卓の前
円い
卓のつやつやした上、ウヰスキーの硝子の
小盞を置いて私の秋を味わって居た。
盞を指に捧げるように、
凝っと透明な唇の切れるような色を見入ると、粒くらいな小泡が三ツ固まってこぼれそうな
面に綺麗さ!
私の
瞳は明らかに光ったであろう? 天下に
恁んな美しい強い味のものは無い、茶花がたったよりめでたく、私にウヰスキーの吹けば消える泡玉がうれしい。秋の夜を殺して電灯が煌々と白熱を落としている。
卓の向かいに、女が默って腰掛けている。鼻の
小そう尖った眼の涼しい、
廂髪の顔の蒼白い若い女中が、自分の紫がかった縞の帯ばかり眺めて居る。
君飲み給え、ウヰスキーの壜を
把って私が注ぐ手を押さえ、女はサイダーを奢ってくれと言う。思ったより気の軽い女だ。
サイダーの壜と、ウヰスキーの壜と、電灯の下で関係がなく並んでいる。
元は浅草の女優であると物語った
唇で、稀薄な
曹達水を飲む覚めた青白い女を私は哀れみたくなった。
サイダー二本を呑んだ、
腹の無さそうな女を冷ややかに見て、私は
酒場を出た。
犬
中入りが過ぎた――
余り広くもない浪花節の寄席、ふかした煙草のけぶりが、濁った瓦斯に光る空気に漂っている。
茶碗の触れる音、仲売りの煎餅菓子をかじる音、浪花節の荒々しい刺戟に酔って、やや疲れのみえる
男女の客の顔、危なっかしい安価の歓楽!
ペンコシャンコペンコシャンコ、調子の頗る高い三味線の冴えにつれて、痛快な凛とした節廻しのいい関東節が……いま座長が高座に現れた。
私は、第三人めの女浪花節の時から気がついた、席のズット後ろに、白い
領巻に
深う長い
散髪を
埋める様にして、じッと聴いている
漢が居た。
莨盆が並べある
側だ。
義士伝で、節が絶妙に
入ると、
渠は
面をふいとあげて瓦斯に明るい高座を視た――眼の大きい口の尖った、浪花節の男だ。私は度々かれが
道路を流して歩く姿を見た。
派手な
後幕、羽織袴の無理にもいかつい東京
斯界の
真打、……客の末座に隠れて、薄汚い
服装の大道芸人が居ようとは、知るや知らないでか、ますます美音、秋の夜に冴えて来る関東節の情調………
散髪頭が今は膝とすれずれに沈み被さる様、たとい名は無いにしたところ
渠にも芸術家の
矜りは有ろう? ただ我慢に
面と目を押さえ殺し得ても、両の耳は大きく開いて、はなはだ音響に震えて、パンの敵の妙調をば盗み聞くらしい男の態度? 義士伝の
読物が私をして左様に感ぜさせた。
私の背なを
凭せている柱のまわり、席内の空気に澱みくさった人間の臭いでなく変な
香がする、鼻を横に向けると狭い庭地に一匹の黒犬が居た。芸人の通行口から
這入って来たらしい。
縁端に大きな真黒い首、
腮だけをぬっと
突出して、私の顔を畜生が
眤と視入っている。
黒い金茶の丸い眼から、涙が零れているよう、息もせぬ
風で向いている、動物の
臭気をただよわせながら――。
犬も、秋の夜道の淋しさから、人間の荒々しい安価な歓楽の場所の明るみに
憧れ来たのであろう? 塩煎餅を投げても喰いもしないで、私はこの時人間と同じ情緒が犬の
面に表れたのを、
甫めて見た。
はねの太鼓で寄席が果てた。
私は闇の
路を独り冷たい穴の宿にかえった。