Entry2
野生の戦士たち
羽倉諒
小柄な若い戦士と、隣に住む老年の兵士はとても仲がよかった。ある時訪れた老兵士がソファの側で寝そべると、彼はそっと呼びかけた。
「軍曹殿。よろしいですか」
顔を向けると、いつもの小僧がなにやら深刻そうな面もちで覗いている。のっそりと体を起こした軍曹は、路地裏へ向かった。
「どうしたのだ?」
「最近、とても気分が悪いのです」
大きな鼻を近づけ、小僧の匂いを嗅いでみる。
「うむ。よくあることだよ」
「お分かりになりますか」
「長いからな。お主のようなやつとは、何度も会ってきた」
「ではお聞きしますが、軍曹殿は不満がないのですか」
「ないことはない。が、もう儂は長く生きすぎた」
「自分は不満で不満で仕方がありません。自分はどうしてここにいるのだろうかと」
「雇い主との契約だ。仕方があるまいて」
「軍曹殿は、いつ契約をしたのかご存じですか?」
首を振る。どさっと床に身を投げた。これでちょうど、頭の高さが同じくらいになる。
「自分もいつそんな契約に署名したのか分かりません。気がついたときには、もうここにいたのです。相互の了解がなされていないような契約が、有効でしょうか」
「儂も昔は思ったものだ。なぜ自分はずっと鎖に繋がれていなければならないのか。自分は何か罪を犯して、裁きにでもあっているのだろうかと。だが違う。儂は雇い主について歩き、護衛を務める。雇い主は儂を鎖で繋いで歩かせる代わりに、食事を用意する。これは、契約だったのだ」
「いつの契約ですか。一方的な契約は、無効です」
「血のたぎったこともある。押しつけられた物が忌々しかったのは、お主と同じだ。だがな、次第に慣れていくものだよ」
「自分は、慣れそうにありません。第一、食事を用意するというのは、自分が要求した報酬なのでしょうか」
「食事がいらないと?」
「そうではありません。しかし、自分の体は日に日に重くなり、歩くことですらおっくうになりつつあるのです。用意されたものを食べたくないからとそっぽを向けば、赤子をしつけるかのように無理強いします。自分の身には、余る量です。走り回る場所もなく、戦いに明け暮れることもない自分には」
「それが、お主たちの鎖だよ。儂らの鎖はそれと分かるが、お主達の場合はわかりにくいのだ」
「ならば! 自分に対して与えられる食事は、報酬として不当ではないですか!」
「だが、それを喜んで食ってみせるのも、お主の契約のうちだよ」
「何故です。何故自分に害なるものを、自分は喜ばねばならないのですか」
「言ったろう。契約だと」
「そんな契約はした覚えがありません」
「お主の食事は、そんなにまずいのか?」
「いいえ。まずいことはありません。いえ、でも、雇い主の顔を見れば、どんなものでもまずくなります。あのにやけた顔だけは、見るに耐えません」
「雇い主とはそういうものだ。他者のために何かをしたいのだよ」
「自分が望んでいないのに?」
「望んでいると思っているだろうな」
「勘違いじゃないですか。自分には、雇い主を訴える用意があります」
「訴える? どこに?」
「大地にです」
「無駄だよ。儂らの母はもう、うちから肉を食い破られて、とうの昔に血を吐いて倒れられた」
「では空は」
「儂らの父は、古来より無関心だ。時にがなり立て、時にあやしてもくれるが、誰彼とかまってはいない。あまりに心の広すぎる方だよ」
「では……自分たちは一体どうすればよいのですか」
「どうにかしようがあるならば、誰かがもうどうにかしているとは思わぬか? 縛り付けられた鎖は断ち切れぬ。折れた剣は直せず、鎧はただ重くなるばかり。どうして雇い主に牙をむく? 彼らの手勢がどれほど大群であるかを知らぬのか? 一人ではなにも出来ぬが、寄り集まって威張りちらす者達だ。儂の遠い親戚の黄金の王ですら、もはやかなわぬほどなのだ。お主の大きな親戚のことだ」
「黙って奴隷に甘んじろと!」
「さもなくば死ぬことになる」
「あれは一体なんです? 緑色のひらひらしたものは。外で無数にきらめきながら、自分の心をくすぐり続けるあれはなんというのですか」
「葉っぱだよ」
「柔らかそうで、おいしそうで、一度触ってみたいものの、飛び上がるには高すぎる……でもちょうどすぐ側に、太い柱があるではないですか。あそこから狙おうと思うのです」
「木というのだ、あの柱は」
「でも自分は葉っぱどころか、木にすらたどり着けない。この壁が、あの透明の壁が自分を阻むのです」
「外は雇い主達の一族の領域だ。牛より強いものが、無数に走り回っているのだよ。しかも、儂らのようなものを生き物だと思うものは、一握りでしかない。間違って殺しても、ぬいぐるみを切り裂いたのと同じようにしか思わない。外は、危険なのだよ」
「危険だからずっと守られていろと? 雇い主達の嫌らしい笑みと共に、ずっとここに囲われているというのですか」
「恥るには及ぶまい。お主の父も母も、同じだったのだ」
「では、その親は? 遙か昔の、我らの祖は」
「時代が違うのだ」
「ここよりずっと広いところを駆け回り、日々を空腹で過ごし、一度の獲物に感謝をして生きていた時代はもうないのですか。自らの全てで勝ち残り、負けて消えていくような厳しい時代は」
「遠い遠い、昔のことだ。そのころはまだ、母は生きていた」
「母はどうして死んだのですか。どうして生き返せないのですか」
「祖母だよ。雇い主達は、母よりも、祖母の血を強く継いでいた。だから、母を殺したのだ。祖母の化身たる雇い主達がいる限り、母はよみがえらぬ」
「では、祖母を殺したら、母は生き返りますか」
「分からぬ。祖母は殺せぬよ」
「雇い主は?」
「儂らでは、勝てぬ」
小さな戦士はうずくまった。上目で見上げた。窓の先で揺れる木々を。真っ白なけむりをくゆらす遠い父を。
「自分は本当に、生きているのですか」
「雇い主達の間でも、奴隷がいたらしい。それを生きているというなら、儂らも生きているだろうな」
「奴隷は、生かされているのだというなら?」
軍曹は頷いた。
「自分は、生きたいのです」
「生きる場所がないのだ」
「戦場でずっと勝ち続け、常に勝者であった先祖をもちながら、自分は生きることすら出来ない人形に成り下がるのですか。自分は牢獄で生かされるより、戦場で死にたいと思います」
「儂の戦友が、鉄の牛に殺されたのでなければ、お主を出してやることも出来たろうに」
「軍曹殿。自分は、まだ生まれてすらいません。どうかおきになさらず」
軍曹は首を振る。
「お主が死んだとき、儂は一体どれほど泣けばよいのだ?」
「泣かないで下さい。自分は幸せです」
軍曹は泣いて、謝った。