第12回3000字小説バトル
Entry5
 
金魚
伊東春日
 
 
赤いヒールに赤いスリップドレスで私は街を歩く。
歩くより進む。
どのくらいの速さなのか、黒が私を過ぎるみたいに。
立ち止まりはしない。
止まったら涙がこぼれてしまうから。
足元が見えない。見てない。
きっとひどい顔。
人の声と車の音とサイレンと歩く靴音と信号の光と。
全部が混ざって一つの音に聞こえる。
大きな世界がまわりに広がっている。
なのに、私だけ違うところにいるみたい。
自慢の長い髪が風をきって。
腫れあがった頬だけが痛い。
目の前に踏み切りが降りて、私は立ち止まる。


時間だけが過ぎる。
本を読んで、買い物に出かけ、公園で時間をつぶす。
ただ夜を待つだけ。
あの人に会えるなら、私の時間は幾らでもささげていい。
よけいなものなんて存在しないのだから。
すべては浅川さんにつながっている筈だから。
浅川さんは九時にチャイムを鳴らす。
一分も遅れない。
ギリギリに帰って、口紅を付け直す。
あの人が帰る場所を作ることなんてしない。
浅川さんのものなどここには存在しない。
何ひとつ。
ごはんをつくって、お風呂をたいて、寝る場所の用意する
・・・なんてしない。
あの人をつなぎとめる小細工なんてしたくないから。
あの人は私をしづかと呼ぶ。
だから、私はあの人のために「しづか」として生きる。
あの人の初恋の人がしづかだったと聞いた。
そんなことはどうでもいい。
あの人が私を「覚えている」のなら。

家に帰るとササが足に転がってくる。
マンションだから猫を飼ってはいけない。
猫が好きなわけじゃないけど、この子は特別。
だって。
ササは捨てられていた。
目があって、お互い通じた気がした。
雨にぬれているのに声を出さずにただ震えていた。
小さなダンボールの中で。
白くて毛並みはふわふわしている。
目がとても強い。
ササは浅川さんが嫌いらしい。
近づこうとしない。
部屋の中は殺風景で何もない。
雑誌が少し散らばっていても浅川さんは何も言わない。
あの人は私に会いに来るだけだから。
それが心地よい幸せだと思っていた。

ある日の夕方。
電話が鳴る。
透き通った、でも強い意思のある女の声。
でも聞いた事のある。
あ。浅川さんのケータイからだ。
「明日の6時、うちに来てください。」
不思議と落ち着いている。
いつかこういう日が来ると分かっていた。
そう。
何も恐れる事はない。
私に失うものはないのだから。

浅川さんの奥さんはとてもきれいな人だった。
小柄だけど、とても美しい人だった。
生活観のある美しさ。
私にはない。
愛人という身分で、浅川さんに養ってもらっているのだから。

ササという名は、七夕からきた。
私は七月七日生まれだから。
ササとも七夕の日に出会った。
浅川さんも。
七夕は織姫と彦星が一年に一回会える。
流れ川の真中で。
会えるのが一年に一回だとしても彼らは本当の恋人なのだ。
それは不思議に心に響いて、とても苦しい。
でも浅川さんに会えない毎日なんて考えられない。
私はきっと流れ川を泳いで、
たとえ溺れて死んでも川に飛び込むだろう、あの人に会うために。

「あんたみたいな汚れた女に。」
そんな言葉、普段は絶対に口にしないような。
「あの人をとらないで。」
泣き崩れて、
あんなに取り乱すような日常は持ち合わせていないはずの人だった。
いらない。
浅川さんにもらったあの部屋も、
浅川さんにもらった生活も、
浅川さんも。
だから返してあげる。
子供はいないと知っていた。
ただ、奥さんのおなかが大きかった。
その子は生まれてからずっと幸せな環境の中で育つだろう。
父親に愛人がいたなんて疑いもしない。
もしかしたら、しづかという名になるかもしれない。
さんざんぶたれて、わたしは涙一つ流さなかった。
「かわいくない女。泣き叫べばいいのに。私と同じ不幸をわかってよ。」
意識はなくて、
この人の顔を見つづけて、
それがこの人には気に入らなかったらしい。
渦巻く声。
頭の中で繰り返し聞こえる。
「しづか」
私は浅川さんの初恋の人ではない。
しづかではない。
だけど、浅川さんのそばにいれるなら。
奥さんの名前はしづかじゃなかった。
これは私だけが知ってることなのかもしれない。
朝も夜も昼もいつだって続いてる。
そのあとの言葉がほしくて。
今も。

ケータイに着信が残っている。
「アサカワサン」
電源を切る。
あなたの奥さんが私の前で泣き崩れたの。
ねえ?
あなた、どうする?
財布から浅川さんのカードを取り出す。
その床に倒れこんでいる女の前に置く。
「しづか」じゃない、その人の前に。

ねえ?
しづかってどんな人なの?


踏み切りの鐘が鳴り出して、人々は足を急がす。
雨のしずくが一つ一つ。
肩に、
腕に、
髪に、
胸に、
指に、
脚に、
頬に。
びしょぬれの人魚姫は、お城へは帰れない。
海でさえもぐる事が出来ない。
行き場のない赤い。
金魚が枠の中をばたついている様な、
赤のドレスを景色に透かして。
たたずむ姿は凛として、
前を見ているように見えるかもしれない。
もうわかっていた。
この日が来ることを。

あの時流れたものは、雨なのか、涙なのか。

 
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