母親はドアに口をつけるようにして娘の名前を呼んだ。「京子、ここを開けなさい。部屋からすぐ出てきなさい」 その後から、父親が腕を伸ばしてせわしなくノックをした。「出てくるんだ、京子。返事をしなさい」 しかし中からは反応がない。母親は泣くように顔をゆがめ、父親は怒りで唇を震わせた。その怒りが母親に向かった。「お前が悪い。子供部屋に鍵なんか付けるからだ。娘の引きこもりを助けているようなものじゃないか。中で何をしているのか、わかったものじゃない」「女の子なんだから、大きくなったら仕方ないわ。あなたも賛成したはずよ。むしろ京子の言いなりになるのは、いつだってあなたのほうだわ」 父親は次の言葉につまり、再びドアに向き直った。「京子、とにかく顔を見せなさい。家族で話し合おう」 するとドアの向こうからやっと女の子の声が聞こえてきた。「話すことなんかないわ。今は外へ出たくないだけ、だからこのままにしておいて」「わ、わかった。やっと返事してくれたんだね」 父親は、妻に向かって囁くようにいった。「よかった、少なくとも娘は中にいる。今日はそっとしておいてやろう。なあに、そのうちに出て来るさ。一人になりたい年頃なんだ」 母親は頷いた。「京子、ちゃんとベッドで寝るのよ。明日の朝は、一緒に朝ごはんを食べましょう」「おやすみ、京子」 ドアを通して小さな声が、おやすみなさい、と返事した。それを確認すると、父親はため息をついた。「まあ、大丈夫だとは思うが、今晩はここで見張っていよう」「見張るって?」「ドアの近くで寝るんだ。ここに布団を引きなさい」 京子は難しい顔をして、白衣の男を振り返った。「毎晩こんなお芝居に付き合わなければならないんですか」 男はやさしく笑った。「当分の間はね」「鍵はどうするんですか」「掛けなくてもいいと思うよ」 京子の気持ちは半信半疑である。その疑いを察したように、白衣の男が説明を始めた。「君たちのやっている事はお芝居じゃなく、あくまでも治療だ。親孝行だと思って我慢しなさい」 しばらくするとドアの隙間から漏れていた明かりがふっと消えた。両親の部屋を背にしながら、京子は祈るような気持ちになった。 男がその横顔を見ながら呟いた。「自分たちのいるところが、中ではなく外だと思い込むことが、閉塞感の恐怖から逃れる第一歩だよ。それにしても、夫婦揃って閉所恐怖症だなんて、実に珍しい症例だな」
いつもは喧嘩になる親父と、珍しく冗談を言いながら、良い心持で酒を酌み交わした夜のことです。気がつけば、辺り一面、紫色の風景で、霞がかった森の中に一筋の広い川が流れています。川は白濁していて、底に何があるのやら、まったく分かりません。木で出来た舟の上、僕は船頭さんになって、その川を下ります。そして、ひとつ舟歌を唄います。よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜 よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜 後ろを振り向くと、親父が徳利を片手に、まるで仏様か観音様のような顔で、船に揺られています。親父の満足そうな顔を見て、こっちまで嬉しくなってきました。なのに、なぜか僕は無表情で竿を押さえて、舟をこぎ続けます。先の景色は霞でよく見えません。僕は、もう一度、舟歌を唄いました。よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜 よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜 大丈夫や、心配ない。親父の心の声が聞こえてきたようでした。その声には威厳があり、かつ、優しさもありました。親父の声は不思議と、人を安心させる力を持っています。酒を飲むと、やかましいだけの父親ですが、それでもどこかに説得力を持っています。僕の気が狂って、一人で何も出来ないときも、「おまえは病気じゃない」と同じ声で、繰り返し言われたのを思い出しました。 霞の森の中、舟はゆっくりゆっくりと、川を下っていきます。霞はさっきより少し薄らいできたようにも思えます。しかし、やっぱり先は見えません。それでも、恐怖心はなく、「大丈夫や、心配ない」がずっと頭の中にありました。僕はゆったりした気持ちで、もう一度、さっきの舟歌を唄いました。よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜 よどよどよ〜ど〜 よ〜どよど〜よどよどよ〜ど〜 さけはよ〜〜 さけはよ〜 よっしゃ、もうええ。今度は、はっきり親父の声が聞こえました。その声にびっくりして、目を開けると、いつもの狭い家の中です。ステテコ姿の親父が座布団の上に横たわっていて、いびきひとつかいていません。窓の外を見ると、まだ夜の景色です。僕は寝覚めの一服をし、テーブルに置いてあった麦茶を飲みました。この親父ともいつかはお別れや。そう思うと、僕は、親父の寝顔をじっと見つめました。酔っ払った親父に理不尽な理由でほっぺたをしばかれて、泣きじゃくった苦々しい少年時代の思い出も、ふっと忘れる秋の夜でした。
無理やり腕を引っ張られ、エレベーターの中に連れ込まれた。小便の匂いがする。「やろうか」 吉海君、だったか。ジーパンのポケットから極彩色の玉を幾つも取り出した。それを合図に皆もゴソゴソやりだす。扉が閉まる。「何階まで行く?」 目の細い人が吉海君に聞いた。視線が集る。「最上階。な、新入り」 吉海君が笑いながら、僕を見た。思わず目を伏せる。床を埋め尽くす十四本の足。破れ張りついた女の体の写真。「ケッツン、早く押せや」 太っちょが汗をふく。「待てって」 吉海君が赤い玉を頭上に上げた。ライターを取り出し、玉に近づける。ゆっくりとした動作に目が引きつけられる。 焦げた玉が煙を噴出した。ケッツンと呼ばれた人が屋上階のボタンを押す。微かな振動と浮遊感。皆が一斉に玉に火をつけ始める。原色だらけの煙が混ざって灰になる。 息苦しくなって、せき込んだ。目に染みてたまらない。階数ランプが早くも三階を示している。息を止めているのか、皆喋らない。 突然、吉海君が宣言した。「一番先に下りたやつ。一週間パシリ」 三人の顔色が悪くなった。ケッツンがニヤけ、六階のボタンを押した。太っちょはダルマみたいになっている。 息を止めるしかない。上に上がっていくのに深海に潜っていく感覚。 僕の腕を誰かがつかんだ。ドアが開いて、煙が逃げる。 その人を突き飛ばした。 手のひらに汗。「またかよ」 素早く閉ボタンを押して吉海君が唸った。扉が閉まる時、細い涙目が見えた。 ケッツンの脱落で安心したのか次々と階数ボタンが押された。息も絶え絶え、踊り場に吐く人もいる。八階のドアが閉まる。「お前ら、凄いな」 吉海君はエラ呼吸でもするように平然としている。太っちょは血管を浮かせて僕に笑いかけている。息が…続かない。「世界記録、八分くらいだぜ」 吉海君の手に、真新しい煙玉が無数に現れた。二人で必死に首を横に振るが、煙玉は点火された。 十階。目も開けない。扉の開く音がした。限界だった。僕の前に誰かが走り出た。出ようとする僕を肉の塊が押しとどめる。「土田だ。よろしくな」 戦友みたいに。 僕は激しくせき込んだ。階数ランブはまだ十一階。 染みて、否応なく目を開き、吉海君が十二階のボタンを押すのが見えた。「また明日。遊ぼうな」 扉が開いて、煙が流れた。 天国の扉が開く。真っ直ぐ歩けない。喉の奥、焦げたような味がした。 目の前が、空が、まだらで…。
「ここほれわんわんっ!」 ほら、おじいさん、ここ掘ってみてよ。 ね? ね? すごいでしょ? あはは、よろこんでくれてる。 うれしそうだなぁ。 よかった。 ここにお金があるらしいって、神さまがおしえてくれたんだよ。 これから、いっぱい、いっぱいお金を見つけて、おじいさんにらくをさせてあげるからね。 えへへ、なでてくれた。 うれしいなぁ。 うれしいなぁ。 いいよお礼なんて。 ぼく、おじいさんだいすきなんだから。 あれ? どうしたの? となりのおじいさんが来ちゃって。 うわっ、ぼくをつれていくの? やめてよ! おじいさん、たすけて! ねえ、おじいさん! とめてよ、ぼくこの人きらいだよ! ねえ、おじいさん? おじいさん? いたいっ、いたいよっ、ひっぱらないでよっ! ぼくはおじいさんのとこにしか、いたくないんだ! お金のありかをおしえろ? じょうだんじゃない、あれはおじいさんとぼくがしあわせにくらすためのものなんだ。だれがおまえなんかに! みてろ、すぐにおじいさんがたすけに来てくれるんだから。 金のありかありかって、うるさいな、いたいっ、ひっぱるなっていうのに! へへんだ、それならここでもほるがいいさ。「ここほれわんわん!!」 あはは、ガラクタばっかし、それがおにあいさ! え? なに、その石? いたいっ! いたっ、いたっっ!! なんかぬれてるよ、カオがしびれるよ! みてろ、おじいさんがゼッタイたすけに――いたいっ! いたっっ、目になんか入ったっ。 おじいさんが来るぞ。そのときになってあやまったっておそいんだからな! ううっ、いたいよぅ。 ……おかしいな。おじいさん、来ないなぁ。 どうして、だろう。 なんか、目の前がぐんにゃりするよ。なんか、いたくなくなってきた。 そうか、おじいさんがたすけにきてくれたんだ。 ああよかった。 おじいさん、ひどいんだよ、この人……。「シロ、シロ!」 正直おじいさんは、シロの亡骸を抱きかかえます。「ふんっ、しつけが悪いから仕置きをしてやった」 いじわるおじいさんは、憎々しげにいいます。「かわいそうに、小さな犬を――」「ああ?」 いじわるおじいさんは、正直おじいさんを睨みます。「なんか文句でもあるのか?」「い、いえ、別に」 正直で心優しいおじいさんは、愛想笑いを――シロが連れ去られた時と同じ愛想笑いを――浮かべたまま、シロのお墓を作り始めました。
兄の雑誌に『美少女戦士ミーナ実物大フィギュア完成』とあった。意味はよく分からなかったが、毎週欠かさず見ているアニメ番組のヒロイン、ミーナは実在しているらしい。カラー写真には見紛うことなきミーナその人が笑顔で男性の隣に立っている。 ミーナは秋葉原というところにいるようだ。「お母さん、秋葉原にはどうやって行けばいいの」「なんやナニゆうてんねやろこの子は。小学一年やいうのにもうオタクかいな。兄ちゃんもそうやし難儀な兄弟やでぇ」 母に訊くのは諦めて駅まで行った。沢山の駅名から秋葉原という文字を見つけるのに数分かかった。この駅から緑色の電車に乗っていけばいいようだ。 少年は一人で電車に乗るのは初めてだったが、一年ほど前に家族でここから電車に乗ったことを憶えていた。自動改札を大人のすぐ後について通り抜けると、ホームに入ってきた電車に飛び乗った。 少年の胸には一番大切にしているミーナの下敷きがあった。ミーナに逢ったらこれにサインしてもらおう。握手もしてもらおう。お話もしてくれるだろうか。 秋葉原に着いた。ここだ、と思ったときには押し出されるように電車を降りていた。それからは人に流されるまま駅の外に出た。 ここまできたらミーナに逢えると思っていた。でもこの人の多さ、入り組んだ建物。どこへ行けばいいのかわからない。呆然とした。「ボク、ミーナ好きなんだね」 甲高い声に顔を上げたら、メイド服を着た女性が立っていた。抱きしめている下敷きを見たらしい。小さくうなずいた。「じゃあさ、ミーナにあわせてあげようか」 少年の目が輝いた。今度は何度も大きくうなずく。女性は少年の手を取って、近くにある小さなビルへと入っていった。「ミーナ参上よ!」 部屋に入るなり、黄色い声と共に別の女性が現れた。見れば確かにミーナと同じ格好をしている。胸元が開いたピンクの衣装、栗色の長い髪、真っ白なタイツ。確かに美少女戦士ミーナそのままである。 でも、なんかちがう。 少年は踵を返して走った。あれは違う。ミーナのニセモノに違いない。騙されるもんか。 走り疲れて立ち止まった。 小さな店の奥に、ミーナがいた。あの写真と同じ、ミーナだ。店内にいる若い男性客に美しい微笑みを向けている。 ここで気付いた。持っているはずの下敷きがない。せっかくミーナに逢ったのに、サインがもらえない。 少年は下敷きを探しに人ごみの中へと消えていった。
川面が銀色とも灰色ともつかない頃、銀杏の大木は枝葉を老色に染め、トタン屋根ががしゃがしゃと音を立て風に運ばれる時、赤茶けて折れ曲がった鉄条網はその鋭さを淋しく増していた。 白ひげの老人が私の目の前にいる。白ひげの左には『シーン8』とチョークで書かれたカチンコが置いてあり、右には琥珀色をした光沢の美しい数珠がある。「客人、この小屋は気に入りましたかな?」 白ひげはきらきら光る天然水のような笑顔で、私に対して丁寧に言葉を差し出す。はっとした瞬間、いつの間にか私は、古小屋の中で白ひげに対峙するように胡座をかいていた。「このカチンコ……実にいい音色を出すんですよ」 空気の音が止む。「この数珠はね、それはそれは目に届く場所に置いておかないと、そわそわして落ち着かないんです。はは……こりゃ年甲斐もなくお恥ずかしい」 数珠が少し輝きを増したように見えたのは、私の気のせいだろう。「あ〜、そうだ。あれを御覧なさい」 白ひげが指差した方向を見ると、小屋の側壁、まったくもってありえない位置に長方形のドアがある。高さは大人の男が手を真っ直ぐ伸ばしてやっとドアの下に届くぐらいで、現役で使われているかのように綺麗なトマソンだ。「あれはですね……」 白ひげはゆっくり立ち上がり、手品のように取り出したパイプを咥えながら、ドアへ歩み寄る。パイプのステムには埃が被っていた。「生きているように思えるのです……ほら、綺麗でしょう? とてもトマソンには見えないほど、神々しいんですよ」 うっとりとした表情の白ひげから、私は目が離せなかった。子供の頃、初めて見たイルカショーのように瞬きを忘れてしまう。ドアが意志的にそこに在るように思えてきたのは、なんら不思議なことではなかった。「ここはね……最後の場所なのです。ここにある全てのものは……」 白ひげが語り始めると、部屋のあちこちに座椅子やら柱時計やら猿の置物やら黒いシミの付いた絵葉書やらが、申し訳なさそうに現れてきた。白ひげの表情はこの世の果てのように遠い。「行き場を失いながら、それでもこの世界から見放されなかった……だからこそ」 古小屋と古小屋の中のモノたちは、たしかな存在感を示しはじめた。カチンコも数珠もドアも何もかも、白ひげまでも、そして私も――。「だからこそ美しく、私を惹きつけるのです」 深い瞳にたっぷりと慈しみを見せる白ひげに、私は惹きつけられていた。
俺は酒を飲み過ぎた。もう、誰の通夜だったのかもすぐには思い出せない。うっかりすると、ただの宴会に来てるつもりになってしまう。それくらい飲み過ぎた。周りは殆ど知らない顔ばかりだが、酒のおかげでそんなことも気にならない。俺は、知らないオヤジにビールを注ぎ、知らないバアサンの酌を受ける。料理だって、美味いとか美味くないとか、もうどうでもよくなっている。ただ、ひんやりしたモノや汁気のあるものが妙に食いたい。のは、つまりは、もう限界に来てるということだ。黒枠の写真の顔を眺める。知らない顔だ。けど、それが誰なのかは知っている。俺は、喪主の男を見つけ、そいつに適当なお悔やみを言う。ホントのことを言うと、お悔やみはもう言ったのかもしれない。十回か、それ以上。けど、覚えがないから、また言う。喪主の男は、さすがに殆どしらふで、ただ、俺の言葉を聞いて頷いていた。俺は、喪主の男の肩を、それらしくぽんぽんと叩く。かなり白々しいけど、酔っぱらってるからそういうことも気にならない。不意に小便がしたくなる。酒の席の小便は我慢が効かない。俺は立ち上がった。「なんだ、もう帰るのか?!」畳に半分崩れかかったオヤジが、赤い顔で訊く。もちろん、今日ここで初めて会った知らないオッサンだ。「ションベン……」俺は、払うように手を振って、ふらつきながら障子を開け、廊下に出た。廊下はひんやりして、酔っぱらった身にはちょうどいい。ガラス戸越しに暗い庭を眺めながら便所に向かう。ここのはトイレじゃない。便所だ。下手すると厠だ。廊下の突き当たりの戸がその厠みたいな便所だ。昔の家だから近づくと分かる。便所臭い。戸を開けたら、すぐ小便器。朝顔とか言う奴がいるけど、何が朝顔だ!壁に寄っかかって、小便を済ませ、廊下に出る。戻る途中で、普通のギニグを見つけた。さっき来るときはなかった。今は、ある。俺は、ふにゃふにゃしたギニグをアテクからアコジュする。ほんの気まぐれで、意味はない。酔っぱらってるんだ。廊下を戻り、息をふーっと吐いてから、座敷の障子を開けた。惨状。さっきまで酔って騒いでた連中が全員血まみれで死んでいる。畳や長テーブルの料理は、血だらけの臓物だらけで酷い有り様だ。かわりに、死んでたはずの仏さんが棺桶の中に起きあがっていた。鼻に詰め物をした仏さんが恨めしげに俺を見る。俺はギニグをアテクからアコジュした。俺は酒を飲み過ぎたんだ。
草いきれの土手を越えて市境の川に伸びる大きな橋の、橋脚の中程に何故だか人一人横になれるほどの細い段がしつらえてある。土手の下に並ぶ小さな住宅からも、橋の上の車道からも死角になったその隙間に、小柄な若い女が眠っている。 日差しが強く照りつける土手では、黒目ばかりの小さな目をした胴の長い男がたった一人歩いている。眠る女に黒目をとめた男は、丈の高い草の生えた滑る斜面を革靴で器用に降りると、その傍にするりと潜りこむ。 そこは日陰になっていて思いのほか暑くない。あばたの残る女の丸い頬には薄く汗が浮かんでいて、濃い紅をひいた唇が淡い呼吸をしている。 見知らぬ細長い気配に目を覚ました女は半身を上げる。傍らに跪く灰色の男の、左手に薬指と小指の失われているのを見た女は、髭の浮いた頬を両手で引き寄せ、遠い日の誰かとの約束を思い出すようにくちづける。 男は色褪せた黒いシャツも着たままで、大きすぎるワンピースの下に、温度の無い乾いた腕を差しこむ。若い肌をなぞるように愛撫するうちに湿って息づき始めた女の中心で、男は警戒する獣のように浅く深く分身を出入りさせる。その寂しき情欲が果て釣るとき、女が赤い唇から、ふっくらと瑞々しい息を吐く。 土手の向こうから湿った風が草の匂いを運んで来て、男は自分の胸の下で呼吸する女の肩の骨が、意外に幼く華奢であることに気づく。 女は男の腰の辺りをまさぐると、三三口径のオートマチックを抜き取る。「あんたの弟分さ…」「ああ。俺も時間の問題かもな」 隙間にひとつだけ背を伸ばした雑草が、肌寄せ横たわる二人の頭上で揺れる。女は遠く鳥のぎちぎちと叫ぶのを聴いたかもしれない。「あと何発残ってるの」「二発」 女はふざけて銃を振り回す。暴れる髪の間からやけに濃い化粧の臭いがして、よく見ると白く塗られた幼い頬の下が青痣に膨らんでいる。 男は銃を取り返し、その細い体が飲み込まれるほどに深く、小さな黒目で銃身を覗き込む。やがてその筒先を翻して女の赤い唇に当て、一緒にいくか、とつぶやく。 色の薄い瞳が一瞬だけ濡れて彩られる。だが女は首を振り、甘苦い凶器を男の右手ごと両の掌で包み下ろす。 その時西に大きく傾いた陽が二人に差しかかる。女は背の下に敷いていた若草色の薄い上着を取って、自分と男にそれを被せる。 夕空を裂いて舞い踊る大きな嘴も禍々しい鉤爪も、今この時だけはみどりの蔭の二人を見失う。
新月の夜も更けて、ホトホトと戸を叩く者あった。妻が他界して二年、最近は来客もめっきりと減ったと思いつつ、ラジオを止めて玄関に立つと、黒紋付の夫婦ものの狐が提灯を捧げて、畏まっていた。「檀那様には、ご機嫌宜しゅうこんばんは、お嬢様をお連れしました」 そう言われて、先に娘の民絵から連絡があったことを思い出した。「紹介したい人がいますの。週末にお連れします」 確かそう言った(ような気がする) 御駕籠が二丁横付けされて、民絵と男が降りてきた。「お父様、お久しゅう」 都会の水に染まって、立派な女狐になった民絵は、襟巻をたくし上げつつ挨拶した。連れの男は、私だった。二十歳以上若く、清々しく初々しいが、その目付きの悪さと癖っ毛を含めて、目の前の男は私だった。要するにファザーコンプレックスという奴だ。「一緒に暮らしてます」 民絵(と夫婦狐)と一緒に上がり込んだ男は、開口一番そう宣言し、私の顔を下から見上げた。「暮らしてますって、君、そんな強引な挨拶があるかい。先に『娘さんと交際させて下さい』とか申し出るのがスジってもんじゃないかい」「スジも何も、お父さん、身に覚えがあるでしょう。私は貴方ですよ。思い出して下さい」 男はそういうと目を細めて、意味ありげに片頬で笑った。「私が君、馬鹿なことを言うんじゃない。仮にそうだとしても、私と妻は見合いだよ」「形式はともかく、僕が言いたいのは、本質でしてね。(貴方は僕なんだから)覚えておいででしょう、この胸の高鳴りを」 そう言われると、私の胸も高鳴り、妻との馴れ初めを思い出した。深まった付き合いを親に認めて貰う為、叔父を拝み倒して、辻褄合わせに形ばかりのお見合いで誤魔化したことを。その時の親父の顔を。「実はもう、同棲以上の付き合いだったんじゃ」 後日、酔った勢いで叔父が真実を語り、親父の顔が真っ赤に壊れた。 シャンシャンシャンと鈴が鳴る。民絵と男が立ち上がり、夫婦狐が仲人然と、その両脇を固める。チョンと木が入ると(役が代わり)民絵の父親は顔を赤らめ、胸を押さえて苦しみ始める。「そうだったのか」 親父が声を振り絞る。「そうだったんです」 (若いくなった)私が間の抜けた返事をする。 崩れ落ちるように倒れる(親父の)私、手を差しのべる(若い)私、民絵が私の最期を見取って私を振り返る。妻の名を呼ぼうとした私の口が「民絵」と動く。 夫婦狐が見得を切り(幕)
気になったのは、その重そうな影だった。 車窓をぼんやりと眺める少女を覆う影が、日差しとは真逆に濃い。乗客の誰もが同色の影を連れているのに、少女の影はひときわ尖って重そうに見えた。 ボックス席の斜め前、だから僕は少女を仔細に眺め、ああ、頬が痩けているのか。 夏痩せか、気鬱か。円やかな筈の頬が、目元が、窪んでいた。そう思うと座る姿にも生気がない。背もたれに寄る肩が落ち、腕は力なく腿の上に引っかかり、行儀とは無縁の足は伸びていた。 まあボックス席に座るのは僕と少女の2人で、目のやり場にさえ困らなければ少女がどんな格好でも関係はない。 そう。今が平日の昼で、少女が高校らしい夏の制服を着ていても、僕には関係ない。 他の乗客達も気にしていない。もしかして気付いてすらいない。 僕が学生の頃のように「学校はどうした」大声で怒ってくれる大人は迷惑の名の下に死滅した。 だから大勢の無関心という孤独の檻で、少女は痩けた頬に影を張り付かせ、流れる景色を眺めているしかない。 厳しい残暑の太陽を浴び、汗の1粒すら出ないほど、乾きながら。 弱冷房車だが、昨夜の晩酌と麦茶が噴出すごとく僕は何度もハンカチを取り出すのに。 と、唐突に少女は僕を見た。「あついですか」 声は聞こえたが、言葉が理解できなかった。僕はよほど頓狂な顔をしたか、少女はもう一度「暑いですか?」言い直した。「ブラインド下ろしますか?」 此処に到って、少女は僕の視線に気付き、意味を誤解して気遣っていると知れた。顔から火が噴出すとはコレだ。身の縮まる思いで「大丈夫です」不明瞭に呟くのがやっと。「いつでも下ろしますから」 お愛想でも、笑う少女は可愛い。何を根拠に彼女が「殻に閉じこもっている」と思ったのだろう。気遣いを知る、優しい娘さんではないか。 しかし窓外を眺めた途端、影は少女を縛る。尖った鉤爪で獲物を捕らえ、何処へ引きずり行こうとするか。 やがて電車は駅に止まる。僕の目的地だが、少女は影に埋もれて動かない。 ホームに天井はなく、暑くて白く、明るすぎてよく見えない世界の、目の前。待ち構える如くに自動販売機が。 僕は無意識に内ポケットを探った。「年甲斐もない」 いつも以上に汗が噴出す。乗客全員が僕を見ている気がして、ハンカチに隠れる。 動き始めた電車に少し顔を出せば、逆光の見えづらい窓の1つ、焦茶の缶へ伸ばしかける白い腕、だけが見えた。
よっこへ もう帰る「伝言板と化してるね」 由紀の指が、日に焼けて黄ばんだ壁を、元はきっと目が眩むくらい白かったはずのその壁を、愛おしそうになぞった。「一人書き始めると、みんな書くよね」「よく消されずにすんだね。生活指導の宮森に」「あれ、宮森ってまだいたっけ?」「ああ、あいつうちらの年に南中行ったんだった」 昇降口に続く渡り廊下。微かな部活動の声。光溢れる窓の下の、壁いっぱいの落書き。それらは、私達がこの廊下を、上履きのかかとを踏み潰して歩いていた頃よりずっと増えていた。 速報 3−A谷口と3−D橋本 おめでとう まじぶかつダルイ ←やめれば? テニス部募集中☆ 暑い死ぬ ←死ねば? ←いや生きろ! バーカ お前もバーカ「みんな暇だね」「ね。若いね」 参上! 上等!!「誰が、何がだよ……」「はは、意味不明」 3−C小畑くん 好きです ごめん 彼女いるんだ「振られてるし」「それ、あたし」「……何やってんのあんた」 若気の至りだって、と由紀は照れくさそうに笑った。そういえば由紀は一時期小畑君のことが好きだったっけ。その後七人好きな人が変わった。「ヒロは?」「え」「何か書いたんでしょ」「あたしは……」「白状しな。どれよ」「さあね」「あ! やっぱり書いたんだ!」 ゆきせんぱーい。 タイミングよく部活の後輩が由紀を呼んだ。「はーい」 由紀は応えて、長い髪とスカートをひるがえし、廊下をぱたぱた駆けて行った。後姿が中学生の由紀と重なった。ほんの一瞬。 急に静かになって、一人取り残された私は、東中名物『中央校舎の落書き壁』をぐるりと見渡した。 そしてその、古ぼけた写真のように、確かにそこにあるのに、まるで現実感のない異次元のような空間に、むせ返りそうな胸苦しさを覚えながら、一番右端の窓に近づいた。 それは、まだそこにあった。 十四歳。 新しいお母さん、新しい妹。 笑っていても、愛想笑いなのか作り笑いなのか、本当に楽しいのか誤魔化しか、分からなくなっていた日々。夕御飯の匂いが何よりも怖かったあの頃。 そんな時みんなの落書きに紛れて記した、小さな願い。 何日かたってもう一度この壁を見たら、書いてあった言葉。 誰かなんて知らない。 卒業しても、何年たっても、私の心の一欠片はここにあった。 小さな小さな文字の横に、もっと小さく書かれた、青いボールペンの文字。 幸せになりたい なれるよ