第12回3000字小説バトル
Entry13
渇水微熱症候群
有馬次郎
どんよりとたれ込める雲間に夕立ちの予感があった。しっかりと風が止まっている。
高層ビルが立ち並ぶ赤坂見附の夕方5時。8月の大都会。土埃が排気ガスに舞い上がり、灰色のビル群が巨大な墓石のシルエットを陽炎のようにゆらゆらと浮かび上がらせている。
弱まり行く日ざしの中で僕らは先を急いでいた。夕方最後の米つきバッタ営業だ。そんな僕らの目に突然飛び込んできた異様な風体の男。彼は色褪せた横断歩道にひっそりと、そこはかとなく佇んでいた。僕と相棒の佐藤以外の人間はだれも彼の存在に気付いていない。それが東京だ。何も見えないし、見たくもないという顔で皆突っ立っている。バカみたいに器用に3列に並んで。
信号待ちのサラリーマンの群れにまぎれ、忙中閑有の様相を呈し独り沈思熟考している男。心中に流れるのはレゲエかブルースか。その姿は難行苦行の様でもあり、ひたすら真摯な修行の様でもある。その男の視線は
夕陽のプリズム光の中で虚ろい彷徨い、その異臭は見ている者の口を開かせずにはおかない。実際に口を開けているのは僕たち2人だけだ。 彼は僕たちを振り返った。
薄汚れた皺だらけの褐色の顔からは、じんわりと滲み出た珠の汗が発散され達観へと昇華している。人生の希望はとうに霧散しているのだろう。見方によっては、寡黙で聡明な哲人の様でもあり深く壊れた廃人の様でもある。落ち込み窪んだ黒い穴の中にある瞳は、もはや悲愴も苦痛も恐怖も惜念も後悔も何もありませんよと、ひたすらに訴え続けている。霞んだ静寂の中で、そのことが湖沼の波紋のごとく緩やかに僕の中に伝わってきた。
よくよく凝視するとその男は茹だる様な暑さを何百回と乗り越えてきた自信に満ち溢れ、我関せずの境地にある。カーキ色の作業ズボンの尻の部分は大きく裂け、原形を止めていない。アフリカの土人ほど強靱ではないが、汚物まみれの尻が悪臭とともに窓から顔をのぞかせ、立派にVサインを送っている。無数の赤黒い化膿したおできに思わず息を呑みながら、ハエでも集っていたらまるで長閑な農村の乳牛だと独りごちた。やはり単純なサラリーマンの心の中は無風なのだ。汚い尻を見なければ良かったと今さら思うのが哀しくなる程可笑しかった。僕たちは顔を見あわせた。佐藤も不思議な程渇いているように見えた。僕もとても渇いていた。
「俺だけが汚いとでも思っているんだろう?」幽かに聞こえた気がした。
「汚いのは人生のスタートもゴールも決まったような顔で毎日排泄を繰り返すあんたらの方じゃないのかい」
「おい、佐藤!前のおっさんの声聞こえたか?」
「いや、何かぶつぶつ言ってるみたいだが、よくわかんねえよ」
「責任もなにも一人では取る事もしねぇ。大儀と名分にすがりつくだけの人生か」その男の尻が鋭く呻いて右に左にしぶとく痙攣したように見えた。納豆がへばりついた様なシミだらけの背中に幽かだが精が宿っている。
その時信号が青に変わった。それまでの彼の激情は一瞬で鎮静し、瞳の輝きまでもがシャイな世捨て人から俗な物乞いに変化している。横断歩道を渡り切ったら僕らは左に、その男は右に曲がった。坂道のずっと向こうにはネオンがちらほら点り始めた。その坂道をすたぺた、すたぺた、修験者のごとく歩んで登って行く後ろ姿を僕らは立ち止まって見送った。
男の頭の中には、今日のコンビニ夜間巡回のスケジュールが美味しい店順に完璧にインプットされている筈だ。
「あのおっさん、この前読んだ週刊誌に載っていたよ。今思いだした」佐藤が話し始めた。
「何でもこの永田町で昔、秘書かなにかやってたらしくて政治や老獪な政治家の権力欲と金銭欲に甚だ呆れ果てて、ああなっちまったらしい。なんでも保健所は彼を目の敵にしているそうだ」
「あの姿じゃ、公衆衛生上当然だろう?」僕はしたり顔で聞返した。
「いや違うんだ。平河町から赤坂方面までのエリアに餌づけの拠点がたくさんあり、野ネコや捨て猫や子猫に
コンビニの廃棄商品の中から選別して食い物を配っているらしい。朝方には食べ残しまで回収して廻るらしいよ」
「自分は食べずにか?」
「愚問には答えたくないな」佐藤が僕の肩を突いた。
もういい加減引退してください。あなたがたの功績ははかり知れないものが有ります。御苦労様です。あまりにも立派すぎて赤面しそうです。お願いです。何とかなりませんか。政治家のじーさんと叫びたくなった。
「世の中、差別はいけない。皆自由なのだから。皆平等です。ふ〜ん、へどが出るね」
胃液が上がってきた。むせそうになる。世の中、良く出来ているんだよな。弱者はいつも不利だが、あまり目立たない様にできている。言い訳などするな。それが世間だよ。
「お前、何考えてんの?何かぶちかますか、ええ」佐藤が不愉快な時にする顔になっている。
「すまんすまん。あの尻がこの町には潔くて、あまりにも似合って哀しくて、死にたくなったよ」
その時、あの男の声がまた聞こえてきた。心の底に響くように。
「俺は薄汚い動物だ。食って寝て排泄をくりかえす。あんた等は人間なんだろう。俺とは違うよ。落胆したり失望したり自殺までしたりする。御立派な特権だ。俺はあんた等みたいに利口ではない。絶望も寂寥も悲愴も排斥も疎外も真に受け、俗念で生き続ける動物そのものだ。逃げたくても逃れられない。とにかく死ぬまで生きるしかない。この町の風景までもが俺を否定し、敢然と抹殺してしまう日まで。そろそろオレンジとグリーンとレッドをバックに燦然と輝くセブンの文字が見えてきた。アディオス!アミーゴ。さらば友よ!まだ俺の心の中には風が吹いている」
ゆっくりと潔く尻は振られて消えていった。夕陽の残光のなかで霞み消えながら、これが最後だと言わんばかりに。
日付け切れがなんぼのもんだ。食品添加物などくそくらえ!ちょっぴりあの男を応援したくなった。
間に合わないかもしれない。お客は大手製薬会社だ。汗をふけ。胸を張れ。まっすぐに歩け。臆するな。背中も腹も汗の洪水だ。やはり僕と佐藤は渇いている。
「エへ、尻にパワーもらったよね。何だかよくわかんないけど」僕はやっと辿り着いた製薬会社の玄関前で興奮気味に呟いた。
「ほんとだ。何だかよくわかんないけど」佐藤も何度も相槌をうちながら汗を拭いている。
僕らは淡いブルーに透き通る自動ドアを通り抜けた。正面の受け付け嬢が何の心配もしたことありませんよと静かに微笑んでいる。
今日の今まで、何もまともに見ていなかったことにウイングチップのつま先を見ながら気づいた。
スローモーションで名刺入れを取り出しながら、呟くように切り出した。
「貴女は、渇いていますか?」
「えっ、はっ?」
佐藤が僕の太ももをすかさず蹴り上げる。
「恐れ入ります。もう一度御社名お聞かせ願えますでしょうか?」
スローモーションで彼女の顔の右眉と黒子がのった唇の右端が奇妙に歪んでいく。
「さあ、帰ろう。もう遅いんだし。」僕は全身全霊を込めた作り笑いを浮かべ踵を返した。佐藤はなんだかんだ汗を拭きながら説明を繰り返している。
「何だかわかんないけど、くそくらえだ」
自動ドアが開いた。帰り道も自分の進む道すらもわからない。それでも歩こうか。ふと見ると玄関先のオレンジ色の象のサトちゃんだけがキラキラ笑って、少し寂しげに見えている。
「アディオス!アミーゴ!」
僕は、佐藤の背中に手を振った。
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