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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第14回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 2月)
文字数
1
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
2
羽倉諒
2683
3
月季花
2079
4
岡野義高
1621
5
やす泰
3000
6
MARZ
1347
7
かの
2796
8
党一郎
2924
9
一村雅
2693
10
羽那沖権八
3000
11
海坂他人
2944
12
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
13
伊勢 湊
3000
14
朝市九楽
2983

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Entry1

(本作品は掲載を終了しました)

Entry2
野生の戦士たち
羽倉諒

 小柄な若い戦士と、隣に住む老年の兵士はとても仲がよかった。ある時訪れた老兵士がソファの側で寝そべると、彼はそっと呼びかけた。
「軍曹殿。よろしいですか」
 顔を向けると、いつもの小僧がなにやら深刻そうな面もちで覗いている。のっそりと体を起こした軍曹は、路地裏へ向かった。
「どうしたのだ?」
「最近、とても気分が悪いのです」
 大きな鼻を近づけ、小僧の匂いを嗅いでみる。
「うむ。よくあることだよ」
「お分かりになりますか」
「長いからな。お主のようなやつとは、何度も会ってきた」
「ではお聞きしますが、軍曹殿は不満がないのですか」
「ないことはない。が、もう儂は長く生きすぎた」
「自分は不満で不満で仕方がありません。自分はどうしてここにいるのだろうかと」
「雇い主との契約だ。仕方があるまいて」
「軍曹殿は、いつ契約をしたのかご存じですか?」
 首を振る。どさっと床に身を投げた。これでちょうど、頭の高さが同じくらいになる。
「自分もいつそんな契約に署名したのか分かりません。気がついたときには、もうここにいたのです。相互の了解がなされていないような契約が、有効でしょうか」
「儂も昔は思ったものだ。なぜ自分はずっと鎖に繋がれていなければならないのか。自分は何か罪を犯して、裁きにでもあっているのだろうかと。だが違う。儂は雇い主について歩き、護衛を務める。雇い主は儂を鎖で繋いで歩かせる代わりに、食事を用意する。これは、契約だったのだ」
「いつの契約ですか。一方的な契約は、無効です」
「血のたぎったこともある。押しつけられた物が忌々しかったのは、お主と同じだ。だがな、次第に慣れていくものだよ」
「自分は、慣れそうにありません。第一、食事を用意するというのは、自分が要求した報酬なのでしょうか」
「食事がいらないと?」
「そうではありません。しかし、自分の体は日に日に重くなり、歩くことですらおっくうになりつつあるのです。用意されたものを食べたくないからとそっぽを向けば、赤子をしつけるかのように無理強いします。自分の身には、余る量です。走り回る場所もなく、戦いに明け暮れることもない自分には」
「それが、お主たちの鎖だよ。儂らの鎖はそれと分かるが、お主達の場合はわかりにくいのだ」
「ならば! 自分に対して与えられる食事は、報酬として不当ではないですか!」
「だが、それを喜んで食ってみせるのも、お主の契約のうちだよ」
「何故です。何故自分に害なるものを、自分は喜ばねばならないのですか」
「言ったろう。契約だと」
「そんな契約はした覚えがありません」
「お主の食事は、そんなにまずいのか?」
「いいえ。まずいことはありません。いえ、でも、雇い主の顔を見れば、どんなものでもまずくなります。あのにやけた顔だけは、見るに耐えません」
「雇い主とはそういうものだ。他者のために何かをしたいのだよ」
「自分が望んでいないのに?」
「望んでいると思っているだろうな」
「勘違いじゃないですか。自分には、雇い主を訴える用意があります」
「訴える? どこに?」
「大地にです」
「無駄だよ。儂らの母はもう、うちから肉を食い破られて、とうの昔に血を吐いて倒れられた」
「では空は」
「儂らの父は、古来より無関心だ。時にがなり立て、時にあやしてもくれるが、誰彼とかまってはいない。あまりに心の広すぎる方だよ」
「では……自分たちは一体どうすればよいのですか」
「どうにかしようがあるならば、誰かがもうどうにかしているとは思わぬか? 縛り付けられた鎖は断ち切れぬ。折れた剣は直せず、鎧はただ重くなるばかり。どうして雇い主に牙をむく? 彼らの手勢がどれほど大群であるかを知らぬのか? 一人ではなにも出来ぬが、寄り集まって威張りちらす者達だ。儂の遠い親戚の黄金の王ですら、もはやかなわぬほどなのだ。お主の大きな親戚のことだ」
「黙って奴隷に甘んじろと!」
「さもなくば死ぬことになる」
「あれは一体なんです? 緑色のひらひらしたものは。外で無数にきらめきながら、自分の心をくすぐり続けるあれはなんというのですか」
「葉っぱだよ」
「柔らかそうで、おいしそうで、一度触ってみたいものの、飛び上がるには高すぎる……でもちょうどすぐ側に、太い柱があるではないですか。あそこから狙おうと思うのです」
「木というのだ、あの柱は」
「でも自分は葉っぱどころか、木にすらたどり着けない。この壁が、あの透明の壁が自分を阻むのです」
「外は雇い主達の一族の領域だ。牛より強いものが、無数に走り回っているのだよ。しかも、儂らのようなものを生き物だと思うものは、一握りでしかない。間違って殺しても、ぬいぐるみを切り裂いたのと同じようにしか思わない。外は、危険なのだよ」
「危険だからずっと守られていろと? 雇い主達の嫌らしい笑みと共に、ずっとここに囲われているというのですか」
「恥るには及ぶまい。お主の父も母も、同じだったのだ」
「では、その親は? 遙か昔の、我らの祖は」
「時代が違うのだ」
「ここよりずっと広いところを駆け回り、日々を空腹で過ごし、一度の獲物に感謝をして生きていた時代はもうないのですか。自らの全てで勝ち残り、負けて消えていくような厳しい時代は」
「遠い遠い、昔のことだ。そのころはまだ、母は生きていた」
「母はどうして死んだのですか。どうして生き返せないのですか」
「祖母だよ。雇い主達は、母よりも、祖母の血を強く継いでいた。だから、母を殺したのだ。祖母の化身たる雇い主達がいる限り、母はよみがえらぬ」
「では、祖母を殺したら、母は生き返りますか」
「分からぬ。祖母は殺せぬよ」
「雇い主は?」
「儂らでは、勝てぬ」
 小さな戦士はうずくまった。上目で見上げた。窓の先で揺れる木々を。真っ白なけむりをくゆらす遠い父を。
「自分は本当に、生きているのですか」
「雇い主達の間でも、奴隷がいたらしい。それを生きているというなら、儂らも生きているだろうな」
「奴隷は、生かされているのだというなら?」
 軍曹は頷いた。
「自分は、生きたいのです」
「生きる場所がないのだ」
「戦場でずっと勝ち続け、常に勝者であった先祖をもちながら、自分は生きることすら出来ない人形に成り下がるのですか。自分は牢獄で生かされるより、戦場で死にたいと思います」
「儂の戦友が、鉄の牛に殺されたのでなければ、お主を出してやることも出来たろうに」
「軍曹殿。自分は、まだ生まれてすらいません。どうかおきになさらず」
 軍曹は首を振る。
「お主が死んだとき、儂は一体どれほど泣けばよいのだ?」
「泣かないで下さい。自分は幸せです」
 軍曹は泣いて、謝った。
野生の戦士たち 羽倉諒

Entry3
胸の石。
月季花

 霞がまた帰ってこない。あたしの双子の妹、あたしと同い年の中学一年生の妹。あたしの三倍くらいわがままな霞。
 霞のわがままはそのまま母の怒りへと転化し、全く関係ないはずのあたしへと降りかかってくる。あたしはダイニングのテーブルについて頭を抱えている母の横に立っていた。
「お母さん。そう頭を痛めることないよ。昨日は霞が悪かった。霞も解ってるだろうから今回はすぐ戻るって」
 あたしは霞がしょっちゅう家出する本当の理由も、霞が毎回家出する時どこに逃げているのかも知っている。
「なんで家出なんかするのかしら……。霞の友達のお宅に電話しても居ない、街中のお店にも入ったし、学校の校庭さえもくまなく探したわ。いつも一体どこに隠れてるのかしらあの子は」
 母はそんな子に育てた覚えはない、とは言わないし、自分の力で探そうとする意地か、あたしに場所をチクらせようともしない。霞とケンカする理由がごく家庭的なことであるからと言い、警察沙汰にもしようとはしない。母も霞も、決して落ち度がある親や悪い娘などではない。ただ二人ともプライドの高いところがそっくりなだけだ。あたしは母の横で、そんな母と妹の分析をする。
「降参だわ」
 母が俯いたまま言う。
「霞を連れて来てくれる?」
 母と霞のケンカのあと霞が出て行ってしまった時、あたしがある場所に行って霞を呼びさえすれば霞は必ず戻ってくる。
「オーケイ」
 あたしはまんざらでもなく、母の頼みごとに笑顔で応える。

 霞は家出した時はいつも、家から五分とかからない公園内にある小さな山に登っている。登りきったところに小さな広場がひらけていて、そこは春になって桜の季節になると花見客で騒々しくなるところだ。
 けれど冬の、それこそ今みたいな雨上がりの夕方には誰もこんなところには寄りつかない。そんな静かで小さな山に、霞はいつも一人で登る。もう、薄暗くて足元がよく見えない。すぐ側を流れる小さな川の水の流れる音が、街の騒音をかき消して少しだけ雰囲気を凛とさせた。
 ここは静かだ。霞がここにいることを解っているのは、世界中であたし一人だ。
 すこし息を切らせて登りきると霞がいた。霞は身軽さを生かして木の上にのぼっていた。何か、不思議めいた少女を演じているようにあたしには見えた。
「お母さんが来たかと思った」
 あたしの足音を聞いて霞は振り返り、開口一番そう言って、あたしと同じ顔で笑った。
 あたしはその言葉に何も返せないでいる。
「お母さん、まだあたしがいつもここにいること解らないでいるんだ」
 霞は軽やかに木から飛び降りた。きれい。
「すぐそこにいるのにね」
 そう言って、霞は数歩あるいて柵に手をかけた。そこに立つと、広がる景色の隅にうちの家を見下ろすことが出来る。
「あの家の台所に座って、あたしのこと怒ってるんでしょ」
 霞は笑った。すこし哀しそうに。
「いつあたしがここに隠れてること気付くかな」
 霞は、いつか母にここを探し当てられるその時を待っているらしい。些細な悪戯。
「帰ろう。お母さんが家で待ってる。お母さん、反省してるよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
 あたしは霞の手を引く。霞の手を引くことが出来るのは、世界中であたし一人だ。

 家はすぐ近く。時間をかけて歩いても「もっと家が遠ければいいのに」とさえ思うくらい家は近い。
 家の玄関の直前まで来て、ふと霞が「足が痛い」と呟いた。
 あたしは「どうした?」と首をかしげる。
「足が痛い……」
 霞が右足の靴を脱いで、中を覗いてみせた。
「実はずっと、チクチクしてたんだけど」
 霞はそう言って笑った。脱いだ靴の中に手を入れて、何かを取り出す。
 あたしはそんな霞をずっと見ている。
 霞は小さな石を靴の中から取り出した。
 霞の靴の中に、ずっと小さな石が入っていたのだ。
 あたしは、霞をじっと見て、言った。
「いつから?」
「え?」
 霞はあたしの質問の意図がつかめないみたいだった。
「いつからその石入ってたの?」
「……え? そりゃあ、あの、公園から……」
 霞が「あの」と言って指を向けた先には、あの静かで小さな山がある。
「何であの山で石を落としてこなかったの?」
 あたしがまるで詰問するような口調で言う理由が、霞には伝わってはいない。
 いや、詰問するような、ではなく、これは詰問だ。
 どうして。
 どうして、あの特別な場所にあるものをここに持ってくるの。
 異世界から何か持ってきてはいけないものを持ってきてしまったような、そんな強迫観念。
 あたしだけに襲ってくる強迫観念。
 霞があそこにいることを知っているのは、霞の手を引くことが出来るのは。
 世界中で、あたし一人だ。
 それはきっと。
 霞には、伝わっていない。
 霞にとってあの場所は、ただの居場所が無い時の逃げ場所であり、二人だけの特別な場所ではないのだ。
「あたし、何か悪かった?」
 霞が訝しげな顔をしていた。あたしは首を振った。
「ううん、なんでもない。ごめんね。なんでもないの」
 なんでもないの。
 あたしは玄関のドアノブに手をかけた。
 痛い……。
 胸の奥になにか、チクチク刺さっていた。
胸の石。 月季花

Entry4
ふたりでいこう
岡野義高

「飲み友だちとヤリ友がいれば生きていけるんじゃないかな」
 ぼくは言った。
 自分の気持ちを、とても正直に。
 
 そのとき、ぼくはベッドの上で腹ばいになってボンヤリしていた。
 彼女は、バスロープをつけて、ソファに座ってタバコをふかしていた。
 ふだんはそうだもないんだけど、タバコを吸っていると、桃井かおりにそっくりだ。
 
 いつからこうして会うようになったのか、おぼえていない。
 もちろん、愛しあっている、というわけではなかった。
 ただ、週に一回会う。
 会って、食事をして、酒を飲み、ホテルに行く。
 その間、一週間にあったことを話す。
 友人には、いえないようなことも。
 口にしたら、ひんしゅくをかったり、人格を疑われるようなことも言う。
 彼女と話していると、自分は、ふだん、どんなに気をつかって生きているのか、に気づく。
 なんだか自分がとてもかわいそうな人間に思えてしまうことがあるくらいだ。
 
 もちろん、話をするだけでも、じゅうぶん楽しい。
 でも、ぼくたちはセックスをする。
 会うたびに、定期的に。
 そのほうが、生活がスムーズに流れていく。
 今は、そういうことが、おたがいに、実感として、わかっいる。
 こんな関係をズルズル続けていっていいものかどうか。
 そんなくだらないことで、悩んだりしない。
 悩むのは、仕事や世間相手でじゅうぶんだった。
 
 ぼくたちは、抱きあうと、いつもの儀式を遂行するように、所定の動きを始める。
 もう、ぼくたちは、おたがいにつながったまま、果てることはなくなっていた。
 ぼくが動くのに疲れてしまうと、いったんカラダをはなして、一息ついたあと、かわりばんこに、口や指をつかって、おたがいをなぐさめあう。
 あたらしい動きや場所を試してみる、なんてことはしない。
 もう、そういう時期は、とっくにすぎていた。

 今は、おたがいに、どうすれば相手が一番よろこぶかが、わかっている。
 複雑な動きは必要としない。
 いつもの場所をさぐりだしたら、ひたすら単調な動きを繰り返すだけだ。
 うんざりするまで。
 そうすれば、おかえしに、相手は、自分のために、うんざりするような長い時間をかけて、やってくれる。
 ときどき、今、やってることは、マスタベーションと、どう違うんだろう、と思うこともある。
 でも、けっきょくは、こみあげてくるものに流されてしまう。
 なまじ深く考えないほうが、毎日はうまくいくのだ。
 
 愛もなく、感動もなく、興奮もないセックスだけど、週に一回抱きあうことは、おたがいの体調や精神状態にとって、じゅうぶんなメンテナンスになった。
 ぼくたちは、いわば同盟を組んで、世間だの世の中だのを、なんとか渡っていこうとしている。
 もし、彼女とこうして会うことができなくなったら、いったい、どれほどのダメージを受けることだろう。
 もう、本音をいうことも、グチをこぼすことも、自分の疲れを相手に隠さず見せることも、わがままな要求をすることも、できなくなるのだ。
 
 その晩、彼女は、いつもよりも、ずっと、疲れているようだった。
 食事中も、ほとんどしゃべらず、人の悪口も言わなかった。
 コトが終ってタバコを吸い始めたときに、ぽつりと言ったのだ。
 あたしたち、この先、やっていけるのかしら、と。
 ぼくは、答えた。
 返事はなかった。
 ぼくのほうからは、首を曲げないと彼女の姿は見えない。
「おうさまのみみはろばのみみ」
 ぼくは冗談を言ってみた。
 やっぱり、返事はなかった。
 自分では、ギャグのセンスはあると思うんだけど、どうも人にはわかりずらいようで、よく、けげんな顔をされる。
 しかたがないので、今のは、どういうギャグだったのかを説明しようとして、ぼくはカラダをおこした。
 彼女は、まっすぐに、ぼくを見ていた。
 え~と、とぼくが言いかけたとき、彼女は、笑いながら、タバコの煙を、ぷうっと、ぼくのほうに向かってふいた。
 やっぱり、桃井かおりによく似ている。
ふたりでいこう 岡野義高

Entry5
春の椀
やす泰

「お連れさんが見えるまでビールでもお出ししますか」
「いや、やめておこう」
「でしたらお薄をお立てしますが」
「そいつはどうかな。少し胃が重いんだ」
「ならば桜湯はいかがでしょう」
 桜湯は、花の香りとほのかな塩味が心地よく、身体にすっと馴染んでいくような気がした。
「うまい」
 そういうと女将は満足げな微笑を浮かべ下がっていった。着物のすそ模様にも桜が舞っている。見れば床の間には季節の歌を書いた軸が掛かり、杜若が朝鮮唐津の壷に勢いよく生けられている。来るべき季節を呼びこむ茶人の心憎いばかりの演出であった。
 中沢が柳橋を選んだのは、相手が秘密をほのめかしたためである。
 料亭とは祖父の代からの付き合いで、普段はごく私的な集まりにだけ使っていた。高速に乗れば銀座あたりからもわずかな時間でやって来れる。その昔はここから吉原まで船で下ったというが、それはもちろん祖父の頃の話であろう。その後、新橋が栄えるに伴って柳橋は廃れ、戦災によって残る料亭も数える程になってしまう。今では表の問屋街を知る者はあっても、遊び場所に柳橋を思い浮かべる者はいない。しかし、その隠れ里のような場所こそが柳橋の魅力だった。
 中沢はこの三月に自分の会社を潰していた。中堅のいわゆるゼネコンで、ご多分に漏れずバブルの頃の土地投機が致命傷となった。先々代から支えてくれた銀行も今回は自分の身を守る方に精一杯で、頭取が頭を下げてくれても追加の融資が出て来る事はなかった。三代目と嘲けられるのはわかっていたが、中沢はあっさりと民事更正法の適用を申請した。百数十億の負債もこの頃同じように倒産した大手ゼネコンのお陰で大きく取り沙汰されることはなかった。
 血肉を注いだとまではいわないが、中沢にも自分の企業への思いはあった。
 祖父は土方人足を集める口利き屋から身を起こしている。父はその苦労を知る故にさらに会社を伸ばしてきたが、仕事一辺倒の祖父とは違い、どこか一点冷めた所を残していた。後年、妾を何人もこしらえて喜んでいた祖父に対し、通人として世間に認められるだけの精神面の豊かさを求めたのである。偉かったのは若い中沢に大人の遊びを教えたことである。遊びはけして悪いものではない。いけないのは悪い遊びである。中沢はこの教えのお陰で世に得がたいものを得る事ができた。しかし、財界人としても趣味人としてもついに父親を超えることはできず、結局この半端な所が三代目の悲しさなのであろう。
 
「いやいやいや、遅くなりましたな」
 大坪は勧められもしないうちに上座に廻るとどっかと腰を下ろした。上着を脱ぎ眼鏡を外して禿げ上がった頭部をおしぼりで拭う。
「タクシーがなかなか捕まりませんでな。女将、ビールを頼むわ」
 この不景気にタクシーが捕まらない…。中沢がそう考えていると、大坪は運ばれてきたビールを女将の手からもぎ取るように奪い中沢に差し向けた。
「ささ、ま、ひとついきましょうや」
 長年議員秘書を務めているだけあってひどく手馴れた仕草だった。
「今日は急な話で申し訳ありませんでしたな。先生からとても重要な話ということで託ったもんで。ああ女将、あとビール二本とお酒もってきてちょうだい」
 菜の花の向付を放り込むように口に入れるとくちゃくちゃと咀嚼しビールで流し込んだ。
「しかし、中沢さんも今回は大変でしたな。もう整理はつきましたか」
「あとはもう裁定を待つだけです」
「ご自分の財産とかはどうされたんですか」
「ほとんど何も残らないでしょう」
 椀の中の海老真薯は箸で突付き回されて粉々に砕けていた。清んだ汁が白く濁る。大坪はそれを音を立てて啜った。
「うーん、これはうまいもんですな。ついでにこっちもいきませんか。おっ、これはいい酒だ。燗つけたらもったいない。女将、こいつを冷やでもってきてくれ」
 刺身はアイナメの焼き霜づくりとなっていた。皮を一度炙って氷水で冷やし身との間のうまみを引き出している。醤油からは豊かな胡麻の香りがした。
「すいませんが、一服つけさしていただきます」
 大坪は左手で猪口を傾けながら煙草の煙をせわしなく吐き出す。強い臭いで繊細な刺身の味がわからなくなった。
 八寸は魯山人好みの皿に春蘭が添えられ、そら豆、鮑、キャビア、新蓮根、煮穴子が品良く盛られていた。味覚に変化を持たせるため調理には工夫が凝らしてある。
「で、先生のお話というのは」
「おお、そうでしたな」
 大坪は猪口を置くと勿体つけるように座りなおした。
「中沢さん、落ち着いて聞いてくださいよ。明日あなたに逮捕状が出ます」
「…罪名は」
「特別背任」
「…なるほど」
 大坪は手酌で酒を注ぎ直した。
「しかし、安心してくださいよ、中沢さん。うちの弁護士が調べた限りでは、立件はできないだろうという話です」
 大坪はまた酒を注ぎ直した。
「つまり、当局の狙いはあなたじゃない。うちの先生だ。そういうことです」
 大坪が秘書を務めている政治家とは先代からの付き合いだった。政治資金規正法で企業献金が制限されたため、最近では政党宛ての個人献金に切り替えられている。しかし、大量の資金を提供するためにはもっと別の方法が取られていた。それが業界の常識だった。
「資金の流れを辿れるだけの証拠は残っていますか」
「いいえ。でもそれはそちらも工夫されていたのでしょう」
「当然です」
 大坪はさくら鯛の焼物を突付いていた。大坪の箸にかかるとなぜか鯛の身は細かくちぎれ皿の上に乱れ飛んだ。崩れた身と皮と骨が皿の上に醜い山を作った。
「信用しますよ、中沢さん。すると残るはあんたの口だけだ。よろしく頼みます」
 大坪には先ほどまでの愛想は微塵もなかった。つまり、これがいいたくて来たという訳だ。逮捕状の話を聞きながらも中沢は妙に落ち着いていた。これでこいつらとは縁が切れる。倒産も役に立ったという事か。
 面倒になったのか大坪は箸を投げ出すと酒をあおりすぐに立ち上がった。
「まままっ、今日はこちらで。お見送りは結構です。誰かに見られてもいけませんしな」
 大坪は中沢を片手で制し襖を開けて出て行った。中沢も送る気はなかった。
「お連れ様はお帰りになりました」
 女将が戻って来た。
「しかし、いやな奴でしたね。あっ、いえ、これは坊ちゃまだから申し上げるんですよ。今ちゃんと塩撒いておきましたから」
「だが私も、もうしばらく来れそうにない」
「存じてますよ。初めてだと思いますか、そんな話。今まで何人のお得意様が会社を潰した事か。そうだ、最後にご飯は召し上がりますか」
「いや」
「では、お吸い物だけでも」
 女将が運んできたのはどうという事のない若竹汁であった。しかし、塗りの椀の中で汁はどこまでも清んでいた。竹の子、わかめ、だしの香りが一体でありながらそれぞれの孤高を保っている。それを食らう人間の腹わたのことを考えて中沢は苦笑した。もうしばらくこんな物と縁はないだろう。
「実は、今度お渡ししようと思って用意していた物があるんですよ」
 女将が差し出したのは古備前の徳利だった。以前一輪挿しに使われていたのを誉めた記憶がある。
「いいのかい」
「もちろん」
 窯に入れた時の藁の灰がこびりついて火事場から拾ったような風合いがある。中沢は今の自分にふさわしいような気がした。
「いつでもまたいらしてくださいね」
「ああ、また来るよ」
 中沢は、自分のことばに嘘はないと思った。
春の椀 やす泰

Entry6
トランプ
MARZ

おやおや、どうしたのかい、私の可愛いシェリー。
そんなにふさぎこんだ顔をして。
おばあちゃんに、わけを話してごらん。

よっぽど言いにくいことみたいね、、、
なるほど、なるほど。そうかそうか。
恋の病、、だね?

ほら当たり!
シェリーの顔が赤くなったのがその証拠。
もうそんなお年頃になったのね。

何も言ってないのに、なんでわかるかって?

そりゃ、だてに何十年も生きてませんからネ。
見ればわかりますよ。

じゃ、魔法のトランプを出しましょうか、、、

これは見たことがない?
それはそうですよ。
これを出したのは30年ぶりだからね。

前に使ったのは、あなたのお母さん。その前はわたし。
この家の女に、代々伝わるトランプなんだよ。

そして一生に一度だけ使うことができる。

人生にはタイミングというのがあってね、
一番いい時を選んで実行すれば、
いろんなことがうまくいくんだよ。

このトランプは、恋した相手に告白する、
一番いいときを教えてくれる。
ただ、相手の人をこっちの家の人にしちゃう副作用があるけどね。

どっちにしろ、トランプの教えるとおりに告白をすれば、
間違いなく一緒になれるわけさ。

今日と明日で、別の人を好きになるタイプには向かないけど。

シェリーは本当にその人のことが好きかい?
一生そばにいて欲しいと思ってるのかい?

なるほどなるほど。
その涙が答え、ってわけだね。

わかったよ。
じゃ、始めようかね 。

ちょっと待っておくれ。
本を出さないとね。

トランプと一緒に受け継がれてきた本で、
これがないと解釈ができないから。

あったあった、始めようか。

そうそう、そうやってかきまぜて、
上から順番に4枚ずつね、
次のは裏向きで、、、、

よし準備が整った。
じゃ解釈を始めるよ 。

フムフム。

幸運の輪が正向きで、
月光のカードが、、、、、

えっ、まさか

ほー、
これはすごく珍しいことだね。

これこれ、泣くんじゃない、悪い結果じゃないんだから。

ところで、相手のボビー・マッキャンベルって、
町の西のはずれの、マッキャンベル牧場の子供かい?

やっぱりそうかい。

あそこのウィリアムじいさんとは、
ちょっと知り合いでね。

ちょっと電話かけてくるよ。
すぐ済むから、心配しないで待ってなさい。

お久しぶり。
私だよ、わかるかい。

電話が来る頃だと思ってたって?
そうだよね。

答えはひとつ。
あんたんちのトランプと、うちのトランプがぶつかった。
60年ぶりに。

別にトランプに頼らなくても、二人は思い合ってたわけで、
私らの出る幕じゃないってことなのね。

じゃ、ともかく今回はトランプなし、ってことで。

待たせたねシェリー。
だいたい話はついたよ。
どんな?って、まあいいじゃないか。

それより、ボビーにすぐ会ったらいいよ。
トランプのお告げ?
それは気にしなくていい。
とってもいいことが起きるから。

なるべく早く、、、、あれ?
今、車から降りてくるの、その人じゃないのかい?
行っておやり。
お礼はあとでいいから。ほら、早く。

おどろいたね、まったく。

同じようなことが60年前に起きて、
その時は、「家」がもっと重かったんだよね。

どちらかのトランプに従うことも、
すべてを捨てることも、
できなかったんだよ、私たちは。

今の若いもんはいいね。
うらやましいよ。
気持ちのままに好きになって一緒になれるんだから。

さて、このトランプもいらなくなったかしら?
トランプ MARZ

Entry7
かの

 本を読んでると虫がやってきた。私は虫を見るとあちこちが痒くなる質だから、慌てて潰しにかかった。しかし敵は本の上にいる。その本は図書館から借りてきた本で、しかも貸し本としてはまだ真っ白できれいだ。結果、虫を潰すために手に加えた圧力は若干弱いものとなった。やったか、と気弱にびくびくしながら見ると、敵は本の上で動かなくなっている。本はというと虫の体液の汚れ一つ付いてない。少し変だと思ってよく見ると虫は潰れていない。綺麗な形で傷一つ付かないで本の上にいる。かといって動かない所から見ると生きてるわけでもないらしい。私は少し感心しながらその小さな6ミリ位の虫の、3ミリ位の薄い諸刃の羽根を手で摘もうとした。なかなか上手くつかめない。爪の端と端でつまもうとして取り落とすと、なんと虫が動いたようだ。びっくりしてよく見てみたけれど虫はそれきり動かない。落とした拍子に動いたという感じよりも、自分の足で這ったという感じに見えたんだけどと思いながら、又摘もうとした。失敗する。なんと虫は又動いた。今度こそ動かぬ証拠を捕まえた。敵さん、まだ生きてるなと思いながら、じゃあ何で逃げないんだろうと少々気味悪くもなった。虫らしい抵抗も見せないでじっと動かない虫を見ると、虫ながらもう自分の運命を悟ったのかそれともこれは・・・”特別に進化した虫”だったりしないかなどと思った。”特別に進化した虫”とは阿部公房「砂の女」に出てくるあのランプの周りの蜘蛛のことだ。あの蜘蛛は自ら巣を張らず、ランプの光に惹かれてやって来る虫たちを待ち構えて捕まえて食べる奴だ。元来、虫とは宇宙からやって来たという説もあるくらいだから、あの奇怪な形だけを見ても何となく油断ならないという感じがする。そのうえアルコール中毒者や精神病患者には虫が体の皮膚の内を這いまわる幻想や小さな羽虫のようなものが絶えず見る幻想などよく聞く。蝿やゴキブリや蚊などの病原体を運んでくる厄介な奴もいる。虫はとんでもない奴だ。そんな虫のことだからこの虫もただの六本足のひょろひょろした生き物じゃないかもしれない。何か新種の虫でついでに新種の病気も孕んでるかも知れないと、少し警戒した。
 少し考えてから、私はそろそろと立ち上がった。虫を本の上に乗せながらどうかいきなり飛んだりしませんようにと祈りつつ、薄暗い台所に辿り着く。器用に肩で電気をつけながら食器棚を開けた。透明な蓋付き瓶を取り出す。流しでそっと虫を瓶の中に移し変えた。瓶の中でじっと動かない虫に死んだかと思いつつ、底の方を突っついてみると足だけでゾゾゾゾッと動いた。しばらくして虫を眺めていたけど、飽きてそのうち本をまた読み始めた。今日はずいぶん冷えるな、と感じた。
 そのうちにお母さんが帰ってくる。「ミゾレだわ。寒い寒い」と言っている。それを聞いて私は本から顔を上げた。すぐ横の窓をじっと凝らして見てみたがちっともよく分からない。
「ミゾレ?」
と不審そうに聞くとミゾレ、と答えが帰ってきた。犬が母が帰ってきた喜びでぴょんぴょん跳ね回っている。誰か帰る気配があると吠えたてるから便利だ。ただし声が高いから煩い。しばらくは母が何かしてる物音と犬がビニール袋をガサガサやる音が聞こえていた。私は本の世界に没頭してゆく。
 やがて母が「あら、なぁにこれ?」と虫入り瓶を見つけた。虫が入ってるよというとやな顔をした。生きてるよと更に言ってみる。何でこんな事するの、と咎められるかと思ったけれど母はそのまま又そこに置いた。これはあのいつまでも台所とかで食べ物を放置しておくと出てくる虫ね、と母は言った。私はふうんといってから、じゃあ、何かあげようといった。炊飯器の蓋を取ってカリカリになったご飯を入れてみる。犬が足元で見上げている。犬に瓶を突き出しながら母が「やぁだ」という声が聞こえた。虫はまたゾゾゾゾッと瓶の形に沿って這った。
 本を読むのにやがて飽きる。さて、やることもない。きょろきょろしてからソファに寝そべった。犬がハッハッといいながらボールをくわえて持ってくる。この犬は私に似て見栄だけは人一倍強いから良く私の真似をする。例えばボールを持ってきておいて取ろうとすると後ろに逃げる。そうして又引っ込めると持ってくる。小賢しいことにいちいち人の手にボールを押し付けておいて取ろうとすると逃げるのである。あたかも人を馬鹿にしたようなその態度は、私がよくそうやって犬をからかって遊んでたのを犬が真似したのである。犬はそれが果たして何の意味があるのか良く分かってない。よく分かってないけれど馬鹿にされたということだけは分かってるから、復讐にそうやるのである。やってる本人はあまり楽しくなさそうだ。ボ-ルを持ってしばらくぶんぶん振り回してた犬は、私がいつまでたっても乗ってこないのを気づいて上目遣いに見上げる。わざと無視してやるとそのうちボールを放して、体を縦一本にだらんと伸ばしきった。うちの犬はダックスだからそうしてみると本当に鰻犬のようだ。
 お腹が減ったので台所の間をうろちょろする。コロッケをつまみ食いしながら、犬も何かおこぼれに預かろうとうろちょろする。そうして二人して母に追い出される。ご飯はまだ出来てない
 最近はテレビを見ないことにしてるから、またする事がない。不意にギターが弾きたくなったけれど、面倒だ。仕方なくまた本に没頭していると、横合いから犬がえいっ、えいっ、と袖に食いついてくる。そうそう遊んでばかりもいられないから駄目だよ、遊べないよと腕を上に振り上げる。もう四、五回頑張った後犬は諦めて自分の寝床に戻った。と、また思う間もなくトイレットペーパーに噛み付いていた。本は面白いけど少々くどい。ミゾレは相変わらず降っているのやらいないのやら分からない。
 夕飯のあんかけご飯を食べてもう一つコロッケを食べた所で虫の存在を思い出した。ご飯を虫も食しているか、もう冷たくなって死んでるかと思って持ち上げてみると虫は、相も変わらずじっとして動かない。これでは生きてるのだか死んでるのだか分からない。少し振ってみるとご飯粒が虫にあたって、虫はぱたりと横に倒れた。もう一度振ってご飯粒をあててみると、また反対側までご飯と一緒に引きずられてやっぱり動かない。お母さん虫が死んだよと言うと母は何も答えなかった。死んでしまった虫を蓋をした瓶の中に入れても仕様がないから、ガラスの窓を開けてベランダに出ると瓶の蓋を取って逆さにした。もう一度瓶の中を覗いてみると何もない。外は凍えそうなほど寒く真っ暗だった。街燈に照らされて所々薄蒼くを照らされている。家や木々は黒いから影絵のようでもあった。視力0.03と目が悪いから、これも雪が降ってるのだか降ってないのだかよく分からない。寒いので仕方なく家に入った。犬がくちゅんっとくしゃみをした。

Entry8
闘う男
党一郎

男は手紙の封を切った。「残念ながら今回は採用を見送らせていただきます」
味気もそっけもない印刷のタイプ文字がそこにはつづられていた。
「ふぅ~また駄目だったか」男はその手紙を持って、写真に話しかけた。
「俺・・・また駄目だったよ」写真の中の女は優しい笑顔を浮かべたまま
「そう・・残念だったわね、でもあなたならすぐ見つかるわ、ネバーギブアップよ」
そんなふうに男に語りかけていた。
「うん・・・そうだな、約束したもんな、決して諦めないって、頑張るよ俺」
男はそう呟くと不採用通知をゴミ箱に捨て、履歴書を書き始めた。氏名・住所・学歴・二つ目の職種まではすらすらと書くことが出来た。ただ、そこからがどうしても旨く筆が進まない。不採用の原因にもなっているであろう、長期の空白がそこにあった。
35歳まで男の人生は順風満帆だった。学歴こそ高卒だが、甲子園にまで行った高校の野球部でキャプテンとして活躍した実績からか、一流メーカーに勤務することが出来た。あいにく肩を壊し、野球こそやめてしまったが、若干35歳で工場長にまで上り詰めた。まじめで一生懸命、それがこの男のトレードマークであり、周囲の評価だった。野球部のマネージャーだった妻と8年の交際の末結婚して10年目、なかなか出来なかった子供がやっと授かった。そんな矢先の出来事だった。
男は仕事中に倒れた。疲労の蓄積だったのだろう。運悪く打ち所も悪かった。転倒した際に後頭部を強く打ち付けてしまったのだ。男は一週間昏睡状態に陥った。
妻は流産していた。夫が生きるか死ぬかという状態に陥ったショックだろう。ただ夫には告げずにいた。どうやら子供が出来たことの記憶が失われているらしい。そのため妻は一人で泣いた。自分の子供と夫に起こった不幸をたった一人で受け止めて耐えた。それでも今までずっと優しく愛してくれた夫のために、勇気と元気を振り絞って女は立ち上がった。夫の顔を見つめながら、これからのことを考えているうちに妻は転寝をしていた。
男が目を覚ますと、看護疲れだろう、ひどくやつれた妻の顔が見えた。どうにも頭の中がはっきりしない。もやがかかっているようだ。妻の声も良く聞こえない。
男は脳に障害を負っていた。それでも妻は献身的に看病をしてくれた。会社の人間も良く見舞いに来てくれた。
「早くよくなれよ、本社ではお前の復帰を待ち望んでるんだから」
そんな温かい励ましの言葉ももらった。部下や取引先も見舞いに来てくれた。
「良かった良かった、一日も早く復帰してください。私らあなただから安心して仕事できるんだから」
そんな言葉が聞けたのも半年が限度だった。もともとスポーツマンだったから手足のリハビリは何とかこなした。驚異的なスピードで(と医者が言っていたんだが)文字も書けるようになったし、少し足を引きずるが、杖なしで歩けるようにもなった。
しかし、男は言葉を失っていた。旨くしゃべれないのだ。焦れば焦るほど、舌がもつれる、旨く言葉が出てこない。生真面目な性格がこの場合は裏目に出たといっていいだろう。リハビリは遅々として進まなかった。それでも男は、動けるようになったのだからと会社に復帰を申し出た。医者や妻の反対を押し切り男は退院した。
会社は既に新しい工場長を任命していた。リハビリしながら出来る仕事といって資料整理の仕事を与えられた。会社の精一杯の好意だったのだが、実質は閑職だった。日がな一日薄暗い部屋で資料の整理をする。そのことが男には耐えられなかった。やがて男は精神を病んでいった。妄想に囚われるようになり、幻聴が聞こえるようになって、ある日倉庫の中で暴れた。男は再び入院することになった。今度は精神病院だった。40歳になっていた。運が良かったのだろう。まともな病院に入院することが出来た。妻も献身的に看病をしてくれた。こっそりパートタイマーでもしているのだろう。柔らかく綺麗だった指は傷だらけになっていた。
入院して一年が過ぎたころだった。会社から解雇の通知が送られてきた。よくやってくれた会社だと思う。恨む気はない。ただ、男の病が進んでしまったことも事実だった。暴れ、泣き叫び、体中を傷つけた。病から抜け出ようとして、逆に深みにはまり込んでいく、そんな一進一退を繰り返していた。
入院して三年目を迎えたころだった。ふっと霧が晴れたように頭がすっきりしてきた。自分がどこか遠いところへ旅をしていてやっと我が家へ帰ってきた。そんな感じがした。妻を見ると、10も老け込んだような顔になっていた。やつれたその顔には自分がかけた迷惑と妻の愛がまざまざと刻み込まれていた。男はいたたまれなくなると同時に愛しくなって、妻の顔をそっと撫でた。妻はうたたねから目を覚まし、夫の眼の中から狂気が消え、以前の優しい光が宿っていることを見て取ると、抱きついて泣きじゃくり始めた。
「あたし・・・もうあなたが帰ってこないような気がして、でも・・・戻ってきて欲しくて・・・」あとは言葉にならなかった。医者も首をひねっていた。何故治ったのかはわからないが治っていますとのことだった。言語療法にしばらく通うことにはなったが、ともかく男は退院した。43歳になっていた。
思えば倒れてから8年間ずっとどこかをさまよっていた感じがする。やっと戻ってきた。そんな感じを抱きながら、男は再び社会に戻ろうとした。しかし、3年間のブランクと精神病院入院は大きな痛手となった。どの会社もそこに難色を示す。工事現場や警備員のアルバイトはそんな彼が出来る唯一の仕事だった。アルバイトをしながら男はハローワークに出かけ、求人誌を買い、職探しが男の日課となった。
二年間のリハビリの末、男は言葉を取り戻した。元の通りにしゃべれるようになり、妻も喜んでくれた。まさに闘いだった。病には打ち勝つことが出来た。妻は男に学生時代から男がどんなに苦境に立たされても闘って最後には勝ってきたことを誇らしげに話し、
「就職だって闘いね、あなたならきっと勝てるわ、あたし知ってるんだから、絶対諦めちゃ駄目よ」そういって毎日男を励まし続けた。45歳になり、結婚20周年を迎えていた。それから5年の間再び幸せが訪れた。小さな会社に就職が決まり、倒産したり、人員整理のため解雇される。そんなことが二回ほどあったが男はもうへこたれなかった。もう職探しはベテランになっている。そんなことを言うと妻は笑って「頼もしいわ」と微笑んだ。そんな職探しの中、妻がパート先で倒れた。長年の苦労がたまっていたのだろう。一週間ほど入院したあと、妻はあっさり逝ってしまった。
「絶対諦めないでね、もしくじけちゃったらあなたを迎えにきてあげないからね」それが妻の最後の言葉になった。50歳になっていた。
ささやかな葬儀を済ませ、がらんとした家の中で、男は妻と過ごした四半世紀を思い出しながら一人泣いた。しかし、もう立ち止まることはしなかった。
「お前の分まで生き抜いて俺は必ず勝ってみせる。土産話を持ってお前に逢いにいくまで待っててくれ」妻の写真にそう呟いて、男は再びハローワークへ出かけた。地味ではあるが、負けられない闘いに男は立ち向かっていた。


闘う男 党一郎

Entry9
死期
一村雅

 コンコン
「どうぞ」
「どうも、突然すみません先輩」
「なに、君には学生の時分にも多く世話をかけた。構いはしないさ。で、相談したい話というのは……」
「それが…まあ……」
「なんだ、はっきりしないな。遠慮する事はない。何なりと話してみたまえ」
「それでは言いますが、実は」
「うむ」
「死神なのです」
「死神? それがどうしたのだ」
「実は、私がその死神なのです」
「なんだと、まさか……」
 驚いて彼は、後輩の顔を見つめた。しかし嘘をついている風ではない。真剣そのものであり、果たして信じてもらえるだろうかという不安もただよっていた。どうやら狂気というのでもなさそうだった。
「しかし君との付き合いも長くなるが、そんな話は初めて聞いたぞ。本当ならば、なぜ今まで言わなかったのだ」
「いえ、実は僕も、昨日なったばかりなのです」
「なに、どういうことだ」
「ええ、実は――」
 待っていましたとばかり、彼は話し始めた。
「実は昨日、会社帰りに夜道を歩いていたら、知らない男に呼びとめられたんです。全身黒ずくめで、無表情な男ですよ……」
「不気味だな」
「ええ。何の用だと聞いたところ、俺は死神だと名乗り、お前はもうすぐ死ぬのだとそう言ったのですよ」
「うむ」
「当然僕は反論しました。死ぬと言われてああそうですかと納得はできませんでしょう」
「そうだろうな」
「するとその男は、こう言ったのです。『あなたにひとつの質問をしよう』――と」
「…何と聞かれたのだ」
「それが先輩、『あなたは死にたいか? それとも死にたくないのか?』とこう聞くのです。すると答は決まっているじゃありませんか」
「誰しも死にたくはないものだろうからな」
「その通りです。ところが僕がそう言った途端、その男がにやりと笑ったのです。今までずっと無表情だった奴が、ですよ」
「さぞかしぞっとしただろう」
「ぞっとしたなんてものじゃありませんよ。背中に氷でも入ったのかと、本気で疑いました」
「かもしれんな。それで、どうなったのだ」
「気が付くと男が消えていて、僕が一人で道の真ん中に立っていたんです」
「…不思議な話だな」
「それだけじゃないんですよ。僕の格好が、黒ずくめに変わっていたんです。その男の着ていたものと同じような……」
「……なるほど。君はその、前の死神から、仕事を押し付けられたわけだ」
「そのようです。多分あの男も、誰かから押し付けられたんでしょう。幸い服を着替えることだけはできましたが…どうにも困りました」
「なにがだね」
「何しろ僕は死神になってしまったのですよ。誰がいつ死ぬのかが、全て見えてしまうんです」
「そうか、なるほど…」
「嫌なものですよ。この人はあと三十年、この人はあと三十分…そんな具合です。
 しかもどうやら、それを誰かに教えてやるまで、僕は死ねないようなんですよ。おまけに歳もとれない。完全な死神です」
「なんと…。しかし考えようによっては素晴らしい拾い物じゃないか。永遠の若さと命。これは人類皆が望む物だ」
「ええ…」
「なんだ、浮かないな」
「先輩はそう言いますが、でもこの苦しみは、なってみないとわかりませんよ。僕はもうさっさと死んでしまいたい……」
「おいおい、早まるなよ」
「早まろうにもできませんよ。このいまいましい仕事を誰かに押し付けない限り、僕は決して死ねないんですから。あの男と同じです。確かに死んじゃいないが、生きているとは言えそうもない。ちくしょう、あの死神め…」
「ふーむ……」
 悪態をつく後輩を後目にしばらく考えていたが、やがて彼はこう言った。
「君の悩みはわかった。どうだろう。その死神の仕事とやらを、私に譲ってくれないかね」
 後輩はとびあがった。
「え、本当ですか。僕に同情して…?」
「それもあるが、不老不死とやらにやはり興味がある。私がいつ死ぬのかもわかるのだろう? ひとつやってくれないか」
「まあ、僕としては願ったりかなったりですが。本当に良いのですね?」
「良いとも。私にはなぜ君がそんなに手放したがるかの方がわからんよ」
「まあ、なってみればわかりますよ」


 そして気付けば彼は、ただ一人で立っていた。後輩の言ったとおり、服装はやはり黒ずくめだった。
「なるほど。するとこれで私は、不老不死になったのだな」
 喜びがこみあげてきた。永遠の命。人間全てが願ってやまないものを、俺は手に入れたのだ。
 誰かに教えてうらやましがらせようかとも思ったが、やめておくことにした。楽しみは一人占めするのに限る。
 外がもう暗くなっているのに気付き、彼は会社を出た。
 玄関を出るそばで、掃除婦に会った。
「ごくろうさまです」
 そう言って彼女の顔を見た瞬間。

  十四年三ヶ月ニ十一日

 そう、数字が頭に浮かんできた。
 なるほどこういうことか。
 納得して彼は会社を出、駅へ向かった。その途中でも、

  六十四年三日
  八十年二ヶ月三十日
  二十五年と十五分

 という具合。いささかうっとおしい気もしたが、不老不死に比べれば安いものだと彼は思った。
 だが家に帰り着いて出迎えた妻の、

  二日

 が見えた時には、さすがに頭がくらりとした。
「おかえりなさい、どうなさったの、変な顔をして」
「いや……」
 まさか正直に告げるわけにもいかない。彼は体の調子が悪いのだとごまかした。病気になどなりようもないのだが。何しろ自分は死神なのだ。
 翌日もその調子だった。道ですれちがう人、同僚、上司――誰彼構わず数字が浮かぶ。彼はだんだんと気が滅入ってきた。そしてやっと、後輩の言った事の意味を理解した。
 確かに不老不死ではある。“死神”としての仕事を果たさない限りは、決して死なないし、病気も怪我もない。だが逆に言えば、自分は自殺の手段をいつでも持ちつづけている事になるのだ。これでは以前と何も変わらない。
 おまけに今は、誰を見ても死を彼に教えてくる。早く仕事を終えて死んでしまえと、世界中が催促しているも同じだった。しかも四六時中だ。
 彼は不眠症になり、食事も喉を通らなくなった。それでも彼の死神の身体は、健康を損ねるようなことはない。彼はますます苛立った。いっそ本当に気が狂ってしまえば良いとさえ思った。
 見かねた同僚の一人が、彼に声をかけた。
「どうしたんだい、最近元気がないな。具合でも悪いのか。その割には顔色も悪くないが……」
 そいつの顔を見ると、六十七年とかいてあった。ちくしょう。幸せな奴め。
 思いながら彼は言った。
「別になんでもないさ。神様はどうやって、人間を減らしているものかなと思ってね…」
「はあ?」
「いや、実はね、ちょっとしたことなんだ。君にも耳寄りな話だと思うんだがね……」
死期 一村雅

Entry10
通信障害
羽那沖権八

 トゥルルルルルルルルル……。
 大谷正信のデスクの上で、電話が鳴る。
 だが大谷は、ただうるさそうに眉をひそめ、受話器を一瞥しただけで、後は何もなかったかのようにパソコンのキーを叩き続けた。
「――はい、島岡鉄鋼です」
 それから数秒後、別の社員が自分のデスクの電話を取ると、コールは止まった。
 と。
 トゥルルルル……。
 再び電話が鳴り始めた。
 カチャ。
 大谷は受話器をほんの少しだけ持ち上げ、そのまま戻した。
 トゥルル。
 カチャ。
 トゥル。
 カチャ。
「うるさいな」

 会社から帰り自宅のパソコンを立ち上げると、新着メールが表示された。
「――あれ?」
 大谷は、首を傾げた。
「なんだ、これ?」
 同僚からのメールには、緊急の連絡事項が書かれていた。
 しかし。
「妙なファイルが増えたな」
 大谷は、マウスを手に取り、有無を言わさずメールを削除した。
「そういえば――」
 画面には、過去に受け取ったメールのタイトルが、ずらりと並んでいる。
「やれやれ、ハードディスクの容量が減っていると思ったら」
 一片の躊躇いもなく、極めてリズミカルに削除は行われた。

 翌日。
「おい大谷?」
 出社した大谷に、同僚が難しい顔で詰め寄る。
「昨日のうちに返事をくれって言っておいたろう?」
「なんの事だ?」
 大谷は首を傾げる。
「知らないって事はないだろう? メールだよ、メール。自宅でもチェックしてるだろ?」
「ああ、なんかあったな」
「あったなじゃないだろう!」
「あのメールって、お前と関係あるの?」
「大ありだ、僕が書いたんだから!」
 しばし沈黙が流れた後、大谷は確かめるように口を開いた。
「まさかぁ」
「はあ?」
「文字が出てたのは俺のパソコンだぞ? お前とは何の関係もないじゃないか」

「大谷」
 課長が険しい顔で大谷のデスクに歩み寄る。
「は?」
「山容商事から電話受けなかったか?」
「電話?」
「いや……こっちに電話が繋がらなかったって、カンカンでな。せっかくお前がまとめた契約、藤代鉱産に持って行かれそうなんだ」
「なんですって!」
「一体何があったんだろうな?」
「原因なんてどうでもいいです! 今はフォローが先じゃありませんか」
 大谷はさっと立ち上がりジャケットを着て、オフィスを出て行った。

「――って事があってね。実際今日は疲れたよ」
 大谷は笑ってチューハイを呑む。
「ふうん。それでさ」
 恋人の嶋田夏美は、ビールのジョッキを置いた。
「昨日はどうして電話に出なかったの? 一回は突然切れて、後は留守電サービスばっかり」
「電話?」
「あたしを無視するほど、大切な仕事だったの?」
 嶋田はぷっとふくれて見せる。
「無視って、何、言ってるんだよ?」
 大谷の声の調子には、奇妙な乱れがあった。
「俺の持ってる電話機と夏美が、どうして関係あるんだ?」
「え?」
「なんか、おかしくないか? そういえば、あいつも妙なこと言ってたな。俺のパソコンの中の事を知ってるような」
「正信?」
「なんだ、どうなってる?」
「……ねえ、正信」
 嶋田は携帯電話を取り出した。
「これ、何?」
「携帯電話だろ」
「うん。何に使うもの?」
「電話するもんだろ?」
「電話って?」
「話を……あれ、誰と……」
 大谷は嶋田の携帯電話をじっと見ながら首を傾げた。
「……何に使うんだ? これ」

「通信障害?」
 大谷と嶋田は顔を見合わせる。
「ええ」
 女の精神科医は、穏やかな口調で嶋田の方に説明する。
「あなた、電話の向こうに、本当にその相手がいるかって、考えたことあるかしら?」
「いるに決まってるじゃない。返事するし」
「電子メールは?」
「返信メールが来るでしょ?」
「自動でメールが帰って来る事があるわ」
「いや、だって……」
「オフラインで会ったことのない相手だったら? その人が実在している証拠って?」
 精神科医はカルテに何かを書き込む。
「大半の人にとって、通信の向こう側はブラックボックス。それを支えているのは、僅かな信頼。それが壊れてしまったのが、通信障害よ」
 島田は絶句する。
「いち早い入院をお薦めしますわ」
「入院?」
 黙って聞いていた大谷は顔を上げる。
「ま、待てよ。俺は全然おかしくないぞ!」
「落ち着いて、大谷さん。きっと治るわ。いえ、治してみせる。私を信じて」
「そうだよ、病気なんだから治せばいいじゃない」
 嶋田は無理矢理笑顔を作る。
「冗談、一週間も入院したら仕事をクビになっちまう!」
 乾いた口で大谷は喋る。
「そんなことは――」
 一瞬、精神科医の眉が動く。
「一週間どころじゃ、ねえのか」
 大谷は彼女から後じさりする。
「大丈夫よ、きっとよくなるわ」
 精神科医は優しげに微笑む。まるで、怯える子供をあやすように。
「安心して」
「冗談じゃねえ、お前らこそ、どうして機械と話なんかできるんだよ!」
「大丈夫、貴方はちょっとこんがらがってるだけ。そのもつれを解くお手伝いをさせて欲しいのよ」
「信じられるか!!」
「正信!」

 病院から飛び出した大谷が、息を切らせながら振り向くと、もう誰も追っては来なかった。
 走るのを止め、早足で歩く。
「これから……どうすりゃいい?」
 大谷はふと周囲を見回す。
 行き交う学生の鞄には、携帯電話がぶら下がっていた。ビジネスマンが手に持っているのは、多分インターネット接続も可能なノート型パソコン。視線を上に向ければ電話線。アンテナ……。
(あれが通信機器だってのは分かる)
「でも」
 大谷は呟いた。
(話は人間とするもんだろう?)
 一人の女が、携帯電話で話をしながら歩いてくる。
 ぶつかりそうになって大谷が避けたが、話に夢中の女はそれに気付きもしなかった。
 しばらくして、繁華街は途切れ、道は住宅地に差し掛かった。
 いつの間にか、日が傾き始めていた。
 周囲の家々には明かりが灯り、冷えた風が服に染み込んで来た。
「どこへ……行ける?」
 空腹と疲れと寒さが、大谷の気の昂ぶりを鎮めていく。
「はは……非力だな」
 力無く笑う。
「いいさ」
 自分の髪の毛を、引きちぎれそうなほどぎゅっと握り締める。
「通信機器が一切ない柔らかな檻の中で、平和な余生を暮らせばいい」
 小一時間歩いた所で、交番の明かりが目に留まった。
(これで、楽になれる)
 大谷は明かりへ歩く。次第に早足になり、最後には駆け出していた。
「お巡り――」
 大谷の言葉は途切れた。
 誰もいない交番に置いてあるのは、警察署直通の電話機ただ一つ。
 無言で大谷は電話機を取り――。
 がしゃん!
 思い切りガラス窓に叩き付け、走り去った。

「ただいまー」
「おう、大谷ちゃん、帰ったか」
 公園の一角で、ホームレスが数名、ストーブを囲んでいた。
「ほれ、かけつけ一杯」
 一人が大谷に一升瓶とカップ酒の空き瓶を差し出す。
「お、有り難い」
 大谷は注がれた酒を、立ったまま飲み干す。
「ほれ、ご返杯」
 焼酎の大ボトルが二本入ったビニール袋を、彼は差し出す。
「おお」
「いいねぇ」
「大谷ちゃん、いい男!」
「しっかし、ロクでもない引越屋だったぜ、今日は」
 大谷もストーブの前に腰掛ける。
「ノルマノルマで、メシの時間も取らねえ。伸びたのはバイトのせいとかぬかして残業も付けやしねえ」
「ははは、不況だからなぁ」
「住所不定の人間を雇ってくれるだけでも有り難いべや」
「そうじゃ。電話だって引けないんじゃからのう」
「ああ、そうだな電話も、な」
 微笑んで、心から楽しそうに微笑んで、大谷は焼酎の蓋を開けた。
通信障害 羽那沖権八

Entry11
遺書
海坂他人

 暗やみの中でふっと眼がひらくと、洋の頭にはまたもや、
――学校に行かなければ 死なずに済んだ子供たち。
という詞が、浮んで来た。
 勤めを退いてから、眠りはとみに浅くなったようである。
 以前は何かにつけ妻の孝子に、お父さんは床に入って五分もすれば寝息を立てている、なぞと云われたものであった。夜中に地震があったとか、暴走族がうるさかったとか、救急車が行ったとかいう小事件が翌朝の食卓に報告されると、気がつかずに眠っていたのは決まって洋と、長男の広海なのである。
(彼奴はその点では、俺に似ていた)
 繊細そうでどこか一点、図太い所もあるように見えていたのだが……母親に似て目敏いのは、弟の夏海の方であるらしい。
――学校に行かなければ 死なずに済んだ子供たち。
 昼間読んだ、広海の日記の中にあった詞が、頭から離れない。

一月十日(木)
 二三日前から、駅の地下道の掲示板に「学校に行かなければ 死なずに済んだ子供たち」と題する講演会のポスターが貼ってある。「学校は、下りても全然かまわない所」ともある。
 不登校とか、そういう、学校でいやな目にあった子供たちの父兄が中心になって催す会なのだろう。
 しかしこんなポスターを見ると、自分は毎日何をやってるんだろうと情けなくなる。教師だって下りられるなら下りてしまいたいのだ。そう言ってやったら、彼らはなんと言うのだろう。

(子供の時分から、こちゃこちゃと細かい字だったな)
 広海の手帳の、青いインキで極細に書かれていた字を、洋は思い浮かべた。
 灰色の革張りで水色のバンドがついた六穴のバインダー式、なかなか立派な手帳じゃないか、と思うと、内側に小さくロゴが入っていて、実はミスタードーナツの景品だったらしい。
 それを見つけて、洋は思わず苦笑した。手帳が必要なら買えばよいのに、二十八にもなって妙なものを使っていたものだ。こんな所にも、子供っぽさが抜けきらない。
 四年前の晩春、持ち主が突然いなくなった時、その場に居合わせたこの手帳は、いつの間にか茶の間の棚のすみに移動してきて、そこにひっそりと座を占めていた。
 いつも、ああ居るなと眺めるだけで、あえて誰も手をふれようとはしなかった。それにしては埃まみれにもなっていないのが不思議といえば不思議である。
 実際は孝子がときどき手をかけて拭っていたのであろう。一度もそんな話をしたことはなかったが。
 当時は毎日の勤めに追われて暇が無いのは勿論あったが、またそれを辛い事から目を逸らす格好の口実にもして、部屋もそのままに、遺品などにもほとんど手をつけず放って置いたのだが、定年が来て時間が出来るのと同時に、熱すぎ、あるいは冷たすぎた出来事の温度が、どうやら手を当てられるほどに柔らいで来たかのようでもあった。
 四年ぶりに広海のパソコンに電気を通してみたのも、初めて開いたこの手帳の中に、それらしい記述をみつけたからのことであった。

一月十五日(火)
 私が最近思いついたのは「虚点を設けると、自分を書くことができる」という事だ。
 昔から、私は自分にしか興味がない。それは異常なこと、倫理的に許されない事であるかも知れず、自分のことを書こうとすると、なかなかうまくいかなかった。
 しかし自分ではないものの中に入り込めば、それは本来「虚」であるだけに、まるで腹話術のように自分自身を自由に、客観的に、立体的に語ることができるような気がする。
 そこでいま自分の人生を総括するに当たって、現在から見たある未来の一点に於ける、私の父親の視点を借りてみよう。そしてその文章を「遺書」と題することにしよう。

 スイッチを入れ、ブラウン管に初期画面が出た途端、ガガッ、と嫌な音がして、真っ暗になった。焦げくさい匂いが漂った。うすい煙も出た。
 機械の中で聞こえていたざわめきが、ぴたりと止まり、静まり返った。洋は思わず、ああっ……と声を上げていた。一つの生命の停止を、まざまざと感じた。
「どうしたの」
 ちょうど部屋の前を通りがかった孝子が、声をかけた。気のせいか、咎めるような気配が含まれている。
「いや、今ちょっと広海のパソコンを立ち上げてみようと思ったんだが……こりゃ壊れちまったかな」
「またどうして、今ごろ……」
 洋は孝子に、広海の手帳をひらいて手渡した。
「じゃあ、その中に記録されていたものはもう読めないの?」
「もう駄目だろうな。おそらくハードディスクの中に塵か何か入り込んでいたんだろう」
 未練らしくマウスを動かしてみたり、スイッチを入れ直してみたが、勿論何も応答は返って来ないのであった。つい、照れ隠しのように、
「この機械も、今になって主人に殉死したのかね」
と呟くと、孝子は何も言わずに去った。
 あとで何か他愛ない話のついでに、しかし勿体ない事をしたな、と懲りずに残念がると、
「本当に大切な事なら、ちゃんと紙に書いて置くでしょう、そんな不確かな機械に残っているものは、広海だって本当は読んでほしくなかったかもしれないじゃありませんか」
 そう言われれば、その通りかとも思えるのだが、興味はあった。息子の描き出した自分の姿は果たしてどんなだったか、確かめてみたかった。
 しかしそれは、広海の心のうちと言うより、もっぱら自分自身に対する関心ではないのか。
 寝つかれぬ床の中で、そう思い当たって、洋はどきりとした。同時にこの時ほど、死んだ息子を間近に感じたことはなかった。広海もまた、自分にしか興味がない、と述懐していたではないか。

一月二十日(日)
 ぼつぼつ「遺書」を書き進める。
 どうも初めに思い描いていたよりも筆が進まない。いろいろと工夫して書き換える。
 こんな風に自分の死をあれこれ考えることは、悪趣味であろうか。あるいは、父親の視点から勝手に忖度して語るのが、不遜と思えるからであろうか。
 私はだいぶ前から、自分の一生を総括してしまいたいという思いを抱いてきた。しかし実のところ、自分がどのような死を迎えるかは誰にも判らないのだ。

 広海はつとめていた学校から、自転車で市の図書館へ向かう途で、車にはねられたのであった。
 事故ということではあったが、洋にはずっとどこかでそれに納得しかねる思いがあったようである。車が嫌いで、自転車、あるいは歩くことをもっぱら好んでいた広海は、臆病で用心深くもあった。気がたしかであれば、そう易々と事故に遭うとは思えない。
 そして今、彼自身の言葉によって、何か漠然とした疑いはいっそう濃くなるようであった。
 しかしいずれにせよ、広海が苦心して書きついだであろう文章も、まるで時限発火装置が仕掛けられていたかのように、空に消えてしまった。今はもうどこにも残っていない。
 とつぜん、名状しがたい恐怖が、闇の中からひたひたと押し寄せてくるのを、洋は感じた。幼い頃に溺れかけ、それからしばらく、夜ごとうなされ続けた事があった、あれ以来の感覚である。
 隣で眠っている孝子を起こそうとして、ようやく思いとどまった。そっと手を出して、顔の上にかざしてみた。温かい寝息が手のひらにかかるのを感じて、やっと少し安心した。
 もしかするとこのような一瞬も、広海は想像して記してくれていたかも知れない。ふと、そんな気がした。
遺書 海坂他人

Entry12
ニイタカヤマノボレ
るるるぶ☆どっぐちゃん

 とにかくやっぱりあたし達は何処かに行くべきなのよ、とまくし立ててあたしはじいさんの腕を掴んだ。
 じいさんの腕は汚れていて染みだらけで、水気の無い、かさかさの肌だったが、何故か優しさが感じられる腕で、だから嫌いでは無かった。一度だけ抱かれたあの男の腕はどうだっただろうか。思い出せない。
「何処か、って何処だい」
 じいさんはベンチから立ち上がりながら、尤もな質問をした。
「学校にでも行くのかい?」
「そんなもの、パスよ」
 あたしはじいさんの腕を引きながら答える。
「くだらないわあんな所」
「そうかい」
 そう言ってじいさんは、にっ、と笑った。皺だらけの笑顔。昔飼っていた犬に、少し似てる。
「あんな所じゃなくてさ」
「ふむ」

 じいさんとは二週間位前に出会った。
 なんだか全ての事が急にくだらなく見えてきてしまって、まるで「クダラナイ病」にかかってしまったみたいにくだらなくなってきて、だから何処にも行く気にもなれず、駅前のロータリー兼の公園で、駅の改札からぞろぞろ溢れてくる人達を「この人達は一体何処に行くのだろうなあ」とかぼんやり思いながら遠目に見ていた昼下がりに
(やあお嬢ちゃん、寒いだろう)
 と、声をかけられた。
 おかしいくらいに背筋がぴんと張ったじいさんだった。明らかに路上生活者であろう服装なのに、それをぴしりと、全く見苦しさを感じさせずに着こなし
(これでもどうかな)
 と缶コーヒーを、まるでイギリス紳士のように、堂々と薦めてくるのであたしはそれを
(ありがとうムッシュ)
 と、フランス式に受け取ってしまった。

「あんな所じゃ無くてさ」
「ふむ」
「あんな所じゃ無くて」
「あんな所じゃ無くて?」
 何処へ。何処へ。
「とにかく何処か、よ」
 そう言ってあたしはじいさんの腕を引いて走り出した。
 良く晴れた朝だった。
「何処か、か」
「そうよ」
 ばたばたばた。あたし達の靴音が、やけに高く響く朝だった。
「そうじゃなあ」
 走りながらじいさんは言った。
「確かに人は何処かに行くべきじゃなあ。しかしお嬢ちゃんよ」
「なに」
「何で急にそんなことを言い出したのだい」
「さあ」
 理由は何だろう。
「何でだろうねえ」
 理由。
 例えば冬の寒さに悲しくなった。例えば青春というものに捉えられてしまった。例えば好きなバンドが解散した。例えば例えば例えば。
 理由。理由。電車の音。ラッシュアワー。小鳥のさえずり。愛。平和。嘘。本当。
 理由。数え上げれば切りの無い、理由。
 それらは皆正しく、だから同時に全て間違いで。
「だからさ」
「うむ」
「きっとダヴィンチがモナリザを描いたような、ピカソがゲルニカを描いたような、ヒトラーがアウシュビッツを作ったような、マリリン・モンローが自殺したような、そんな理由よ、きっと」
「なるほど。つまり」
 じいさんは、にかりと笑い
「芸術、じゃな」
 と言った。
「うん。そうよ。芸術よ」
 そう言ってあたしも、にかりと笑った。
 駅からアナウンスが聞こえる。電車がホームに滑り込んで来る。またぞろぞろと人の溢れだした改札を横目に、人の流れの反対方向へ、あたし達は走る。ばたばたばた。靴音を戦闘ラッパみたいに響かせて、あたし達は走る。
「気持ち良いねえ」
 すう。はあ。12月の冷たい空気を一杯に吸い込み、あたし達は走る。
「そうじゃなあ、気持ち良いなあ」
 走る。走る。

 そして。

「はあ、はあ、いつの間にかこんな所に来ちゃったね」
「はあ、ふう、そうじゃなあ。いつの間にか来ちゃったな」
 あたし達はいつの間にか、東京都庁に来てしまっていた。
「大きいね」
「大きいのう」
 東京都庁。白と黒とガラスの城。首を大きく、90度以上曲げて仰ぎ見る。天まで伸びているんじゃないか、と思わせるそのビルの頂は、雲の先にあり見えない。
「登っちゃおっか、せっかくだし」
「ここを?」
「うん。決めた。登ろう」
 そう言ってあたし達は入り口に向かって歩き出した。
 自動ドアの入り口には男の人が二人。青い制服を着た警備員だ。
「君、入場許可証は」
 二人組の背の小さい方が、あたしを手で制し聞いてきた。
「有りません」
「なら入れません」
「何故ですか」
「規則だからです。お引き取りを」
「規則って何ですか」
 何さ。何なのよう。あたしは聞いた。全く子供の質問だなあ、とか思いながら、全く子供のように手を伸ばして、何なのよう、と聞いた。そして。
 ばき。
「あら」
 その子供のように伸ばした手が男の顎に吸い込まれるようにクリーンヒットすると、血を吹き出しながら男は吹っ飛んだ。
「お、お前!」
 血相を変えて腰の警棒に手を伸ばすもう片方の警備員。
「きゃあ」
「むう!」
 どす。
 今度はじいさんのパンチが男の腹にめり込んだ。
 ずるずると崩れ落ちる二人組。
「意外。あたし体育駄目なのに」
「儂も意外」
「あたし達、意外とパンチ力有ったのね」


 あたし達は都庁を登り始めた。
 ロビーを抜け、すぐに階段が見つけ、あたし達は都庁を登り始めた。
 警備員はわらわらと群がってきた。あたし達はそれにパンチで、キックで、アドリブで編み出した必殺技で応酬した。ばき。ごす。ばりばりばりばり。面白いように屍の山が築き上げられていった。あたし達は、実は強かったのだ。
「知らなかったねえ」
 ばき。
「うむ、これなら素手でB29を落とせたかもなあ」
 ごん。

 あたし達は三段跳びで階段を駆け抜けていく。


 そして。

「ふう、ついに勝ったね」
 そしてついにボスキャラの石原ジンタとの死闘を制し、あたし達は最後の扉、都庁の屋上へと通じる扉に手をかけた。
 ノブを回す。ぎい。錆びだらけの扉が重い音を立てて開く。途端に吹き込む強い風に、あたし達は飛ばされそうになる。
 ごう。ごうう。
 でも、もうあたし達は迷ったりしない。
「行こうか」
「うむ」
 あたし達は強い風に向かい、歩き出した。


「わあ」
「おお」
 屋上に出たあたし達の目に飛び込んできたのは、空の青だった。圧倒的な、遮る物何一つ無い、空の青だった。
「凄いねえ」
「これが空、なんじゃねえ」
 あたしは空に手をかざした。届かない空に、手を伸ばした。何て小さいのだろうあたしは。何て大きいのだろう空は。
「行きたいね」
「空に?」
「うん」
 あたしは手すりに足をかけた。
「行こう」
「行けるかな」
「行けるわよ」
「そうじゃな、行けるよな」
 じいさんも手すりに足をかける。
「行けるわよ。あたし達は何処までだって行けるわよ」
 青。泣きたくなるほどの青空。
 その青空の中へ、あたし達は飛んだ。
 ごう。風が、強い。その強さに、あたしは久しぶりに風というものを思い出した気がした。
 12月の風が、あたし達から色々なものを吹き飛ばしていく。色々な物。色々な事。少し寂しい気もするけれどそれでも、あたし達はもう引力に騙されることは無いのだった。
「気持ちが、良いね」
「ああ、そうじゃねえ」
 あたし達は、飛んでいく。
 眼下におもちゃのような街並みが、雲に霞んでいる。




 あれからどれくらいたっただろう。


 あたし達は何処までも旅を続けいった。空を突き抜け、月を通り越し、星の海の中を、何処までも何処までも。
「さて、そろそろ始めようか」
「ん、何をじゃ?」
「ふふふ」
 あたしは右手に力を込めた。
「お」
 右手の先に産まれる、小さな赤い火の玉。
「やるな、嬢ちゃん」
 太陽。
「さ、始めよう」
 たった今産まれた、あたし達の太陽。
「神と女神の誕生よ」
ニイタカヤマノボレ るるるぶ☆どっぐちゃん

Entry13
寒い夜に
伊勢 湊

 別に本気で家出をしてやろうと思ったわけじゃないけれど、高校受験を備えてのただ机に向かうだけの毎日がなんとなく納得できずに新年まであと二日という年の瀬の寒い夜にこっそり家を抜け出した。どこかに行こうという場所はなかったけれど十二時過ぎの夜の街は空気が澄んでいて気持ちがいい。僕の知らない世界の美しさだ。そう思うと嬉しくて、でもなんだか寂しくなる。どうしてかは分からない。見上げた空はすごく綺麗だけど、空気の冷たさに出てきたばかりなのにもう帰ろうかなんて思ったりする。きっと母さんは心配しているだろうな。
 それでも何かを決めかねて寒い中をぼんやりと歩く。受験生には正月はない。受験生の正月は春だ。そんなことを言われながら冬休みに入ってもクリスマスが来てもずっと勉強してきた。でも本当にそうなんだろうか。母さんは将来のために勉強しろと言う。しないよりしたほうが将来の可能性が開けると言う。そうだとは思う。でも一生のうちで一度しかない今年のクリスマスは気にも留められずに過ぎてしまった。僕の好きな笹原さんはどんなクリスマスを過ごしたのだろう。今になって思う。僕が来年の春か、もしかしたらその先のいつかのために机に向かっている間に誰もが僕の知らないどこかで何かをしているんだ。家庭教師の田辺先生も年末はお休みだ。推薦が決まっていて受験をしない友達の中には家族で外国に行くのもいる。
 先の方に見えるコンビニの駐車場では少し恐い格好をした、たぶん高校生だろう、何人かが座っておでんを食べながら楽しそうに話している。お世辞にも柄が良い感じはしなかったけど、その自由気ままな感じが僕にはなんとなく羨ましくて、思わず彼等を見つめていた。そのうち一人が視線に気が付いて軽く僕のほうを睨み返した。なんか恐くなったけど、びびっていると思われるのも嫌でそのまま歩いてコンビニのドアを押した。
「いらっしゃいませ」
 なんとなく退屈そうな、でもどこかで聞いたような声がした。声のしたほうを見るとレジのところで頬杖をついている田辺先生がいた。ジーパンにジャケット姿しか見たことなかったのにコンビニの制服を着ている。
「雅人じゃないか。おまえどうしたのこんな夜中に?」
「こ、こんばんは」
 ちょっと恐かったときに知っている人がいて安心したのと、でも会うはずがないところで会っちゃった気まずさで僕はどうしたら良いか分からなくなって突っ立っていた。
「なんか寒そうだな」
 田辺先生はそう言ってレジから出てくると暖かい缶コーヒーを二本手にして自分でレジを打つと、一本を僕に放った。
「いいんですか?」
 手の中の缶コーヒーの温かさは体中にじんわり浸透するようだった。
「自分でレジを打つこと?それとも驕ってること?」
「両方」
「何言ってんだよ。缶コーヒーくらいで気にすんなよ。奢られるうちにきちんと奢られとくっていうのも一つの才能なんだぜ」
 田辺先生はまたレジに肘をついた。僕たちの他には誰もいない。コーヒーをひとくち飲むと今度はお腹の中に温かさが広がってなんとなく気が楽になってきた。
「先生なんでコンビニでアルバイトしてるの?」
「なんでってお金稼がないといけないからな」
「実家に帰ったんだと思ってた」
「そうだなぁ…」
 田辺先生はそう言いかけて少し黙った。ふと気が付いて「まずい」と思った。「おまえはどうしてここにいるんだ」と聞き返されたらどうしよう。なんて言えば良いか分からなかった。夜中に出歩いていることよりも、勉強から抜け出しているのが気まずかった。どうしてだろう。別に家庭教師の先生に優等生ぶる必要はないのだけれど、それでも何か期待を裏切ってしまっている気がして思わずうつむく。先生は今にもその質問を浴びせそうな目で僕を見ていた。でも先生はそう聞かずに目を逸らして、そして話し始めた。
「オレな、帰るとこないんだ。いや実家はちゃんとあるんだぜ。ただなオレが大学に来るちょっと前に親父が再婚したんだよ。前のお袋とはいろいろあってな。新しい母親はすごく良い人だよ。あんまり会ったことないけど可愛い妹も出来た。おまえきっと惚れるぞ」
「なっ、なに言ってるの」
 真面目な話だって分かってるのに思わずなぜか照れてしまった。先生はそれを見て軽く微笑んでから話を続けた。
「なんとなく帰り辛くてな。あの人達は良い人なんだけど、なんていうか意地張ってるのとも違うし、誰も悪くないんだけどそのほうがいい気もしてさ。ついでにな、こっちに来るとき見栄張っちゃったんだよ。生活費そんなにかからないから仕送りはいらないって。正直言うと生活辛いな。東京の生活って思ったより金かかるよ。でも親父に学費出してもらってるだけでも有り難いからな。それでバイトしてるって訳さ」
「でもさ、お金くれたりしないの?」
「そりゃあないな。いらないって言っちゃったからな」
 先生は笑ってそう言った。そういうものなのかもしれない。もしかしたら大人の『プライド』ってやつなのかもしれない。正直僕にはまだ分からない。いつも自分はもう大人だなんてことを思いながらお小遣いは喜んでもらっている。もうすぐもらえるお年玉も愉しみだ。いつか「勉強しろってうるさくてバイトもできないよ」と父さんと喧嘩したこともあったけど、それでも本当はアルバイトなんて大変そうで、きっとお小遣いのほうが楽だ。僕はそれが分かって甘えちゃってるし、父さんもたぶん、いらないって言ってみてもなんだかんだくれる気がする。
「明日も働くの?」
「おお。明日も元旦も。稼ぎ時だからな。時給良いんだよ」
 先生は力こぶを作って言った。でもその先生の顔が疲れて見えた。きっとずっと働いているんだ。お金がないから。こんなので幸せだとか不幸せだとかは決めたくない。決めちゃいけないとも思う。でもやっぱり大変だと思った。先生には大晦日も元旦もない。クリスマスがないのは僕だけじゃない。なにせ先生も一緒に机の前にいたんだから。
「でもさ、お金ないんだったら家庭教師に来てくれれば良かったのに」
「そうなのか?お袋さんが年末くらい少しだけだけどのんびりさせてやりたいって言ってたぜ」
 そういえば今日は昼間で寝ていたのに起こされなかった。いつもだったらもう今頃は眠くて仕方ないのに。先生は眠くないのだろうか。そう思ってふと店の時計を探した。ジュースコーナーの上にある時計の針はもう一時を指そうとしていた。
 帰ろう。そう思った。受験生だから今は将来のために勉強だけしていれば良いなんて思うのはやっぱり悔しくて嫌だったけど、でも帰ろう。僕はジュースコーナーに小走りに行ってウーロン茶の大きなペットボトルとコーラの小さなペットボトルを持ってレジに戻ってきた。先生に一本奢ろうかなとも思ったけど、なんとなくやっぱり止めておいた。
「もうのど乾いちゃって。人が一生懸命勉強してるのに冷蔵庫に何も飲むものないんだもの」
「はいはい」
 先生はそう言ってレジを打ってくれた。
「じゃあ勉強頑張れよ」
 僕は頷いてからコンビニを出ようとして一度だけ振り返った。
「先生も勉強頑張ってね。大学生なんだから」
「生意気な。オレは勉強好きなんだよ」
 そう笑う先生に「じゃあ良いお年を」とちょっと大きな声で言いながら僕は寒い夜に走り出た。そういえば電気ストーブを消すのを忘れてきた部屋の暖かさを思い浮かべながら。
寒い夜に 伊勢 湊

Entry14
ひるがえれ小国連合軍旗
朝市九楽

 世界最小の大陸、レストニア大陸には五つの小国が点在していた。
 
 歴史の表舞台から取り残されたような五小国だったが、それでも協力体制を作って国力の発展に努めるわけでもなく、この小さい大陸の制覇という夢を追い求め、不毛な小競り合いや騙し討ちを繰り返していた。

 しかし、いつまでも小競り合いにうつつを抜かしていける程、平和は長く続かなかった。海の向こうの巨大大陸で牽制を振るう列強国、カナン王国が、軍事行動の矛先をレストニア大陸に向けたのである。
 この情報を耳にした時、レストニア大陸の五小国は震え上がった。カナン王国は世界屈指の強大国。戦端が開かれれば最後、滅亡の一途を辿らざるをえない。

 争いなどしている場合ではない!我ら五小国が協力する時である!

 こうして昨日までいがみ合っていた五小国は、互いに手を握ることになった。
 その目的はカナン王国軍の侵略阻止。今ここに小国連合が誕生したのである。 

 連合を組むにあたって、政治、経済、軍事、外交、法律、文化などについての話し合いが数え切れないくらい行われた。そして最も重要な軍事活動会議の一つとして、軍備統合の証となる「連合軍旗」のデザインが話し合われることになった。
 すべての決定事項を代表者の合議制で決議するという最初の取り決め通り、この会議にも各国の軍の代表者が集められ、大陸で最も人気のある有名デザイナーも招かれた。

 「さて、今回は連合軍旗を作るということだが…話し合いで解決できる物でもないので、とりあえず私が代表してデザインを考えてきた。」
 開口一番、中央平原に位置する軍事国家の代表者が、議長面して言った。
「連合軍の中核は我が国の役割となるだろう。よって連合軍旗は、我が兵服の色となっている赤と黒を用いた物にすべきである。」
 軍事国家代表は、さも当然だと言わんばかりにキッパリと断言したが、当然そんな強行意見が通るわけもなく、他4国の非難と主張が乱れ飛ぶ事態を呼んだ。

 南の経済国家代表は言った。
 「馬鹿な。我が国の経済力が連合を支えるのだ。我が国の通貨デザインである、獅子をあしらうのが妥当であろう。」
 東の農産国代表は言った。
 「我が国は一番最初に太陽が登る国。ここは力の象徴でもある太陽を軍旗にすべきだ。」
 西の砂漠国家代表は言った。
 「いやいや、我が国のサボテンは世界に名だたる観葉植物。つまり、世界的に有名な、名物サボテンが軍旗にふさわしい。」
 北の田舎国家代表は言った。
 「で…では、わたくしの国はイカ漁が盛んなのでイカを…」

 それぞれの国がそれぞれに勝手なことを言い始め、会議は紛糾し続けた。4時間…5時間…6時間。長く不毛な議論が続いた挙げ句、日付が替わる頃にはなぜか国の自慢大会になっていた。
 「私の国はここが素晴らしい。だから私の案に…」
 「いや、私の国はこんな良い所がある。だから私の案が妥当で…」

 そんな小国のエゴを黙って拝聴していた有名デザイナーは、持ってきたデザイン用具一式をテーブルに広げると、喧噪を無視して一枚のデザイン画を描き始めた。そして、黙々と描き続けてデザイン画を完成させると、机を勢いよく叩きつけた。
 「バン!」
 鋭く響いた打音に、ケンケンガクガクだった議論は中断し、一同の視線は有名デザイナーの方に注がれた。
 皆の注目を集めた有名デザイナーは言った。

 「あなた方の主張をすべて受け入れた、民主的かつ公平な旗をデザインしてみました。」
 有名デザイナーは一同を一睨みすると、描き上がったばかりのデザイン画を皆に披露した。
 それは赤と黒の縦縞を下地に、獅子と太陽とサボテンとイカが雑然と並ぶ、統一感の欠片もない軍旗デザインだった。
有名デザイナーは、ふんっと鼻を鳴らしてメンバーを一瞥した。
 「どうですか皆さん。この旗は、あなた方の心と態度を表しているのです。デザインというのはエゴを出していてはいけません。お互いが協力する意志を持たなければ…」

 その時、有名デザイナーの説教を遮って、軍事国家代表が声を挙げた。
 「素晴らしい!!」
「はぁ?!」
 「これぞ連合軍旗にふさわしいデザインだ!私は感動した!」
 突然の言葉に、残り4人の代表者も大きく頷くと、スタンディングオベーションで惜しみのない拍手をデザイナーに送り始めた。彼らには素晴らしい旗に見えたのだ。皆、疲れていたのである。深夜に及ぶ御国自慢でハイになっていたのである。
「決を採るまでもありませんな。」
 「では満場一致ということで。」
 「文句ありません。我らの希望がすべて受け入れられるとは。」
 「何にしても決まって良かった。」

 「あ…いや、私が言いたいのは…」
 もはや有名デザイナーの声は彼らの耳には届かなかった。談笑しつつ退場する代表者たちを引き留めるかのように突き出した手の平は、虚しく宙を舞うばかりであった…。

 それから一年後…。
 水平線上に姿を現したカナン王国軍の水兵艦隊を前に、レストニア大陸小国連合軍は万全の構えで対峙した。今や連合軍の兵力は、大国・カナン王国の軍事力を遙かに凌駕し、その勢力は無視できないレベルにまで成長していた。大海原に展開した連合国の軍艦隊は、雄々しく力強い一群となって突き進んでいく。
 「主砲射程距離まであと20分。」
 通信士の報告を受けた連合軍の総司令官は、軍用帽をかぶり直して気を引き締めると、通信システムを解放して全艦隊に報じた。

「これより、我々連合軍と大国カナン軍の決戦が幕を開く。」
 深く静かな総司令官の声は、兵士1人1人の体の中に浸透し、体と心の内から燃え上がる炎を一層熱くさせた。
 「敵は軍事力という圧倒的な力を傘に権勢を振りかざし、他国を侵略し、多くの犠牲と善良な市民の涙を生み出してきた。そしてその牙は、現在、我々に向けられ、そして全世界に向かっている。…しかし!我々は、そんな力には屈しない。わがレストニア大陸連合軍は、この日のために軍力を統合し、カナン軍に倍する兵力を擁するに至った。努力の末に通信・補給に関しても完璧な統合を完了している。すでに戦略的に有利な立場に立っているのだ。」
 総司令官はそこで息を吸うと、力強い声で激励した。
 「我らの勝利は疑いない!英雄諸君、思う存分奮闘し、奴らの毒牙を叩き折れ!!」
 「おぉぉ!!」
 兵士達の呼応が熱狂の渦となった。
 「連合軍旗掲揚~!!」
副指令総監の声が拡声器を通して全軍の鼓膜を振るわせた。そして、一年前のあの日に定められた連合軍旗が、初めて一般兵士の目に披露されたのである…。

 兵士達が突き上げた拳が、「えっ?」というように、力無く固まった。
 そして、初めてその旗を仰いだ味方兵士も、双眼鏡で様子を見ていた敵軍司令官も、呆れ顔で呟いたのだ。
「…っていうか、なんだよあれ。」
 赤と黒の縦縞模様を背景に描かれた、獅子と太陽とサボテンとイカ。
 まるで統一感の無い模様が雑然と並ぶその旗は、味方兵士の志気を挫き、さらには、連合軍が単なる寄せ集めの軍隊にすぎないという本性を敵軍司令官に知らせる結果となったのである。

 …その後の歴史学会では、多くの戦略的有利な条件を確保していた筈の小国連合軍が、なぜ初戦で壊滅し、滅亡の憂き目を見たのか…何度も熱い議論が交わされた。だが、今もって尚、原因は不明である。