Entry1
サーロインステーキ
小笠原寿夫
「一緒になってくれへんか?」
外は、雨。彼は、フロントガラス越しに、助手席に乗る私に向かって、宙空を眺めては、そう言った。
そうは言われてはみたものの、イマイチ実感が湧かなかった。
「え?」
「もう二度と言わへんぞ。」
彼は、そう言うと、夜闇の車のミラーを少し傾け、車のスピードメーターをチラ見した。
「まあ、お前が来ない事は、わかってるんやけどな。」
そのまま、いつもがらんとしているレストランに入り、サーロインステーキを注文した。硬くて切れない悪い肉を使ったメニューに腹を立てながら、それを頬張る彼に、あどけなさを覚えた。
「ええか? 今から大事な事を言う。結婚を突き詰めたら、墓場の事を考えろ。」
ピンとは、来なかったが、これから、亭主になる男の顔を見て、十年先、二十年先の自分たちの並ぶ姿を想像した。
まずは、私がダメになる。
そう思った。だから、目の前にいる男に、何かを伝えようと思った。ワイングラスを片手に舌が回らなかったが、必至で考え、答えを出した。
「ごめんなさい。私よりも先に逝かないで。」
素っ頓狂な答えに、彼は、目を丸くしたが、すぐに素面に戻って、
「当たり前だ。」
と言った。私たちは、レストランを後にし、彼の家に潜り込んだ。簡単なセックスを済ませ、朝、目覚めると、誰もいなかった。
「一緒になってくれへんか?」
その台詞が、耳を素通りした頃、私は、私の中にある、彼の存在を知った。
あのサーロインステーキが、私の胃袋の内部を叩き出した。雨が鳴り止むと、私は、コーヒーを淹れ、涙が乾く間もなく、お父さんに連絡した。
「パパ、私、今、人を殺しました。」
お父さんは、一部始終を聞いた後、
「なんで、コンドームを使わなかった!」
と怒号した。
「お、お父さん、言わないであげて!」
受話器越しに、お母さんの言葉が、聴こえてくる。
「とりあえず、帰って来い!」
お父さんの言葉に、ようやく状況を把握して、私は、彼の車に乗り込んだ。一死はいけない。だけど、殺害は、もっといけない。殺人による罪については、情状の余地がある。
そんな事を思いつつ、私は、急ブレーキを踏んだ。
私は、お母さんになった実感をもう一度だけ、噛みしめ、それを唾で噛み殺した。私は、喜びを堪え、路肩から、国道へとカーブを描くようにハンドルを切った。
ようやく雨が上がり、晴れ間が覗いた頃に、実家に帰ると、その彼が、小さくなり、申し訳なさそうに、座っていた。