電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向って歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴったりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合っている。
男同志の相合傘というものは、女とのそれよりも涯かにもっと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがいにこう激しく肩を打ちつけ合うことはあるまいと考えた。
彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩畳な傍に添っているだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがって赤味を帯びて光っている、彼がのしのしと歩るいているのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまいそうな頑健さだ。
二人は雨の日に銀座の散歩に来たということを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もっとこっちへ寄り給え、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
私はこう言って彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
路面には少しの塵芥もなかった、連日の降雨に奇麗に洗い流されたのだろう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばっていたが。
その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもった羽のように舗石にへばりついていた。
もし塵芥めいたものを、洗い流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であろう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のようにも見えたからである。
私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴って見た。するとこの青味がかった濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのように、カッと口を開いて、赤い舌をさえ見せて不意に私の靴先に噛みつく、
「なんて悪意に満ちた奴だ」
私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であった。
秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向ってなんの持ち物もなく、行軍かなにかのように一生懸命になって歩るいている、砂塵がバラバラ頬を散弾のように打つ、私は何度も立ち止まって休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があったのだ。
私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢ったように驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであった。
その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩うほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあった、いままた都会の舗石道で、同じようなビラで靴を噛まれたのであった。
憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はこう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲ってきて、彼と洋傘の柄を握り合っているということがとても堪えられない事に思われだした。
私はじっと頭上の傘に雨の降っているのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合っていることに気がついた。
二人は柄を押し合い、へし合いしているのであった、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがいに譲歩し合い、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしていることを考えなければならなかった。
その仕事はなかなか苦痛であった、洋傘の柄を二人で握り合うことの容易でないことを思った、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしているのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪い去るか、彼にまったく傘を与えて自分はズブ濡れで歩るくか、どっちかに決めなければ気が済まなかった、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あっけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押える、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻そうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさえも、このように激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思い、笑ってでもいるかのようであった。
雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもわせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構えなしにどんどん駈けて向う側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやって来るのを待った。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらわれていた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になって、その附属物のかならず一品を失わう、例えば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢うのは嫌だと思った、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のように、だらりと袖をさげていた。