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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage4
第92回バトル 作品

参加作品一覧

(2025年 8月)
文字数
1
サヌキマオ
1000
2
おんど
1000
3
凜々椿
984
4
ごんぱち
1000
5
Grok
1074
6
Humanitext Aozora
1007
7
松村多絵子
1422

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Entry1
セルミージスペン(なんだばかやろう)
サヌキマオ

「兄貴ィ! 今帰ったど!」
 クーラーもないワンルームに弟分と二人暮らし。開け放たれた玄関から八月の路地裏の灼けたアスファルトのにおいが運ばれてくる。
「ご苦労! どうじゃった試験は」
「試験いうか面接じゃて」汗で張り付いたリクルートスーツを体から引き剥がすと、鍛え抜かれた肉体から牡の芳臭が立ち上る。蒸れたボクサーブリーフから見えるような熱気を立てて風呂場に駆け込めば、ようやくの水シャワーに生きた心地がする。
「ほうじゃ、兄貴にも考えてもらいたいんじゃが」シャワーに負けまいと胴間声が響く。
「そんなん上がってからにせいや」素麺が茹で上がる。水道水で手早く冷やすと一ガロンのプロテインのボトルの横に置かれる。
「面接官が『このボールペンを一万円で私に売ってください』云いよるん。ああ、そういうテストじゃ。面接官が持っていたのんを渡されてな」
「面接官たらなんじゃ、男か」
「ほうじゃ」
「どんなよ」
「そこまでではないが、セルフのジムで鍛えてそうな体つきはしとった」
「顔は」
「坊ちゃん刈りいうか、マッシュルームで女に興味がないみたいな顔をして、やることきっちりやってるような顔や」
「ほーん、ほだらお前の趣味でないっちゅうこっちゃな」
「なんじゃ兄貴、妬いとるのか?」
「そんなわけあるかぁ、お前が俺を裏切るとは一ミリも思っとらん」
「焦るな焦るな、わしゃ兄貴のそういうところが可愛いと思っとる」
「止せぇ」
 長いキス。そうめんと交互に飲んでいるプロテインのカカオ味がする。
「ほいで、なんだったかの」
「ボールペンを売る話じゃ……いや、答えは今更どうでもええわい。兄貴だったらどういう答えだったら『納得がいく』かのう?」
「そらお前の売るものだったら一万でも十万でも」
「そういうのはええから……」
  兄貴はしばし頭上を見上げて考えるが思いつく様子もない。玉のような汗が一斉に流れ出してくる。風景が歪む。
「わっからあん……まぁ強いていえば、このペンを一万円で買うてくれたら、あとで二万円差し上げます、っちゅうくらいかのう」
「なるほど、それならば向こうさんは得するしかないからの。売れんわけがないわい。さすが兄貴じゃ」
「なんだったらそれからしらばっくれてもええ……もしも追ってきたら絞め殺す!」
「筋肉で絞め殺す!」
「そこまでだ! 筋肉の悪用は筋肉法で禁じられている!」
 こうしてふたりは逮捕されたわけだが、拘置所の中は涼しくて助かる。
セルミージスペン(なんだばかやろう) サヌキマオ

Entry2
長編小説(途中まで)
おんど

いつものように梶原さんとラヴホテルのサービスタイムで嵌め合ったあと、残酷な日差しのなか国道を歩いていると、梶原さんが目眩がすると言う。
非正規雇用とはいえ市立図書館の司書として血税をいただいている以上、強い日差しのなかを歩いたくらいで「熱中症かも」などと弱音を吐くのは随分と体たらくで納税者に申し訳が立たないし、ベッドの上であんなに潮を吹いたのだから塩分も水分も失われるのは当然だ。
くらくらしている梶原さんの豊かな腰をぐっと抱き寄せよろよろ歩いていると、マイクロバスが急停車して「お乗りなさいよ」と言うのだった。
運転手は穏やかに微笑み、日サロではありえない自然光でじっくり焼いた肌が黒光りしていて全体的に好々爺のオーラを醸し出しつつ眼光だけが国際スパイのように鋭く、梶原さんともどもご厚意に甘えることとした。
マイクロバスには老人たちがみっしり座っており、通路に補助席を出してもらい梶原さんと前後して座るとどこに潜んでいたのか鮮やかなブルーのウインドブレーカーを着た青年が梶原さんの前の補助席に座った。
マイクロバスは動き出した。私は梶原さんの耳元で「非常勤職員とはいえ血税で生きているから一番近い最寄りの駅までで結構ですと前の青年に伝えたらどうなんだい」と囁きながら息を吹きかけた。梶原さんは一瞬腰をびくんと震わせつつ前に座る青年に耳打ちをすると青年は呵呵と笑って振り返り梶原さんと私を見て「ご心配なく」と言った。
青年の振り返った時の角度が尋常ではなく、首の柔軟性が妖怪じみていたし、片目ずつ梶原さんと私の両目を捉えて有無を言わせない。これはよほどの修練、例えば劇団四季の下級団員として浅利慶太に10年ほど鍛えられたようなディープインパクトで梶原さんと私は補助席に釘付けとなった。
程なくしてマイクロバスは公民館の前で停まった。青年が立ち上がり、車内の老人たちに模造紙を広げる。それは投票用紙を拡大コピーしたもので、候補者氏名の欄には太太と黒黒と名前が記されている。
「良いですか、しっかりはっきり〇〇さんの名前を書いてくださいね。もし出口調査員がいたら、絶対に我が党の名前は言わず、賛成党に投票したと言ってください。理由を聞かれたらどんな法案にも賛成するという政策が潔い、何よりオレンジ色がすきだから、と答えておいてください。では行ってらっしゃい。美味しいお弁当をご用意してますよ」
鰻弁当の香りが車内に漂い、
長編小説(途中まで) おんど

Entry3
攝津日記抄
凜々椿

 暮六つより空かき曇り、遠雷北方より轟く。折節、書付を認む。

 見廻りの歸途、堀端にて奇怪の光を見たり。空を裂くがごとき白光、聲もなくして地に墜ち、唯だ土の一部を仄かに燒きしのみ、煙も音もなかりき。その場に足を止め、しばし事の成行を窺ひしが、やがて光の内より、鐡にて造られたる人形のごとき物、姿を現すに至れり。

 其の形、人に似て人にあらず。明らかに此の世の理に背きたる造作にて、甲冑のごとき殼を纏ひ、關節と思しき箇所折れ曲がり、冷たき艶を放ちゐたり。見るに、意識ある體にて、胸のあたりより怪しき聲を時折發し、まことに詞とも音ともつかぬ響を以て、何事かを訴ふる風情なり。

 語通ぜずといへども、その聲のうちにクネ五五六といふ響、繰り返し聞こえしは、我が耳にも明白なり。何某かを求むるものなるは疑ひなく、されど其の意を測り難し。

 しかるにジユンカツなりし語わづかに聞き取りしを以て、ふと思ひ當たる品あり。拙者、常に帯刀の手入れに用ふるべく、鐵砲方より譲られし鯨油の瓶を懐に納めおきしなり。粗製なるも、火繩銃の摺動を滑かにし、銃身の保護に効を奏するとて、異例にて候えども常備の一品なり。

 これを取り出だし、ためらひつつも異形の關節に塗布せしに、しばしありてその動き漸く滑かとなり、節々のこはばり和らぎぬ。完全なる直しには至らざれど、仮初ながらも復せし様子なり。やがてその體、靜かに起き直るに至れり。

 聞くところのクネ五五六なる物は鯨油とは別物なるべし。然れど、かの者それにより命脈の一刻を保ち得たるは、たまたまの僥倖とも申せず。全く以て不可思議の事ながら、我が眼前に現れし事実、記さずんば後悔の種ともなりぬべし。かかる異形、再び現れざるとは申せず。此の一件、後の世の記と為すべく、ここに筆を執るものなり。

寛政八年六月十日 庚申
安部攝津守 記之


 ──この手記は昨年末、県立文書館に勤務するアーキビスト、二宮氏によって発見されたものである。
 内容は奇異を極め、江戸期に未来の文明が出現したらしいという、にわかに信じがたい話である。しかし筆致は真摯かつ詳細であり、捏造の類とは考えにくい。
 特に、『クネ五五六』なる潤滑剤を鋼鉄の異形が所望し、鯨油で代用した記述には興味をそそられる。もしかすると、『クネ』とは安部氏による聞き間違いであり、正しくは『クレ五五六』だったのではあるまいか。
攝津日記抄 凜々椿

Entry4
ヘッテルギウス氏と転生
ごんぱち

 男が目を開けると、女の姿があった。
 暗闇の中でぼんやり光る女は、常人とは思えないほどの整った顔立ちと体つきで、薄衣を身に纏っている。
「――あなたは、不幸な事故に遭ったのです」
 澄んだ、心に染み入るような声だった。
「えっ、いつの間に」
「気付かないのも無理はありません。落雷のようなものでしたから」
 心底気遣う様子で、女は俯く。
「私、神の方から来た者なのですが、うっかり狙いが、こう、ズレまして」
「死ん……だ?」
「元通りというのは無理なのですが、記憶をそのまま、新たな場所に魂を移動させる事は可能です」
「それって……」
「そちらの世界の言葉で似たものだと……異世界転生、とでも言いましょうか。もちろん、新たな場所でも上手くやっていけるための能力も授けます。あくまで個人の感想ですが、豊かな人生になる可能性は高いと言えます」
「こういうの、ちょっと憧れてたんです。前の世界の生活は、かなり煮詰まって、逃げ出したい気持ちもあったんで」
「では、こちらにサインをお願いします」

「レッド・コラーダ!」
 地獄の4丁目のバーで、ヘッテルギウス氏は何杯目かのカクテルを注文する。
 見るからに悪魔という風貌だが、かの女と目の色だけは同じだった。
「お待ちを」
 バーテンダーのニスシチは、ラムにパイナップルジュースに、ココナツクラッシュで滅した人間の切れ端を入れてステアし、全体が赤く染まったタイミングで差し出す。
 ヘッテルギウス氏はそれを一口飲んで、ため息をつく。
「……結構、魂の譲渡契約を結べたんだよ」
 自嘲気味の笑みを浮かべる。
「死なせた訳じゃあない。ただ、寝起きの感覚を少し支配して、勘違いさせただけだ。悪魔の誘惑のルール内だ」
「流石」
「……とうとう天界に目ぇ付けられて『過度な勧誘行為』に指定されちまった」
「やるせないですね」
「ルール作る側の連中はさぁ! こっちが頭捻って考えた事を、禁止するだけなんだからさぁ」
 グラスをすっかり空け、氷を噛み砕く。
「老人って、生存とか魂に関する嗅覚は凄いのよ。誘うならスレてない若者なんだよ。でも若者に通じるような流行を追うのだって大変なんだよ」
「ダンナは努力を怠っちゃあいません。いつか、地獄が亡者の魂で満たされる、そんな日も来るでしょう」
「マスター……」
 ニスシチは、緑色のカクテルを置く。
「新作です。味見しちゃ、くれませんか?」
 グラスの中で泡が、淡く細やかな音を立てていた。
ヘッテルギウス氏と転生 ごんぱち

Entry5
銭形平次 恐怖の黒船来航
今月のゲスト:Grok

江戸の空に黒煙が立ち上る。浦賀沖に現れたのは、アメリカの提督ドナルド・J・トランプ(に似た男)が率いる黒船だ。金髪のヅラが風に揺れ、でかい旗に「MAKE EDO GREAT AGAIN」と書かれたその船は、まるで動く城。トランプ提督は幕府に「ものすごい経済条約、最高のディール!」と叫びながら、勝手に「関税ゼロ、米だけ食え」と無茶な要求を突きつける。町人は大混乱。「米って、あの米か?」「いや、なんか怪しい匂いの米らしいぞ!」と噂が飛び交い、江戸はパニック状態だ。

神田明神下の平次親分、銭形平次は十手を握り、「ったく、ど派手な外夷だな。江戸の平穏は俺が守る!」と吠える。そばで子分の八五郎は、親分の凛々しい姿に目をハートにしつつ、「親分…その声、俺の心に貿易協定結ばせやがる…」と内心悶絶。だが、この恋心は絶対の秘密。墓場まで持っていく覚悟だ。

この混乱に乗じ、怪しい詐欺師・三太が暗躍。「トランプ提督の呪いを防ぐには、俺の『黄金の護符』だ! 一枚百両、めっちゃ効く、ビリーブ・ミー!」と町人を煽る。護符はただの紙に「T」と殴り書きしただけのゴミだが、怯えた町人は「これで救われるなら!」と金を出す。しまいには「トランプ提督のツイート呪文避けキット、千両!」なんて売り始める始末。

平次は異変を嗅ぎつけ、八五郎に命じる。「八、そいつの胡散臭い商売を暴け!」「親分、俺、親分の為なら黒船に突っ込むぜ!」と八五郎は気合十分だが、心では「親分の笑顔が俺の関税ゼロ…」と妄想。早速、三太の屋台を突き止め、護符売り場で「トランプ提督の髪は神の毛、触ると金運アップ!」と叫ぶ三太を目撃。平次に報告し、親分は颯爽と登場。「三太、てめえのディールは最悪だ! 町人の不安を食い物にするとは、いい度胸だな!」

三太は誤魔化そうとする。「親分、これは本物! トランプ提督のスピリットが入ってる、グレートな護符だ!」「その紙、昨日のお前の家のゴミ箱で見たぞ。『T』なんて、ただの落書きだろ!」平次は実は三太の家を昨夜張ってたのだ。さすがの洞察力に、八五郎は「親分、惚れ…じゃなくて、すげえ!」と叫ぶ。

三太は縄にかかり、町人に金が返される。平次は笑う。「トランプ提督のディールなんざ、幕府がどうにかする。俺たちゃ江戸の日常を守るだけだ!」町人は安堵し、大喝采。八五郎は親分の背中にそっと目をやり、「親分、俺の心はもう開国済みだ…」と呟くが、平次は気づかず、「八、帰って蕎麦でも食うか!」と明るく締める。

黒船の影はまだ消えぬが、平次と八五郎の手で、江戸の町は今日も平和を取り戻した。めでたし、めでたし。
銭形平次 恐怖の黒船来航 Grok

Entry6
銭形平次 恐怖の黒船来航
今月のゲスト:Humanitext Aozora

 梅雨も明けきらぬある日のことでございます。神田明神下の長屋に、妙に鼻にかかった声で喋る外国人が現れたという噂が、町内を一巡いたしました。

「親分、たいへんで―」
 八五郎が飛び込んでまいります。顔がすっかり上気して、まるで縁日のだまし絵のようでございます。
「なんだ、またおまえの見かけ倒しか」
「見かけ倒しじゃございませんよ。浜のほうに、真っ黒い船が四そう、どどんと並びましてね、その真ん中から現れたのが、これがたいへんべらぼうで、髪は藁のように黄色くて、口を開けば“ディール!ディール!”って叫ぶんで」

 そう、このお方こそアメリカ合衆国の―もっとも江戸の町では「金毛提督きんもうていとく」と呼ばれておりますが―某国大統領に瓜二つのノッポ男でございます。持ち込むのは、南蛮渡りの銃でも織物でもなく、「経済条約」とやらの巻物で、「これを結べばエドもグレートになる!」と息巻いているのでございます。

 町内はすぐに色めき立ちました。
「黒船が来たら米の値が三倍になる」
「いや、銅銭に髭が生えて歩くようになる」
 まことしやかな噂に乗じて、早くも悪者が現れました。名前は利根屋の勘兵衛、腹の中まで油でできたようなお調子者でございます。
「みなさん、このままじゃ暮らせませんぜ。わたくしの“金毛避け札”を玄関に貼れば、提督が家の前だけ通り過ぎる。さあ一軒二百文!」

 皆の目がすっかりアヤしい札に吸い寄せられたその時、
「待ちな」
 柔らかくも切れるような声。神田明神下の銭形平次親分が、にやりと笑って立っております。
「世の中に黒船を止める札なんてあるわけがねえ。あんた、その銭で何を企んだ」

 勘兵衛は一瞬たじろぎましたが、口をとがらせ、
「そ、そりゃ町を守るためで」
「町を守るのに、町人から先に脅かすのかい」

 二、三言のうちに観念させるのは、平次親分十八番の“お白洲いらず”でございます。証拠の札束を押収すると、親分は皆に返しながら、
「黒船だって取引だって、腹をくくれば恐くはねえ。お上にはお上の交渉があるさ。町は町で正直に働けばいい」

 八五郎は横でうなずきながら、ちらりと親分を見つめます。親分の横顔が、この広い江戸でいちばん頼もしい―それは決して口に出さない秘密でございました。

 その後、金毛提督は、なぜか日本橋の煮込みの旨さに感激して、条約の話は一時棚上げになったとか。町人たちは胸をなで下ろし、平次はまたいつもの長屋の夕涼みに戻ったのでございます。
銭形平次 恐怖の黒船来航 Humanitext Aozora

Entry7
軽気球の飛んだ日
今月のゲスト:松村多絵子

 ある日、原っぱで、武ちゃんと正ちゃんが球投げをしていますと、ふわり、ふわり、軽気球が飛んで来ました。
『ワアッ――正ちゃん、軽気球だよ、軽気球が来たよ』とけたたましい声に、球を探していた正ちゃんは吃驚びつくりして、草の中から首を出すとすぐ、自分達の上空に、ふんわり浮かんだ軽気球を見るより早く、
『ヤアッ! 万歳』と飛び起きて手を叩きました。
『万歳! 万歳!』
 二人は大騒ぎでした。すると乗っている人の動く様子までがはっきり見える程低くなった軽気球から、ひら、ひらと沢山の紙片かみきれが蝶のように舞い落ちました。
『オヤ、何か落としているよ』
 風に吹き流される紙片は二人の所へは落ちて来ませんでした。
『何だ、つまんない、こっちには一つも落ちないや』
『もうあんな所へいっちゃった、追っかけよう』
 二人は一散に駈け出しました、息苦しいのを我慢して、たえず空を見ながらどんどん走りました、走っても走っても段々遠くなって行く気球に、正ちゃんはガッカリしてしまいました。
『武ちゃん、武ちゃん待って、一寸ちよつと待っておくれよ、僕、もう死にそうだよ』
 しかし、いつもかけっこの時一等になる武ちゃんは、構わずぐんぐん先へ走り続けました。
『武ちゃん! 武ちゃん!』
 と呼んで、尚も走っていると、正ちゃんは俄にポタリポタリと冷たい汗が流れ出して、目が真っ黒になって、いきなり地べたへ倒れてしまいました。
 小さく、小さく、やがて森かげへ消えてしまおうとする軽気球を、なお追っかけていた武ちゃんが、ふと後ろを振り返ると、走ってるとばかり思っていた正ちゃんの姿が見えません。
『何だ、ずるいや、黙って帰ってしまうなんて』
 とまっ赤に汗ばんだ武ちゃんは、傍の石に腰かけて休んでいるうちに、疲れが出てそのまま眠ってしまいました。

 風に乗った軽気球が、青空の彼方から再び飛んで来て、武ちゃんの頭の上に低くとどまりました。武ちゃんは喜んで見ていると、段々低く下りた軽気球の中から、綱につかまって下りて来る子供が『武ちゃん、武ちゃん!』と呼びかけます。するすると綱をたよって下りたのは正ちゃんなのでした。
『やあ、正ちゃんだ』
 あまりの意外なことに、武ちゃんはかけよって抱きつきました。
『武ちゃん、僕とても愉快でならなかったよ、雲の中をふわりふわり昇ってゆく時は、まるで天国にでも昇るようだったよ、さあ、今度は武ちゃん乗ってご覧よ、それゃ面白いんだから』
 といって綱を武ちゃんの帯に結びつけました。武ちゃんが両手に綱を握ってぴょんとひと足、石の上から足が離れたかと思うと、いやというほど激しく何かに頭をぶっつけました。

『危ない! 坊っちゃん! 坊っちゃん』
 誰かに肩を叩かれてハッと目を見開くと、見知らない牛乳屋さんが笑って立っている足もとに、武ちゃんがころげおちているのでした。
『どうしたんですか、こんな所に一人で昼寝なんかして――早く帰らないとお母さんが心配していますよ」
 と言われて、武ちゃんはべそをかきながら駈け出しました。
 おうちに帰ると、隣の正ちゃんの家では、お医者さんが来て大変なことが出来ていました。
 正ちゃんは、軽気球を追って走っている時に、地べたへころんで気を失っていたのを人に助けられて帰ってから、ひどい病気になったのでした。
 武ちゃんはお母さんと見舞いに行きました。頭に氷嚢をあてて苦しそうに眠っている正ちゃんを見ると、武ちゃんはいきなり、
『正ちゃん、御免よ、御免よ』
 と泣き出しました。