第12回3000字小説バトル
Entry12
黒い川
さとう啓介
冷たい風が彼の肩をすり抜けた。
暗闇の中の真っ黒い川が、音もなくゆっくりと静に、大海へ向って流れている。
まるで、白昼の腐った憎しみや悲しみを飲み込んでいる様に、それは黒い固まりになって、彼の足元から流れ出している様だった。
「吉岡!……またあいつ、さぼってんのか!」
ピピピ・ピピピ……「あの野郎、携帯まで置いて行きやがって!」
店長の短気な言葉と、冷たい電子音が、事務所の中に響き渡る。
その声を聞きながら、彼は返事すらする気にならなかった。
「佐久間、吉岡を呼んでこい。高岡さんが探しているんだ。早く行ってこい!」
彼は店長に向って無表情を作り、冷めた目で頷くと、店長は目を反らし、顎を出口の扉へと促した。
無言のまま彼は、扉を叩きつける様に締め、外へ出た。
(吉岡の奴、たぶんチンケな端た金でパチンコにでも、はまってるんだろう)彼はそんな下らない事をぼやきながら、夕暮れの線路脇の道を駅の方へと向かった。
「佐久ちゃん、おはよう! どこいくの?」
その艶っぽい声に顔を上げると、赤いタンクトップに黒いミニスカート姿のリンが、佐久間の胸元から覗き込む様に、膝を曲げて立っていた。彼は軽く笑みを浮かべ頭を下げた。佐久間はそのリンの優しげな大きな瞳の中に、自分の醜い顔が映った気がして、唇を噛みしめた。
「また、吉岡を探しに行くんでしょ? 佐久ちゃんも、少しは吉岡みたいに羽目をはずさないと疲れるわよ!」
そう言って、リンが佐久間の下腹部にパンチをする仕草をした。佐久間はあわてて腰を引いて、もう一度笑顔でリンを見つめると、彼女は親指を立てて、佐久間の横を通りすぎた。
リンの柔らかい、いい香りが佐久間の周りを優しく包んだ。
秋も終わりだというのに、その街は季節を感じさせないほどの熱情が渦巻いていた。
佐久間がパチンコ店の扉を開けると、雑音のうねりがさらに街を暑くした。
(右から3列目。そして奥から3台目)彼は、そう呟きながら、吉岡の台に向って行く。案の定、吉岡はそこにいた。タバコをくわえ、しけた面をしながら飽きもせず、四角い台にしがみついている。
「吉岡さん。店長が呼んでます」
吉岡は、苦々しく上目使いに佐久間をにらみ立ち上がると、椅子を蹴飛ばして
「佐久間、これを交換しておけ。ネコババすんじゃねーぞ!」
吉岡の鮫の様な眼光が、佐久間の顔に向けられる。しかし、彼はその目をじっと見つめ返す。吉岡は(ガキが!)とでも言いたげに、佐久間の肩にぶつかり出口へ向った。
(俺は、お前じゃないんだ。チンピラと一緒にするな)そう思いながら佐久間は、銀色の玉が積まれた箱をカウンターへ運んだ。
店を出ると、辺りはネオンに彩られ、空が真っ黒な幕を引いていた。
24時間眠らない街。昼間と夜の顔を持つ街。人は醜くとも生きている。殺してもまた蘇る。そんな歪んだものを彼は感じていた。そして、此処に自分が生きる場所を、見つけなければならない事も。
事務所に戻ると、リンとカオルがいた。
カオルは手を広げ、ちまちまとマニキュアを塗っている。佐久間に気付くと
「アッ、佐久ちゃん。ね〜今度さー、ディズニーシーに連れてってよ」
カオルの甘ったるい猫撫で声が、佐久間の首筋にまとわりつく。
佐久間は、微笑みながらデスクに座り、ポケットから数枚のお札と小銭を取りだして封筒に詰めた。
彼は心の中で呟いていた。
(冗談じゃない。昼間にあんたなんかと居たら、よっぽどの好き者と思われちまう)
「佐久ちゃん、お茶でも入れてあげようか」
リンがソファーから立ち上がり、カオルの影になると、微笑んで言った。
佐久間は、苦笑いを浮かべ頷く。リンのほっそりとした脚線の向こう側に、カオルの爆発する様なボディが、いやらしく覗いて見えた。
電話のベルが鳴る。佐久間は受話器を取った。
「はい。『夢の蔵』です。……一人ですね」
佐久間が顔をあげると、カオルが「どこ?」と聞く。彼は「シュバイツ」と短く言うと、カオルが自分を指差ししながら立ち上がった。
「……分かりました。5分後に行かせます……ありがとうございました。」電話を切った。
カオルはミラーに向い髪の毛を軽く撫でると
「佐久ちゃん、考えといてねー」と言い、事務所を出ていった。
ここは、バーなどと提携して女の子を紹介する、いわゆるホテトルの様なものをやっている。佐久間はここで半年ほど仕事をしているが、時間が夕方から明け方までと、今の自分には都合が良かった。
熱いお茶を煎れたリンが、佐久間のデスクに腰掛けて
「彼女、あのお店にお得意さんが多いわね。もめ事にならないのかしら?」
そう言って、佐久間にお茶を差し出した。リンの太股が机の角で異様な形をして、佐久間の目を釘付けにした。そんな自分に気付き(俺も、そこいらの野郎と変わらない……)そう彼は思った。
奥の部屋から、店長と吉岡が慌ただしく出てきて、佐久間に言った。
「ボウヤ、出掛けてくるからな。さっきの金はくれてやる、メシでも食って帰っていいぞ」
吉岡の鮫の様な目が、怪しく光った。
二人が出ていって、リンが佐久間に言った。
「店長は、ヤバイ事に首を突っ込んでるんじゃないかしら?」
佐久間は、一時間ほど前に高岡から電話が入った事をリンに告げると
「高岡? やだその人、冷酷なヤクザよ。困ったわー。ここも長く居れないな、佐久ちゃんも早く次の仕事探した方がいいわ。警察ざたはゴメンよ」
そう言うと、リンはテーブルの上の小物をバッグに詰めて
「また、佐久ちゃんと逢える事を祈ってるわ」と笑顔を残して部屋を出ていった。
一人、事務所に残された佐久間は、リンの温もりの残るソファーに腰を下ろし、あの柔らかい、いい香りを感じていると、不意に母親の顔を想いだした。
佐久間は高校を中退して、家を出た。
自分が何の為にここに、この世に存在しているのか。あの時なぜ母が自殺したのか。そんな蒼い疑問が、不安定な時間軸の中から彼を飛び出させていた。
不意に電話が鳴った。
店長が「目黒川の○○橋にバッグを取りに来い。急げ!」それだけ言って電話を切った。
佐久間がその場所に着くまで15分とかからなかった。橋の階段を佐久間は息を整え、ゆっくりと登る。狭い橋の手摺りには、ほんのりと蛍光灯のぼやけた光が浮かんでいた。その手摺りを掴みながら、暗くなっている橋の中央まで来ると、手に何かぬるっとしたものを感じて、彼は手のひらを見た。
赤黒く艶をもったそれは、明らかに血だとわかった。佐久間は辺りを見回し、店長を探した。
山手線も止まった時間帯。街がほんの一瞬だけ見せる、裏の顔の様だった。
冷たい風が彼の肩をすり抜けた。
暗闇の中の真っ黒い川が、音もなくゆっくりと静に、大海へ向って流れている。
まるで、白昼の腐った憎しみや悲しみを飲み込んでいる様に、それは黒い固まりになって、彼の足元から流れ出している様だった。
店長の変わり果てた姿は、その彼の足元の水面に、仰向けになって浮かんでいた。
佐久間は、冷たい瞳でその姿を見つめた。いつか母に見せた、あの瞳と同じ色をたたえ、彼は黙ったまま見つめ続けた。
彼の身体の中から急に、熱と共に何かがどろどろと流れ出した。汚れ腐っているはずの川が、急に彼には、奇麗に見えた。
全てを浄化した深夜の暗闇が、彼の時間軸をもう一度ねじ曲げ、あの時の瞳の色を消し去る。
そして、あの蒼い疑問さえも溶かしていった。
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