3と8
今月のゲスト:上田広
石子は、頭の悪い尋常二年生である。彼女は3と8との区別にすでに二年も費やして来ているが、まだいっこうに思わしくない。その間の、先生と母の気長な、説明の反復も遂に無益に終わっていた。
石子はこれまでに、算術のノートを三冊も買って貰った。勿論その算術帳には、小さな人形、ビスケットのような数字が、いちめんに、どの頁にも書かれてある。けれども、その殆んど大半は3と8とで尽くされ、それも、石子の筆蹟らしいものは一字もなく、たいてい先生かさもなければ石子の母が、幾度も繰り返して書いて見せたものであった。
石子は学校で「なんで八釜しい先生なんでしょう」と考えながら、3と8とをうらめしげに見詰めるだけの、せめてもの勉強が習慣になっていた。母の前で石子は、やっぱり解らない3と8とを毎晩、見栄にでも睨んでいなければならなかった。
「8を書いてごらん、石ちゃん」
と母が言った。石子はニヤと笑って、しんの長い鉛筆で怪しい3を書きつけた。
「あら、またよ。ではこんどは3の字を書いてごらん。石ちゃん」
石子は一寸躊躇っていたが、やがてその脇へ、8の字を書き並べた。
「まあ、お上手だこと。だけどそれは石ちゃん8の字よ」
「いいえ、3の字よ」
「いえ8よこれは、こっちが3なの。石ちゃんは反対に覚えているのね」
「ちがうわよ」
「そんなことありません」
「だって母ちゃん、先生がこう教えたんですもの」
「まあ、剛情な児」
母は石子の鉛筆を取って、初めから3と8との正確な区別を記憶させるために、お腹の空くほどお喋りをした。すると石子は眠そうに目を擦り始めた。そして母は、いつも叱る気力さえなくしているのが常であった。
石子は3と8との混淆から日常生活の煩わしさを体得した。しかし先生も母も、もうすっかり呆れ果てて「いまに覚えるだろう」ということにして置いた。
そして尋常二年生の発育は目覚ましかった。
ある朝、石子は「算術帳を買うんだから」と言って、母に十銭をせがんだ。
「算術帳ですって?」
母はだいぶながいこと買って与えないノートに気がつくと、微笑しげにそう問い返した。
「もう書くとこないの?」
「ええ」
「随分早いのね」
「そ」
「母ちゃんに見せてごらん。石ちゃん。母ちゃんが見て、ほんとになかったら買ってあげるわ」
「いや」
「どうして?」
「どうしてもいや」
「それじゃいけないわ」
「それより母ちゃん、いいから買ってよ」
「買ってあげるからさ」
「いやよ」
「では」
「いやよ。いやよ」
「ではまだ書くとこが残ってるんでしょう。この頃母ちゃんは、石ちゃんの算術帳なんか使っちゃいないんですもの」
石子は蟹のように跼んで泣き出した。母は無理矢理に石子の手からカバンを剥ぎ奪ろうとした。たちまち、石子は泣き出した。
「母ちゃん! 母ちゃんてば」
石子は母にしがみついた。しかしその時の母は、石子に些しの容赦も持たなかった。石子は最後までさからった。
やがて、勝利は母に帰した。
「いいわ母ちゃん。いいわ。いいわよ。母ちゃんはなんにも知らないくせに」
母は驚いた。
「まあ石ちゃん」
算術帳は3と8とで洪水のように埋まっていた。始めの頁から終わりの頁まで、ぎっしりと一字の隙もなく、次第に、石子の筆蹟で、その進歩を明らかに現していた。
石子は再びわあッと泣き出した。
だがその夜石子は、又も3と8との問題で母の試験に落第した。
(一九二九・五・一八)