第17回3000字小説バトル Entry4
まだ新しい国語の教科書を眺めていた由幸は、ポツリと言った。
「やまなしって、なんか、うまそうだな。」
前の座席の俺は、多少大袈裟にずっこけた。由幸が授業以外の時間に教科書を開いていることは、かなり珍しかった。
「予習してるかと思えば。何考えてんだか。」
呆れつつも、「やまなし」に興味をもった俺は、由幸にページ数を訊き、国語の教科書をめくった。
「ああ、宮沢賢治か。」
「やまなし」は宮沢賢治の童話だった。読んでみたが、何故教科書に載っているのか解からない話だ。要約すると、『クラムボン』が『かぷかぷわらつた』話らしい。それは冗談で、川の中のカニから見た動物の生き死にと季節の移り変わりを書いている。宮沢賢治は、熱心な法華宗の信者で、宗教色の強い作品も多い。これもその類だろう。なぜ、俺がこんなに詳しいかといえば、たまたま家に賢治の本が一冊あったからだ。
「なあ、明日さ、やまなしを取りに行こうぜ。」
あまりに突飛な誘いに、俺は固まってしまった。ちなみに今日は火曜日。明日は平日の水曜日である。
「俺、S駅より向こうに行ったことがないんだよ。終点まで行ってみたくない?」
俺も終点へ行ったことがない。行こうと思ったことも無かった。目をきらきらさせながら教科書を読む由幸に軽く嫉妬した。
「学校は?」
嫉妬心を隠しながら由幸に聞いた。
「もちろん、サボる。」
「塾は?」
「それまでには帰ろうぜ。学校なんかつまんないじゃん。」
その意見には賛成だった。面白くも何ともない話を延々と続ける教師よりも、大袈裟な身振り手振りで実践的な授業をする塾講師の方が好きだった。
「おお! わかった!!」
俺が指を立てると、由幸はニカっと歯を出して俺の真似をした。
次の日、俺らは制服で駅に集合した。いつもは降りる駅を電車の中から見るのはおかしな気分だった。
「俺らが降りるとさ、電車って静かになるんだな。」
由幸は、うん、と頷いた。
駅を通るたびに人が降りていった。中心街からどんどん離れていくので乗客はほとんどいなかった。頃合を見計らって。電車内で着替えた。
「ギャルみたいだな。」
化粧はしないけどな。
アナウンスが終点を告げ、俺達は降りる準備をした。一時間半も乗ると、外の景色はテレビで見る田舎の風景になっていた。
駅員は俺達の顔をチロリと見たが、無言だった。
駅前には、ボロボロのタクシー乗り場の看板と、反対にやけに新しいバスストップがあった。
「とりあえず、あの山に登ろう。」
由幸は駅の真ん前の山を指差した。
「適当過ぎない?」
「じゃあ、どこがいい?」
逆に質問されてしまい、結局その山に決まった。周辺をグルグル歩いていると、舗装はされていないが、人間が通るであろうと思われる道があり、そこから中に入った。道はだんだん細くなり、木々はどんどん濃くなってきた。
「あちっ!」
虫に刺された。由幸は虫除けと痒み止めを貸してくれた。準備の良さに驚いた。こいつ、本当に山に来たかったんだな。
さらに歩いていくと、道はまたまた細くなってきた。
「これってさ、『獣道』かな?」
「獣も歩いているかもね。」
少し遠くで、がさがさと音がした。もしかしたら獣が歩いているのかも。
道の端には変なキノコがたくさん生えていた。山は、思ったよりも静かだった。虫も少なかった。俺達を狙う羽虫と、進行を妨げる蜘蛛以外。鳥や虫なんかの鳴声は想像よりもずっとかわいくない。ただ、キツツキが樹を突く音は、好きだと思った。リズミカルで、こだまのように響いている。
木々が晴れて明るくなってきた。少し開けた場所に出た。小さな川がある。ここで休憩と昼食を摂ることにした。
川の石をひっくり返してみたが、カニはいなかった。気味の悪い虫ばかり。がっかりして、俺達は黙ってしまった。二人でぼんやりと川を眺めていると、白い花が流れてきた。俺が拾うと、由幸は「コブシじゃないか」と言った。川に洗われたためか。香りは無かった。色がさめて茶色っぽくなっていた。
「宮沢賢治ってさ、多分童貞だよ。」
「やまなし取り」が、思った以上につまらないので、俺は意地悪い気分になった。
「マジかよ。もしかして、一生?」
由幸は簡単に乗ってきた。
「多分な。初恋が看護婦さんだった、という話はあるんだが、それ以外の女といえば妹の話しかないんだよ。なぜかといえば、賢治は熱心な仏教徒なために、女を好きになることに罪悪を感じていたらしい。」
俺はうろ覚えの知識を披露した。
「マジかよ。」
由幸は同情するような声で同じ言葉を繰り返した。
「実際に、一生独身だったし。」
「そうなんだ。」
気分を盛り上げるために話したのに、かえって俺達の気分は盛り下がってしまった。
突然、雨が降ってきた。通り雨だろうか。雨粒が大玉なので、俺達は近くの木の下に逃げ込んだ。
「『山の天気は変わりやすい』って本当なんだな。」
実際に山の天気が変化するところを見るのは初めてだった。
「雨が止んだら、帰るか。」
由幸は仕方なさそうに言った。俺もそれが良いと思った。木の下でしゃがむと俺達はまた無言になってしまった。昼食はもう食べてしまった。
雨音と、皮の流れる音と、木々が水滴を弾く音と、山の生き物が出す音が聞こえる。
「山は思ったよりも静かだ」と思ったが、それは全然違った。こんなににもうるさい。なのに、俺の心臓の音がはっきりと、しかも、静かに聞こえる。心音は、キツツキよりもずっと遅く、あの枝から滴っている水滴ぐらいの早さだ。
雑音の中でも、自分の鼓動がはっきり聞こえる。この感覚はかなり昔に体験したことがある。
(それはどこだ?)
俺は、退屈しのぎに思い出そうとした。とりあえず、最近のことではない。
どこだ?
どこだ?
雨のために、空気が蒸す。じっとりとした山の空気に囲まれ、俺は思い出した。
(胎内か!)
もう、それ以外浮かばなかった。母親の心音、体液が流れる音、動く内臓、体外の生活音。その中で、自分の鼓動だけが聞こえる。あの感覚に似ているのだろう。
もしかしたら、賢治は日常的にこの感覚を味わっていたのかもしれない。俺達が忘れてしまったこの音を、思い出させるためにあれだけの作品を残したのかもしれない。これ以外にも、もっとたくさん無くしたものがあるのだろう。捨てないで抱えていたのが賢治なのだ。
俺が自分の鼓動に耳を澄ましている間に、雨は止んでしまった。
「じゃあ、帰るか。」
由幸は言った。俺は、少しセンチな気分だった。俺は賢治に向かって、笑ってすまない、と心で呟いた。こういうシーンもどこかで読んだような気がする。うろ覚えなので出所がわからない。
山道は思ったよりも乾いていた。無事に山を下り、電車に乗った。雨で服が濡れたので、また車内で制服に着替えて、いつもの駅で降りた。時計を見ると、下校時刻よりも若干早い。
「なあ、マック寄ってこう。」
俺は、反射的に「ああ」と答えた。
「リハビリしないと。やってられないよ。」
そうだな。俺らが住んでいるのは、ここだもんな。今度はちゃんと意識して答えた。
「おお。」
俺達にとって、この街が胎内だもんな。
とりあえず、「宮沢賢治全集読破」が俺の目標になった。それだけのために学校に行くのも悪くない。それから、由幸。黙ってたけど、「やまなし」って、秋に実るんだぜ。お前、ちゃんと教科書読んでないだろ。