第17回3000字小説バトル全作品・結果一覧

#題名作者文字数
1ロボットマーマレード=ジャム1243
2わたしはがんばるようすけ1980
3学閥オキャーマ君2648
4リズム坂口与四郎2971
5シュークリーム盗難事件遠野 みどり2984
6メンソール2737
7トイ・ソルジャーズ芋澤扇風機3000
8友人達の食卓Ame3000
9千鳥が淵の桜Goldie2888
10待合室の風景−鼻水をたらしたインディアン−さかな☆3000
11絵の無いジグソーパズルT保田典子2965
12真実の後味Lucy2037
13王様の鷹の話立田 未2575
14兄弟海坂他人3000
15動物園のどよめき西 ふみ2999
16広告打者羽那沖権八3000
17水よりも濃くてやす泰3000
18超人狂時代太郎丸3000
19黄色いビー玉伊勢 湊3000
20届かないラブレター有馬次郎3000
21るるるぶ☆どっぐちゃん3000

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Entry1

ロボット

 オレンジの香りがほのかに漂い、先程のケンカを思い出した。
「しんどいの?」...答えがない。(死んだんかなぁ。)と彼の目を見つける。
「ガラスのいいものがあっってんけど、丸末屋の8階の時計売り場の前の特設売り場やってん、ステンドガラスやで、パン買わなあかんから、19時で閉店やったし、後で報告しようとして、帰ってきてん」やっぱり返事がない、昨日はガラスのいいのがあったら、見てくるように頼まれた気がしてただけやったんや、と1人で解釈して、パン袋をあけて鬱を忘れてパンをパクパク食べた。
彼は、43才のバツイチ。
子どもはいないが私の推理では、某有名小学校に通っている子が1人いてそうだ。
「今日はもう帰り、明日又おいで」とまるで、ネコをなだめるかのように、おまけに、出てきたからと言って、目覚まし時計までくれた。
「じゃぁね」と、我ながら、ハードボイルドのかわいい子のフリで明日又来るようになでめられたフリか、頼りにしているのか、笑顔で帰った。
未練。
何故か、惨めだ。
家に辿り着き、コンビニエンストアで孤剣丸出しで買った、マカデミアンアイスクリームを食べ、映画雑誌を見て、余韻を踏んでいた。
今日のはじまりは、お買い物にパン。幸せにワンピースを着て笑顔のつもりが、どうして、話にならずに帰ったのか、明日は本当に楽しくなるのか、まさか、灯油を持って、軍手を差し入れたら仲直りになるのか、まさかそれは結婚した後の話で、今は恋愛中、モンペ姿の偶像とのケンカになるなんて、信じられない。
私の考える恋というものは、絶対笑顔。明日は又、がんばって、ピンクのギンガムチェックのサブリナパンツで気をひこうとカールをがんばった。
今日のケンカはロンングワンピースだったのか、、サンダルだったのか、、、と私は眼を閉じ、眠りに入った。
彼女メグは知っているのか、あんなバカな高校生タイプの女は久し振りだ。
「あいつは、又明日ピンクの似合わないパンツでやってくるのであろう」と吾郎は、車にガソリンを入れ、メグがいてたら、もう少し作業がすんだのにとメグのサンダル姿を目に思い出した。
眠った。
起きた。
メグは来なかった。
吾郎は急いで、銀行へ行く支度をした。もう来ないであろう。昨日眠っている間に殺したハズだ。
事態は急変したんだ。あのメグがまさか、マフィヤの友達にヤクルートを売るなんて、バカなことをしたもんだ。
目覚まし時計を持って帰り忘れたのに後悔を残し、今日の悲しい仕事に急いだ。
メグへの婚約指輪を買うためにお金を銀行から下ろす予定だった。
ムシャクシャするので、下ろすのをやめて、ゲームをすることにした。
メグはもういない。
1,2,3と足の歩みをはじめ、あなたは横見てネコになる。明日私の家来になる。だから、友達だ、恐がらずに私の元へ、帰っておいで、後は私の思うままだ。
「鐘を鳴らせ」と、窓越しにはメグがいた。
死んだのは夢だったんだ。正確に今日の夜中メグの首をはじいたハズだ。
楽しくお金を数えるメグは、
「吾郎に今日も行くね」と、手渡した、額は300万。

このメグに出会った後に私はひどく貧乏神になった。
指輪に、倉庫、車に木。


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Entry2

わたしはがんばる

2段ベットの2段目に寝転びながら、薄汚れた天井を見上げふと思った。
染みが日本にそっくり。
その横の染みはドラえもんにも似ている。
もう何年この天井は掃除されていないのか。
太古の昔していた覚えはあるが、いつか忘れた。
6年前か、60年前か、600年前かそれともずっとされていなかったのか。
そういえば私はホンの6年前の記憶さえも無い。
わかろうはずも無い。

ここ多治見孤児院は全く酷い。不気味で不潔で粗悪な所だ。
廊下には埃が舞い、トイレは常に悪臭を放ち、風呂の白いはずのタイルは全て茶黒く染まっている。
食事は美味しくないし規則も厳しい。
建物は木造で、いたるところにカビが巣食っている。ネズミやゴキブリの巣窟だ。
こんなところに6年間も暮らさなくてはいけなかったのは、母が小さいころ病死し父は刑務所暮しという最悪な家庭に生まれたせいだ。
そのせいでこの劣悪な生活空間が私の家になったのだ。
何故私だけ?ついていない。まったくついていない。世界一ついていない。
それにしても母はともかくとしても父は刑務所暮らしとは一体どんなことをやらかしたのだろう?
覚えていない。
チンケな強盗や横領の類でつかまったとも風の噂で聞いた。
どうせろくな男じゃなかったのではないだろうか。
そう思った時だった。全治しているはずの背中の傷が痛んだ。
「痛っ」
何故だろう。いつも背中の傷が疼く。自分の生い立ちを悔やんでいると。
自分を叱咤しているかのような疼きが脳に伝達されるのだ。
ひょっとして天国に居る母が私に何かを伝えたくて私に痛みを与えているのだろうか?
それなら言葉で伝えてもらいたいものだ。
夢の中なら可能だろう。

その日は私の15度目の誕生日だった。

私は高校に進学しようかどうか迷っていた。
もうこの孤児院には居たくないから働いてアパートで一人暮らしを始めようか。
それとももう3年間ここに残って高校だけはしっかり出ておこうか。
どちらがいいのだろう?
どんな難解なパズルでもこれよりは易しいだろう、なかなか難しい問題である。
一生に関わる問題なので慎重に決めなくてはいけないことだけは分かる。

そんな時だった。私の元に一通の手紙が届いた。
それは阿部刑務所に服役中の私の父からの手紙だった。
中には誕生日を祝う旨を伝えるだけの手紙と黄色く変色した古い新聞記事の切り抜きが一枚入っていた。
「夫が妻を殺害!」と見出しのついたその記事は私の父が私の母を殺した犯人だということを告げていた。

それを見た瞬間凍りついた。
知らず知らず心の奥底に閉じ込めていた6年前のあの日の記憶が蘇ったのだった。
真相は重たく空しく冷たかった。

私と私の父は実際には血が繋がっていない。
実父は私が生まれてすぐ交通事故で亡くなってしまった。
私が9歳になった時、一人の男が父と名乗り私達の家族に加わってきた。
その男は若くして事業を起こし成功したビジネスマンで、その時できた豊穣な資金を元に多治見町で孤児院を経営していた。
大した金持ちだったらしい。
母は父を好んでいたし、父もまた母を愛していた。
その男はすぐに私を娘と認めたようで、しきりに話し掛けてきた。
しかし私はずっと自分だけを見ていてくれていた母がその男に取られるような気がして、無視を繰り返した。
その上私の人見知りな性格が災いししてか私はずっとその男を父と認められなかった。
やがて私はその男を憎悪の目で見ていたのだろう。
一ヶ月が過ぎた頃、事件が起きた。
酒に酔い父が寝たのを見計らい私は台所の包丁で父の殺害を企てたのだった。
父はすんでの所で目を覚まし私からその包丁を奪った。
「何しやがるっ コイツ」
飲酒のためか普段なら温厚な父が憤怒し、その包丁を振りまわした。
一説には父は私を強盗と間違えたということらしいが。
その奇声に母が駆けつけると既に私は背中に大きな傷を負っていた。
もう刺し殺されそうな寸前だった。
「何やってるのっ!やめてっ」
振りかぶった包丁が、咄嗟に私をかばい抱え込もうとした母を貫いた。

涙が止まらなかった。何故今まで忘れていたのだろうか。
真相は私のせいで母は死に、父は刑務所へ入れられたのだった。
人間はあまりにもショッキングで地球の終わりみたいな恐怖体験の記憶は、知らないうちに忘れるように出来ていると何処かで聞いたことがある。
生物の自己擁護本能だろう。
だから私には6年以上前の記憶が無かったのだった。

やがて分かった。
あの背中の疼きは天国の母が父を責めないでくれと言っていたのだと。
私はあんなにも母が愛していた父を殺そうとした。
あの大罪をこれから償っていかなくてはいけないのだろう。
私は決心した。父が造ったこの孤児院に残ろう。
残って一生を捧げ、百十数人の子供を抱えるこの孤児院を絶対住みよい施設、いや孤児達の家庭に作り変えよう。
それが私が唯一過去を清算できる方法だと思う。

だから母さん。わたしはがんばる。


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Entry3

学閥

 多羅尾泰三は、最高裁判所の裁判官を経た後、弁護士として独立して数々の有名事件を手がけ、現在では、司法界における実力者としてその名を知られている。
 裁判官としては、まだまだ経験の浅い森末にとってはかつての上司で、雲の上の人でもあった。
 二人の間には、鍋がぐつぐつと滾っている。森末は、その鍋越しに手を伸ばして多羅尾に酌をした。
「お久しぶりです」
「いや、君の活躍はいろいろな方面から耳に入っているよ」
 森末は恐縮していた。
 しばらくの間、地方裁判所の勤務時代の思い出話で座が盛り上がったが、多羅尾の様子がどうも釈然としない。
 久しぶりに鴨鍋をおごるから、一緒に食べに行こうよ、といってこの料亭に誘われたのだが、森末は、その多羅尾に他意があるとは思いたくなかった。もっとも、このような料亭で裁判官と弁護士が同席するという事は、プライベートな用件以外にあってはならないことである。
「ところで……」
 アルコールも程よく体に回ってきた頃、森末の不安が現実になった。
 多羅尾の話題が突然変わったのである。彼は、真顔になってこの酒席のわけを少しずつ話し始めたのだ。
「君が今手がけている、藤澤医院の医療過誤事件のことなのだが……」
 森末はうろたえている。
「多羅尾先輩、それは聞かなかった事にしていただけませんか。私は裁判官、あなたは弁護士。これ以上そのことに触れると、法律を犯す事になりますし、何よりも司法に携わる者として、その倫理に著しく欠ける行為になります」
「それはわかっている」
 多羅尾は厳しい口調で言い切った。
「わかっているが、世の中というものはそういう杓子定規だけで動くものじゃない。君も知っている通り、藤澤医院の、藤澤先生は我々○○大学青葉寮の先輩に当たる人だ。君もエリートとして、そういう横の繋がりを大切にしてはどうか、とそう言っているだけなんだよ」
 特別に意識していたわけではないが、多羅尾は青葉寮で森末の五期先輩に当たる。医療過誤を起こして起訴されている藤澤医師が同じ大学、同じ寮の出身者であることも知ってはいた。が、森末は、それらの事実が司法判断に予断を与える材料になるなどとは一度でも考えた事はなかった。
「仰っている意味がわかりません。私は裁判官として、憲法と法律にのみ拘束されているだけです。当然、自分の良心にのみ従って、どんな権力にも独立して職権を行わなければなりません」
 森末の頬が熱を帯びているのは、酒のせいではない。思わず座を跳ね除けて、立ち上がろうとした森末の片手を掴んで、多羅尾が穏やかに言った。
「まあ、そんなに興奮することではあるまい」
「不愉快です。このような席に来るべきではなかった……」
 世の中の仕組みの中に、学閥という得体の知れない人間関係が存在することは公然の事実である。森末ももちろん、そのことは知っていた。特に、○○大学、青葉寮出身者という学閥はこの国の中核を動かす人々の中で、もっとも強力な連帯意識として、政経、官界、医学会などあらゆる方面で根強く存在していたのである。
 が、司法判断にまで、学閥が顔を出してくるとは……その唾棄すべき現実を目の前にして、森末はたとえようもない怒りを感じていた。
 しかし、ひとつだけ救いがないわけではなかった。森末はその青葉寮を半ばで退寮しているのである。彼は経済的な理由から○○大学を退学し、後年、別の方法で修士資格を得、独力で司法試験に合格したのだ。だから、○○大学の学閥とは無関係だと、理屈をつければつけられないわけではない。
 ところが、多羅尾はすでにそのことも承知しているようだった。
「君も青葉寮では新入生歓迎コンパに出て、同じ鍋をつついた仲間のはずだ」
 それは、青葉寮名物「闇鍋」のことである。あるいは、「闇汁」ともいうが、学生達がお互いに材料を持ち寄って同じ鍋に入れて煮、灯りを消した中でそれを食う。これを称して、彼らは「同じ釜の飯」ならぬ、「同じ鍋を食った仲間」と言い、寮生の仲間意識を深めているのである。
 青葉寮では、この闇鍋を学生集会の打ち上げ、あるいは大学祭、運動会などという大きなイベントとは無関係に突然開催する。寮生たちにとってはまったく不意打ちのような儀式だった。
「あの闇鍋の味を覚えているかね。青春時代の懐かしい一こまじゃないか」
「味までは覚えていませんよ。でも、仲間と一緒に鍋を囲んだ時間は、至福のひと時でした」
 森末は目を細めて思い出そうとしていた。仲間たちの中には、それぞれの方面で一流になった者もいれば、そうでない者もいる。だが、あの時、共通の時間を分け合ったことを忘れた者は一人だっていないに違いない。
 多羅尾は静かにビールを飲み干した。
「いいかい、問題は、○○大学を卒業したかどうかじゃないんだ。同じ鍋を食った仲間かどうかということだ。どうやら君は、卒業まであの寮にいなかったために、卒業の日に申し送られる青葉寮の大事な秘密を聞いていなかったらしい」
「今さらそれを聞いたところでどういうことでもないでしょう。もし、学閥とやらを根拠に、裁判の結果を変えろというのなら、それはもはや、人間の道をはみ出した行為だ」
 その時、多羅尾の顔が凄みのある笑顔で歪に変形した。
「だから、私たちはすでにその道をはみ出した仲間なんだよ」
 多羅尾は続けた。 
「いいかい、○○大学の前身はもともと医学大学で、闇鍋は彼ら医大生が解剖実習の後、伝統的に繰り返された儀式だった。医者という特権階級に仲間入りするためのね。今でも、青葉寮で闇鍋の材料を持ち寄るのは、医学部の連中だ。そして、その事実は卒業と同時に、我々の変わらない繋がりを確認するために、卒業生たちに告げられるのだ。不幸な事に、君はその時に青葉寮にいなかった」
「何のことかよくわかりません」
「世の中というものは、不思議なつながりを持った一部の人間が動かしているということだ。君にもそういう本当のエリートに早くなってもらいたいのだよ。まあ、落ち着いて鍋でも食べたまえ、頭もすっきりするだろう」
 目の前の鍋が滾っている。多羅尾は鍋に箸を入れ、ほかほかの肉を頬張りながらうれしそうに言った。
「ここの料亭の主人も、やはり私たちの青葉寮の後輩なんだ。今後は贔屓にしてやってくれ」
「これが鴨肉ですか」
 どうも食感が違うような気がした。
「おいしいだろ、ここの肉は……」と、多羅尾はテーブルの上の肉をせわしなく鍋へ運んだ。
「もちろん、今回の仕入れは藤澤医院なんだけどね……」


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Entry4

リズム

 まだ新しい国語の教科書を眺めていた由幸は、ポツリと言った。
「やまなしって、なんか、うまそうだな。」
前の座席の俺は、多少大袈裟にずっこけた。由幸が授業以外の時間に教科書を開いていることは、かなり珍しかった。
「予習してるかと思えば。何考えてんだか。」
呆れつつも、「やまなし」に興味をもった俺は、由幸にページ数を訊き、国語の教科書をめくった。
「ああ、宮沢賢治か。」
「やまなし」は宮沢賢治の童話だった。読んでみたが、何故教科書に載っているのか解からない話だ。要約すると、『クラムボン』が『かぷかぷわらつた』話らしい。それは冗談で、川の中のカニから見た動物の生き死にと季節の移り変わりを書いている。宮沢賢治は、熱心な法華宗の信者で、宗教色の強い作品も多い。これもその類だろう。なぜ、俺がこんなに詳しいかといえば、たまたま家に賢治の本が一冊あったからだ。
「なあ、明日さ、やまなしを取りに行こうぜ。」
あまりに突飛な誘いに、俺は固まってしまった。ちなみに今日は火曜日。明日は平日の水曜日である。
「俺、S駅より向こうに行ったことがないんだよ。終点まで行ってみたくない?」
俺も終点へ行ったことがない。行こうと思ったことも無かった。目をきらきらさせながら教科書を読む由幸に軽く嫉妬した。
「学校は?」
嫉妬心を隠しながら由幸に聞いた。
「もちろん、サボる。」
「塾は?」
「それまでには帰ろうぜ。学校なんかつまんないじゃん。」
その意見には賛成だった。面白くも何ともない話を延々と続ける教師よりも、大袈裟な身振り手振りで実践的な授業をする塾講師の方が好きだった。
「おお! わかった!!」
俺が指を立てると、由幸はニカっと歯を出して俺の真似をした。

 次の日、俺らは制服で駅に集合した。いつもは降りる駅を電車の中から見るのはおかしな気分だった。
「俺らが降りるとさ、電車って静かになるんだな。」
由幸は、うん、と頷いた。
 駅を通るたびに人が降りていった。中心街からどんどん離れていくので乗客はほとんどいなかった。頃合を見計らって。電車内で着替えた。
「ギャルみたいだな。」
化粧はしないけどな。

 アナウンスが終点を告げ、俺達は降りる準備をした。一時間半も乗ると、外の景色はテレビで見る田舎の風景になっていた。
 駅員は俺達の顔をチロリと見たが、無言だった。
 駅前には、ボロボロのタクシー乗り場の看板と、反対にやけに新しいバスストップがあった。
「とりあえず、あの山に登ろう。」
由幸は駅の真ん前の山を指差した。
「適当過ぎない?」
「じゃあ、どこがいい?」
逆に質問されてしまい、結局その山に決まった。周辺をグルグル歩いていると、舗装はされていないが、人間が通るであろうと思われる道があり、そこから中に入った。道はだんだん細くなり、木々はどんどん濃くなってきた。
「あちっ!」
 虫に刺された。由幸は虫除けと痒み止めを貸してくれた。準備の良さに驚いた。こいつ、本当に山に来たかったんだな。
 さらに歩いていくと、道はまたまた細くなってきた。
「これってさ、『獣道』かな?」
「獣も歩いているかもね。」
少し遠くで、がさがさと音がした。もしかしたら獣が歩いているのかも。
 道の端には変なキノコがたくさん生えていた。山は、思ったよりも静かだった。虫も少なかった。俺達を狙う羽虫と、進行を妨げる蜘蛛以外。鳥や虫なんかの鳴声は想像よりもずっとかわいくない。ただ、キツツキが樹を突く音は、好きだと思った。リズミカルで、こだまのように響いている。
 木々が晴れて明るくなってきた。少し開けた場所に出た。小さな川がある。ここで休憩と昼食を摂ることにした。
 川の石をひっくり返してみたが、カニはいなかった。気味の悪い虫ばかり。がっかりして、俺達は黙ってしまった。二人でぼんやりと川を眺めていると、白い花が流れてきた。俺が拾うと、由幸は「コブシじゃないか」と言った。川に洗われたためか。香りは無かった。色がさめて茶色っぽくなっていた。
「宮沢賢治ってさ、多分童貞だよ。」
「やまなし取り」が、思った以上につまらないので、俺は意地悪い気分になった。
「マジかよ。もしかして、一生?」
由幸は簡単に乗ってきた。
「多分な。初恋が看護婦さんだった、という話はあるんだが、それ以外の女といえば妹の話しかないんだよ。なぜかといえば、賢治は熱心な仏教徒なために、女を好きになることに罪悪を感じていたらしい。」
俺はうろ覚えの知識を披露した。
「マジかよ。」
由幸は同情するような声で同じ言葉を繰り返した。
「実際に、一生独身だったし。」
「そうなんだ。」
気分を盛り上げるために話したのに、かえって俺達の気分は盛り下がってしまった。


 突然、雨が降ってきた。通り雨だろうか。雨粒が大玉なので、俺達は近くの木の下に逃げ込んだ。
「『山の天気は変わりやすい』って本当なんだな。」
実際に山の天気が変化するところを見るのは初めてだった。
「雨が止んだら、帰るか。」
由幸は仕方なさそうに言った。俺もそれが良いと思った。木の下でしゃがむと俺達はまた無言になってしまった。昼食はもう食べてしまった。
 雨音と、皮の流れる音と、木々が水滴を弾く音と、山の生き物が出す音が聞こえる。
「山は思ったよりも静かだ」と思ったが、それは全然違った。こんなににもうるさい。なのに、俺の心臓の音がはっきりと、しかも、静かに聞こえる。心音は、キツツキよりもずっと遅く、あの枝から滴っている水滴ぐらいの早さだ。
 雑音の中でも、自分の鼓動がはっきり聞こえる。この感覚はかなり昔に体験したことがある。
(それはどこだ?)
俺は、退屈しのぎに思い出そうとした。とりあえず、最近のことではない。
どこだ?
どこだ?
雨のために、空気が蒸す。じっとりとした山の空気に囲まれ、俺は思い出した。
(胎内か!)
もう、それ以外浮かばなかった。母親の心音、体液が流れる音、動く内臓、体外の生活音。その中で、自分の鼓動だけが聞こえる。あの感覚に似ているのだろう。
 もしかしたら、賢治は日常的にこの感覚を味わっていたのかもしれない。俺達が忘れてしまったこの音を、思い出させるためにあれだけの作品を残したのかもしれない。これ以外にも、もっとたくさん無くしたものがあるのだろう。捨てないで抱えていたのが賢治なのだ。
 
 俺が自分の鼓動に耳を澄ましている間に、雨は止んでしまった。
「じゃあ、帰るか。」
由幸は言った。俺は、少しセンチな気分だった。俺は賢治に向かって、笑ってすまない、と心で呟いた。こういうシーンもどこかで読んだような気がする。うろ覚えなので出所がわからない。

 山道は思ったよりも乾いていた。無事に山を下り、電車に乗った。雨で服が濡れたので、また車内で制服に着替えて、いつもの駅で降りた。時計を見ると、下校時刻よりも若干早い。
「なあ、マック寄ってこう。」
俺は、反射的に「ああ」と答えた。
「リハビリしないと。やってられないよ。」
そうだな。俺らが住んでいるのは、ここだもんな。今度はちゃんと意識して答えた。
「おお。」
俺達にとって、この街が胎内だもんな。

 とりあえず、「宮沢賢治全集読破」が俺の目標になった。それだけのために学校に行くのも悪くない。それから、由幸。黙ってたけど、「やまなし」って、秋に実るんだぜ。お前、ちゃんと教科書読んでないだろ。


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Entry5

シュークリーム盗難事件

 楽しみにしていたシュークリームが消えていることに気づいたのは午後4時頃だった。
 問題のシュークリームは隣の美保ちゃんがくれた明々庵のシュークリームで近所でも美味しいと評判の品だ。本当に、もの凄く、楽しみにしていた。家族に黙ってこっそりと冷蔵庫の奥の方に隠しておいた。悔しい。こうなったら、誰が私のシュークリームを食べたのか、はっきりさせてやる。
 問題のシュークリームは明々庵のシュークリーム3個。昨日、花柄のプリントがついた平皿に乗せてラップをかけて冷蔵庫の一番下の段、それも奥の方に隠しておいた。そうそう、思い出した。シュークリ−ムが気になって一度冷蔵庫を覗いたんだった。そのときは確かにあった。あれは確か朝食が終わってすぐだった。だからシュークリームが消えたのは今日だ。問題は家族の誰がシュークリームを食べたかってこと。もちろん犯人(便宜上こう呼ぶことにする)が家族の誰かと決まったわけじゃない。お母さんのことだから泥棒が入ったのに気が付いてないだけかもしれない。そしてその泥棒がシュークリームを食べたって可能性ももちろんある。
 私は引出しを開けてなにか盗られたものはないか確認した。とりあえず泥棒が入った様子はない。それに泥棒がわざわざ冷蔵庫の食べ物を食べていくとは考え難い。犯罪者の心理を考えると一刻も早く犯行現場から立ち去りたいはずだ。外部からの侵入者が犯人であるというのは無理がある。ここはやはり、内部犯を考えた方がいいだろう。
 容疑者(便宜上こう呼ぶことにする)は4人。まず、お父さん。平均的な日本のサラリーマンね。毎朝7時半には家を出て、帰りは早くても7時。付き合いだって言ってるけど終電ぎりぎりまで外で飲んでくることも良くある。お父さんは容疑者からはずしても大丈夫よね。お父さんが犯人だとしたら昨日の晩にシュークリームを見つけて夜食代わりに食べたか、それとも会社を抜け出して家に帰って来たかのどちらかだ。前者はありえない。だって朝食の時点でシュークリームが無事だったことを私が確認してる。後者にしても常識的に考えてありえない。それでも今の段階で容疑者からはずすことは避けたほうが無難よね。初期捜査が大切だってテレビでも言ってる。「あらゆる可能性」を考えて慎重に進めないと。
 次に、お母さん。大本命ね。主婦だからほぼ一日中家にいてアリバイもない。冷蔵庫のシュークリームに気がつく可能性が一番あるのも彼女。
 次、長女のお姉ちゃん。高校2年生。そろそろ受験勉強に本腰を入れなきゃいけないのにクラブ活動に夢中。いつもはクラブ活動で夕飯ぎりぎりまで帰ってこないけど、今日はクラブが休みだったみたい。さっき帰ってきたと思ったらさっさと着替えて出かけてしまった。慌てて飛び出したって感じね。でも帰ってきた一瞬に食べていったということも十分考えられるわ。なんていったって育ち盛りで食欲旺盛だもの。時間的に犯行(便宜上こう呼ぶことにする)が難しいからといっても必ずしも不可能じゃない。いやむしろ、お姉ちゃんだからこそすばやくこなすことが可能だわ。お姉ちゃんも容疑者から外すことはできない。
 最後に、長男のケン君。小学5年生。最近はなんとかっていうカードゲームにすっかり夢中でお小遣いを全部それにつぎ込んじゃうもんだから家にお菓子を置いておくとすぐに食べちゃうのよね。なんのためのお小遣いなんだかわかりゃしない。お菓子を全部ケン君が食べてしまってお姉ちゃんとケンカしてたこともあった。今日は学校から帰ってきてずっとテレビゲームをしてる。ケン君ならシュークリームを見つけたら間違いなく食べるわね。
 容疑者たちを並べてこねくりまわしてみたけれど、事件の謎はいっそう深まるばかりだ。疑おうと思えば容疑者全員を疑うことができる。このままでは埒があかないと思った私は核心に迫るべく物的証拠を求めて台所へと向かった。犯人は必ず何らかの痕跡を残しているはずだ。お母さんが夕飯の準備を始める前に証拠をつかまなければ。
 お母さんは買い物に出かけたようで、台所には誰もいなかった。思う存分現場検証(便宜上こう呼ぶことにする)ができる。まずは、冷蔵庫の中をチェックだ。冷蔵庫の一番下の段、その奥の方にシュークリームが置いてあったなごりか、わずかにスペースが開いている。それにしても本当にお母さんは冷蔵庫の片づけが下手だ。この豆腐の賞味期限は先週じゃないか。次にテーブルの上を見るが、特にこれといって手がかりになりそうなものはない。
 そうだ、シュークリームのお皿にはラップをかけておいた。あのラップがどこに捨てられているか確かめられれば必然的に容疑者が絞られるじゃないか。まず手始めに台所のゴミ箱を漁った。レトルト食品の抜け殻や(たぶんケン君だろう)、スーパーの袋が無造作に捨ててある。まったくもってお母さんはものを無駄にする人だな。その下から、シュークリームの上にあっただろうラップはすぐに発見された。犯人は冷蔵庫からシュークリームをとりだしてすぐにラップをとったことになる。ケン君ならゴミ箱に捨てたりしない。いつだって出しっぱなし、散らかしっぱなしだから。ラップの次はお皿だ。シュークリームのお皿はどこにあるだろう。
 花柄プリントの平皿も台所で簡単に見つけることができた。その皿はきれいに洗われて食器ラックの中に立てかけられてあったのだ。その他のコップやお皿は流しにそのままにされている。これらの食器はお姉ちゃんやケン君が昼間使ったものだ。そう、この家の中で洗い物をするのは私とお母さんだけだ。そして、シュークリームの乗っていたはずのお皿だけが洗われている。
 犯人はお母さんだ。

妻が珍しく神妙な面持ちで相談があるといってきた。
「お義母さんのことなんですけど。」
「母さんがどうしたんだ。うまくいってないのか。」
「うまくいってないかですって!?」
 妻はスイッチが入ったように急にまくしたてた。なんてテンションの変わりようだ。
「うまくいってるはずがないじゃないですか。今日だって冷蔵庫を片付けろとか、豆腐の賞味期限が過ぎているだとか、スーパーの袋も無駄にするんじゃないとか。まったくゴミを漁ってまで私のあらを探さなくったっていいのに。あげくの果てには泥棒扱いまでして。」
「泥棒?それは穏やかじゃないな。母さんがそういったのか?」
 とたんに妻は思い出したように神妙な顔をした。
「あ、いや、お義母さんが昨日もらってきたシュークリームをどうも私が勝手に食べたって思い込んでるみたいなの。」
「ケンが食べたんじゃないのか。母さんもシュークリームごときで大人気ないなあ。」
「ケンじゃないの。食べたのはお義母さんなのよ。朝、皆が出かけた後でいそいそと食べてたの、私見たもの。」
「でも母さんはおまえが食べたと思ってるんじゃないのか?」
「だから、お義母さん、もしかしたら、ボケてきたんじゃないかと思って…」
「母さんが?まあ年だからなあ。わかった、俺も注意して様子を見てみるよ。」
「それにしてもシュークリームを私が食べたと思い込んで、まったく気分が悪いわ。」
 再度風向きが変わりつつあるのを感じた俺は、妻をなだめてさっさと寝てしまうことにした。
「しかたないさ、名探偵は自分のことは疑わないものさ。さ、もう寝るぞ。」


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Entry6

メンソール

細く長い煙草を指に挟みこみ、女はふうっと煙を吐いた。
「…で?」
暗い部屋の中で深々とソファに沈み込んで、気怠い視線を俺に投げかける。
「どうすんの、これから」
俺はドアのそばに突っ立ったまま、ただ女の波打つ長い髪を見つめていた。

すべては酔った勢いだった。
友人と2人久しぶりに夜の街で遊んだ俺は、友人の賭に乗った。…どちらがいい女をゲットできるか。
俺達は、大阪一有名なナンパ橋に陣取った。週末の夜、道行く人は皆開放感にあふれている。極彩色の大きなネオンサインが、浮かれる心に拍車をかける。気のせいか橋の上を行き交う女達も声を掛けられるのを待っているように見える。ヤツに負ける訳にはいかない。なじみの店のボトルがかかっている。
俺達はしばらく品定めをして、一番派手な2人連れに声をかけた。俺が強引に迫ったのは、赤いスーツにピンヒール、腰まであるウェーブヘアが似合う、派手な大阪の中でも一番派手ではないかと思える女だった。

ひとまず4人で一緒に飲んだ。そして友人達と別れ、俺はそのまま表通りから一本入ったホテルに女を連れ込んだ。
お互いしたたか酔っている。照明を点ける間もなくもつれる足でなだれ込むように部屋に入る。ドアを閉めるのを待って、俺はそれまでのへらへらした表情をひっこめてこういった。
「おまえ…相山高3年C組だった高橋佳織だろ」
俺の腕にぶら下がってきゃあきゃあ笑っていた女から笑みが消えた。

学生の頃の佳織は…くるくる巻いた長い髪をきつく三つ編みにし、ビン底の如き分厚い眼鏡のむこう側で、その瞳はいつもどこか夢見ているようだった。
彼女を捜そうと思ったら、放課後の図書室に行けば良かった。窓際の隅の席、そこはあたかも佳織の指定席の如くにいつも主を待っていた。その席にちょこんと座り、本を読むのが楽しくて仕方ないかのように笑みを浮かべて、佳織は空想の世界に遊んでいた。
俺は少し離れた席にひっそりと腰掛け、顔の前に本を立てかけて斜向かいの佳織を見つめていた。普段の佳織は内気で、みんなの中にいてもその声を聞くこともない。そんな佳織が唯一自分らしくのびのびと空想世界を漂っているのを見るのが、俺の楽しみだった。
そこだけ時の流れが止まっていた。佳織の周りだけたんぽぽ色の陽が射していた。
佳織を守ってやりたかった。眼鏡の奥の大きな瞳は、ごちゃごちゃした集団の中で放っておくと壊れてしまいそうな危うさを秘めていた。
しかし、かといって声も掛けられない、おもちゃみたいな片想いだった。

あのころと同じなのは、このくるくる巻いた長い髪の毛だけだ。

むせ返るような香水を着こなし、指の先には鮮やかな色彩が舞い踊っている。分厚い眼鏡は影もなく、かわりに長いまつげが大きな瞳を縁取っている。たんぽぽなんてとんでもない、今の佳織は大輪の深紅の薔薇だ。
窓の隙間から洩れ来るネオンサインに縁取られ、ロングヘアーの巻き毛が金色に燃え立つ。この巻き毛が天然パーマだと知っているのは、この大都会で俺一人きりではないだろうか。
まさか声を掛けた時には彼女だと思わなかった。自分の目が信じられなかった。
だからこそ強引に部屋まで連れてきた。この変貌の理由を知りたかった。

ベルベットのような深紅の唇が、ぽつりと懐かしいイントネーションを紡ぎ出す。
「ぼっけえ久しぶりじゃなあ…元気だった?」
つられて俺もふるさとの言葉に戻る。
「ああ、覚えとったんか、俺のこと。同じクラスじゃったよな?」
くすん、と彼女は笑った。笑うと鼻の頭にしわが寄るのは昔と変わっていない。
「あんたも変わったわね。こんなナンパ師だとは知らんかったわ」
そう言ってまたロングサイズの煙草を指先でつまみ、口にくわえる。
あたかも吸えない子供がむりやり吸っているような痛々しさがそこにはあった。思わず俺はその煙草を奪い取った。
「煙草はやめねえ」
佳織は眼を大きく見開いて、俺の方に向き直った。
「なにするんよ」
「体によくないじゃろうが。大体君に煙草は似合わん」
佳織は、一瞬叱られた子供のような顔になった。眉を八の時に寄せ、べそを作ったような表情をし、次の瞬間下を向いて大声で笑い始めた。
「あっははは…何ゆうとるんよ。あたしほど煙草が似合う女はおらんじゃろう。誰を見て物をゆうとるんよ。目の前をもっとよく見てみにゃあ…」
佳織はけたけた笑っている。
「だっておまえは…高校の頃の高橋は」
俺がそう言いかけると、佳織は急に真顔になってこう呟いた。
「5年たてば女は変わるものよ」
佳織は俺に目もくれずまた煙草をくわえる。長い爪が器用にライターをかちり、と鳴らす。
それ以上の俺の追及を許さない厳しい横顔がそこにはあった。俺は佳織をこの部屋に強引に連れてきたことを後悔していた。
「じゃあ、帰るわ」
俺はドアノブに手を掛けた。

「相変わらず鈍いんやねえ。なんで私がのこのこここまでついてきたと思うとるんや」
くわえ煙草のまま佳織は俺の背中に大阪弁を投げかけた。俺は弾かれたように佳織の方に向き直った。
「あんたは私の事を覚えてへんと思とったわ。そやからこそ、軽い女の顔であなたについてきたんやないの。通りすがりでもなんでもええからあんたと一緒にいたかった。もう二度と逢えんと思うてたから」
俺は凍り付いた。佳織の目はまっすぐ俺を射抜いていた。
「今やから言えるわ。もっと勇気があればあんたに告白できたんやけど、って幾度おもたことか。うじうじした自分が、好きな人に気持ちも伝えられへん自分が大嫌いやった。そやから、学校出てからスタイルを変えた、服の好みも変えた。煙草も覚えた。気がついたら自分でもびっくりするほど変わってしもうて、あんたが気がつかんと当たり前やて思うてた」

岡山弁はすっかり影を潜めていた。今佳織の口から出てくるのは紛れもない大阪弁だ。
人間、自分の本心を告げるときには素のままの言葉が出るという。
今の佳織にとって自分の言葉はふるさとの方言でなく大阪弁なんだ。
これが今の佳織だ、俺が守ってやりたかった佳織はもう居ない。
代わりにここにいるのは、俺なんかよりもずっとずっと強くなってしまった大人の女。
俺の手には負えない、とびっきりのいい女。

俺の思考はそこで止まった。佳織が俺の胸に飛び込んで来たからだ。
「今まで、いろんな人に巡り会ったわ。恋もたくさんした。でもね、煙草吸うのを止めてくれた人はあんたが初めてや」
俺はためらいながら佳織の肩に手を回した。か細い肩は、心なしか震えている。
「あたしを見つけてくれてありがとう…」
鋼の鎧を脱いだ瞳は昔と変わらぬ温かい光を秘めて俺を見上げている。
俺は何も考えられなくなった。そのまま吸い込まれるように唇を重ね合う。

あのころ夢にまで見た佳織とのキスは、メンソールの匂いがした。


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Entry7

トイ・ソルジャーズ

 顔を上げると青空だった。
 雲雀だろうか、染のようなものが上方はるかを遊弋している。他には何もない。雲すらない。だから目隠しをされていた瞳に陽光はまぶしく、私は顔をしかめた。
「煙草は?」
 糊の効いた制服の少尉が促す。私は首を横に振った。動くと柱に縛られた手首が痛い。たばこを勧めてくれた士官の目はしごく冷徹だった。職務に忠実な、若い軍人。整った顔から、かすかにオーデコロンの香り。
 この期に及んでそんな些細な事に気がつく神経が怖かった。そんな自分は、痛みすら鮮明に感じるのではあるまいか。そんな気掛かりだった。
 目の前に現実がある。
 十二人の兵隊が、私の前に居並んでいる。無骨な銃を握り締め、無機質な面持ちで。
 誰が決めたのか、指揮官の少尉を含めて十三名。少尉を除くと、一ダースの兵隊が、私に死を与えるために準備していた。
 まるでおもちゃだ。私は思う。
 ここから見ると、まるでおもちゃの兵隊が、子供の軍隊ごっこのように並べさせられているようだった。最右端の兵士の鉄兜が、かなり傾いていたのもそう思えた理由かもしれない。刑場の雰囲気は、時に滑稽ですらある。この私は悄然と死を待っているというのに。
 私は知っている。彼らのうち、実弾を込めた小銃を渡されているのは只の一人に過ぎない事を。残りの十一丁は空砲だ。良心の呵責を抑えるための、そんな伝統が軍隊にはある。殺すのは個人ではなく、組織である。そう確信させるための小細工だった。
 ほんの数ヶ月前までは、私はまったく逆の立場で、今の私とおなじ境遇の人々を死に追いやってきていた。柱に括り付けられた人間の眉間を打ち抜くという仕事。私はこの少尉と同じく、銃殺隊の指揮官だった。もちろん、今とは違う体制の時代に。
 任務は単純極まりなかった。
 時計を見る。三つの針が重なった瞬間、右手を軽く掲げる。そして、下ろす。それだけで事は足りた。私が上腕部をわずかに運動させるだけで、一人の人間の命がこの地上から消えうせるのだった。私の力ではない。私は命令を下すだけだ。そしてその命令は、私のはるか上から降りてくる。
 多くの死を見届けてきた。
 ほとんどの者は、ただ沈黙だけを残して逝った。だが、泣き叫ぶ者、笑い出す者、そして、誰かの名を呼ぶ者もいた。死に様は多様だった。しかし、いずれも、自らの不条理な死に抗う事はかなわなかった。柱に束縛されたまま、全身の力がすっ、と抜け落ちると、それが死だった。
 その任務を誇りに思った事は一度とてない。誇りどころか、痛みも、悲しみも。そう、なんの感情もなかった。もし私に何がしかの気持ちがあるとすれば、それはただ、ひたすら国家に忠実であろうとした、その事だけだ。
 目の前の少尉もそうなのだろうか。この青年も、寸毫も揺るがぬ感情でここに立っているのだろうか。氷土の如く心を凍らせて、この任務に及んでいるのだろうか。かつて私がそうであったように。
 本当にまだ若い。私よりふたまわりは違ってみえる。もし私の息子が生きていたならば、おそらくこのような青年になっていたのだろう。
 いつの間に、私は少尉を見つめていた。気がつくと、彼も私を見ていた。私たちの視線が交錯した。
 その瞬間だった、彼が口を開いたのは。思いがけない事だった。
「これはごく個人的な事で、ここであなたにお話するには適切ではないかもしれませんが・・・」
 少尉の表情がほんのわずか揺らいだ。
「三年前の四月一日、小官の妻はこの場所で銃殺されました。罪状は国家反逆罪及び騒乱罪。軍事法廷で即時極刑の判決が下されると、二日の収監後、ここに連行され、正午、刑は執行されました。銃殺隊の指揮官は憲兵本部付特務大尉、君島六郎。つまり、あなたです」
 私の記憶が瞬時に蘇った。その女の事はよく憶えている。私の任務中、只一度きりの女性受刑者だったからだ。
「けれども小官は、ここであなたの死を見届けることを喜んではいない。自分でも不思議なのですが、あなたに対する感情は何もないのです。小官が革命に身を投じたのも、動機はそれだったはずなのですが・・・」
 つまり、あなた方への復讐。
 彼の言葉にはそのような意味が含まれていた。しかし少尉の表情は努めて冷静に見えさえした。
「指令書の中にあなたの名前を発見したときは、さすがに高揚したものです。ようやく妻の仇を討てる、と。しかし幾分かすると、そんな気持ちは全く消え失せているのが分りました。小官はここに立つ事によって初めて理解したのです。妻を殺したのはあなたではない事を」
 私はすべての語句を明瞭に解する事が出来た。少尉は言葉を続けた。
「いまではかわりに、もっと別な感情が湧きあがっています。うまく説明できないのですが、あえて言うならば、恐怖です。そう、怖いのです。妻の復讐を果たす、という以上に、あなたの存在を消し去るという事実に恐怖しているのです。もちろんこの任務が初めてではありません。小官は充分に訓練されている筈なのです。このような気持ちは初めてです。もし許されるのなら、今すぐあなたの拘束を解き、解放したい」
 少尉の表情が眼に見えて変貌した。今までよほど堪えていたのだろう。
 涙こそみせなかったが、彼は泣いていた。
「でも、もう、時間です」
 私は少尉の言葉になにも答えられなかった。



 刑場に砂塵が舞い上がった。

 もうじき私が存在しなくなる。
 これは罰なのだろうか。いや、それは違う。殺したのは私の意思ではない。それを罪というならば、一体幾人が、それを犯していることだろう。私だけが裁かれる理由はない。
 私はいわば、銃殺隊の持つ銃の部品、その一部に過ぎないのだ。
 意思すらもなく、ただ、誰かの力がかかるのを待っている引き金のようなものだった。
 私は殺すために生まれたのではない。歴史の必然と、運命の偶然が、私をこのような任務に追いやったというだけだ。言い訳がましいが、私が直接に人を殺した事はない。
 私はこれまで、ある一種の諦念、即ち、これを運命として受け入れる事で、自分の死すらも受け入れるつもりだった。ここまで自分でも驚くほど冷静でいられたのも、多くの死を見てきたという以上に、その諦念こそが私を冷静たらしめていたからだ。
 しかし、今に至って、私は生への執着が、急速に湧き起こるのを感じてきた。少尉の言葉を聞くうちに、これが罪ではない、という確信が完全に揺らいでいたからだった。
 そう。やはり私は、罪を犯していたのだ。
 銃は、存在自体が、罪なのだ。
「なにか、言い置く事は」
 少尉は元の冷厳な士官に戻っていた。
 私は叫びたかった「助けてくれ!殺さないでくれ!」
 けれども声が出なかった。戦慄く唇に、舌は縺れ、空しく空気が漏れるだけだった。これほどまでに、私は自分自身を惨めに思った事はなかった。
 代わりに少尉が、私の耳元に唇を寄せた。
「あちらで妻に伝えてください、『私を許して欲しい』と」
 少尉はさっと私から離れ、一分の隙のない動作で私に敬礼をした。礼典どおりの、完璧な敬礼だった。そして、直線的に踵を返すと、一歩、二歩、私から遠ざかった。
 少尉の後姿が見える。
 思いがけず小さな背中、それを向けたまま、少尉が右手を掲げた。
 そして、下ろした。
 私の視界に、おもちゃの兵隊が並んでいる。
 これが、私の死か。
 私の最後の意識が、中空に拡散した瞬間だった。


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Entry8

友人達の食卓

 ペットボトルがカクテルシェーカーの代わりになる事を発見したのは夏音だった。成る程それは確かである。

 彼女はその当時ブラッディメアリにすっかり溺れてしまっていた。その血まみれ女王を作る為にコンビニを回って歩き様々なトマトジュースを買い込んでは量を計ってペットボトルにウオッカと共に放り込み、見ている人間が「何もそこまで」と思う程ひとしきり振りこんでいた。デルモンテや名前も良く覚えられない外国メーカーなどを試し、最終的に手に入り易さと味からカゴメまるごとトマトとやらに落ち着いているらしい。

「いやそこまでは分かるんだよね。でも何故か僕としては問題が他にある気がするんだ」
 眉を顰め乍ら静生は発言する。なんとなれば以上のブラッディメアリと夏音の一連の闘争史は「何故君がここにいるんだ」という問いに対しての彼女の返答であったからだ。
「だから、私が居ないとあなたブラッディメアリ飲めないじゃない」
「…三項程発言を認めて欲しいんだけど。
 先ず(a)ここは僕の家で僕は君を招待した覚えがないんだよね。そして(b)今は朝でカクテルを飲むには余り適当ではない時間帯だと思うんだけど」
「aについては気の毒だと思うけれど、窓開けっ放しじゃあね」
 静生はすっかり起き出した街の、口煩い主婦の多いこの閑静な一角で、窓から入ろうとして居る女性を誰も見咎めない確率及びそれが噂にならない確率について縋る様な思いで暫時考慮した。然る後に自分の御近所付き合いは今非常な危機を迎えていると言う暗澹たる結論が出た時には、自分の愚かしい友人選択を心底恨めしく思った。
「bについてはそもそもあなたが何を不服として居るのか分からないわ。
 あなた何の為に大人になったの?税金を払って子供と老人の面倒を見る為?それだけじゃないでしょう、違うわよ。朝から酒をのみ友人達とお洒落して街に出掛けて時々飲酒運転で捕まりそうになりつつ、子供には出来ない人生の楽しみ方をする。権利と責任の獲得の為に私達は大人になったのよ」
「…」
「cは?」
「前々から言おうと思ってたんだけどブラッディメアリの配合は精々ウオッカとトマトジュース2:8だよ、何で君は5:5なのさ。更に言わせてもらえばスピリタスってカクテル用のウオッカじゃないと思うんだよね」
 朝のキッチンで夏音は生のアルコールに限り無く近い件の酒を嘗めつつとぼけた顔をし、静生はキッチンドリンカーの未来について暗い展望を縷々提示する。
 斯くして彼等の朝は始まった。

 夏音と静生との出会いは、長い話を縮めて言えば絶望的であった。
 何しろ静生と言うのはゲイ仲間でも有名な女性差別主義者だった。その点において「三島由紀夫の正当な後継者」と何処ぞの作家の様な冠称まで頂いていた程だ。全体に清潔で神経質そうな容姿と中身の彼は只でさえ友人が少なかったが、数々のその道の発言で更に減らしてしまっていた。
 そこに現れたのが夏音だった訳だ。
 静生が女性差別の道を極めていたのなら、夏音はホモフォビアという山の頂きへと今まさに登らんとしていた。彼女の同性愛者との付き合いはどうも祝福されたものとは言い難かったのだ。参考までに医者と言う職業と女性らしい柔らかみに欠ける長身の美貌とで自らの恋愛史において苦渋を嘗めて来た彼女は、ヘテロセクシャルの男女にだって好きな人間が殆ど居ないと言う偏屈ぶりではあるのだが。
 共通の友人の紹介で彼等が顔を合わせた時、誰もが彼等の厭世主義の更なる加速を覚悟した。そうならなかったのは偏に二人の映画と食事の趣味が非常に合ったからだ。
 監督ではデレク・ジャーマンが好き、でも時々観てて辛いけどね、他にどんな?ビフォア・ザ・レインにカーテンコール、最近はリトルダンサーやミリオンダラーホテルもいいな、ドゥルーズのシネマ中々翻訳されないのはあれは柄谷某が一人でやる気だからってのは本当なのかな、え?蓮見じゃなくて?いや僕あの二人時々混同するから結構間違ってるかも、あー分かる微妙にキャラ被ってるんだよね、私も寺山と澁澤とか混同して寺山マニアの友達に殴られかけた、エトセトラ。そして二人が飲むのはセロリの入ったこの店特製のブラッディメアリ、及び細葱と青じそとアサリのリゾット。
 この二つの合致はつまる所快楽の合致であるからには、どちらかというと恋人どうしの間に起こるそれに近かったのだが、彼等は友人になる事が出来た。それは多分彼等が元々恋人には向かない型の人間だったからだろう。
 彼等は頗る自分勝手だった。
 相手の為に自分が変わる事を良しとしなかったし、相手にもそれを要求しない。二人ともそうではない恋をした事があるのだ。それでもその恋は終わった。そして彼等は彼等になった。
 静生は今も女性に対して前近代的な偏見を持ち続けているし、夏音もゲイ一般についての偏見は拭えていない。二人ともお互いのそこへ言及しないし多分、これからも変えて行く事は出来ないだろう。
 これはおそらく正しい友人関係ではない。
 そして静生も夏音もそれでも構わないと思っていた。フリーライターと言う仕事柄閉じこもりがちだった静生は夏音と知り合ってから夜っぴて飲み歩く楽しさを覚え、夏音の方はレコードと珈琲について随分造詣が深くなった。彼等が道を違えた時、かつて友人だった証として残るのは多分そんな他愛もないものだけなのだ。そして彼等はその日がそんなに遠くない事も知っていた。
 だけど構わなかった。
 彼等は互いに互いをとても好きだったのだ。これが自己憐憫に基づく馬鹿馬鹿しい感情である事を怖れてしまう程に。

 驚くべき事に夏音はブラッディメアリだけではなく他の代物も作ってくれる気らしかった。まあブツはスクランブルエッグだが。
 「どうしたんですか」
 一足早くブラッディメアリを飲みつつ問い掛けると、夏音はフライパンを熱心に凝視し出した。ひょっとして何か科学上の偉大な発見でもしたのかとそこを覗き込むと、視界の外に居る夏音から声が降って来た。
「静生は私の知っている中で一番素敵な男性よ。あなたの好きな人がそう思わなくても私はそう思う」
 静生はそのまま固まる。
 昨日の夜の情景が思い出される。「分かった」そう言い捨てて背を向けた。二股なんてありふれた事に傷付き別れ話を長引かせなくて良かったという気持ちと、プライドばかり高い自分を責め続けた長い夜が体の中に蘇る。
 考えてみれば本来夏音は朝こんな風に訪ねて来る様な礼儀知らずな真似はしない。互いにプライドも高いから相手の領域を侵犯する事もされる事も得手ではないのだ。
 卵はいつの間にか火から下ろされていた。
 振り返って静生は黙り込む。暫時して殴られるのを覚悟して居る子供の様な顔で夏音は静生を見た。
「夏音、仮定というのは本来会話において実に非生産的な手法だと僕は思うのだけれど、仮に君がこの二月縁のない恋人と言う代物と出会い、まあそれは君の場合別れとほぼ同義な訳だけどそうなったら、僕は君に正しく半熟なスクランブルエッグを作ってあげるよ」
 夏音の片眉が上がり、いつもの怒りの表情になる。静生がそれに乾杯するべくコップを上げると彼女も倣った。

「きっと僕らはどっちに転んでも、朝食にそこそこ美味しいスクランブルエッグと間違ったブラッディメアリを飲める希有な人種なのさ」
 口笛のグッドバイを音楽に、友人達の朝食は始まった。


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Entry9

千鳥が淵の桜

私はとき子と申します。もう齢七十を越えました。身寄りはなく、一人で死んでいくのだろうと思います。私には残せるものがあるのだろうか、何かを残せるとしてもそれを誰が受け取るのだろうか、と思うたびに空しい気持ちになるのです。

私の淋しい人生の中で何が一番大きく輝いていたかともし聞かれれば、迷わずそれは周一さんの事だと答えます。この文を読んで下さる方がもしあれば、それは私にとってはとても嬉しいことですし、周一さんとの事は私がこの世に残せる唯一の忘れ形見だとも言えると思うのです。私の中に消えずに残る周一さんの思い出、それは他の人にとってはつまらないことかもしれませんが、それを伝えることは私にはとても意味のある事のように思えます。

私はお茶屋の娘として生まれました。教育は小学校高等科で終わりました。時は戦争前夜。私は東京のある家に女中奉公に出されました。奉公は二年の約束で、それが終わると私は自由の身となり、昼間、東京都内のある食堂で給仕として働くことになりました。

お客さんの多くはお堅いお役人や帝大生で、給仕と軽口をきくなどということは、まずありませんでした。たいていのお客さんは従業員には無愛想で、私が注文を聞きに行ってもこちらを見るわけではなく、まるで私は自分が透明人間のように扱われているといつも感じていました。それでも小額ですが給料を得て働いているので、そのくらいの事で文句は言えません。私は白い割烹着と白い三角巾をいつも身につけて、文字通りこまねずみのようにくるくると、よく働いておりました。

いつも来て下さるお客さんの中にひとりだけ私を人間として扱って下さる方がありました。その方は帝大生で、いつも詰襟を着て、週に一、二回お見えになりました。私は勘定場に立つこともあったのですけれど、その時は必ず、「ごちそうさま。」と私の目を見て言って下さいました。そんな小さなことでも私にとっては嬉しい事でした。

私は当時としては珍しかったかも知れませんが、一人で女性用のアパートに暮らしていました。ここはいわゆる今で言うキャリアウーマン専用のアパートだったのですが、どういういきさつか知りませんが、その食堂のオーナーが何室か借り上げており、その中のひとつに私は住むことができたのです。当時の給仕は他人と雑居することもありましたから、私は恵まれていたのでしょう。

私は早く起きて、千鳥が淵沿いの遊歩道をを散歩するのが朝の日課でした。ある冬の朝、ひとりでいつものように散歩をしていると、向こうから歩いてくる男の人がいます。詰襟を着ています。それは食堂に週に一、二回来て下さるあの帝大生だったのです。

私は彼を認めると、深く頭を下げて
「おはようございます。」
と挨拶をしました。でもまだふたりの間には三メートルくらいの距離がありました。今にもぶつかりそうな至近距離に来てはじめて、彼は私の顔をまじまじと見て、ちょっと微笑むと
「おはよう。ああ、君なのか。」
と言ってくれました。それが周一さんでした。

それからふたりはまるで示し合わせたかのように、何度も朝、千鳥が淵で一緒の時間を過ごすようになりました。

周一さんは将来は法律家になりたいと話していました。そのためには副業などは当然できず、勉学にいそしまなければなりません。

彼は経済的には決して恵まれていなかったようです。週に一、二回食堂で昼食を食べるほかは、昼は抜きで、水だけを飲んでいると話していました。それでも、水が飲めるだけで幸せだ、外国では生水を飲めない地域が多いのだから、と彼は言いました。彼は横浜に上水道を引いたある外国人の事を褒(ほ)め称(たた)えていました。彼は法律家になってこの国を良くしたい、一流の国にしたいと話していました。

彼の大きな黒目がちの目には知性の鋭い光が宿っていました。早朝でも彼が眠そうな顔をしているのを見たことがありません。

私は彼の知性に惹かれました。彼は外国語を話すことができました。英語とドイツ語に堪能で、フランス語も少し出来ると言っていました。ある時、ベンチに座りながら彼は英語とドイツ語の詩を暗誦してくれました。

英語の詩は怒涛のように激しく、ドイツ語の詩はのんびりとして、牧歌的に聞こえました。彼の朗々とした声が冬の凍りそうに冷たい空気を震わせたことを私は今でも覚えています。

彼はどこで手に入れるのか、英字新聞を読みながら待っていることもありました。足を組んで読んでいるその姿は、目を閉じれば今でも私のまぶたの裏によみがえります。

そんな逢瀬も三ヶ月ほどで終わることになりました。お別れは、忘れもしない三月十五日の寒い朝でした。桜はまだ咲いていませんでしたが、つぼみがふくらんでいるね、と二人で話したのを覚えています。

彼は兵隊に行くことになったのです。まだ戦争が始まってそれほど時間は経っていませんでした。彼は言いました。
「私は入隊を志願しました。私は帝大生。ノブレス・オブライジを果たさねばなりません。」
私は
「ノブレス...とは何ですか。」
と彼に聞きました。彼は答えました。
「直訳すれば、高貴なる者の義務です。私はその義務を果たさねばなりません。人よりも多くのものを天から与えられた者として。」
彼が志願して間もなく入隊するという話を聞いて、私はそれほど驚きませんでした。時代が時代ですので、そんな日もやがてやって来ると思っていたのかもしれません。

「僕は南洋へ行く。」
彼は言いました。お互いに愛を打ち明けたことはありませんでしたので、私達は本当の恋人達のように激しい愁嘆場を演じると事はありませんでした。私は
「お国のために行って来て下さい。」
と言うだけで、あとは何も言えずに立っていました。横に並んで立っていた周一さんは私の方に向き直ると、着ていた大きなマントで私の身体を不意に包みました。私は初めて彼の胸に自分の顔を押し付けました。涙が一筋、それからはどんどん私の目の中から溢れ出して来ました。嗚咽をこらえながら、私は小さな声でようやく言いました。
「待っています。」

そして二人は最後に顔を見つめ合うと、別々の方向へ歩き出しました。これでお別れです。私は何回か振り返りました。でも周一さんが振り返ることはありませんでした。彼は高貴なる者の義務に向かって一人歩いて行くように見えました。

その日を最後に、私は千鳥が淵の散歩をやめました。私の生活は元に戻りました。それから一年と少しして、風の便りで周一さんが戦死したことを知りました。私は一人で朝、千鳥が淵へ行きました。大きな桜の木々の花が満開でした。まるで周一さんの気高いたましいが桜になって私を圧倒しているように思えました。

結局、周一さんは私の恋人でもなければ、婚約者でもありませんでした。けれど、私にとっては他の男性と結婚するという選択は考えられませんでした。戦争が終わって、工場などで働きながら私は夜学に通い、その後はビジネスガールとして働きました。

今は私は地方に住んでいますが、桜が咲く頃になると、毎年必ず千鳥が淵へ桜を見に行くのです。周一さんへの思いを胸に。


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Entry10

待合室の風景−鼻水をたらしたインディアン−

風邪を引いて声を嗄らした母親が、小さい女の子を二人連れて診察の順番を待っている。子供たちも風邪気味らしく、姉娘は鼻をたらしているし、妹娘は時折ごほごほとせき込んだりする。母親は何度か携帯電話で呼び出されては、その度に人目を避けるように玄関の方に出て行って、しかし大して声を低めるわけでもなく、何か自分が仕事を休むことに関して話をしている。「遅番」という言葉が聞こえる。仕事の話をするからといって特に丁寧な口調になるわけでもないところが気に止まる。
母親は髪の毛を無造作に後ろで一つに束ねて、パジャマのズボンらしきものをはいてコートをはおっている。二人の子供を叱りつける口調は疲れていて、体調の悪いせいではあろうが、でももしかするとこの倦んだような発声の仕方がこの人の常態なのかも知れないと思う。本のことを「ごほん」と言ったり、下の子供に「しーちゃん」と呼びかけたかと思うと次には重々しく「しおりさん」と言ってみたりする。語彙の用い方が妙に文学的というか古臭いというか、子供の母親としてはいくらか高齢であるせいもあろうが、職業的な習慣によるものかも知れないという想像をついしてしまう。何回諭してもソファーの背に這い登ろうとする上の娘が、あぶないからという母親の説得に「あぶなくない」と口答えし、それに対して即座に母親が「あぶなくなくない!やめなさい!」と少々ヒステリックに叫んだ時には特に、思わず吹き出しそうになりながらもつくづく彼女の職業に関して思いを巡らさずにはいられなかった。「あぶなくなくない」。…確かに文法的にはおかしくないのである。それにしても口ごもらずに早口で叫ぶのはちょっと難しい。
母親は下の娘にせがまれて、待合室の本段から子供が持ち出してきた本を読んでやる。電話で仕事の話をする時にもその大儀そうな口ぶりを変えないのと同様、本を読み聞かせる口調にもひたすら抑揚が付かず訥々としている。そのあまりに感情のこもらない声のまま、「地球の平和を守るため、」とふいに聞こえてきてどきっとした。本の表紙を盗み見る。…ウルトラマン何とかの本であった。

私も娘の麻里花を連れて順番を待っていた。二歳の麻里花、今日は三種混合の予防接種である。
私たちに背中を向けて座っている男性と女の子供の連れがいた。野球帽をかぶってマスクをした男性はよく人相が分からないが、子供の父親にしては年齢が高すぎるようだ。お爺ちゃんと孫だろうと思う。
女の子供は五,六歳といったところ。色白の顔に大きな目と、ふっくらとした赤い唇が印象に残る。髪飾りをつけて結わえた髪の束が二つ、愛らしい二本の角のように頭上に突き出している。 細い両足もすっと伸びて、なかなかかわいらしい少女である。そしてその愛らしさでもって、いささかむさくるしいお爺ちゃんの膝に何のてらいもなくしなだれかかる。
一瞬、麻里花が大きくなってうちの父の膝に甘えるところを思った。しかしその想像はあまり現実味をもって迫っては来なかった。特に父の病のこと、数年後には覚悟しておかなければならないと常々自負している来たるべき死のこと−が、頭にちらついた、せいではなかったのだが。そのことには後日、この日のことを思い返していた時にようやく気付いて、自分を少しはがゆく思った。
その女の子にお爺ちゃんが絵本を読み聞かせてやる声が、しばらく前から聞こえていた。マスクのせいもあって、ぼそぼそと読む声の、言葉がちっとも際立って耳に入ってこない。小学生が懸命に本読みをするような感じで、一字一句、間違えないようにひたすら文字を追って読んでいるらしいのが伝わってくる。女の子はおもしろいともおもしろくないともつかない表情で半分だけ耳を傾けている。お爺ちゃんのあまりに芸のない読み方に、さすがに少しあきれているような風でもある。
待合室内のムードに刺激されて、麻里花もついに、自分から私のもとを離れて行って、本棚の絵本を一冊選んできた。ほら私にも、といわんばかりの表情で本を差し出す。−ピーターパンの本であった。かいつまんで説明してやろうと読み始めたが、ピーターパンのはがれてしまった「影」を、ウェンディーが針と糸で縫い付けてやる、物語のごく初めの部分のエピソードで既に行き詰まってしまう。そして我が親子は早々に、絵本読み聞かせ合戦からは撤退したのであった。

例の母親の受難は続く。二人の姉妹はもういい加減待ちくたびれている。特に下の娘−麻里花とちょうど同じか、少し小さい位かと思う−は疲れ切って、更にいたずらがエスカレートする。玄関の方に出て行って、長い靴ベラを持ち出して振り回している。母親はうんざりしきっているが、しかし彼女の叱責する声はやむことがない。そしてその声には、聴衆に徹する私たち、待合室の人間全てを、非難するような響きがある。自分がかくも不幸であることを切々と訴えるような。中でも同じく母親である私が、多分その彼女の訴えを一番如実に読み取る。
三人がようやく名を呼ばれて診察室に消えた時には、恐らく待合室の誰もが内心ほっとため息をついた。そしてしばらくして母娘が出てきた時には、母親の表情はやっといくらか穏やかになっていた。
薬が出るのを待っている間に、姉娘の方が麻里花に興味を示して近寄ってきた。麻里花のことを「女の子?」と聞いてきたので答えてやると、だんだん擦り寄ってきて話をし始めた。曰く、名は「いとうゆうな」。四歳。幼稚園ではなく保育園に行っているというのを聞いてなるほどと思う。あさ黒い皮膚、しまった足首をまじまじと見た。麻里花の白くてぽちゃぽちゃした体つきと比べると驚くほど野生的である。鼻水が固まって白くなった跡が、インディアンの顔に施したペインティングを一瞬連想させた。
彼女の自己紹介は続く。髪の毛をしばっていたゴムの飾りか何か、ピンク色の物体が口から出たり入ったりしている。妹の名はしおり。妹は二歳で、やはり保育園の「ひよこ組」に通っている。お母さんはお医者さんに「風邪を引いているからあまりしゃべらないように」言われた。この子もお風邪引いたの?と聞いてくる。ううん、まりちゃんは注射しにきたの。ゆうなちゃんも注射したことあるでしょ?−うん、すっごくいたかった。…と、麻里花がなぜか「ひこうきのったの」と彼女に話しかける。彼女は「ふーん。こわかった?」と返してくる。会話が成り立っているようなのについ感心してしまう。

ゆうな嬢が他人の私となかなかお利口に会話するのを見たせいか、視界の隅に入る母親の表情は更に柔らかくなっている気がした。私の顔を見ないようにしつつ、こちらの様子をうかがっている感じが伝わってくる。ようやく何か義務を果たしたような気持ちになって、ほっと息をついた。
そしてついに私たちの名前が呼ばれ、麻里花の注射が終わって診察室の外に出た時には、あの母娘はもういなかった。
麻里花は注射に泣かなかった。我慢し得たというか、あまりに痛くてびっくりしたので、泣く機会を逸したような感じだった。ものすごく意固地な表情になって唇をきっと結んでいた。で、病院の外に出て数歩歩き出してから思い出したように泣いた。まりちゃんちゅうしゃがいたいってしらなかったのにい。しってたらもっとはやくないてたのにい。そう言いたげな表情でめちゃめちゃにぐずり泣きした。


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Entry11

絵の無いジグソーパズルT

明日が誕生日という日に車に撥ねられた。運転をしていたのは叔父だという。気が付いたとき病院のベッドの上に寝かされていた。一週間ものあいだ眠っていたという。体中包帯だらけの体なのを見るとその様な目に遭ったらしい。朦朧とした頭では夢なのか現なのか定かではない。身動きが取れないのだから現なのかもしれない。痛みが伴わない。すると夢かもしれない。その様な狭間をさ迷い続けていると徐々に怪我のことが気になっているにも拘らず睡魔がどこからともなくやってきて夢の中に誘われた。
夢の世界に入り込んでしまったらしい。断定は出来ない。それでも夢ならばいい。目が覚めなければいい。その様な願望の中に一人居た。すると左足が勝手に動き出す。散歩に行くと足は云う。だが散歩に行く気は無いというと左足は勝手に歩き出す。ちょっと待てよ! と叫んでも聞こえないらしい。勝手にすればいいと言葉を吐き捨てると、私も行くよと今度は右足が勝手に動き出す。左足の後を追う。どいつもこいつも勝手なことばかりして。今度は右手が散歩もいいわよね。たまには! 又しても足の跡を追う。鼻歌など口ずさみながら。右手も首から下の体さえも立ち去る。残されたのは頭と顔だけ。動くことが出来ない。取ることも出来ない。話をすることは出来るが聞いてくれる人がいない。聞く耳はあるのに話す相手がいない。無いことを並べて愚痴っても声は見えない壁に吸い込まれるだけ。
穏やかな夢の世界に憬れていたのに、何もかも不愉快なことばかり。それならば目を覚まして現実の世界にでも居た方がましだと思い目を開ける。するとベッドの上に寝ているのに五体には包帯が無い。何だ! 怪我をしたのは夢なのだと思うとベッドから簡単に起き上がれた。車に轢かれたのも夢なのだと納得すると歩けた。
病室ではない。辺りを見回す。真っ白な壁がある部屋。よく見るとその真っ白な壁は磨りガラス。四方全面がガラスなのだ。見たことも無い空間の中にいた。。出入り口の無い室の中に誰も居ない。寂しくないとは云わないが、孤独が凍て付いてくる。針で刺されたような痛みが走る。我慢できないほどではない。だが痛みが気になってくる。頭が痛みでいっぱいになる。もう入りきれないと思った瞬間人影がぼんやりと見えてきた。誰なのだろうかと思ったものだから探るように見た。徐々にはっきりと見えてきた。頭が無いのだ。気味の悪さが全身を駆け巡る。誰! そう叫ぶと。お前だ! と返してきた。なんで姿が見えるんだ! そういうと今のお前には頭しかない。え! そんな馬鹿なというと手鏡が天から落ちてきた。その手鏡で見てごらん。自らの姿を! そう云われると見ないわけにもいかない。手鏡の中には顔しかない。首から下が無いのだ。そんな馬鹿な! きっとこの手鏡はインチキに違いない。信じてたまるか。だが視界にははっきりと頭の無い胴体が在る。幻に違いない。きっと消えるに違いない。消えろ! と叫んだ瞬間、鏡が巨大な大きさになる。室と同じ大きさに。その中に映し出された姿は確かに頭しかない。磨りガラスが鏡の中にある。ふと気になって首から下の姿を目で追う。確かにある。鏡の横に居る。分裂していた。それも首が分岐点。首はそう簡単に切断されるわけが無い。それなのに首から下が目の前に在る。正確に言うと鏡の中に居る。それも少し離れた所に。どこなのか探すが見当たらない。まごついていると片方の足が体から離れる。するともう片方も真似をして離れる。手も離れる。足の指が足首から離れる。手の指も離れる。気が付くと細かくなってきた。様々な形が泳いでいる。宙の中を気持ちよさそうに歩いている。よく見ると一定のリズムにしたがって動いていた。三拍子。四拍子。二拍子。クルクル変わる。だが音が無い。無音の中でバラバラになった体は気持ちよさそうに動いている。顔が無いのだからどんな気持ちで動いているのか分かるはずが無いのに楽しさが伝わってくる。頭の中に伝わってくる。何故? という言葉を投げ掛けたら全てが停止した。
動かない空間はヒンヤリしてくる。寒さが体毛を逆立たせる。触覚などそれまでまるっきり感じなかったのに。不思議という言葉が浮いてくる。その言葉を見ながらそうよねというと不思議は首を横に振る。当たり前という言葉が筍のようにニョコニョコと出てくる。当たり前は成長して竹になった。それでも気負わない。威張らない。謙虚さを常に持っているようだ。その様になれないと思った瞬間、男の声が耳元でした。
目を開けると、男の顔が近くに在り周りを見回すと紛れも無くベッドの上であった。それも病室。大丈夫かい? 心配そうな顔になっていた。その顔を見ると叔父。言葉に頷いた。よかった! と何度も言う。何度も云われると何も答えられない。何か云わなければならないと思えば思うほど何もいえない。屁理屈がケラケラと笑う。それでも何もいえない。心の中は真っ白のままなのだから。
声が遠のく。声が言葉としての意味を消していた。再び磨りガラスに囲まれた室へと誘われた。誰にという確かなものは無い。気が付くと居た。だが何かに導かれた様な気配が忍び込んでくる。室から出る手立てが分からないのだから居るしかない。我慢するしかない。何故? という言葉が飛び交う。小さな虫のように飛び交う。だから叩き殺した。残酷という言葉が一瞬過ぎる。それは必然なのだからという言葉が後から追い掛けて来る。静けさだけが漂う。それもいいものだと思っていると何時の間にかバラバラになった首から下の体が宙に浮いていた。ゆっくりと浮いている。風がなびいている。不安という真綿を包みながら。弱い揺れとなって伝わってくる。何が起きるのか分からない。首から下は揺れているのに風が感じられない。ならば何故揺れているのか。その時すでに何故の中には悪魔が入り込んでいた。
悪魔という存在を見たことは無い。見たくも無い。だが忍び込んできたような気配がする。錯覚には違いない。錯覚の中にまんまと嵌め込まれてしまったらしい。崖崩れ。それとも雪崩に巻き込まれたのか定かではない。身動きの取れない様に甘んじるほど強くは無く。逃げ出すほど弱くは無い。我慢してバラバラになってしまった首から下の体を見なくてはならない。目を逸らしたい。それでもギリギリの我慢がエネルギーを出してくれた為に留まる。するとバラバラになった体は立体から平面の図形のようになる。磨りガラスの中に吸い込まれていく。切れ目が確かに元は首から下だったという証拠を残してくれていた。
首から上が今度は細胞分裂を起こす様にバラバラになる。口が浮いている。両耳が浮いている。眉毛が。髪の毛が一本ずつ浮いている。首は真っ赤な血を流しながら。テンポは速い。軽やかにというより何かに追い立てられていた。めげずに浮いている。どこに行くという当てなど無い。バラバラにならなければならないという脅迫めいたものに揺り動かされて。だが目だけは動かない。バラバラになった体を見るのが役目だと信じ込んでいるものだから。
バラバラになった顔が突然停止した。磨りガラスの中に吸い込まれた。目は孤独になる。それでもバラバラになった体の行く末を気にしながら磨りガラスを見張る。その中に悪魔が……。


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Entry12

真実の後味

1.5月25日(土) 21:05 恭子

 「真実の後味」と名付けられたその奇妙なモニュメントは、高名な彫刻家とやらの手によるもので、駅前の待ち合わせスポットとしてずっと以前から定番になっていた。そのためこの付近は混雑しているのが常だが、すでに夜遅い時間帯なので今は比較的閑散としている。その場所で恭子は彼を待ちながら、昨夜のことを思い返していた。

2.5月24日(金) 22:30 洋輔

 それは洋輔にとって、あまりに唐突な出来事だった。仕事帰りにいつもの場所で恭子と待ち合わせ、食事をしたあと、一緒に洋輔の部屋に行った。いつも通りの夜だった。しかし洋輔が求めると、恭子は彼を拒んだ。そして、淡々とした口調で別れを切り出した。
 洋輔には、恭子が別れを望む理由について、思い当たることが何も無かった。洋輔は恭子を心の底から愛し、その気持ちに見合うだけ大切にしていたし、恭子も洋輔のことを誰よりも愛してくれていると分かっていた。同じ会社で知り合い、付き合い始めてから約半年間、ふたりは些細な喧嘩すらしたことがなく、この上なく良好な関係が続いていると信じていた。慌てて理由を問い質したが、恭子の口から語られた言葉は、いっそう洋輔を動揺させた。
「好きだから」
恭子は別れの理由をそう説明した。
「は?」
洋輔は呆けたような声を上げ、数秒の間を置いて、やっと疑問を付け足した。
「どういう意味?」
「好きだから、つらいの」
 恭子の返事はにべもなかった。
「分かるように説明してくれよ」
 洋輔が粘ると、恭子は深く溜息を吐き、ようやく聞こえる声で呟くように言った。
「洋輔のことが大好きで、今とても幸せで、だからとても怖いの。こんな幸せ、いつまでも続くはずがない。きっと洋輔は、いつか私を嫌いになる。そう考えると怖くて堪らないの」
「何だよそれ。嫌いになんかなんねぇよ!」
「なるよ。人の気持ちは変わるもの。だから今のうちに、自分から身を引くの」
「ならないって!」
「もう決めたの」
恭子の声は小さかったが、同時に強い決意がこもっていた。
「そうしないと、怖くて気が狂ってしまいそうだから」
 恭子はそう言い終わると、俯いたまま泣き出した。あとは洋輔が何を言っても耳を貸さず、ただ泣き続けるだけだった。

3.5月25日(土) 20:45 信吾

 洋輔の失恋のとばっちりは、会社の後輩である信吾が受ける羽目になった。会社の近くにある行きつけの居酒屋に、有無を言わさず連れて来られ、洋輔の繰り言に遅くまで付き合わされていた。もともと酒に強い性質ではない洋輔は、あっという間に酔っ払ってしまったが、酩酊しながらもなお、愚痴をこぼし続けていた。信吾は、もう何度目になるか分からない同じ話に、辛抱強く相槌を打っていた。
「皮肉なもんだよなあぁ……。お互いに愛し合ってるのに、うまくいかないなんてよぉ。ホント理不尽な世の中だぜ。やってらんねぇよ、俺はもう」
「ええ。本当にひどい話ですよね」
「だろぉ〜? そんな理由で別れようなんてさぁ……」
「ずいぶん身勝手ですよね、恭子さん」
 信吾にしてみれば調子を合わせたつもりだったのだが、洋輔はその言葉に噛み付いた。
「バカやろう! お前に何が分かるんだ。恭子はなぁ、そんな自分勝手な女じゃねェんだよ。あいつだってつらかったんだ。きっとつらかったんだよぉ……」
洋輔の目に涙が溢れてきた。信吾はかけるべき言葉が見つからず、ただ黙っていた。
「だからさぁ、仕方ねェだろう? 恭子がひとりで悩んで悩んで、それで出した答えなんだからさぁ……」
「それじゃあ恭子さんのことはもう忘れるんですか?」
 信吾がそう言うと、洋輔はぼろぼろと涙をこぼした。
「だけど……だけど俺、どうしても諦め切れなくてさぁ、手紙を書いたんだ。恭子が戻ってくるように。会社帰りにいつも待ち合わせてた場所で待っててくれって。恭子はさぁ、恭子が好きなのは、俺しかいないんだから……」
 洋輔はテーブルに突っ伏して、泣きながらなおも何事かぼやいていたが、それは信吾の耳にはほとんど届かなかった。

4.手紙

「恭子へ

君が抱えていたつらさはよく分かった。
今まで気付いてやれなかった僕をどうか許して欲しい。
僕には君のいない人生なんて考えられない。
今もこれからも、僕が愛しているのは君だけなんだ。

僕は誓おう。
もう二度と、君を苦しめたりはしないと。
決して君を傷つけない。
決して君を不安にさせない。

思い出してごらん。君が本当に愛しているのは誰なのか。
僕たちはもう一度やり直せるはずだ。
明日、九時にいつもの場所で待っていてくれ。

洋輔」

5.5月25日(土) 21:15 再び恭子

「お待たせ」
 待っていた彼の声に、恭子は回想を打ち切って顔を上げた。
「遅いよー」
 微笑む彼に不満の言葉を一応かけるが、口調や表情はちっとも不満そうな様子ではない。腕を絡めて彼を見上げると、嬉しそうに彼の言い訳に耳を傾けた。

「ごめんな。先輩がなかなか放してくれなくてさ……」
 そして、信吾と恭子は、寄り添い合って歩き出した。


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Entry13

王様の鷹の話

「君は左の薬指が無いんだね」
「そうなのよ。 今気付いたの?」

そりゃ昨日会ったばかりで、しかも君昨夜は手袋をしていたし、その後意気投合した勢いに任せて薄暗い中でベッドインしちゃったからだよ、とはたとえそれが真実であっても言いづらいものがある。
朝起きた時、微かに痛む頭を抱えつつ此処は何処だろうと手がかりを探したら、隣で彼女がまだ眠っていた。
それはかなり嬉しいことだったし、彼女の安らかな寝顔を見たと同時に自分は誰かも此処は何処かも解ったのだが、彼女の顔の隣にあった左手には指が一本欠けていたと、まあそんなわけだ。
どうやらすぱっと切れた訳では無いらしい、と彼の知識は結論づけている。
今は肉が再生して傷痕は滑らかになっているけれども、怪我した当時は、それはもうスプラッタのぐちゃぐちゃだったんだろうなぁ、とまだ覚めきっていない頭で考えていた。
きっと痛かったことだろう。
そして話は冒頭の会話にさかのぼる。

「どうしてか話してあげましょうか?」
あまりにじっと見つめていたので、くすぐったくなったのか、左手を引っ込めながら彼女が言った。

「あー別に話したくないなら良いよ」
「聞きたいなら聞きたいって言え」
「...ごめんなさい聞きたいです」
降参すると、彼女は軽く頭を振って眠気を払い、おもむろに厳粛な口調で話しはじめた。

「むかしむかしあるところに王様がいました。」
「はい!?」


王様は文武に優れた方として大陸中に御名を響き渡らせておいででしたが、また魔法使いとしての腕も世界で一二を争うほどでおられました。
ご統治の下で王国は豊かに平和で、国民は健やかに満ち足りた生活を送っておりました。
もしも王様に、いや王国に問題があるとすれば、それはたった一つ王様が未だお妃さまを娶られていないということであったでしょう。 王様は大変見目の良い方でしたから、近隣諸国の王女様方の中には、王様とのご結婚を夢見て日々を過ごしておられる方も大変多かったのですが、王様はと言えば、大臣たちがご結婚の話を持ち出すたびに、ぷいとそっぽを向くと狩りへ出掛けておしまいになるのでした。

狩りといえば、王様はいつも一羽の鷹を連れておられました。
王様がまだ王子であられたころ、ご自身で捕らえられたその鷹は畜生の類とはいえ、大層美しい鳥でした。 あるお側仕えの小姓などは、あの鷹からは魔法の気配がする、などと、もっともらしく触れ回っていたものでございます。
それはまあ、ただの言いがかりとしましても、確かに鷹が小首を傾げて王様の命を聴いているときなどは、まるで知性を持っているようにも見えたものです。

王様は鷹を何よりも、それこそご家来の誰よりも可愛がっておいででした。
一人の小姓が---そういえばあれは例の、鷹には魔法が掛かっているうんぬんかんぬんと五月蝿かった奴だったような気が致しますが---悪ふざけに鷹の尾羽を一本抜いてしまった時など、珍しいほど激昂なさって、言い訳をする暇も与えず、ご自身自らがお手打ちになさったほどでございます。

そんなある日のことです、それまで誰も見たことがない商人が、珍しい異国の品々を駱駝に積んでお城にやってまいりました。 手の込んだ細工物に貴重な香辛料、美しい織物などを玉座の前の床に一杯に広げては、面白可笑しく品々のいわれを申し立てます。 興がのられたのか、王様は一つ一つ品物を指差しては商人に説明させておいででしたが、ある古ぼけた巻物をご覧になった時、お顔色をさっと変えられました。
王様の驚かれたご様子に気付き、我が意を得たりと効能を述べ立てる商人を手の一振りで遮ると、その巻物を商人の言い値の倍額でお買い上げになったのです。 その後、王様はご書斎にお篭りになってしまい、二日三晩の間飲まず食わずで、寝る間も惜しまれ何かをお調べになっておられました。

三日目の朝、ようやく出てこられた王様は、朝食をお召し上がりになるとすぐに大臣たちを集められました。 大臣たちが突然のお呼びに戸惑っておりますうちに、王様は晴れやかにご結婚するご意志を固められたことをお告げになりました。
一度は喜色満面となった大臣たちですが、王様が御相手を明らかにされた時、彼らの表情は一瞬にして困惑へと変わりました。

何と、王様が、ご結婚相手としてお選びになったのは、鷹だったのです。

何でも、この度お買い上げになった古文書は、古代に禁じられた呪文を書き記したもので、その中の一つに獣を人へと変身させるものがあるとおっしゃるのです。
それは世の理に反する、国の威信に関わるなどと、大臣たちは口々に反対申し上げたのですが、ご決心は固いままです。 とうとう王様は鷹を連れて、魔術を行うために塔へ入って行かれておしまいになったのです。

慣れない処に入ったからでしょうか、鷹は常日頃からは想像も付かないほど暴れて、王様の御手から逃れようといたします。 仕方なく王様は首にかけていた金鎖にまじないをかけると、それで鷹の爪を戒め、窓格子に結び付けられると、隣室の祭壇の前にて魔法陣の準備をすることになさいました。
けれども、魔法陣が完成し、王様が戻ってきた時、鷹は何処にも見当たりませんでした。
残されていたのは、ただ血まみれの爪が一本と、それにまだ繋がったままの鎖と、蝶番が壊れ開いた窓のみ。 血痕はぽつぽつと窓の外へと続いて、それから途切れておりました。

それから王様が彼の鷹に巡り合うことは無かったということです。


「あーコーヒー飲みたい」
「ん、ああ煎れようか」
んーお願いーと言いつつ、彼女は皺のついたシーツの上で大きく伸びをした。
そうやっていると鷹というより猫だと思う。
...本当の話か解らないけれど。 騙されているだけかもしれないけれど。
あんたとは長くお付きあいする気は無いっていう意思表示かもしれないし。
何しろ結婚指輪を嵌めるところも無いし。
目覚めた時とはまた別の意味で頭が痛い。

しかし逃げられるわけにはいかないのだ。
逃げられたら世界の果てまで追っていきそうな自分が居る。
...それもまた実にファンタジーな話だが。

彼が思考を渦巻かせながら階下に行こうとしたところで、呼び止められた。
振り返ると笑顔で一声。

「大丈夫よ、今は貴方の側に居るから」


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Entry14

兄弟

 玄関の方で、チャイムも無しにざわめきが起こり、それがしだいに確かに伝わって来て、洋は我に返った。
 耳はこのごろ、とみに遠くなってきたようである。八十七で死んだ父親も、晩年にはほとんどかな聾であったから、遺伝と言うよりない。
 初めて、自分の聴力が衰えてきたと意識したのは、五十をすぎた頃であったか。夜、外を往く救急車のサイレンを、家族は皆とらえているのに、洋の耳にだけひと呼吸おくれて届く。風呂の湯が沸いた知らせの電子音を、テレビに紛れて聞き逃したりする。
 六十の声を聞こうという今も、人との会話に障ることは余りないが、ふと気づくと世の中が間遠になっている。苛立ちを覚えるよりも、円い柔らかな膜に包まれたような時の方が多い。
 立って行った孝子の、あら、いらっしゃい、という華やかに繕った声は、夏海のつれ合いの佳奈に向けられたものである。こんにちは、お邪魔します、なぞという瑞々しい声がそれにからみ合っている。
 夏海が何も言わずにのそのそと上がってきて、茶の間のこたつの前に無造作に腰を下ろした。
「今日は、仕事はどうした」
「夜勤明けで……佳奈も、ちょうど休みだったから」
 息子と言葉を交わしながら、若い日に実家に帰った時のことを、洋はおもい出す。自分の巣を別に構えたものにとっては、生家は自分の家であって自分の家でない。ただいま、と言う所でもないし、今日は、と言うのもおかしい。照れの中に、一家の主人としての誇らしさがまじる。今の夏海もまた、そんな気分を味わっているのであろう。
 小腰をかがめるように入って来た佳奈は、孝子にすすめられながら夏海の隣に坐り、きちんと手を突いて挨拶した。
「あまりご無沙汰ですから、たまにはと思いまして……」
 ほら、と夏海を促すように腰を浮かすと、傍らの菓子の箱らしい包みを、これは仏さまに、と示した。
 二人が立って行って手を合わせるのは、白い合板で張られた、茶の間の壁に作りつけの棚の一郭である。葉書ほどの小さな仏画を奥に掛け、位牌を祀り、前には小さな香炉・鐘も置きならべてある。
 黒木づくりで扉のある普通の仏壇は、暗いので孝子が嫌がった。はっきり言ったことはないが、そうに違いない。
 日当たりのいい南向きの大きなガラス戸に面しているので、桃色の蓮弁の上に坐る仏の画像は、いつの間にかすっかり色褪せている。鎌倉時代と言っても通りそうな程に時代が着いている。
 位牌は三基ある。両端の二つは二まわりほど小さい。中央の広海のがまだ新しいのに比べて、表の金色の字もやや輝きが沈んでいるようだ。

  四月一日(月)
 午前のお茶を飲みながら、母が仏壇の方をふり仰ぐようにして、
「生きていればもう十九歳になるのねえ……どんな感じになっていたか知ら」
と言った。
 自分には五歳下の夏海の他に、九つ下の妹と、十歳下にもう一人の弟が居たはずなのだが、二人とも生まれてすぐに死んだ。今日はその妹の方の月命日に当たるので、母は油揚げご飯を炊いて上げたのである。
 本当ならば、自分にはまだ未成年の弟妹がいる。そう思うと、背筋に水を浴びたような気分になる。
 二人とも高校を卒業して、このご時世だからすぐに就職するよりは、大学か短大か専門学校へでも入ったろうか。
 確かなのは、二人が生きていれば、自分はこうして平日の昼間っから家で珈琲など飲んではいないだろう。ちゃんと定職について、稼いで、二人の学費などを助けていたに違いないという事だ。
 大学を出る年、ちょうど母校で教員の募集があった。世間知らずの自分はそのまま周りに流されるように院へ行ったが、その頃の二人はまだ十二、三歳で中学生になるやならず、長兄の私は、今こうして居候している学校にその時あっさり就職したに違いない。
 初年はそれなりに苦労する事もあったかも知れないが、今の自分が年を食ってる割に使えないと思われているのとは逆に、若いと云うだけで見ゆるされる所もあるものだ。そして今ごろは教員生活も七、八年目で、すっかり仕事も覚えた頃だろう。
 人のせいにする様だが、自分はその方が、目的のある充実した生活を送っていたのではないか。

 家計を思いやるようなことを子供に言われれば、父親としてはやはり憮然とせざるを得ない。たとえ弟妹が居ようと、行きたければ大学院だろうが外国留学だろうが勝手に行けば良いのである。その程度の自由を認められない位、お前を頼るつもりなど毛頭無かった。
 しかし、本当にそう言い切れるだろうか。
 元々、三人目は孝子が望んだ。広海・夏海と男の子が続いて、女の子を一人は育ててみたかったのである。夏海も五つになったので、そろそろ……という訳だった。
 あの子が無事に生まれてさえいれば、翌る年にもう一人とは考えなかったろう。妊娠中は順調であったのに、いわゆる過熟児で分娩の時に落命した。望み通り女の子であっただけに孝子の落胆も大きかった。次の年すぐにもう一度挑戦した結果は男だったが、やはり失敗し、もはや諦めざるを得なかった。
 当時、洋は孝子の哀しみを共にしたつもりであったが、その中に、これで少しは責任が軽くなったと、何か安堵するような想いが、少しでも混じっていなかったろうか。
 夏海が座に戻って、
「そう言えば、この間、そこで柿内さんに会ったよ」
 孝子に、近所に住む柿内夫人の消息を伝えた。孝子よりも二つ三つ若く、洋の一家がこの街に越してきて以来、付き合いは二十年にもなる。お互いの子供たちが小学生の頃にはPTA、成人してからは公民館のお稽古ごとなぞで親しくしている。
「しばらく会ってないけど、お母さん、元気? って云ってた」
「そう……ちゃんとご挨拶した?」
と、せめて連れ合いが居る前では止めたらよかろうと思うのに、母が息子に言うことはいつまでも変わらない。
 兄の広海が居なくなった時、五つ違いの夏海はちょうど大学を卒えるころだった。どう贔屓目に見ても学校は兄に比べて出来なく、私立の高校から順送りに大学に入って、長髪を金色にしたりしてぐうたらを極めていた故、当然自分で職を探すなどの気働きはなく、こいつも一体どうするのかと親は暗澹となりかかっていた。
 ビル管理会社で部長を務める、孝子の弟に頼もうか、という案は以前からなんとなく出ていたが、孝子がなりふり構わずという勢いで動きだしたのは、広海が死んだ直後からである。
 息子の就職を妻の弟に頼ることに、蟠りが全くなかったと云えば嘘になろう。しかし平凡な技術公務員には利かせるような人脈などなく、何かを振り切るような形相の孝子に、洋は任せておくしかなかった。
――広海の轍は踏ませない。
 母親の気迫に押されて、本人も思うところがあったのか、叔父の斡旋を素直に受けて真面目に勤め出し、生活が安定すると、大学時代から付き合っていた佳奈と所帯を持った。今では少し離れた郊外の、孝子の父親が建てた貸家のうちの一軒に住んでいる。
 中の兄である夏海にも、やはり二人の弟妹は欠落として刻み込まれていたのだろうか。広海が最後まで、それを自ら埋めきれなかったのだとすれば、夏海の場合は、突然いなくなった兄が、逆に新たな窓を開けてくれたのであろう。
 佳奈が何か、話しかけて来た様であったが、洋の耳には入らなかった。
「お父さんたら最近すっかりキンカになったんだから」
 孝子が呆れたように云い、皆は和やかに笑った。


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Entry15

動物園のどよめき

 マドリッドの動物園はのんびりしていた。
 近くの草むらをクジャクがゆったりと歩いていたり、他の動物達に与えられたスペースも、窮屈という感じはしなかった。すいているので、娘が人に紛れて迷子になるということもないだろうと、私は、子供の手を離し、散歩の気分だった。
 歩いていると、かっこいいお兄さんが冷たいチョコレートドリンクをくれた。とてもおいしい。友人に、スペインの動物園は、飲み物をくれることになっているのと尋ねると、いや、たまたま、キャンペーン中と教えてくれた。
 マドリッドで出会った人たちが、皆親切だったので、ほらあげるよ、というように、気軽に配っているのかと思ってしまった。

 スペインの人は、人情家らしい。タクシーでも何度か、運転手さんがタバコを吸う時に、運転しながら後ろを向いて、君も吸うかいと、箱から一本出したタバコを勧めてくれた。危ないということを気にするよりも、コミュニケーションの方を優先するのだと思った。
 絵をみるために並んでいた時も、スペインの人の気質を感じることがあった。
 待つのは退屈と思い始めた頃、私の前にいたおばさんも、同じように退屈だったらしく、私に話しかけてきた。何をいっているのか分からないので、「ノンコンプレヘンド」とか適当な単語をスペイン風にアレンジして答えた。すると、おば様は、もっと分かってもらおうと、沢山しゃべってきた。(だからー、わからないんです)と私が言葉を発する度に、それに対して、情熱的にスペイン語を返してくる。おば様と同じ気持ちになった方がいいようだと感じ、日本語でいいたいことを言うことにした。どうやら、おば様もそんな感じなのかもしれない。(とにかくしゃべればいいのね)私は、子供のことをしゃべることにした。
 どこの国でも、子供の話題は似通っている。何歳だ、とか、可愛い子だ、とか。それなら実際の言語を理解しなくても、コミュニケーションはできる。おば様と私と4才の娘は、三人で適当に言いたいことを自分の言語でしゃべり続け最後に「アディオス]とだけ、スペイン語を言ってニコニコしながら分かれた。
 近所の道を歩いていると、近所のおばさんに手招きされて、ナスやカボチャをくれると言われたこともあった。スペインの人って面白いなと思っていた。

 マドリッドにまだ慣れていない頃で、動物園に、娘と二人きりで行くのが心配で、友人と一緒に来ていた。
 きつい臭いがしてきた。
 ゴリラがたくさんいる。横に広がっている岩山のようなところが、ゴリラ達の昼間の生活の場所だ。自分たちの故郷では暮らせないのだから、ゴリラ達は、今日のようないい天気に、のびのびしているといいと思っていた。
 
 ゴリラの群は独特の黒い色だった。ふかふかした毛が長く艶やかに光っていた。
 ボスゴリラ。その他大勢ゴリラ。子供ゴリラ。それらが岩を背景にした平地に、自然とグループを作っているようだ。
 ボスゴリラが、どすどすと歩いてきた。威風堂々たる様子に、ひとめでボスと分かる。その他大勢のゴリラは、急いで彼のために場所を空けた。ボスに、びくびくしている。その場所は、人間のお客さんにとって丁度、舞台の真ん中にあたるような位置だ。皆なんとなく、彼に注目した。主演の俳優と観客のようだった。
 ボスは真ん中に堂々と陣取ってから、気に入った雌のゴリラのほうをじっと見た。ぐりぐりした目なので視線がはっきり分かる。「こっちへ来い。」というように顎を振った。すみっこの雌ゴリラは気がつかないふりだ。ボスは何度も視線を送るが雌ゴリラは、気がつかないふりを繰り返す。
 (ゴリラもデートに誘う時は相手の気持ちを大事にするんだわ)と見ていた。
 とうとうボスは、これならどうだ、というようにそばに行って、彼女の手を引っ張り、自分のそばにぐっと引き寄せた。ああとうとうカップル成立と思った。
 いつの間にか、恋の成り行きに興味を持ったやじうま人間で柵はすずなりだった。
 しかし、雌ゴリラは、ボスゴリラから離れていった。(ああ、嫌なのね。しつこくされて気の毒だわ。)ゴリラというより人間の女性として、彼女の気持ちと同化してしまっていた。
 一方、その他大勢のゴリラ達も、そろって横目で成り行きを見ていた。興味津々という様子だが、体だけはじっと固めて、見ていません、というようなふりをしている。まるで、群れ全体の時が止まったように、不自然なほど動きがない。わざとらしくて滑稽だ。
 あっ、と思った。突然、彼が、いえ、ボスゴリラが、すごい早さでその他大勢に向かって突進していった。「みるなっー散れーっ!」という感じ。
(そうよ。みんなが見ていたら恥ずかしいわね)と思った。
 塊だったその他大勢達は、一頭一頭が、それぞれ、見てませんでしたよーというように、急にばらばらに動き出した。それを見届けてから、又ボスゴリラは舞台中央へ戻った。すると残念なことに、あの雌は、さっきよりもっとすみっこにひっこんでいた。 しかし、ここが男の我慢のしどころというように、ボスは辛抱強く、最初の、じっと見つめるという時点から再開した。
 見つめる。無視。顎で誘う。無視。その他大勢を怒鳴りつける。戻る。見つめる。 又無視。
 ゴリラも人間も一体化して同じドラマを見続けていた。
 しかし、ちょっと飽きてきた。このままずっと続くなら、他の動物を見に行こうかしら。 そう思った時だ。ボスはすごい早さで雌の彼女に向かって走った。彼女の後ろから、力強く首に手を回した。そのまま、雌の首を脇に抱えて、ぐいぐいとひっぱって行く。(ああ、そんなにひっぱっちゃ雌さんのお尻がすりむけちゃう)と思う間もなくボスはあっという間に、真ん中にある舞台裏(檻?)へと続く岩の裂け目へ、雌を連れ込んで、二人は消えてしまった。
 ニュースで見る「突入です!」というような一瞬の出来事だった。
 いやだなんて言わせるものかとの断固たる決断という雰囲気だった。(男らしー)とは思った。しかし、その雌が、喜んだのか又は諦めたのかは、さすがに想像できなかった。そこに、残念だが種の壁を感じた。あんな荒々しいのは、嫌だけれど、ゴリラさんにとっては、普通に、かっこいいと感じられる態度かもしれないし。
 ボスが動いた瞬間、人間達は、そろって、おおーっと深く深くどよめいた。スペイン人のどよめきは、日本人とは違って、より深い声だった。
 ゴリラさん達の方は、顔が、全員そろって同じ向きになっていた。ボスさんのやったことを見ていない者は、一頭たりともいなかった。消えていった岩の裂け目を見るために、皆が同じ方向に向かって固まっていた。まるで、素晴らしい彫刻のように美しかった。
 ゴリラ達は、その美しい姿勢のまま、私達人間の発した、おおーっとの声をしっかりと聞きとり、きっと共感してくれたに違いないと思った。
 どよめきの後、緊張がほどけてから、人間は、口々に今の感動を語りだした。
 ゴリラ達の方は、語らないまでも、顔を見合わせたり、こわごわ岩のすき間をのぞき込んだり、又好きなことを始めたりした。
 
 人間とゴリラの二種が似たような行動をとったことが、なんだか愉快で嬉しかった。野次馬的感動の共有だった。
 さらに、私にとっては、人間とゴリラの二種ではなく、スペイン人と日本人とゴリラの三種だ。異国にとけ込めた瞬間だった。


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Entry16

広告打者

 ぱああああん!
 キャッチャーがボールを捉える音が、響き渡る。
(見てるだけで痛えな)
 桑島は自分の手を揉みほぐす。
「桑島、本橋に打てると思うか?」
 監督がバッターボックスに視線を向けたまま、桑島伸吾に尋ねる。
「本橋さんは、パワーがありませんからね。バントで送るのが最上じゃ?」
「バントか?」
 皮肉っぽく監督が呟く。
「――あ」
 ネクストバッターズサークルでは、東海林透が静かに素振りをしていた。
「監督、東海林さんには、打たせられないんですか」
「今日はまだ志津麻ジャパンの広告が映ってないからな」
 右翼方向にある広告を、監督が親指で指す。フェンスの下に白いロゴが描かれていた。
「あっちへ飛ばすだけでしょう? なんでフライにしなけりゃならないんです?」
「余計な事は考えんでいい」
 かこっ!
 くぐもった打球音が響いた。
 ――本橋がベンチに戻り、バッターボックスに東海林が入る。
 一球目。
 ぼこっ。
 ファール。
「監督、勝ちたくないんですか?」
「うちの球団のスポンサー料は、東海林さんがいる事を前提に決められている。テレビへの露出時間まで設定されてな」
 監督はぐっと歯を噛みしめていた。
「あの人の打席は、スポンサーの意向に支配された、治外法権領域なんだよ」
 きんっ!
 澄み切った音が、球場に響いた。
 打球は大きな弧を描き、ゆっくりと右翼手のグラブに収まった。志津麻ジャパンの広告が、丁度テレビに映る位置で。
「そうでなけりゃ、誰があんなの使うか」

 球場近くの焼き肉屋で、桑島と数名の選手たちが七輪を囲む。
「ったく、何なんだあいつ、野球を何だと思ってやがんだ」
 桑島は、カルビを三、四枚まとめて焼き網に乗せる。
 じゅうぅぅぅぅぅぅ……。
「もうあの人、二十年は同じ事やってるぞ」
 本橋が生焼けの肉でも構わずに端から食べていく。
 網の上で焦げていく付け合わせのシシトウを、桑島がひっくり返す。火に当たっていた部分は真っ黒だった。
「ったくプロに入る前は、あんな選手がいるなんて思わなかったぜ」
 ビールのジョッキに付いた水滴を、桑島は手で拭う。
 本橋は網の上で皿をひっくり返し、カルビをぶちまける。
 ぶじゅぅぅぅううううう……。
「まともに振るのは一日一打席だけ、後はみーんな広告に向けてゴロだのフライだのばっかし」
「監督は『同じ選手だと思うな』って言ってますけどね」
 皮肉っぽく笑って、若い選手がビールを飲み干す。
「一秒でも早く引退して欲しいもんですね」
「そしたらまた次が来たりしてな」
「次なんて、監督に直談判してでも入れさせねえって」
 桑島はビールを空けて言い切る。
「おお、桑島凄えなぁ、流石は司令塔」
「立派ですよ、桑島さん!」
「わははは、伊達や酔狂で首位打者なわけじゃねえぜ」
 桑島はシシトウをひょいとつまんで口に放り込んだ。
「……からい」

 翌々日、移動のバスの待ち合わせ場所に、桑島たちは集まっていた。
「遅れて、申し訳ありません」
 遅れて来た東海林がバスに乗り込んで来た。
「いや――ん? 東海林さん、肩をどうかしたか?」
 監督が見とがめる。
「暴漢に襲われまして」
 東海林の右肩は、包帯で固められていた。
「暴漢?」
「大丈夫です、来た以上は打ちます」
「警察には、届けたのか?」
 彼は首を横に振る。
「フロントに止められました」
「そうか、ならいいんだ」
 監督はほっとした顔で何度も頷く。
「怪我、か」
(ゆっくり休めばいいのに。打率一割七分の右翼手が休んだところで、誰も気にしねえぜ)
 バスの窓越しに見ていた桑島は、鼻で笑う。
「災難だな」
 本橋の意味ありげな笑みに、桑名は気付かなかった。

 二回表、東海林の打順が廻ってきた。
 東海林は二球ほど振らず、ボールとストライクのランプが一つづつ点く。
 そして第三球目。
 かんっ!
(!? ……いや、ファールか)
 打球は右に逸れて飛んで観客席に飛び込んだ。
(今の球は普通に打ってりゃ、ヒットぐらいにはなってるぞ)
 次もファール。その次もファール。
「怪我のせいか?」
 桑島が呟いた時。
 きんっ!
 高く打ち上げられたボールは、投手の頭上を越え、どんどん伸びていく。
(ホームラン? いや、角度が高すぎる、あれじゃあ飛距離が足りない――)
 ボールはホームランぎりぎり――スコアボードの下部分に表示された自動車の広告の前で――中堅手のグラブに収まった。
(ま、まさか。絶好球だから打たずにはいられなかった、そうに決まってる)
 バットを引きずるようにしてベンチに戻って来た東海林は、肩に温湿布を当てる。
「残念だったな、東海林」
 本橋が笑う。
「後五メートル飛んでいれば、ホームランだったのに」
 だが、東海林は何も言わなかった。
「本当に惜しかった――」
 桑島は彼の横顔を見て、言葉を切った。東海林に無念はなかった。うっすらと微笑んでさえいた。
(こいつ、本当に!)
 がたっ。
 桑島は勢い良く立ち上がった。
 ベンチにいた他の選手たちの視線が一瞬だけ彼に向く。
「……東海林さん、ちょっと」
 東海林にぼそりと耳打ちして、桑島はベンチの奥のロッカールームへ入った。
「――なんです?」
「どういうつもりだ」
「どういう?」
「わざと飛ばさなかったよな? ホームランに出来たよな? そんな怪我を圧してフライかよ!」
 桑島は拳を握ったままで怒鳴る。
「あんたは野球を……野球を一体何だと思って!」
 すっと東海林は桑島の手を離させた。
「――四.二一秒」
「え?」
「ホームランボールの滞空時間の平均です」
 東海林は怪我をした右肩をさする。
「そして、さっきの私のフライの滞空時間は、七秒」
 彼は微笑んだ。お気に入りの玩具を褒められた子供のように。
「落下地点も完璧。きちんと外野手がキャッチしたから、カメラもすぐには切り替わらなかったでしょう」
(こいつ……)
「最高の打球でしたよ」
 満足げに微笑んで、東海林はロッカールームから出て行った。
(何故……)
「桑島君」
 入れ違いに入って来たのは、本橋だった。
「君も耐えられなくなったか。あいつに」
 彼は桑島の肩をぽんと叩く。
「そうだ、みんな東海林が消えて欲しいと願ってる。スポンサーがなんだ、広告収入が多少減ったところで、球団が潰れるわけじゃない」
 桑島は無言でうつむく。
「東海林には今度こそ天誅が下るべきなんだ」
 本橋が彼の顔を覗き込む。
「協力してくれるよな? なあに、監督だって野球人だ、大目に見てくれるさ」
「協――力?」
「あいつももう歳だ。ちょっと骨折でもさせれば再起不能さ」
「あんたが……やったのか?」
「ハハハ、誘わなくて悪かった」
「あんた!」
 ぎっと桑島は本橋を睨む。
「な、なんだ、この期に及んで綺麗事か? お前だって東海林が嫌いだろう?」
「ああ、嫌いだ」
 桑島の声は震えていた。
「同じ事を要求されたら、俺なら球団を去る」
 桑島は、真っ直ぐ本橋の顔を指さす。
「だがあんたのした事は、それにも劣る!」

『三番、キャッチャー、桑島』
 バッターボックスに立った桑島は、スタジアムのあらゆる場所にある広告を睨み付けた。
 それから彼はゆっくりとバットを差し上げた。
 バットの先は、スコアボードの更に上。場外。
 歓声は熱狂的な大歓声となり、桑島の耳を叩く。
「見せ場をさらうのは野球と、俺は信じる」
 投手が振りかぶって――投げる。
「さあ――」
 白いボールの縫い目が、桑島にははっきりと見えた。
「宣戦布告だ!」


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Entry17

水よりも濃くて

お父さん、お父さん。起きて。
だめよ、こんなところで寝ちゃ。風邪引くわよ。
一人でずっと飲んでいたの。あきれた。
気分がいいって? そう、よかったわね。
もっと飲みたい? いけません。明日があるんですからね。二日酔いになったらどうするの。お母さん? 先に寝たみたいよ。明日はお母さんの方も忙しいのだから、寝かしといてあげなさい。私は寝ないのかって。そうね。もう少ししたら寝るわ。まだ十二時前でしょう。でも、眠れるかな。

そうだ、お茶入れてあげようか。私もお付き合いするから。三笠山があるわよ。一個はいらない? じゃ、半分こしようか。太るかな。まぁ、いいか。特別な夜だものね。

どうしたの? 私、何かへん? 何でそんな目で見るの?
お母さんに似てきた? この笑い皺が? それはそうでしょう。娘だもの。
いやねぇ、しみじみしちゃって。何で急にそんなこといいだすの。今日が今日だから? それもそうね。無理もないかな。

でも、へんね。私、今年二十九、もうお母さんの死んだ歳、二つも過ぎたわ。
それってお父さんの心の中では、お母さんが育ってるってことかな。何かおかしいわね。だからかな、最近お母さんのことうまく思い出せないんだ。お母さんが死んでからの方がもう人生長いし、普段は今のお母さんがずっといっしょにいたような気がしてる。そんなもん? そうかな。

でも、忘れるんだよね、やっぱり。今のお母さんには悪いけど、淋しいね。
お父さんはどう? いきなり聞いたらだめ? だって、私よりは覚えているでしょう。

好きだったんだよね。愛してたんだ。そうでしょ。照れないでよ。でなければ、連れ子のいる女の人なんかと結婚しないもの。ちゃんと話してよ。私、本当にお母さんのこともう一度知っておきたいの。これ以上忘れたくないから……。

お母さん、お父さんといた時が一番幸せだったんだよね。それくらいのこと、あってもいいよね。最初の結婚は死んだお父さんの看病ばかりだったっていうし。なんで私生んだのだろう?

でも、お母さん、独身の時はモテたでしょ。私の想像なんだけどね。だって、結構美人だったし、お父さんが横恋慕していたわけだし。一度振られた? そうだったの。初めて聞いたわ。プロポーズ、ちゃんとしたの? 

うーん、どうかなそれは。お母さんもわからなかったんじゃないかな。お嬢様で、なんか鈍いところあったでしょう? だから、お父さんが勝手に振られたってそう思い込んでいた。そんなことはないかな?

じゃ、お母さんが、私の本当のお父さんと結婚するって聞いた時はショックだったでしょう。泣いた? 聞いてゴメン。でも、よかったわね。お母さん、お父さんに二度も求婚されて。だってそんなこと普通ある?

死んだお父さんのこと、覚えているかって? 無理よ。三歳だもの。それに、たぶん忘れたかったのだと思うわ。私、その頃の記憶がまったくないの。でもね。帽子をかぶった人の印象があるわ。後で見た写真のせいかな。……わからない。でも、お父さんは帽子かぶらないでしょう。親友だったって本当? そう。よかった。

でも、想像つかないな。恋敵でもあったわけでしょう。つらくなかった? なんかカッコつけちゃうんだよね、お父さんは。でも、なんか情けないな。まぁ、最後はこういうことになったからいいけど、やっぱりお父さんには最初から頑張って欲しかったな。

生きていればって? 駄目よ。そんなこと考えても意味ないでしょ。もう死んだお父さんのことはいいんだ。今のお父さんが無くなってしまう。バカなこといわないで。死んだ者貧乏。それでいいのよ。だって、この先も死んだお父さんのことまで引きずっていたら、私、重すぎる。お母さんだけだって……。

いやだわ。どうしてお父さんが謝るのよ。違うわ。ごめん。そうじゃないの。私の方がお礼いわなくちゃいけないの。なかなか照れくさくていえなかったけど、感謝しています。ありがとう。ちゃんと育ててくれて。一度いわなきゃと思っていたから、いえてよかった。

でも、ほんと、死んだお母さんって、これ以上ないくらいわがままよね。笑っちゃうくらいわがままよ。ほんと、笑っちゃう。笑ってもいい? お父さん、笑おうよ……。

そうだ、明日の用意できてる? ワイシャツは洗濯屋さんから上って来てるし、靴は大丈夫? 雅夫さんに電話? ああ、さっきしました。お父さんによろしくって。お茶、入れなおす? そうね、まだなんだか寝るのが惜しいみたいだから。

わがままは、お父さんの方だって? まだこだわっているの? 
今のお母さんのこと? そんなことないわよ。私、認めてるわよ。私にはやっぱり新しいお母さんが必要だったって。疑っているの?

そうね。あんなことしたものね。正直にいうと、確かにショックだったかな。
でも、今なら、もう少しわかるわ。あの時は、死んだお母さんのことというより、お父さんを独占したかったのね。単純よね。バカみたいに単純だわ。だからでしょう。親の注意を引きたくて、初めは万引きしたりした。それは、新しいお母さんを困らせたかったというのもあったけど、本当は違うと思うの。

ただ、いつの間にか何でそんなことをしているのかわからなくなって。あの時の仲間たちも、みんな似たような感じだったわ。追いかけて欲しくて逃げているような。でも、だんだん感覚がマヒしてしまうのね。そのたびに新しい刺激が欲しくなって、その刺激をいっしょに秘密で分け合うことで、仲間たちとは安心できたわ。ここなら大丈夫。自分は必要とされている。自分は認められているって。

その代わり家からも学校からも遠ざかって。しかたないよね。勝手に逃げたのだから。追いかけてくれないからって、文句いえないわよ。でも、その時はそんな風に考えられなかった。淋しかったわ。

最後には何がなんだかわからなくなって、みんないやで、逃げ出したいのだけれど、どうしたらいいのかわからなくて。そうしたら、こう思えたの。本当に逃げ出したがっているのは、自分自身からじゃないかって。何がいやなのか。本当は、自分がいやなんだって。もう病気だったわね。だから自殺しようと思った時、素晴らしいことを思いついたような気がしたわ。

睡眠薬は仲間からもらったの。ラリっているのには慣れてたし。だけど、本当にしたかったのは狂言自殺だったと思うわ。ところが、しっかり動脈まで傷つけてしまってね。お風呂の水につけながら困ったなどうしようと思った。血って赤いけど、濁った赤ね。いやな色だったなぁ。

気がついたら病院だったわ。身体中が冷たくてね。お父さんの声で気がついたのよ。私の血を採ってください。同じA型ですって。お医者さんは本物の親子だと思ったのでしょうね。

嬉しかったわ。お父さんの暖かな血が500CC、私の身体の中に流れてる、そう思った時。あの時から、私とお父さんは赤の他人じゃない。ちゃんと血のつながった親子だって、そう思えるようになったの。もう一人じゃないってね。ほんとよ。ほんとうに、嬉しかったの。

だから、私、お父さんの娘です。お父さんの血、大切にします。

いやだ、お父さん、そんな物で顔拭かないでよ。しっかりして。
いやだわ、お父さん……。

ほんとうに、ありがとう。私、幸せです。
ありがとう。

明日、ヴァージンロード、お願いします。私、きっと、泣かずに歩けます。
ありがとう、お父さん……。

ありがとう。


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Entry18

超人狂時代

 山に篭って40年。始めの頃は山を降りないように、片方のマユだけ剃り落としたりしたものだが肉体の鍛錬ばかりでなく、精神の修行も怠りなくこなした私は、既に人間の域を越え、超人として生まれ変わっていた。
 最後の10年は、達磨大師のごとく座禅を組み、洞穴の中で飲まず食わずで岩と化していた。まぁ逸話は随分出来たかもしれないが、今の私にはそんな事はどうでも良いことだ。
 私は一握の砂であり、海であり、宇宙でもあった。空飛ぶ雲雀であり、水を泳ぐ鮭であり、野を駆る兎でもあった。私は自分であり自分ではなかった。暗であり明であった。有であり無でもあった。私は確かにその時、そういう存在だった。
 山を降りると、私は赴くままに使命を果たし始めた。

 東に悪さをする子供がいれば、行って懲らしめた。
 西に疲れた女がいれば、暖かく慰めた。
 南に死の病に苦しみむ父がいれば、死への恐怖を取り除いた。
 北に暴力や不正があれば、正義とは何かを説いた。
 しかし、東では子供達から罵倒され、西では強姦されたと訴えられ、南では死神と恐れられ、北では偽善者と呼ばれた。

 どうも私のやり方では良くないようだ。今の世の中には受け入れて貰えないらしい。私が使命を果たそうとすればするほど、反感を買ってしまう。これはまだまだ私の修行が足りないという事だ。
 だが、どうしても彼らを放ってはおけなかった私は、後継者を作る事にした。私の今の能力を持ってすれば、瞬時に私と同じ能力を与えることが出来た。
 自分の責任を他人に押し付ける形になってしまうが、今の若者達ならば、今の彼らの感覚で、正義の超人として世界を救えるだろう。
 私は品行方正な若者を選ぶと、彼の能力を私と同じにして後を任せた。

 目覚めると、僕は覆面をポケットに入れ街へ出かけた。覆面は強盗なんかする為じゃなくて、人知れず超人として活躍するためだ。
 僕はある老人からの依頼で超人になってしまった。空も飛べたし、力も強く、動くスピードも速い。小さい頃憧れていた子供向けのヒーローみたいだった。
 でもヒーローはやっぱり目立っちゃいけない。彼らは人知れず戦うものだから、僕はレスラー用のマスクを街で買いこんだ。いくらなんでもタイツ姿に着替えるというのは恥ずかしい。
 でもヒーローとして活躍するうちに、そのヒーロー像は僕の中でどんどん変わっていった。僕はやっぱり人間だ、勧善懲悪なんてあり得ない。僕の心の中には、良い心もあるけれど悪い心だってあるんだ。もちろん悪い事にこの力を使ったことはないが、なんでも出来る能力があれば、たまには自分の為にとか、エッチな事だって考えてしまう。
 僕の葛藤がピークを迎えたとき、ある考えが閃いた。ヒーローを廃業するのだ。もちろん僕のこの仕事を引き継いで貰える人を探せばいい。いや同じ能力を持つ超人を作ればいいんだ。その力がある事は知っていた。何人も作れば、彼らだって少しは休める。そのうち又気が向いたら、正義の味方に戻ればいいんだ。
 超人の候補には悩んだが、僕の好みで選ぶよりも無作為に選んだ方がいいだろうと、通学途中にこの電車に乗っている人を、まるまるそのまま超人にした。こうして年齢も性別も、国籍さえも色々な超人が誕生してしまった。

「ダァーン」猟銃の音が響きわたると、女性の悲鳴がそれを追いかけた。
「静かにして、床に伏せろ! おいそこの女、このバッグに金を入れるんだ」
 二人組の銀行強盗が投げた黒いバッグに、カウンターにあった金を入れながら、判らないように非常ボタンを押した窓口の女性は、近くにあった10円硬貨を摘むと、指でピンピンと弾いた。
 放たれた10円玉は、二人の銀行強盗の腕をえぐって突き抜け壁に刺さった。猟銃は強盗の手から離れていた。
「大人しくしなさい」
 指弾した窓口の女性は、空中に浮かび上がったと思うと猟銃を取り上げ、彼らを取り押さえた。
 翌日の新聞に名前ばかりか年齢まで載ってしまい、憤慨した彼女は、その後空を飛んでも大丈夫なように、スカートの下には気をつけているらしい。

 今日の食事を確保しようと、コンビニのごみ置き場から弁当を漁っていた浮浪者を突き飛ばしたベンツから降りた男の胸には、冷たくて鈍い輝きの拳銃が収まっていた。始めは無視しようと思っていた浮浪者も、男が拳銃を抜いて人に向けた途端、声を出していた。
「止めろ!」
 言った途端、拳銃は男の手を離れ、浮浪者の前に転がった。
「て、てめえ何しやがんでぇ」
 男は慌てて拳銃を拾いに浮浪者の方へ向かったが、浮浪者に睨まれた途端、空中に浮かび上がって、手足をバタバタさせた。
 騒ぎに気付いて呼ばれた警察が来たときには、やっと地上に降りられた男は捕まったが、浮浪者の姿は無かった。

 人気タレントの田鍋ひかりは、超人ピカリンとして売りだし、本当のヒロインとして正義を説き始めた。若者達はこぞって彼女の活躍を求め、新聞に彼女の記事が載らない日は無かった。
 始めはファッシンのようなものだったが、彼女はテレビに出演する傍ら、正義超人としての道を歩み始めた。そんな彼女を声援するファンの心は、彼女の言葉に影響されていった。

 アメリカに戻ったジョージは、名前をクラーク・ケントと変え、スーパー・マンとして活躍しようとしたらしいが、パテントの関係でスーパー・マンという名前が使えず、スーパー・ジョージとして活躍を始めた。しかし世論の影響でスーパー・マンという名前を使えるようになるらしいという報道が流れた。

 彼らは僕のように、誰なのか判らないように姿を隠して活躍するという事には興味がないらしい。逆に自分が誰なのかをアピールし、人に覚えて貰おうとさえしていた。

 街角には超人が溢れ、あっちの角でもこっちの角でも空中に浮く彼らを見る事が出来た。
 超人になった彼らは、正義の為にだけその力が発揮出来た。
 ただ、色ボケ爺マンだけが、女湯に突然裸で出現した。ご隠居レデイの豊満なちちぶさん締めからの金的という連続技を受け、悶絶して事無きを得たのだけが例外だった。

 なんだか彼らのあっけらかんとした姿に、僕の今までの悩みはなんだったのかと拍子抜けした。
 飛びまわる赤ちゃんを追いかけ、空を飛ぶ母親の姿がテレビに映った時、僕は誰が超人でも世の中はなんとかなるんだと思った。

 しかし世の中はそんなに甘くなかった。超人が現れては困ると考える特殊な事情を持つ権力者からは疎まれ、秘密裏に超人狩りがなされた。
 超人は何でも出来るから人間ではない。人類の敵である超人を抹殺しなければ、人類に未来はない。これが彼らの主張だった。
 密かに研究されていた超人無力化の方法は、超人の脳へ特殊な電磁波を長時間浴びせる事だった。それで超人は廃人になった。
 超人は、正義の名の元に自分達を狩る人間に対し、抵抗できなかった。
 誰でも知っていた超人ピカリンが、マスコミの前から姿を消した時には、今まで活躍していた超人は、殆どが廃人になっていた。

 政府は超人がいなくなった理由を出現した理由と同時に発表した。
「悲しいことですが、彼ら超人は障害者であり、突然発生した障害に対応しきれずに、廃人となってしまいました」
 彼らの何人かの活躍がテレビで流れていた。
 正義の味方は密かに活躍するしかないのだろうか?
 あの老人が戻ってきた時に、それが判るのかも知れない。


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Entry19

黄色いビー玉

「おい、ちょっとどういうことだよ?」
「いいじゃない。とっても綺麗よ」
 全く困ったことになった。本人には悪いけど、正直言ってうだつのあがらないという言葉がしっくりきてしまう中年の立原さんと二人の夜勤は苦痛だけど、事務で働いている恋人の香織が一緒にいてくれるのなら悪くないはずだった。香織の分の賃金までは出ないけど会社にはきちんとした許可はとってあるし、このラムネの瓶を作る工場で夜勤がやることといえば明日の朝から日勤が瓶を作るためのビー玉を作ることだけだ。そんなの溶鉱炉にガラスをぶっ込んで後は寝転がって待ってればいい。いつも通り八時に溶鉱炉にセットして今は予定通りの夜中の十二時。出来上がりを確認して仮眠室で寝てるだけでいいはずだった。明日は香織も休みだし帰りにちょっと気取ってモーニングサービスなんか食べて帰るのなんかもいいななんて考えていた。だけどそんな僕の幸せな予定は目の前の悔しいくらい綺麗な、そして綺麗だからよけい悔しい黄色いビー玉に打ち砕かれた。

 窓から差し込む青い月明かりと、おんなじくらいしか明るくない裸電球に照らされてキラリと光る黄色いビー玉を僕たちは見下ろしていた。途方に暮れる僕と、なんとなく良いかもしれないと呑気な香織と、そして喜びに体を震わせ、まるで伝説の宝石でも見つめるかのような立原さん。こんなに感情を放っている立原さんは初めて見た。
「これ、もしかしたら立原さんがやったの?」
 香織の問いに立原さんは照れくさそうに答えた。
「ええ、綺麗でしょ?」
「ええ、とっても。今までこんな色のラムネのビー玉考えもしなかったわ。でもどうして?」
「実はですね、うちの娘、小学四年生になるんですが、その娘が学校でいじめられたっていうんですよ。お前のオヤジは青いビー玉しか作れないって」
「まあ」
「だから言ってやったんですよ。じゃあそいつらに言ってやりなさい、私のお父さんはとっても綺麗な黄色いビー玉だって作れるって、もうすぐ見せてあげるからって」
「娘さん喜ぶわ」
「ええ、私自身も挑戦でしたので上手くできて嬉しいです」
 立原さんは嬉しそうに照れくさそうに頭を掻いていた。しかしもちろんそれで済む話ではなかった。
「ちょっと待って下さいよ立原さん、それに香織。こんなこと勝手にして良いと思ってるんですか?」
「ダメですかね?」
「いいじゃない、とっても綺麗よ」
 いつの間にか強く噛み締めていた奥歯が痛かった。
「ラムネのビー玉は青って決まっているんだ。勝手にこんな色にして何でも自分で決めなきゃ気が済まないあの工場長がなんて言うと思う?」
「それもそうね」
「やっぱりまずいですかね」
 当たり前じゃないか。
「それに明日の日勤がいつもの青いビー玉がないと困るだろ」
 責任問題だ。何とかしないと。まず黄色いビー玉を溶かして、それから青い色にして作り直す。朝までに間に合えば良いけど。
「でも娘に黄色いビー玉を…」
「だったら一つ持って帰れば良いでしょう。一つくらいなら大丈夫ですよ」
 僕は怒鳴り付けるように立原さんを睨み付けた。それから黄色いビー玉を手に取ろうとした。
「待って、ダメよ。それじゃあその黄色いビー玉を立原さんが作ったかどうか分からないわ」
「なに言ってるんだよ、そういう問題じゃ…」
「いいから聞いて」
 ふと見上げたその香織の姿は月明かりに照らされて影になり、不思議な美しさと威厳に包まれていた。僕は思わず掴んだビー玉の箱から手を放した。
「立原さん。あなたは急いで工場の裏手から不良品のガラス瓶を集めてきて溶かしてからビー玉を作るの。今度はいつもと同じ青いやつ。明日の日勤の人の為にね。それから私達はこのビー玉を使ってラムネの瓶を作るの。急げば朝までに間に合うわ」
「なんだって?」
「工場長は威張ってるだけでずぼらだから瓶にして箱に詰めてしまえば自分でチェックなんかしないわ。製品として出荷されれば立原さんの仕事が世に出るわ。さあ急いで、立原さんも早く終わらせて手伝って」
 立原さんは嬉しそうに「はい」と言うと工場の裏手に走っていった。僕は訳の分からぬまま香織に袖を掴まれて工場の奥に走っていった。

 作業は朝までかかったけどなんとか間に合いそうだった。今さら言っても仕方ないことだけど、こんなことをして良かったのだろうか。いや、いいはずなんてないんだけど僕には強く反対できなかった。月明かりに照らされた香織の、そのなんの躊躇もない力強い言葉に何も言うことが出来なかった。今でも後悔がないわけじゃないのなぜか満足感をも覚えていた。あとは青いビー玉がきちんとできているのを確認するだけだった。長い夜だったけどそれでともかく全てが終わる。
 立原さんが溶鉱炉からビー玉を取り出した。そのときだった。ガラガラとシャッターが開いた。そこには工場長が立っていた。他の仕事はずぼらなくせに毎朝一番最初にやってきてシャッターを開けるのだ。
「おい立原。おまえどういうことだ、こんな時間にビー玉出来上がるっていうのは?」
「あっ、ええと、いえ…」
 言わんこっちゃない。完全にまずかった。どういうわけか工場の皆が工場長には弱かった。まるで蛇に睨まれたカエルだった。香織も僕の側で息を飲んで黙ってしまった。僕は立原さんほど長く勤めていなかったし日頃から目立ったことはしなくてほとんど工場長とは話したことがなかったから、カエルまでにはならずに済んだけど、確かに工場長の詰問には迫力があった。これでは立原さんが全てを白状してしまうのも時間の問題だろう。
「なんとか言ったらどうだ。やましいことでもあるのか?」
「いえ、ええと…」
 ダメだろうな。そう思いながら眺めていた工場長と立原さんが立つ後ろのシャッターは開け放たれていて、その向こうには新しい朝の街が見えた。工場は丘の上にあって見下ろす形でたくさんの家が見える。たぶんその家の一つ一つにそれぞれの小さな朝の風景があって、目覚まし時計に腕をのばす若いサラリーマンとか、目玉焼きを作るお母さんとか、ランドセルにノートをつめる小学生とかがいるんだろうなと、ふと考えた。気が付くと僕は立原さんの側に立ちビー玉を見下ろしていた。
「いやー、やりましたね、立原さん。素晴らしい出来です」
 立原さんは「えっ」という感じで僕を見ていた。
「どうです工場長。実は昨日の夜のビー玉どうしても出来に納得いかなくて立原さんに頼み込んでもう一度二人でやり直したんですよ。見て下さい。これならどこに出しても恥ずかしくない一流品だ」
「なるほど、そう言われると素晴らしい。しかし徹夜してまでとは」
「僕たちは職人ですから。それに立原さんみたいなベテラン職人に教えてもらえるなら徹夜くらい」
「うむうむ。素晴らしいな。わしも鼻が高い」
 新しい朝が無事に始まってくれそうだった。

 三人で工場を出て坂道を下る。その横をランドセルを背負った小学生が何人かで楽しそうに笑いながら駆けていく。坂を下った交差点で立原さんは左へ僕たちは右へ。「ありがとう」を何度も繰り返す立原さんに僕たちは「いいですって、照れくさいな」とちょっと頭を掻いて、それからいつもより大きめに手を振って別れた。
「ああ眠いわね。でもお腹も空いたわ」
「よっし、じゃあ寝る前に喫茶店でモーニングサービス食べていこうぜ」
「やった、賛成!」
 本当に、悔しいくらいに素敵な朝だった。


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Entry20

届かないラブレター

 
 サンデッキに佇んでいると、海は空を空は海を静かに映しているのが分かった。
 
 昨日は、能古島がはっきりと見えていた。今日の風景は昨日とは違う。昨日という過去に見えていた風景と全く違って見える。そう、これが生きているという証拠なのだと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。汐の香までもがいきいきと、私の口腔でふくらんでいた。
 私の心は、海の展望台から見渡す限りの眺望の真中を漂っていた。私は、ただ此の事を告げたくて何年ぶりかの手紙を書こうと決心した。忍ぶ恋という程のものではない。独りよがりの内気な想いを、どれだけかでも綴れれば投函することもない恋文で良かった。

 昨日の夕暮れ近くに叔母は物静かに或ることを告げた。
 TVニュースでは梅雨明け宣言が流れていた。縁側からの涼風に蚊取り線香の煙が揺れて、叔母の前で渦を巻いていた。縁下の踏み石の横の水瓶からは突然の夕立ちで雨しぶきが踊り、その向うに頭を垂れた朝顔のつぼみが見えていた。
 淑やかな黄昏の薄闇が辺りを包み始めた頃、叔母はか細いけれど、しっかりとした口調で話はじめた。
「貴方も三十路の真中ね。想い出を捨てて、過去に因われずにプロポーズの返事をしちゃいなさい」
「えっ、突然でびっくり。脅かさないでよ」
「実は、お盆前にこの店閉めようと思っているの。兄さんが死んで五年目の夏になるのね。あなたには店の手伝いばかりさせてしまって、本当に悪かったと反省してるのよ」
 父の借金の返済にあてる為に 、祖父の代からの展望喫茶『洗心亭』を売りに出す事にしたとは、叔母は決して言わなかった。そのことが、私をとても切なくさせた。何故なら、このお店だけではなく叔母の輸入雑貨ショップ『エスポワール』もすでに銀行の抵当に入っていたからだ。
 叔母は曾根崎という年下の実業家と愛人関係にあったのだが、私はその彼に半年前、突然のプロポーズを受けた。彼の本妻は昨年病死していて、独身貴族だと吹聴しては彼が毎晩飲み回っていた頃だ。
 叔母は50歳には見えないほど若々しくて、深紅の口紅がとても似合う女性だった。艶のある瞳は私の憧れだった。その叔母が『エスポワール』を私に譲る条件で、曾根崎との別れ話の示談を進めていたのだ。自分の希望を犠牲にしてまで守ろうとする『エスポワール』。
 
 私の愛した白木は、父が死ぬ一年前に私を捨て、ある女性と東京で暮らし始めていた。その若い女性が曾根崎の実娘だと 後で叔母から聞いたのが、奇しくもあのプロポーズの日の夕食の席だった。お互いに悲しいほど笑って、はしゃいだ晩だった。叔母の歯並びが哀しい程に美しかったのを覚えている。

 叔母は今でも曾根崎を愛している。
 私は、白木を愛している。彼は、私に五歳の男の子がいることなんて知らないだろう。
 そして、私は叔母のことも、とても愛している。
「今日は、女2人で飲み明かす?ワインの美味しいのが3本冷やしてあるわよ」この人はとても不思議な魅力を持つ女性だとつくづく思い始めた頃、私は深い眠りに堕ちかかっていた。
 叔母は、もう待つ事を選んだんだろう。帰って来ないかもしれない男のことを。魂の老いを覚悟してまで。
 真綿のような眠りがゆっくりと私を包み始めた頃、倒れたワインの瓶に映る蛍光灯が滲むように見えて、私は孤独に堕ちて行った。

 覚醒することのない眠りは、光りの届かない深海で密やかに降り注ぐマリーンスノーに似ている。漆黒の闇の中で人知れず降り注いでいく百億年の沈黙。 
 
 私は、髪を後ろに束ねて肩肘をついたまま、いつもの手紙を書いている。
『今日、僕ちゃんが初めて掴まり立ちをしました。得意げに涎をたらして笑っています。う〜うと話し掛けています。涙が零れそうになりました。・・・・・・それでは、また』
 私は夢の中を歩いている。
『今日、僕ちゃんが「ママ」と喋りました。私の胸に顔をつけて甘えています。鼻の下に繊毛のような産毛が生えています。・・・・・・それでは、今日はこの辺で』
 私は夢の中で泣いている。
『今日、僕ちゃんが「パ〜パ」と喋りました。不思議な気持ちです。お婆ちゃんのことなのかな。髪を切ってあげなくては。・・・・・・また、書こうと思います』
 私は夢の中で独りぼっちだ。
『今日、保育園の入園式でした。しっかりと前をみて座っていましたよ。ひまわりの花を胸に。パパは外国で仕事をしているの?と聞かれました。お婆ちゃんが話したのかな・・・・・・おやすみなさい』

 私はこの夢が本当に醒めなければ良いのにと思っている。永遠の夜に撒かれたままで。

 私は、翌日の叔母の朝食の支度をしながら昨日の夢の事を想った。『エスポワール』で白木に出会った頃の事を思い出していた。「グリーン系のレジメンタルタイは淡いベージュのワイドスプレッドのシャツに似合いますよ。ホワイト系よりも素敵に見えます」といった会話だ。戻れるなら戻りたいときめきの一瞬。

 街の埃をすべて洗い流がすほどの夕立ちが止んで、まだ明るいと思えるその日の夕方に曾根崎は『エスポワール』へやって来た。たわい無い冗談を言いながら商品を選んでいる。本当は商品なんて高ければ良いんだと言いたげにも見える。叔母はFUKUZOUの竜の落し子のペンダントを身につけて、ショーウインドウのレイアウトのやり替えをしている。麻のバギーパンツにパステルピンクのシャツを装って、腕を組んで微笑む表情には、後悔が漂っていた。
 店のカウベルがカランと響いた。夕立ちで濡れたベージュのコットンスーツ姿の白木が立っていた。髪型は昔のままだ。雨の雫が髪の毛をつたって床に落ちていく。
「何故、どうして」
 私は、倒れそうになるくらいに心臓が高鳴った。
「今日で、すべての決着が着く。俺は彼女へのプロポーズの返事さえ聞ければいい」
 曾根崎のいつにない大声が響いた。異様な雰囲気の仕業に翻弄されている様に見えた。
「人の心変わりを責めてはいけないわ。皆一生懸命、人を好きになったんであれば、それは咎めても同じことよ。私は、白木さんに姪の書きためた手紙を手渡し、曾根崎さんへの挨拶を済ませたら店を後にします。白木さん、突然の電話で呼び出してごめんなさいね」
「曽根崎さん、世の中は、どうしょうもない事だらけね。あなたが本気で惚れたのなら、私は姪とあなたと『エスポワール』に賭けてみたいわ」
 白木は200通程の手紙の束を見て驚いている。
 切手に消印すら無い自分宛の手紙を白木は抱き締めて、呻くように泣き始めた。
「何だか、俺も『エスポワール』に賭けたくなったよ。希望という名の店に」
 曾根崎は叔母の顔を食い入るように見て、足早に店を出て行った。叔母が堰をきったように泣きながら彼の後を追って行く。 大人の女性の残り香が、私を震わせるくらいに切なくした。

 ショーウインドウ越しの車の往来風景の中に、歩道橋の階段を元気に駈け降りるてくる男児の顔を白木は無言で見つめていた。
 これから恐らく鳴るであろうカウベルの音は、今の私と白木に一番必要だった覚醒の予感を生む筈だ。それは深く響くに違いない。鳴らなければ、私は、これからも手紙を書き続けることになるだろう。
 
 今では私だけの届かない手紙を書くのも、それ程悪くはないと素直に言える気がする。
 それは自分の存在が残るような、伝わらなくても巡り続けるような、私自身へのラブレターなのだから。


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Entry21

 気が付くと春は終わっていた。
 夜道を歩く。ふと振り返る。そこには桜の樹が立っている。太い幹に豊かな緑をよろった、桜の樹が立っている。月の下、わずかに残ったその淡い花を風に散らしながら、桜の樹が立っている。
「どうした」
「何でも無い」
 気が付くと春は終わっていた。
 私の春に関する印象はいつもこれだった。花見もやった。入学式も卒業式も今までに何回もやった。だが私が振り返るといつも、いつの間にか春は終わっている。
「どうした」
「何でも無いよ。ただ、桜が散ってしまっているな、と思って」
「桜か」
 アベは桜の樹を見上げた。
「俺は桜は好きじゃ無いな。今年は早く散ったが俺は別に何とも思わん。春に咲く花は桜だけじゃ無いしな」
 それがアベの答えだった。
「どちらにせよ花見をしている暇は無いがな。行くぞ」
「ああ」
 私達は再び歩き始めた。
 道は狭く、思うように歩けなかった。月がやけに眩しくて、それが私を疲れさせた。
「ここはどこら辺だろうな」
 疲れを紛らわそうと、私はアベに話しかけた。
「昨日の、奴らの襲撃から随分歩いた。だいぶ街の中心から離れた筈だけど」
「さあな」
 アベは振り返りもせずに言った。
「俺達はこの街を何も知らない。街がどれ程の広さなのか。人口。奴らの意図。何も解らん」
「そうだな」
「本当に『壁』が在るのか。それさえ俺達には解らない」
「ああ」
「ずっとここで暮らしてきてこれだ。だがまあとにかく歩き回るしか無いだろう。目眩滅法でもな」
「ああ」
 私はそう答えアベの後を追った。
 アベの後ろ姿はいつも私にカエルを思わせた。仲間の中で一番最後に冬眠から目覚め、ゆっくりと穴から這い出てくる。そんな頼もしいカエル。
「なあ」
「何だ」
「何でついて来てくれたんだ?」
 私は歩みを速め、アベに並んだ。
「あんたは皆に慕われてた。奴らにもウケが良かったし、あのまま行けば区画長にだってなれたかもしれない」
 アベの足は速かった。私はそれになんとかついていった。
「なあ、何でだい」
「お前の話が面白かったからだ」
 アベは歩みを緩めながら言った。
「お前は昔から面白い奴だったからな」
「そうかな」
「そうだよ。それで随分いじめられてたようだが」
「そうだな」
「面白い奴だよお前は。お前だけだぜ。街の外に『壁』があってその外に世界が広がっている。こんな噂を信じてる奴は」
「そうかもな」
「ああ。面白いと思ったよ。もし本当に外の世界があるなら俺も行きたい。だからお前にちょいとついていこうと思ったのさ」
「そうか」
 アベはまた歩みを速めた。遅れないよう私も足を速めた。
 陰鬱な街並みを、私達は歩き続けた。闇は果てが無かった。その中を私達は歩き続けた。闇雲に扉を開け、路地を曲がり、私達は歩き続けた。
 道の先は少し小高い丘になっていた。振り返ると街が広く見渡せた。
 月の下、街は低く続いていた。影を集め、敷き詰めたように、低く、どこまでも。
「街、って何なのかな」
 私はアベに聞いた。
「さあな」
 アベは振り返り、そう答えた。
「俺には解らん。もしかしたら誰にも解らないのかもしれん」
 そう言ってアベは歩き始めた。
 私は少しの間だけ街を眺め、そしてアベの後を追った。


「もし『壁』の外に出られたら俺はミナミに行くよ」
 折り重なった鉄骨を潜りながら、アベが言った。
「ミナミは暖かく、皆が裸で暮らしてるらしい。凄いよな。こんな重装備をしなければ生きられないこの街とは大違いだ」
 そう言ってアベはがちゃり、と胸を叩いた。
「ところで。お前はどうするんだ?」
「どう、って」
「外に出られたら、お前はどうするつもりだ?」
 私は返事に窮した。そんな事は何も考えてなかった。
「解らない。決めて無いよ」
「そうか。お前はいつもそうだな。肝心の事は何も決めないままだ」
「そうだな」
 私はそれだけを答えた。
「肝心な事は何一つ決めないで、夢ばかり見て、それでこんな所までふらふら歩いてきて。なあ。お前、今まで飯をうまいと思った事あるか?」
「あるよ」
 私は答えた。その声はいくらか強かったかも知れない。
「いいかい」
「何だよ」
「他の奴はな、飯を食えばうまいと思うんだよ。皆そうだよ。皆、幸せだと思うんだよ。なあ。お前、幸せって解るか?」
「解るよ」
「本当に?」
「ああ」
 私の声は、またいくらか強かったかも知れない。そしてその声の強さが、私の弱さを示していたかもしれない。
「お前はきっと何か大切な物を持たずに産まれてきたんだろうな」
 アベはいつの間にか立ち止まっていた。
「なあ」
「何だよ」
「その何かはきっと街の外にだって無いぜ」
 アベはそう言って私を見た。
「お前の欲しい物はきっとどこにも無いぜ。なあ、それでも行くのか?」
 アベの目の強さに、私は視線を逸らした。逸らしながらも、私は言った。
「仕方無いじゃないか」
「え?」
「仕方無いじゃないか。飯をうまいと思えないのだから仕方無いじゃないか。うまく産まれる事が出来なかったのだから仕方無いじゃないか。生きていて後ろめたいのだから仕方無いじゃないか」
 私はいつの間にか目を上げていた。私はアベの目をじっと見つめた。
 その目の先に私は色々な物を見た気がした。父だとか母だとか思い出だとかそういう色々な物。誰にでもある物。その中にアベの言う「何か」があった気がしたが、それでも私はそれには手を伸ばさなかった。私はずっとそれとは違う物を見つめ続けた。
「そうか」
 やがてアベは目を細めた。
「なら行くしか無いよな」
 そう言って笑った。
 その笑みはひどく優しかった。
「アベ」
「何だ」
「有り難うな」
「何がだよ」
「いや。とにかく、有り難う」
「そうか。じゃあそろそろ行くか」
 その時、赤い光が閃いた。
「奴らだ」
 私達は物陰に身を隠した。
 赤色灯はみるみるうちにその数を増していく。
 私達は奴らに囲まれていた。
「どうする」
「決まってる。突破するしかない」
「そうだな」
「しかしこの数は厄介だな。二手に別れた方が良さそうだ。ここでお別れだな」
「そうか」
「ああ。俺はこっち。お前はあっち。それで良いな」
「解った」
「おい」
「何だ」
「頑張れよ」
 アベは私の目を見ながらそう言った。優しい目だった。
「ああ」
 その目に感謝し、私は答えた。
「頑張るよ」
「また会おうな」
「ああ」
「よし。じゃあ行くぞ」
 アベは闇に飛び出した。
 同時に私も反対方向へ駆け出す。
 つんざくサイレンの音。闇。赤色灯。銃声。
 私はその中を駆けた。赤の光をかき分け、私は駆けた。
 駆けながら私の体はいつの間にか小さくなっていった。何故かは解らない。
 体は序々に小さくなっていく。手足は黒く固まり始め、何か得体の知れぬ感覚が全身を貫き、それでも私は駆け。
 そして。



 振り返ると、そこに男が倒れていた。赤い光に囲まれ、男が倒れていた。
 私は人間について考えてみた。
 殺し合い、憎みあい、街いう得体の知れぬ物を生み出し、そしてそこで一生を過ごす人間達。
 虫として産まれた私には、やはり人間について何も解らなかった。
 赤い光に囲まれ、男が倒れている。
 私はその男について何か知っていた気がした。その男について何かを思ったが、すぐに興味を無くし、私は考えるのをやめた。
 私は翼を広げた。翼は、しい、という静かな音をたてながら、私を高く運んでいく。
 闇は果てが無かった。その事が私には心地良かった。


 私はふわりと壁を飛び越えた。

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