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四五人に月落ちかかるをどりかな
サヌキマオ
役河原で四五人で踊っていると、はるか上空で浮いていた月が落ちてきた。みるみるその姿を大きゅうして近寄ってくる月にその場にいた人はみな内心腰を抜かしたが、さほどの殺気を感じないのが解ると、不安を感じながらも踊り続けた。
四五人、ということは、少なくとも四人はいたということで、何を踊っていたかと云えば、踊念仏のようなものであり、みな様々の宗派の聖だった。教師としての修行は断念したが、仏に縋る気持ちはまだ持ち続けていた。いろいろの事情はあって、それぞれが別々に口を動かしている。南無阿弥陀佛を唱えるもの、おんあぼきゃべいろしゃのと光明真言を口にするもの、オンコロコロと薬師如来を信仰するもの、それぞれであった。それぞれが口にするものに合わせて手を揺らし足を上げては地に下ろす。
もう明け方に近かった。月は何をしているかというと、この奇妙な数人を眺めているようにも見える。もしくは、人々を尻にどこか遠くを眺めているようにも見える。そしてこれだけ近いと、月のうさぎに見える模様も明らかだった。これは遠目に見ればこそ「うさぎに見える」という手合のものだというのがわかる。
月の落ちかかったのにそれぞれがそれなりに驚いてはいたが、念仏を、声明を止めてはならぬという不文律があった。動きを止めてはならぬという信心があった。これはいかなる力によるものか、阿弥陀様のいたづらか、辯天様の気まぐれか。みな一様に見て見ぬふりをして頭上の月を気にしていた。あたりは真昼のように明るくなった。しかし、仏典のどこにも「月が落ちてくる」という文句はなかったような気がする。「月かげのいたらぬさとはなけれどもながむる人のこころにぞすむ」とは法然だったとは思うが、それにしても、月のほうから出向いてくるとはどこも教えてくれなかった。月はゆっくりと、しかし確実に落ちてきている――そうか、そうだったのだ。これが悟りに違いない。聖たちの動きはてんでバラバラだったが。不意に浮かべた表情はみな同じだった。これが真理か。これが、真理なのか?
月は地表をひと撫でするとまた虚空に帰っていった。ぐちゃりと潰れて野犬に食われる聖、風に乗ってひらひらと飛んでいく聖、失禁し陶然として痙攣する聖、翼を生やして天へ登っていく聖、いろいろいた。それぞれいた。一晩中各地の音頭を流し続けていたラジカセだけが、明け方の河原に七回目の真室川音頭を流し始めた。