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第19回3000字小説バトル Entry1

フットボールイズライフ?

 その、ロベルト・カルロスの左足からペナルティエリアの少し外側にふわりと上げられたボールは、十分な滞空時間を携えて落下していった。その真下には当然、赤と黒の縞のユニフォームの男達が待ち構えているだろうと思っていたのに、なぜかそこには、何かエネルギーのようなものを蓄えるように、身体を半身にしてじっとボールを見つめるジダンがいた。そのまるでジダンのために用意されたかのようにぽっかり空いたその空間の中心で、一瞬時間が凍りついた後、彼はその左足でボールをゴール向かってショットした。そのボールがドライブ回転による軌跡を描きながらゴールに吸い込まれた時、僕は涙を流していた。
 数時間後、僕はスポーツ店に走り、彼と同じ、神々しく白く輝くユフォームを手に入れた。

 キリンの日本代表サッカーチームスポンサードのテレビCMを目にすると、僕の心は躍り出す。もう何ヶ月も目にしているCMなのに、それを目にする度に弓の弦が引き絞られていくように、緊張が高まっていく。もうじき祭りがはじまるのだ。
 コカ・コーラの若い男女達がW杯観戦のために旅に出る(そう、なぜか僕はそれを旅だと思った)CMを目にすると、僕の心はせつなくなる。もうあんな時は戻ってこない。W杯を僕と同じく心待ちにしている仲間達は、それぞれ遠く離れて、それぞれの仕事に追われ、それぞれの生活を生きている。
 でも僕自身は、旅に出ようと思えばいつでも出られる。なにしろ僕は失業中で、とてもとても自由だった。
 四年間務めた会社を三月に辞めた僕は、出版社での仕事を探していた。周りの人達は何の知識も経験もない僕のことを心配したけれども、僕はなんとかなるだろうとタカをくくっていた。友人にはW杯までのんびりするよと冗談で言っていたが、本心では三ヶ月も貯金を食いつぶすわけにはいかないと思っていた。
 でもやっぱり、何の知識も経験もない僕を雇ってくれる出版社はなくて、僕は焦りはじめていた。
 そんな時、全国規模の大きな書店の神戸営業所に勤める友人から、臨時で一日だけアルバイトしてくれないかと連絡があった。そろそろ自分は社会不適合者と呼ばれてもおかしくないのではないかと思いはじめていた僕は、一日だけでもちゃんと働いたと自分に言い聞かせるために、そしてその友人から出版業界の情報をわずかでも得るために、その申し出を受けることにした。
 アルバイトの後、神戸の三宮で友人とその恋人と三人で夕食を食べた。賑やかな線路沿いの通りから少し外れた落ち着いた和風の居酒屋で、僕と友人は学生時代の思い出話に花を咲かせ、彼の恋人はずっと微笑みながら、その話を聞いていた。
 「お前もほんまにW杯までのんびりしてるとは、やるなあ」
 僕は、当たり前やと強がってみせ、それを聞き届けた彼はトイレに立った。
 彼の恋人はそれまでと同じ微笑みで彼を見送り、同じ微笑みで僕の方に向き直って言った。
 「彼はね、あなたのことを見てると本当に人生楽しそうだって」
 マスターカードの中田英寿がオーストラリアの選手とユニフォームを交換しているCMを目にすると、僕は幸せな気分になる。あのユニフォーム交換は僕に、どこかの誰かが歌っているようなあらゆる国境線を越えて荒野に花が咲く光景を思い出させる。その光景は僕達すべてが分かりあえる、ともに進んでいけるという希望に満ちている。
 きっと僕はこの世界の素晴らしさを体現して生きていかなければならないのだろうと思った。

 次の日は日本代表のスウェーデン戦が行われる日だった。しかもW杯前に正式登録メンバーで行われる最初で最後の国際試合ということで、僕はいてもたってもいられなくなり、繁華街のスポーツバーに繰り出した。それまでユニフォームなんかを着て、スポーツ観戦をしたことはなかったのだが、その時はどうしてもそうしたい気分だった。でも、日本代表のユニフォームを持っていない僕は、レアルのユニフォームを着て出かけることにした。レアルのユニフォームを着て、日本代表の応援をするのは違和感があるだろうなと思ったが、そうせずにはいられなかった。
 バーには、10人近くの日本代表のユニフォームを着た客がいたが、その他の客はみんな普通の格好をしていた。もちろん、わざわざ日本代表以外のユニフォームを着ている客はいなかったが、僕が誰かの注意を引くこともなかった。試合は始まっていたが、フィッシュアンドチップスとギネスをハーフパイント注文して席についた。
 フィッシュアンドチップスにレモンを絞っていると、日本代表のユニフォームを着ている女の子が僕に近づいてきて言った。
 「どうして、レアル・マドリードのユニフォームなんですか?」
 突然のことに僕は何と答えていいか分からず、ただアホみたいに彼女の顔を見つめた。その、コカ・コーラのCMにでも登場しそうな健康的でさやかな笑顔と日本代表のユニフォーム姿に僕は見覚えがあった。確か、僕がレアルのユニフォームを買った時のスポーツ店のスタッフで、その日は日本代表応援セールなのにレアルのユニフォームを買った僕に、「日本代表はよろしいんですか?」と聞いた女の子だった。それに気がついたのに僕は、「あ、えーと、ジダンが好きだから」などとアホみたいな返答をしてしまった。
 その時、ラーションの左足から、松田の股の間を抜けて、ガラガラヘビのように地を這っていったボールが、獲物にとどめを刺す狩人のように突っ込んできたアルバックによってゴールに叩き込まれ、その一連のシーンに僕達は目を奪われた。
 画面から目を離した僕らはもう一度見つめ合い、少しだけ微笑んだ。そして僕は彼女に席をすすめた。僕達はお互いの名前も知らないまま、ただビールを飲んで、時々フィッシュアンドチップスをつまみながら、画面の中の日本代表の話をした。やっぱり小野のクロスは対戦相手にとって危険だとか、稲本の飛び出しとドリブルはすごいけど無理に突っ込み過ぎだとか、鈴木は決定的なチャンスまで持ち込めるのにシュートがまずいとかそういうことを。その後日本が相手のオウンゴールで同点にしたが僕達はまったく喜べなかった。
 試合終了後、僕達は店を出て歩いた。そして僕達は日本が同点に追いついたシーンについて語った。別にオウンゴールだから価値がないということではないし、アレックスのクロスも中田の飛び出しも素晴らしかったのだが、僕達は喜べなかった。でもきっとそれと同じシーンがW杯本番のベルギー戦で起こったのなら、僕達はきっと狂喜するだろうな。そういうことを話しながら、僕達はホテルに入った。
 それから僕達は無言のままキスをして、ユニフォームとジーンズと下着を脱ぎ、シャワーも浴びずに抱き合った。僕はW杯での日本代表が相手のオウンゴールではなく、美しいパスワークから得点するところを想像しながら彼女を抱いた。彼女に、想像してごらん、とは言わなかったが、彼女もきっと鮮やかなクロスや繊細なボレーシュートによって爆発する自分を想像していたに違いない。
 終わった後、僕達はそれぞれベッドの上で自分の下着やジーンズやユニフォームを手繰り寄せた。下着をつけ、ユニフォームを着たところで、僕達はどちらからということもなく、やはり無言のままキスをした。そしてもう一度ユニフォームを脱ぎ、それを交換した。

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