量子論は、シュレーディンガー方程式に基づいて、電子の挙動を観察し、それによって起こる化学結合から有機物質の構造まで、森羅万象を説明しようと試みる学問である。そこでまず取り上げられるのが、電子が粒子と波動の二重性を持っているということである。電子は20世紀初頭まで、粒子として扱われてきた。しかし、スリットを通った電子が、干渉縞を作ることから、それは波動性を持つ、つまり電子も光や音波と同じように波動の性質も持つという実験結果が得られた。数学者シュレーディンガーはこの電子の波動性に目を付け、HΨ=EΨ─@という簡単な方程式を打ち立てた。(H:電子の運動エネルギーとポテンシャルエネルギーを表すハミルトン演算子。 E:電子の持つ全エネルギーの固有値。 Ψ:電子の波動関数)とする。ハミルトン演算子Hで計算された波動関数Ψが、全エネルギーEと波動関数Ψの単純な積で表される時、全エネルギーEはあるとびとび値を持って存在し得る。譬えて言うなら、今までなだらかな坂道のうえに犬の糞が落ちていたと思われていたのが、段違いの階段に鹿の糞が落ちているようなものである。余談はさておき、水素原子を例に挙げよう。水素原子は言わずと知れた、ひとつの陽子の周りを、ひとつの電子が回っている、周期律の中で最も簡単な原子である。ここで、一次元の系で、電子の運動エネルギーは、(−h/2πm)d2/dx2 電子のポテンシャルエネルギーは、V(x)で計算される。つまり、@式で、H=(−h/2πm)d2/dx2+V(x)となる。これを、水素原子について解くと、1s軌道にひとつの電子が入っている状態が、最も安定した(エネルギーの低い)状態であることが分かる。この「1s軌道」という単語は初めて出てきたが、電子の取り得る状態のことと思って頂いて差し支えない。先ほど、電子のエネルギーはとびとびのエネルギーを持つと説明したが、ここで、エネルギー準位として、s<p<d<fの順に電子が入っていく。次に、水素分子について考えよう。水素原子には1s軌道にひとつの電子が入っている訳だが、2つの水素原子が近づくとき、この軌道が重なり合って、結合性軌道と反結合性軌道を作る。結合性軌道は、1s軌道よりもエネルギーが低く安定している。水素分子はエネルギーの低い結合性軌道に入った電子を接着剤とすることにより、結合しているのだ。
※作者付記: d2/dx2はxによる二階微分、mは電子(一般にマイナスイオンと呼ばれる)の質量、πは円周率とする。参考文献:アトキンス物理化学 東京科学同人
私は海賊に恋をしていた。「さあオヒメサマ、サヨナラの時間だ」 綺麗な目だった。眼球そのものが一つの宝石のようだった。そっと指を伸ばすと反射的にひとみは目蓋に守られ、その宝石にはふれさせないと頑なな意志を顕にした。そのことを惜しむように指先で目蓋のせんを撫ぜるとその人はくすぐったさに身を竦ませた。 潮風が髪を梳き、つんとした潮の香りが漂う。波止場に佇む足元はどこかおぼつかなかった。彼の背の向こう側に見える海では波が寄せては返し、穏やかな音を奏でている。それは海賊を海へと駆り立てる、魅惑の歌声だ。「何を、している?」「宝石に、さわりたくて」「悪いがそれは俺の目だ」「そんなこと知ってるわ」 今度は目隠しをするようにその人の目を両手で覆った。長い前髪が指をくすぐる。たなごころは彼の眼前と世界とをゆるやかに断絶し、暗く染めた。彼は苦笑いをした。これじゃあ何も見えない、と。 私はどうにかうまくことばを発したくて仕方が無かった。一瞬だけ躊躇い、それでもなお彼の世界を覆う掌だけはそのままで。「今日船を出したら沈船するかもしれないわ」「当分は航海日和が続くさ」「セイレーンに会って心を奪われてしまったら?」「美しい歌声は一度拝聴してみたいものだな」「そうなれば、きっと死んでしまうのに」 私は僅かに手の力を緩めた。指の間から彼の瞳が覗き、射抜くような視線が、あのいつもと変わらぬ笑みへと変化する。「海賊は海で死ぬもんだ」 その人は目の前を覆う掌を優しく掴み、退けた。宝石の目の中には私が映っている。私は睨むようにその人を見つめた。「またこの街に来てくれる?」「勿論」「嘘じゃないわね」「神に誓って」「本当に?」「本当に」 私はその人が神などこれっぽっちも信じていないことを知っていた。彼の言う本当が本当ではないことも。ゆるく胸を押し返し距離をとった。潮風がその人と私の間を吹きぬけた。「絶対よ」「ああ、絶対に」「また会いましょう。海賊さん」「次の逢瀬を楽しみにしていなよ。オヒメサマ」 その人は私に背を向けた。隙間を吹き抜ける潮風は冷ややかさを増し、私をひどく寒がらせる。けれども水平線の向こうの朝日は泣きたくなる程に美しく眩しかった。 春の始まりの日とされる今日は、この街を救った義賊気取りの海賊達の出航の日だった。多くの人が港に集まり、その姿を見送った。 私は波の向こうに消えた海賊に恋をしていた。
昔、飛騨の山奥に狼と交わった女がいたと云う――。 夜窓に映る月が、我を睨んでいた。 半月の弦を少し引いた月。あれは何月と云うのだろうか? 生を受けて一年。まるで人を睨め付けるよう浮かぶ主の名を、我は知らぬ。 知りうるは、月が精美な円を描く時、我は男となる事。 そして――。「ロウ?」 我の尖った耳が反射的に脈動し、女の声を捉えた。首だけを動かし振り返ると、女が寝たままの姿勢で我を見ている。薄地の着物に、我が拾ってきた襤褸を蒲団代わりにし、囲炉裏の火に炙られるように女は横になっていた。山の頂がすでに雪が被り、木枯らしが薄い窓を叩く季節。女には堪えるだろう。実際、熱病にかかっている。 女は「ハナ」と名乗った。 三日月の晩。街道から外れた獣道で倒れていた。細く、白く、若い女。恐らく二十にも届くまい。 最初は喰ろうてやろうと思ったが、我の姿を認めたハナは。「食べても美味しくないかもしれないけど……。それでもいいなら――」 と細腕を伸ばし――笑む。瞬間、気が殺がれた。そしてハナを住処である雪小屋まで引きずっていた。「何を見ているの?」 ハナは云った。「月を……見ていた」 我は答え、月に視線を戻す。 人語を話した時、ハナは驚かなかった。詮索しようともしなかった。ただ賢い「狼」だと我の頭を二回撫でた。冷たい手。爪とも舌とも、毛先が触れ合う感触とも違う。体が火照る。擽ったい。 我はいつの間にかハナを受け入れていった。同時に怖くなった。「ハナ、大事な話がある」 我はすべてを明かした。 我が人と狼の間に生まれた特異な存在である事。普段、狼の体と人の心を宿し、満月が近づくと反転する。つまり人の形を成した獣となる事。「そして――ハナを喰らうだろう」 山を降りて欲しい、我は懇願した。 ハナは僅かに首を振り。「あなたの人間となった姿、見てみたいわ」 と微笑んだ。強がっている訳ではない。気丈とも違う。一向優しく、暖かく、我を包むような安らかさを感じた。「ロウ……こっちへ」 辛うじて上半身を起こし、ハナは腕を広げた。我は躊躇うことなく彼女の胸に飛び込む。ハナは我の首に手を回し抱き留めた。 そして、ごめんなさいと云って、ハナは涙を流した。 女、一子を生み、ロウと名付ける。 体は狼。人語を解す。 然し、満月の夜。人と成り、人を喰らう。 子、山中に捨て、女、里から消ゆ。 里人噂をす。 即ち子母喰らうと。
思い切って、鯉のぼりを処分することにした。 今から二十年前、長男が生まれたときに初節句のお祝いとして買ったものだ。けれども今回めでたく新築マンションを買い、もう大きな鯉のぼりを飾るスペースもなくなってしまった。 いざ処分するとなると、心の奥に迷いが生じた。こうやって箱を開けてあらためて鯉のぼりを眺めていると、息子がまだ小さかった頃の思い出が鮮やかに頭の中を駆け巡った。「……そうだ!」 私は手に持っていた鯉のぼりを床に置いて立ち上がり、台所へと向かった。「あった、あった」 一週間ほど前、我が借家の小さな庭でご近所の方々とバーベキューをした。そのときに焼いたホタテの貝殻を「何かのときのために」と、洗ってとっておいたのだ。 長年、息子の成長を見守ってくれた大切な鯉のぼりだ。このまま手放してしまうのは、あまりにも惜しい。そこで私は少女の頃からのとある願望を、今この場で叶えようと心に決めた。 玄関の鍵が閉まっていることを確認し、外から見えないようにカーテンを閉める。私は着ていたトレーナーを脱ぎ、ブラジャーをはずした。そしてそのまま洗面所に行き、伸び放題になっていた脇の毛を剃った。「これでよし! 次は貝殻だわ」 セロテープを輪っかにして両面テープを作り、二枚のホタテの貝殻をそれぞれの乳房に貼り付けた。「あぁん……冷たいっ」 おっと、感じている場合ではない。今度はカメラの準備だ。私は息子の部屋からデジカメを拝借し、テーブルの上に置いた。何度も微調整を加えながら、セルフポートレートを撮るための準備を進めた。 そして、ついにこの時がきた。 私は履いていたジーンズを脱ぎ捨てると、床の上に置いたままになっていた黒い真鯉を手に取った。そして大きく開いた鯉の口に、自分の下半身を滑り込ませた。余った生地は腰のところで何重にも折り曲げて、ベルトで固定した。「で、できた……!」 うっとり陶酔してばかりもいられない。息子が戻らないうちに、この艶姿を写真に収めておかなくては。私は鯉のぼりを履いたまま、カメラのある場所へと小走りに進んだ。 そのとき玄関の鍵を開ける音がした。息子だ。どういうわけか、いつもより早い時間に息子が帰宅したのだ。私はパニックに陥った。「何だよ、その格好……」 思いがけない私の姿を見て、息子が絶句している。私はデジカメを持ったまま、息子の問いに精一杯の笑顔で答えた。「に、人魚姫」
「今度の発明は何だね、出鱈目博士」「これです」 と言って、出鱈目博士がスポンサーの前に突き出したのは、一振のナイフである。「このナイフはすごいですよ。見てください」 机の上に金属板がある。出鱈目博士はその板にナイフを突き刺した。すると、まるで豆腐でも切るように、するするとナイフが動いた。そして、その軌跡がそのまま切れ目となって、金属板が二つに割けた。「なんて凄い切れ味だ。なんでも簡単に切れるんだね」「いや、実はですね」 と、出鱈目博士はばつの悪そうな顔をした。「固いものなら、どんな超合金だって簡単に切れるのですが、柔らかいものはいけない」 出鱈目博士は、今度は机の上にプリンを置いて、思い切りナイフを突き刺して見せた。ナイフはぼよよんと跳ね返って、プリンを突き通すことが出来ない。「これはなんとも情けない発明だなあ」「すみません、研究費の無駄遣いでした。この責任は……」 そう言うが早いか、出鱈目博士は手にしたナイフで自分の胸を突いた。「まさか、博士!」「なあんちゃって……」 出鱈目博士は茶目っ気たっぷりに片目をつぶって笑った。「わ、悪い冗談はやめたまえ、博士! 死んだかと思ったじゃないか」「ははは、すみません。この通り、人間の体は柔らかいからこのナイフでは突き通すことは出来ないんですよ。我ながら、なんてくだらない発明だと思います。とほほほ」「ううむ、いや、しかし……」 と、スポンサーは、なぜか真顔になっている。「これは、なかなか面白い発明かもしれん。例えば、時代劇の殺陣の特撮などには利用できるかもしれないぞ。人間は斬れないが、他のものはざっくりと斬れる。きっと他にも実用化の道があるはずだ。ええと……ううん、じっくりと考える事にしよう」 スポンサーの顔が赤みを増してきた。発明を金にする仕事こそ、彼の独壇場だ。「ちょっと拝借……」 出鱈目博士は、ナイフをスポンサーに手渡しながら肩をすくめて見せた。「そうですかねえ、こんなの、あまり役に立たないと思いますが……」 スポンサーは出鱈目博士の真似をして、そのナイフを自分の胸に刺してみた。「あ……」 小さな声を上げたスポンサーの胸から鮮血が飛んだ。「さ、刺さった! 人間は柔らかいはずなのに……」「ま、まさか、あなたの…実用化の決意が……」 スポンサーは倒れながら、最後の一言をやっと口から漏らした。「……とても固かったみたいだ……」
「裕紀! いいかげんに起きろ!」 その怒号で、裕紀は脳内から現実へと引き戻された。 チッ。 裕紀は小さく舌打ちをした。 うざってぇな・・・、森田の野郎・・・。 「授業中だぞ! 起きろ、裕紀!」 再び怒号が飛んでくる。裕紀はしぶしぶ机から顔を上げた。金色に染めた長い髪が揺れる。 「いいか? 俺は今まで、お前みたいな非行生徒を何人も見てきたけどな・・・。みんな卒業した後、殺人を犯すんだよ」 森田は手に持っていた教科書を閉じながら、言った。裕紀は、その重たいまぶたを開けようとしない。 「裕紀。お前はまだ更生できる」 何が更生だ。ばーか。 裕紀はようやく、まぶたをこじ開けた。裕紀の鋭い目は、目の前の中年教師をとらえた・・・はずだった。 しかし、そこにいるのはどう見ても・・・人間ではなかった。 虫だった。 ゆうに1メートルはある虫が、そこにいた。 裕紀は自分の目が信じられなかった。目の前の生物。その外見はまさに・・・ゴキブリそのものだった。 裕紀はその生物を呆然と眺めていたが、やがて我に返り、不安そうに辺りを見回す。その光景に裕紀は、ひっ、と声を漏らした。 驚くほどの、巨大ゴキブリの群れ。・・・・・・どうした、裕紀? 化け物でも見たような顔して・・・・・・ わしゃわしゃ かさかさ 裕紀はイスから転げ落ちた。ゴキブリから逃げるようにして、這っていく。・・・・・・裕紀、どうした? 大丈夫か・・・・・・ わしゃわしゃ かさかさ ゴキブリの大群が近づいてくる。来るな・・・来るな・・・来るな・・・ 足が震えて上手く立てない。必死に足を動かす。 動け! 動けよ! 裕紀は顔を上げた。大群は、もうそこにまで迫っていた。 わしゃわしゃ かさかさ わしゃわしゃ かさかさ わしゃわしゃ かさかさ わしゃわしゃ かさかさ わしゃわしゃ 裕紀の脳内で何かが切れた。 ・・・・・・イスで頭を何回も殴打された森田正道さんは、すぐに救急車で運ばれましたが、まもなく車内で死亡。逮捕された17歳の男子生徒は、多数の薬物反応が確認されており、麻薬を常用していたと見られています。 男子生徒は、虫が、虫がと、うわごとのようにつぶやいており、回復の可能性は極めて低いと・・・・・・
「おばあちゃん、こんにちは!」「おうおう。みっちゃん、来たかい」 孫の溌剌とした声に、妙子は望遠モードを解除してまだ小さな道子を視界いっぱいに収めた。「みっちゃんは元気にしてたかい?」 無機質な電子音ではない、流行りの声優にアフレコさせたオーダーメイド物の音声だ。高い買い物だったが、可愛い孫と楽しく話すためだ。痛くも痒くもない。「うん、元気だよ。おばあちゃんも元気そうね」「元気だとも、元気だとも。この前まではオイルが合わなくって指がギシギシって困ってたんだけど、みっちゃんのプレゼントしてくれた高級オイルのおかげで、ほら、この通りさ」 妙子は黒い合成樹脂に覆われた複球動力式マニピュレーターとCFRP製の腕のつなぎ目をきゅるきゅる動かしてみせた。「ほんとだ、あたしとおんなじ!」 妙子の真似をして、道子も手首を右に左にぐるぐる回す。「――それでね、みっちゃん」 孫の笑顔をメモリに保存すると、妙子は音声を低めて言った。「みっちゃんのパパとママ、今ちょっとお留守にしてるでしょ」「うん」「だから、パパとママが帰ってくるまで、おばあちゃんと一緒に暮らしましょうか」「でも……」 道子は不安そうな顔をする。自分が留守してる間にパパとママが帰ってきたら心配するんじゃ――そう思ったのだ。「大丈夫よ、パパとママにはちゃんと連絡してあるから」「ほんと?」「おばあちゃん、みっちゃんに嘘を吐いたことあったっけ?」「ううん!」 心配事がなくなった道子は大きな笑顔で頷いて、極高張力スチール制の丸っこい胴体前部に抱きついた。妙子も片手――四匹の太い鰻のようなマニピュレーターで孫の背を撫でてやりながら、背面下部の冷却ファンを一鳴きさせる。「さあ、そうと決まったら買物に行かなくちゃ。家にはオイルと冷却材なら腐るほどあるんだけど、みっちゃんが食べれそうなものを買わないと。ああそれから蛍光灯と洗面道具と、あとトイレットペーパーと……買うものがいっぱいあるから、みっちゃんも手伝っておくれよ」「うん。道子、おばあちゃんと買物行くの好きだよ」「そうかい、そうかい。嬉しいねえ」 妙子が搭乗ハッチを開けると道子は嬉々としてコクピットに乗り込む。コクピット内のモニターに外の景色が映しだされ、道子は元気よく叫んだ。「おばあちゃん、発進!」 孫の号令を合図に、四輪のボールタイヤはじつになめらかな加速で車道を走り出したのだった。
歪んだ愛情だけが僕を支配して、脳に浮かぶのは彼女の傷付く姿。触れる度に滅茶苦茶にして殺してしまいたい衝動に駆られ、いつも心の中で懺悔する。正常な感情を持って生まれて来たかった。もし人生がやり直せるのだとしたら、是非とも受精の段階からやり直したいものだ。「 僕 た ち 、 別 れ た 方 が 良 い と 思 う ん だ 」 これは僕の自惚れなどではなく、彼女は間違いなく僕を愛していたので、案の定驚いた顔をして、直ぐにそれは泣きそうな表情になった。何でそんなことを云うの、小さな声が赤い唇から漏れた。何度も触れたその唇には、キスをする度に噛み千切りたい衝動に駆られていた。ねぇ、嘘でしょ、震えたソプラノが部屋に反響する。嘘じゃない、嘘じゃないんだ。繰り返して云ったのは僕自身にも云い聞かせる為に他ならない。( だ っ て 絶 対 、 そ の 方 が 良 い ん だ か ら ) 蛙の腹に爆竹を詰める程度の好奇心なら、少しばかり残酷な子供なら誰しもが持っているだろう。蜻蛉の羽を引っ張って躯を二つに裂いて、出てきたものをシーチキンなどと云って遊ぶような愚かさも。ただその無邪気な悪戯の対象が昆虫や爬虫類や両生類なら赦されるが、哺乳類に移った途端、何故かそれは赦されざる行為へと変化する。可愛がっていた飼い猫の首に包丁を立てたのは、小学校五年生の頃だった。屍は近くの川に投げ捨てた。初めて夢精したのはその晩だった。「 あ た し は あ な た を 愛 し て い る の に 」 そんなの、僕だってそうだよ。でも僕は君を好きだからいつか君を殺してしまうんだ。僕は君に死んで欲しいわけではないから、君を守る為に別れようと考えたんだよ。解ってくれよ、頼むから。泣かないでくれ。嫌いになってくれ、こんな最低な僕のこと。そして正常な感情を持った正常な恋人を見つけて、正常に付き合って、正常に結婚して、正常な家庭を築いてくれ。そこには、正常な子供がいると良い。僕のようでない子供が。「 僕 は 君 の こ と な ん て 、 殺 し た い く ら い 嫌 い だ っ た よ 」 真っ赤な嘘が真実に聴こえるよう、彼女の瞳を見据えた。見る間に眼球が潤んでいき、彼女は嗚咽を噛み殺しながら泣き始めた。大粒の涙が頬を伝う。大好きだから殺したかったんだよ、と本当のことを云ったら、果たして彼女は嬉しがったのだろうか?
和尚様が、小僧さんを連れて、田んぼの中の道を歩いていました。.「――これ妙然、拙僧より先に行く奴があるか」 和尚様は、自分を追い越そうとした小僧さんを呼び止めます。「和尚様が歩くのが遅いので」「遅くかろうと、影を踏まぬよう少し後ろを歩くものだ」「わかりました、和尚様」 しばらくして。「一休みするか」 和尚様が振り向くと、小僧さんがいません。 東西南北どちらを向いてもいません。「はぐれたか? おおいっ、妙然」「はい!」「うわっ」 小僧さんは、和尚様の真後ろの死角にいました。「隠れて師を驚かすとはけしからん奴め!」「和尚様が後ろを歩けと仰られましたので、常に頭の後ろにいようと動いたのです」「……前後ろは、足の向きで考えれば良い。見えなくては、こちらが心配する」「わかりました、和尚様」 そのうちに、川に差し掛かりました。「さて、この辺りで斉とするかな」 和尚様は、川縁の切り株に腰掛け、風呂敷包みを開きます。ところが、入っていた筈のおむすびがなくなっていました。「やや、いつの間に」「はい、お地蔵様の前を通った時に一つ、三本杉の前を通った時に一つ、水たまりを飛び越えた時に一つ、落ちました」「何かを落としたら拾うものだ!」「わかりました、和尚様」 和尚様と小僧さんは、また歩き始めます。 少し歩いたところで、後ろから馬を曳いた男がやって来ました。「おんや、和尚様」「おお、吾六さんではないか」「ねえ和尚様」「これ、妙然」 和尚様は小僧さんを睨みます。「他の方とお話をしている時に、割り込んではいけない」「はい、わかりました」「失礼しました、吾六さん。それで、お元気ですかな?」「それが、どうもここのところ――」 小僧さんは、和尚様と男と馬の後ろを歩いていましたが――。 馬が歩きながら、糞をし始めました。「――いやぁ、和尚様にそう言って頂けると、スッキリしました」「いつでもおいでなさい」 話を終え、男は何度もお辞儀をして、先に行ってしまいました。 和尚様がふと振り返ると。「妙然、お前、何を」「和尚様、落ちた物を拾いました」 小僧さんは、山ほど馬糞を抱えていました。「……もういい!」 和尚様は怒鳴って、電話を取り出しました。「あー、もしもし? あんたんとこのロボット、全然使えないぞ、返品だ返――は? 外出用アプリのインストール? いや……そういうのは、確かに、やって、なかった……ですが」
集団検診で妙な機械に入って写真を撮ったら、あとで俺だけ医者に呼ばれた。医者は、何枚かの白黒写真を見せて、指さしながら言った。「これが心臓で、これが膵臓で、こっちが腎臓です」「はあ……」と俺は、何となく相づちを打つ。「これは肝臓ですね。レバーです。で、これは腸なんですね」「そうなんですか」「ええ、そうなんです」医者はにこやかだ。「なんか、問題ですか?」俺は訊いた。医者はにこやかなままで、「いえ。どれもこれも健康そのものですよ」「そりゃ、よかった」「ええ、そうですね」「じゃ、帰ります」俺が立ち上がろうとすると、医者が俺の袖を掴んだ。「帰っちゃダメですよ」俺は椅子に座り直す。医者は白黒写真の一枚を指でさし、「これ、なんですけどね」と言う。俺にしてみたら、これもそれも、ただのまだら模様の白黒写真だ。「妙なモノがね、映ってるんですよ」「どれです?」「これです」医者は、人差し指で円を描いて〈妙なモノ〉を囲む。別に妙でも何でもない。「肝臓じゃないんですか?」「肝臓は、これです」医者は妙なモノの隣りのモノを人差し指でなぞる。「これです。これ肝臓です。そうじゃなくて、こっちです」「肝臓みたいですよね?」「似てますね。でも違います」「じゃあ、何なんですか?」医者が、椅子の背もたれに体を預ける。「そこなんですよ。これ、何なんでしょう?」俺に分かるわけがないので「さあ?」と首を傾げる。医者は、にこやかなまま、身を乗り出す。「これね、こんなの、普通の人間にはナイです」「病気かなんかですか?」「病気というか、生まれつきの何かですよ。たぶん」たぶん?「痛みとかありますか?」俺は自分の腹を撫でながら、「別にどうもないですよ」「そうですか」医者は、にこやかなままでそう言うと、カルテに何やら書き始めた。「取っちゃいますか?」医者はカルテに向かったまま、楽しそうに訊いた。「取る?」俺は聞き返す。医者がペンを止めて、顔を上げる。「そうそう。おなか開けて。簡単ですよ」「けど、なんだか分かんないんですよね?」「分からなくても、開ければ、大抵のものは取れます」「取っちゃっていいんですか?」「いいでしょ。本来はナイものなんだから」「でも無理に取る必要もない?」「ああ、まあ、私は取りたいですけどね」医者はそう言うと、例の白黒写真を手に取って眺め、「取りたいよなあ、これ」と呟く。で、呟きながら、俺の顔をチラチラ見る。
「もしもーし。よう、何やってんの、早く来いよ。せっかく作った料理が冷めちまうだろ…何だか随分うるさいね。今どこにいるの…まだ駅前なの。あっそう、へー…何だって、出動しろ? だって今日バースデー休暇くれるって博士が…怪獣が出た? 全長五十メートルってオイほんとかよ。みんなもこれから集まって見物? まったく物好きな…そー、そー、そーだねー。それこそ、正義の味方の出番だよねー。そのとーりだよ。うん。でもさあ、ちょっと待ってくんない? 今日の準備、結構大変だったんだよね。シチューだって昨日から煮込んでさあ…紙とエンピツ? 集合場所教えるってお前、話聞いてないでしょ。はいはい。時間ないのね。ところで、馬耳東風ってことわざ知ってる? 知らない。あっそう。いーのいーのこっちのこと。…はあ? 五分で来いって? 家から駅まで何キロあると思ってんのよ。バイクだってまだ修理中だってのに…そーだっけじゃないよ。お前に貸したら、俺の目の前で田んぼに突っ込んだじゃない。まだ直んないのよ…あのなあ、貸してくれたアンジェリーナ号って、ありゃあママチャリだろーが。せめてキャサリン号を貸しといてくれよ、原付の。なあ、セミの改造人間がママチャリで歩道を疾走したら、すっげえ目立つんだぜ? バイクだから街の人は何となく黙認してくれるんだよ。何度通報されたことか…は? 油? チェーン? …お前、罪悪感って漢字書ける? 書けない。あっそう。いーのいーのこっちのこと。いいんだよ、もう。それで、巨大怪獣を相手にどーしろってゆーの? 俺ってほら、所詮等身大のヒーローじゃない。…聞こえないよ、うるさくて。随分混雑して………全く、部屋の掃除だって大変だったんだぜ。今日、俺の誕生日祝ってくれるんじゃなかったのかよ。会場も準備も何で全部俺が、…あー聞こえる聞こえる今度は聞こえる。で、何すりゃいいの? ………集合の目印だぁ? ふざけんな。俺を何だと思ってんのよ。シャレで改造人間やってんじゃないんだからね…え? みゆきちゃん? そっちにいるの? 今日用事あって来れないって言ってたんでしょ…ああ、そう。そうね。まあ怪獣なんて珍しいもんだから、しょうがないよね。いいんじゃないの、別に。気にしませんよ。……………おいおいおい、それを早く言ってくれよ。さっすが親友。わかってんじゃん。出るよ出るよ今すぐ出るよ。後でまた電話する。じゃあな」
くだらない映画を見た。 二流作家が書いた原作に二流脚本家が二流の戯曲を書いて、二流演出家は三流監督だった。愛だ勇気だ希望だ夢だなんて、そんな不確かなモノはバブル期が生んだ亡霊だよ。だからもっとゲンジツ見なさいよって。これ見よがしにわかりきってることを押し付けるけど、自称銀幕スターなんてアンタの方がよっぽどヒゲンジツだ。あたしは憤慨した。スクリーンを燃やしてきた。銀幕スターの顔が歪んで、グラサンマッチョの黒人たちがあたしを取り押さえに来る。真後ろでポップコーンを食べてるちょんまげ野郎の頭を土台にひとっ飛び。あたしは逃げた。「マチナサーイ、マチナサーイ」 あたしは犬じゃないので。 脈拍が正常に治まった頃、遠くでウ〜ウ〜鳴るサイレンのけたたましい音が聴こえてきた。消防車も救急車も入り混じって、わんわんにゃあにゃあやかましい。「そこのアナタ、神を信じますか?」 マスクをした修道女があたしに声を掛けてきた。マスクに隠れきらないほど裂けた口がピクピク震えている。どこぞの動物霊にとり憑かれた女が身なりを正している姿は健気で神々しい。でもあたしは神を信じてない。「信じるならば白い壷を、信じぬならば青い壷を」「随分簡潔な霊感商法だね」「はい、そうです」 くだらない映画の中で自称銀幕スターが呟いていた言葉を思い出す。この世は悪鬼の巣食う今地獄。俺は悪鬼の餌食になって、そこかしこの魑魅魍魎に残り滓まで吸い取られちまった。だから俺だって悪鬼になってもかまやしないだろうよ。「いいよ、白いの買ったげる」「どうもどうも。助かります」「いくら?」「え〜っとですね、税込みで三千飛んで二十九円になりますね」「え? じゃ何、定価はニーキュッパなんだ」「まぁそれぐらいが妥当ですから」 よく見ると白い下地に色絵の付いた小清水の立派な陶器のようで、うっとりさえする。霊感商法の壷。修道女の壷。定価ニーキュッパのコシミズの陶器の壷。これは写メで撮っておかなきゃ。 あのくだらない映画を見てから景色が変わった。モノクロームだった風景が色付き始め、目に映るモノすべてが優雅で美しく感じるようになった。いつかまた見たい。どんな強烈なウォッカや老酒や葡萄酒よりも、このくだらない映画の方があたしは酔える。あの自称ナントカの一言一句の方が酔える。酔える。酔える。 あたしは間もなく捕縛され、放火の現行犯で火焙りの刑に処せられた。
帰宅すると、妻はソファーに横になり、息子はその下でゲーム機を操りつつ、娘はその横で携帯電話と戯れつつ、テレビを観ていた。お馴染みの司会者がドギツイ関西弁を捲し立てるたび、三人揃って失笑していた。 俺は鞄の中から買ったばかりのリモコンを取り出した。「……各社の機器を包括的に操作出来る便利なリモコンがあるんですよ。ダラダラ流れるテレビ番組もつけっ放しの暖房機もピピッと操作して『俺は、スポーツニュースを観る。暖房控え目。メシと酒の用意をしろ』と宣言すれば、父親の復権間違いなし。課長の家長としての威厳が甦りますよ。会社でカチョー、家でもカチョー。ガハハハハ……」 数日前の居酒屋での課員の駄洒落を信じて、駅前の電気店でそのリモコンを買い求めた。「この機種、たいへんな人気なんですよ。ホントに便利なんですから。私も家で使ってんの。初期設定がちょっと面倒なんだけど、それはサービスでやっときますから。ここがね、街の電気屋さんの良いとこ。量販店とは違うんだから」 そう言うと店主は、裏蓋を開けてチマチマと設定を始めた。「テレビとかビデオとかのメーカーを教えてくださいな。あと、暖房機と炊飯器と電子レンジ、セコムとかもセットしておきますから……」 新品のリモコンをテレビ画面に向け、ピッとチャンネル操作ボタンを押した。 突如、画面に現れたキャピキャピ女子アナに驚いて、家族が振り向いた。「お、俺は『すぽると!』を観たい……いや、観るぞ。子供は早く寝ろ。すぐにメシの仕度をしろ」 しかし、妻は俺の復権宣言を無視して、腹の下からリモコンを取り出し、ピッとチャンネルを戻した。 俺も負けずにピッと「すぽると!」に戻した。 ピッ(妻が関西弁に戻した) ピッ(俺がキャピキャピ女子アナに戻した) ピッ(関西弁) ピッ(キャピ女) ピッ(関西) ピッ(アナ) ピッ(弁)ピッ(穴)ピッ(便)ピッピッ……。 突然、息子が俺のリモコンに飛びかかってきた。反射的に俺は息子にリモコンを向けた。息子はピッと一時停止して倒れた。驚いて泣き出した娘の声をピッと消音し、立ち上がった妻に左ストレートをお見舞いした。「やったぁー」 鼻血を噴出しつつ倒れこむ妻に向かって、キャピキャピ女子アナの嬌声が響く。「勝ったのか」 ガッツポーズを決めようとする俺に、しかし、妻が最後の力を振り絞り、リモコンを向けた。 ピッ その電子音が最後だった。
男は女を愛していた。男は女のために城を建てた。 その城の跡は今、草原だ。何もない草原だ。 その草原に、人々は続々と集まり始めていた。 やぐらが組まれ、椅子が並べられる。 オークションの始まりだ。 老人たちはみな一様にどこかを見つめていた。その供である少年少女たちもまた同じようにどこかを見つめている。 さて、会場に集まった者達の中に、他の客たちとは毛色のちがうのが二組いた。 片方は若い男女の二人組。派手な化粧。香水の匂い。けらけらと笑い、とても楽しそうだ。 もう片方は初老の男。貧乏そうな身なり。 男女はロックスターだ。破滅的な詩を、うっとりするような歌に乗せて歌うのだ。 競りにかけられた品々はその二人組みに次々と落札されていった。全ての物に、彼らは法外な値をつける。凄まじい価値をつける。「それでは、次は皆様のお待ちかねの品物です」 司会の男が告げた。「ご覧ください、天使の羽です」 人々は歓声をあげた。壇上にある曇った色の金属板を組み合わせたようなそれを見て、人々は歓喜した。 ロックスターの男女がすぐに値をつけた。その華奢な背中には、確かにあの天使の羽は似合うことだろう。 しかしロックスターの男女はすぐに抜かれた。 ずっと黙っていたあの初老の男が、狂ったように札束を振り回し、大声で法外な値段を叫んだのだ。 男は博物館の館長だった。彼は私財を投げ売り、博物館の貴重なコレクションも全て売り払い、このオークションに臨んだのだ。 あんなものたちに天使の羽を持っていかれてたまるか。全ての人々に、神の恵みはあるべきだ。 女はすぐに値をつり上げる。競りはこの二組の対決となり、激闘の末、結局は男が勝った。二人組はオークションに飽きてしまったのだった。けらけらと笑いながら、二人は車に品物を押し込んで帰っていった。 男は天使の羽を手に入れた。 全てと引き換えに、男は天使の羽を手に入れた。 あの二人組はその後、すぐに死んだ。ロックやセックスやドラッグを浴びるほどに楽しんだ後、悲劇的な最後を遂げたのだった。つまりはシドとナンシーのように。俺たちに明日は無いのように。安っぽい映画や小説にもなった。 男の博物館は閉鎖された。 それからも世界には色々なことが起こった。様々なことが行われ、そして忘れた。 しかしそれでも、男は未だに生きている。 ビルの真ん中で、天使の羽を抱いて、男は未だに生きている。
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ポケットの聖徳太子。昭和の手触りと言うところだろうか。 案山子のように、可愛い稲穂の中で私は、笑顔を作り、涙を流し、心を動かされ、そして、別れを繰り返してきた。 窓辺の桜にも私を包んでくれる優しさがあるのだ。 木漏れ日と、潮の香りと、水彩の匂い。コソコソ話や笑い声。土に座る感触。みんな私を取り巻いて、すくすく育ち、去っていく。 お母さん? いいえ、それには到底およばないよ。私は単に案山子だもの。でもこうやってみんなの瞳が私を見つめて、何かを語っていて。怒っていたり、笑っていたり、そう、時には夢も見せてくれたよ。こんな小さなみんなが、私をタダの案山子にしなかったのだと。なんだか、ありがとうって言いたいよ。 皺くちゃに、しかし、確かにそれは聖徳太子。 今は私のポケットにしっかりと二つに折り曲げられ、神社の御守りさんと一緒にある。 イザという時なんてやってくるのだろうか? こんなに平和ボケした私に。危機なんて考えられない。でもどこかでちょっとは、イザという時に、と考えている自分が、なんだか可笑しくて。笑っていいのやら、泣いちゃえばいいのやら。 どこかで誰かがこんな私を見つけて、笑い飛ばしてくれたら、喜んでくれたら。 どんなに素晴しいと思えるだろう。どんなに嬉しく感じるだろう。 そしてちゃんと、伝えたかった。 本当の案山子にならずに済んだの。こんな私を迎えに来てくれる人がいるの。 もう自由という綱を捨てて、束縛という少し弱々しいくらいの三角定規に持ち替えるんだ、そんな事も真剣に考えているんだよ、と。 ふぅ。 人の稲穂ばかり可愛がってもいられないよ。本気じゃないけど。 もうこの窓辺の桜も何度見上げた事か。 その度に長いあくびと、ほど良い首の疲れ。なんと穏やかな気分だろうと、手放しに微笑んでいたわ。今日もあまり変わらない気分だけど、今年のそ・れ、は、そ・れ、で良いのではないだろうか。もう、そんな歳ではないんだけどね。 もっと若ければ、それはそれで綺麗な風景画になっているのかもしれない。でも、窓辺で生あくびを写生されても、どうなのっ? て感じだろうね。 たくさんの可愛い稲穂とも、今日でお別れ。 笑い顔、泣き顔、怒り顔。 木漏れ日と、潮の香りと、水彩の匂いに、コソコソ話に、土に座る感触。 私をタダの案山子にしなかったみんなに、そして、この聖徳太子さんに。 言わせてね。ありがとう。
あたしのいいもの見せてあげる。 言うなり彼女は駆け出した。迷わずあとを追った。夜目にも白いうなじが俺を誘う。振り返る切れ長の瞳が、街灯の光を湛えて。 もう少しで手が届く。指をのばすたび、彼女はするりと逃れる。足音ひとつたてない、しなやかな動き。俺のスニーカーだけがドタバタと深夜のアスファルトを蹴ってゆく。 暗い方へ暗い方へ彼女は俺を導いた。気がつくと、そこはさびれた公園だった。錆びたブランコ。蛇口のない水飲み場。見上げる月さえも暗い。 彼女はどこへ行ったのか。周囲を検索する俺に、足元から彼女がささやく。 ここよ。 長い尻尾の先を鍵のように曲げて、俺のふくらはぎを撫でる。 それで、いいものって? 慌てないで、と眼でとがめ、彼女は植え込みに向かって優しくささやいた。立ち枯れた草木をかき分けて、白いものが転がり出る。一匹、二匹、三匹、四匹……。全部で七匹の子猫が俺の足元を跳ね回っている。純粋な三毛の母親に似ず、毛色はいろいろだ。白、鯖白、茶虎、黒ブチ。シャム猫みたいなのまでいる。 父親は何人いるんだ? いや、何匹って言うのか。 あたしにもいろいろあるのよ。 ピンク色の肉球を舐めながら、彼女は言う。 子猫達は退屈していたのか、すぐに遊び始めた。取っ組み合いをするやつ、追いかけっこするやつ、木に登るやつ。 猫って木に登るんだな。 子猫のうちだけね。 すばしっこい茶虎がもう梢の先にまで達している。細い枝が子猫の重みでしなる。子猫は助けを求めて情けない声をあげた。 しようがないわね。 彼女は立ち上がると、ひょろ長い木を一気に駆け上り、子猫のいる梢の下で止まった。そこから先は枝が細すぎて行けないらしい。 おい――。 声をかけようとした瞬間、彼女が前足で梢を叩いた。弾みで枝が大きくしなり、子猫の体は宙に飛んだ。 教科書通りのきれいな放物線を描き、子猫は四本足で見事に着地した。見届けた彼女は木から降りてきて、子猫の顔を舐めてやった。 まるで獅子だな。 なあに、ししって。 息子の顔を舐め終わると、彼女は低く唸って合図した。公園中に散らばっていた子猫達が、我先に植え込みに駆け込んだ。 次の満月の夜、また会いにきて。今度はもっといいもの見せてあげるから。 そう言うと、彼女は植え込みに姿を消した。 蹴散らされた砂を月明かりが白く照らしている。次の満月の夜、俺はまた彼女に会いにゆくんだろう。