ピーマン in English
サヌキマオ
朝の四時きっかりに目が覚めた。空はもう明るくなりかけている。パジャマは寝汗でじっとりと濡れていた。
「つかぬことを聞くけど、ちえほ先輩って、合宿にいたっけ?」
青子が親友とはいえ流石にこの時間に連絡を取るのは憚られたので、六時きっかりまで待って送信ボタンを押した。五分もしない間に「ババアか!」という返信があった。
「どういうこと?」
「朝の六時からわけのわからないこと送ってくるから」
「そう? で、どうかな、ちえほ先輩」
「いたに決まってるでしょ、安東先輩、虹子演ってたんだから」
「いや、いたに決まってるはずなんだけど。大会に出た記憶はあるから」
「ババアか!」
「え、そのババアか!、は何についてのババア?」
返信がかえってこなくなった。あとで八時くらいに電話しよう。
記憶の中の(もう四年も前だ)合宿には六人がいたはずだ。伊武先生と、青子と、聖と、鯨出先輩と、智恵穂先輩。あ、で、私。俵村曲。あの時は「樋物語」を演ってて、地区大会では三位のなんとか賞と、演出賞かなんかをもらっていたはずだ。で、脚本は講評でボロクソに言われてた。いや、演出も脚本も顧問なんだけど。
山の手のお嬢様・虹子と樋の職人・謙吉がよくわからない事情で恋に落ちる話だった。私は地球を征服しようと企むアマダレウサギ星人の役で、結果としてアマダレウサギ星人の悪逆非道が二人の仲をとりもつことになってしまう。
四年経ってみて、ようやくなんだかとんでもない脚本だったことに今更気がついた。
「たわむらさんは『ピーマン』って英語でなんていうか知ってる?」
あ。
これは、ちえほ先輩の声だ。でも、合宿の時の話だっけ?
先輩、あの答え、結局教えてもらったんでしたっけ?
「お、出たー!」
部屋の電気を暗くしている。
我が家では隅田川の花火大会をテレビで観るときは部屋を暗くして、夕飯はそうめんに天ぷらと決まっている。
今年はスーパーのかき揚げなのがやや気に食わないが、めんつゆに浸してしまえばみんな同じだと云われるとそれ以上は何も云い返せない。
「だったらアンタが作れ」と云われるのも面倒だし。
ややあって、「出たって、何? ゴキブリ?」と母が台所から帰ってくる。
「違うわ! ホラだから、ちぇほ先輩。安東先輩」
「ああ、この前云ってた人ね」
「そうそう、演劇部の」
今日が初仕事、という安東智恵穂アナがヘリコプターに乗って上空から花火を中継している。テレビで観るとさほどでもないが、きっと風切とエンジンの爆音の中で、自分の声も聴こえないに違いない。
「もう一人の先輩もなんか芸能の方に行ってたよね?」
「ああ、鯨出先輩もそう。なんか舞台俳優」
どうもテレビに出ていないと有名人でないような気がするのだが、鯨出先輩はインターネットで調べるといくつか出演情報が出てくる。ただ「自分で調べれば」というのと「テレビを観ていると自然に目の前に現れる」というのは大きく違うのだ。
テレビの中のちぇほ先輩は新人アナらしからぬ落ち着きを見せているように観えた。司会の俳優の問いかけにも淡々と答えている。
「新人じゃないみたいね」
母が私の代わりに呟いてくれると、「お、今日は花火だったか」と警官をやっている方の兄が仕事から帰ってきた。
それ以降、安東智恵穂アナはテレビ画面に出てこなかった気がする。花火そのものも長々と観ていると飽きてくるので、私の観ていない数秒に出ていたのかもしれない。
食卓上では鯨出先輩の話から「テレビに出る」ということについてのあんまり進展のない話を続けていた。
振っておいてなんだが、正直全く好きな話ではない。
こういう話になるたびに「で、曲は将来、女優とか芸能人になりたいの?」という話に行き着いてしまうからだ。
「そんなものわかるか」という結論にたどり着くからだ。
かといって、別に社会に出ても、したいことなんてないものなぁ、とあとで自分一人で悩んでしまうからだ。
(そういえば)
鯨出先輩(の思い出)に邪魔されてすっかり吹っ飛んでしまったけれど、けっこうはっきりした違和感があったのだ。
「ちえほ先輩って、あんなんだったっけ?」
携帯の着信音で目が覚めた。すっかりぐっすり眠っていたのにどこの誰だろう。
「ふあい」
「今、いい?」
「よくない。寝てた」
「じゃあいいや、またね」
「ヤダよ、人のこと起こすだけ起こしといて要件はナシとか、そんなのってひどい」
「えー、だって寝てたんじゃ」
「その寝てるのを起こしたんだから、ちゃんと責任を取ってよぅ」
私は一瞬受話器から耳を話すと携帯の画面を凝視した。目がしばしばする。
十一時十分かよ。夜行性の生き物か!
「じゃあ、あのさぁ」
「あ、ちょっと待って。アンタ、誰?」
「アンタって……墨家ですけど?」
「ああ、青子か」
「……いい? ちえほ先輩から連絡があったのよ」
「おお、そういえばさっきまでテレビに出てたんだよ。ちえほ先輩は」
「そうなの?」
「さっきまで隅田川の花火大会で中継をしてたんだ」
「じゃあその流れかぁ。アタシ、ずっと大学にいたんだけどね『今から飲みに来られないか』っていうんだけど。先輩が」
「飲みぃ?」
「無理、ね?」
「だってすげー夜中じゃん。夜中だよ?」
「やっぱりババアか! アンタは!」
「……なんだか、この流れをつい最近体験した気がする」
「今日の朝だよ!――とにかく、アンタはいいや。またね。今度ね」
「ふぁい、ああそうだ、あお」
慌ただしげに電話が切れてしまった。あ、これきっと夢に出るな、と思いながらまたどんどん意識が遠のいていく。
「たわむらさんは、きっといい役者になると思うよ」
「いけますかね」
あ、これは夢だけど夢じゃない。記憶だ。
「幸があんなことになっちゃったけど、私はたわむらさんのほうが純粋に役者をしてると思うもの」
「純粋に役者をしてるだけで有名になれるかっちゅーとそうでもない気がするけどねえ」
あ、そうだ。この場には鯨出先輩もいたんだ。
これは、合宿の時の記憶だ。
「で、女優になる気はないの?」
「いやそりゃ、伊武先生もいつも云ってるじゃないですか。演劇部は演劇をしやすいように大人たちがお膳立てをしてくれているだけで、高校演劇部を卒めてから演劇するのは険しいって」
「そういうことじゃなくて」
「そう。そういうことじゃなくて」
二人ならんだ鯨出先輩とちえほ先輩の声が揃う。
「やりたいことのために努力する気があるか、という話」
完全に思い出した。朝の四時きっかりに目が覚めた。じっとりと汗をかいていた。
「あ、やっぱりいたわ。ちえほ先輩、合宿にいたわ」
なんだか昨日怒られた気がするが、怒られることよりも大事なことがある。
すぐに電話がかかってくる。
「おはようババア」
「あ、起きてたんだ」
「今から寝るところよ。さっきまで安東先輩に付き合わされてて」
「先輩は?」
「また会社に戻っていったわ。サウナで寝てからそのまま仕事だって」
「へえ、すっげぇな」
「アンタのこともずいぶん云ってたわよ、役者になればいいのに」って。
「そうかな」
「知らないけど」
青子は臆面もなく大きなあくびをして続ける。
「アンタにその気がないんなら無理だと思うわ」
「そうだよなぁ」
どんどんと受け答えが雑になっていく(わりにはなかなか電話を切らない)青子との通話を切って検索をかける。
「ピーマン」は英語で「green pepper」というらしい。
納得する。