った。「あれは、前のパパなのよ!」
おかあさんが変わったのは、同窓会の翌日だった。・・・・・・・・・別にそんなんじゃないわ。覚えてるわよ。・・・・・・・・・エドワールよねぇ。バラ色の靴を履いた女でしょ。「おかあさん」・・・・・・・・もう忘れたわよぉ。だって講義をあなたが妨害するし「おかあさん」・・・・・・・・あ、和也。ご飯買ってきて。そうなの、次男なのよ。おかあさんは電話機を片手に、なにか書いていた。文字なのか、絵なのかなんども繰り返し塗りつぶすように、それは女の絵のようだった。僕は、引き出しの箱から千円札を財布に入れ、スーパーに向かった。スーパーの眩しい光の中で、僕は生まれる前のおかあさんを感じた。「学生部と交渉しても、学部長が逃げ回ってるようでは交渉にならない」「我々は、無期限ストを3日後に設定して、要求を貫徹する」彼のアジテーションに、私も「よし」と叫んでいた。私はいつも<我々>の中にいることに安らいでいた。<我々>は、この学生会館の天井に書かれた文字を崇拝し、この学生会館に集う学友の声を信じあった。<我々>は、私に還るとき、私は彼の腕に包まれていた。ベットの彼はまるで、おとうさんのように私を愛してくれた。・・・・・・・・うちの父、あなたと喧嘩したわよね。・・・・・・・・公務員とお見合いするのが幸せだと思ったからよ。「おかあさん、買ってきたよ」僕は、わざとおかあさんの前にスーパーの袋を置いた。・・・・・・・・そろそろ切るわ。うん。うん。おかあさんは、黙って台所に袋を持っていき、それからご飯の支度をし始めた。僕が何年も見てきたおかあさんの姿。「おかあさん、電話が長いがん。電話料金とか考えんとぉ」「おかあさん、賢いけん。向こうからかかってきたけん長電話しただがん。さっきの人ね、リストラで大変なんだって。やっぱり民間はつまらんがん。お父さんが公務員でよかったがん。おかあさん、賢いけんなぁ、和也も賢いでぇ。勉強せんといけんでぇ。」おかあさんの声が少しかすれ声だった。おかあさんの背中が自己批判で曇っていた。<我々>は、その曇りの空に光を探した。<我々>は救いのない曇りの空に、青い春を探し彷徨っていた。 WIE WEGGEBL ASEN SEIN <何もない>翌日、玄関に新しいバラ色の靴がそっと置いてあった。
世の中は、狂牛病騒ぎで、牛丼屋業界は悪戦苦闘しています。牛肉に病原体が入っているという理由から、政府が牛丼の差し止めを要請したのです。国道沿いに、ぽつんとたたずむ一軒の牛丼屋「すみれ庵」もその中のひとつです。店長は、このジレンマに、頭を悩ませた末、ひとつの提案をしました。「明日から、天丼を販売しようと思う。」牛丼より、おいしいものを提供することで、お客様を呼び込もうという作戦です。それを聞いたアルバイトは、こう思いました。そんな高いもん売ってどないすんねん。牛丼屋は、安さが命やろ。ひょっとして、この人、天丼食いたいんか。「それやったら、おいしい定食屋、紹介しますよ。」アルバイトは、こともなげに、言いました。店長は、思いました。どういう意味やねん。どんぶり売る側の人間が、どんぶり食いに行ってどないすんねん。ひょっとして、こいつ天丼を研究せな、天丼は作られへん、ということを俺に教えてくれてんのか。「わかった。明日、みんなで天丼を食べに行こう。」店長は、うなずいて、そう提案しました。アルバイトは、思いました。そんなあほな。天丼ぐらい一人で食いに行かんかい。ひょっとして、この人、俺らにもおごってくれるつもりか。「いいんですか?」アルバイトは、嬉しそうに言いました。店長は、思いました。なんやねん、こいつ。偵察に行くのに喜んでどないすんねん。「偵察に行くのに、喜んでどないすんねん。」店長は、思わず、思ったままを言いました。「偵察?飯食いに行くだけでしょ。」「いやいや、お前が言い出した事ちゃうんかい。天丼を研究せな、天丼は作られへん。」「言うてませんて。研究ってなんなんですか。」「研究は研究やないか。お前かて、おいしい天丼の作り方知りたいやろ。」「別にいいっすよ。定食屋で800円出したら食えますもん。」この時、店長の中の何かが音を立てて、はじけ飛びました。「その800円はどっから出とるんじゃ!」アルバイトは少し、考えた末、小さな声で言いました。「すみれ庵の売り上げからです。」「よっしゃ、ほな明日、天丼食いに行くから。」「はい。」「ワリカンやぞ。」「はい。」「朝8時集合や。」「はい。」「お前だけ、バイトの格好で来い。」「はい、喜んで。」
20××年。某月某日、天気:晴れ。そいつは突然長野県の山奥に宇宙から飛来した。紫色をした巨大な真ん丸い物体。空中に浮いていることから、地球の物ではないということがすぐさま分かった。 いったい何が起こるのだと地元の住人たちは口を揃えて言ってみたが、場所が長野県でも過疎化が進むような小さな村だったので、さほどの騒ぎにはならなかった。 しかし、その謎の物体は降り立ってから一週間後。「我々は、宇宙の支配者ワイルダーや。これから、この星は我々のモンやで〜。」 突然、しゃべりやがった。 ・・・・・なぜか日本語だった。 ・・・・・・・なぜか関西弁(?)だった。 これには、村の住人どころか日本政府単位でびっくりした。「なぜ、日本語なんだ?」「なぜ、関西弁なんだ?」「いや、アレを関西弁と言っていいのか!!??」「って言うか、ワイルダーってあからさまに日本語を意識したネーミングだぞ!!」 等と、不毛な会議を国会で二日もかけて行った結果。とりあえず、世界征服を狙っているっぽいので、自衛隊を派遣してみることにした。 ちなみに、他国にも協力は求めてみたが、色々な理由で却下された。 特に、北朝鮮には「なんでやネン!!」と、なぜか日本語でつっこまれた。 ということで日本人部隊は、いつもの日本人らしくなく即効ワイルダーに攻撃を仕掛けてみたりした。 参議院選挙が近かったのだ・・・・・。 結論から言おう。 自衛隊は頑張った・・・・戦車とか、戦闘機とか、海がないことで有名な長野県なのになぜか潜水艦とか戦艦とかを使って頑張った。しかし、ワイルダーには通用しなかった。戦車をつぶされ、戦闘機を墜とされ戦艦と潜水艦を沈められた(この際「どこに?」と、突っ込んではいけない。) ご都合主義で死人は出なかったものの、総理の支持率はガクンと下がった。参議院選挙が近かった総理は、これを一大事と考え最先端の科学力と技術とその他色々使って、五つの超強化スーツを作り上げた。 ちなみに予算の出所は秘密となっている・・・・。 また、この時「レッド」のみ通常の三倍の性能を装備させるべきだと国会で議論されたが、強化スーツに量産型がないため、却下された。 かくして、この強化スーツを装備すべき五人の戦士が公平な審査と勘と占いとくじ引きで決定した。 『Z戦隊カミレンジャー』の誕生である!! ・・・・・・・・・ちなみに、名前の由来は一切不明となっている。 ※作者付記: 3000字バトルに続きます。良ければ読んでみてください
「資格をとっておくと何かと役にたつぞ、つぶしもきくしな」 そんな言葉は聞きたくない。雅美は都内の大学の文学部2年生。去年まで一緒に騒いでくれた人たちも今は就職して毎日9時から5時すぎまで働いている。それでなんだか不安になっていた。文学部は就職に弱い。そんなことは入学する前から知っていた。それでも雅美にとっては遠いことだったし、何より働いている自分が想像できなかった。でも今は違う。知人が学生から社会人になるという経験は思いのほか大きなショックを雅美に与えた。 「私、働けるかな・・」その不安が雅美の足を進路相談室へ向かわせた。そこでいわれたのがあの言葉である。一体何の役に立つのか、つぶしてどうするのか、そんな質問がのどまで出たが、子供じみていると思ってなんとかこらえて退室した。大学は人を馬鹿にするというが、ある意味そのとおりだ。受験勉強の苛烈さは雅美も身にしみてわかっているし、それゆえに今の、人に羨まれる立場があるのもわかっている。しかしそこからの解放と、人生の中でもっとも時間のある状況への変化の麻薬が1年たって切れてしまったのだ。道標のない草原の真ん中にいるような無方向感は、就職したりするときには何の役にも立たないどころか、むしろ足を引っ張る。解放されてみれば受験戦争が異常な状況だったこともわかるし、そこを振り返る余裕もある。しかし次がないのだ。次の行動への道標が見つからない。大学のありあまる時間はそのことに気づかせてしまう。雅美もまさに今気づいてしまった。役に立つって言葉は何か目的があるはずなのにそれがないのだから。 それから、道行く人の目的が気になるようになった。ラッシュにのまれて満員電車で通勤するサラリーマンを見るたびに、スーパーで買い物をする主婦を見るたびに、考えてしまうようになった。そんなことが一目でわかるはずもなく、いつも結果は「わからない」だった。 高校時代から付き合っている彼氏もいる。大学にはいつも馬鹿やってるサークルの仲間もいるし、クラスにも何人か仲のいい子がいる。でもそんな楽しい雅美の仲間たちとの時間に、公認会計士の資格はなんの役にも立ちはしない。資格でつぶせるものもない。大学時代にわかったことは、何もしなくていい時、人は何もしないことを選びがちだということ。そんな自分の性格をちょっと疎ましく感じながら、雅美は久々の明日のデートに思いをはせていた。
カッターが私の大事な心のささえ、どちらをとられても私は生きていけない。 私は折原香苗、世に言う自傷症というやつだ。はじめは、傷つけちゃおうぐらいの軽い気持ちではじめたことだったがい今や切らないと生きていけないという状態だ。ザクッ!今日もカッターで手首をきってからさあいくかと学校にむかった。「ああ!香苗またやったなあ!」 友達の裕子が私の傷をみて叫ぶ。「エヘッまたやっちゃったあ。」「エヘッじゃないでしょうが!やめなってゆってるのに・・・」 裕子は大学でゆいいつ私が友達と呼べる人だ。裕子が私の傷をみてすっごくつらい顔するのみたくない・・・そうおもってるのにまた切ってしまう・・・ハア、お馬鹿だね私・・。「どうしたらやめてくれるんだか。」 裕子がため息ついた。ごめんね・・・。 毎日この繰り返しだ。これからもつづくのかなこんなことが・・・。そんなある日、私はその人に出会った。 裕子にさそわれたオペラのなかので私は彼をみつけた。低くおなかに響くような声、彼の声は私の心に甘く切なくしみていった。「香苗、よかったでしょお?」「うんうん!」 裕子と帰ろうとしたそのときだ。ドンッ!私は走ってきた誰かとぶつかりおもいっきり転んだ。そして前をみるとぶつかったらしい人が今度は、自動ドアにぶつかりでていくのがみえた。「今のって古島さんじゃない?」「えっ?」「よし香苗おっかけるぞ!」「えっ?ちょっとおお!」 私がふりほどくまもなく裕子は私の手をにぎり走り出した。 裕子に手をにぎられ息をきらせながら追いついたとき彼はちょうど車に乗ろうとしてるとこだった。「古島さん!」 裕子が呼ぶと彼はふりむいた。あっさっきの!「あっあのお今日の公演すっごくよかったです!」 きずいたら私が裕子より先にゆっていた。ゆったあとカアアと頭に血がのぼった。「香苗?ちょっちょとお。」 きずいたら私は走りだしていた。無我夢中で走ったあげくに迷子になってしまった。 どうしよう・・。 ネオンの光る繁華街で私は座り込んでしまった。もういや・・・泣きたいほんとに涙でてきたよ。 うずくまった私をふんわりとだれかがつつんだ。 顔をあげると・・・えっなんと古島さんがたっていた。「香苗ちゃんだっけ。だいじょうぶ?」 コクッとうなずくと私のことをいきなり抱き上げた!!ドキン心臓がなった。それが恋のはじまりだった。 それから数ヶ月後、私は正式に肇そう古島さんとつきあいはじめた。不思議なことに肇とであったひから私は、リストカットをしなくなった。「カッターのかわりがはじめかも。」 とゆったら。苦笑していた。大学で友達もふえて今、私はとても幸せです。
「先生、何かお悩みでも……」 衆議院議員、権田原健三は苦虫を噛み潰したような顔で、小指を一本立てた。「これが簡単に別れてくれないんだ。マスコミがわしのスキャンダルを探して一日中張り付いていると言うのに、困ったものだ」「愛人ですか? 確かに、この時点で先生の女性問題は命取りですね」「法案の成立まであと少しだ。この大仕事を引退の花道にしてもいいと考えてもいる」「何をおっしゃいますか、先生には少なくともこれから十年は、この国の国政を引っ張っていってもらわなければいけません。いや、それどころか、あなたは近い将来、総理大臣になれる人だ」「そう思うかね」「もちろんです。ですが、ご安心ください。この問題は私が綺麗に解決して見せます」「しかし、金を積むだけで清算できる問題じゃない」「裏稼業の人間に任せるとしましょう。人間、金や名誉よりも、命が一番大切ですから」「こ、殺すのか……」 権田原は動揺した。が、秘書は不適な笑顔を見せた。「いえ、少し脅かすだけですよ、長ドスのマサといって、その世界では有名な脅し屋がいます。数え切れないほどの刃傷沙汰を起こして、ドスを扱わせたら右に出るものがいないと言うほどの男なんですがね。一度、逢ってもらえませんか。裏で片付けなければならない仕事にはうってつけの奴ですよ」 数日後、秘書が用意したマンションの一室で、権田原は長ドスのマサと対面した。 なるほど、闇の仕事に精通した男らしく、その狂相は、悪徳政治家でさえ怖気づくほどの迫力である。「権田原先生ですね」「いかにも」「ご依頼の仕事は何でしょう?」 権田原は小指を立てて見せた。「これだ。すぱっと手を切りたい……」 ――言うが早いか、その小指が根元を離れた。 自らのドスさばきに陶酔するように瞼を閉じたマサの青白い顔面に、権田原の返り血が彩りを加えている。
長らくふり続いた雨のあがった夕暮れ時である。雲間がほのかに明るくなったので、湖畔まで行ってみたくなった。 階段はそのまま湖面に通じているわけではなく、途中からけもの道に変わり、無造作にのびた枝葉が水滴をともなって私に触れて肩をかすかに濡らした。 全くしずかな水面であった。深い緑があたりの木々を映し出しているように見える。湖面を波紋がつたっていく。はねた魚の淡い余韻である。ちゃぽんと遠くで音がしたかと思うと、眼前を松葉が流れて行く。普段なら一二艘のボートでも浮かんでいそうなものだが、先ほどまでの雨のせいだろうか、私のほかにはだれもいないようである。暗くなりはじめた空を見上げると、鴉が二羽、旋回していた、ながめているとそのまま山を越えて行った。やけに低い鳴き声にどきりとする。 私はぬかるんだ地面をつま先ではじきながら、なみなみとたたずんでいる湖に近づいた。松葉が土と水の境界をひくように分厚くたまり、変に曲がった流木がころがっていた。斜光が私をさす。針一本落とすとなにかが毀れそうな六月の夕暮れであった。 今になって鼻をさすような濃厚な青臭さに気がつき、なんだかむず痒くなった鼻先をなでた。そして、眼を閉じながらいっぱいに鼻から空気を吸い込む。体の奥底でゆっくりと回してから吐きだすと、全身が脱力し、浮き上がるような感覚にとらわれた。膝がカクンと折れて、しゃがみ込んだ。 緑の湖面の寂しいあのあたりに白いボートが加わればいい。赤く照らされたボートが一艘ぽっかりと浮かぶのはきれいだろうと素直に感じた。 ひときわ大きな波紋が私のほうに押し寄せ、足下の松葉に吸いこまれて行く。対岸の肌色をした崖が赤く染まって、さらさらと崩れていっている気がする。その視線を魚が高く飛んでぽちゃんとさえぎった。 夏至であった。 ということはつまり、どこかは一番夜が長い日なのだろうか。そこでは今、最も長い夜の暁闇がひかっているのだろう。南国の肌の黒い男たちの海辺の姿が思い浮かび、そのうつくしい想像に少し酔った。 眼前には、なにもない湖である。長い日がさしこみ、静かに広がっている。天は洞々たる面持ちにかわっている。もう湖は明瞭にはうかがえない。代わりにどこかの家の明かりががきらりと光る。 突然、無性に叫びだしたくなる衝動にかられて、代わりに大きなアクビがでた。 夜空は抜けるような紺色であると、私は思っている。
「ちょっとヒロタカ、聞いて驚け! オレさ、二人からいっぺんにコクられちゃって、困ってンだよね」『へー、やったじゃん。で、誰から?』「アサミとユウキ」『ソレって、結城麻美と浅見夕紀?』「うん、そう」『あの二人って、紛らわしい名前だよな。ひょっとして、遊ばれちゃってんじゃないの』「ヤなこと言うね。名前が紛らわしいくらいで、みだりに人を疑っちゃいけないよ」『だってなんかさ、ケンタウロスとミノタウロス、もしくは人魚と半魚人くらい、いかがわしくない?』「名前をいれかえるのと、体をいれかえるのを一緒にすンなよ。それにケンタウロスと人魚ならまだ許せるけど、ミノと魚人は話す気にもなンないだろ。絵ヅラを思い浮かべてみろよ。どっちが結城でどっちが浅見だよ」『っていうかトモナオさ、お前がもし、タカノちゃんって子と結婚したら、高野タカノになるよね』「大きなお世話だ。お前だってハギオと結婚したら萩尾ハギオだろ」『いないよ、ハギオなんて。そーいえば、親戚のバーチャンに梅本梅っているな。結婚してさ、名前が回文』「うわっ、山本山みたいだな、ソレ。でも、桜沢桜とか、桃井桃とか…案外いるかもしンないな」『コイケケイコなんていうのも、もろ回文』「だな。コヤママヤコ、とかね」『じゃあさ、言葉遊びのついでに、こういうのは? 二者択一、つきあうならどっち? “しどけない赤ちゃん”と“あどけないKABAちゃん”』「うーん、どっちかな…って、どっちも想像したくねぇよ」『じゃあ、“あつくるしいキャバ嬢”と“愛くるしい矢吹ジョー”は?』「あのさ… もっとこう、選びたくなるようなのない? 例えば、ドツキあうならどっち? “スラングベラベラのボア”と“スマイルヘラヘラのボブ”とか」『ボブって誰だよ、サップ?』「違う。ええと…レゲエの神様ぁ? ボブ・マリーィ?」『なんでオレに訊いてンだよ』「じゃあ、ボブカットのぉ? ラップ少女ぉ?」『ゴーインだな。たしかにあの子、気になるけど…あれは、ボブじゃなくておかっぱ』「話回転するけど、トモナオが結城と結婚したら萩尾朝実と萩尾麻美でどっちもハギオアサミって読めるよな。オレが浅見と結婚したら高野裕貴と夕紀だし。うーん、ホント迷うな。結城と浅見どっちにするか」『だよな。婿養子って場合もあるし…って、なんでお前が迷ってンの? コクられたの、オレじゃん。お前関係ないよ』「へ? オレ、誰?」
窓際で風鈴が揺れる。チリンチリンとかわいらしく音が鳴り、暑さと涼しさという相反する思いを私に抱かせた。「今年の夏は暑いのですかねぇ。」 語尾を伸ばす妻の癖は、出会った頃から30年間変わることがない。でも間延びした会話も毎日続けていれば愛しいものだ。風鈴と同じように慣れが肝心。最初に抵抗感があったものほど時が経てば好む傾向にあることを、この年になるとよく実感することができる。「夏なんだからさぁ、海にでも行きたいなぁ。」「もう水着は着れないだろ。」 そうからかうと、妻はすねたように口を尖らせた。「いいじゃないですかぁ、海はみんなのものですよ。別に水着を見せびらかしに海に行くわけじゃないんですからねぇ。」 妻は私の目の前に置いてあった枝豆に手を伸ばし、さやに口をつける。口紅など塗っていない少し荒れた唇がほんのりと湿った。私がビールも妻の前にすべらせたら、妻はそれもうまそうにゴクゴクと飲みほした。「じゃあ来週の休みに行こうか。」 上唇に泡をつけた妻は、驚いたように私に顔を向けた。「あらまぁ、ずいぶん早い決心ですねぇ。さっきまで水着になるなとか言ってたのにぃ。」「別に水着になるなとかは言っていないよ。ただ周りの目も考えるんだぞと忠告してやっただけで。」 今度は鼻にしわを寄せて、妻は楽しそうに肯いた。「はいはい。あなただって海に入って心臓発作なんてならないでくださいよぉ。」 空いたグラスに再び並々とビールが注がれる。グラスは私の額と同じように露を吹いていた。 妻が立ち上がり、柱時計の下に掛けてあるカレンダーに大きく丸をつける。そこで何かに気付いたのか、台所のほうへ小走りで駆けていった。 戻ってきた妻の手には、数本の笹が握られている。「向かいの奥さんにもらってきたんです、懐かしいでしょぉ。海へ行く前に、飾り付けでもしませんかぁ。」 子どもっぽいですかねぇ、と妻は恥ずかしそうに笑った。「いいや、いいんじゃないか。折り紙でも買ってこよう。」 つきあい始めて数年たったある7月のデート。百貨店の催しで短冊に願いを書いた時、妻は「見ないでくださいよぉ」と言って、思い切り爪先を伸ばして笹の上部にそれを飾った。気にしないふりをしながらこっそり覗いた短冊には『この人と幸せになれますように』と綴られていた。 妻は今度はなんて書くのだろう。風鈴を揺らす風が短冊を揺らす光景を思い、私は一人微笑んだ。
英語教師が僕の名を呼ぶ。しつこく繰り返し呼ぶ教師の声が大きくなるにつれて、クラスメイトの視線がますます増えていくのを背中に感じる。僕は開け放たれた窓の向こうでのびのびと膨れた入道雲が僅かに形を変えながらゆっくりゆっくりと動くのを眺めていた。教師は僕の名前を呼ぶのをやめて、後ろの席に座る生徒の名を呼んだ。僕の後ろの席の優等生は教師の質問に素直に答えた。いや、僕に言わせれば彼は決して素直な生徒などではない。 確かに教師にしてみれば、彼はとても素直な生徒に見えるだろう。しかし、彼は勉強を嫌い、教師を憎み、学校に愛想を尽かせているのだ。母親に対して異常な愛を抱き、勉強ができないがために見放されることを恐れ、そんな彼としてはただひたすらに母親の期待に応えているだけに過ぎない。彼は素直なんかではなく、例えて言えば、子供に嫌われるのを恐れたピエロだ。そう、本末転倒なピエロ。ピエロがマザコンだという噂がクラス中に流れていることに僕は同情さえしてしまう。 いつものようにぼんやりと夏の空が流れていくのを見ていると、ついに英語の教師が怒鳴った。多くの生徒はあまりの声の大きさに驚いていたが、僕はついに来たか、と思った。「お前は何しに学校に来てるんだ! そんなことだから馬鹿な大学にしか入れないんだ!」 僕は相変わらず雲の自由な姿を羨望の眼差しで眺めていた。教師は続けて、ピエロを指差しながら、「こいつを見習え! 有名大学にも行けないくせにそんな態度をとるんじゃない!」と唾を飛ばしながら叫ぶ。 僕は後ろを向いてピエロに言ってやった。「本当に大学に行きたいのかよ? お前は大好きなママに嫌われたくないから大学に行くんだろ?」 ピエロは顔を赤らめて、僕を潤んだ瞳で睨んだ。その二つの無垢な瞳に睨まれて、僕はようやく言ってはいけないことを口にしたことに気がついた。ピエロは椅子をどかして勢いよく立ち上がった。「君に言われたくないよ。いつも現実から逃げてばかりで、いいわけを言って何もやらない。自分が正しいと思ってるだけの、言ってみれば、君は『裸の王様』だ!」 ピエロは泣きながら教室を出て行ってしまった。湿った風が窓から流れ込み、静寂に縛られた教室の空気をそっと揺らす。僕は耳朶が熱くなるのを感じながら、汗がうっすらと染みた白いシャツに目をやった。シャツを着ているはずなのに、僕の全身は確かに生ぬるい風を感じた。
「大将、コハダ頼まぁ」 北原俊紀がカウンターに座るなり、注文する。「はいよ」 板前は手際よく寿司を握り始める。「四谷は?」「っと、座るまで待ってくれよ」「お待ち」 ようやく四谷京作が座った辺りで、北原の前にコハダが置かれた。「ありがと」「えーと、俺はビールね」「はいよ」「おいおい、寿司ならアガリだぜ」 北原はコハダを手で掴んで食べる。「知らんよ。仕事終わってビール飲まない方がどうかしてるだろ」「相変わらずだな。まったく、何でもかんでもビールビールで、料理作ってくれる人が泣くぞ」「それで泣くようなヤワな根性の料理人はおらんだろうが」「ビールはそちらでしたね」 板前が栓を抜いたビールの中瓶と、ビール会社のロゴが入ったコップを一つ置く。「ありがとう。じゃ俺はシメ鯖握って」「はいっ」 四谷は瓶ビールをコップに注いで飲む。「ぶはーーー、ふーーー、やっぱりビールだよ、ビール」 立て続けに三杯ビールを飲み、四谷は表情を弛める。「――俺のビールもそうかも知れんけど、お前もいつも寿司屋でコハダ頼むな?」「ああ、これな」 コハダのもう一貫に手を伸ばしかけたままで、北原は応える。「コハダはな、地味に見えて手間がとてもかかるネタなんだよ。つまり、寿司屋の腕が分かるんだな。玉子で分かるってヤツもいるが、どちらかてぇとコハダの方がはっきり出るな」「ふーん。で、ここは」「うん。ここのコハダは今までで一番だ。最高の店と言えるな」「そっか」「シメ鯖お待ち」「ありがと」 四谷はシメ鯖の握りを食べる。「ん、旨い――けど、別にこの前の永世寿司と変わらんなぁ。お前さんざけなしてたけど」「永世寿司? あそこは全然ダメさ。鯖はどうか知らんけど、コハダ扱いがまるでなってなかった。もう全然な」 身を乗り出し、北原は声を高くする。「そりゃあ確かに他のネタは一級品に見えたが、オレの目はごまかせない、コハダで馬脚を現したてなもんだ。お前も、ああいう偽物の店でなくて、こういう本物の店を選べ、本物を」「……でも、北原?」「ん?」「コハダ以外のネタは、全然差が分からないんだよな?」「でもコハダを喰えば、くっきり差が出るんだってば」「それはそうかも知れないけど」 四谷は、シメ鯖の握りのもう一貫を食べる。「お前コハダ、嫌いだろ?」「死ぬほど嫌いだけど、それがどうしたか?」 北原は思いきり顔をしかめながら、涙目でコハダを呑み込んだ。
船が外洋に出ると、カモメの声も遠ざかり、鼻腔に潮の香りが心地良く定着する。出港の慌しさが一段落するのを見計らい、私はいつものように航海日誌を開く。船上勤務は不規則な時間のやり繰りだが、上手くこなせば、こうして麗らかな陽を浴びて、古い日誌を眺めるひとときを捻り出す事も出来る。 ずっしりと重く、もうこれ以上貫禄を増すことが出来ない程の航海日誌は、どのページを開いても、その日の天候と船の現在位置の正確な記述から始まる。 貨物船にとって一番大切な積み荷の状況、それを点検、確認した日付けと時刻、乗組員の健康状況、打合せや無線の送受信記録等、事務的な記述が大半を占め、それも父の丸っこい字が、これでもかという位に小さく固まって、削りの甘い鉛筆の芯が、太かったり細かったり、ところどころ滲んだり、擦れていたりで、読み辛いことこの上ないが、海に生きることを選んだ父の喜びや悩みがダイレクトに伝わってくる気がして、一文字づつ丁寧に拾い読む。 職業の選択をはじめ、日々の立ち居振舞いから身の御し方まで、多くの面で私は父の影響を強く受けた。しかしそれは、多忙で留守がちだった父から直接というより、この航海日誌の行間から教わった気がする。 壮絶な父の人生に思いを馳せると、熱いものが込み上げてくる。そしてそれは、私の真ん中にまっすぐと力強く立ち、私を支えている。 ブレーキが車輪をきしませ、制動感を覚える。「……JR線、地下鉄線はお乗換えです。電車とホームの間が広く空いております……」 癖のあるアナウンス。電車が停止してドアが開く。 そう、ここは外洋でもなければ、船上でもない。私は乗船勤務に就いておらず、父は船乗りではない。従って、通勤電車の車内で今しがた私が閉じたのは、古い手帳の革表紙で、航海日誌ではない。「いよいよ今夜だ」 自分の気持ちを確認するように呟いた。そして、私は最後の一日を暗くなるまで精一杯働いた。 帰り道にある小さな児童公園に人影は無かった。私は予てから改造しておいた球形ジャングルジムに乗り込んだ。今夜、孕んだようにの膨らんだ月に向かって出航する。 管制塔と連絡をとり、複雑な機械操作をマニュアル通りにこなしながら、航海日誌の一節を思い出し、噛み締める。ジャングルジムは離陸体勢を整え、ゆっくりと回転をはじめる。いよいよお別れだ。 大丈夫。それは、私の真ん中で、まっすぐ力強く、支えている。
僕は、しばらく一心不乱に歩いたあと、一息つき、壁にもたれて煙草に火をつけた。管理人に描いてもらった地図を広げる。目的の消火栓はすぐに見つかった。金属の赤い箱。言われたとおりに開けてみる。空っぽだった。なんだか知らない小さな虫が何匹も死んで干からびていた。ゴキブリでも蠅でもない。脚の無数にある楕円の虫。仕方がないので蓋を閉める。何かがつっかえた。ちゃんと閉まらない。閉まらないので、もう一度大きく開けてみた。中に男がいた。狭い中で、両脚を抱えて座っている。なんだか生きてる人間ではないような顔をしている。「手品……」その、なんだか生きてる人間ではないような顔をした男が、ぼそりと言った。「手品?」僕は思わず訊き返す。「手品……」よく見れば素っ裸だ。素っ裸の手品男。唐突につるっぱげの頭を猛烈にカリカリと掻く。「終わり……」手品男はそう言ったきり黙った。あとはただ、恨めしそうなギョロ目で僕を見ている。無視。僕は地図を広げ、辺りを見回した。他に消火栓は見当たらない。「地図……?」手品男が訊く。「ええ、まあ」「迷った……?」「そうみたいなんですよ」「どこ、行くの……?」「どこっていうか、消火栓捜してるんですよ」「火事……?」「いや、抜け道になってるらしいんですよね、消火栓が」「ほんと……?」「たぶん。ほら」僕は手品男に地図を見せた。手品男は膝を抱えたまま、眩しそうな顔でしばらく地図を見てから、首を傾げた。「この地図、なんかおかしいですか?」手品男は僕を見た。「閉めて……」「え?」「蓋……」「あ、すいません」僕はそう言って、消火栓の蓋をそっと閉めた。今度は最後まできちんと閉まった。「さてと……」僕は立ち上がって、サッシの窓を開け、タバコを投げ捨てた。タバコは隣の棟の屋上にある空のプールの中に落ちた。地図をグルグル回して、来た道を思い返したりしてみる。道を間違えたとは思えない。やっぱりこの消火栓だ。どう考えてもそうだ。僕は消火栓の蓋に手をかけた。「まだ……」中から手品男の声が聞こえた。「三つ数えて……」僕は三つ数え、開けた。消火栓の中はさっきよりだいぶ広くなっていた。上の方から縄ばしごがぶら下がっている。手品男の姿はなかった。「あ!」床に何か置いてある。携帯灰皿と僕がさっき捨てた煙草の吸い殻だ。「やる……」どこからか手品男の声がした。「使え……」僕は吸い殻を拾い、携帯灰皿の中に入れた。
ひまわりだ海にはゴッホのひまわりだ物凄い数で皆が嬉しげ 俺はなかなかの名作短歌を書き上げたなと男は思い、女にそれを読んで聞かせた。女は下着姿のまま男を見上げ、「本当に良いわ。とても凄いわ」 と言った。「そうか」「だからあなたの短歌を、私達はきっとすぐに忘れていってしまうね」「ああ、そうだね。きっとそうだ」 点け放しになっているテレビからは歓声が響いている。野球中継。真っ赤なソファに寝そべり、女はケーキを食べながら言う。「今年のジャイ=アーンツは面白いねえ」「本当だな。今年のジャイ=アーンツは凄く面白いな。馬鹿みたいに打つから本当に面白いな」「ピッチャーまでもがホームランをガンガン打つから本当に面白いわ。ほら、また打った」 ノイズ交じりの中継画面、その灰色の夜空へどんどんと吸い込まれていく白球の軌跡。今年のジャイ=アーンツは本当にホームランを良く打つ。ぱきいん。またホームラン。ぐあらごがきいん。またまたホームラン。がぎぎぎ、とノイズが一層酷くなる中、歓声と白球の軌跡だけは変わらずに鮮明だった。「一気に四本も。凄いわねえ。もう六千本もホームランを打っているのね今年のジャイ=アーンツは。凄いわねえ本当に」「勝つかな今日は」「いや、負けるでしょうね。どれだけ打っても、結局負けるでしょう。ホームランを幾ら打っても、野球はホームランの数を競うゲームじゃないから」「そうか」「ピアノを弾いてよ。あなたはピアニストなんだから、折角タキシードなんて着てるんだからピアノを弾いてよ」 女はそう言ってがたんと起き上がる。「ピアノか。良いね。弾こう」 二人は薄手のコートを羽織り、小屋を出て行った。 小屋の外は砂漠である。静かな、とても静かな、見渡す限りの砂漠。「見つかるかな」「見つかるよきっと」 二人は砂漠の中へと歩き始める。五時間ほど歩き回り、枯れたひまわりの群生地を踏み越えたその先、小さな砂丘の上に、二人はようやくピアノを見つける。「やあ、これは良いピアノだ。これなら何でも弾けるぞ」「嬉しい」「何を弾く?」「お熱いの!」「ジャズだね」「そうよ!」 風がはためき、女のコートの裾を舞い上げる。惜しげも無く晒される女の美しい脚。男はゆっくりと鍵盤に手を添え、何を弾こうかを考える。 二人の周りには徐々に観客が集まり始めている。皆がゴッホのひまわりを持っている。絵は水に濡れて、きらきらと光っている。
激しく降り続く雨。 夕暮れの西の空がほんのりと赤く染まっていた。「ミナも乗り物好きね、今日は私鉄の独身男性が来るんですって」 ミナと早紀と私は合コンで渋谷に向う途中だった。 私は早紀の話しを上の空に、赤い傘を少し上に向け、西の空を眺めた。(この景色って、何時か何処かで見かけた風景……) 足下は相変わらず雨にさらされ、ヒール付きのサンダルは滑りそうだった。「この前、あの人力車の人達って大変だったらしいよ、警察で一泊したんだって」「ミナ、誰に聞いたの」「作さんて色黒いたじゃん、メールがウザイほど来んの」「アドレス簡単に教えるあんたが悪い」「顔は良かったけど、なんか違うって気付いた」「そうやって三十路になっていくのね、私達」 私は二人の会話を聞きながらも、足下が気になっていた。「信号、渡っちゃおう」 ミナがいきなり走り出して、早紀もその後を追って駆け出した。 私は青信号が点滅するのを見て、エーッ、と思いながらも早紀の後に続いた。(やばい、かなり滑るよ) 横断歩道の前で躊躇したのが間違いだった。いきなり足下が滑って倒れそうになる。「きやぁ〜っ!」 次の瞬間、不意に身体が釣り上げられた。背の高い男が私を抱上げたのだ。「大丈夫ですか」 私は恥ずかしさのあまり顔が赤くなるのがはっきりと分かった。 男は赤い傘を拾って私に差し出す。私は顔を上げられずその人の足下ばかりを見ていた。白いスニーカーが雨に濡れて輝いていた。 男はそのまま駅とは反対の方向へ歩いて行く。(何時かの感覚……?) 男の後ろ姿を見送りながらそんな事を思った。 横断歩道の向こうを見るとミナと早紀が私に、早くしなよ、と手招きをした。(もしかしたら……) 雨に濡れた白いスニーカーが眩しく感じた。ずっと昔の自分に出会った気がした。 人違い、でも後悔はしたくない。あの時の自分が言っているようだった。 雑踏の雨の中、夕暮れに赤く空を染めた時間はあの時と同じ。そしてあの人があの少年であったなら、私は今度こそ、……そう思った。 何時かの少女に戻った私はサンダルを脱いでみる。雨がほんのりと冷たくて気持ちが良い。私はサンダルを拾い上げると、横断歩道の向こうの二人に、ゴメンと小さく謝った。 そしてもう一度、男の後ろ姿を見つめる。 何時かの少年の後ろ姿を、雨に輝く白いスニーカーを。 私は赤い傘の向こうに、やっぱり、見送っているだけだった。
空気満タンの自転車に乗って春を見つけに、街を隈なく探索。 今日はこれに決まりだ。 平日だけど学校が休み。三月下旬の学校は全国的にそんなものである。早速荒川の土手から公園に入って、うねうねと蛇行。鼻から大きく空気を吸い込んでみる。。 どうしてか分からないけど、春の匂いがする。今朝起きて窓を開けた時から感じていたこの匂い。空気が肌に触れる感じとか陽の光の具合とかかしらん。春の粒子。そんなものが本当にあるのかもしれない。でもこんなときに「マイナスイオン」なんていう言葉を使われたらせっかくの良い気持ちが萎んでしまいそう。だって頭脳明晰な偉い方々ならまだしも、レンジでチンな脳みそでしかない高校生の僕らにとってはどちらも大して変わりがないもの。 葉はまだつけていないけれど、木の芽が膨らんで色を濃くしているから寒々しい冬の枝とは違って四方八方に伸びた枝が煙るように見える。後方を確認したら、ハンドルから両手を放して水平にバランスをとる。とても、自由な感じだ。カーブも緩やかに曲がり切って行けるところまで行ってみる。「このまま春の粒子一杯の風がビュッと吹いて、魂を持っていかれてもいいかもしれない」なんてことを考えていると、木立の奥の視線と僕の目がバチリを合った。 黒い大きな目をした茶色い犬と目が合って僕はキュッと自転車を止めた。毛のふさふさした中型犬で、首輪がないところをみると野良犬だろう。スッ立ち上がってハッハと息を弾ませこちらを見ている。僕はひょっとしたら友達になれるかもしれないと思い、自転車に跨ったままおそるおそる近寄ってみた。あと五歩くらいのところまで来たところで、彼はウウウと唸りだし、友好的に見えた黒い丸い瞳が表情の読み取ることのできない不可解な光を帯び始めた。ヒヤリとしたものを感じたので、さっさとその場を離れ公園をぐるりともう一周してから家へ向かった。「あなたね、生きるってことはもっともっとみっともなくて恥ずかしいことなのよ。楽しかったりうれしかったりっていうことはあなたの考えるような夢の世界とは全然別のできごとなのよ。」 母さんは珍しく強い口調で僕に言った。それというのも僕が春の兆しについて、死んでもいいくらい気持ち良かったという話をしたからだった。どうやら「死んでもいい」がまずかったようだ。やかましいなというと「やかましさの半分は、やさしさでできているのよ」とやり込められた。