猟奇者と浪さん
今月のゲスト:添田唖蝉坊
「浅草公園にヒッパリが出るというが、一体どこへ出るんだい。俺は一度もぶつかったことはない」
まるで抗議のような問いに遭うことが時々ある。冗談じゃない、淫売が出たって、出なくたって、オレのせいじゃあるまいし――とやりかえしたくなる。先頃弘前から上京した友人がやはりその伝だ。ひょうたん池の裏の暗いロハベンチに、十二時過ぎまで腰かけていたが、ついに出現しませんでした、というていた。もっともである。ヒッパリ君のお眼鏡にかなわぬ程の者の前には永遠に出現しないという理屈になる。
目の前を「彼女」が過ぎっても気が付かないようなボンクラとは、まるッ切り世界を異にした「悲しい国の住人たち」だからである。
おおかた彼は、妖艶な女が、水々と化粧した顔に新しい手拭でも冠って出て来ると思っていたのだろう。が、これはお芝居ではない。埃まみれではあるが、生々しい「生活」なのである。
遊戯ではない。生活争闘なのだ。
池のフチの暗がりを遊歩する「悲しい女」たちの中で、最も古い、かつ有名なのは、「浪さん」である。五十三か四の「土手のお金」時代の、今戸の三角公園の頃からの、古顔なのである。
弘前の友人よりはいささか眼の利いた男が、その猟奇趣味から、一夜ひょうたん池のうす闇に探見に来た。東京館の前から、藤棚のある橋の中にくぐり込んで行くと、混凝土の欄干にいる女があるのだ。
橋を渡り切ると、そこに、観相者が、百目蝋燭を握って、客の顔を、左から右から下から、覗き込んでいる。垂れる柳。夕暗のしめった匂い。彼は、百目蝋燭が集めた小さな人の群の後ろに立って、欄干の女をそれとなく見ていたのだ。
と、女はやおら動き出すと、明るい露店の川の方へ歩き出した。彼は慌ててそれを追おうとしたが、ふと自分の脇に、ソレラシキ影を認めたので、追うことを止めて、その方に注意し出した。
その影は、橋の袂まで行くと、またこちらへゆっくりゆっくり戻って来るのだ。今や彼は前面からそれを見ることが出来た。白い顔だ。
うすら汗ばむ初夏というに、それはコートを着ている。旧式な襟巻をしている。そして、二百三高地式な古い束髪を結っているのである。
ソレは、彼の服とすれすれに、今度は池を花屋敷の方へ行き出した。徐行である。最徐行である。彼もゆっくりその後に随って見たが、どうしても早く歩いてしまうのだ。ゆっくり歩くということにも、修練が要るのだと思ったのである。
と、ソレは向こうから来た五十程の禿げた頭と何か話をしはじめた。彼は何を言ってるのか聞きたいと、歩み寄って行ったが、どうも聞きとれないで、通り過ぎた。少し行ってから振り返って見ると、まだ話してる。
その内、その二人は、一間ほどの間隔をおいてまた元の方へ歩き出した。彼も歩を返した。二人はまたちょっと顔を寄せたが、別れて、禿は行ってしまって、ソレだけがまたノロリノロリと動いているのだ。
消防署の方から、巡査がやって来た。ソレはつと「山」の中へ入って行った。巡査は、観相者の輪の外から、
「おい、行け。ここでやってはいけない」
観相者は百目蝋燭の灯を吹き消したが、立ち去ろうとはしなかった。と、
「行け」
巡査のトゲが促した。彼は輪を残して、「山」の中へ入って行った。巡査が去ると、蝋燭の消えた匂いを嗅いでいた残りの輪が、バラバラに歩き出して散ってしまった。
彼はその後ろの、柵の鎖に腰を下ろした。
池の向うのふちには露店がこびりついてその背を見せていた。その表側の明るい人の流れが、空で下駄を鳴らしている。池一つ隔てたここでは、げッそりと陰が沈んでいるのだ。
と、また例の束髪が、山から出て来て、彼の前の路の五六間の長さを、蠢きはじめたのである。また、すれ違った男と、少しの間もつれ合った。が、男のヘンなうす笑いが立ち去って行った。
彼は、もちろん誘われて見るつもりだったのである。何処まで行くか、底まで行きついて見たいと念願していたのだ。しかしソレが何度か彼の前を動いているうちに、ソレの白い顔の夥しい皺を感じて、寒くなってしまったのである。
と、ソレの方でも、彼の前を行ったり来たりしながら、彼の方を観察することを怠ってはいなかったのだ。とうとう彼の方へやって来た。彼の腰の鎖をつなぐ石柵に来て、細い手を出してつかまった時、彼は戦慄を覚えて、立ち上がると、振り返りもせずに、橋を渡り切って、人の流れの中にまぎれ込んでしまったのである。
翌日彼がその話を私にしたのである。そのソレが「浪さん」なのである。浪さんは常習のソレで、保安でも最早手を焼き切ってしまったというのであった。彼女は昭和座の裏手に住んで、白暮の頃から、池のふちを歩きはじめるのである。
意気投合(?)者を見つけると、彼女の巣へ導くのであるが、わずか五十銭か一円のこの冒険をする者もたえて少なくなって、一夜に一人の客をとり得れば、いい方だ、と不景気を喞っている昨今の浪さんなのであった。