蜻蛉
今月のゲスト:吉江孤雁
秋の空は灰色に曇って風が冷たい。昨夜は稍々遅くまで更かしたので、頭も重い、如何にも気が進まない。でも急に出さなければならない郵便物もあるし、婆やを頼んでやるにしては少し解り難い事もある。だが如何も嫌だな、自分で行きたくは無い。婆さんを呼んで見た。
『婆さん、郵便局へ行って呉れないか』
『ええ、あの、お片付けをしてからでよろしうございましょう』不精無精返事だ。
『いや好い、僕が行こう』ものの十五丁とは無い所だから僕は出掛けて行った。
郵便局はつま先き登りの坂の下だ。路に向って窓が二つ並んで、左の窓際からペンキ塗の壁が三尺ばかり道路の方へ向って付けてある。両方の窓口には人が立っていて近寄れない。暫く立っていると、左方の窓口の学生らしい人が『失礼しました』と会釈をして、其処を去って行った。
僕は其窓際へ寄って、書留小包を頼んで、受取りの出来るのを待って凝乎と立っていた。一二分だったろう。出し抜けに、実際出し抜けにガアッという音がしたと思ったら、何物か僕の頭の上から圧するように落ちて来た。アッと思って見ると、車じゃないか、荷車だ。轅棒が右の肩越しに背後の板壁に衝当っている。気が付くと、膝頭が痛くなる。左の踝が痛くなる。肩から掛けて、右手がぶるぶる震えている。櫛巻の女の顔、半被を来た男の顔、真黒い幾つかの子供の顔が、うようよと周囲一面に群れて目に入る。僕はにたりと笑った。確かに笑ったと覚えている。が、まだ其儘凝乎と立っていた。――すると何人か来て車の轅棒の下をくぐらせて引出して呉れた。
人の群の中を肩へ助けられて郵便局の中に入れられて、暫く休んでいたが、人だかりがして来て耐らない、人車で帰って来た。
車の上で身体じゅうが震える。色々な思が胸に閃めいて過ぐる。――あの車は確かに僕の身を砕くために落ちて来たんだな。それが目的で、僕の一寸の隙をつけ狙っていたんだなと思っていると、不図胸の中へ故郷に居た頃の幼時の様が浮んで来た――稲田の間の細い路だ。垂れ穂が黄になって、葉が路の上に折れ返っている。其処を通って学校へ行く途中だ。鞄を掛けている少さな姿が見えるようだ、不図見ると、稲の葉の上に蜻蛉が一匹止まっている、朝日を受けて羽を伸ばしている。尾の紅い、羽の先には二重の丸の付いた紅蜻蛉と云うやつだ。そっと足を忍ばせて近づいて、右手を伸ばして其片羽を押えた。蜻蛉は一寸ばたばたしたが、それきり止んでしまった。両羽を一緒に押えると足をもがもがさせる。其足を左の小指でつつきながら学校へ持て行った――そんな事が思い出された。私もその蜻蛉だ。吹く風が冷たい。身体が震える。
医師へ寄って繃帯して貰って帰って来た。桜の若木の木立の葉が黄になって散りかかっている。其さきに棕梠が二本立っている、ガラス窓が見える、吉田君の濃い頭髪と確然した輪郭の顔とが見える、見ると急に懐しくなって耐らずに、『吉田君』と縋るように呼んだ。吉田君は何も知らずに窓を開けて笑顔を向けた。