一日目
今月のゲスト:白石実三
名を呼ばれるたびに、兵卒達は一人一人あわてて席を離れた。そうして正面に将校の座した大きな卓の方へと歩いた――誰も彼も昂奮した不格好な足つきで。なかにはそういう儀式の気分に不調和とも思われる高い返事をして、一同を笑わせたものもあった。後頭部へ平たくのせた軍帽、 袖を長く膝をふくらませた軍服なども――私もその仲間の一人でありながら、軽い笑いに私をさそわずには置かなかった。いずれも今朝、軍服に着代えたばかりの人達であった。
何のために兵達の一人一人が呼ばれるかに就いて、私は最初なにも知らなかった。後方にある私の眼には、ただ卓上にうつむいてある将校の赤い軍帽と、卓前に立ってある兵達の黒い背中が見えたばかりだった。あだかも晴れ乾いた十二月の空は、その大きな円い胸を一同の上に高くかかげていた。午後になってから、急に悪寒を覚えるような寒い日だった。
やがて自分の姓名が呼ばれたときも、私はなんの成心もなかった。附きそいの上等兵の命令のままにポケットから認印を取り出し、狭い通路を正面の卓へと歩いた。何の装飾もない粗末な木卓のむこうには胸に幾つかの動章をさげた将校が腰かけていたが、その前に立った私を直視しようともしなかった。それにも拘らず、眼前の幅広い茶褐色の胸部、短かい顎髭の延びた肥った紅い顔は、卓前の低い腰掛に座した私の額を圧し曇らすようにした。私は漠然たるしかも峻烈な軍律のなかに、今や確実に私自身の体が置かれたのを知った。不安と憂愁とが、その瞬間に暗く胸を閉した。
見れば眼の前の卓上には、文字を刷った赤い罫紙がひろげられてある。その薄い墨の文字が明るみに疲れた私の視神経ににじむように映った。そこに『軍人読法』と標記してあった。
『此兵員に加る者は堅く左の条件を守り違背すべからず。……長上の命令は其事の如何を問わず、 直に之に服従し、抵抗千犯の行為あるべからざる事……』
私は読みつづけた。
『今般御読聞相成候読法の条々堅く相守り誓って違背仕る間敷候事。右宣誓如件』
読み終って私は急に全身に突ぱるような緊張を感じた。それは眼の前の文字が盛った重大な内容が、不用意な私を驚かしたということも一つの原因であった。重ねて文字の末尾にはやはり年月日が印刷してあった。そして年月日の次には、私より先に来た人々の姓名が――ある姓名の文字は濃く、ある文字は薄く、なかには拙ないおぼつかなげの筆蹟で行を乱して記入したのもあった。私のために明けられてある行からは、まだ一二枚が白紙のままに残されてあるらしかった。私は私の背後に、すでに次の列の兵達が立っているのを知った。
『右宣誓如件』
細い描線から成るその箇所の印刷の文字は、私の眼を通じて頭脳へと濃くつよく泌み入った。 あわただしいその瞬間に於ても、それは当然、自分から進んでなすべき誓の文字の種類であることを、私は知った。私はそっと眼の前の将校の顔をぬすみ見た。将校は退屈そうに、明るい日のなかにむしろ安易な顔の表情をして、やはりうつむいたまま懐中時計の針を見ていた。
私の後ろにはすでに三四人の兵達が待ってみた。眼に見えない何かの力に突動かされるように、私はやがて傍らの毛筆を執った。そして薄い墨汁を含ませていそがわしく名を署した。摩りきれた筆先の描画と心臓の鼓動とが一時に旋律を合せたように感ぜられた。私は署名の下にしっかりと捺印をした。まぶしい明らかな日光のなかに軽い眩暈をおぼえた。
繁忙な、煩瑣な、あわただしいその第一日が暮れて、やがて狭い兵舎内の室で、鉄の寝台の毛布につつまれてからも、私の胸には、まだ気がかりな黒い塊のような不安と焦燥とがわだかまっていた。それはあの卓上の赤い罫紙の文字に対してではなく、また懐中時計をながめてある将校に対する憤懣でもなかった。謂わば私自身の内にある何物かに対する焦燥であり不快な感じであった。
生活の変動からくる過度な疲労と昂奮と刺戟とは、電燈が消されてからも、容易に私達をして眠りに入らしめなかった。寝がえりの音や、かすかな溜息の声が、濃い闇の室の所々にきかれた。外廊下から漏れてくる燈火が廊下の架の銃を照すのも何となく荒涼たる感じを添えた。天井も家具もない裸の室内は一そう寒くたよりなく、毛布の繊毛の皮膚を刺すのも私には不愉快だった。足も石のように冷えていた。
俄かにそのとき私は刺し噛むような鋭い痛みを心の底ふかく感じた。責め詰るような鋭い内部の私語がきて、私にささやいた。
(そうだ、罪はお前のその弱い意気地ない性質に根ざしているのだ。お前のその疚しさはお前への当然の刑罰ではないか。すくなくともお前は最初の日からお前の手を以て✕✕を是認するような所為をしたではないか。お前の力の如何は問うところではない。とにかくお前にあるかぎりの力を以て他の✕✕を指摘してやらなかったのが悪いのだ……)
続いて今日一日の特殊的な光景の場面場面が、いずれも暗い影を帯びた写真の陰画のように私の胸へとくりひろげられて来た。ある場面では明るい午前の光線のなかにおどおどと怖じるような表情をした数百人の若者達が、いずれも長い幾列かの木机に集まっていた。そのあるものは胸に白い布切を結びつけ、あるものは帽子もなしに着流しで靴を穿いていた。洋服の人もあった。朴訥な農民らしい若者もあれば、またその服装から見て一見商人であり職工であることが知れるような人もあった。そうして人々の前には、軍帽、軍服、靴、または靴下、シャツというようなものが筵の上に高く整然と積重ねられてあった。ある人は目前に怪物の眼を思わせるような建物の高い窓を見上げていた。
それは実にこの地方のあらゆる村々から、また町々から、階級から、あらゆる境遇と事情と職業と方言とを有って駆集められて来た若者達が、すべてここで一たび根柢から赤裸々となり、そうして軍人という特殊な大集団の特殊な服装を與えられる光景の場面であった。あらゆる風俗、あらゆる地位、あらゆる骨格というものが、すべて今日ここで根本的に一変されようとしていた。誰人にも過去二十年の生涯のなかで、その目的に必要な素質と分量とを除外したほかは、新兵という大きな鋳型のなかで、今日から従前とは全く異ったある同一の生活に導かれようとしていた。
(その弱い仲間を裏ぎった一人が私だ。いや、そうではない、誰も彼も自分を弱いものに取りちがって考えているんだ)
私はもう一度、同じ室に寝台をならべている新しい友達を見るようにした。全く生面の人達でありながら、すでに幾たびか相会った人達のように懐かしまれた。
戸外にはいつか月が上ったらしく、窓々のカーテンが次第に白く明るんできた。窓に近い私が毛布の陰からそっと覗くと、冷たい床の上には火のない暖炉をめぐって数人の古兵達が何か小声に話していた。その一人は明日から、私達の監督にあたるこの室の下士勤務の上等兵だった。
『一昨年の今夜の感想はなあ……』
他の一人がきどった語調で言った。一人は暖炉に煙管を叩きつつ、
『それよりも去年の今夜はどうだった! おらあ、あれだけ勉強をして、てっきり帰休かと思ってたんだが……』
『ここの連中も』と一人は寝台を眺めわたすような様子で『明日からまた三年鍜われるんか。でも、今年は暖かいから仕合せだ』
『おい、おい』と俄かに上等兵が戒めるような語調で言った『そんなこと言わなくっても、新兵はつけ上るんだぜ! さあ、今日もこうして暮れたか、おい、もう寝ようぜ』
『ああ、寝よう。どれ、一年を一日なしくずしたか!』
古兵達はやがて賑やかに衣類をぬぎ、寝台へ横わるらしかった。窓々は次第に明るく、ところどころに黒い樹影を映していた。間もなく古兵達の鼾声がきこえると、再びあちらこちらから軽い溜息と寝返りの音がきかれてきた。明日からの生活を考えると、私の心はまた沈んだ。
(大正五年六月)