断橋
今月のゲスト:江見水蔭
渡るべきか、渡るまじきか。渡りて何処へ行くと言う目的のあるにあらねど、何となくただ渡りたき心地して、既に早や片足は断橋の板を踏みぬ。されども思い直して急に後に下り、試みに片足を浮かせ、力を込めて橋板を蹴れば、めりめりと音して動ぎぬ。杭の下にありたる小石は山崩れの時に似て、雨の降る如く落ちぬ。下は数十尺の谷底にして、急流岩を弾き、絶壁の岸を打って声は雷に似たり。我は身震いしてなお五六歩引き下りぬ。さてはこの橋上の霜の上に、人の足跡の印してなきは、今日一日誰も渡らざりしならんと思いたる我の想像、全く過まりき。幾歳の前よりか、樵夫牧童の行来を絶ちて、恐らくは狩犬もここを過ぎらざるならん。危かりき、危かりき、僅かに彼の岸と此の岸とをつなぐただ名のみの橋板と共に、我が生命は、絶えて、失せて、先程の小石の如く谷底の渦巻の中に没したるならん。
ここは昔の七湯道、底倉より木賀へ行く者は必ずこの橋を渡りしに、新道開けてよりは、今捨てられたり。万年橋との名を冠らせたるは、かくまでに朽ちよ、これまでに傾けよとての心にはあらざりしならん。世の変遷はなお箱根の山中にも見られる。
我はもはや橋を渡らざるべし。さらば何処にか行かん、道は元来し方の他には、崩れたる崖と崩れたる岸との間を通じて、ただ一つの細道あるのみ。されどもこれは温泉を土管にて引きたるその欠所より噴き出す熱湯の散り敷く木葉を腐らして一種の臭気衣を染むるが故に、進みて行かん事好もしからず。我は留まりて椿の老樹の下に立ちぬ。
ふと見出したるは橋の向うの根方、枯草の中に埋れたる石碑なり。太閤之石風呂何々と刻みたる文字のみ見えて、他は読むべからず。遠く隔ちたるが故か、近寄りても恐らくは苔蒸して知れがたかるべし。
さすればこの蛇骨川の、この土管の源の、小瀑布を成したる岩石の下に、洞の如き滝壺ありて、落下する清泉の飛沫を圧し、湯気炎々と立ち登る処は、豊太閤が小田原攻めの時、浴したりと言う石風呂にやあらん。柳北翁経て之に題し。浴室猶留太閤名。想曾此地建行営。底倉谷裏淙々瀑。似聴当年叱咤声。
我は之を口裏に吟じて、さるにても未練らしく橋の根に進み行きぬ。
突如として枯草の中よりあらわれたる女あり。彼の石碑の傍に立ちて一休みなしぬ。その時彼は此方を見て我ある事を知りぬ。我もまた彼の面を見るを得たり。年の頃は十四五、色白く、髪黒く、愛らしく、美しく、何とも言えぬ神様の如き娘なりき。彼は山芋掘りにとて来りしならん。背に籠を負い手に鎌を持てり。その顔、その姿、わが恋人に似たり。もしやその人にあらぬかと思いき。されどもかの恋人は、去年の冬この世を去りて、今は黄泉の客たり、ここに来る事は決してあらず。
思う内にかの芋掘の少女は、我を背にして彼方の道を急足に歩み行きぬ。こや振返れよと念じき、されども見向きもせざりき。何となく可懐しくて跡より追わんと思いたりき、されどもこの断橋の危きをいかにせん。危さを忘れて踏まんとぞ勇みけるが、またもやばらばらと崩れ出したる小石に驚きて、いと口惜しき心を永くこの景色の中に刻みぬ。