Entry1
舟を漕ぐ
サヌキマオ
舟を漕いでいる。おそらく中学生あたりが最後なので、およそ三十年ぶりに櫂を握っている。
漕ぐというと難しいが、要は水の抵抗を利用して進めばいいのである。それを漕ぐというのだが、両の手に代わって櫂で水を押す感覚が懐かしい。水は水で無いようで、というと違和感があるが、普段飲んでいるような水よりももっと粘度の高いようすで櫂からの圧を受け止めている。腐臭のする真黒な水だ。水の黒を染める霧の中だ。岸から水面に突き出した長い葉は、陰鬱さとは無関係につやつやしている。水の上下もない沼の中、モノクロームに目に映る小島小島の間を縫って進んでいくと、まもなくじっとりと雨が降り始めた。
えんふぇんほれは半ば闇の沼の中で独り光っている。光っていると沼の魚が鳥が、ともすると猫が襲ってくる、襲ってくるとえんふぇんほれは進んできゃつらの口の中に飛び込んでいき、腔内で爆発する。わけもわからず巻き込まれ、ばらばらになった生き物だった肉塊をちびちび食って生き永らえている。悪辣であった、というのは人間特有の感想だろうか。しかし、いやなはづだ。どんな生き物も自分が死ぬと思っていないときに死ぬのはいやなはづだ。沼に棲む獲物以外の生き物にとっては食い物を食べやすくしてくれるいいやつだと思われているかもしれない。ずっと辺りに籠もっている腐臭は骸が分解される過程かもしれない。
えんふぇんほれの漁師は金網でできた袋を持っている。袋の口にはむぐろの頭を模したハリボテがついていて、これをけしかけることでえんふぇんほれがむぐろの口の中に飛び込んでくる算段だ。えんふぇんほれが爆発しても金網は破壊されチュドーン。爆発があった。近くだ。狩りに成功したのはえんふぇんほれだろうか、人間だろうか――舟は爆発の衝撃のあった方へ近づいていく。コントラストの高い白黒の遠景にふたつ、雨で烟ってぼんやりとした明かりがふたつ見えた。別々に遠ざかっていくことからすると、きっと人間を恐れて逃げているのに違いなかった。人間は――いた。すっかり目がグレースケールに慣れているところに、うつ伏せに倒れた人間のうっすらと革の茶色が浮かび上がって見える。革を着ていれば爆発の衝撃には耐えられるということだが、例の仕掛けを握った手首はあらぬ方向にぽっきりと折れている。金網の中には黒い塊が――えんふぇんほれであろう。がたがたと中で暴れるのを横目に、おれは先を急いだ。