「雨、止まひんね」 ベッドの上で振り返った君は無邪気に言った。 白い華奢な肩に少しだけ伸びた髪がかかってる。 大きな大きな真っ黒い窓に額をぶつけるようにして、やっぱり大きな大きな眼を見開いていたらしい。 振り返った彼女の顔は、間違いなく外を眺めていた時のままだ。 あどけない、無防備な。 アンタ、幾つだよ。 入れたくなった突っ込みは、けれど、逆に俺にしか見せない顔に出逢えた喜びで打ち消された。 案外俺って現金かなって思う。「…たっちゃん?」 返事をしない俺に向かって彼が問いかける。 私、何か変なことゆうた?「…何にも。 ただ、アリサが可愛いなって、思ってただけ」「………!!!」 またそんなんゆうて! ベッドの上に転がっていたクッションの1つ、あまり強くもない力で飛んできた。 少し下がり気味の眦が、ほんのり赤く染まっている。 片手でキャッチしたクッションを持って彼の傍に佇む。「…アリサ、晴れて欲しいの?」 どうせ真っ暗な夜闇、明る過ぎる都会では、星なんて見えない。 曇ってようが、雨だろうが、どうせ嵌め殺しの窓では関係もない。「そんなん、ちゃうよ。 けど、湿気多いと嫌やない?」 髪、まとまらひんの。 くしゃくしゃと自身の髪をかき回して、猫に似た目が俺を映した。 今は黒い髪を一房、指先で絡め取る。「猫っ毛だもんな」「たっちゃんかて、そやんか」 アリサほど、長くないからね。 クスリと笑うと、ひょいと片方だけ眉を上げて。「えい!」 全身の体重を掛けてしがみ付いてきた。「あぶなっ!」 支えきれず、二人揃ってベッドへ倒れこむ。 危うく俺の下敷きになりそうになったアリサは、コワァ、なんて言いながら、その実大した衝撃もなかった顔で俺の髪に指を突っ込んだ。 おもむろにかき回し始めた彼に、それが目的?と矢張り笑ってしまった。「アリサって、実は子供だよね」「うっさいわ。 たっちゃんかて、子供やん。 夢追いかけてる、大きい子供」 私ら皆そうやんな。 いつまでたっても諦められない、大舞台に立つという夢。 確認するみたいに首を傾げて、クスクス笑う。「…そうだね」 俺の胸中など知らぬ顔で。 楽しげな君は、もう一度真っ黒な窓に目を向ける。 音は聞こえていないのだ、目に見える透明な流れ、ぼやけるヘッドライト。「…せやけど、やっぱり雨は止んで欲しいな」 溜め息と一緒に、そう言った。
大怪盗紅のタコに、世紀の宝石「フェアリーの涙」をまんまと盗まれてしまった大富豪、金田舞次郎は失意の中にあった。「怪盗紅のタコは人間じゃない!」「失礼ですが、あなたは怪盗に直接会ったのですか?」 と、矢部刑事が尋ねた。「あるホテルで食事をしていると、横から声をかけてきたのがやつだった。一見普通の紳士に見えたがね。彼は私の耳元で、フェアリーを今すぐ盗んでみせると言った。しかもその方法を教えると…」「なんと大胆な。で、方法とは」「瞬間移動だよ。怪盗はすぐに私をホテル内の巨大なホールに連れて行った。そこはガランドウで、私たち以外には誰もいなかった」「なぜそんな場所へ」 矢部は訝った。「魔力を見せるためだ。怪盗は何もないホールの真ん中に、小さなテントを開いた。そこに入るとあっという間にテントが炎に包まれて消失してしまったんだ。もちろん中の怪盗諸共にね。ただ、宝石は私のもの、というメモだけが後に残っていた」 一時間後、矢部刑事たちは例のホールに居た。何もない巨大な空間で、人間が隠れる場所はどこにもない。「やはり消えたとしか思えない。怪盗はこの真ん中にいたんだからね」「金田さん、あなたはどこに?」「ここだが……」 なるほど、どこにいてもホールは隅々まで見渡せる。 が、矢部はにやりと笑った。「謎がすべて解けました」(人間瞬間移動、そんな力が現実に存在するのだろうか)「これはマジックでは有名な消失トリックにすぎませんよ」「マジックだと、でもどこに隠れたというんだ」「よく見て。あなたの目の前に何がありますか」「テントの焼け跡」「その向こう、ほら、ホールからの出口があるじゃないですか」「まさか、あのドアが見えないはずはない」「いえ見えませんよ。ドアに向かう怪盗とあなたの間にテントがあったでしょ。あなたはそのときひとりではなかったはず」 金田は口ごもった。愛人と食事をしていたのである。「足元をご覧なさい、目印のようなチョーク跡がある。その人物は、さりげなくあなたをここに誘導した。腕にぶら下がるように絡み付いて、あなたの視点を固定したわけです。彼女は共犯です」「何てことだ」「仰天したあなたは、宝石の安否を確かめるため一目散に屋敷に帰った。おそらく怪盗はその車に忍んでいた。さらに保管場所に向かうあなたの後ろを、警備員に化けてついていったのです」 ―刑事と怪盗の知能戦は今、始まったばかりだ。
馬鹿っていう言葉は、あの頃の私達の為にあった。「原!」駅前で声をかけられた。 リクルートスーツ。ひやりとした。私は私服。就活なんて、まだ始めていない。「志保?」ちょっと自信がなくて、疑問形。「凄い久し振り」と笑うスーツの女は、本当に志保? 違和感がこみ上げた。「時間ある? どっかでお茶しよう」志保が言った。 あの頃の思い出は、息もつけないような蒸し暑さに包まれている。 でも、私も志保も、あまり「暑い」という言葉を口にしなかった。 花火花火、なんて騒ぎ出すのは、必ず志保。「絶対花火。今日の夜」指きりゲンマン。 公園。でかすぎるバケツ。突然の大雨。「ノープロブレム」私の手を掴んで、電話BOXに飛び込む志保。「屋根がある。ここでやろう」 志保、頭いいじゃん! なんて手を叩く私も大馬鹿だ。「元気?」「うん、元気」「成人式、いなかったよね」ありきたりな会話。「学生? 就活始めてんだ」「そう。早いでしょ」 狭い箱の中、欲張りな私達は、ありったけの棒花火に火をつけた。 シュゴオ。わあ、キレー。 感嘆の声は、次の瞬間絶叫に変わった。 こもった空間。目、鼻、口からの煙幕猛攻撃。 たまらずに私達は、土砂降りの雨の中に転がり出た。 もう花火どころじゃなくて、びしょ濡れになりながら、咳き込みながら、私達は腹筋が痛くなるほど笑い転げた。 違和感の正体が分かった。 志保、綺麗になった。 顔を崩さず、綺麗に笑う。 大人の顔。 本当に、志保? よく、海へも行った。 堤防によじ登り、「波に負けるか!」と叫んで、二人で『夏色』を歌った。 釣りのおじさんの苦笑い。「原、綺麗になったね。最初分かんなかった」 やめてよ。女同士の褒め合いなんて、気色悪い。私達の間で。 思いながらも、「志保こそ」と調子を合わせる私は、なんて情けないんだろう。 二度と帰って来ない日々。 教室の床で、転げながら笑い「お前ら雑巾みたい」と言われる日々。 あの頃の志保も私も、もう居ない。 どこにも居ない。 言葉を交わす度「五年前」にフレームがついていく。 志保、馬鹿っていう言葉は、私達の為にあったんだよ。 メールアドレスの交換はしなかった。 コンビニでビールを買って、薄暗闇の公園でベンチに座る。 あの頃は苦いだけで、何でこんなにまずい物を、なんて思ったけど、今は分かる気がする。 一人で乾杯。 一人で飲む。 私は一人で少し泣いた。
彼女は煽るような声でしゃべりだす。「私には何にもない。 日本人。普通の家庭。趣味・特技何もなし。」さらに声を荒げ、「実はちょっとだけ絵がかける。でも何万といるデザイン志望者の一人にすらなれないほど私は下手っぴ。まじめに勉強したことがない。才能もない。」そういうとふと間を置いた。「私は大学生。受ければ入れるようなレベルの低い大学。お金を投げているるようなもの。 結論! 私は国籍・日本、性別・女、年齢・20歳。大学生。容姿は普通より少し下。 花の終わった人間を抜かして、40代でも美しい人を足して、生物的女性の5分の1を女としてみる。すると1憶÷2÷5だから1000万人以上いる女がいる。その中の下方にいる人間。その中の大学生と言う種族。 大学生の女はそんなに必要性が高くないから…。 私は1000万人の人間の中で取替えの聞く人間、つまりは生きていても死んでいても、世間に何にもならないし、つまりそういう人間。」彼女はいっきにここまでしゃべると芝生に寝転がり売店で買ったジュースを飲んだ。私は頭を少しかきながら、そんな彼女より醜いクラスメイトの自分とは一体なんだろうかと少し悩んだ。そして、世間が日本である彼女の社会がとても狭いことを思った。「ミヨわさ、そういったことで悩まないの?」悩まないこともない、けれど悩んでも仕方ないこと。「どうしようもないじゃない。」「…どうしようもないけど、悩まずにはいられないの…。」「うん。」「ねえ、どうしたらいい?」どうしたらもこうしたらも。「今度花火大会あるんだけど。」私は急に話題を変えた。「来る?」サークルでみっけてきた男の子たちも誘って。そこならあなたは一番になれる。下手すれば大学で一、二番になれるし遊びまわることもできる。ちょっとくやしいけれど。私はミカコの美しさを思った。こげ茶髪で長い髪はきちんとつやがあり、まつげはくるんとしている。いかにも両家のお嬢様といった風体で、自分の醜い体系や洋服のセンスの悪さを浮き彫りにされていくようだった。そして、彼女のせいで自分が醜く見えることがなぜか好きだった。私はきっと彼女に何かを求めているのだ。 さて、そんな私をマゾにしてくれるお姫様は、首をたてにふった。私はしゃべった、「世間って、自分で作れるんだよ。自分が好きな人間を選んで、小さな社会を作ればいい。」 ※作者付記: ごめんなさい、未完成です。
その八ヶ岳の丘を「時間のない丘」と呼んでいた。 あの時、有紀子は学校の事を思い出しては泣いていた。僕達はひと夏、その場所で過ごした。僕は、有紀子の話を思いっきり聞いた。そして「大丈夫だよ。何もかも上手くいく」と言うのが精一杯だった。 大人になった今「時間のない丘」が懐かしく思い出され、行ってみたくなった。懐かしいというのは嘘になる。会社をリストラされ、離婚した。前が見えない…あの丘に行けば元気が出るかもしれないと思ったのだ。 僕が中学生の時に、空前の別荘ブームがおとづれた。父はその波にのまれて、八ヶ岳に小さな別荘を手にいれた。最初のころは毎週末行っていたが、交通費も馬鹿にならないので自然と足も遠のいていった。 僕はひとりで中学2年の夏休みを別荘で過ごしていた。毎日必ず近くの丘に行った。大きな木の下で、遠くの風景をボーと見ているのが好きだった。 その日、その丘に行くと、少女が僕の場所に座っていた。少女は僕を見つけても悲しそうな顔を崩さなかった。しかたなく、僕は彼女の横に座り風景を眺めていた。あの時、僕たちの時間は止まっていた。 彼女が初めて口を開いたのは、3日目だった。風に飛んだ彼女の麦藁帽子を拾った時、彼女は言った。「ここにいると、何もかも忘れられるのよ…」 名前は有紀子といい、同じ中学2年生。学校でいじめにあっているという。「大丈夫だよ。何もかも上手くいく」 そう言うしかなかった。 僕達は夏の間中、毎日景色を見て過ごした。 15年後の懐かしい丘が目の前にあった。大きな木もそのままだ。あの時の有紀子の場所に座って景色を眺める。 えっ幻覚? 麦藁帽子の有紀子が視線に入った。「そこは、わたしの場所よ!」 中学生じゃない、小学生の有紀子がそこにいた。 びっくりしている僕に躊躇せず、有紀子は言った。「どいてってば!」 僕は場所を譲った。「ママ! ママの場所を取り戻したわよ」 本物の有紀子がそこにいた。「お久しぶりです」「こちらこそ…」 15年前の場所にふたりで座った。「何だか急に15年過ぎたみたいだ」「そんなことないわ? いろいろなことがあったでしょう?」 僕は再会と偶然に心が一杯だった。 自然と、現在の自分の全てを有紀子に話すことができた。 有紀子は景色を見つめながら僕に言った。「大丈夫よ。何もかも上手くいくわ」 有紀子の笑顔は、見たこともない懐かしさで満たされていた。
「朝にチーズを食べたきりよ。」地方に出向となった上司の送別飲み会の席の出来事だ。彼のなんとも言えない間抜け面が頭に残る。 私と彼は付き合い始めて2ヶ月になる。職場の年下の男の子。もうお局と呼ばれる年の私の、これが初めての恋人である。照れくさいという意見の一致を見て、私たちは交際を隠していた。会うのはもっぱら平日の夜に私のマンションか、近場のホテル。昼間のデートはまだだが、遊園地に行きたいと言うと笑って今度行こう、と言ってくれた。 昨夜も彼は私のマンションに泊まり、2人して朝寝坊してしまった。慌てて出社の準備をしながら、私は彼の口にひとかけらのチーズを放り込んだ。それは外国のお土産で貰ったもので、大きなかたまりをナイフですこしずつ削いでワインのお供にしていた。彼はこのチーズをとても気に入っていた。月末で仕事が立て込み、昼食を取る暇がなかった彼が夕方にこぼした言葉が、今しがた私が愚痴った言葉とそっくり同じだったのだ。 これで関係がばれた。 私と彼は真っ赤になり、同僚や部下からの祝福に会う。いつから付き合ってるの。お似合いですね…。三十歳を過ぎても男性に縁が無かった私の、生まれてはじめての晴れ舞台になるはずだった。 しかし、それは歓声ではなく、くぐもった囁きとして私の周りを取り囲んだ。彼が席を外した。こちらを見ない。かわりに若い女子社員たちが数人私をちらちら見て、そのうちの一人が席を立つ。年のかさんだ私が話せる相手は、左遷されていなくなる上司だけだった。私は無言で軟骨のから揚げをつまんでいた。その後、彼は一度もこちらを見なかった。 1次会も終わる頃お手洗いに立ったところで、先程席を外したままだった若い女子社員に呼び止められた。去年の紅白で彼女に似た歌手を見た気がした。「あの、ちょっといいですか。」その声は涙声だった。彼女は興奮していて、周りを気にした私はトイレの中に誘導し、鍵を閉めた。 会計を済ませて居酒屋を出ると、風が気持ちよかった。後ろから彼に近づき、今日も家に来ない、と囁く。彼は黙っていた。 今朝急いでいた私は、チーズを切ったナイフを鞘に収めてうっかり鞄の中に入れて持ってきてしまっていた。そしてそのナイフは先程のあのうるさい女を黙らせてくれた。刃にこびりついていたチーズに滴る液体は、昨夜の赤ワインのようだった。 もう一度、囁く。「今日もチーズ切ってあげるから。」
夕涼み。濡れ縁に腰掛けて脚ブラつかせ、頭ン中はこんな調子。 どーしよーもなく月の気分。地球から離れらンない。 こんなフレーズがディズニーキャラクターのマイムマイムみたいに暢気たらしくグールグル。 一人で夕涼みもなんだから、サンセベリアのルナを連れてきた。部屋に置いておくと空気をきれいにするっていう観葉植物。去年の暮れ頃から育て始めた。貧弱な株分け。冬の間はヤマネみたいにグースカ眠りこけていたのだけど、五月頃から俄然根性だして成長しちゃって、いっきに20cmはデカくなった。今じゃ、シマシマ模様も艶やかなイイ感じの美少女に変身。 風もないのにルナが揺れた。 気配を感じて目を遣ると、幼馴染みのユータがニカッと爽やか、南国のCMみたいなツラして立っていた。 背中にススキをしょっている。「何ソレ、どーしたの?」「どう、カッコイイ?」「悪い。バカ殿みたい」 頭の上にちょこっと見えるススキの穂が、チョンマゲっぽくてマヌケだった。「ホレ、やる。…いや、八月といえばさ、やっぱススキでしょ」と、花札の手付き。「赤丹青丹」「猪鹿蝶」「月見で一杯」「花見で一杯」「雨流れ」って最後はユニゾンで言って、最近やってないよな“こいこい”と思った。 花札、周り将棋、チンチロリンが、小学校時代の私とユータとひい爺ちゃんとでやる、定番の遊戯だった。ひい爺は温厚で誰にでも優しくて、でもひい婆に言わせるとちょっと頼りなくて、でもでも何より幼い私達のサイコーの友達だった。「昔お前にススキの天ぷら、ムリヤリ食わされそうになったよな」とユータ。 そういえば、泥水に浸したススキに乾いた砂をまぶした特製天ぷらをご馳走しようとしたこと、あったかも。でも、「ないよ」とバックレ。「ひい爺とひい婆に会ったよ」ポツリとユータ。「…うん…」と私。 それからユータはくだらない話を延々した後「受験がんばれよ」なーんて、さっきのCMヅラでほざいてから、ゆっくりと空に浮かんで、のんびりと幽霊色になって、じんわりと夏の夜空に溶けていった。 ススキ振ってバイバイしながら、ほんのちょっとだけ泣いた。 お盆だしね。あいつなら来ると思った。全く律儀な野郎だぜ。そういうとこ、昔とちっとも変わンない。だからさ、私だってもう少しだけ月の気分でいたいわけ。ねっ、ルナ。 明日アイカタ買ってこようか。名前はテラがいいね。えっ、凡庸? うっせぇ。 涼しく揺れてルナが笑った。
「知名負担税の徴収でーす」 スーツ姿の役人が、玄関に入って来る。「はあ、有名税ね」 ジャージ姿の四谷京作は、あくび混じりに出迎える。「幾らになる?」「ええとですね、十二万八千八百二十四円になります」 役人は、明細書を差し出す。「なんだ、今月はずいぶん高いじゃないか」 訝しげな顔で、四谷は明細書を見る。「先月はいくらでしたっけ?」「五万円ぐらいだったぞ」「そうですか、それはずいぶん上がってますね、ええと」 役人は、四谷の手の明細書を覗き込む。「まず、知人加算ですよね」「うむ」「ええと四大卒の転校なし、浪人一年、現在会社員で勤続年数が十二年、と。この場合、乙種に相当しますから、一万二千四百五十円」「これは前と同じだ」「それから業種加算で、すけど、業種が製造業の営業ですよね」「製造業は二類だったな」「そうです。営業だと、甲種。人と会う機会が多いので、一番高くなります。役職加算はありませんね」 役人は一つ一つ項目を指でさして説明する。「後は、近隣居住者加算。通勤・通学時加算。それから、メディア露出に関する加算。テレビやラジオに出た人ですね」「っと待て、メディア露出が凄く高いじゃないか?」「ああ、そうですね。芸能のお仕事、副業でされてますか? もしくはクイズ番組に出たとか」「いや、一度もなかったが」「と、お待ち下さい」 役人は携帯端末を操作する。「ああ、これですね、ほら」「あ、この試合は……」 画面には、野球の珍プレー好プレー集が流れていた。ボールをお手玉している選手の後ろに、笑っている四谷の姿が映っていた。 そして、四谷がかぶっている黄色い帽子は、やけに目立っていた。「ずいぶん目立ちますね。ええと、これなら立派に有名税加算の対象ですよ」「そっか、チャンネルはふむふむ……まあ、これだけ目立ってたら仕方ないなぁ」 四谷は携帯端末を開き、税金を支払う。「十二万八千八百二十四円、か」「はい、ありがとうございました」「ありがと」 役人を笑顔で見送った後、四谷は携帯端末で電話をかける。「あーもしもし? 四日の十七時からの番組見たか? まだデータベースに残ってる筈だから、すぐ見てみ――な? 凄いだろ、目立ってるだろ、あはははは!」「これでおしまいっと」 役人は、自転車にまたがる。「しっかし、有名税の徴収だけだなぁ、払って貰ってお礼言われるのって」 鼻歌混じりに、役人は役所へ戻って行った。
突然、何の連絡もなくいなくなったお姉ちゃんが、お昼前にひょっこり帰ってきた。居間のテーブルで夏休みの宿題をやっていたときに、アパートの薄っぺらいドアが開いて。 お姉ちゃんは私の8つ年上で工場に勤めている。どちらかというと地味な感じなのだけど、とてもやさしくて、会社で起こったいろんなこと(社長さんがお茶を取り損なってズボンをベタベタにしてしまったことなど)を面白可笑しく話してくれる。そんなお姉ちゃんがいなくなったのは、ちょうど1週間前。お母さんは「チヨちゃん、何にも聞いてないの」とか「様子がおかしかったことはない」とか、いなくなってから3日くらいは事あるごとに私に聞いてきたけど、お父さんが「ほっとけばいい」と新聞から目を離さずに言ってからは何も聞いてこなくなった。 ドアが開いたとき、暑い空気の塊が流れ込んできて、外から蝉の鳴き声がした。昼食の準備をしていたお母さんはさぞかし驚くかと思ったけど、包丁を動かす手を止めてお姉ちゃんの顔をしばらく見つめてから、「早く閉めなさい」 と言い、またすぐまな板に視線を戻してしまった。私も何を言えばいいのかわからなくて、お姉ちゃんを見ながら口をぱくぱくさせて、「おかえりなさい」 と呟くのが精一杯だった。お姉ちゃんは後ろ手にドアを閉めると、少し俯いたまま向かい側に座った。ふわっといい香りが鼻に届く。 お姉ちゃんの髪は茶色になっていた。お化粧もたくさん塗っているような気がする。「その髪、どうしたの」 お母さんが背中越しに言った。「そんなにしたら、父さんに何言われるか」 お姉ちゃんは大きなバッグを床に置いて、何も答えなかった。「チヨちゃん、そこ片づけなさい」 お母さんが不機嫌そうに言う。私は「はい」と短く返事をして、ノートと教科書をまとめようとしたとき、消しゴムを落としてしまった。かがんでテーブルの下に潜ると、スカートから伸びたお姉ちゃんの脚。両脚にはどうしてか小さな傷がいっぱい付いていた。私はすぐに目を逸らしてしまった。 勉強道具を隣の部屋に置いてから、私は冷蔵庫へ駆け寄りアイスコーヒーのボトルを取り出した。コップに注ぐ。褐色の液体がグルグルと渦を巻く。「お姉ちゃん、はい」 私はアイスコーヒーをテーブルにそっと置いた。「ありがと」 お姉ちゃんはちょっと潤んだ目で恥ずかしそうに私を見る。お姉ちゃんは1週間前よりきれいになったような気がした。
啓は一月ほど前に家を出た。 今は橋の下で寝ている。今日が何月何日なのか?今何時なのか?イラクは結局どうなったのか?まったく「世間」というやつを知らないが何の問題もない。啓にとって最近一番の事件は妙に高い気温と夏の訪れとともに現れた蚊への対処である。啓は思う 「テレビがないだけで随分平和な世の中になったものだ」と。殺人事件も拉致被害者も関係ない。今日食べるものと、明日も食べられるものがあるっていう希望と、寝る場所があればいい。 啓は、もとは会社員だった。今年の4月から働きはじめて、6月に辞表を出した。家具を整理してあらゆる契約を解除して、通帳と服をボストンバッグにつめてとりあえず電車に乗った。降りた駅の名前も忘れたが、いい橋が見つかったのは幸いだったと思う。川は東京ではみたこともない色で、日が昇ればキラキラ光る。最近は暑いのでやらないが、土手の草っ原は昼寝に最高だ。東京にいた時はうるさいとしか思えなかった蝉の声も最近は耳に心地よい。一本向こうの橋の下にビニールシートの大きな家を持つ友達もできた。最初は共通の話題がないことに苦しんだが、よく考えれば仲良くする必要もないので気まずいなどとは思わなくなった。それから2人がよく一緒にいるようになったのはいうまでもない。彼はよく言う。 「役割を失ってからが友情だ」と。友情という言葉に気恥ずかしさを感じたが、啓は黙ってうなずいた。 啓は思う。全身火傷で顔もぐちゃぐちゃで誰かわからなくなって、脳障害でまったく何も動かなくなって、個性とかそういうものを完全に失ったときに、傍にいてくれる人が欲しい、と。もちろんそのとき傍にいてくれる人のことを自分ではわからない。それでもいい。何も求めないで、ただそうして生きている自分を横で見ている人が欲しい。 つい2,3日前思いついて新聞を買った。ページを開くと、いつものように大事件が起こっていた。そう、いつも大事件はテレビか新聞の中で起こるのだ。その1つ1つの記事を見ながら、啓は思うのだった。 「関係ないな」と。野球が大変らしいし、選挙もあったみたいだ。帰国した人もいるし、たくさんの人が死んだ。でも啓は何も変わらない。バイトでためた貯金はまだずいぶんある。最近は魚釣りも覚えた。毎日毎日太陽が昇ればおきて、沈めば眠る。何も考えていなさそうな、でも少し幸せそうな、そんな顔で啓は今日も橋の下に佇んでいる。
梯子を登った先はトイレだった。正確に言うとトイレの中にある掃除道具入れの中だ。トイレには誰もいなかった。別に誰かいたって構わなかったけど誰もいなかった。便器がいくつもある。駅や学校のトイレのような感じだ。けど、出来たばかりで、建築資材の匂いしかしない。試しに手洗いの蛇口を捻ると水は出た。水は生命線。水が出ると安心する。窓があったので開けてみたら、すぐに隣のビルの壁だった。地図を広げて矢印を辿る。半分は来たようだ。ふと地図から顔を上げると、トイレの入り口で顔半分を出した誰かがこちらを見ていた。一瞬、さっきの女かと思ってギクッとなる。が、違った。「ちょっと……」その顔半分が手招きする。僕は一瞬ためらった。地図をポケットに戻し男に近づく。郵便配達員。肩から提げた口の開いた鞄が封筒や葉書でパンパンだ。「なんですか?」「ちょっと……」男は鞄をモゾモゾやって小包を一個取り出し、僕に差し出す。「これ」僕は、なんという考えもなしにそれを受け取る。〈アナトー様宛〉小包にはそれだけしか書かれていない。僕は男の顔を見る。「これが?」「届けてよ」「僕が?」男は嬉しそうに頷く。なぜ嬉しい?「どうして?」我ながらもっともな質問だと思う。しかし男は動じない。「だって、あんた、アナトーさんの所に行くでしょ?」「それはまあ、そうですよ」そう言ってから僕は気付く。なんで知ってる?ちょっと不気味だ。いや、かなり。僕は男の顔をよく見る。知らない。男は妙な含み笑いをする。「だって、あんた、集金人だ」こいつは超能力者でも霊能力者でもない。僕のスーツの胸には身分証明カードがついている。それだけだ。「そうですけど、どうしてアナトーさんの所に行くって知ってるんですか?」「だから、あんたが集金人だから……」どうもよく分からない。「だって、請求書は毎月オレが届けてるんだよ」なるほど。言われてみれば。なるほど。「で、どうなの?」小包はまだ僕が持ったままだ。「でも、あなたの仕事でしょう?」「いやあ、久しぶりに来たら、迷っちゃってさあ」「それは僕も同じですよ」「でもあんたは地図持ってる」確かにそうだ。「それにどうせ行くんだから」なんか腹の立つ言い方。「ちょっと、ついでにさあ、頼むよ」この男と長く話してるとダメな気がする。きっとダメだ。僕は小包を引き受けた。「あんた、ちょっといい人だね」男が言う。そうでもないよ。そうでもない。
夏は暑い。 そんなことは当たり前のことである。「あー、今日もあっちいなぁ」 友達の健太が太陽を睨みつけながらそんな事を言う。「仕方ないじゃん。 夏なんだしさ」 僕はそう言って、健太と並んで歩く。 道路は暑さで揺れて見えた。大きな水溜りも見える。夏にだけできる、インスタントな水溜りだ。ただし、飲めない泳げない、何歩歩いても着かない。「とりあえず、太郎達が待ってから急ごうぜ」 健太はそう言って、走り出した。 僕も走った。 暑くて汗が流れ出て、被っている帽子に染み込んでいく。 シャツにも染み込んでいく。 でもそんなことは気にせず、走った。 学校で野球をして遊んだ。気がつけば夕方、みんなが家に帰っていく。 僕も、家が近い健太と一緒に帰る。 帰りに駄菓子屋により、30円のゼリーを一緒に食べることにした。「おまえさ、将来何になりたいって言ってたっけ?」 健太が僕に聞いてきた。「僕は、発明家になりたい。 そして、色んなものを作りたいんだ」「いいなぁ、俺もなりたいけど……頭悪いからなぁ」 健太は、少し寂しそうな顔をした。 そこで、僕の意識は途切れた。途切れた意識は、別の意識に繋がった。 そんな気がした。「お客様、予定の時間が過ぎましたが?」 目の前には、スーツ姿の男がいた。「……もう少し、延長をお願いします」 俺はそう頼んで、男に諭吉を数枚手渡した。「かしこまりました。 では、続きをどうぞ」 そこでまた俺の意識が途切れた。『ノスタルジーワールド(1時間15000円)』 そう書かれた看板の前で、二人の男が話していた。「『懐かしい少年時代』を金で経験する時代が来るとはなぁ」「仕方がねぇさ。 学校なんてのは無くなって今はインターネットスクール、駄菓子屋は体に悪いものばかり売ってるって言われてどんどん潰されて、ここ数年、外で子どもが遊んでる所なんて見た事が無いぜ」 『作り物のノスタルジー』 これが俺達、今の人間が唯一見る事の出来る懐かしさとなった。 そこには、グッドオールドデイズという単語以外は浮んでこなかった。
昨夜の嵐は踊り疲れ、小鳥がうたう朝が来た。私はベッドを離れない。なにしろ今日は休日だ。地球の裏側まで眠り続けてやると、決意を新たにする。 しかし、勢いよく決意を新たに出来るという事は、もう覚醒している証拠だった。覚醒してしまっては、眠れる美女に戻れない。この半生に経験した中で、一番悲しい出来事をリアルに思い出し、メソメソと眠りにつこうとしたが効果なく、仕方なしにノロノロと部屋を出る。 階下では、昨夜の嵐の片割れが紅茶を召し上がっていた。紅茶には檸檬スライスが二枚。ご機嫌斜めのサインだ。私は母の向い側に座り、クロワッサンを摘みつつ、紅茶を御相伴に預かった。 しばらくして二日酔いを顔に貼り付け、悪臭を放ちつつ、嵐の主要因に違いない父が登場。のそのそと定位置に着き、ばつが悪そうにタバコをくわえた。 朝食を済ませた母は、洗濯と掃除をはじめ、父は、どこからか学習ノートサイズの白紙を出してきて、筆ペンで習字をはじめた。私はソファーに寝転んで新聞を手にとる。 舌打ちと咳払いの挙げ句、父が書き上げて壁に掲げた紙片には「禁酒」と大書きされており、昨夜の嵐の起承転結を推理する上で、大きな手掛りとなった。 その後、父はさも大儀そうにウロウロしていたが、西向きの窓の障子に幾つかの穴を発見し、いそいそと外出し、DIYショップの包みを抱えて帰宅すると、桟をはずし、修復作業にとり掛かった。 新聞を終えて、週刊誌を読んでいると、鼻腔にヤキソバソースの刺激。私は迷わず起き上がり、テーブルに着く。母は父の背中に「熱いうちに」と声を掛け、作業の中断を促す。父は実に嬉しそうな無表情で、渋々食卓につき、ヤキソバを食べ始めたが、二、三口啜ると、コップを持って作業に戻る「こうやって仕上げないと……」プッハー。 その後の騒ぎは、昨夜の嵐に勝るとも劣らなかった。私は昼食を早々に済ませ、最前の毛筆作品を自身で破る父の姿を横目で捉えつつ、自室に退散すべく、階段を上った。 不完全な防音が、階下の戦況を伝える中、部屋をレゲエのリズムで埋めて、宇宙の果てまで午睡にふけった。再び覚醒した時はもう、階下は静まり返っていた。 夕刻、買い物から帰った父と母は、全ての嵐が嘘だったように上機嫌で、夕食を楽しんだ後、グラス片手にテレビと団らんしていた。張替えられたばかりの西向きの障子に、散りばめられた青海苔が蛍光灯の光にきらめいていた。
午前五時。東の水平線が金色に輝く。 凪の海から魚が飛び跳ね、水飛沫も金色に煌めく。 砂浜に腰を下ろしてゆっくり煙草を燻らすと、二十年振りの潮風が煙を散らした。――もう、戻らないのか 夕涼みをと浜辺までの小径を歩いた。照れ臭い思いをしながら、これでこの島とも親父とも別れるんだと思うと、半分親孝行のつもりで歩いたような気がする。 無言の親父の背中をまじまじと見たのはその時が初めてだった。不確かな記憶の中にあった親父の背中は、大きくて悠然としていたように思っていたが、夜の海を背に見るその背中は、知らぬ間に過ぎた時間の流れを否応もなく感じさせられた。 波が静かに寄せては群青の海に吸込まれる。岬の灯台の灯が照らしては通り過ぎる。その間隔は一定で、脈を打つような時の流れがここにはあるのだと思い知らされる。 不意に親父を心配して声を掛けた。『一人で大丈夫か?』 親父は何も答えず、代りに港の方を指差した。停泊された漁船群が黒い影を落し、ゆっくりと波に揺れていた。そこには親父の船があり、親父自身の人生が揺れているように思えた。ガキの頃に親父と海に出た時の事を思い出すと、一緒にお袋の顔も思い出した。 お袋はいつも島にいた。親父は黙々と漁をする事しか出来ない不器用な人だった。三人でどこかへ行った記憶もない。街へ渡る時はいつも連絡船で、親父が船を出す事は無かった。 しかし一度だけ親父が船を出した事がある。 お袋が病気で街へ渡る時と、亡骸になって帰ってきた時だった。 舳先に括り付けられた黒布が灰色の景色にくっきりと浮かんで見えた。無言で棺を支える親父が横を通り過ぎる時、幼いの自分の頭を引き寄せた。白木の棺と親父の横顔を見比べては、汗とも涙ともつかぬ雫を肩袖口で拭いながら歩いた事をよく覚えている。 全ては遠い記憶の欠片だった。 既に朝陽は水平線を昇り、波も白い水飛沫を煌めかせ打寄せていた。「ここでしたか。そろそろ松木下の住職さんを迎えに行く時間ですよ」「……」 港の方を振り返る。主を無くした船がひっそりと揺れていた。 あの時の親父のように無言で港を指差すと、妻は私の肩に両手を添えて静かに呟いた。「この島で暮してもかまいませんよ」 その手を上から握ると、潮風と一緒にあの時の親父の声が重なって聞えた。――もう、戻らないのか 島を離れる夜の親父の最後の言葉。 私の芯に突き刺さったままの欠片だった。
金曜日の夕方、空調が効きすぎたオフィスから一人すり抜けるように出て行く。忙しく立ち振る舞う自分を褒め称えるためにするような趣味の残業に付き合うつもりもないし、ましてや他に盛り上がれる話題もないしといった感じで繰り出される愚痴や噂話が肴の酒に誘われたりでもしたらたまらない。早く帰ってコンタクトレンズを外したかった。全てから逃げ出したかった。 家に着くとすぐにシャワーを浴びてラフな恰好に着替えた。エアコンの温度を最低まで下げる。エリンギと豚バラを茹でてちぎったレタスの上にのせ伊豆カメヤのわさびドレッシングをかける。ごはんは炊くのが面倒臭くなってやめた。片付けを終らせると僕は怠惰の波に抗いきれずにコンタクトレンズを外した。 それは視界が十センチもない世界。ひどく静かだ。押入れから引っ張り出しておいた厚手の毛布に包まり寒さをしのぐ。ここには、視界十センチの世界には、何もない。エアコンのリモコンはいまは別の世界にある。僕は眠る。 子供の頃は夏休みは半永久的に続くと思っていた。もちろんそんなことはない。でも、いまでも知ったふうな顔をした年上の人間達は言う。まだ若いんだからこれからなんでも出来るよ、と。長い人生を生きてきて何を見てきたのだろう。二十歳のとき、九月が来ると同時に親友がバイクの事故で死んだ。あの夏も、半永久的に続くと思っていたのに。若さなんていうのは生まれた年から数えるのではなく、死ぬ年から数えていくべきなのだ。 考え事と睡眠を繰り返す。夢と思考の区別がつかなくなる。昔の夢を見た気もする。時間さえ分からない。それでも、僕の体が生きたいと思う限り月曜の朝に間に合うように僕は起き出してまたコンタクトレンズを付けるだろう。喉も渇けば、お腹も空くのだ。 毛布に包まったまま辛うじて境界を保っている夢と思考の間を何度か行き来して気が付いた。喉が渇いていてお腹が空いている。でもそれが欲求と結びついていなかった。むしろ心地良かった。命を繋ぐ欲求があっさりと自分から切り離されて感じた。僕は境界を失いそうな意識の糸を手繰る。ああ、そうだ。実家から送ってきたそうめんがあった。あれを茹でればよかった。たいして手間もかからないし米と同じ炭水化物だ。 そんなことを考えながら目覚める自分に期待しつつ、それでもいまは、再び境の曖昧な夢の中に沈んでいこうとしていた。意識の糸だけ握り締め、深く、深く。
どうすれば人を愛せるのか。 美しい女は愛された女であるなんて言われるが、彼女達は人を愛したのだろうか。愛したから愛されたのか。愛されたから愛したのか。マリリン・モンロー。マレーネ・ディードリヒ。ミニスカートのティギー。彼女達は人を愛したのだろうか。愛さずに美しかったのか。マリリン・モンローが何処かの野球選手と結婚したのは知っている。ショックを受けはしたが、すぐに離婚したことも、あたしは知っている。彼女は、もう五十年も前に死んでいる。そして今は、今は、今は、今は。今はいつだったか。「書けばいいじゃない」 あたしの隣りの席で、女がメイクをしながら言う。「書けば良いじゃない。そして今がいつか決めればいいじゃない」「そうね」 あたしは彼女のメイク道具を手に取る。黄色のアイシャドウ。あたしは半裸のままで鏡に向かう彼女の胸に、数字を書く。「2009」「うん、2009」「ふうん、2009ね。これで良いの? もっと自由に書いて良いのに」「あたしこれで良い」「四桁で良いの?」「四桁で良いや」「遠慮しなくて良いのよ」「うん。大丈夫」「そう。じゃあ、あたしは作るわ。あなたに、あたしに、服を作るわ」 彼女はメイクを終えると、忙しそうにトランクケースを開け、中からごっそりと服を取り出すと、それを切ったり縫ったり、また切ったりを始めた。「あたしは服を作る。今日のファッションショーのために服を作るわ」 控え室を出る。カーテンを潜り、ステージの中央へ。ファッションショーはまだ始まっていない。人々はがやがやと、とりとめも無くがやがやと喋ったり飲んだり食べたり、音楽に合わせて踊ったりしている。 フロアの隅には美しいワンピースを着た、黒人のモデルが、その長い足をゆったりと組んで座っている。ひどく痩せていて、ひどく美しい彼女は、片目であった。左の瞼は大きく縦に切り裂かれ、右目は、窓の外を見ていた。彼女はきっと誰かに左目を捧げたのだろうなとあたしは思う。それくらいに人を愛せた彼女を、羨ましく思う。どうすれば人を愛せるのか。あたしは羨ましく思う。 音楽はけたたましく鳴り、ライトは眩しく光り、あたしは目を瞑る。目を瞑ると、音楽よりも、七色に煌めくライトの眩しさよりも、外に降る雨の音の方が気になってしまう。あたしは目をもう一度開け、そして半分だけ、閉じる。ファッションショーはまだ始まらない。夜はまだ、明けない。
時間と体力だけはまさに売るほどあったから、時給のいい家庭教師なんかより多少効率が悪くても、とにかく時間と体力を大量に売れるアルバイトを探していた。でも情報誌をめくるのが面倒で、大学から帰ればソファでごろごろ、バイトを探していたと偉そうなことを言うにはだいぶ語弊があった。 床に体育座りをしていた妹がテレビのほうを向いたまま「酒屋のニシノさんとこコンビニになったじゃん、夜勤のバイト募集してたよ確か千二百円で」と番組と同じぐらいつまらなそうな顔をして、ポテトチップスでぎとぎとの指を舐めていた。 その足で店へ行って履歴書を買い、似合わない派手なエプロン姿のニシノさんに「ここで書いてもいい?」などとすっとぼけたことを言うと「ああ、ミッちゃんは今度でいいよ、それより今夜からやってってよ」と有無を言わさず履歴書の入ったビニール袋を取り上げ、レジから代金百円、取り出しておれに握らせる。 夜の十時にもう一度来るように指示されて、いったん家に帰り、風呂に入ってメシ食って、トイレに長居しているヒマなんかないぞとおどされたことを思い出して無理に用を足したらすでに十分前。親しき仲にも礼儀あり。初日から遅刻はできないと自転車をぶっ飛ばした。 次からはひとりで入ってもらうからねとビビらされ、歩みを教わる雛鳥のようにニシノさんのあとを付いてまわる。 うんざりするほどの弁当や生鮮食品や牛乳やスナック菓子や雑誌の山を切り崩して棚に並べるあいだも当然客は来る。しかも目の前はレンタルビデオ屋だ。いらっしゃいませ。おでんちょうだい。扉の開く電子音。条件反射でいらっしゃいませ。弁当あっためて、いらっしゃいませ。トイレ貸して。いらっしゃいませ。客が不機嫌な顔をする。気づけばおれが不機嫌な顔をしていた。 眠気も疲れも精神状態もピークに達した頃ようやく解放された。出席カードを出すために大学へ、水を吸った食パンみたいなぐずぐずの身体を引きずって電車に乗る。 運良く扉脇の座席が空いた。座って数分、熟睡八十パーセント。どこか途中の駅に着き、すぐ横の扉が開いた。へとへとの身体がうっかり条件反射する。「いらっしゃいませー」 車内の気圧が明らかに上昇した。すごい高気圧。上目遣いに薄目を開けるとほぼ全員、笑いをこらえておれを見ている。隣のおじいさんがつぶやいた。お疲れさん。びっくりして顔をあげると少し、嬉しそうに微笑んでいた。