第17回3000字小説バトル Entry8
ペットボトルがカクテルシェーカーの代わりになる事を発見したのは夏音だった。成る程それは確かである。
彼女はその当時ブラッディメアリにすっかり溺れてしまっていた。その血まみれ女王を作る為にコンビニを回って歩き様々なトマトジュースを買い込んでは量を計ってペットボトルにウオッカと共に放り込み、見ている人間が「何もそこまで」と思う程ひとしきり振りこんでいた。デルモンテや名前も良く覚えられない外国メーカーなどを試し、最終的に手に入り易さと味からカゴメまるごとトマトとやらに落ち着いているらしい。
「いやそこまでは分かるんだよね。でも何故か僕としては問題が他にある気がするんだ」
眉を顰め乍ら静生は発言する。なんとなれば以上のブラッディメアリと夏音の一連の闘争史は「何故君がここにいるんだ」という問いに対しての彼女の返答であったからだ。
「だから、私が居ないとあなたブラッディメアリ飲めないじゃない」
「…三項程発言を認めて欲しいんだけど。
先ず(a)ここは僕の家で僕は君を招待した覚えがないんだよね。そして(b)今は朝でカクテルを飲むには余り適当ではない時間帯だと思うんだけど」
「aについては気の毒だと思うけれど、窓開けっ放しじゃあね」
静生はすっかり起き出した街の、口煩い主婦の多いこの閑静な一角で、窓から入ろうとして居る女性を誰も見咎めない確率及びそれが噂にならない確率について縋る様な思いで暫時考慮した。然る後に自分の御近所付き合いは今非常な危機を迎えていると言う暗澹たる結論が出た時には、自分の愚かしい友人選択を心底恨めしく思った。
「bについてはそもそもあなたが何を不服として居るのか分からないわ。
あなた何の為に大人になったの?税金を払って子供と老人の面倒を見る為?それだけじゃないでしょう、違うわよ。朝から酒をのみ友人達とお洒落して街に出掛けて時々飲酒運転で捕まりそうになりつつ、子供には出来ない人生の楽しみ方をする。権利と責任の獲得の為に私達は大人になったのよ」
「…」
「cは?」
「前々から言おうと思ってたんだけどブラッディメアリの配合は精々ウオッカとトマトジュース2:8だよ、何で君は5:5なのさ。更に言わせてもらえばスピリタスってカクテル用のウオッカじゃないと思うんだよね」
朝のキッチンで夏音は生のアルコールに限り無く近い件の酒を嘗めつつとぼけた顔をし、静生はキッチンドリンカーの未来について暗い展望を縷々提示する。
斯くして彼等の朝は始まった。
夏音と静生との出会いは、長い話を縮めて言えば絶望的であった。
何しろ静生と言うのはゲイ仲間でも有名な女性差別主義者だった。その点において「三島由紀夫の正当な後継者」と何処ぞの作家の様な冠称まで頂いていた程だ。全体に清潔で神経質そうな容姿と中身の彼は只でさえ友人が少なかったが、数々のその道の発言で更に減らしてしまっていた。
そこに現れたのが夏音だった訳だ。
静生が女性差別の道を極めていたのなら、夏音はホモフォビアという山の頂きへと今まさに登らんとしていた。彼女の同性愛者との付き合いはどうも祝福されたものとは言い難かったのだ。参考までに医者と言う職業と女性らしい柔らかみに欠ける長身の美貌とで自らの恋愛史において苦渋を嘗めて来た彼女は、ヘテロセクシャルの男女にだって好きな人間が殆ど居ないと言う偏屈ぶりではあるのだが。
共通の友人の紹介で彼等が顔を合わせた時、誰もが彼等の厭世主義の更なる加速を覚悟した。そうならなかったのは偏に二人の映画と食事の趣味が非常に合ったからだ。
監督ではデレク・ジャーマンが好き、でも時々観てて辛いけどね、他にどんな?ビフォア・ザ・レインにカーテンコール、最近はリトルダンサーやミリオンダラーホテルもいいな、ドゥルーズのシネマ中々翻訳されないのはあれは柄谷某が一人でやる気だからってのは本当なのかな、え?蓮見じゃなくて?いや僕あの二人時々混同するから結構間違ってるかも、あー分かる微妙にキャラ被ってるんだよね、私も寺山と澁澤とか混同して寺山マニアの友達に殴られかけた、エトセトラ。そして二人が飲むのはセロリの入ったこの店特製のブラッディメアリ、及び細葱と青じそとアサリのリゾット。
この二つの合致はつまる所快楽の合致であるからには、どちらかというと恋人どうしの間に起こるそれに近かったのだが、彼等は友人になる事が出来た。それは多分彼等が元々恋人には向かない型の人間だったからだろう。
彼等は頗る自分勝手だった。
相手の為に自分が変わる事を良しとしなかったし、相手にもそれを要求しない。二人ともそうではない恋をした事があるのだ。それでもその恋は終わった。そして彼等は彼等になった。
静生は今も女性に対して前近代的な偏見を持ち続けているし、夏音もゲイ一般についての偏見は拭えていない。二人ともお互いのそこへ言及しないし多分、これからも変えて行く事は出来ないだろう。
これはおそらく正しい友人関係ではない。
そして静生も夏音もそれでも構わないと思っていた。フリーライターと言う仕事柄閉じこもりがちだった静生は夏音と知り合ってから夜っぴて飲み歩く楽しさを覚え、夏音の方はレコードと珈琲について随分造詣が深くなった。彼等が道を違えた時、かつて友人だった証として残るのは多分そんな他愛もないものだけなのだ。そして彼等はその日がそんなに遠くない事も知っていた。
だけど構わなかった。
彼等は互いに互いをとても好きだったのだ。これが自己憐憫に基づく馬鹿馬鹿しい感情である事を怖れてしまう程に。
驚くべき事に夏音はブラッディメアリだけではなく他の代物も作ってくれる気らしかった。まあブツはスクランブルエッグだが。
「どうしたんですか」
一足早くブラッディメアリを飲みつつ問い掛けると、夏音はフライパンを熱心に凝視し出した。ひょっとして何か科学上の偉大な発見でもしたのかとそこを覗き込むと、視界の外に居る夏音から声が降って来た。
「静生は私の知っている中で一番素敵な男性よ。あなたの好きな人がそう思わなくても私はそう思う」
静生はそのまま固まる。
昨日の夜の情景が思い出される。「分かった」そう言い捨てて背を向けた。二股なんてありふれた事に傷付き別れ話を長引かせなくて良かったという気持ちと、プライドばかり高い自分を責め続けた長い夜が体の中に蘇る。
考えてみれば本来夏音は朝こんな風に訪ねて来る様な礼儀知らずな真似はしない。互いにプライドも高いから相手の領域を侵犯する事もされる事も得手ではないのだ。
卵はいつの間にか火から下ろされていた。
振り返って静生は黙り込む。暫時して殴られるのを覚悟して居る子供の様な顔で夏音は静生を見た。
「夏音、仮定というのは本来会話において実に非生産的な手法だと僕は思うのだけれど、仮に君がこの二月縁のない恋人と言う代物と出会い、まあそれは君の場合別れとほぼ同義な訳だけどそうなったら、僕は君に正しく半熟なスクランブルエッグを作ってあげるよ」
夏音の片眉が上がり、いつもの怒りの表情になる。静生がそれに乾杯するべくコップを上げると彼女も倣った。
「きっと僕らはどっちに転んでも、朝食にそこそこ美味しいスクランブルエッグと間違ったブラッディメアリを飲める希有な人種なのさ」
口笛のグッドバイを音楽に、友人達の朝食は始まった。