いつもは静かな街路地が音と色に飲み込まれてゆく。デパートは閉まり、代わりに出店が占拠していた。甘い匂いが立ち込め、熱気を生む。笑い声と叫び声が交じり合い、雑踏は絶えることがない。中央を行く出し物は、黒い甲冑に身を包んだ武士達の列。彼女は人垣の間から、その武士の掲げた旗を目にして、苦笑する。丸い餅を三つ並べた奇妙な旗。「あのお餅はめっ。マズイ。みんな困った顔。だからめっ、よ。」まだ十才に満たないであろう少女は、愉快な独り言を述べると、トテトテと走り去っていった。閉鎖されたデパートの屋上に、一人の男の姿。堂々たる風貌で立つその老人は、黒い甲冑を着込んでいた。「懐かしきことよ。」祭りの風景を見下ろし呟く。彼の目は病のために濁っていた。そこへ、「ふほーしんにゅー、めっ!だめよっ!」声をかけたのは、例の少女だった。一瞬、老人は驚きに眼を見開く。だが、「めっ!」彼女がもう一度言うと、老人はゆるゆると表情を和らげた。「そうか、ダメか‥」「そうっめっ!」続いて少女は憮然と、何やら意味不明な単語を撒き散らす。「バカでっアホでっごますりでっへつらいのタヌキめぇっ!」老人は最初ぽかんと呆けたが、やがて笑い出した。「ハハハっ、そーか、儂はへつらいかっ!ごますりかっ!ハハっようわかっておる」その言葉を聞き、少女は何故か、えへんっ、と威張ってみせた。それがよかったのだろうか?老人は再び楽しげに笑うと、静かに言った。「さて‥ぬしにも見つかってしもうたし、儂はそろそろ帰るとするかの‥」「お城に?」テレビの知識からか、少女が聞くと、「いや。儂が仕えた将軍様のところじゃよ。」老人はそう言い、まるで溶けるように忽然と姿を消えた。最後に声だけで告げる。「いい土産話ができた‥ありがとう‥」その贈り物に、彼女はにっこりと微笑み、静かに目を閉じ、‥瞬く。そしてゆっくりと口を開いた。「そうですわよね。黄泉の世界でもかのお方に仕えんが為に、改宗なさった貴方ですもの。きっとそうだと思っておりました‥。へつらい大名、ゴマすりなどと言う者は、もうおりませんでしょう?あなたが関が原の傷跡より救ったこの町は、このように平和になりました。あの白い城壁に込めた貴方の願いは、叶ったのですよ。ですからご安心なさいませ。」その高く響く声に、もはや先程までの子供っぽさはない。その表情も今は落ち着いた女性のもの。「高虎様‥」と声は紡いだ。
「理性ではわかっていると言う人の理性とは、その人が考える理想的な一般論であってその人のそれとは少し違う。」天才の言うことは嫌いだ。夜の冷たい空気が体を横切り、僕は毛布に顔を埋めた。冬の冷たい風は好きだ。我慢している自分が強い人間に思えるから。僕はベランダで今日一日を振り返ることがたまにある。空に舞う白い息に想いを込められたならどんなにいいだろう。みんなに伝えたいことがあるんだ。体を毛布でくるみ、体育座りをして今日の出来事を思い返す。僕の通う中学には天才がいる。テストをすれば必ず上位に入るくせに、決して授業で手を挙げて発言はしない。体育の授業では何をやらせてもスマートにこなしてしまう。その上、顔も良くて女子の視線をちらちら感じるらしい。あまり喋らずに、ただ黙って行動するそのクールさが人気なんだ、きっと。僕は少し空を見上げる。そう、まるで星のようなやつだ。届かないあの綺麗な光には、ただ憧れるしか近づく方法はない。まるで正体を現さないその光の秘密を僕だけが知っている。給食の時間、僕がプリンじゃんけんに負けて机に帰ってきたときのことだ。「あーあ、理性では負けたってわかってるんだけど、本能があきらめきれてないんだよな。」「理性ではわかっていると言う人の理性とは、その人が考える理想的な一般論であってその人のそれとは少し違う。」何でこんな奴がもてるのかさっぱりわからない。でもあの秘密を言いふらせばあいつも終わりだ。あいつは――、あいつはクールなんかじゃない。極度の人見知りなだけなんだ。あいつが唯一慣れている人間が僕。僕にしか気軽に話せないらしい。夜空に光る星の名前を僕だけが知っている。そんな感じの優越感を味わっている。本当はみんなと仲良く話したいんだけど、話せないそうだ。天才にも悩みはある。その人がものすごい天才に見えたのならばそれは、自分がその人のことを全然知らない証拠なのだ。僕が今いる星だって、きっと光っているのだと思う。それでもやっぱり天才は嫌いだ。でも僕は、天才のあいつは好きだ。友達ってこういうことなのかもしれない。あいつに花を持たせる僕はあの光り輝く星の横にある、比較用の小さく輝く星なのだろうか。あいつの秘密はもう少しみんなには内緒にしておこう。冬は嫌いだ。ため息が見えてしまうから。今日はこの辺でやめておこう。毛布の隙間から入る冬の風が、我慢するには少し冷たすぎるから。
お母さん! 今さら死んだお母さんに手紙を書くのは変だけど、この鬱屈した気持ちをぶつける人が他に誰もいないんです。毛嫌いしていた親父は十五も年下のスナックママと再婚して、今は朝霞に住んでいます。正直ほっとした気分です。親父の介護なんて考えただけで、おぞましくなります。 でも、僕には新しい問題が発生しました。十五年間勤めてきた大手メーカーをリストラで辞めなければならなくなったんです。会社の経営失敗も理由の一つですが、僕自身にもかなり問題があったようです。 お母さん覚えていますか? 僕が中学のとき不登校になった事を。幼稚園の頃から無口で、シャイで、明るさのかけらも無かったから、友達は一人もできず、家に閉じこもってゲームばかりしていましたね。小学校でも苛めはありましたが、中学校の時はひどかった。しょっちゅう黴菌扱いされたり、上靴の中に鋲を入れられたりしました。耐えられずに半年間学校へ行かなくなりましたが、お母さんの悲しむ様子を見るのが辛くなって、又、通学を始めましたね。その後は大学卒業まで何とか勉強を続ける事ができました。でも心の傷は癒されていなかったみたいです。 大学のサークルでも、父のコネで採用された会社でも、友達と呼べる人は皆無でした。たまに飲みに誘ってくれる仲間もいましたが、なにかと理由をつけて断ってばかりでした。会社の配属先が経理部だったので、比較的対人関係に気を使わなくてすんだのはラッキーでした。 異性との交遊なんて思いもよりませんでした。お母さんは大分心配していたようで、見合い写真なんか持ってきましたが、なにしろ体型がずんぐりむっくりの上に、性格がネクラときてはどうしようもありません。 悩み事は全てお母さんにぶつけていましたね。親父は何かにつけて、すぐ自分の考えを押し付けようとするので、喧嘩ばかりしていました。三年前お母さんが肺癌で死んでから、親父とは一つ屋根に暮らしながら全く没交渉になりました。駅の近くのスナックのママが時々遊びに来ているなとは思っていましたが、ある日突然その人と一緒に他所で住むからと言われました。 実は今日は八王子で面接があったのです。書類選考で何十社とはねられて、やっと漕ぎ着けた事務職の面接でしたが、自己PRが思うようにできず人事担当に冷たくあしらわれました。 落ち込んだ気分のまま高尾山まで足を伸ばしました。どこか適当な木があったら首をくくるのもいいかなと思いました。心配してくれる人もいないし…… でも山の中を探し回っているうちに日が暮れてしまいました。
※作者付記: ううん……字数オーバー。あかんわ。
ひさしぶりの帰郷だった。 固い背もたれの感触が懐かしい。私がこの散髪屋に世話になったのは中学の頃。目を閉じて聞くオヤジの声は昔のままだった。「こんな町にもコンビニが出来て、商店街は寂れる一方だよ。どの店も年寄りばかりで後継ぎがいない」「何処も同じです」 オヤジの世間話は愚痴と同じである。朴訥な口調で、手先だけは別の生き物のように髭を剃る。「そういえば」と私は、昨夜の奇妙な出来事を思い出した。 真向かいの「鮨源」に鮨を食いに行くと、夕方だというのに客が一人しかいなかった。「店主の源さんも店を畳もうと考えているらしい。あれだけ暇ではね」 オヤジが口を挟んだ。 それでも昨夜の客はいい客ではなかったろう。私と同じ草臥れた中年営業マンという感じで、なぜか一言もしゃべらない。 目の前で鮨を握っている源さんも、ただむすっとしている。奇妙な雰囲気だなと思ったが、しばらくして、客の方が驚くべき行動をとり始めた。ネクタイをするりと外すと、上着を脱ぎ、シャツを脱ぎだしたのだ。 源さんが見て見ぬ振りをしていると、男はどんどん服を脱ぐ。上半身裸になったかと思うと、ズボンまで脱ぎ始めたのだから尋常ではない。「ばか者!」 さすがの源さんも、ついに怒声を上げた。すると、裸の男は、何ともいえぬ笑顔になり、そのまま裏寒い店外へ出て行ってしまったのである。店は元の静けさに戻り、源さんは再び無口になった。 奇妙なことだが、そこに一種不思議な厳粛さが漂っているようだった。 ふと気がつくと、今の話を聞いていた散髪屋のオヤジの態度が少しおかしい。「あの源さんがついに大声を上げたって……そうか、それはよかった」 オヤジの声は、感動に震えるように聞こえた。「どういう事ですか?」「二人は、親子なんだよ。ぐれて何年も家を飛び出していた息子が、勘当を解いてもらおうと父親の店へ通い続けていたんだ。源さんが怒ったのは、父が子をついに認めたという事だろう」「しかし、服を脱ぐことに何か意味でも……?」「親と口をきくことが出来ないのだからしかたなかった。刺青を消すには、皮膚をやすりで削ったり、酸を塗って洗い流したりしなければならない。大変な根気と苦痛がいるものだ。親子の絆を取り返すために、あの子は一生懸命がんばったんだろう」 かみそりを持つ手は止まったままである。オヤジは自分の顔を隠すように、私の目の前を温かいタオルで包んだ。
部屋の窓を閉めた瞬間、足が止まった。誰かに出会ったわけではない。不意だ。いきなりだ。忽然だ。脊髄がどうかしたのか。わからないと不安になる。世界がモノクロになる。やめてくれよ。困った。こんな時に。このままじゃ、どこにもいけやしない。足よ、動いてくれ!「いやだ 俺はここを動きたくないんだ」足が言った。「ふざけるな 力が強すぎるぞ もっと加減した自己主張にしろ」そうだ。これが足の所為ならば、あまりにも脳と脊髄を侮辱しすぎてゐる。コンセントを切ったのか、止めているのか。わからない。動揺する自分を見て、足は答えた。「永遠に踏みとどまってゐるがいいさ」ふふと足が嘲笑った。優位がそこにあった。腹立だしかった。中枢が部品に負けている。「気味の悪い薄笑いはやめろ 口もないくせに」「お前の心に、一度は反抗しておきたいんだよ」「はあ?」「俺たちを、小さな工場の労働者だと思うなよ」「たち、って、お前しか反抗してねえじゃん 集団生活できてないなんて社会的に死んでるよ」「俺たちはインディヴィジュアルなんだ」「自分の足が中途半端に幼稚とは知らなかった 黙れよ足のくせに 俺は出る杭は打つぞ」足はたじろいだ。「お前にそんな度胸ある訳ない 俺の神経はお前の神経なんだぜ?」「だからどうした お前を無くした方が、生を感じられるさ」「そんなの不自由に付随した生だ いや逆か?いずれにしろ、そんなのはただの虚勢だ」「お前も、自分の言っていることが虚勢に過ぎないってわかってゐるんだろ?」足は答えなかった。「殺してやろうか?」更に挑発。プツ、と足に爪で切れ目をいれる。女爪でつめよる。「聞こえるか?お前が死んでいく音」「やめろ!やめてくれ!」足は叫んだ。なんとも悲痛な声だ。赤くにじんでいるのは足の生だ。全部なくせば足は死んでくれる。もう足は何も言わなかった。足は動く。歩ける。何も言わない。チキン野郎め。「ぐづぐづととどまってゐる訳にはいかないんだよ」そうして彼は、静かに練炭に火を点けた。
VAIOテクノロジーの発達によりあらゆることが可能になった。今では子供の誕生日にペガサスの子供をプレゼントしたり、形も美しく美味しい食べ物を安く食べたり、生きた千手観音をあがめるなんてことあたりまえなのだ。今日もププールというとても頭のいいペットと娘は学校に行く。勉強を手伝ってくれるのだ。雨が降り出して、娘は学校に行くのをやめてしまった。ププールは可愛らしくテレビを見ていた。今年300歳になる老人が語ったり、様々な工夫を凝らしたロボットが出てきてパフォーマンスしたり、人々は科学に夢中だ。突然ププールが泣き出した。「ププールは死にたいの」とププールは言った。雨はひどい音を立てている。娘は少し考えこんで、「何言ってるの。わがまま言うんじゃないの」と言った。「ププールは死にたいの」ププールの声は雨に掻き消されそうだ。
「おおっ、ソクラテスが来たぞっ」「わあいっ、ソクラテスだ!」「ソクラテス!」 町のみんなが集まってくる。「そだね、一つ話そうかね」 弟子を連れたソクラテスは道端に腰を下ろし、語り始める。「世の中で、何でも知ってるって思う人ほど嫌なモノないね。お客さん」「たしかになぁ」「鼻持ちならねえ」「そうかなぁ、何でも知ってるぐらいの奴から、色々教われば役に立つこともあるだろう?」「本当に知っていれば私も教わりたいんだけどね。例えばうちの奥さん、あたしがちょっと『鍋はどこにありましたか?』って訊いたとするよね」 興味津々で、人々はどんどん集まって来る。「そしたら、うちの山の神――いやいや、奥様はね、『ちゃんと棚に置いてあるでしょう、この穀潰しのトウヘンボク!』って、優しく教えてくれるんですけどね。実際に棚を見ると、鍋がなかったりするのね」 ソクラテスの声はけして大きくはなかったが、よく響き、人々に伝わった。「ここで『あれ、お鍋がありませんよ、奥様』なんて事を言ってごらんなさい。普段から鬼みたいな顔した奥様ですけどね、それをもっと恐ろしくしたようなこの世のものとも思えない面構えでなじられる。それは真っ平だからね、黙って探すわけね。それで、かまどの陰に転がっているのを、こっそり見つけて『ありました、ありがとうございます』てな事を言って丸く収まる」 観客には子供も多くいた。 弟子たちも、じっと聞き入っていた。「奥様は、一生棚に鍋がなかった事を知らずに過ごすワケなのよね。そんなこと、結構あるでしょ」「なるほどなぁ」「あるある」「尻にしかれすぎだぞ!」「いやいや、本当は、私が好き好んで尻の敷物になっているかも知れない。でもその考えもひょっとしたら、奥様に仕込まれた偽の感情かも知れない。そんな事を付き詰めて行くとね、人は物事をなーんも知らないんだなーとか、思うワケなのよね」「頼りない話だな」「ああ、でも一つ知っている」「なんだい?」「何を知ってるって?」「何も知らないんじゃなかったのか?」「『私は何にも知らない』って事を、知ってるんです」 弟子たちはさっと立ち上がるや。「ドンドンドン、オチです!」「ダッダーンダダン、オチでーす!」「ドンドンドン、オチでーーす!」「――いつか、師匠みたいに立派な哲学者になるんだ」 付き人のプラトンは、おひねりを拾い集めながら、目をキラキラ輝かせて師を見つめた。
この一週間は誰も訪ねてこなかった。三年前に夫を亡くし、近所に住む唯一の友人も半年前に逝ってしまった。一週間前に訪ねてきたのも、毎月終わりにやってくる新聞の集金だった。 それでも彼女が生活していくのに不自由などなかった。年金はちゃんと入ってくるし歩いて一分のところにコンビニはあるし、二、三ヶ月に一度、思い出したように役所から誰かがやってきては細々と話を聞いて台帳に何か記入し、にこやかに帰っていく話し相手もいる。 彼女が産み育てた息子と娘は、それぞれ地方都市で家庭を築いている。都会で生まれ育った子供たちが田舎でがんばっていて、母が都会で一人暮らしというのはなんだかあべこべな気がするが、そういう時代なのかもしれない。最後に会ったのはいつだったか、写真の中ではいつまでも小学生でいる孫の顔を見ていれば寂しさなどはない。 その孫から急に電話が掛かってきた。「ばあちゃん、オレ。交通事故起こしちゃってさ、お金がいるんだよ。すぐ払わないと免許停止になるって言われてるんだ。そうなったらオレ、仕事続けられないよ」 震える手で孫の言う振込先をメモし、受話器を置いたらコンビニへと向かった。そこにはATMがあって、彼女はそこでいつも年金をおろして買い物をしているのだ。 小さな画面を目を凝らして見たが、振込みはどうやってすればいいのかわからない。彼女の後ろでは不機嫌そうな顔の若い男が貧乏ゆすりをしながら立っている。早くしなければと思えば余計に気が焦り振込み方法が見つからない。「これ、振込みはどうしたらええのかねえ」 彼女がレジの方へそう声を掛けたが、丁度昼時で忙しくしている店員たちには聞こえなかったのか無視されたのか、返事はなかった。そばに立っている若い男の方もみてみたが目をそらされる。「孫がねえ、急いでお金いるからって、振り込めっていうんよ」 彼女がそういうと若い男は、「振込みだったら銀行じゃね?」 と言った。「銀行ってどこね?」「知らないよ。駅前にあるんじゃないの?」「急がないとダメなんだよね」「じゃあ急げばいいじゃない」 駅までは二キロほどある。彼女の足だと歩いたら確実に1時間は掛かる。とにかく表に出て通りの向こうにあるバス停を見たら、ちょうど駅へ向かうバスが来ていた。 慌てて道を横切ろうとしたら、右から来た車に突き飛ばされた。 口座から金をおろした「オレ」は、何故だか血の匂いを感じた。
その日、詰襟のカラーを留めながら中学生の兄さんが、今日は「アジサイ小父さんの葬式だ」と教えてくれた。僕は、いつも暢気で丈夫そうな小父さんが急逝したという事実が、うまく飲み込めないでいた。 小父さんのおどけた姿ばかりが浮かんできて「難儀なこってすわぁ」という口癖が思い出された。顔が笑いそうになったので、これは『不謹慎』だと、先週習ったばかりの漢字熟語で少し反省した。 初めて家に来たとき、胸にアジサイの大きな刺繍がある開襟シャツを着ていたので、父の遠縁に当たるその小父さんのことを兄さんと僕は「アジサイ小父さん」と呼んだ。 何度目かの来訪の際、兄さんが悪戯心で、本人にそのことを告げたが、「アジサイですか、華やかでよろしいなあ」 と逆に気に入ったような素振りの受け答えに、二人とも拍子抜けした。「宗次郎さんも何もわからんと上京して、仕事も二回変わって、お見合いして結婚して、離婚して、再婚して、波乱万丈なことやなあ」 アジサイ小父さんが帰るといつも、母が父にそんなことを言っていたので、小父さんの本名とおぼろげな経歴を理解した。 今思うとたびたびの来訪は、金の無心のような趣旨だったのかもしれない。僕らを相手に軽口をたたき、熱心に遊ぶ小父さんに、父の口調も段々と厳しくなり、説教めいてくる。そうなると小父さんは遊びの手を止めて、暫らく神妙に聞いた後、「難儀なこってすわぁ」 と半笑いで早々に退散して行くのが常だった。 葬式に出るのは二回目だった。斎場で小父さんの奥さんと息子さんを初めて見た。二人ともとても小さかった。小父さんが死んでしまったのに、あまり泣いてない様子なのが不思議だった。 焼き場の待合所に着いてから、母にそう言われ、兄さんと僕は、幼い息子さんと外に出て遊んだ。小さな中庭をぐるぐると歩き回った。初めのうち緊張していた息子さんも楽しそうになり、僕は父親を亡くした息子さんに少し『感情移入』した。そして三人ぐるぐる回った。 十数年後、父の遺品を整理していた母から「宗次郎さんからの預かり物があったから」返してきてほしいと頼まれ、田舎で暮らしている奥さんを訪ねた。 駅から暫らく歩く小さな家に上がり込んだ。あまり話すこともなかったので、奥さんと立派になった息子さんと三人、庭を眺めて煎茶を啜った。ちょうど梅雨明けの時候で、アジサイが咲き誇っていた。 小父さんはちっとも死んでいなかった。
鳥の声が聞こえた気がして、僕はようやく部屋の鍵を開ける。窓から見た空は高く雲は薄かったのに灰色の路面はまだ暑く、こんな平日の真っ昼間に外を歩いてる人なんていない。 暫く靴を履いてなかった足が頼りなく地面を踏む。すぐに息が上がってきた。 また鳴き声を聞いて、僕は振り返る。 続いていた灰色の塀が切れて、錆びた鉄格子から奥が覗けた。夏の色が残る草原が遠くへ霞んでいる。立入禁止の工場跡地だった。 あれは二年半も前だ。桜の散りかけた暖かい午後、新しい詰襟がまだ馴染まない同級生たちは、新しい遊び場に目を輝かせて柵を越えた。その翌日、誰がチクったのか、入らなかった僕も一緒に担任に怒られた。 奴らも担任も今どうしてるのか知らない。立入禁止の理由も学校に行く理由も知らない。あの頃の禁止と強制の言葉を反響させながら、僕だけが独りの部屋で過ごしていたのだ。 僕は振り子のように反動をつけ、一気に柵を乗り越えた。 丈の高い緑に、海色のワンピースを着た小さな女の子が肩まで埋まっていた。赤い紐で括った古い竹籠を細い指に提げている。そこから明るい鳴き声がした。「怪我が治ったから、放してあげるの」 汚れたような灰色の毛が混じる白い小鳥が、格子の中でちょこちょこと首を振っていた。「やっぱり空がいいわよね」「やっぱり飛ばなくちゃいけないの?」「そう思う時はまだ休んでていいのよ。飛びたくなったら自然に飛べるから」 女の子が格子を上げると、鳥は差し出した手に跳び乗った。「ようこそ、広い世界へ。怖がらないで。あたしが見ててあげる。見えなくなるまで、ずっと」 鳥は掌の上で二、三度羽を上下させたかと思うと、次の一打ちで何メートルも飛び上がり、迷わず遠く加速していった。 女の子がそれを追って猛然と駆け出す。 見てるって? おい。「あ、待って、籠は」「お兄さんにあげる!」 後は全力疾走。振り返りもしない。空を包むように両手を広げ駆けてゆく。彼女の見上げる遥かな高みに向け、小さな力強い羽ばたきが吸い込まれていく。青の眩しさに僕は目を閉じた。 目を開けると、古びた塀に仕切られて小ぢんまりと広がる原っぱに、僕と鳥籠だけが残されていた。 紅い紐を指に絡めて両手で持ち上げた鳥籠から、高く澄んだ空を覗く。竹の匂いが残る白い格子の向うに無邪気な黒い目が見えた気がして、誰にも伝えられなかった願いを、僕はそっと優しい瞳に打ち明ける。
トロッコの里で、私は連れと二人、トロッコに乗った。エンジン付きの一番小さい二人乗りだ。山の線路をエンジンをブーブー鳴らしてトロッコが進む。なるほど。少しやかましいが、山の中をのんびり走るのは気分がいい。山の中程まで登ると、遠くの笑い声が後ろから聞こえた。振り返ると、同じ線路の上を別のトロッコが登ってきていた。戸板の上にT字型の仕掛けを乗せた人力トロッコだ。上半身裸の筋肉の塊のような男が二人、向かい合って乗っている。笑い声の主は彼ら二人だ。太い腕でトロッコのシーソーをギッコンバッタンやりながら、大声で笑っている。わっはっは、わっはっは!どんどん近づいて、あっと言う間に追いつかれた。トロッコは一台ずつ走らせる決まりと聞いていたが……。私はブレーキを踏んでトロッコを停めた。私達が停まると、裸の大男二人もトロッコを漕ぐのをやめた。笑うのもやめ、私達のすぐ後ろで自分たちのトロッコを停めた。それから、黙ってまじめな顔を私達に向けた。「何かありましたか?」大男二人は言葉の通じない外国人のように無反応だった。トロッコの漕ぎ棒に手をかけたまま、黙ってまじめな顔をこちらに向けている。「何か?」やはり反応はない。私は連れと顔を見合わせ、ブレーキを離しトロッコを進めた。しばらく進んで振り返ると、大男二人はさっきの所にまだじっとしていた。まじめな顔のまま、離れていく私達を黙って見ている。「何だろうね?」「さあ?」それから少しの間、また二人だけで山の中をブーブーと進んだ。が、峠を越えて少しすると、また、あの聞き覚えのある笑い声が背後に響いた。わっはっは、わっはっは!私と連れは少し気味が悪くなった。姿は峠の向こうでまだ見えない。しかし、わっはっはの声は明らかに猛烈な速さで近づいていた。あの太い4本の腕が激しく上下し、トロッコを峠の頂に押し上げているのは間違いない。すぐに追いつかれるだろう。私はブレーキを踏んでトロッコを停めた。「トロッコだけ先に行かせて、僕らはここに隠れて連中をやり過ごそう」私の意見に連れは同意した。私達はトロッコから降り、線路脇の灌木の茂みに身を潜めた。わっはっは、わっはっは!笑い声が近づく。トロッコの車輪のゴロゴロや、漕ぎ棒のギコギコも聞こえてきた。そして……わっはっは、わっはっは、わーっはっは!大笑いする裸の大男二人を乗せたトロッコは、私達の前を風のように通り過ぎて行った。
携帯に知らないアドレスからメールがきた。 画像が添付されていたので開いたら、アルバムで見た若い頃の父がわたしと同い年くらいの女の人を犯している写真だった。「もっと知りたかったら、誰にも言わずにここへ来い」 メール本文にそう書かれていた場所へ行ったわたしは当然、犯された。メールを送りつけてきた男は、わたしに乗っかって腰を振りながら、写真のことを話してくれた。 高校生だった父は同級生を犯して写真を撮り、それを材料に脅迫したらしい。自分ひとりでするだけじゃなく、友人やサイトで拾ってきたリーマンとかに金を貰って貸し出していたという。 その女が自殺未遂をしてからは、アングラサイトで買った薬で気を狂わせて遊ぶようになった。けれど、じきに飽きて風俗に売り払った。 女はいつの間にか妊娠していて、生まれた子供はどうやってか育って、いま、わたしを犯している。 父が撮った写真やビデオを見せられながら、そろそろ三回目だ。 これが終わったら死ぬから、どうでもいいけど。「死なせない」 そう言われてびっくりした。それから、ああそうか、と思った。この男はいまの私と同じことを思ったことがあるんだな、って。 男は四回目を始めながら言った。「おまえはおれの子を産め。そして子供がいまのおまえと同じ歳になったら、今日のことを教えろ」 呼び出したのが今日なのも計算通りだったみたい。四回もなら、たぶん男の望みどおりになるかな。「おれも誰かと結婚して子供をつくって、おまえの家みたいに幸せな家庭をつくる。だから、おまえの子供におれの子供を犯させろ。それまで死ぬな」 五回目。そろそろ痛い。 でも、男の言葉が実現するところを想像したら、なんだか気分が良くなった。ああ生きていける、と思った。希望があるから人は生けていける、ってやつだ。 六回目。すごい。褒めてあげたい。でも痛いよ、本当に。 あ――ひとつだけ疑問。 生まれてくるのが女の子同士とかだったらどうするんだろう? あ、そっか。 そのときはわたしが死ねばいいのか。
・ ラジェット(ガチャ)…スティックの先に円形の穴がついていて、 ボルトを簡単に締めたり、緩めたり出来る 道具。10のラジェット…アンテナアームとアンテナを結びつけるボルトを締めた り、緩めたりするのに使う。13のラジェット…4本アンテナのアームを組むときに使用。また、貫通ボ ルトにも使う。17のラジェット…本体、本体取り付け金具、3共ボックス取り付け金具の ナットを留めるのに使う。19のラジェット…H鋼を撤去するときに使う。24のラジェット…ポール取り付け金具を留めるアンカーボルトを締めるの に使う。・ スパナ…ナットを回すとき、裏側のナットを固定するための道具。 17、19がある。・ インパクトドライバー…引き金ひとつでビスを締めることも緩めること も可能な便利な道具。・ BOSCH…壁に穴をあけるドリル。24のボルトには18のキリ、M−10 のボルトには、12のキリを使う。・ HILTI…BOSCHと同じく穴をあけるときに使うが、大きい分、 音が少ない。・ 充電ドライバー…インパクトドライバーより、力が小さい分、ビス山が つぶれることは少ない。・ VE管…まっすぐに配管をしたいときに使う。これに電源線、通信線 を入れて、配管していく。・ PF管…自由自在に曲がる配管。曲がった箇所や立体的になった箇所 に便利。・ パイプカッター…VE管を好みの長さに切り分けるはさみ。・ ジョイントカップ…VE管とVE管を繋ぐための道具。・ コンビネーション…VE管とPF管を繋ぐための道具。・ コネクター…ボックスの穴に配管を通すときに使われる道具。・ 水平器…取り付けた金具が歪んでいないかを確かめる道具。・ セットハンマー…歪んでいる金具やアンカーボルトを矯正する 木づち。・ 圧着…3共ボックスを組むときに使う。銅線に端子を付けるのに 使う。・ コーキング…穴あけの後の防水のために使う接着剤のようなもの。 コーキングガンと共に使う。・ ホールソー…BOSCHのキリのひとつで、保安器ボックスなどに穴をあける ときに使う。・ ジュース…喉が渇いたら飲むための便利な道具。
※作者付記: すいません、恐れ入ります。屋上のアンテナ工事のものなんですが、道具箱の方ちょっぴり紹介させて頂きました。お世話になっております田野尻さんを始め、(株)サポートサービスの社員の皆様に深く御礼申し上げます。