第12回3000字小説バトル
Entry7
二十七分の一の真実
長本 時彦
あいつが居なくなった。突然の事だった。仕事から帰ると、あいつの荷物がすっからかんになっていた。荷物と言っても、携帯電話と、安っぽいオレンジ色のスケッチブックだけだったけど。出て行ったのはすぐに分かった。何となくそんな予感がしてたから。あいつの事が好きだった。結婚してる。それは知ってた。でも、そんなのは好きになれない理由になんて、何にもなりやしないんだって、そんな風に堂々と、今でも言える。
あいつは…二十七分の一の世界へと旅立って行った。そう、二十七分の一。それはジャンケンで、三回連続で勝つ確率の事。引き分け無しの三回勝負。それは二十七分の一。それは人が幸せになる確率と同じなんだって。パーセントに直せば、0.037パーセント。少し低すぎる気もするけど、本当に幸せな人になんて、出会った事も無いから、そんなものかなって気もする。あいつはこんな事も言っていた。ジャンケンで、二度勝つだけなら、確率はおよそ十パーセント。三度続けて勝つ難しさは、生きる希望を無くしかけた人間にしか分からない、と。
「いいかい? 幸せになる秘訣は、三度勝とうなどと思わない事だ。どだい無理な話さ。一度でも勝てたらラッキー。運良く二度勝てたら、上手く自分を納得させる必用があるね。オッケィ、オッケィ。オレは最高にツイてる。人生で二度も勝てたんだぜ? どうして三度勝つ理由がある? 止しなよ。止めときな。人間は欲張りで強欲な生き物さ。でも、それを差し置いても…三度勝つ理由なんて、何処にも無い」
「……」
「…でも、やっぱり不安なんだな…三度勝てば、最高の幸せが手に入る。それを知ってしまった人間には…きっともう、止める事など出来やしない」
「…奥さんが居るんでしょ?」
「幸せにしたいんだ。いい暮らしをするのが幸せだって言うなら、オレはもうそれをアイツに与えてる」
「そういう問題じゃないじゃない」
「いいかい? よく聞くんだ。一度勝てば一千万。二度勝てば一億。三度勝てば百億としよう。一億と百億の違いって何だ?」
「…桁が違う」
ふいにあいつは、楽しそうに声を出して笑った。あたしは相変わらず不機嫌だった。
「オッケィ、オッケィ、素晴らしい。完璧な答えだ。しかし一億手に入れた時点で、残り二十七分の一の確率に賭けて、百億に挑戦するような馬鹿は…賭けてもいいが、仮に勝っても、必ず破滅する。本当に手に入れたい物が分かっていないからだ」
「…かもね」
「二十七分の一…可能なようで、不可能な数字だ。人生の不可思議さが、ここにある」
「ねえ」
「何だい?」
「そんな時は…祈るの?」
ふいにあいつは、笑った。
「祈るだろうね。やっぱり」
「神様に?」
「さあ…どうかな。ただ、祈ろうと、祈るまいと、確率はやっぱり二十七分の一。変わらない。だからこそ、人間、祈る気持ちを忘れちゃいけないのかも知れないね」
「…ねえ」
「ん?」
「…今ここで、賭けない?…あたしがジャンケンで三つ勝ったら…その時は…あたしのお願い、一つだけ聞いて欲しい」
柄にもなく真剣な表情をしたあたしを、あいつはただ、優しく見つめた。本当に優しく…笑った。
「構わないぜ?」
言いながら、あいつは拳を二、三度握ったり、開いたりして、そして急に鋭い眼差しになった。あたしは息を飲んだ。
「言っておくが、あいこは無しだ。どんな理由であれ…ふむ、勝負をする時の女はいい顔をする」
「いくよ」
勝負は一瞬で決まった。あたしはパー。あいつはグー。…あたしの勝ちだ。
「さすがだな。相変わらずアキは勝負強い。でも無駄だよ。人間の持つちっぽけな勝負強さなんて、大自然の法則の前では糞の役にも立ちやしない。二十勝投手はたまに出るが、二十勝無敗の投手は居ない。自然の摂理だ」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さあ二回戦、行くよ?」
…あっ、と思わずあたしは声を上げた。…あたしはパー。あいつは…前と同じ、グー。あいつは少しも表情を変えずに、自分の出した拳を、暫くの間見つめていた。
「どうしたの?」
あたしはあいつの動揺を誘うために、わざとからかうように笑いながら言った。どうもしない、とあいつは一言。人間はちっぽけな存在。だから、願いだっていつもちっぽけな物だ。豪邸を建てようが、いい車に乗ろうが、それだってただの自己満足じゃないか。あたしの願いと何処がどう、違うって言うのさ。好きな人と一緒に居たい…それだけの事じゃない。
「あたしは変わらないからね。例え、二十七分の一だって、二百七十分の一だって…あたしの気持ちはこれからも変わらない」
自分でも笑ってしまう位、声が震えていた。けれどあいつは笑わなかった。じっとあたしの顔を見つめ、そして静かに二、三度首を横に振った。そして一言、オッケィ。あたしより十も年上のあいつが、妙に子供っぽく見えた。…当たり前のように、勝負はほんの一瞬だった。
部屋中の窓という窓を開け放って、あたしは疲れた体をベッドに放り投げた。今度の日曜日に、掃除をしようと思った。…あいつは今頃、マカオあたりでまた誰かをつかまえて、小難しい講釈でもたれているんだろうな、きっと。人間ってちっぽけな存在。あいつと居ると、いつもそう感じて、少し寂しかった。…少し暖かかった。二十七分の一の真実は、あたしのちっぽけで、ささやかな願いに、優しく手を振って、サヨナラと言った。
…最後の勝負、あたしはパーを出した。あいつは…パーを出した。まるであたしの意志を見透かしたような、引き分け。
「…結局あたしの二勝一分けじゃない。残念賞くらい残して行けよ…」
少し冷たい風が、窓から窓へと吹き抜けて行った。それがこの夏の、たった一つの出来事のような気がした。
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