第12回3000字小説バトル
Entry4
地下鉄口前
raspy
強い日射しで、機能性を全く無視したコスチュームはじっとりと汗ばんでいた。彼女は、地下鉄の出口で携帯電話のキャンペーンの為にティッシュを配っていた。オレンジのコスチュームは、かわいさと露出のバランスが非常に良くできており、これを考えた奴の助平度が良くわかる代物だ。これで一日八千円はどう考えても安い。日焼けはするし、男は嫌な視線を投げてくるし、やけに声を掛け慣れた連中がナンパしてくる。もちらん、彼女は慣れた調子でそれをかわす。
少し、笑顔を振り蒔く自分に嫌気がさしかけていた。
今日の空はやけに白かった。こんなに地上はじめじめしているのに、空は乾燥しているように見える。紫外線も強そうだ。はて、昨日もこんな空だっただろうか?
しかし、彼女は昨日の空を覚えていなかった。雨は降っていなかったが、晴れだっただろうか? 曇りだっただろうか? その辺が曖昧で、彼女は少し考えたが、次々と階段を上がってくる人々に紛れ、忘れた。
彼女は、笑顔でティッシュを配る。最初は億劫だが、一時間程経つと、次第に笑顔慣れしてくる。空みたいな笑顔。腐ったダイコンみたいな禿げ頭にも笑顔。ブロッコリーみたいな髪の奴にも笑顔。バンドでもやってそうな人にも笑顔。どの人にも均一の笑顔をするようになると、これがプロってやつかな、と少し自分が誇らしくなる。
しかし、それにもすぐ慣れる。何も考えなくても笑顔ができるようになる。誰が来ても、何も考えずに笑顔。時間感覚が鈍ってくる。もうどれだけのティッシュを配っただろう? よくわからない。午後に差しかかり、一番暑い時間帯になってきた。暑い。温度感覚が体を支配し始める。コンクリートから立ち昇る熱気に気付く。コンクリートはこの時間まで溜めこんだ、ありったけの熱を吐き出していた。熱のゆらめきの中、思考はほとんど停止し、彼女はそれでも笑顔でティッシュを配り続ける。階段を上がる靴の音が妙に響く。背中で汗の流れるのが手にとるように解る。感覚だけが過敏になっていった。
その鈍る思考の中、後ろの方で物音がした。その後、男の声。なにやら怒っている様子。彼女はティッシュを配りながら、耳だけを後ろに集中させる。
車の音がうるさいのか、自分の意識がぼんやりしているのか、言葉の内容が聞き取れない。ただ、男同士で言い争っているのだけが伝わってきた。少し興味をそそられた彼女は、ちらっと後ろを見る。威勢の良さそうな若い男が二人、険悪な雰囲気を蒔き散らしていた。彼女はすぐに視線を元に戻したが、声はどんどん激しくなって来ていた。このまま殴り合いでも始めるんじゃないか、という劍幕だ。事態の流れに、彼女は幾分興奮する。いままでの汗が熱を帯び、暑さと好奇心で意識がはっきりとしてきた。
もう一度、彼女は後ろを見た。一人の男がぶつぶつと何かを言い、もう一人の男が領く。二人はビルとビルの隙間にある小さな通りへと入っていった。そこで喧嘩が始まるのだろうか? 残念ながら、その暗がりの奥は彼女の位置からは見えにくい場所にあり、二人が何をやっているのかわからない。だがここまできて、最後を見ないわけにはいかなかった。しかし、丁度電車の到着時間だったらしく、地下鉄の穴から大量の人が湧き出て来た。彼女は笑顔を作るのも忘れながらティッシュを配る。二人の事が気になって仕方が無い。ティッシュを一通り配り終えると、彼女は小走りでその通りの入口に向かった。もし、喧嘩になっていたらどうしよう? 周りの人を呼ばなきゃ! 様々な物語が、さっきまで空白だった頭の中を一気に駆け巡る。入口に近づくにつれ、緊張が高まっていった。
彼女が入口に辿り着いた時、奥の方に男達はいた。だが、殴りあってはいなかった。さっきまでとはうって替わって、何やら仲良く話している。お互い、なかなか度胸あるよな。そんな感じに写る。
なあんだ。
再び暑さの感覚が戻り、汗もまたひんやりと冷たくなる。ティッシュを放って来た事を思い出す。彼女は、少しでも走った自分に後悔を感じ、そしてまた、周りの誰もがこの事態に興味を示していない事に気付いて、熱い地面を軽く蹴った。
男達はオレンジのコスチュームを着た彼女に気付くと、二人揃って禿げ頭のオヤジと同じ眼で彼女を見た。
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