第18回3000字小説バトル Entry17
ハードルを飛び越える十五歳の彼女と来たらまるで揮発性物質で出来た鳥だった。只でさえ軽い質量をそれすらも邪魔だと言う様に、一瞬毎に身体を空気へと融かし乍ら固体と気体の狭間を彼女は跳んだのだ。
「出発、明後日だって」
「なんの?あ、インハイ?」
自転車の後ろで僕にしがみついている明の返事を僕は聞き逃したけれど、彼女が笑ったのは判った。だから僕は話題の事なんかどうでも良くなって、自転車のペダルを思いきり踏み付けたのだ。スポークが回る音がして景色が変質する。生まれたての緑と風が螺旋の形をとり空へと登って行く様が見える様な、世界がもうすぐやって来る夏に向けて波うっている、そんな日だった。
そして僕は恋をしていた。
何だか文字にするときっと随分と馬鹿馬鹿しい感傷に映るであろうから、僕は他の何かで代替がきかないか考えたけれど、結局、これしか僕の気持ちを表す言葉はありはしないのだ。だって僕は明と出会って初めて二人乗りをしたし、初めて夏を暑いだけのうんざりする季節じゃないと思った。長い事間違った場所に居た人が生まれ故郷に帰る時に感じる様な、穏やかな気持ちになれたのだと思う。そして生まれた場所に帰りたいと言うのは誰でも持つ事が許される最低限の感傷じゃないだろうか。
「戦争に行くの」
だから僕は不意に耳元で囁かれた彼女の言葉を、一瞬聞き間違いだと思ったのだ。そんな風に流れる光の中に居る時に、滞る闇へと目を向けるのはひどく難しい事だから。僕は自転車を止めた。光も風も夏も止まってしまい、振り返ると少し泣きそうな顏をした明がこっちを見ていた。
「戦争」
彼女は「冗談だろう」という顔をして居る僕に静かな声で繰り返す。
「…だって、まだ高校生じゃないか」
「うん」
「じゃあ」
「三月前に適性検査したじゃない?私、訓練によっては十年後にとても優秀な宇宙船の操縦士になれる適性を持っているんだって」
僕はその時事情を理解した。そして首を振った。只哀しそうに笑って居るだけの彼女が信じられなくて喚いた。多分、彼女を傷つける様な事も随分叫んだかも知れない。通行人が僕達をじろじろ見て行き、その中の一人に僕がした事もない喧嘩をふっかけそうになった時、不意に彼女は僕に抱きついて来た。
随分と細い肩に首がくっ付いていた。僕からは見えない彼女の顔は少し震えて居たから、僕はどうして良いか判らなかった。
そして僕はもう一度漠然と、ああ夏なのだと思ったのだ。
人類の悲願、「地球上からの紛争の撤廃」は僕達が十歳になるやならずやの時にひどく皮肉な形で実現した。確かに僕らは地球であらゆる国家間の戦争を見る事はないだろうが、それはこの惑星の全ての人類が協調せざるを得ない事態に直面したからだ。
つまり、この星は他の惑星から来た生命体に攻撃を受けている、らしいのである。
「らしい」と言ったのは、僕ら一般人がその情報を知る機会は余りなく、更に言うと生活にも殆ど実影響がなかったからだ。言語学者と物理学者が総動員されて相手の解析をしている事や、何光年も離れた所で戦線が維持されている事は知っていたけれど、そこで何が行なわれて居るのか誰も知らない、そんな冗談みたいな戦争だった。
物資が不足していると両親は言うけれど、巷で言われている様に僕達は自分の世代を不幸だと思っていなかった。両親は普通に朝から夜迄働いていたし、就学率も殆ど落ちていない。そんな中で星の世界の戦争を意識しろと言われても無理な話だ。実際この夏の僕らの懸案事項と言ったら、ハードル走の県高校生記録を持つ明が、部活をどれ位休めるかと云う事だった。
「だった」。
過去形だ。
「これで選抜した優秀な高校生を軍が持って行くそうですよ」。まるきり他人事みたいに教師が言いながら配ったあの薄っぺらい紙の果てにあるのは、僕らの知らない暗い星の彼方だったのだ。
午後六時の道を僕らの自転車は滑り続けた。僕らは全ての言葉を誰かに奪われてしまった様に黙っていたが、沈黙によって過去から未来へと流れる時間の連続性を否定しようとしていたのだと思う。僕らはばらばらに砕けて行く時間をタイヤの下に踏み締め乍ら、長い事そのまま風景の中を走り続けた。
「逃げよう」
掠れた声で僕は囁き、彼女は僕の背中に押し付ける様に首を振った。
「逃げないわ」
「どうして」
「子供の頃から、私はずっと走って来たの」
僕の背中を振動板に、彼女は静かに話し出す。
「走ってれば逃げ切れたの、お父さんとお母さんの喧嘩とか、とにかく、色んな事から。でも私は走るより素敵な事がある事が判ったの。
自転車の後ろに乗って世界を見る事よ」
白いガードレールの向こうに沈む太陽と金色の街が見える。多分僕らはまるきり逆光になってその世界の中を泳ぐ様に走っていた。ひどくスピードは落ちていたのに僕に追いつける感情は一つもなく、空洞になってしまった自分の中に響く彼女の声を聞き乍ら、僕は世界の金色に無力に目を閉じる。
「私は哀しい時に逃げなくてもいいの。昔の私は何も持っていなかったけれど、今はあなたと一緒に自転車から見た風景が体の中にあるから、私は立ち止まって振り返って、色んな事と闘える。
だからもう、私は逃げなくていいの」
どうして失うのかという問いの答えを誰も知らないのだと言ったのはあれは誰だったろう。喪失は出会いと同じくらい不条理なのだから仕方がないのだと言ったのは?多分これは正しいことなのだろう。僕らはその不条理を越えて大人になって行く。
だけど皆きっと願った筈だ。
大人になる過程でその不条理に行き当たり乍ら、こんな苦痛の果てにあるのなら大人になんかなれなくていいと、きっと何人もの人が思った筈だ。
歩いて行く人の矢鱈に多い黄昏の街には馬鹿でかいスクリーンがあって、やっぱり大きな宇宙船を映し出して居る。
「これが三カ国共同開発の新型機です。我等が敵の戦線迄十年足らずで行ける様になりました」
風景は冬へと凍えて居た。僕はマフラーに鼻迄埋まり、急ぎ足の人々に睨まれ乍ら突っ立って、自分の白い息ごしに見えるそのニュースを見ていた。
「そしてここには各国から選抜された総勢三百人の高校生が乗り込みます。十年後に到着する頃には、船内で訓練を詰んだ彼等は立派な軍人となり、私達の地球を救ってくれる事でしょう」
空を見上げ僕は漠然と考える。夕暮れの混沌が終わり黒に閉じようとして居る空を見乍ら僕は考える。あの星々は何百年も掛かって光をここまで届けるそうだけれど、十年という年月でここまで届くひかりはあるのだろうか。
初めて彼女を見たのは高校一年生の春だった。
砂と微睡みで出来た午後の体育の授業の退屈を彼女は一瞬で粉砕した。ハードルを飛び越える十五歳の彼女と来たらまるで揮発性物質で出来た鳥だった。只でさえ軽い質量をそれすらも邪魔だと言う様に、一瞬毎に身体を空気へと融かし乍ら固体と気体の狭間を彼女は跳んだのだ。
誰も理解出来ないだろうけれど、これは戦争の話じゃなかった。夏の話だった。僕が生まれて初めてした、きっとどうしようもなく幼い恋の話だった。
僕は人波に逆らって自転車を漕ぎ出した。
一人分の負荷しか掛からないペダルを思う様漕ぎ乍ら、彼女も星の彼方で帰るべき場所を見付けてくれればいいと、ばらばらになりそうな心とスピードで繰り返し僕は願った。