後に『迷惑』の年とも呼ばれた明和九年の春、江戸の町は悪僧の放火で三分の二を焼き尽くされ、この時いわば仮宅として生まれたのが、新宿の遊女町である。新宿は風紀の乱れで廃止されて以来五十数年ぶりの再開であり、遊女の公認も得ると山の手の若者、堀ノ内詣での客、旅人、雲助らが押し寄せ、大歓楽街へと成長していくのだった。
その新宿の橋本屋へ、師走のある日暮れ、薄汚ない
布子を着て、痩せて顔の長い男が、ひょろひょろと入って来た。
「お
薦かい? 駄目だよ!」
店の若い衆が、手を振ると、
「な、なんでえ、お薦だと? お、俺はな……」
薄汚ない男は、口をへの字にまげて何か言おうとしたが、
呂律がまわらない。ひどく酔っているとみえて、締りのない口元から涎がたらたら垂れている。とんぼほどの細いちょんまげをちょいと頭に載せている姿が、なんともいえず滑稽だ。
「変な爺いだな……あれ、
草鞋をはいたまま、店へあがる」
若い衆は呆れる。
変な爺いのはずだ。それこそ『膝栗毛』の作者、十返舎一九なのだ。
とも知らない店の若い衆は、
「あれ、爺いめ、門松へ泥をこすりつけやがる、草鞋のまま店へあがって来やがる。汚ない爺いめ、ノシちゃえ」
と多勢が取巻いて、袋叩きにしようとする。そこへ、ぶらりとはいって来たのは、白髪頭の
茶筅に結った浪人
体。
爺さんを見るなり、
「お! あなたは一九さんじゃあないか?』
「いよう、これは風来先生!」
一九は
反身になって、しょぼしょぼした眼を見はった。
風来山人こと平賀源内は、にやっと笑って、
「一九さん、相変らず御機嫌じゃ、今日の旅はどちらで?」
「堀の内のお
祖師様です。追い追い迫る暮のしのぎに、堀の内詣でを中編に書いて、
書屋の
前借のかたに!」
「そして、また前借をなさるか? いや羨ましい御性分じゃ」
「で、先生には今日どちらへ?」
「秩父の奧から帰ってまいった。
火浣布と申すものを工夫していますでのう」
「火浣布? 例のエレキテルで?」
「いや、火に焼けない綿、石綿と申すものじゃ……が、まあ、奥へまいろう」
「へい、へい、どうぞこちらへ」
若い衆たちは、ぺこぺこしている。汚ない爺さんが、名高い『膝栗毛』の作者だときいて、すっかり恐縮しているのだ。
座敷へとおると、風来山人が、
「一九さん、よい機会じゃ、今日は
蜀山も見えるはずじゃ」
「蜀山がここヘ?」
「そうじゃ、蜀山は、あれで役人だからのう、多摩川の治水工事を監督に出張しているのじゃ、帰りにここで落合う約束でのう、もう時刻じゃが」
と、耳をかたむけたが、
「うん、今、店で話している声はどうやら蜀山らしいぞ」
そういう
中に、陽気な笑い声、軽い足音を先立てて、蜀山が、はいって来る。
「いよう、これは一九さん」
「蜀山さん、その後は……」
「は、は、は」と、風来山人も今日は皮肉をとばさないで笑って、
「こうして江戸の三名物が、新宿に落合ったところは面白い。さあ、これから陽気に騒ごうぜ。が、まず御両人には、酒じゃ、酒じゃ」
「それで肴は?」
「はて一九さん、そこに
如才はござらぬ蜀山、唯今、店で、
津の
守へ女の
者を註文しておいてござる。
追つけ四ッ手
駕籠をとばして来るはずじゃ」
者というのは芸者のことだ。その頃は、男女の芸者があったので、女の者といわなければ通じなかったのだ。
女の者が来るまで、ちょっと文学論が出る。お舟
頓兵衛の芝居を書いた風来山人は、
京伝の読本の批評なぞをする。左傾派の彼は、時の大衆文芸に創見のないことや、思想のないことや、不見識な
擬いものの多いことを
痛罵する。
一九は、そばにこくりこくりと居眠っていたが、ひょっこり顔をあげて、
「ときに酒はどうした? 酒! 酒!」
すると、蜀山は返事の代りに、さっそく一首。
「世の中はさても
忙しき酒のかん、ちろりの
袴きたりぬいだり」
一九も負けじと、
「ことわざに酒はうれいの
玉はばき、はくまでも飲む後ひき
上戸」
「ははあ、一九さんもこの暮はすこし弱っているとみえる」
と、風来山人は微笑んで、
「びんぼうの棒が次第に長くなり、
振廻されぬ年の暮かな」
「いや、酒といえば、多摩川で面白いことがあった」と蜀山も笑って話す「事件はまず私がこんな狂歌をよんだところから始まる……朝もよし昼もなおよし晩もよし、その
合々にチョイチョイとよし」
蜀山の話というのはこうだ――
夏の日のこと。蜀山が、多摩河原の治水小屋で、狂歌をよみながら、ちびりちびりと盃を楽しんでいると、
蚤が一
疋ぴょんと盃の中に飛び込んで来たというのだ。で、とりあえず、
「盃に飛び込む蚤ものみ仲間、酒のみなれば殺されもせず」
そうよむと、盃の中の蚤が返歌をした。
「飲みに来た俺をひねりて殺すなよ、のみ逃げはせぬ晩に来てさす』
聞いた蜀山は、ひどく怒って、敷居の上でひねりつぶした。すると、蚤は、つぶされながら歌うには、
「口ゆえに引き
出だされてひねられて、敷居まくらにのみつぶれけり」……
聞く一九は、ぴょこんと頭をさげて、
「さすがは狂歌の蜀山人、や、うまいものです! これには一九さんも
冑をぬいだ! ぬいだ!」と、盃をさす。
風来山人は
下戸、にやっと気味わるい笑いを唇にうかべて、
「さよう、たしかに天下の蜀山人、うまいにはうまい。が、蜀山は、やはり生粋の江戸ッ子だのう、ところで私の心意気をきいてもらいたい」
「伺いましょう」
後輩の蜀山は、盃をおいた。
そこで、風来山人が歌ったのは、
「この調子きいてくれねば三味線の、ちりてつとんとひいてしまうぞ!」
「とおっしゃる底心は?」
「つまり、
私は、戯作や俗学で世をかくれているのじゃ、といって、エレキテルを発明したのも、
大三井へ売込むばかりが、本意ではない」
「でも先生は、当代の智慧袋、江戸一の博学といわれているではありませんか」
「ところがちがう。私はやはり大
山師じゃ、
博奕打じゃ、私は日本人を張ろうと思っている。そのためには、たとい幕府であろうとも……」
「おっと先生! 蚤ではないが、口ゆえにですぞ!」
「なあるほど。や、これは一本、私がまいった! 慎もう」
そばの一九は、とろんこの眼をあげて、
「なあんのこったい! 俺には、風来先生のいうことが、とんと訳がわからねえ」
と、青筋のはった細い頚を振って、
「それよりも蜀山さん、この一九が年わすれ、酒がうまくのめるよう、景気なおしに『おめでたい』という文字で、折句が一首願いたい」
で、蜀山は、即座にまた一首。
「
音にきく
目にみいりよく
でき秋は、
たみも豊かに
市がさかえた」
そこへ、芸者が、陽気に
賑かに乗込んで来ると、追っかけて、また一首。
「願くは君が小指の輪となりて、朝な夕なを思い出させん」
「あら蜀山先生、そんな嬉しがらせは厭ですわ!」
なじみの芸者は、銚子をもって摺寄って、
「先生ったら、こちらは真実なのよう」
蜀山は、首を振って、
「我はただ真に恋ぞと思いしに、
憎や銭もて
来いでありしか」
「あら!」芸者は、憎らしそうに袖で打つ真似。
「あは、は!」
と、風来山人も、とうとう笑い出して、
「ところで、女の者よ、今日は踊りにちと註文がある」
「註文? 怖いわねえ……」
と、煙たそうにいうと、
「なにさ、むづかしい註文ではない、近頃はやりの
色地蔵踊りというやつ、あの
剽軽なのが所望じゃ!」
「でも、あれくらい色っぽい踊りはないわねえ!」
賑やかな三味線は鳴る。エロ踊りは、いよいよ始まる。
さて、風来山人が、
紅毛から雲中飛行船を輸入したことも名高い話だが、彼の作った火浣布は、青木
昆陽の通訳によって、外人に見せ、紅毛人を驚かした。
序にマッサージという言葉は日本の
摩擦から出来たもので、それがドイツに入ってマッサージとなって逆輸入されて来たものだが、風来山人の発明したエレキテルは、ドイツよりも早く、電気療法としては世界で一番早かったかも知れない。
その風来山人が好みの色地蔵踊りというのは、信州は
苅萱西光寺の親子地蔵というのが、江戸は目黒の不動さんに
出開帳をするについて世話人に申し渡すという口上を仕組んだものだ。
「いかに
講中、なんと思う」親子地蔵はそう仰せられる――
「それがし、つくづく当世を見るに、今の世は仏道すたれ、諸事
色事の浮世である。堅いは禁物、仏様をも
色道に引入れて、のろけ菩薩となさるが早道――」
そこで、踊りが始まるのだ。
〽あゝお地蔵様、
敵娼をもらわれても気がもめる、芸者をあげるも金がかかると、
蛸薬師の三味線に、釈迦の長唄。それで、仏も
還俗して――
「あゝ、仏も還俗して」と、一九が、ふらふら立ちあがって、踊り出した。
〽仏様、髪は
丸髷黒仕立て。どうだ、嬉しいか。嬉しいとも! 俺は十九の年、
年増に嵌まって、ソレお地蔵様……
蜀山も踊り出す。一九は、踊る、踊る。踊る一九の姿に、風来山人も、思わず
見恍れた。
「うまい!」思わず手を
拍った。
それは、踊りを讃めたのではない、一九の無邪気な姿を羨んだのでもない。実に世に不思議な明るいユーモリスト、一九の人柄がもつ大きな光りに、さすがの風来山人も、圧倒されたのだ。
「一九はえらい!」
そう叫んだ風来山人の眼には、涙がたまっていた。とうとう堪らなくなって、彼も一緒に踊り出した。
障子に映る影法師は、踊る、踊る! 新宿は橋本屋の煤け障子に、世をすねて、茶化して、逃避した偉大な三奇人の影法師は、いつまでも、エロを踊る。
と思うまに、その障子が、ぱっと暗くなった。影法師が消えた。
……
間。
溶転……
再びぱっと電燈のついた場所は華やかな舞台。レビウ・ガールが、賑やかに踊りながら、現われる。
手に手に持ったポスタアには、
「それから百六十年後」
百六十年たった今は、大東京の中心大新宿だ。旧東京のギンザがここに移った一九三二年の秋!
「山の手文化の第一線」に立つという新々新宿の情景である。
背景のデパートを指しながら、踊り子たちは、踊る、踊る!
見物席の私も、つい釣込まれて、レビウ小唄を一つ試みてみる。
新宿小唄
1、恋の渦巻、人の波
むかしさびしい武蔵野も
ネオンライトの夜の空
昼はくるめくデパートに
ショップガールのあの笑顔 あの笑顔
2、カフェカフェに灯がともりゃ
青いひき眉、紅の
唇 ジャズの小唄にひきとめて
恋のステップ、断髪の
ダンスガールと踊らんせ 踊らんせ
3、闇にくるくるムーランルージュ
シネマはてればあのホテル
明けりゃ別れの
西東 花の新宿、大東京の
エロ、グロ、ナンの交叉点 交叉点