Entry1
やまたのおろち
サヌキマオ
峠を下ると廃村に入った。夏草の勢いがそのまま人間の不在証明である。足元を飛び回るのはバッタかコオロギか、みな同行してくれる。往来の真ん中には半ば朽ちた立て札があって、「やまたのおろち生息地→」と読める。頼りない矢印の先を目で追っていくと赤いジャージの女が立っていたのでぎょっとしてしまった。そもそもこんなところに人がいると思わないし、赤いジャージにひっつめ髪の眼鏡の女だ。顔は疲れて果てているように見えるが、本当はもっと若いのかもしれない。どうするか迷ったが、結局会釈をして通り過ぎようとしたところで「あのっ」と声をかけられた。
八俣遠呂智はまだ生きている。須佐之男に斃されたと思っていたが、眷属は、娘をさし出すという風習はまだ生き残っているのだという。女は界隈では有名な同人作家で、この近辺に住んではすべてを通販でまかなっているということだった。「案外ね、なんとかなるもんなんですよ」と、妙に誇らしげに語る女を見て少し好感が湧く。
昭和の、木目調を施したクーラーがまだ動いている。女の家はかつての地主の建物だったとかで、うねりもあらわな床柱に砂ずりの壁、細かな木彫の欄間はいかにもお大尽の設え。かつては庄屋の大家族が住んでいたのだろう造りにも、今や人はおらず、変なジャージの女が住み着いている。黄ばんだ畳にはAmazonの箱が積み上げられている。壁にはアシダカグモが二匹も張っているが、気にするふうもない。分厚い銘木の座卓にパソコンにペンタブと並べて山と積まれた作画資料。
「従姉が八人いたんですけど、みんな八俣遠呂智に連れて行かれてしまいました」女はその食われた姉妹の従妹にあたる。「きっと田舎が嫌になって出ていったんだろうと思ったんですが、本当に行方が知れなくなって」女は目を合わせずもそもそと早口で喋る。「そろそろ一年になるんですが、もしかして私も」
来るのかもしれないなぁ、と答えた。それ以上会話が続かなかった。辞去することにする。「あの、気にしないでください。生身の人間が本当に久しぶりだったので、私なりに人恋しかったのかもしれません」女は深々と頭を下げる。よく冷えたミネラルウオーターのボトルを三本もらって、ここから三十分も道なりに歩くと県道に出て、五時半に来るバスがあるという。集落を背にすると背後からゴロゴロいう音が低く響いた。雷だろうが、なにが重いものを引きずるような音にも思えてくる。