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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第40回バトル 作品

参加作品一覧

(2018年 11月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
小熊秀雄
2138

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あおとみどり・下
サヌキマオ

 夜九時のファミリーレストランというのはどうしてこう(と、私も青子と一緒に来るのが三回目なのだが)いろいろな人が入り乱れているものなのだろうか。なにか真剣な話し合いをしているサラリーマン二人の横で、小さい子供を連れたじいちゃんばあちゃんにお父さんお母さんの五人家族がご飯を食べてるし、その向こうではなにかのママさんサークルなのだろう、おばちゃんの集団がテーブルにビールのグラスを並べてゲラゲラ笑っている。こうして周りを見回しているふりをして、私は戦略を張り巡らせようとしていた。何かと言えば眼の前の青子についてだ。明らかに警戒しきっている。そりゃあそうだ、いつもの私ならば速攻で聞きたいことを聞いてしまうところだが「呂畑さんのことを聞いたら帰る」と先に釘を差されてしまったのだ。つまり、その、あれだ。ということは、自分から話してもらうしか、ない。我ながら短い時間でよくぞ考え抜いたものだ。よし、まずはどうでもいい話から! と意気込んだところで呂畑さんが注文を取りに来た。
「あ、どうもどうもお二人ともいらっしゃいませ。こんなところで奇遇ですねえ」
「へぇえ?」
「話せば長いことなんですが、短く話せばいろいろと物入りでしてね。今ちょっと店が立て込んでますので、詳細はまた後日って感じなんですが。ご注文は?」
 そうだ青子青子、と視線を戻すと、当人は力なくテーブルに突っ伏していた。

「あの子、ここまで読んだ上でここのバイトをやってるに決まってるわ」
「いやぁ、流石にそれはおかしいと思う」
「おかしくない。あの子はいつも私の行動の先回りをしてる」
「そうなの?」
 弾みがついたのか、はたまた毒気を抜かれたのか、青子はやけくそ気味にチョコレートパフェとニューヨークチーズケーキを頼むとガツガツと食べ始めた。気を利かせたのか、あれから呂畑さんは私達のテーブルには来ていない。時折席の横を通り過ぎはするが、本当に忙しそうな顔をしている。
「そうなの?」
 少し間が空いてしまったので再び声をかけた。青子は私とじっと視線を合わせると、またケーキを口に運び始めた。
「それってアレだよ『自意識過剰』てやつ? 言葉はよくわからないけど」
「誰が」
「アオコが」
「……私が?」
「そんなに大体、人のことなんて気にしてないもんだよ。私がどれだけ着ぐるみを着てたって、最近はそれほどウケないし」
「それとこれとを一緒にするな。根拠があるの。私が不愉快。それが根拠」
「アオコってさ」
「何」
「時々とんでもなく、アタマが悪いよね」
 わぁ、いい顔をする。舞台の上じゃなくても、こういう顔出来るんだ。
 選択肢を間違えるとすぐさま額にフォークを突き立てられそうなので、私は少し視線を外して考えをまとめる。視線の先に呂畑さんがいて、こちらににっこりと頭を下げてくる。
「あ、じゃあいいや。アオコの言う通り、呂畑さんがアオコの先回りをしているとする――としたら、なんで?」
「なんで? って、そりゃあ――」
 眉根を寄せて考え出す青子の背後に呂畑さんが寄ってくる。おいやめろ。
「馬鹿にしてるのよ、何もかも見透かして、きっと馬鹿にしてる」
 呂畑さんはふるふると首を横に揺らすと「やれやれ」と肩をすくめて厨房へと去っていった。
「なんで」
 今度は私が聞かれる番だった。
「なんで、あんなにちゃんと学校に来ないのに、みんなわかってますみたいな顔で、勉強もできて、役者としてもうまくて、みんなにも好かれるんだろうね」
「うーん」ここは茶化しちゃいけないところだ。青子の顔が真っ赤を通り越して紫色っぽくなっている。
 このまま泣いちゃうんじゃないだろうか。いや、呂畑さんの手前、それはないだろう。
「ひとつ確認していい? それで、キレたの? 昨日」
 青子はかくっ、と頷いて「云っちゃった」と呟いた。

 家では禁止されているコーラを調子に乗って飲んでしまったのであんまり眠れなかった。普段コーヒーを飲まないし、カフェインというのはものすごく効くというのがわかる。そして、一旦切れると眠くてしょうがないというのもわかった。電車を降りて、駅からの道のりがふわふわする。おはようございます、と急に肩を叩かれたので振り向くと呂畑さんだった。
「ちょっとお話がありまして、よろしいですか?」
「あ、ああ」
 よく見ると、見なくてもわかるけど、呂畑さんはセーラー服ではなくチェックのネルシャツに蛍光色のジャージ、そして大きなリュックサックを背負っていた。
「歩きながらで結構です。えーと、単刀直入に。昨日の件はぜひぜひ、ご内密に願います」
「それはもちろん構わないけど」うちの高校は原則的にアルバイトが禁止されている。
「今日は学校、行かないの?」
「こんな雲一つない天気ですよ、先輩」呂畑さんは本当に屈託なく笑うのだった。「これから法來山です。いくちが大量発生しているらしいので、行ってきます」
 いくちとは食べられるきのこだという。そんな説明をしている間も、呂畑さんはすぐに駆け出して電車に乗りたそうだった。墨家先輩にはもうお願いしてありますからー! と走り去る呂畑さんに手をふると、もうすっかり眠気が吹き飛んでいた。
 こうしてみると、なんとなく青子の気持ちがわかる気がしてきた。でも、わたしは青子にも呂畑さんにもなれない。それ以上のことは、考えない。
「で、青子は、考えるんだ?」
「考えてるのかな。そう、あからさまに意識しているのかと聞かれると答えにくいんだけど」
「意識してるからイラッとするんだけどね」
「まーねー」
 先にお弁当を食べ終わった青子が熱心にスマートフォンを繰っている。青子がスマホを人前でいじっている事自体が珍しいので覗いてみると、ネットショッピングのサイトだった。
「これは……ジャンパー?」
「そうね」
「なんかこう、山ガール、的な?」
「そんなちゃちなもんじゃねえよ。ちゃんとしたやつ。防水してちゃんと耐寒もする」
「……もしかして」
 スマホの小さい画面に青子が顔をうずめている。
「誘われた?」
「悪いか」
「いやぁ、いいんじゃないのぉ、仲良くなるのはいいことだよ」
「別にそういうんじゃなくて。ああも屈託なく『スミヤ先輩もキノコ採りに行きましょうよ』って誘われたら断りにくいじゃん」
「うん。『親切のみが人を動かす』って」
「あン?」
「談志師匠がそう云ってたよ。あ、書いてあったのかも」
 ポキポキ、と着信音がして、これまた珍しく青子がすぐに画面を確認している。まもなく「ほい」と画面を突き出される。
 プラスチックのボウルに一杯のキノコと思しき物体を抱えて、呂畑さんが自撮りでピースしていた。

 その後、青子と呂畑さんが手に手を取ってきのこ狩りにでかけたのかというと、決してそんなことはないのだった。
 呂畑さんはその後一週間ほど学校に来なかった。同じクラスの小星ちゃんの話によると、採ったキノコに中って身動きが取れなくなったのだという。警戒心の強い青子のことであるから「そんな危ないもの、行くわけがないじゃない!」と即座に拒否し、ずいぶんとスマホ経由で呂畑さんに小言を申し述べたらしい、と、本人が妙に嬉しそうに語ってくれた。練習に穴を開けて顧問にも(割と真剣に)怒られ、計算の狂った授業日数を回復するためか、最近は校内でよく見かけるようになった。
 なお、今度は呂畑さんの誘いで浅草にどじょうを食べに行くことになっている。
あおとみどり・下 サヌキマオ

死ぬる家族
アレシア・モード

 母は、上擦った声をあげながら部屋を出て行った。「もういいよ! 分かった! 私なんか、早く死ねばいいんだろ、あんたの気持ちは分かった」怒気を込めているつもりだろうが、下手なコントのようにしか聞こえなかった。もういいよ、いいんだよと繰り返しつつ、ゴトン、ゴトンと杖を突く音を鳴らしながら玄関の方へと歩んで行った。とにかく娘の目の前から一秒でも早く離れたいらしい。愛用のウォーキングシューズだろうか、靴を履こうとする間にも、もういい、もういいんだ、と泣き声で繰り返していた。下駄箱に立てかけていた杖が倒れ、三和土に乾いた音とともに転がっても、母親は靴を履きながら、何かの言葉を繰り返していた。杖を拾いあげると、母は半端に立ち上がりかけた姿勢のまま、小刻みに二三歩たたらを踏んで、ガラス格子の玄関戸に身を当てた。戸は大きな音を立てて震えたが、幸いに倒れはしなかった。そのままガララと一気に開くと、開け放したまま表へ出て行った。
 湿った空気が流れ込んでくる。
 私――アレシアは醒めた目でその有様を眺め続けていた。またいつものやつ――老人の固着した脳の中で感情と思考とが行き詰まった末に、行動として爆発したんだろう。私に向かって何やら必死に投げつけていた、論理に欠けた彼女の言葉は、その語彙の少なさも相俟って、まるで子供の戯言だった。それでいて彼女には、子供のようには振る舞えないという自負でもあるのか、何かしら優位を私にアピールしようとするのだが、最後は爆発したり、閉じこもったりするしかないその行動は、まさに子供の態度そのものと見えた。
 私はそっと目を伏せた。ひとまず表の雨は上がっているらしい。せめてもの幸いである。
 家を離れ、結婚して、それから色々とあって。およそ二十五年ぶりに実家で暮らすようになってから二年となる。母が母ではないことに気づくまで――正確に言えば、私の知っていた母とは、別な人間に変わってしまったと気づくまで、一か月かからなかった。ボケているとかいうものではなく――いや、それもあるかもしれないが――結局、彼女がいままで私に見せてきたのは、すべてよそ行きの顔だったということだ。今では悪意しか感じられない。
 室内に視界を戻すと、薄暗くなった部屋の隅に叔父が無言で正座している。彼が他界したのは五年前だが、生前から存在の薄かったこの叔父は、死ぬと殆ど印象を失った。それでもこうした場面でふと彼の仮身かしんが出現するのは、私の中で叔父と母とが一種のスイートになっているからだ。叔父は相変わらず何も言えぬまま、母の出ていった方へ目を滑らせ、そして私の方へ、訴えるような視線を投げては、口を開きかけ、また閉じて、目をしばたかせ、また伏せた。そしてまた玄関の方を見るのだった。いつもこの繰り返しである。私は拳を握り、畳をどんどん、と打った。わざわざこちらにお出でになって、なお私任せですか。何か言うことはありませんか。
(あの姉にして、この弟か)
 しかし実際、いつまでも彼女を表に放置しておくわけにも行かなかった。私は緩慢に立ち上がった。私が唯一の保護者なのだから。叔父は無言のまま、窓に顔を向けていた。せめて父でも現れれば、元管理者として何か言ってくれるかも知れない。何か言いそうな人間ではある。だが彼は十一年前に死んで以来、どんな姿であれ決してこの家には現れないのだった。なぜかは分からないが、しかし何にせよ、これまた私に丸投げということだ。
 サンダルを履き、表へ出た。空は鉛色に低く、冷ややかに湿った風は肌に纏い付くように流れている。今にもまた降り出しそうだ。私は閉じた傘を片手に、路地を見渡した。母の姿は無い。実に面倒なことだ。子供のくせに。まったく子供は面倒だ。なぜ子供らしく素直になれないのだろうね?
 最近はある程度まで、他人事のような視点を以て、彼女に接する事が可能になってきたのだ。もし彼女が、母親ではない他所の婆さんだったら、私ももっと冷静な人間関係を最初から築けた事だろう。お互いに、ボーダーが判らなかったのだ。母は今も判っていない。私は、判ってはいる、つもりだが。
(余計な世話ばかり焼かせるな)
 先刻までの雨に濡れた近所の路地に、出歩く人影は無い。私は母の姿を追って、角を曲がった。これと言って行く当ては無い筈だ。つまり私も捜す当てが無い。
 また歪んだ感情が、胸奥から頭の底へと、抑え難くこみ上げてくる。
 母の思考は、昔のままに固着している。昔のまま、昭和のまま、世の中の変化に、常識に、まるでついて行けない。なのに、あの上からの目線、化石のような、木乃伊のような価値観で、古びた物差しを私に押し付けて。一人で実家に戻ってきた私は、近所に恥ずかしい存在らしいが、むしろ身体も弱った今、私が居なければ何も出来ないのは彼女であろうに。
(結局、いつまでも親としての優越感を満たしたいだけなのだ)
 親なら親として尊敬され得る姿を示せば良いのに、それが出来ないなら相応に振る舞えば良いのに、それならそれで彼女の過去はリスペクト出来るのに。何も出来ないのに尊敬だけ強要する、そんな人間は恥ずかしいと、私にそう教えたのは彼女なのに。子供だった私は、素直にそれを受け入れたのに、当の彼女がこれである。私にはもう、あなたを全て受け入れることは出来ないのだ。私はもう子供ではないのだから。でも彼女の固着した思考には理解が出来ないのだ。私は昔の私ではないことに、あなたの知っていた私とは、別な人間に変わってしまったことに……。
 突然、後ろから冷たいものに手首を掴まれ、私はひゅっと息を吸った。
 ゆっくり振り返ると、そこに居たのは婆ちゃん――私が子供の頃に死んだ祖母だった。婆ちゃん、婆ちゃんはどう思う。私の祖母として、彼女の姑として。
 婆ちゃんは、私の手首をぎうと握りしめたまま、ゆるゆると頭を回して、あらぬ方へと顔を向けていった。暗い光を探るように、白く濁った目を細めながら、あらぬ向きへと首を微かに伸ばしていった。そのまま宙に向って口を開き、吸い込むような、飲み込むような動きを見せた。深海の魚のようだった。
(まるで、別の人だ)
 私の記憶の中の婆ちゃんは、暖かな感じだった。幼かった私に婆ちゃんは優しかったし、私の話は良く聞いてくれたのだ。そんな気がする。そんな気がするが、でもあの頃から何年が過ぎただろう。少なくとも三十年、四十年、いやそれ以上は昔の時代ではないか。
 あの頃、婆ちゃんは父母と、私と、どんな顔をして、何を話していただろう。私は何も憶えていない。そもそもいったい、私がどれほど婆ちゃんと一緒に居たというのだろう。年に一、二回の田舎への帰省の時だけではないのか。
(私は、この人のことも知らない)
 冷たい指の力は強まる。婆ちゃんは私の腕を支えにしているのか、引こうとしているのか、曖昧なままに、もう一方の腕を私の肘の辺りに回した。冬の樹木のような感触だった。私はその強張った動きに意識を集中しながら、視線はなお母の姿を追っていた。しかし再び降り始めた小雨の路地には、誰の姿も見えなかった。
 どこかの玄関先に立てかけられていた黒い傘が、壁面を擦りながらゆっくり傾き、湿った音をたてて倒れる。
(母を、母を搜さなきゃ……)
 婆ちゃんの口から、吐き出すような声が漏れた。右腕はさらに重く冷えていった。
死ぬる家族 アレシア・モード

雨中記
今月のゲスト:小熊秀雄

 電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向って歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴったりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合っている。
 男同志の相合傘というものは、女とのそれよりも涯かにもっと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがいにこう激しく肩を打ちつけ合うことはあるまいと考えた。
 彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩畳な傍に添っているだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがって赤味を帯びて光っている、彼がのしのしと歩るいているのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまいそうな頑健さだ。
 二人は雨の日に銀座の散歩に来たということを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もっとこっちへ寄り給え、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
 私はこう言って彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
 路面には少しの塵芥もなかった、連日の降雨に奇麗に洗い流されたのだろう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばっていたが。
 その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもった羽のように舗石にへばりついていた。
 もし塵芥めいたものを、洗い流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であろう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のようにも見えたからである。
 私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴って見た。するとこの青味がかった濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのように、カッと口を開いて、赤い舌をさえ見せて不意に私の靴先に噛みつく、
「なんて悪意に満ちた奴だ」
 私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であった。
 秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向ってなんの持ち物もなく、行軍かなにかのように一生懸命になって歩るいている、砂塵がバラバラ頬を散弾のように打つ、私は何度も立ち止まって休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があったのだ。
 私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢ったように驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであった。
 その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩うほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあった、いままた都会の舗石道で、同じようなビラで靴を噛まれたのであった。
 憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はこう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲ってきて、彼と洋傘の柄を握り合っているということがとても堪えられない事に思われだした。
 私はじっと頭上の傘に雨の降っているのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合っていることに気がついた。
 二人は柄を押し合い、へし合いしているのであった、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがいに譲歩し合い、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしていることを考えなければならなかった。
 その仕事はなかなか苦痛であった、洋傘の柄を二人で握り合うことの容易でないことを思った、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしているのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪い去るか、彼にまったく傘を与えて自分はズブ濡れで歩るくか、どっちかに決めなければ気が済まなかった、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あっけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押える、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻そうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさえも、このように激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思い、笑ってでもいるかのようであった。
 雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもわせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構えなしにどんどん駈けて向う側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやって来るのを待った。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらわれていた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になって、その附属物のかならず一品を失わう、例えば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢うのは嫌だと思った、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のように、だらりと袖をさげていた。