線路
今月のゲスト:田山花袋
一
停車場を出てまだいくらも来ないのに、汽車はふと軽い動揺を感じて、俄かにしかし緩やかに停車した。非常汽笛が鳴った。
『オヤ』
『どうした』
乗客は互いに顔を見合わした。車窓から首を出したものもあった。『誰か轢かれたかな?』こう言って窓の方に立って行く人達もあった。それはちょうど町外れと言ったような、汚い低い家屋の両側に並んだところで、色の褪せた襁褓などが懸けつらねられてあるのが其処から見えて居た。トタン張の長い塀には大きな広告などが書いてあった。道路と線路とを仕切った処には、背の低い枳殻の垣が勢いよく新しい芽を伸ばして居た。向こうの方には敷いたように一面に草の青々とした広場が見えた。
二
『子供が轢かれた!』
誰言うとなく、そうした声が車内から車内へと伝えられて来た。一二分経った後には、群集が彼方此方より集まってきた。汽車から下りてわざわざ走って見に行く人達もあった。向こうの広場の柵を越えて、酒屋の御用聞きらしい男が此方へ飛んで来たが、子供の二三人立っているところへ来て、何か強いて聞くような形をして、そのまま汽車の傍へと寄って行った。
後から後へと人々が続いた。
一人の巡査は剣を左の手で持って慌てて走って来て、叱咤するようにして群集の中に入って行った。
車内の空気はどことなく騒々しかった。乗客達はみな顔を曇らせて居た。轢かれたのが子供だというだけに一層心を動かされたようにも見えた。『どうしてまあそんな処に子供が出ていたんでしょうねえ』こう言った三十七、八のコートを来た女は傍に七歳になる位の可愛い女の児を伴れて居た。
『そんな処に出しておく親の不注意さねえ、まあ』
こういう声も聞こえた。
『幾歳くらい? 五歳? まあ五歳くらいですって。それじゃまだ何にも知らない可愛い盛りですのに……。誰か一緒に来たんでしょうにねえ?』
『それ、其処にいるのが伴侶ですと』
こう右側に居た男に教えられて、女達はその青々とした広場を前にした群集に取り巻かれて居る三人の児を見た。七歳から十歳くらいまでの年格好で、一番年上なのは、髪をお煙草盆に結って、赤いメリンスの前垂をしていた。
その女の児は始めは何かいろいろと口を利いたり、指さして教えたりしていたが、その幼い眼に映った事件の何事であるかに俄かに思い附いたように、やがて袖を顔に当てて泣き出した。
三
汽車は静かに動き出した。
列車の左側の処からは、乗客の顔が幾重にも重なり合って見えた。
汽車は静かに、静かに……。
一番先に見えたのは灰色に濁った汚い掘割の水であった。其処には泥を満載した舟が一艘繋いであった。その掘割に架けた橋を渡る汽車の音がちょっと耳立って聞こえたが、やがて線路と掘割とに接して、小さいスロープになった草の生えた処が見えた。緑色の草……散らばった花束……紅い血……足も手も離れ離れになった小さな紅い塊……巡査の長剣……群集……。
四
『まあ、厭だ!』
こう言って顔を両手で覆って長い間じっとしている女もあった。
『まあなんていう汽車に乗り合わしたんでしょうねえ!』
『どんなでしょう? 親は?』
そうした声が轟々とした汽車の音に交じって聞こえた。
『なぜ、私は見たんでしょう。見なければよかった。嫌ですわねえ!』
若い娘は辛そうにして言った。
車中にあるとある女達は恐ろしい運命の迫害から辛うじて遁れて来たようにほっとしていた。家に置いて来たその同じ年頃の子供たちを思わない母親はなかった。現にそうした子供を伴れて旅をしている人達は、しっかりとその子をその身の傍から離さぬようにしていた。
『本当に油断がなりはしませんわねえ』
『人ごとと思えませんわねえ』
こうした言葉が絶えず繰り返された。
『線路の中に入って居たんですかねえ。どうしてまあ、そんな処に来て遊んで居たんでしょう。花を取りに入っていたんですってねえ……。五つや六つではまだあぶないなんていうことは知りませんからねえ』
汽車が二つ三つの停車場を通り越しても、その話は容易に尽きようともしなかった。その紅い小さい塊は長い間はっきりと人々の眼の前にあった。
五
汽車の通って行く両側には、田舎の衰えた町があったり、一八の咲く茅葺屋根があったり、高い処に新たに建築された立派な別荘があったりした。
新しく乗って来た人々を捉えて好奇に、『この汽車は今、五歳くらいな子供を轢いて来たんですぜ』などと話して聞かせる人たちもあった。新しく乗って来た客は、厭な汽車に乗り合わせたもんだという顔をして、しかもめずらしそうにその話を聞いた。「まあ可哀想にねえ』女の客はやはりこう同情した。せっかく遠ざかった光景がまた新たに繰り返して話された。
でも汽車が海岸に近い松の多い処を駛って行く頃には、同じ年頃の女の児をつれた細君も、今まで抱いて膝から離さなかったその児を窓の方に座らせて、夏蜜柑を包みの中から出して、皮を綺麗に丹念に剥き取って、一片ずつ子供の口に入れてやっていた。十一、二になるお下げの娘はわざわざ窓の処に行って遠く光る海の色などを見ていた。
『まあ、ようやく下りられる。何かまた事がなけりゃ好いと思って、それゃどんなに心配したか知れやしないのよ。一度あることはきっと二度あるものですからね。……厭な汽車、厭な汽車!』子供の屍を見た時、両手で顔を覆った中年の女は、こう言って網の上から信玄袋を下ろして、そして松原の中の停車場から下りて行った。その停車場の小さい花壇には、紅い石竹が見事に咲いていた。
新しい客が段々多くなって来た。子供の轢かれた話を繰返し繰返し話した男ももうどこかで下りて行っていた。新しい人たちはやがて新しい話を題目にして笑ったり何かした。