本作品は難解な箇所も多いため、参考として『
明治文学新講🔗』(舟橋聖一著)の註解もあわせてご覧ください(別のウィンドウ/タブで開きます)。
今年今月今夜、
星江東に
殞つ、雲昏く雨暗し。たずぬれば我が親愛なる正直正太夫の、
沾わんかな家禽伯、ひょっくり鶴と化しけるなり。
ああ痛ましの殿が身や、
薤露を歌わんか、
蒿里を唱えんか、題目か念仏か、神楽がお好きでトットやくたいなる最期を遂げられたること、重々惜しき限りなり。况んや誰あって碑する者なく、空しく
肝癪玉を呑んで、骨を
日暮里に焼かるるに於いてをや。
魂魄さまよう所、
遺憾尽くるなからん。仰ぎ願わくは佳人才子、その花に
濺ぎその月に
喞つの涙を分けて、これに手向けの水心、いささか弔い給わらば、
渠も兎角は武士の果て、七世の後に於いて、
豈魚心の無しとせんや。
我これを何かに聞く。
勁松は
歳寒に
彰われ、
貞臣は
国危に
見わると。
宣うなり正太夫、
文壇乱れて
糊細工の大家多く、
附焼小説世を惑わすの日、
疾風迅雷我無洒落に出で来たり、一喝一棒大いに
其の辺を騒がせり、これ誠に勁松なり、これ誠に貞臣なり。
されども
窃かに
渠が兜の
裡を
窺えば、学浅く識狭し、内に玲瓏の機智なく、外に花藻の文章なく、つまりがタダの野郎なり、
多寡がひとりの小僧なり。腕強きにあらず、刃鋭きにあらず。七縦八横
薙廻りたりと見ゆるも、実は目指せる大家諸氏の思ったよりも
沈毅にましまし、
豎子何かあらんと目もくれ給わねばなり。その
無名菌の名を
辱うしたるが如きは、ソリャあんまりな間違いのみ、はやまり過ぎたる鑑定のみ。さるにても
頃ろ文壇声なく色なく、醉えるが如く眠れるが如し。正太夫
敵手なきに倦きて、猛虎は伏肉を食わずと称し、遁れて
埴生の小屋にツクネンたり。一日天を仰いで歎じて曰く、俳諧論を誦せんか、新体詩を学ばんか、
寧ろ叡山に登って腹かっさばかんと、何がしが贈れる
善罵剣を撫して五色の息
良久しうしたりしが、しんぞ命もと縋る者もなく、アレ寝なんすかと呼ぶ者もなければ、正太夫の目算ここに齟齬し、忽ち西方に向かって掌を合わせ、これ天地の委形なりと、荘子が夢の
余昧言、
濭然永訣を告げたり。奇と謂うべし。
逝きぬ、正太夫は逝きぬ、十万億里の旅の空、鉄道の設
未だあらず、死出の
山風笠を吹き、三途の
川浪舟を噛む、
苦艱思うもあわれなり、右せんか極楽、左せんか地獄、正太夫の堕つる所いずこなるべき、かつて剣を揮って人を斬れり、さては地獄ならんか、斬りしは人を助けんが
為なり、さては極楽ならんか、何たる因果ぞ正太夫、死んでの後まで問題となる。南無阿彌陀仏妙法蓮華経。
明治二十三年八月二十二日の夜
鐘と撞木のあいが鳴る時
正直正太夫自ら記す