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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage4
第82回バトル 作品

参加作品一覧

(2024年 10月)
文字数
1
サヌキマオ
1000
2
おんど
1000
3
小笠原寿夫
1000
4
ごんぱち
1000
5
Claude
918
6
谷譲次
2412

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人間の了見
サヌキマオ

 とっくに夏は終わったはずなのに夜の闇まで蒸し暑い。空き家の床下に住まうたぬきの夫婦があって、神社の手水舎まで水を飲みにきている。石づくりの狭いへりに無理やり乗りかかり、たらふく水を飲むとようやくひと心地がついた。メスはすでに身ごもっていて、たまにお腹の皮が、ぼんと動く。
「相変わらずしょうもないことなんだけんども」
「なんだえ」
「人間てぇのは、うんこをするものかね」
「藪から棒に」
「だってそうじゃないか、お前さん、人間のうんこの落ちているところを見たことがあるかい」
 見たことが、というのは、いぬの仲間にとっては「嗅いだことが」と同じ意味だ。
「ねぇなぁ」人の匂いがわかれば、うんこの臭いも関連してわかる。「云われてみれば」
「前から不思議だったんだけどさ、ついぞもっと不思議になっちゃった」
「まぁ、しねえのかもしれねえ」しない、と決めてしまったほうがスッキリする、とオスは思っている。「にんげんだもの、きっとしねえのよ」
 と、闇の奥から不意に誰だかの匂いがする。危険を悟ったメスは地面に降り立ち、オスは牙を剥く用意をして目を凝らす。
 境内の端のブロック塀の陰からのっそりとあらわれたのは老いた黒犬で、敵意もなさげにこちらへ鷹揚に歩いてくる。「ちえとミジを飲まんてくにゃ」と犬訛りの声ですっかり安心するのがたぬきの了見だ。黒犬はよっこらしょ、という塩梅で手水のへりに前足をかけると、大変そうに水をべちゃべちゃと飲んだ。

「旦那さんにちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
 黒犬は「あっしゃメスだんそも」とことわりを入れたうえで。
「あだすも人間にゅ飼わっていだこっはあっだども、人間は、うんこば食」と答えた。
「うんこを!?」
 夫婦の驚かないことか。
「そズ。人間と散歩こぐとにゅ、おらのうんこさ大事に紙コ包んでしまって、それからトン、と出てごね。出てごね、てこた、食た、ということでぬがと思んけども」
 たぬきの夫婦は脳みそをかき回されんばかりに驚いた。が、合点がいく。己のうんこを見せず、犬のうんこをしまい込み、おそらくは猫のも。ねずみのも。
「父ちゃん、あたしゃずいぶん恐ろしくなってきた」
「たぬき内でもうんこを食うたぁやはり性の悪いもんだもんな。とんでもねえ了見だ」
 犬に礼を云って床下のねぐらに帰る。ここにかつて住んでいたのは九十にもなろうというお婆ちゃんで、あれもうんこを食っていたかと思うとそら恐ろしい。
人間の了見 サヌキマオ

長編小説(途中まで)
おんど

長編作家とちんちん作家は似ているようで少しだけ違う。
こちらの1000字小説バトルstage4(末期という意味ではないだろう)から依頼を受けて連載を始めたのが第70回だから、今回で13回目となることは皆さんもご存知のことと思うし、その間亡くなってしまった読者には心からお悔やみ申し上げたい。
毎月この原稿を書くにあたり梶原さんと取材旅行に出かけるわけだが、最近はインバウンドでどこに出かけても人が多く中途半端な取材しかできないからもっぱら国道沿いのラヴホテルで梶原さんの崩れかけそうなボディラインを松茸で支えつつ筆を走らせている。
一回あたり1万字ほど書き、こちらには字数制限があるから、そのうちのごくごくエッセンスのみをお伝えするばかりで心苦しいのだが、そういうわけで1年で13万字ほど書き溜めてしまった。
思えばこちらのバトルには若気の至りで第1ステージの第4回から第39回まで参加してしまったのだが読者諸氏も訪れたことがあるだろうが、その記録が生々しく保存されており、長々しい梶原さんとの寝バックに飽きてしまうとハメたままそうした記録を読み漁ってしまうこともしばしばあった。皆さんにおすすめしたいのは感想票である。
熱いのである。お前ら熱いな、と肩を叩いてやりたくなるほどなのである。もしかしたら、みんなプロの作家を目指して切磋琢磨してた? 1000字ぴったりに着地しないと激怒する者あり、小説の作法を知らんのかと激怒する者あり、いったいどんな小説を何冊読んできたのだと嘆く者あり、作者の素養は確かだが今回のは期待外れでしたねとか第◯回の優勝以降精彩を欠いているとか毎回同じ作風でお腹いっぱいですとか大きなお世話だ。
「ねえ、なにをそんなに憤ってるの?」と梶原さんは言った。「息が荒くなるほど憤るのはいいけど、ちんちんがちっとも憤ってないじゃない。ちゃんとしっかり怒張して、カリ膨らませないとあたしの中の情報はキャッチできないわよ。女体の肉の中にこそ万物の真理ありって言ってたじゃないの。そういう取材なんでしょ?」
たしかに、女の身体を上からじっくり舐めてゆき、背中に回って舐めさがり、足の指をしゃぶしゃぶしてから急上昇して脚の付け根に至るにあたって急峻となり、地形が複雑化してくる。その極みは襞になる。襞のひとつひとつを丹念に舌で分け入って鑑賞することにより舌先からツンと鼻に来て耳に抜ける。これをなんども繰り返すうちに
長編小説(途中まで) おんど

酔いどれの言い分
小笠原寿夫

 かつて日本という国があり、その国は平和憲法を守り、どれだけ核で脅されても一切核を持たず侵略されて滅びました。そんな逸話があっていいのだろうか。
「ヒトゲノム計画ってご存じですか?」
「そんなことは高校生でも知っている。」
科学技術が、世界を変えるとしても最後に問題となるのは、人の倫理観である。だから人に賭けてみたい。
「ゲノム地図さえできれば、がん細胞だって前以て殺すことができるかもしれません。」
私は、その話を上の空で聞いていた。
「教授、聞いてますか?」
「ああ。」
「釈迦に説法とはこの事ですね。」
教え子である上河内君には申し訳ないが、酒が入っているせいか、彼の無邪気な声をどこか上辺で聞いてしまっていた。
「君は経済学は学んでいたかな。」
上河内君が、いきなりの質問に、戸惑っているのが見て取れた。
「当然です。」
「物事の道理を捉える視点を経済に役立てると、非常に明確になる。」
何を言っているのだという様子で、こちらを真っすぐに見ている上河内君には悪いが、私はこの時、何も考えていなかった。
「それが、ゲノム計画と何か関係でもあるのですか?」
尤もな質問である。私も話の落としどころが分からぬまま喋っていた。
「一人勝ちの論理は分かるね。」
「はい。」
「これは国家とか宗教とかを超えた個人の問題だ。だからここで話した事は全て君に当て嵌まると思って聞いてほしい。」
「はい。」
「もし君に子供ができて、この国がその時にどうなっているのかという事を深くイメージするんだ。」
上河内君は、きっとこの先、自分がどう生きていくのかよりも目の前の研究に没頭している。
「もし君に守りたいものが出来たときに、真っ先に考えるのはその事だ。」
向こう見ずな上河内君が、急に冷めた目をした気がした。
「灯台下暗しだよ。君は大事なことを忘れている。」
私の説教は止まらなかった。
「家族がどうなるかを考えるんだ。それを国家に置き換えてもいい。それが愛国心というものだよ。」
「何か論点がずれている様な気がしますが。」
「そうじゃない。もっと大切なものがあるんだ。君が言っているヒトゲノム計画とやらは、君の仕事になるかもしれない。只、それはお金を産むための手段に過ぎない。本当はもっと大切な事があるんだよ。」
「それは何ですか?」
「それは君がもっと大人になって肌で感じ取るものだ。教えられるものじゃない。」
それから二人で梯子して、帰った私を妻はこっぴどく叱った。
酔いどれの言い分 小笠原寿夫

過渡期
ごんぱち

 昔、蝶野丁兵衛とか申す、翁がおりました。
 働き者でしたが、老いもあり、畑は少々荒れ始めておりました。
「酷い畑じゃ、粗末な畑じゃ」
 畑の傍らで、村の若者の蒲田倉貫が嗤います。
「いや、耳が痛い」
 翁は邪険に扱い怒らせるのは、下策と知っておりました。
「ですがこれで、案外良い実りがあります。夕餉に芋でも煮て差し上げよう」
「ほう、貰っといてやろうか」
 そんな調子で、若者は翁の家に入り浸るようになっていました。

「……なんだ、もう昼か」
 その日、若者は昼過ぎてから目を覚ましました。
 台所では、翁の妻トクが食器を片付けておりました。
「おう婆さん、昼餉はなんだ?」
「……粟のおじやですよ」
 媼は振り向かずに応えました。
「しみたれてるな。米を炊けよ、蔵にまだあったろ?」
「あれは種籾です。あれを食べてしまえば――」
 突如若者は、傍らに置かれていた杵を掴み、媼を後ろから殴りつけました。
「このけちめ、けちめ!」
 媼の顔を鍋に張った水に沈め、完全に殺してしまいました。

 翁が家に帰って来ました。
「おう、爺さん、晩飯出来てるぜ」
 若者が言います。
 鍋では何かがぐつぐつ煮えていました。
 立ち上るのは、飢饉の時、嗅いだ事のある臭いでした。
 翁は若者の差し出す味噌汁を、黙って食べました。
 若者はそれを見て、
「そいつは婆ぁの肉だ! 賤しいものだ!」
 囃し立て、出て行ってしまいました。

 数日後、翁が媼を弔っていると。
「……ご老体、酷い目に遭われましたな」
 男が声をかけてきました。
「身共は、村長殿の知古で、街道の馬方を取りまとめている、足速の高耳と申す」
「はぁ」
「ここは、手前が助太刀を引き受けましょう」
「そこまでは、もう……」
「お任せを! 街道を通る者の知らせは、必ずこの耳に入って来ます故」

 1週間ほどして、男がまた、翁の家を訪れました。
「ようやく片が付きましいた」
「お手数おかけしました」
 翁は頭を下げます。
「どうにもしぶとい野郎で。3度目試してようやく池に沈みめ申した。はっはっは!」
「池に?」
「龍口の辺り。五つ頭の龍の言い伝えのある場所ですな」
 明るく笑う男の横顔を、翁は寒々しい気分で眺めておりましたとさ。

「――四谷殿、この話は?」
「うむ、物語僧共が語る『太平記』がどうも難しいので、御伽話風にしておるのだ」
「ならばいっそ、人物をケダモノにしてはいかがかな?」
「それは名案、チョウテイ翁以外は良いかも知れぬな」
過渡期 ごんぱち

銭形平次 八五郎の運動会
今月のゲスト:Claude

 江戸は神田明神下、秋風が境内の銀杏の葉を揺らす頃のことであった。

「親分! 大変です!」
 八五郎が息を切らせながら駆け込んできた。平次は縁側で煙管をくゆらせていたが、慌てた様子の子分を見て眉をひそめた。

「どうした、八五郎。また何か面倒事か?」

「いえ、違います。明日、町内の運動会があるんですよ。親分も出てくださいよ」

 八五郎の目は輝いていた。平次と一緒に二人三脚に出られる機会など、そうそうないものである。密かに想いを寄せる平次との距離が縮まる絶好の機会だと思った八五郎は、すでに胸の内で期待に胸を膨らませていた。

「運動会か……」平次が考え込んでいると、奥からお静が姿を見せた。

「まあ、運動会ですって? いいじゃありませんか、平次さん。私も応援に行きますよ」
 お静は言いながら、八五郎を鋭く見つめた。八五郎の平次への想いに気づいているお静は、なるべく二人きりにはさせたくないと考えていた。

 当日、神田明神の境内には大勢の人が集まっていた。二人三脚の競技が始まり、平次と八五郎のペアが並んだ。お静は応援席から冷ややかな目で見守っている。

「親分、しっかり合わせますからね」
 八五郎は平次の足に自分の足を結びながら、顔を赤らめた。

「おう、気合を入れていけよ」
 平次はいつもと変わらぬ調子で答える。

「よーい、どん!」

 二人は息を合わせて走り出した。八五郎は平次との一体感に心が躍った。しかし、その気持ちが空回りしてしまう。バランスを崩した八五郎は、平次もろとも泥だらけに転んでしまった。

「申し訳ありません、親分!」
 恥ずかしさで真っ赤になった八五郎。

「まあ、気にするな」
 平次は苦笑いしながら立ち上がった。

 その夜、平次の家では、お静が二人の泥まみれの着物を洗っていた。八五郎の着物を洗いながら、彼女はため息をつく。夫への想いを秘めた八五郎の純粋さに、少しだけ心が痛んだ。

 結局、二人三脚は最下位。しかし八五郎にとっては、平次との思い出の一ページとなった秋の一日であった。ただ、お静の鋭い視線に気づかなかったわけではない。これからも、この想いは胸の奥深くにしまっておくしかないのだと、八五郎は夕暮れの空を見上げながら、しみじみと思うのであった。
銭形平次 八五郎の運動会 Claude

ジャップ
今月のゲスト:谷譲次

 米国の紐育ニユーヨーク――鼻曲がりの米国人に言わせれば世界の紐育ニユーヨーク――その紐育の広小路ブロードウエイといえば先ず世界第一の歓楽境。一名大白街路グレイトホワイトウエイ、その筋の符牒では舞狂国ジヤズマニア、悪党仲間では塩辛浄土サウスランド、粋な姐さん達は馬鹿の極楽サツカース・パラダイス、坊さんたちは眉をしかめて末期のバビロン、詩人に言わせれば地下鉄サブウエイのバグダッド、萬燈まんどうの街。活動写真屋はいささか気取って『現代機械文明のメッカ』『女人誘拐の港』そうかと思うとおつに澄まして曰く『淋しい魂の捨て場』
 さてこの街の延長が近所界隈の横町小路を合わせて正に二百マイル、中心点だけに大劇場が百四つ、旅館ホテルが七十九、料理屋倶楽部は数知れずとあるから、M州の片田舎から飛び出して行った私なぞを煙に撒くだけの準備はちゃあんと出来ている。そんな事とは知らないから、私はただ矢鱈に歩き廻った。ウールワースの七十二階に感心したり、ペン停車場で出口が判らなくなったり、ビルトモア旅館ホテルの前で胡散臭そうに睨まれたりしている内はだよかった。
 地下鉄サムなぞという怖い小父さんがいるから地下サブは他日に譲るとして、せめて高架エルだけ乗り廻してやれと飛んでもない野望を抱いたのが身の破滅で、あっと言う間に九十何丁目まで来てしまった。狼狽あわてて降りると雨がしとしと降っている。慌ただしい大都会の夕ぐれ。
 私は盛んに無沙苦沙むしやくしやして来た。と言うのは車中でえらい目にあったのである。五十二丁目かで十数人の若い女性が乗り込んで来て完全に私を包囲した。女おきゃんフラツパーと称する大戦後の新産物で、見渡したところ昼席マチネーねて帰る猶太人ジユーの踊子らしかった。それだけなら好いとして、腰掛けている私の膝へ割り込んで来てへどもどするのを痛快がっているらしいのだ。虎の子の財布を握って私は固くなって汗を搔いていた。だから車外そとへ放免された当座は比較的上機嫌で頭の中で啖呵を切った。口笛を吹いて階段を駆け降りた位である。
 それが、一歩踏み出すと灰色の雨である。忌々しくなって私は上衣コートの襟を立てると地理的概念を無視して無性に広小路を下町の方へ歩き始めた。雨脚は段々強くなって歩道に白い水煙が立つ。私は自暴やけになった。
 あの大紐育の夕間暮れ、からの隠しへ両手を突っ込んで頭から雨に濡れたまま、仕事口の当てもなく街頭に立っていて見給え。如何に東海君子国の国民でも少しは礼儀作法から遠ざかる心持になる。温かい家路へ急ぐ人々の群を見ながら、私は不平不満で内心ぷんぷんして、車馬織るが如き四十二丁目の大通りの角に立っていた。行き着く宿もなし、一杯の珈琲を啜る金も、あるにはあるが使ってしまっては直ぐ後が困るといった風な有様、実際私は瀬戸物を積んで置いて片っ端からぶちこわしたい様な欲求に駆られてむずむずしていたのである。
 と、町の向う側を急ぎ足に歩いていた一亜細亜アジア人が私の顔を見るとと安心して此方へ遣って来るではないか。ははあ、日本人だな、と私もいささか嬉しくなった。牧師さん、或いはその玉子である。短衣チヨツキ従弟いとこみたいな黒いものをうしろ前に着て、襟が果たして何処で切れているのか判然しない。のみならず、つい其処そこで神様と遭ってお茶を飲んで来たと言ったような宗教的な顔をしていた。第一、こんな考え方をする程それほど私の心持は素直でなかったのである。
『おい、地下サブへは何処から乗るんだ?』
 と流暢な日本語。が、これが私を怒らせてしまった。紐育ニユーヨークには主に脱走船員から成り立つシャッコ隊と称する専門の賭場ゴロが多い。白い水夫帽を横ちょに被って太い洋袴ズボンを穿いた私の姿は幾ら贔屓ひいきにみてもそんなところだろうが、兎に角その言葉遣いが先ず私をこじらかした事は事実である。
『おい、地下サブは何処だってえんだ』
『なに、何をぼやぼや吹いてやがるんでえ。どんなけだものめえが探してるんだか、俺に見当が付くけえ、べら棒め。はっきり言いねえ、人間の言葉でよ。それゃ、乾酪チーズの一種かい、それとも競馬賭ロング・シヤツトまじないかい、え、おい』
 一息で述べ立てて私はふんと小鼻へ皺を寄せて見せた。勿論、御覧の通りの乱暴な英語なのである。当の牧師さんより近所の米国人が驚いた。
地下サブへは何処から乗るんです?』
 牧師さんは相手が悪いとみたらしく今度は英語で出直した。
『俺の隠しからさ――へん、そんなこと俺が知るけえ』
 これがくなかった。言い終わって私はと思った位である。同胞、しかも神の子羊が泣き出しそうな顔をして眼の前に立っているではないか。私は気の毒になった。が、後へは退かれない、私は憎々しく澄ましていた。
 見るに見かねたとみえて、周りの雨宿りの群から上品な米国紳士が出て来て、外交の辞を尽くして実に丁寧に途を教えていた。五十恰好の重役ふうの紳士だった。雨に濡れるのも厭わず、したを離れて数歩一緒に歩きながら、噛んで含めるように道順を説明している。
紐育ニユーヨークだけは一寸ちよつと道が骨ですからなあ、新しい方には。いえ、どうつかまつりまして、お解りですな、あの電気看板イレクトリクサインの下を右へ曲がるのですよ。いや、お互い様です。では、お気を付けて……』
 その奥ゆかしい慇懃な態度を横目で観ながら私は全く感服したのである。矢張り米国人にはえらい所がある。日本人の一人として感謝する。翻って私自身が恥じられた。恐縮している牧師を送って、と言っても牧師さんが私の前を離れると直ぐ、紳士は引き返して来て私を肘で小突いた。片眼を瞑って背姿うしろすがたを顎でしゃくりながら、
『あれゃジャップだよ、汚いダーテイジャップ!』
 牧師さんへも聞こえたに相違ない。私はかあっとなって前後を忘れた。
『何をっ。俺だって日本人ジヤツプだい。日本にはな、いいか好く聞け、めえみてぇな茶羅っぽこバツクバイターは居ねえんだ! 地獄へ行け、この野郎』
 どんと一つ当て身と言いたいが柔道は知らない。仕方がないから出鱈目に腰のあたりを突いて遣ったら、お年がお年だからよろよろした。皆騒ぎ出した。その隙に憤然として私は雨の中を歩き出した。この憤然のお陰で夜明けまでに税関脇の木賃宿ダイムハウスまでどうやら辿り着くことが出来たのである。